温もりを拒んで進む
万年雪の荒野では
あらがうほどに凍てついて
僕はもう
目を開けられない
絶望が
孤独が
虚偽が
降り積もる街では
月の光を憎んだ夜に
爪先まで冷えて
ひどく、痛んだ
秘密と罪を抱えたまま
旅を続けてきたけど
ささやかなともしびは
ここにあった
こんな僕すら変えるだろうか
唄う意味さえ変えるだろうか
いつか解けていくよ
哀しい夢も
繰り返した過ちも
愚かな執着も
目覚めたら 冬が逝く
微かな傷痕だけを残して
《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【3】
「『Melting Snow』……」
もうまもなく日付が代わり、ニューイヤーを迎える刻限。
ステージで奏でられる、未来への明るい希望と過去への深い思慕とが交錯するバラードは、まさに今年の最後を飾るにふさわしい曲だ。
かつてのメンバーが生み出し、流れゆく時の中で眠っていたそれを、今のメンバーが蘇らせた。
新しい音と、新しい思いで。
日向子はそれを目を閉じて聞いていた。
収容人数がキャパシティの120%を超えた会場の後方ではステージ上のメンバーはほとんど見えない。
メンバーたちも誰一人日向子の入場には気付いていないだろう。
日向子をライブハウスの前で下ろした伯爵は、流石に会場内に踏み入ることはなかった。
寿司づめ状態の会場とはいえ、伯爵に気付くものが絶対にいないとは限らない。
誰かひとりでも、伯爵の存在に気付けばパニックは避けられない。
だがそんな現実的な問題は抜きにしても、伯爵は確かめるまでもなく結果を確信しているようだった。
去り際、伯爵は日向子に「気が変わればいつでも連絡しておいで」と名刺の裏にプライベートナンバーを書き込んで差し出した。
だがその時も「気が変わる」などということはありえないだろうと言外に語っていた気がした。
だがその通りなのかもしれない。
少なくとも日向子には伯爵の夢を応援することはできなかった。
目を閉じて紅朱の歌声に耳を澄ます。
初恋の人が、自らの遺伝子を最良の形で残すためだけに子どもを生み、託して死んでいったと知った時、紅朱はどんなふうに思ったのか。
今の日向子にはリアルに想像することができる。
好きな人が命を賭けた夢ならば、叶えてほしいと思う気持ちもないわけではない。
だがそのために大切な人が利用されるのは辛い。
それが正しいことだとは思えない。
認められない。
渡したくない。
赤の他人の身で、「兄」である紅朱に勝るなどと言うつもりはないが、日向子にとっても玄鳥は大切な人だ。
玄鳥のギターの音は大好きだが、ギターが巧いかどうかを基準にすることはありえない。
heliodorのメンバーも、ギタリストとして以上に一人の人間としての玄鳥を大切に思っている筈だ。
玄鳥とて、それがわからないわけはない。
裏切りなどありえない。
あってほしくない。
そう強く思う。
やがてゆっくりとアウトロが収束し、ステージを照らしていた白色のライトが消失する。
惜しみ無い拍手が膨れ上がるように広がって、日向子も手が痛くなるほど叩いていた。
しばしの余韻。そしてその後、静かにステージがまた照らし出される。
「……今のが今年のラストソングだ。もうすぐ年、明けちまうな」
紅朱がゆっくりと今年最後のMCを始めた。
「……来年は、heliodorにとって新しい出発の年になると思う。なぜなら……」
その時。
会場がざわっと動いた。
ステージがよく見えない日向子には一体何が起きたのかわからなかった。
「おい……どうした?」
戸惑う紅朱の声。
そして。
「兄貴の言う通り、heliodorは、新しく出発します……」
玄鳥の声が、マイクを通して響いた。
「俺を除く四人のメンバーで」
誰もが耳を疑う言葉を、淀みなく告げる。
「俺は……玄鳥はこのライブをもってheliodorを脱退します」
「綾っ……」
「メンバーにもファンの皆さんにも、突然の勝手な決断を押し付けてしまうことになってしまい申し訳なく思います」
恐らくは紅朱が制止してマイクを取り上げようとしているのだろう。
時折、激しいノイズが割り込む。
「綾……!!」
「……理解してもらおうとは思いません……非難されても構わない。……たとえ全てを失っても……大切な約束を破っても……俺は俺の進むべき道を進みます」
もしもここが人間が密集した空間でなかったなら、日向子は床の上にへたりこんでいただろう。
「玄、鳥様……」
相変わらずステージの上は見えない。
沸き起こる怒号や悲鳴、すすり泣く声、マイクを通さないメンバーたちの玄鳥に向けた言葉のかけら、そんなものが耳を塞いでいく。
頭の中を埋め尽していく。
「玄鳥様……」
理解してもらえなくてもいい……それは、赤の他人として離れて暮らしていた彼の父親の言葉とぴたりと重なり合う。
玄鳥はこちら側の人間だ、と伯爵は断言していた。
そして玄鳥はその通りの行動を起こしたのだ。
「どう……して?」
混乱の中……誰一人カウントする者がいないままに静かに年は移り変わっていた。
そしてheliodor……黄金の太陽は、その光を遮る黒い翼のはためきに隠れ、深く暗い日蝕の時を迎える。
メンバーと直接話すまでは意地でもとばかりに、いつまでも会場周辺から動こうとしないファンの説得に、スタッフが手を焼いていた頃、日向子は開け放たれたたまのドアの陰に立ち尽くし、楽屋に踏み込むことができないまま、呆然と中の会話を聞いていた。
「……だと、ふざけんなッ!!」
断続的に、激しい衝突音が響く。
誰かが椅子やテーブルを巻き添えにしながら倒れこんだような音だ。
恐らくは紅朱が玄鳥を殴ったのだろう。
「ちょっと待って、落ち着いて。暴力はよくないよ、リーダー」
慌てて止めに入ったのは万楼と蝉だ。
「玄鳥もさ、とりあえず黙ってないでちゃんと説明してよ。
一回バンド抜けようとしたおれが説教しても説得力ないかもしんないケド、一体どうしたってのさ?」
「……話してもわかってもらえるとは思えない……」
話し合いすら拒絶する、静かな言葉。
「……こんなやり方が正しいとは思わないけど、こうでもしなければ……脱退なんてさせてくれないだろ。兄貴は」
「当たり前だ! 認めねェに決まってんだろうが!!」
「……たとえ兄貴や皆さんが許してくれないとしても、俺には……もうheliodorに留まることはできないんです」
こんなことが前にもあった。
あの時も、日向子はこうして聞いていたのだ。
釘宮家のゲストハウスで。
引き留めようとする高槻の真摯な説得を、まるで聞く耳も持たず退けて、伯爵はピアニストの道を放棄した。
こんな状況になって改めて、紅朱と高槻はよく似ているのだと思い知る。
そして玄鳥と伯爵もまた……心の深い部分が共鳴し合っているのだろうか。
長年兄弟として暮らしてきた紅朱との絆すらも簡単に覆してしまうほどに……?
「……ジブンは、ホンマにそれでええんか?」
ずっと黙っていた有砂が耐えかねたかのように口を開いた。
「一時の感情に流されとるだけなんと違うか?
もう一度頭冷やして考えたほうがええ」
いつものように皮肉を含めることもなくストレートに意見するのは、浅川兄弟にかつての自分と美々のような悲劇的なすれ違いを演じさせたくないからだろう。
しかしそんな言葉を受けても、
「……感情的な理由なんかじゃありませんよ。俺なりに、よく考えて決めたことです」
玄鳥の決心を揺らすことはできないようだった。
「……だったら勝手にしろよ……」
怒りと失望を混ぜあわせたような低い声で、紅朱がうめくように言った。
「……あいつのところへ行きたいならもう勝手にしろよ」
本当は心にもない言葉を。
「……その代わり、てめェはもう弟でもなんでもねェ。二度と俺を兄貴なんて呼ぶんじゃねェぞ……わかったな」
「……ああ……よくわかったよ」
その瞬間、あんなにも紅朱が大切にしていた、必死で守ろうとしていたものが無惨にも崩れ落ちた。
20年という歴史など、何の意味もなかったとでもいうように、あっけなく、失われてしまった。
日向子はかつてない深い絶望を感じていた。
信じたくない。
だがこれは現実。
紛れもない現実なのだ。
日向子はふらつく足取りで、楽屋を背にして歩き出した。
今は紅朱の顔を見る勇気も、玄鳥と話をする強さも持てない。
何を信じていいのかすら、わからない。
もう泣くことすらもできなかった……。
「……日向子を泣かせるなって釘刺してやったのに……ホント、ボッコボコに殴ってやりたい気分」
あまり穏やかでない言葉をかなり本気の口調で言い捨てる美々に、日向子は首を左右した。
「美々お姉さまのお気持ちは嬉しいですけれど……いくら殴られたとしても玄鳥様のお気持ちはきっと変わりませんわ」
人の心を力で無理矢理縛ることはできない……かつてそう主張して父親に反発していた自分が、今はその真実の重さを嫌と言うほど味合わされている。
溜め息を紅茶の中に溶かして飲み干すと、今更ながら泣きたい気持ちになる。
「……ねえ日向子、覚えてる?」
美々が頬杖をつきながら、カウンターのほうに視線を流す。
「初めてあの兄弟に出会ったの、この店だったよね」
そう。
二人はあの席に座っていた。
勝手にライブのチケットを田舎の母親に送った玄鳥に、紅朱が怒って文句を言っていた。
カフェの店内で繰り広げるには少々迷惑なレベルの言い合いではあったが、今にして思えば微笑ましい光景だった。
もうあんな二人を見ることはかなわないのだろうか。
そんなことを思った時、入り口のドアが開いて、よく見知った顔が覗いた。
「……あ」
万楼だった。
向こうもすぐに日向子に気付いたようだったが、いつもの明るい笑顔で駆け寄ってくることはなく、
「……こんにちは」
と力なく微笑んでゆっくり歩み寄ってきた。
「……ここ、いいかな?」
「ええ……」
二人の席のすぐ隣に座った万楼は、オーダーを聞きに来たウエイトレスにいつものメロンソーダを注文した。
スウィーツの新商品盛り沢山のメニューにすら見向きもしない彼の様子に、日向子は強い不安を感じた。
「万楼様……」
呼び掛けたものの、何と続けていいか迷っていた日向子に、万楼は寂しげな影のある笑みを浮かべたまま、一言告げた。
「解散、しちゃった」
「え?」
日向子と美々は、思わず万楼の顔を凝視した。
マスカラなしでも驚くほど長い睫毛を伏せて、万楼はもう一度告げる。
「heliodor、解散した」
「……解、散?」
何故か今の今まで日向子の頭の中にこの単語が浮かんだことは全くなかった。
考えてみれば、ありえないことではない。
メンバーの脱退という局面で、バンドが選ぶ道としては、比較的可能性の高い選択肢だった。
だがなぜか、それを毛の先ほども予想することができなかった。
粋が脱退してもheliodorは解散しなかった。
だがそれは解散させまいと玄鳥が参入したからだ。
玄鳥が紅朱を説得していなければ、恐らくは三年前に解散して終わっていた筈だ。
その当の玄鳥が今度は脱退してしまったのだ……。
「……四人で、もしくは新メンバーを入れて継続は、できないんですか?」
美々の問掛けに、万楼は辛そうに目を細めた。
「……玄鳥の脱退だけだったら、そうできたかもしれない」
「他にも……何かあるのですか?」
続いて問う日向子に、万楼は小さく頷く。
「……うん……実は……」
《つづく》
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