「なんだか、変な感じだよね……」
もうすぐ客入れが始まるという刻限、リハーサルもなんとか集中力を持続させたまま終わった。
毎度のこと、個々に大なり小なりの課題はもちろんあるが、本番に不安を残すほどではない。
それでも万楼がうかない顔で呟いた言葉の意味を、近くで聞いていた蝉と有砂は感覚として理解していた。
紅朱と玄鳥のことだ。
「ホントだよね~、紅朱はなんか焦ってるってゆーか、マジで余裕なさ過ぎだし……」
「玄鳥は逆に不気味なくらい口数が少ないし、異様に落ち着いて見える……なんやろうな、あれ」
「うん……前に喧嘩した時とも、全然違う。何かもっと……」
《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【2】
「何もかも知った上で私に会いに来たんでしょう?」
伯爵は確信的な微笑を浮かべる。
「そうでなければあんな脅えた目で私を見つめたりはしない」
助手席の日向子は、うつむいたまま、そんな伯爵の顔を見られずにいた。
「……では……何もかも、真実だということですか?」
偽りだと言ってほしい……そんな思いがまだ胸の真ん中に居座っている。
しかし、そんな思いはすぐに粉砕されてしまう。
「heliodorの玄鳥……浅川綾が私の実の子で、アーティストとしてのエゴから鳳蝶に生ませたということなら紛れもない事実だ」
悪びれもしない言葉。
エゴだ、と認めているあたりが、罪の意識がない……というよりは、罪などいくらでも背負ってやるというような意味合いなのだと感じさせる。
「彼は全く理想通りに育ってくれた……きっと私の夢を叶えてくれるだろう」
仮にも自分の息子である玄鳥に「彼」という距離のある人称を使う伯爵に、日向子は寂しさを感じた。
父親としての情愛などまるで伝わってこない。
沢城秀人なども、人の親としてはかなり問題のあるパーソナリティーの持ち主だったが、少なくとも望んで自分の手元においている有砂には、それなりに愛着を抱いているように見えた。
だが伯爵にはそれすら望めそうもない。
「玄鳥様は……夢を叶えるための道具ですか?」
「そうだと言ったら軽蔑しますか?」
「……軽蔑……? いいえ、ただ……理解出来ません」
だから脅えてしまう。怖くて仕方がない。
「大丈夫、あなたは正常だ。理解できなくていいのですよ」
伯爵はまるで慰めるような口調でそう言うと、更に楽しそうに続ける。
「あの頃、俺を理解できたのは鳳蝶だけだった。俺も鳳蝶をよく理解していた。理解が色恋に発展することはなかったがね。俺の夢は彼女とともにあり、いつまでもその夢を見ていられると思っていたが、現実は甘くなかったよ」
初めて「俺」という人称を使って見せた伯爵は、いつもより少し砕けた印象を与えた。
恐らくはこれが「高山獅貴」の素顔に近い姿なのだろう。
思わずダブって見えた彼の息子の面影に、日向子はドキッとした。
「……鳳蝶亡き後、俺はただ来るべき時を待つ身となった。退屈な日々だ。退屈に耐えて、その時のためだけに俺はひたすらこの業界に居座った。
その時のために、この世界における俺の地位を確立し、協力者を集めた」
「その、時……?」
「そう。ようやくその時がやって来る。だからあなたにも協力してほしい……実は今日あなたに会った本当の目的はそれなんだ」
「え?」
思いがけない方向に話が向かい、日向子が驚いてみせると、伯爵は横目でちらりと見つめて、囁くように尋ねた。
「……私の下で働いてくれる気はないだろうか」
「……伯爵様の、下で?」
ただ呆然と言われたことを反芻する日向子に、伯爵はそのうすぎぬで鼓膜を包み込むような優しく、甘やかに言葉をつむいでいく。
「まだ対外的には発表していないが、来年の春、私の新しいバンドが始動する」
「っ、バンド活動を再開されるのですか!?」
「ああ……ボーカリストとしてではないがね」
伝説となったバンド「mont sucht」の解散以来、ソロ活動を続けてきた伯爵がバンド活動を再開する……発表されれば間違いなく音楽業界に激震が走る大スクープだ。
「『BLA-ICA(ブライカ)』というバンドだ。
あなたをその『BLA-ICA』のプレス・エージェントにスカウトしたい」
日向子はあまりのことに物も言えずに伯爵の横顔を凝視した。
伯爵は、笑っている。
「……どうですか? レディ」
プレス・エージェント……つまりは広報担当者だ。
各種メディアや企業向けにプロモーションを行う。
情報を発信する、という意味では記者の仕事と通じる部分もある。
伯爵は日向子の記事を読んで、その道に通じる才覚を見い出したということなのだろうが、それにしても大胆な引き抜きだ。
「……わたくしが伯爵様のバンドの広報……に?」
もしもが少し前までの日向子だったなら、狂喜して、一も二もなく引き受けただろう。
憧れの人・高山獅貴に認められて、その記念すべき新たなプロジェクトに参加できるなどまるで夢物語のようだ。
しかし。
「……お受け……するわけには参りません」
日向子は微かに震える唇で、そう答えた。
「わたくしが伯爵様の元へゆけば、傷つく方がいらっしゃいますから……」
日向子を引き留めたもの。
それは紅朱との約束だった。
ずっとheliodorを見守っていく……と。
紅朱だけではない。
heliodorのメンバー全員、彼らと交流する中で出会った人々、美々たち編集部の仲間……今の日向子には大切な人がたくさんいる。
裏切ることの出来ない人々がいるのだ。
伯爵の瞳がわずかにすがめられる。
「くだらない」
突き放すような冷たい言葉が飛び出し、日向子は目を丸くした。
「え……?」
「夢を叶えるためには常に犠牲が必要だ。全てを手放す決断の出来ない者には夢は掴めない」
それはまだ幼かった日向子に、彼が囁いた言葉を思い出させた。
花嫁にしてほしいとせがんだ日向子に、伯爵がつきつけた条件は、日向子が自分の力で伯爵の元へたどり着くこと。
そして、大切な物を手放す覚悟があると認められること。
今まさに、試されているのだ。
日向子が二つ目の条件を満たすことができるかどうか。
伯爵に対する想いの強さがどれだけのものであるか。
「わたくしは……」
日向子の瞳から、また一滴涙が溢れ落ちた。
「……わたくしには手放すことは出来ません……伯爵様をお慕いする気持ちがなくなったわけではありません……けれど、今のわたくしには……」
「ええ、あなたはそう答えると思っていました」
伯爵はしごくあっさりと告げる。
「伯爵様……」
伯爵の顔から先程一瞬覗いた冷たさは拭い去られ、また優しげな眼差しが戻る。
「初めて会った時、私が欲しいと言ったあなたの、純粋な欲望を宿した瞳をとても愛しく思いました……けれどそれは幼さ故。
純粋な欲望を抱いたまま大人になるのは……とても難しい」
伯爵の言葉は日向子の耳に重く響いた。
確かに幼い子供は、自分の欲望を優先して人前で恥らいもなくだだをこねたり、泣きわめいたりするものだ。
だが大人になるにつれて、他人との調和や、常識や倫理のしがらみを知って、欲望を抑制する術を学んでいく。
自分の夢ばかりを優先することはできなくなるのだ。
だが伯爵は違う。
自分の夢のためなら他を利用することも、切り捨てることもできる。
常識に囚われることなく、自由に、欲望の赴くままに。
人の生き血をすすって、永遠の命を生きる吸血鬼のように。
強かに……そして、孤独に……。
「レディ……あなたは優しく、それに正しい。……私を理解できないほうが、あなたは幸せになれます」
応接室であんなに流した筈の涙が、今またとめどなく日向子の頬を伝う。
最初から伯爵は、日向子が拒むことをわかっていたのだろう。
結果の見えている賭けだったのだ。
伯爵の理解者になりえなかった自分が、大人になって、伯爵が「愛しい」と言ってくれた純粋な欲望を無くしてしまったことが、とても悔しく思えた。
だが。
心は変わらない。
自分には伯爵と同じ道を歩むことはできない。
「……わたくしはこれからも記者としてheliodorを見守り、応援していく道を選びます」
「……そうか」
ちょうど赤信号に差し掛かり、車が止まる。
その直後、伯爵は日向子の座る助手席にそっと手をのべて、指先でその涙を拭いた。
「……もう泣くな。泣かなくていい」
それから、信号が変わるまでの間、車内はしばしの沈黙に包まれていた。
ようやく涙が止まった日向子は、車が走り出したその時、沈黙に穴を開ける。
「……伯爵様は、夢を叶えたらどうなさるのですか?」
「……夢を叶えたら?」
「夢だけを追い求めていらっしゃったのでしょう? その夢を叶えてしまったらその次はどうなさるのですか? また、新しい夢を……?」
「……さあ、今はまだそんなことを考えるだけの余裕はないかもしれない」
もちろんそれはそうだろう。
全てを賭けられるような大きな夢の半ばで、次の夢など考えている余裕などなくて当然だ。
しかし伯爵はこう続けた。
「……まあそれは、そう遠くない日なのだろうがね」
日向子ははっとした。
伯爵の夢、それは玄鳥を引き取って自分と鳳蝶の才能を受け継ぐギタリストとしてプロデュースすることだった筈だ。
それがもうすぐ叶うということは……。
「伯爵様!? 新しいバンドのギタリストを……玄鳥様にと考えていらっしゃるのではありませんか!?」
「ええ、そのつもりです」
伯爵はやはりあっさりと肯定する。
「……heliodorから玄鳥様を引き抜くおつもりですの!?」
「ああ、そのつもりで春先から交渉してきた。そしてあなたと同じ理由で拒まれてきた」
玄鳥はそんなこと、一言も話さなかった。
しいて言えば、以前日向子の部屋に宿泊した際に「すごい人から誘いの声がかかったこともある」と口にしたことならあった。
だが、個人の感情を優先して周囲を裏切ることはできない……玄鳥はそう言っていた。
まさしくそれは「大人」の意見だ。
伯爵の思想と相反している。
「玄鳥様は絶対にheliodorを裏切ったりなさいませんわ……今はご出生の秘密をお知りになって、少し動揺されていらっしゃいますが……そんなことでお心を変えたりはなさいません」
「……もちろん、人の本質はそうそう変わるものではない。
だが本人が本質に気付いていなかったり、認めたくないばかりに自分を騙すことはよくある」
伯爵は小さく笑う。
「……彼は、こちら側の人間だよ。あなたや他のメンバーとは違う」
「……そんなこと、ありません」
むきになったように否定してしまう。
出会ってから、それほど経過していないとはいえ、記者として玄鳥のことをずっと見てきた。
いつも優しくて、仲間や家族を大切にしていた玄鳥が伯爵の元へ行くなど考えられない。
それに日向子は玄鳥とも約束している。
何があっても玄鳥のことを信じると。
「……では確かめに行きましょうか」
まるでタイミングを見計らったように、車は狭路にすべり込み、角を2つほど曲がったところで、止まった。
「ここは……」
日向子は助手席の窓から外を見て、思わず絶句した。
伯爵は、気まぐれでドライブへ行こうと言ったわけではない。やみくもに走っていたわけでもない。
目的地は決まっていた。
今まさにheliodorがステージに立っている、そのライブハウスが日向子の目の前にあったのだ。
《つづく》
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