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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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「……日向子さん!?」

 玄鳥は驚きに目を丸くしていた。

「どうしたんですか? こんなに早く」

 驚くのも無理はない。
 まだ知らせてあった練習の時間までは二時間近くある。

「……玄鳥様は時々、スタジオに早くお入りになって自主練習なさるとお聞きしたので」

 日向子の息は白く凍てつき、頬は寒さに紅く染まっていた。

「俺を……待ってたんですか?」

「……どうしても、早くお会いしたくて……ご迷惑だったかしら」

 戸惑ったような表情を見せる玄鳥に、日向子はそっと微笑みかけた。









《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【1】









 数分後、二人はスタジオのロビーでホットドリンクを飲んでいた。
 煙草の焦げ痕のついた長椅子に座って、ちょうど昨日紅朱とそうしたように、日向子は玄鳥と隣合っている。

 自販機で買った、缶入りのココアが冷えた身体をゆっくりと温めていく。

 けれど心はまだ震えている。
 寒さではなく、大きな不安で。

「……玄鳥様に謝らなくてはなりませんわ」

「謝る、ですか……」

「玄鳥様のことで、いくつか知っていて黙っていたことがありましたから」

「……それは、日向子さんが謝るようなことじゃないですよ」

 玄鳥は、抹茶ラテをすすりながら静かに答える。

「むしろ、秘密を背負ったことで苦しい思いをしたんじゃないですか?
……他人の家の事情に巻き込まれたようなもんだし」

「そんなことは……」

「あなたが気に病むようなことじゃないんですよ……いいんです」

 日向子は視線を床に落とした。
 玄鳥の口調はいつもと変わらず穏やかで、つむぐ言葉は日向子を気遣ったものだ。
 けれど、何故か今日の玄鳥にはとてつもなく高い壁を感じる。

 まるで「お前には関係ないんだから、これ以上首を突っ込むな」と言われたような気分だった。

 まるで、少し前の有砂や、日向子を遠ざけようとしていた雪乃と接する時に感じていたような、あの緊張感がそこにあった。


 しかし、あんな重大な真実を一度に知ってしまった以上、玄鳥にだって色々と思うところがあるのだろう……と、まだどこかで楽観的な見方をしていたのかもしれない。

 時間はかかるかもしれないが、すぐにまた元の玄鳥に戻ってくれるだろうと。

「……日向子さん」

 玄鳥がまた静かに口を開いた。

「俺はむしろ、本当のことがわかってよかったんだと思います。
隠されてきたことを恨むつもりも全然ないですよ……浅川家の家族のこと、変わらずに愛してます」

「玄鳥様……」

 玄鳥が断言してくれたことに少なからず安堵する。

「……とにかく、今は何も考えず、カウントダウンライブに全力を賭けるつもりでいます。兄貴にも、電話でそう伝えました。……あ、日向子さんは来れないんでしたね」

「ええ、そうですの……」

 高山獅貴……玄鳥の実の父親に取材するためだ。
 紅朱に宣言したように、日向子の決意は固かった。

「……伯爵様と、お話がしたいんです」

「……俺もあなたに伯爵と話してみてほしいです」

「……え?」

「あなたが高山獅貴という男に兄貴と同じように反発するのか……それとも……」

 半ば独り言のような呟きを打ち切り、玄鳥は少し冷めた抹茶ラテを飲み干した。

「……ベストを尽くしましょうね、お互いに」












 多くの人にとってそうであるように、森久保日向子とheliodorにとっても、年末の最後の一週間は、慌ただしく、日常の倍速で過ぎていった。











 12月31日。
 運命の日は容赦なく訪れた。

 コートの下におろしたてのスーツを隠した日向子は、車のウインドウごしに、たどり着いた目的地を眺めた。

 今年の春に六本木ヒルズに移転したばかりの高山獅貴の個人事務所のオフィスビルは、音楽業界及び経済界における彼の存在、ステータスを如実に物語る堂々たるたたずまいで日向子を迎えた。
 大手のプロダクションやレコード会社にもけしてひけをとることはない。


 これが、伯爵の城。


「……ついに、ここまで来ましたね、お嬢様」

 運転席から同じように外を眺めていた雪乃が感慨深げに呟いた。

「ええ……ついにお会い出来るのだわ、あの方に」

「……行かれるのですね」

 雪乃は眼鏡の奥の双眸を日向子に向ける。

「……無意味なのはわかっているのですが、お引き留めしたい気持ちです。
……あなたがこのまま、もう戻って来ないのではないかと不安でなりません」

「雪乃……」

 ただ記者として、取材に行くだけだ。
 命を落とすような危ない場所に行くわけでも、遠い国に旅に出るわけでもない。
 雪乃の発言は、あまりにも大袈裟な心配のようだったが、本人はいたって真面目な様子だった。

「せめて、傍らにいられればと思うのですが……」

「……あなたはもう行かなくてはならないものね」

 日向子は微笑んで、運転席と助手席のシートの間に、軽く身体を乗り出して、不意打ちで雪乃の眼鏡を取り上げた。

「あ」

「……日向子はライブの成功を心よりお祈りしていると、皆様にお伝え下さいませね」

 そう言って眼鏡を手渡された運転手は、ふっと苦笑いした。

「わかったよ……必ず、キミに恥じないライブにするからね」









 応接室の扉が開けられた瞬間、日向子は全身を静電気が走り抜けたかのように、震えが走るのを感じた。

 1面硝子ばりの窓からさしこむ逆光の眩しさに、視界を奪われながら、ゆっくりと歩みを進める。

 案内の役目を終えた、テキパキした女性秘書が手短く挨拶をして立ち去ると、その部屋にはもう紛れもなく、日向子と彼の二人しか存在しなくなった。


「やあ、ようこそいらっしゃいました」


 ちょうど高槻が愛用しているのとよく似た革の椅子から立ち上がり、彼はゆっくりと日向子に歩み寄った。

 日向子もまた、ゆっくりと近付き、光に包まれた部屋の、ちょうど真ん中で二人は向かい合った。


「……あ……」

 日向子はまずは丁重に挨拶して、自己紹介して、名刺を渡して……と頭の中では次に取るべき行動をシュミレートしていたが、実際にはさながら金縛りにあったように動くことも、言葉をつむぐこともできなかった。

 ただあの冷たい氷のような眼差しで見下ろされているというだけで。

 彼はそんな日向子の様子に小さく笑みを浮かべて、少しだけ膝を折るようにして日向子に少し視線の角度を近付けた。

「……どうしたのですか? そのように脅えて」

 甘い、甘い囁き。

「……昔はもっと、臆することなく、この私を見つめて下さったではありませんか……姫?」

 日向子ははっとしたように、声を絞り出した。

「……覚えていて下さったのですか……?」

「ふふ、私からすればそれほど昔の出来事ではない……まるで昨日のようです。あなたの可愛らしい細い手首に、そのブレスをつけて差し上げたあの日が……」

 日向子の胸は激しく高鳴っていた。
 自分にとってかけがえのない、人生を変えるほどの出来事だったあの出会い。
 その記憶がしっかりと伯爵の中にも刻まれていたことがたまらなく嬉しかった。

 ここに来る直前まで渦を巻いていた複雑な感情は、今この瞬間にはどこかへ消え失せてしまい、ただ純粋な感動がそこにあった。

「……お会いしたかったです……ずっと……ずっと」

 涙がじわりと滲み出して、視界を歪ませる。

「わたくしは……たどり着けたのでしょうか? 自分の力で……」

「……レディ」

 次の瞬間、日向子は伯爵の腕の中にいた。

 ふわりと温もりに包まれて、抱き締められる懐かしい感覚に、いよいよ涙があふれ出す。

「……伯爵様……伯爵様……!」

 その胸にすがって、幼い少女に戻ったかのように泣きじゃくっていた。

 こんなことが許されるのは恐らく今だけだと、頭の片隅で理解しながらも……。












「日向子の奴……今頃、高山獅貴と会ってんだよな……」

 時計を見ながら紅朱が漏らした微かな呟きを聞き留めて、万楼が嘆息した。

「ライブが終わるまで、お姉さんの話題禁止じゃなかったっけ? リーダーが言い出したんだよ」

「……ああ、そうだったな。悪ィ」

 紅朱は気まずそうにに返したが、蝉は、

「いいじゃん! どーせみんなあのコのこと気になってんだからさー。気になってんのに気にならない振りしたってリハに集中なんてできっこないし」

 ここぞとばかりに別な主張を繰り出した。

「ね、そうでしょ? 玄鳥」

 同意を求められた玄鳥は、

「……そう、ですね」

 どこか話半分のような気のない返事をした。

「……珍しく余裕やな、ジブン」

 有砂に指摘されても、

「……そんなわけじゃないですけど……俺はやっぱり今夜はライブに専念したいですから……」

 と無味乾燥な言葉を返すのみだった。
 ここしばらく、なんとはなしに玄鳥の様子がおかしいことには誰もが気付いていたが、ほとんどのメンバーはその理由を「日向子が長年憧れてきた初恋の人・高山獅貴と対面する」ことに由来するものだとばかり思っていたが、それは誤解だった。

 本当の理由を知っている紅朱は、それでも玄鳥にかけるべき言葉を見い出すことができないままに、不自然な距離を置いて接することしかできずにいた。

 ようやく綺麗に揃ったと思った五角形が、激しい歪みを訴えていた……。











「あ、あの……伯爵様、一体どちらへ?」

「折角の晦に、ただ部屋に閉じ籠って話しているのは味気無いとは思いませんか?」

「はあ……」

 さんざん泣いた後で、多少落ち着きを取り戻した日向子は、伯爵に無礼を詫びた。
 しかし伯爵は、そんな日向子をまるで慰めるかのように「外へ出ませんか? もしもドライブがお嫌いでなかったら」と耳元に囁いた。

 予想だにしない誘いに驚いた日向子だったが、申し出を受けることにした。
 しかし実際にサイドシートに乗り込むと、隣り合った距離の近さに戸惑わずにはいられなかった。

 もちろんつい先程まで胸にすがって泣いていたのだから、それに比べれば大したことではないようだが、我を失っていた時にはそれほど感じなかったものが、今は日向子の体温を確実に1度は上昇させていた。

「そういえば」

 一方ハンドルを握る伯爵は相変わらず、気品すら漂わせる穏やかな物腰。

「誤解される前に1つだけ言っておきたいんだがね……あなたの取材を受けることにしたのは、あなたの素性や、あなたとの過去とは無関係に、ただあなたの記者としての能力を評価してのことなのですよ」

 日向子は頷いた。
 編集長からも伯爵はheliodorの特集記事を読んで日向子を指名したのだと聞いている。

「あなたの文章には対象への愛情を感じる……一方的な好奇心や、不躾なほど商売気を感じさせるこなれた物書きにはないみずみずしい才能だ」

「もったいないお言葉ですわ……」

 伯爵が自分の記事を評価してくれたことは何より嬉しかったが、不意に現実の問題が脳裏に蘇ってしまう。

「わたくしの記事に魅力を感じて下さったのだとすれば、それはheliodorというバンドに魅力があるからですもの」

 そしてheliodorというバンドは、伯爵にとってただの有望な若手バンドという以上の意味を持っている筈なのだ。

「……伯爵様は、heliodorをどう思っていらっしゃるのですか……?」

 伯爵は進行方向を見つめたまま、微笑を崩すことなく呟いた。


「期待しているさ……色々な意味でね」














《つづく》
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「なんだか、変な感じだよね……」

 もうすぐ客入れが始まるという刻限、リハーサルもなんとか集中力を持続させたまま終わった。
 毎度のこと、個々に大なり小なりの課題はもちろんあるが、本番に不安を残すほどではない。
 それでも万楼がうかない顔で呟いた言葉の意味を、近くで聞いていた蝉と有砂は感覚として理解していた。

 紅朱と玄鳥のことだ。

「ホントだよね~、紅朱はなんか焦ってるってゆーか、マジで余裕なさ過ぎだし……」

「玄鳥は逆に不気味なくらい口数が少ないし、異様に落ち着いて見える……なんやろうな、あれ」

「うん……前に喧嘩した時とも、全然違う。何かもっと……」














《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【2】










「何もかも知った上で私に会いに来たんでしょう?」

 伯爵は確信的な微笑を浮かべる。

「そうでなければあんな脅えた目で私を見つめたりはしない」

 助手席の日向子は、うつむいたまま、そんな伯爵の顔を見られずにいた。

「……では……何もかも、真実だということですか?」

 偽りだと言ってほしい……そんな思いがまだ胸の真ん中に居座っている。

 しかし、そんな思いはすぐに粉砕されてしまう。

「heliodorの玄鳥……浅川綾が私の実の子で、アーティストとしてのエゴから鳳蝶に生ませたということなら紛れもない事実だ」

 悪びれもしない言葉。
 エゴだ、と認めているあたりが、罪の意識がない……というよりは、罪などいくらでも背負ってやるというような意味合いなのだと感じさせる。

「彼は全く理想通りに育ってくれた……きっと私の夢を叶えてくれるだろう」

 仮にも自分の息子である玄鳥に「彼」という距離のある人称を使う伯爵に、日向子は寂しさを感じた。

 父親としての情愛などまるで伝わってこない。

 沢城秀人なども、人の親としてはかなり問題のあるパーソナリティーの持ち主だったが、少なくとも望んで自分の手元においている有砂には、それなりに愛着を抱いているように見えた。

 だが伯爵にはそれすら望めそうもない。

「玄鳥様は……夢を叶えるための道具ですか?」

「そうだと言ったら軽蔑しますか?」

「……軽蔑……? いいえ、ただ……理解出来ません」

 だから脅えてしまう。怖くて仕方がない。

「大丈夫、あなたは正常だ。理解できなくていいのですよ」

 伯爵はまるで慰めるような口調でそう言うと、更に楽しそうに続ける。

「あの頃、俺を理解できたのは鳳蝶だけだった。俺も鳳蝶をよく理解していた。理解が色恋に発展することはなかったがね。俺の夢は彼女とともにあり、いつまでもその夢を見ていられると思っていたが、現実は甘くなかったよ」

 初めて「俺」という人称を使って見せた伯爵は、いつもより少し砕けた印象を与えた。

 恐らくはこれが「高山獅貴」の素顔に近い姿なのだろう。

 思わずダブって見えた彼の息子の面影に、日向子はドキッとした。

「……鳳蝶亡き後、俺はただ来るべき時を待つ身となった。退屈な日々だ。退屈に耐えて、その時のためだけに俺はひたすらこの業界に居座った。
その時のために、この世界における俺の地位を確立し、協力者を集めた」

「その、時……?」

「そう。ようやくその時がやって来る。だからあなたにも協力してほしい……実は今日あなたに会った本当の目的はそれなんだ」

「え?」

 思いがけない方向に話が向かい、日向子が驚いてみせると、伯爵は横目でちらりと見つめて、囁くように尋ねた。

「……私の下で働いてくれる気はないだろうか」

「……伯爵様の、下で?」

 ただ呆然と言われたことを反芻する日向子に、伯爵はそのうすぎぬで鼓膜を包み込むような優しく、甘やかに言葉をつむいでいく。

「まだ対外的には発表していないが、来年の春、私の新しいバンドが始動する」

「っ、バンド活動を再開されるのですか!?」

「ああ……ボーカリストとしてではないがね」

 伝説となったバンド「mont sucht」の解散以来、ソロ活動を続けてきた伯爵がバンド活動を再開する……発表されれば間違いなく音楽業界に激震が走る大スクープだ。

「『BLA-ICA(ブライカ)』というバンドだ。
あなたをその『BLA-ICA』のプレス・エージェントにスカウトしたい」

 日向子はあまりのことに物も言えずに伯爵の横顔を凝視した。

 伯爵は、笑っている。

「……どうですか? レディ」

 プレス・エージェント……つまりは広報担当者だ。
 各種メディアや企業向けにプロモーションを行う。

 情報を発信する、という意味では記者の仕事と通じる部分もある。

 伯爵は日向子の記事を読んで、その道に通じる才覚を見い出したということなのだろうが、それにしても大胆な引き抜きだ。

「……わたくしが伯爵様のバンドの広報……に?」

 もしもが少し前までの日向子だったなら、狂喜して、一も二もなく引き受けただろう。

 憧れの人・高山獅貴に認められて、その記念すべき新たなプロジェクトに参加できるなどまるで夢物語のようだ。

 しかし。

「……お受け……するわけには参りません」

 日向子は微かに震える唇で、そう答えた。

「わたくしが伯爵様の元へゆけば、傷つく方がいらっしゃいますから……」

 日向子を引き留めたもの。
 それは紅朱との約束だった。

 ずっとheliodorを見守っていく……と。

 紅朱だけではない。
 heliodorのメンバー全員、彼らと交流する中で出会った人々、美々たち編集部の仲間……今の日向子には大切な人がたくさんいる。

 裏切ることの出来ない人々がいるのだ。

 伯爵の瞳がわずかにすがめられる。


「くだらない」


 突き放すような冷たい言葉が飛び出し、日向子は目を丸くした。

「え……?」

「夢を叶えるためには常に犠牲が必要だ。全てを手放す決断の出来ない者には夢は掴めない」

 それはまだ幼かった日向子に、彼が囁いた言葉を思い出させた。

 花嫁にしてほしいとせがんだ日向子に、伯爵がつきつけた条件は、日向子が自分の力で伯爵の元へたどり着くこと。

 そして、大切な物を手放す覚悟があると認められること。

 今まさに、試されているのだ。

 日向子が二つ目の条件を満たすことができるかどうか。

 伯爵に対する想いの強さがどれだけのものであるか。

「わたくしは……」

 日向子の瞳から、また一滴涙が溢れ落ちた。

「……わたくしには手放すことは出来ません……伯爵様をお慕いする気持ちがなくなったわけではありません……けれど、今のわたくしには……」


「ええ、あなたはそう答えると思っていました」


 伯爵はしごくあっさりと告げる。

「伯爵様……」

 伯爵の顔から先程一瞬覗いた冷たさは拭い去られ、また優しげな眼差しが戻る。

「初めて会った時、私が欲しいと言ったあなたの、純粋な欲望を宿した瞳をとても愛しく思いました……けれどそれは幼さ故。
純粋な欲望を抱いたまま大人になるのは……とても難しい」

 伯爵の言葉は日向子の耳に重く響いた。

 確かに幼い子供は、自分の欲望を優先して人前で恥らいもなくだだをこねたり、泣きわめいたりするものだ。

 だが大人になるにつれて、他人との調和や、常識や倫理のしがらみを知って、欲望を抑制する術を学んでいく。

 自分の夢ばかりを優先することはできなくなるのだ。

 だが伯爵は違う。

 自分の夢のためなら他を利用することも、切り捨てることもできる。

 常識に囚われることなく、自由に、欲望の赴くままに。

 人の生き血をすすって、永遠の命を生きる吸血鬼のように。

 強かに……そして、孤独に……。

「レディ……あなたは優しく、それに正しい。……私を理解できないほうが、あなたは幸せになれます」

 応接室であんなに流した筈の涙が、今またとめどなく日向子の頬を伝う。

 最初から伯爵は、日向子が拒むことをわかっていたのだろう。

 結果の見えている賭けだったのだ。

 伯爵の理解者になりえなかった自分が、大人になって、伯爵が「愛しい」と言ってくれた純粋な欲望を無くしてしまったことが、とても悔しく思えた。

 だが。

 心は変わらない。

 自分には伯爵と同じ道を歩むことはできない。

「……わたくしはこれからも記者としてheliodorを見守り、応援していく道を選びます」

「……そうか」

 ちょうど赤信号に差し掛かり、車が止まる。

 その直後、伯爵は日向子の座る助手席にそっと手をのべて、指先でその涙を拭いた。

「……もう泣くな。泣かなくていい」

 それから、信号が変わるまでの間、車内はしばしの沈黙に包まれていた。

 ようやく涙が止まった日向子は、車が走り出したその時、沈黙に穴を開ける。

「……伯爵様は、夢を叶えたらどうなさるのですか?」

「……夢を叶えたら?」

「夢だけを追い求めていらっしゃったのでしょう? その夢を叶えてしまったらその次はどうなさるのですか? また、新しい夢を……?」

「……さあ、今はまだそんなことを考えるだけの余裕はないかもしれない」

 もちろんそれはそうだろう。

 全てを賭けられるような大きな夢の半ばで、次の夢など考えている余裕などなくて当然だ。

 しかし伯爵はこう続けた。

「……まあそれは、そう遠くない日なのだろうがね」

 日向子ははっとした。

 伯爵の夢、それは玄鳥を引き取って自分と鳳蝶の才能を受け継ぐギタリストとしてプロデュースすることだった筈だ。

 それがもうすぐ叶うということは……。

「伯爵様!? 新しいバンドのギタリストを……玄鳥様にと考えていらっしゃるのではありませんか!?」

「ええ、そのつもりです」

 伯爵はやはりあっさりと肯定する。

「……heliodorから玄鳥様を引き抜くおつもりですの!?」

「ああ、そのつもりで春先から交渉してきた。そしてあなたと同じ理由で拒まれてきた」

 玄鳥はそんなこと、一言も話さなかった。
 しいて言えば、以前日向子の部屋に宿泊した際に「すごい人から誘いの声がかかったこともある」と口にしたことならあった。
 だが、個人の感情を優先して周囲を裏切ることはできない……玄鳥はそう言っていた。

 まさしくそれは「大人」の意見だ。

 伯爵の思想と相反している。

「玄鳥様は絶対にheliodorを裏切ったりなさいませんわ……今はご出生の秘密をお知りになって、少し動揺されていらっしゃいますが……そんなことでお心を変えたりはなさいません」

「……もちろん、人の本質はそうそう変わるものではない。
だが本人が本質に気付いていなかったり、認めたくないばかりに自分を騙すことはよくある」

 伯爵は小さく笑う。

「……彼は、こちら側の人間だよ。あなたや他のメンバーとは違う」

「……そんなこと、ありません」

 むきになったように否定してしまう。

 出会ってから、それほど経過していないとはいえ、記者として玄鳥のことをずっと見てきた。

 いつも優しくて、仲間や家族を大切にしていた玄鳥が伯爵の元へ行くなど考えられない。

 それに日向子は玄鳥とも約束している。

 何があっても玄鳥のことを信じると。

「……では確かめに行きましょうか」

 まるでタイミングを見計らったように、車は狭路にすべり込み、角を2つほど曲がったところで、止まった。

「ここは……」

 日向子は助手席の窓から外を見て、思わず絶句した。

 伯爵は、気まぐれでドライブへ行こうと言ったわけではない。やみくもに走っていたわけでもない。

 目的地は決まっていた。

 今まさにheliodorがステージに立っている、そのライブハウスが日向子の目の前にあったのだ。













《つづく》
温もりを拒んで進む
万年雪の荒野では
あらがうほどに凍てついて
僕はもう
目を開けられない

絶望が
孤独が
虚偽が
降り積もる街では
月の光を憎んだ夜に
爪先まで冷えて
ひどく、痛んだ

秘密と罪を抱えたまま
旅を続けてきたけど
ささやかなともしびは
ここにあった
こんな僕すら変えるだろうか
唄う意味さえ変えるだろうか

いつか解けていくよ
哀しい夢も
繰り返した過ちも
愚かな執着も
目覚めたら 冬が逝く
微かな傷痕だけを残して








《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【3】









「『Melting Snow』……」

 もうまもなく日付が代わり、ニューイヤーを迎える刻限。

 ステージで奏でられる、未来への明るい希望と過去への深い思慕とが交錯するバラードは、まさに今年の最後を飾るにふさわしい曲だ。

 かつてのメンバーが生み出し、流れゆく時の中で眠っていたそれを、今のメンバーが蘇らせた。

 新しい音と、新しい思いで。

 日向子はそれを目を閉じて聞いていた。

 収容人数がキャパシティの120%を超えた会場の後方ではステージ上のメンバーはほとんど見えない。
 メンバーたちも誰一人日向子の入場には気付いていないだろう。

 日向子をライブハウスの前で下ろした伯爵は、流石に会場内に踏み入ることはなかった。
 寿司づめ状態の会場とはいえ、伯爵に気付くものが絶対にいないとは限らない。
 誰かひとりでも、伯爵の存在に気付けばパニックは避けられない。

 だがそんな現実的な問題は抜きにしても、伯爵は確かめるまでもなく結果を確信しているようだった。

 去り際、伯爵は日向子に「気が変わればいつでも連絡しておいで」と名刺の裏にプライベートナンバーを書き込んで差し出した。

 だがその時も「気が変わる」などということはありえないだろうと言外に語っていた気がした。

 だがその通りなのかもしれない。

 少なくとも日向子には伯爵の夢を応援することはできなかった。

 目を閉じて紅朱の歌声に耳を澄ます。

 初恋の人が、自らの遺伝子を最良の形で残すためだけに子どもを生み、託して死んでいったと知った時、紅朱はどんなふうに思ったのか。

 今の日向子にはリアルに想像することができる。

 好きな人が命を賭けた夢ならば、叶えてほしいと思う気持ちもないわけではない。
 だがそのために大切な人が利用されるのは辛い。
 それが正しいことだとは思えない。

 認められない。

 渡したくない。


 赤の他人の身で、「兄」である紅朱に勝るなどと言うつもりはないが、日向子にとっても玄鳥は大切な人だ。

 玄鳥のギターの音は大好きだが、ギターが巧いかどうかを基準にすることはありえない。

 heliodorのメンバーも、ギタリストとして以上に一人の人間としての玄鳥を大切に思っている筈だ。

 玄鳥とて、それがわからないわけはない。


 裏切りなどありえない。

 あってほしくない。

 そう強く思う。


 やがてゆっくりとアウトロが収束し、ステージを照らしていた白色のライトが消失する。

 惜しみ無い拍手が膨れ上がるように広がって、日向子も手が痛くなるほど叩いていた。

 しばしの余韻。そしてその後、静かにステージがまた照らし出される。

「……今のが今年のラストソングだ。もうすぐ年、明けちまうな」

 紅朱がゆっくりと今年最後のMCを始めた。

「……来年は、heliodorにとって新しい出発の年になると思う。なぜなら……」

 その時。

 会場がざわっと動いた。

 ステージがよく見えない日向子には一体何が起きたのかわからなかった。

「おい……どうした?」

 戸惑う紅朱の声。

 そして。

「兄貴の言う通り、heliodorは、新しく出発します……」

 玄鳥の声が、マイクを通して響いた。


「俺を除く四人のメンバーで」


 誰もが耳を疑う言葉を、淀みなく告げる。


「俺は……玄鳥はこのライブをもってheliodorを脱退します」

「綾っ……」

「メンバーにもファンの皆さんにも、突然の勝手な決断を押し付けてしまうことになってしまい申し訳なく思います」

 恐らくは紅朱が制止してマイクを取り上げようとしているのだろう。

 時折、激しいノイズが割り込む。

「綾……!!」

「……理解してもらおうとは思いません……非難されても構わない。……たとえ全てを失っても……大切な約束を破っても……俺は俺の進むべき道を進みます」

 もしもここが人間が密集した空間でなかったなら、日向子は床の上にへたりこんでいただろう。

「玄、鳥様……」

 相変わらずステージの上は見えない。
 沸き起こる怒号や悲鳴、すすり泣く声、マイクを通さないメンバーたちの玄鳥に向けた言葉のかけら、そんなものが耳を塞いでいく。

 頭の中を埋め尽していく。

「玄鳥様……」

 理解してもらえなくてもいい……それは、赤の他人として離れて暮らしていた彼の父親の言葉とぴたりと重なり合う。

 玄鳥はこちら側の人間だ、と伯爵は断言していた。

 そして玄鳥はその通りの行動を起こしたのだ。

「どう……して?」


 混乱の中……誰一人カウントする者がいないままに静かに年は移り変わっていた。


 そしてheliodor……黄金の太陽は、その光を遮る黒い翼のはためきに隠れ、深く暗い日蝕の時を迎える。












 メンバーと直接話すまでは意地でもとばかりに、いつまでも会場周辺から動こうとしないファンの説得に、スタッフが手を焼いていた頃、日向子は開け放たれたたまのドアの陰に立ち尽くし、楽屋に踏み込むことができないまま、呆然と中の会話を聞いていた。


「……だと、ふざけんなッ!!」

 断続的に、激しい衝突音が響く。

 誰かが椅子やテーブルを巻き添えにしながら倒れこんだような音だ。

 恐らくは紅朱が玄鳥を殴ったのだろう。

「ちょっと待って、落ち着いて。暴力はよくないよ、リーダー」

 慌てて止めに入ったのは万楼と蝉だ。

「玄鳥もさ、とりあえず黙ってないでちゃんと説明してよ。
一回バンド抜けようとしたおれが説教しても説得力ないかもしんないケド、一体どうしたってのさ?」

「……話してもわかってもらえるとは思えない……」

 話し合いすら拒絶する、静かな言葉。

「……こんなやり方が正しいとは思わないけど、こうでもしなければ……脱退なんてさせてくれないだろ。兄貴は」

「当たり前だ! 認めねェに決まってんだろうが!!」

「……たとえ兄貴や皆さんが許してくれないとしても、俺には……もうheliodorに留まることはできないんです」

 こんなことが前にもあった。

 あの時も、日向子はこうして聞いていたのだ。

 釘宮家のゲストハウスで。

 引き留めようとする高槻の真摯な説得を、まるで聞く耳も持たず退けて、伯爵はピアニストの道を放棄した。

 こんな状況になって改めて、紅朱と高槻はよく似ているのだと思い知る。

 そして玄鳥と伯爵もまた……心の深い部分が共鳴し合っているのだろうか。

 長年兄弟として暮らしてきた紅朱との絆すらも簡単に覆してしまうほどに……?

「……ジブンは、ホンマにそれでええんか?」

 ずっと黙っていた有砂が耐えかねたかのように口を開いた。

「一時の感情に流されとるだけなんと違うか?
もう一度頭冷やして考えたほうがええ」

 いつものように皮肉を含めることもなくストレートに意見するのは、浅川兄弟にかつての自分と美々のような悲劇的なすれ違いを演じさせたくないからだろう。
 しかしそんな言葉を受けても、

「……感情的な理由なんかじゃありませんよ。俺なりに、よく考えて決めたことです」

 玄鳥の決心を揺らすことはできないようだった。

「……だったら勝手にしろよ……」

 怒りと失望を混ぜあわせたような低い声で、紅朱がうめくように言った。

「……あいつのところへ行きたいならもう勝手にしろよ」

 本当は心にもない言葉を。

「……その代わり、てめェはもう弟でもなんでもねェ。二度と俺を兄貴なんて呼ぶんじゃねェぞ……わかったな」

「……ああ……よくわかったよ」

 その瞬間、あんなにも紅朱が大切にしていた、必死で守ろうとしていたものが無惨にも崩れ落ちた。

 20年という歴史など、何の意味もなかったとでもいうように、あっけなく、失われてしまった。

 日向子はかつてない深い絶望を感じていた。

 信じたくない。

 だがこれは現実。

 紛れもない現実なのだ。


 日向子はふらつく足取りで、楽屋を背にして歩き出した。

 今は紅朱の顔を見る勇気も、玄鳥と話をする強さも持てない。

 何を信じていいのかすら、わからない。

 もう泣くことすらもできなかった……。













「……日向子を泣かせるなって釘刺してやったのに……ホント、ボッコボコに殴ってやりたい気分」

 あまり穏やかでない言葉をかなり本気の口調で言い捨てる美々に、日向子は首を左右した。

「美々お姉さまのお気持ちは嬉しいですけれど……いくら殴られたとしても玄鳥様のお気持ちはきっと変わりませんわ」

 人の心を力で無理矢理縛ることはできない……かつてそう主張して父親に反発していた自分が、今はその真実の重さを嫌と言うほど味合わされている。

 溜め息を紅茶の中に溶かして飲み干すと、今更ながら泣きたい気持ちになる。

「……ねえ日向子、覚えてる?」

 美々が頬杖をつきながら、カウンターのほうに視線を流す。

「初めてあの兄弟に出会ったの、この店だったよね」

 そう。
 二人はあの席に座っていた。

 勝手にライブのチケットを田舎の母親に送った玄鳥に、紅朱が怒って文句を言っていた。

 カフェの店内で繰り広げるには少々迷惑なレベルの言い合いではあったが、今にして思えば微笑ましい光景だった。

 もうあんな二人を見ることはかなわないのだろうか。

 そんなことを思った時、入り口のドアが開いて、よく見知った顔が覗いた。

「……あ」

 万楼だった。

 向こうもすぐに日向子に気付いたようだったが、いつもの明るい笑顔で駆け寄ってくることはなく、

「……こんにちは」

 と力なく微笑んでゆっくり歩み寄ってきた。

「……ここ、いいかな?」

「ええ……」

 二人の席のすぐ隣に座った万楼は、オーダーを聞きに来たウエイトレスにいつものメロンソーダを注文した。

 スウィーツの新商品盛り沢山のメニューにすら見向きもしない彼の様子に、日向子は強い不安を感じた。

「万楼様……」

 呼び掛けたものの、何と続けていいか迷っていた日向子に、万楼は寂しげな影のある笑みを浮かべたまま、一言告げた。




「解散、しちゃった」




「え?」

 日向子と美々は、思わず万楼の顔を凝視した。

 マスカラなしでも驚くほど長い睫毛を伏せて、万楼はもう一度告げる。

「heliodor、解散した」

「……解、散?」

 何故か今の今まで日向子の頭の中にこの単語が浮かんだことは全くなかった。

 考えてみれば、ありえないことではない。
 メンバーの脱退という局面で、バンドが選ぶ道としては、比較的可能性の高い選択肢だった。

 だがなぜか、それを毛の先ほども予想することができなかった。

 粋が脱退してもheliodorは解散しなかった。
 だがそれは解散させまいと玄鳥が参入したからだ。

 玄鳥が紅朱を説得していなければ、恐らくは三年前に解散して終わっていた筈だ。

 その当の玄鳥が今度は脱退してしまったのだ……。

「……四人で、もしくは新メンバーを入れて継続は、できないんですか?」

 美々の問掛けに、万楼は辛そうに目を細めた。

「……玄鳥の脱退だけだったら、そうできたかもしれない」

「他にも……何かあるのですか?」

 続いて問う日向子に、万楼は小さく頷く。

「……うん……実は……」







《つづく》
「とても……信じられないようなことだけど」

 万楼はそう前ふりして、言葉通りの衝撃的な事実を告げた。

「玄鳥が新しく加入するバンド、《BLA-ICA》にはね……粋さんと、うづみさんがいるんだ」

 日向子と美々は絶句して、万楼の端正な顔を凝視した。

 粋と言えばもちろん、初代・heliodorのベーシスト……そしてうづみは、蝉の幼馴染みで、一時期有砂と美々の父の新しい婚約者だった人。そしてheliodorのコピーバンドのドラマーでもあった。

 いずれもheliodorのメンバーにとってはゆかりある女性たちであるが、その彼女たちがどういう経緯で高山獅貴の新しいバンドに入ることになるというのか。

 意味がわからない。

「玄鳥が言ったんだ。だから嘘みたいでも本当の話」

 万楼は、長い睫毛を伏せて呟くように続ける。

「……玄鳥は絶対に嘘がつけない性格だからね」










《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【4】








「玄鳥とはあれから連絡がつかないんだ……うづみさんも、スノウ・ドームの管理は代理人立ててるみたいで留守なんだ……蝉でも取り次いでもらえなくて。話ができない」

 粋とはもちろん連絡の取りようがない。
 つまり、どういう事情で彼らが高山獅貴のバンドに集ったのかは不明なままだということだ。

「みんな、仲間や理解者だと思ってた人たちに裏切られたと思ってるみたいで……特にリーダーはすごく塞いでるよ。
ついさっきみんなにheliodorは解散するって宣言した時も……別人みたいに力のない目をしてた」

 それはそうだろう。
 うづみは、heliodorをずっと応援してきたファンの一人だった筈だ。
 三年も音信が途絶えていたとはいえ粋は、紅朱が性別を越えた親友だとすら感じ、認めていたバンド仲間。
 そして玄鳥は紅朱が何よりも守ろうとしていた家族だ。

 大切にしてきたもの全てに掌を返されたように思っただろう。

 そんな紅朱の心中を想像するだけで、胸が引き裂かれそうで、日向子は祈るように指をくんだ。

 美々もまた、我が身とも重なったものか、悲痛な表情を浮かべていた。

「……佳人や蝉さんも解散を受け入れたの?」

「……うん。自分たちも少なからずショック受けてる時に、あんなリーダー目の当たりにしたから、完全にね、心が折れちゃったみたいだ」

 美々は悔しそうに顔を歪めた。
 すんなり諦めようとするメンバー……特に兄を歯がゆく思う半面、heliodorの現状を思えば責めきれない……そんな複雑な感情が見てとれる。

 日向子はくんだままの指にキュッと力を込めて万楼を見つめた。

「万楼様も……諦めたのですか……?」

 声が震えてしまう。
 万楼はそんな日向子をしばし透明な表情で見つめると、やがて、ゆっくりと口を開いた。


「……ボクは……嫌だ」

 ふわりと微笑する。

「諦めてなんかいないよ」

 渇れ果てたかと思われた心の泉に広がった、ひたひたと満ちる。
 そんな優しく、強い言葉だった。

「ここであきらめても、ボクには帰る場所なんてどこにもない……独りぼっちでこの世界に生まれて、独りぼっちで虚ろに生きてきたボクにとって……heliodorはようやく見つけた希望なんだ。
こんなところで失いたくないよ……それに」

 万楼は微笑したまま、見た目の雰囲気よりずっと大きくて、男性らしい力強さを感じさせる手を、しっかりくんだままテーブルの上に置かれていた日向子の冷たい手に重ねた。

「もう1つの希望になってくれた人……あなたにこれ以上悲しい思いなんてしてほしくないから」

「万楼様……」

 日向子には、万楼こそが日蝕の暗闇に差す一条の残光……温かな希望だと思われた。

 heliodorの中で一番幼く、プレイヤーとしても人間としても経験の浅い万楼が、今は誰よりも毅然と現実を受け止めて立ち向かおうとしている。

 日向子にはそんな万楼が心強く、眩しく思えた。

「どうにか解散を撤回させたいと思う。ボク一人では難しいかもしれない……だから、力を貸してほしいんだ」

「わたくしで、力になれることがありますか……?」

「お姉さんは今まででと同じでいいよ」

「はい……?」

 言葉の意味がわからずにきょとんとしていると、万楼は続けて言った。

「今までそうしてきたように、みんなと話をしてほしい。お姉さんの言葉ならきっと、みんなの心を動かす」

「わたくしの言葉が……?」

「うん。できるよ。ボクは信じてる」

 どこまでも力強く響く言葉に、日向子は自然に首を上下していた。

「……わかりましたわ」

 それに頷き返すと、万楼は美々を見た。

「ボクは……どうにかして粋さんと話がしたい。個人的にケリをつけたいこともあるしね……。美々お姉さんの人脈で、どうにかコンタクトがとれないかな」

 二人のやりとりに奮い立ったのか、美々もまた力強く頷いてみせる。

「やってみます……!」

 日向子の手重なったままの万楼の手のそのまた上に、美々の手が重ねられた。

 為すべきことは見えた。

 もう暗闇など何も恐ろしくはない。












「あ……えっと……」

「……ごきげんよう、蝉様」

「あ、うん……おはよう。日向子ちゃん」

 日向子に「蝉」の名前で呼ばれるまで、困惑していたのは、眼鏡もウイッグもつけていない素の状態だったからだったろう。
 一体どちらになったらいいものか迷ってしまったらしい。

 日向子としても初めて見た姿だったのだが、今はそこに感慨を抱いている場合ではなかった。

「……お部屋に上がられて頂いても?」

「……うん、いいよ」

 明るいとは言えない声音は、日向子が何を話に来たのかおよそ察しがついているためのようだった。

 日向子はこれも初めて、蝉の部屋に足を踏み入れた。
 今までに有砂の部屋と共有部分には入ったことがあったのだが、蝉のテリトリーはまだだった。

 釘宮の屋敷にある雪乃の部屋なら家具はもちろん机の上の備品の配置すら思い出せるほど知っているのだが。

 蝉が暮らしている部屋はとても記憶しきれないほど情報量が多く、雑多なものがあふれ、統一感なく様々な色が散らばっている。

「ごめんね、散らかってて。とりあえずベッドに座ってもらえる?」

 散らばった雑誌類などをどかして作ったスペースに日向子をエスコートする蝉。

 自分もその横に座る。


「……バンドのことで話しに来てくれたんだよ、ね?」

「ええ……万楼様からお聞きしましたの。heliodorが解散したと」

「そう……ごめんね、日向子ちゃんには応援してもらってたのに」

 聞きたいのはそんな謝罪ではなかった。

「蝉様のバンドに対する覚悟はもっと堅いものだと思っていました……だから帰って来たのではなかったのですか? わたくし、がっかりいたしましたわ」

 わざとまるで突き放すような口調で言い放つ。

「……自分でもカッコ悪すぎるって思うんだケドさ……」

 蝉はうつむいて頭を左右に振る。

「……粋の時も、今回もさ……おれ、何やってたんだろうって……自分のことばかりで、仲間のことちゃんと見てなかったのかもしれない。
ずっと本当の自分を隠して、いつかは辞めて先生の後継者になるんだから、って、どこか上べだけの浅い付き合いをしてきたんだ。
 だから気付けなかったんだよ。
もっとしっかりしてれば、こんな取り返しがつかないことになる前にどうにかできたんじゃないかって……」

 深い後悔の思いを吐露し、蝉はうなだれる。

「そんなこと思ったら、もうバンド続けてく自信がないんだよ……」

 眼鏡もウイッグもつけていない蝉は、まるで身を守る甲冑を全て剥がされたような脆さと、繊細さを感じさせ、日向子は思わずそっとその頼りない肩に頭を寄せた。

「……上べだけの付き合いをしてきた仲間のことでそんなに悩む人はいません」

 優しく説いて聞かせるように囁く。

「取り返しがつかないかどうかなんてまだわかりませんわ……諦めるのが早すぎるとは思いませんか?」

「日向子ちゃん……」

 ごく幼い頃にすらなかったほど近い距離で二人は視線を交わらせた。
 吐息が頬をかすめるような位置で。

「……あなたはいつか、危険を省みず、わたくしを冷たい湖の中から救いだして下さいました。あの時の勇気をもう一度思い出して頂けませんか?」

 蝉は、微かにその目を細めて、雪乃を思わせるような真剣な眼差しで日向子を見つめる。

「……思い出してみるよ。だから、少しだけ動かないで」

 そう言うなり、日向子の肩を掴んで自分の胸に引き寄せた。
 けして乱暴な動きではなく、壊れ物を扱うよりも慎重な、静かな仕草で。

「……蝉様……」

「あの時、こんなふうにキミの心臓が動く音を聞いて、呼吸する音を聞いて……どれほど安心したか。
……おれは弱い人間だから、すぐに自分を見失いそうになるけど……でも、キミを守りたいっていう気持ちは変わらない。
その想いがおれの勇気なんだ」

 抱き寄せた時と同じように優しく、日向子の体を自分から引き離し、その顔を覗き込んで微笑んだ。

「……ありがとう。大丈夫……おれも諦めないよ。キミにこれ以上悲しい思いをさせたりしない」

「蝉様……よかった」

 日向子もそれに微笑みで返した。

 しばしそうして見つめあっていたかと思うと、蝉は1つ深い息を吐き出して口を開いた。

「……お手数かけちゃってもーしワケないんだケドさぁ、うちの寂しがり屋のルームメイトのことも頼んじゃってもいいかなあ?」

 日向子は即座に頷いて、

「ええ、そのつもりですわ……ただ有砂様がどちらにいらっしゃるのかわからなくて」

「おれに心当たりがある……でもキミ一人だとちょっと心配だから」

 一体どこから取り出したのか見慣れたフレームの眼鏡をかける。

「私に送らせて頂けますね? お嬢様」










 繁華街のメインストリートから外れた、日の当たらない狭路に入る。
 並んだ雑居ビルの一つ、その地下に位置するお世辞にも上品とはいえないバーの入り口をくぐる。

 その場所からでも十分に店内を見渡すことができ、すぐに探し人は見付かった。
 
 明らかに場違いな日向子の入店にいぶかしげな顔をする他の客や店のスタッフをよそに、日向子は奥のカウンターに座っていた彼のすぐ隣に座った。

 少し背中を丸めて頬杖をついていた彼は、それでも日向子のほうを見ようとしない。

「……有砂様。このように早い時間からこういった場所に入り浸るのはいかがなものでしょうか?」

「……」

「仮とは言えど、あなた様は釘宮家令嬢の婚約者なのですから、いかなる時も毅然と構えて頂かないと、我が家の家名に傷がつきましてよ?」

「……そうきたか」

 有砂はふっと苦笑を漏らした。

「……酒に逃げるくらいは多めにみてほしいもんやな……女に逃げへんかっただけでも立派やろう?」

 有砂はメンバーの中では比較的酒に強いほうだった筈だが、それでも肌が紅潮し、目がうるんで見える程度には酔いが回っているらしい。
 相当な量のアルコールをあおっているようだ。

「……有砂様は、お強くなられたのではなかったのですか?
尻尾を巻いて現実から逃げ出すなど……それでは以前と何も変わりません。何がご立派なものですか」

 距離を計ろうなどとは考えてはいけない。
 ぶしつけなくらいずけずけと踏み込むくらいがこの人にはちょうどいいのだと、日向子は経験から学んでいる。

 有砂は頭痛を堪えるような顔をしながら日向子を見た。

「……強くなったつもりやった。けど、たまたま何度も運が味方してくれただけやったんかもな。
それで、これからは何もかもうまくいくような錯覚に陥ってた……けど、現実は違う」

 吐き捨てるように言った言葉に、日向子はきつく有砂を睨んだ。
 あまり迫力のある顔とは言えないが、精一杯睨んだ。

「有砂様は間違っています!!」











《つづく》
「有砂様は間違っています」

 もう一度言った。

「美々お姉さまと仲直りできたのも、お母様をお許しになることができたのも、蝉様を連れ戻すことができたのも……有砂様がそうなさりたいと望んだからでしょう?」

「望めばなんでも叶うわけやない」

「望まなければ叶いません」

 反論の余地を与えることなく、畳み掛けるように言葉を重ねる。

「有砂様は期待を裏切られることが怖いと以前おっしゃった……けれど、その恐怖を克服して、欲しいものに素直に手を伸ばすことができるようになられたでしょう?
錯覚などではなく、有砂様は確かにお強くなられたのです」










《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【5】










「……お嬢には一体何回叱られたやろうな」

 たっりと間をおいて、有砂は口を開いた。
 日向子は小さく笑って、

「……有砂様は、いつも目が離せなくて困ってしまいますわ」

 そう返した。
 有砂はアルコールで少し充血した目を伏せる。

「……危なっかしいてかなんか? ごもっともやな」

 ふっ、と口許に苦笑を滲ませる。

「正直な話、自分でもこんなに落ち込むとは思てへんかった……なんとなく続けてきたバンドに……いつから自分がこんなに思い入れを抱いとったんか……ようわからん。ただ」

「……ただ?」

「……こんなオレみたいな男をずっと見限らずに仲間扱いしてきたあいつらのことは、かなり尊敬するわ。お嬢も含めてな」

 有砂らしいひねくれた言い回しではあったが、それは彼なりにメンバーを思う本音の言葉だった。

 日向子はまた小さく笑う。

「……仲間扱い、もなにも、有砂様はれっきとした仲間ですわよ」

「……そうやな」

 有砂は意外なほどあっさりとそれを受け入れた。

「オレはこの先も、あいつらの背中が見えるところ以外で、スティックを握る気にはなれへんと思う」

「有砂様……」

「……まだ間に合うならオレは……」

「間に合いますわ……有砂様が望むなら……」

 日向子の言葉にはしっかり頷きつつも、有砂の目はいよいよ虚ろになり、どうやらすぐ側まで睡魔が押し寄せているようだった。
 頬杖で支えていても、今にもかくっと頭を垂れてしまいそうな様が妙に可愛らしく感じられて、日向子はいよいよ顔がほころんでしまう。

「帰りましょう? 有砂様。お店の側でわたくしの運転手が待ってますの」

 少し冗談めかしてそう促すと、有砂は眉根を寄せて目を半眼させた。

「……この場所教えたん、あいつか……まあ、他におらんやろうけど」

「さあ、お立ちになって」

 日向子は小さな体で懸命に有砂を支えて立ち上がらせ、そのまま寄り添いながら歩き出す。

 斜め上で有砂が呟く。

「……あいつならしゃあないかな……と思ってた」

 半分一人事のような、不明瞭な呟き。

「……けど今は……やっぱり譲られへん……。
『仲間』を取り戻したら次は……が、欲しい」

 何が欲しいと言ったのか、日向子には聞き取れなかったが、子どもに説いて聞かせるように言った。

「……有砂様の望みが全て叶うようにわたくしもお祈りしますわ」

 有砂はふっと軽く吹き出して、酒臭い溜め息をもらした。

「それはどうも」












 有砂を一先ずマンションに送り届けた後で、日向子は雪乃の車で紅朱の部屋とその周辺、よく出掛ける場所に全て連れて行ってもらったが、残念ながら彼を見つけることができなかった。

 浅川兄弟の実家にも連絡したのだが、帰っていないと言う。
 まだ兄弟に起こった事件を知らない二人の母親には心配をかけないように適当にごまかしておくことにした。

 とはいえ、あの高山獅貴のバンドに入るとなれば、すぐに全国ニュースで知れ渡るのだろうが。

 そうなる前に、どうにかして玄鳥を説得してheliodorに帰ってきてほしい……日向子はそんなことを願っていた。

 だがまずは紅朱を探して話をしなくてはならない。

 今最も傷付いて、最も深い失意に囚われているのだろう紅朱を。

「一体どこに行ってしまわれたのかしら……」

 後部座席のドアに頭をもたげて嘆息する日向子に、

「お疲れでしょう。今日のところはお部屋までお送り致します」

 運転席の雪乃が気遣うように声をかけた。

「でも……」

 日向子が口を開いたその時、ちょうどバッグの中で携帯電話が振動を始めた。

 サブウインドウの表示を見て、慌てて通話ボタンを押した。美々からの電話だった。

「お姉さま、何かわかりましたの?」

 どこか興奮気味の美々の言葉に耳を傾け、相槌を打っていた日向子も、

「……まあ、本当ですの!?」

 思わず声が大きくなってしまう。
 驚いて、バックミラーで雪乃が後ろを確認する。

 日向子もまた視線を雪乃に向け、まだ通話中にも関わらず気持ち早口で告げた。

「雪乃、行き先変更ですわ。お屋敷に向かって頂戴」












「黙っていて申し訳ありません。そのことはくれぐれもお嬢様には内密に、と旦那様が……」

 白髪混じりの頭を掻きながら、小原は実に申し訳なさそうに頭を下げた。

「私と同じだったというわけですが……」

 雪乃が口を開く。

「先生はかつて、身近な人物が軽音楽に携わっていることを知って、お嬢様が影響を受けることを嫌っていらっしゃいましたから」

「では確かに、事実なのですね?」

 日向子が念を押すように問うと、

「間違いなく、その粋というロックミュージシャンは私どもの娘、小原花純(コハラ・カズミ)でございます」

 釘宮の屋敷の応接室で、思いの外クラシカルな本名とともに発覚したベーシスト・粋の秘密。

 それはheliodorというバンドと釘宮家との奇妙な因縁をより一層強めた。

「ねえ、小原。粋様と大切なお話をされたいとおっしゃっている方がいますの。かつて粋様にベースの手解きを受けていた殿方ですのよ。
連絡を取って頂くことはできませんこと?」

 必死に訴える日向子に、小原は、

「連絡を取るくらいはわけもないことでございますが、あれは気まぐれで手に負えないはねっ返りですので……了承するかどうかは確約できかねますよ」

 と、ますます申し訳なさそうに答えた。
 日向子は優しく微笑んで見せる。

「構いませんわ。どうかお願いね、小原……それと、もう一つ聞きたいことがあるのだけど」

「なんでしょう?」

「……お父様がひどく落ち込んだりしたところを見たことはあって?」

 あまりにも突拍子のない問いに、小原も雪乃もいぶかしげな顔をしたが、日向子は真面目だった。

 ややあって小原も真面目な顔で、

「奥様がご健在な頃は、旦那様が塞いでおられる際にはいつもあの方が励ましておいででございました。
奥様が亡くなられてからも、時折、奥様の墓前に佇んで物思いに耽られることがございますよ」

 小原の言葉に黙って耳を傾けていた日向子は、何事か思い付いたような顔で頷いた。

「そう、重ね重ねありがとう、小原」

「お嬢様……?」

 真意を知りたそうに目をすがめる雪乃に、日向子は確信に満ちた笑顔で振り返った。

「あの方はお父様とよく似ていらっしゃるから……きっと同じようになさる筈だわ……」










「どないしたん? マイサン。めっちゃ眉間に皺寄ってるケド、二日酔い?」

「……」

 実父の読みはまるっきり否定出来なかったが、有砂は知らない香水の残り香が漂うベッドの足を思いきり蹴った。

「あかんて、こら。キミはホンマ車は蹴るは、ドア壊すは……今度はわざわざベッドを破壊しに来たん??」

 そのベッドの上で横になっていた秀人はそうぼやくと、面倒臭そうに上半身に何も着ていない身体を起こして欠伸した。

「……おい、クソ親父。答えろ。ジブンが高山獅貴にうづみを紹介したんやろう?」

 赤みがかった痣の残る首元を掻きながら、秀人はあっさりと、

「そうやで」

 と認めた。

「獅貴とは、あいつが音大に在籍しとった頃に知りおーて、未だに友達やからなあ。
新しいバンドのドラマーがまだ決まらんゆうて難儀しとったから、洒落で紹介したんや。それがどないしたん?」

 どうやらうづみが本当にメンバーに採用されたという事実まではまだ知らないような口ぶりだ。

「……相変わらずろくなことせん男や……」

 有砂は苛立ったように吐き捨てた。

「めっちゃ面白そうやんな?」

 秀人は呑気な口調で、聞かれてもいないのに言葉を重ねる。

「天才・高山獅貴の選抜したメンバーによる、最強のロックバンドやで……?? 音楽なんて大して関心ない僕でもゾクゾクしてまうわ」













 細身で長身の、一瞬性別を見間違えそうなシルエットを視界にとらえると、様々な感情が吹き出し、その感情を包み込むように押し寄せる懐かしさが、万楼の肩を震わせた。

「……《万楼》……」

 今は自分がその名を名乗り、親しい人から呼ばれている。
 すっかりなじんで自分のものとしてしまっていたその名前はかつて、最も愛しい他人の名前だったのだ。

 最後に別れた場所とよく似た岬で、彼女は待っていた。


「久しぶりだな、響平」


「……本当に、久しぶりだね」

 日向子の願いにより、小原はすぐさま娘に連絡し、今日の面会を取りつけたのだ。
 快諾してくれたと聞いて万楼は腹の底から安堵した。

 別れた時の状況を考えれば、拒絶される可能性の方が高いと思っていたからだ。

 しかし彼女は破顔して言った。

「お前、本当にheliodorのメンバーになってくれたんだな。ありがとう」

「……うん。だけど、そうしたのはきっと、他のことを全部忘れてたからだよ」

 万楼は苦笑いする。

「ボクは海に堕ちて、たくさん思い出を海の底の闇の中に沈めて忘れてしまっていたから。
初めて恋したことも、初めて失恋したことも、その失恋に自暴自棄になって……あなたの手を振りほどいて飛び降りたことすらね」

 彼女……かつて「万楼」と名乗っていた粋は、ふっと笑みを打ち消して、真っ直ぐに万楼を見つめる。

「……響平……」

「ボクは多分、忘れたかったから忘れたんだ。だけど心の底では、忘れたことをずっと後ろめたくも思っていた……だから東京に来たんだ。
たった1つ、残っていた約束の記憶を頼りにね」

「……そして、思い出したんだろう?」

 粋は乾いた地面を黒いブーツで踏みしめながら、ゆっくりと歩みを進め、万楼のすぐ前に立つ。

「お前、あの頃と全然違うな。すごく男前になったぞ」

「そう? 今なら惚れてくれる?」

「ふっ、どうかな」

 二人は長い空白を埋めるように微笑を交わす。
 そして万楼は言った。

「あの頃、ボクは世界に失望していて、あなたのことしか愛せなかったんだ……独占したくて仕方がなくて……あなたが他の人を想ってることが許せなかった」

 じわりと蘇る苦い記憶に痛む左胸に、かばうように自分の手を重ねる。

「……どうやらボクはまたある人に恋をしたみたいなんだけど、あの時みたいに激しい気持ちにはならなかったから、感謝や尊敬や友情を恋心だと勘違いしているだけで、本当はまだあなたが忘れられないのかと思った。
だけどそうじゃない……って気が付いた」

 あふれる思いが一筋の涙となって万楼の頬を伝って落ちた。

「ボクはこの街で出会ったみんなのおかげでようやくこの世界を好きになれた……その世界の真ん中には彼女がいる……微笑んでる……ずっと笑っていてくれるなら、ボクのものになってくれなくたって構わない……そう思えるくらい愛しいんだ」

 粋は目を細めて、どこか眩しげに万楼を見つめる。

「再会早々豪快にのろけられるとはね……参った、参った」

「……ねえ、粋さん」

 万楼は涙を指で拭いながら静かに問うた。

「あなたはまだ、リーダーのことが好きなの?」




「ああ」













《第12章へつづく》
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