「Hi♪」
肩の上に、手が乗っかってきた。
「音楽室って、どこ?」
質問に答えるより早く、その手をふりほどいた。
夏のある日、渡り廊下の真ん中で、あの男は馴れ馴れしく声をかけてきた。
他の男子生徒より頭2つ飛び出した体躯。
金色の髪と藍色の目。
只の詰襟がまるで軍服のようだったのを覚えている。
ああ、これか。
噂の留学生は。
特徴的過ぎる。
すぐにわかった。
「あっち」
短く答えて、窓の外を指さして見せた。
「あっちって?」
「西棟」
「何階のどの部屋?」
「4階の突き当たり」
「どっちの突き当たり?」
「階段上がって右の突き当たり」
「ここからはどうやって行けばいいの?」
「……」
簡潔な説明方法を探して一瞬答えに窮したその刹那、
「案内、してよ」
手を掴まれていた。
「いいよね?」
軽くムカつくくらい白くて、綺麗な手だった。
「……いいけど」
「めんどくさいやつに捕まった」、と思った。
そう。
「捕まった」んだ。
序章 いつかその目に映る虹―Sternebogen― 【1】
「大丈夫ですか?」
「え?」
「……少し顔色が悪いようですが」
いけない。
仕事中なのに。
マキナは軽く首を左右して見せた。
「何でもないんです。続けて下さい」
思考をジャックしていたのは、明け方に見た夢の残像。
8年も前のことを、どうして今更夢になんて見てしまったのか。
たかが夢で、いまだにこんなにも動揺してしまう自分はなんなのか。
まったくもって腹立たしいことばかりだった。
「いいえ、少し休憩にしましょう。お茶を淹れましょうね」
「あ、私がやります」
慌てて立ち上がろうとしたマキナを、軽い手の動きで制し、マキナの「新しい上司」は応接室を出て行ってしまった。
「……はあ」
マキナは革張りの椅子に深く腰掛け直し、盛大に溜め息をついた。
新しい職場で本格的に仕事を始める初日だというのに、こんな調子でいいわけがない。
仕事の話をしてる最中に上の空になったり、いきなり上司に気をつかわせるなんてもっての他だ。
「……もっとちゃんとしなくちゃ……」
一週間。
たった一週間だったが、完全に仕事から離れた空白の時間を過ごしたことが、歯車をひとつ、狂わせてしまったのかもしれない……マキナはそう考えていた。
短大を卒業して、この業界に入ってから5年。
思えばガムシャラに突っ走って来た。
芸能界、音楽業界といえば華やかな響きだが、華やかな世界のけして華やかではない裏側で奮闘する、アーティストマネージャーという仕事こそがマキナの選んだ職業だった。
それでも、大手というほどではないが、名の通った音楽事務所に就職して、順風満帆というほどではないが、それなりに自信の持てる仕事を幾つかして来た。
ところがその事務所がこの春、経営者の大変個人的な事情で事実上消滅した。
「個人的な事情」とは一体なんなのか十分に説明されることなく、所属アーティストもスタッフも、事務所の持つ色々な権利もバラバラに切り売りされて、散らばってしまった。
法に訴えたら勝てそうな状況だが、スタッフが誰も訴えなかったのは、各々に破格の退職金と、再就職先の厚遇があったからだった。
マキナもまた、未だかつて見たことのない数列を刻まれた預金通帳に驚嘆しつつ、紹介されたこの新しいオフィスで再出発することになった。
「お待たせしました。コーヒーでよかったですかね?」
「あ、はい。ありがとうございます。頂きます」
テーブルにコーヒーカップと焼き菓子の載った皿とを並べる仕草が、まるで漫画に出て来る執事のように様になっている、この眼鏡をかけた男性。
彼がここ「フジムラ・エージェンシー」の社長であり、著名な音楽プロデューサーでもある藤群高麗(フジムラ・タカヨシ)だ。
年の頃は恐らく30代後半くらいの筈なのだが、外見はまったくもって年齢不詳。
派手ではないが、品の良い仕立てのグレーのスーツ(高級ブランドのものだろう)に身を包み、背中にかかる長さで緩いウェーブのかかったマロンブラウンの髪を左の肩口で結わえている。
かけている眼鏡のフレームは黒かと思っていたが、角度が変わると光の反射で、深い紫に見えた。
前の事務所の社長もたいがい若く見えたものだが、この人ほどではなかったかもしれない。
加えてこの柔らかい物腰に、優しげな微笑……どこまでも少女漫画的だった。
さぞかし女性に人気があるのだろうと思うが、未だに独身で通しているようだ。
マキナは目の前の人物をつぶさに観察しながら、コーヒーを口に運んだ。
ほろ苦い香りが広がる。
「マキナさんはブラック、なんですね」
スティックシュガーの先端を破りながら、藤群が口を開いた。
マキナは、いきなり「マキナさん」とファーストネームで呼ばれたことに一瞬驚きながらも、
「はい……コーヒーはブラックじゃないと飲めないもので」
と、答えた。藤群は更に重ねて問う。
「では紅茶も、ストレートがお好きなんですか?」
「!」
カップを握る手がほんのわずかに揺れて、琥珀色の水面が波打つ。
記憶の扉のひとつが、微かに動き、隙間が生まれる。
――紅茶はストレートで飲む以外ありえないね。……ミルクやフレーバーを加えるなんて、紅茶に対して失礼じゃないか。
夏の日差しの下。
他愛もない会話。
ああ、だから。
思い出してどうする。
くだらない男のことなんて……。
「……紅茶は、ミルクを入れます。ストレートでは飲みません……」
「そうですか。私と同じですね」
言いながら藤群は、コーヒーにもたっぷりミルクを注ぐ。ほとんどカフェラテと呼んで差し支えないような状態だ。
それを一口飲んで、藤群は満足そうにひとつ息を吐く。
「雇用契約に関しては、お渡しした書類と先程お話したことでだいたい全てです。
待遇について、あなたの今までのキャリアと実績を十分考慮したつもりですが、いかがでしょうか」
「ありがとうございます……ここまで厚待遇で迎えて頂けるとは思っていませんでした」
「私としても今このタイミングで、若くて能力のある方に来て頂けて、とても嬉しく思っています」
思わずこそばゆくなってしまうような賛辞を嫌みでもなくサラッと口にしながら、藤群はまた、にっこりと微笑む。
「新しいプロジェクトには、あなたのような人材が必要だったんです」
新しいプロジェクト……マキナはカップを置き、何枚も束になった書類の中から、一枚を抜き出し、視線を落とした。
その書類の見出しには、大きな文字で『Sternebogen・プロジェクト』と記されている。
英語ではない、ローマ字の羅列。確認するように、マキナはそれを口にした。
「……シュテアネボーゲン……これは、ドイツ語ですよね」
「直訳すると、星の弓となりますが、これは『星虹(セイコウ)』……宇宙の虹という意味で名付けました」
『星虹』……理系ではないマキナにはそれが具体的にどんなものか、あまりぴんと来ていなかったが、それでも何かの本で読んだことはあった。
空に虹がかかるように、ある条件下では、宇宙空間でも虹に似た現象が発生すると考えられていると。
藤群はとても楽しげに笑う。
「理論上の産物、現実にはまだ誰も見たことのない、幻の虹ですよ……ロマンを感じますよね!」
「はあ……そうですね」
マキナは若干曖昧なリアクションをしつつ、社交辞令を貫いた。
だがマキナにしてみれば、名前の意味など大した問題ではなかった。
「すみません、藤群さん……この書類だけではあまりに情報が不足していると思うのですが……」
マキナがこの「フジムラエージェンシー」で初めて担当することになるアーティスト。
それが「Sternebogen(シュテアネボーゲン)」というロックバンドだ。
書類からわかるのは、20代の青年たちによる5人編制のバンドであること。パートの内訳がボーカル、ギター、ベース、キーボード、ドラムであること。
プロデューサーである藤群自身が海外からスカウトしてきたボーカリストをデビューさせるに当たり、本人の希望でバンドという形を取ることになったという経緯。
2ヶ月後の5月末にデビューシングル発売の予定ですでに各方面動き出していること。
そんな端的な情報ばかりだった。
「プロデュースのコンセプトや、セールス上の戦略もお聞きしたいですし、マネージャーとしてはメンバー個々の情報も把握しなくては……」
「コンセプトや戦略は特に考えてません」
藤群はこともなげに断言する。
「全て白紙の状態です」
「しかし、2ヶ月後にデビューなら、すぐにでも楽曲を用意してレコーディングに入らなければ間に合わないのでは……」
「そうですね~……しかしその前にメンバーがまだ決まっていませんからね~」
「はい?」
「実はまだ、ギターとキーボードとドラムが決まってないんですよ」
あまりにもあっけらかんとした藤群の口調に、マキナは思わず頭を抱えたくなった。
「つまり、ボーカルとベースしかまだ決まっていないと……」
「はい、その通りです」
同じ業界に5年いたのだ、「藤群高麗」なる人物の人となりについて全く聞いていなかったわけではない。
かなりマイペースで風変わり、掴みどころのない人物で極めて浮世離れしている……有り体に言えば「変人」だと。
プロデューサーとしての手腕は業界中に轟いていたが、同時に誰もがその「紙一重」っぷりを噂してもいたのだ。
「残りのメンバーについては、順次オーディションで決定する予定です」
藤群はこの期に及んで、悪びれもなく「順次」だ「予定」だと悠長な単語を連発する。
「メンバーの選出は、すでに決まっているメンバーたちの意見を最優先にするつもりですが、マキナさん、あなたの意見も是非聞かせて頂きたいですね」
「……わかりました。一刻も早くオーディションを準備しましょう」
この上は自分が迅速に動くことで、少しでも早く計画を推し進めるしかない。
マキナは、残ったコーヒーを流し込み、立ち上がろうとした。
「まあそう慌てずに」
藤群は先程と同じジェスチャーで、マキナに椅子にかけ直すように促す。
「実はもうすぐ、ボーカルとベースの子がここへ来る予定なんです。マキナさんに挨拶をしたいと」
「はあ……わかりました」
マキナは、促されるまま再度椅子に座り直す。
「おかわりを用意しますから、待ってて下さいね」
空のコーヒーカップを引き下げて、再び部屋を出て行く藤群の背中を視線で追い、扉が閉ざされたのを確認してから、マキナはまた「はあ」と溜め息をついた。
このペースに慣れるには少々時間がかかりそうだ。
それにしても。
前の事務所の社長といい、今度の人といい……「mont sucht(モント・ザハト)」の元メンバーは、なんて変わった人ばかりなのだろうか。
そして、なぜこうも自分の人生には風変わりな人物ばかり現れるのか。
あの、藍色の瞳の主のように……。
グルリと回った思考が、再びあの暑い夏の記憶に辿り着く。
長い年月を経て、やっと忘れた筈の過去が、理由もなく今になって頭をもたげてくる。
振り払おうとしているのに、何故か追憶に浮かぶ、あの憎らしいほど綺麗な笑顔。
後にしてみればそれは予感だったのだろう。
コンコン、と応接室の扉をノックしてくる音が響いた。
「……はい」
半ば条件反射的に返事していた。
「入るよ」
ドアごしに声が聞こえるのと、扉が開くのはほぼ同時だった。
「Hi♪」
たった今思い出していた、憎らしい笑顔が、すぐそこにあった。
《つづく》
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