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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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 立ち上がり、また一礼した彼に、会場中から惜しみ無い拍手が送られていた。

 ごく数人の例外を除いて。

 そのごく数人に入ってしまった日向子は、ただ大きく目を見開いたまま、演奏を終えた彼の姿を見つめていた。
 明確に思考を定めることも叶わず、ただただ魂を抜かれたように見つめていた。

 司会者がゲストへの挨拶を促し、マイクを手渡す。
 彼は会場中を見渡し、やがて、口を開く。

「謝罪しなければならないことが、2つあります」

 思いもかけない一声に、ざわめきが起こっても、構うことなく彼は一気に言葉をつむいだ。

「今の曲はオリジナルではなく、友人の創った曲を編曲したものです。
まずはそのことをお詫びします。
そしてもう1つ……」

 一度だけ深く呼吸し、はっきりと告げた。

「……雪乃漸は、釘宮高槻先生の後継を辞退致します」








《第10章 吸血鬼 -baptize-》【1】









 より一層騒がしくなった周囲に構うことなく、漸は告白を続ける。

「おれは最初から釘宮家の財産と権威を目当てに先生に取り入った汚い人間です」

 人前で自身を「おれは」と表現した彼は、クールで非情な仮面を脱ぎ去って、ナイーブな青年の素顔をさらけだしていた。

「おれみたいな卑しい男を家族として慕ってくれていた人を利用して、傷つけて……おれを仲間として受け入れてくれた人たちも、最後には裏切ってしまいました」

 微かに震える声。
 今にも泣き出しそうな瞳が、日向子の胸を締め付ける。
 思わず飛び出して行って「もうやめて」と言いたくなるほどに。
 けれどそうしたとしてもきっと彼は全てを語り終わるまでやめないだろう。

「……偉大な先生はそんなおれの浅はかな考えなどとうに見抜いていらっしゃって……見抜いて尚、おれを選んで下さいました」

 日向子のすぐ傍らで、高槻もまた真っ直ぐに漸を見つめている。

 漸は高槻の鋭い視線を受け止めたまま、更に言葉を紡ぎ出す。

「嘘に汚れた舌の根で、今更何を言っても無意味だと思います……だけどおれは、ピアニストの端くれとして、先生を本当に尊敬していました。
そのことを忘れてしまうほどに、自分の不純さや、亡くなった育ての父とも呼べる人への思いが、絶えず後ろめたさとなっておれの目を曇らせてきました」

 いつの間にか会場は水を打ったような静けさに包まれ、誰もが漸の言葉に耳を傾けている。

「愚かにも今になってようやく、気が付きました。
自分を救ってくれたスノウ・ドームの人たちがおれにとってかけがえのない家族であるのと同じように、今はもう釘宮家の皆さんも……一緒にバンドをやってきた仲間たちも、おれにとってはもう家族そのものだったってことに」

 日向子の中で、2つの面影がゆっくりと重なっていく。
 小さな頃から側にいて守ってくれた生真面目な眼鏡の青年と、苦しい時にいつも明るい笑顔で元気づけてくれた優しいオレンジの髪の青年。

 こんなに一緒にいたのに、どうして今まで気付くことができなかったのだろう。

「……蝉、様……」

 何故か一滴、涙が溢れた。


「……スノウ・ドームに恩を返したい。だけどそのために大切な人たちに嘘をついたり、利用したりするのはもう耐えられないんです……。
それに、おれなんかが継いだら釘宮の名前が汚れてしまうから、だから、おれは後継者には到底なれません」

 そして漸は自嘲の笑みを浮かべた。

「抱えきれもしないのに、ばかみたいに両手をめいっぱい広げて……おれは結局何も救えず、誰も守れず、一つも貫けなかった……最悪だ」


「……違う……」


 日向子は思わず呟いた。
 その瞬間、いきなりすっと眼前にマイクが突き出された。

「……え?」

「言いたいこと、あるんだろう? 言ってやりな」

 ハスキーな声が発した言葉が日本語でなければ、外国人と勘違いしそうなほどすらりとした背丈の金髪の女性だった。
 何故か男なりをして、サングラスを身に付けていたが、淡い色みのグロスでてかる潤んだ唇は間違いなく女性のそれだ。
 反射的にマイクを受け取ってしまった後で、

「あなたは……」

 どなたですか? ……と問おうとした日向子の髪をおもむろに撫でつける、長い指。

「蝉を頼んだ。多分知ってるだろうけど、あいつすごくいい奴だから」

 その指でヒラヒラと「バイバイ」のサインをして、女性は行ってしまった。

 一瞬追い掛けようとした日向子だったが、漸がステージから立ち去ろうとしているのに気付いて、慌ててマイクのスイッチを「ON」にした。


「待って!!」


 静まり返った会場に響き渡る切迫した声は、蝉の足を止め、振り返らせた。

 日向子は唇の前でしっかりとマイクを構え、蝉を見つめて口を開く。

「……自分を取り巻く全てを愛して、守りたいと思う……それがあなたの優しさの形ではなかったのですか?」

 またわずかに会場がざわついた。

 蝉は困惑をにじませながら、再びマイクを握り直す。

「おれは優しくなんかない……優柔不断で、強欲で、嘘吐きなだけだよ」

 日向子は一拍間を空けて、微笑して見せる。


「それでもいいんです」

「……え?」


 いぶかしげに見つめる漸に、日向子は優しく語りかけた。


「それでも、あなたは家族ですから。
わたくしにとっては雪乃も、蝉様も……今目の前にいるあなたも、大切な人です。
あなたがこれからどんな名前で、どんな生き方をしていくとしても……わたくしの気持ちは変わらないでしょう」


 蝉はいよいよ泣き出しそうにくしゃくしゃと顔を歪めた。

「……日向子……ちゃん……けど、おれはもう釘宮の家にはいられないし、スノウ・ドームにだって帰れない……それに、heliodorも抜けたし……」




「はァ!!? おいこら、今なんつった!?」




 マイクも通していないのにすこぶるよく通る声が、後ろのほうから響いてきた。

「heliodorを抜けていいなんて誰が言った!!」


 それは日向子も漸もよく知る声だったが、しかしここにいる筈のない人物の声であった。

 漸は呆けたようにその名を口にした。

「紅朱……??」

「いつまで練習サボってんだ、このバカ」

「……なんで……っていうか、その格好どうしたの??」

「うるせェな、どうだっていいだろ」

 一目で「SIXS」の製品とわかる、ゴテゴテしているが品の良いゴシック調のフォーマルウエア。
 見慣れないスタイルではあるが、その赤い髪を垂らした小柄な青年はどう見ても紅朱だ。

 しかもその横で、周囲の目を気にしてキョロキョロしている黒髪の青年も、周囲の目なんか一切お構いなしにスイーツをばくばく食べている美少年も、どう見ても玄鳥と万楼だ。

 その近くで、涼しい顔をして事のなりゆきを見守っている有砂が一枚噛んでいることは間違いなさそうだった。


 紅朱は肩をいからせながらつかつかと前へ歩み出て、漸を見上げ、睨んだ。

「お前にどんな事情があんのか、未だにサッパリわかんねェけど……とにかく俺はリーダーとして、お前の脱退は認めねェ。わかったら、早く帰って来い」

 物も言えずに立ち尽くす漸に、更に呼び掛けた者がいた。


「ゼン兄……!!」


 れっきとした招待客として席が用意されていたにも関わらず、遅れて会場入りし、そのまま立ってステージを見ていたうづみが、高いヒールと重たいドレスをものともせずに走り、紅朱のすぐ側まで出て来た。


「もうスノウ・ドームに帰れない……なんて言わないで!!
ようやく目が覚めたの。私も、ゼン兄もきっと焦り過ぎてた……大切なものを守るためなら手段を選ばない、なんて……そんなやり方じゃあ結局大切な人を哀しませるばかりだったのよね。
私はこれから誰にも恥じないやり方でスノウ・ドームを守るつもりよ。
ゼン兄がいつでも帰って来れるように……!!」


 うづみは彼女本来の力強く、眩しい笑顔を見せた。

「だからゼン兄もゼン兄らしく、ゼン兄が望む場所で生きて!!」


「……あ……」

 漸はまだ半分ぼんやりとした様子で、立ち尽くしている。

 heliodorにスノウ・ドーム。どちらも大切なもの。
 そして失う覚悟を決めていたものだった。

 嘘と裏切りを受け止めて、尚、帰って来いと言ってくれている。

 そして。


 胸を熱くしながらステージを見上げていた日向子の手から不意にマイクが奪われる。

「……えっ」

 高槻だった。


「漸」


 威厳に満ちた声が呼び掛け、漸ははっとしたようにそちらを見やった。


「……先生……」


「……お前の仲間はああ言っているが、お前はこれからどうするつもりだ?」


 真実を真っ直ぐに問掛ける眼差しに射抜かれた漸は、ゆっくりと答える。

「……戻る、つもりです。先生の軽蔑する軽音楽の道に。heliodorのキーボーディスト・蝉に」

 高槻は深く溜め息をつく。

「……私もあまり若くない。あと30年くらいは生きたいとは思っているが……」

 だが声音はいつもよりずっと穏やかな雰囲気だった。

「私が健在の間は、好きなようにしなさい。
だが、私が死んだらお前が釘宮を継ぐのだ。
わかったな、漸」

「それは……あの……」

「わかったな」

「……はい……!」

 高槻は大きく頷いて、マイクを日向子に返した。

 マイクを受け取った日向子は再度ステージに呼び掛ける。

「わかりましたでしょう? あなたがみんな愛おしむのと同じように、みんなあなたを愛しているのだということ」












 当初の予定とは随分変わってしまったが、こうして釘宮高槻の後継者は無事に衆目に披露され、正式に決定した。

 しかし襲名するのはあと何十年か後になりそうだったが……。


 そのままステージを降りた漸に、日向子とうづみ、そしてheliodorの面々が駆け寄り、取り囲んだ。

 漸は色々な感情に胸をつまらせながら、真っ赤な顔をしている。

「……あの……おれ、もう何て言ったらいいんだか……」

「まあ、よくわかんねェがとりあえず、めでたしめでたしなんだろ?」

 紅朱がふっと笑みを浮かべる。

「せっかくクリスマスに集まったんだ、これからどっかでパーティーでもしようぜ?」

「それは賛成だけど」

 まだスイーツの皿を持ったままの万楼が口を挟む。

「いいの? まだ式は終わってないんだよね??」

「そういえば」

 漸がぽつりと呟く。

「この後、日向子ちゃんの婚約発表だっけ」


 当事者でありながらすっかり忘れていた日向子は、

「まあ、そういえばそうでしたわ。どういたしましょう」

 と有砂を見た。
 有砂は、何か気だるそうに息を吐いて、言った。

「とりあえず、延期でどうや?」

「延期!?」

 玄鳥が半分声を裏返らせて叫んだ。

「延期って何ですか!? いずれは本当に婚約しようとでも言うんですか!!?」

「別に……ただ、そういうことにしておけば、お嬢がようわからん他の男と無理矢理結婚させられることはないやろう?」

「それは……」

 確かにその通りだった。
 形だけとはいえ、日向子に父親公認の恋人がいる以上、他の相手との縁談が持ち上がる心配はない。

「ねえ、あのさ……」

 漸が口を開く。

「……つまり二人が、っていうのは……全部嘘、なの??」

 日向子は苦笑いしてこくん、と頷いた。
 漸は何故か少し安堵したように微笑した。

「そっか……」



 











《つづく》
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「若い、って羨ましいと思いません?」

「……君は私よりは随分若いと思うが」

「いやいや……もうね、いくら人生をリセットしようとしてもやり直せるような年やないですからね、僕も」

 指先でもてあそんでいた林檎の意匠の指輪をピンと弾くと、高く上がったそれはくるくる回転しながら床に落ちた。
 それは先ほど彼が「恋人」から返却されたもの。
 今となっては不要になってしまった虚しい飾り。

「袖にされたのが堪えたのか?」

「まあ……それなりに。でも、あの時ほどやないかなあ」

「……あの時、とは?」

「水無子にフラれた時ですよ……」











《第10章 吸血鬼 -baptize-》【2】










「やっぱり気付いてなかったですか?
昔から色恋沙汰だけは疎かったですもんねぇ、先生は……」

 ホテルの地下にある静かなバーのカウンターで、世界的に有名なピアニストと、世界的に有名なデザイナー兼ブランドオーナーが肩を並べてグラスを傾けていた。

「水無子にね、もっと自由な場所で幸せにしたるから、僕と逃げようてゆうたったんですわ。
けど……水無子はなんぼしんどくても先生とおりたかったみたいですよ」

 高槻は神妙な顔付きで、黙って秀人の顔を見やった。
 秀人は年のわりに無邪気な印象を与える、彼独特の笑みを浮かべる。

「ま、僕としては軽い屈辱を感じるんですけど……水無子は高槻先生の妻として死ねたこと、満足なんと違いますかね」

 高槻は相変わらず黙っていたが、秀人は構わずに更に続けた。

「日向子はええ子に育ちましたね。水無子に似て情が深くて、先生に似て芯が強い。あの子がうちのんと一緒んなってくれたら僕はホンマに嬉しいです。
……けど」

「……けど?」

「あの子は、どんな男と結ばれても、どんな生き方を選んでも……絶対に幸せを掴めると思いますよ。心配ご無用です」

「……私が過保護だと言いたいのかね?」

「……そうですねぇ、僕は無責任なくらい放任でしたけど、みんな案外まともに育ってたみたいなんで。
もう少し気楽に構えても大丈夫でしょ」

 高槻は、いつもの気難しい顔で沈黙したきりだった。

 ややあって、秀人が空気を変えるように明るいトーンでまた話し始める。

「そうそう、さっき小原さんとこのお嬢さんを見かけましたよ。何て名前でしたっけね……」














 華やかなドレスからカジュアルなワンピースとコートに着替えた日向子は、少し早足でホテルの裏手で待っている筈の車へと急いだ。

 てっきり玄鳥か有砂の車が待っているのかと思っていたが、日向子の姿を見付けて、ライトの明滅でサインを示してきたのは釘宮家の所有する黒塗りの高級車だった。

 自然に、日向子の足はより一層早くなる。

 日向子が車のすぐ側まで辿り着くと、ゆっくりと運転席のドアが開いて、降りて来た人物は慣れた仕草で後部座席のドアを開き、恭しく頭を垂れた。


「どうぞお乗り下さい、お嬢様」


「あ……」

 日向子は思わず彼の顔をじっと見つめてしまう。

「いかがなさいました? お急ぎでいらっしゃるのではないのですか」

「え、ええ……」

 戸惑いながらもとりあえず車に乗り込んだ。
 丁寧にドアを閉めて、改めて運転席についた青年の顔を斜め後ろから見つめる。

 眼鏡をかけた顔を見るのはいつ以来だっただろうか……?

「……雪、乃……?」

 戸惑いを拭えないまま、そっと呼び掛ける。

「はい」

 すぐに返事が返ってくる。
 日向子は静かに問う。

「……本当の自分を偽る必要はもうなくなったのに、まだ続けるの……?」

 日向子が「雪乃」と呼んで接してきた、この口数が少なく、冷静沈着に構えた青年は、彼が演じていた偽りの姿。
 本来の彼は、「蝉」としてバンドの仲間といる時のような、明るく賑やかでよく喋り、コロコロと表情を変える青年の筈だ。

「もしお嬢様がご不快に感じるのでしたら、やめますが……」

 彼はいたって真面目な口調で答える。

「私はあなたに『雪乃』と呼ばれてきたこの『私』を、今はとても愛しく思います。
あなたは、どの私も大切だと言って下さいましたから……私の中で『雪乃』はもう偽りではなくなったような気がしています」

「雪乃……」

 今度はためらわずに呼ぶことができた。

 今ここにいるのは間違いなく「雪乃」なのだ。

 雪乃は少し目を伏せて、

「……お嬢様に、お返ししなければならないものがあります」

 と告げ、少し身を屈めると、サイドシートの下から何かを取り出し、両の手で丁重に抱え、それを日向子に差し出した。

「……これは……」

 日向子は目を丸くした。

 それは先日、処分されたとばかり思っていたビロードの表紙のアルバム数冊。
 そっくりそのまま、一冊も欠けることなく揃っていた。

「どうしてですの……?」

 受け取って、思わず胸にきつく抱き締めながら問う。
 雪乃はどこか苦しげな表情を浮かべた。

「……実際、処分するつもりで持ち出したのですが……結局どうしても出来ず、ここに隠していました。
お嬢様を悲しませてしまい、本当に申し訳ございませんでした」

「……あなたにとっても釘宮家での思い出は何の価値もないものではなかったのね……」

「……はい」

 どこかにまだくすぶっていた哀しみも不安も、全て一瞬にして消え去った気がした。

「……お嬢様を、深く傷付けて、悲しませてしまったこと……どう詫びたらよろしいでしょうか」

 いたたまれない顔をしている雪乃にそっと微笑みかける。

「いいえ、いいのです。あの時のあなたはそうしなければ自分自身を保てなかったのでしょう……?
嘘をついたあなたは、きっとわたくし以上に辛かった筈ですわ」

「……あなたが諦めてくれたなら、私を軽蔑し、憎んでくれたなら……最後の躊躇いを断ち切れると思いました。
けれどあなたは、私のごとき小者の思い通りになるような方ではありませんでしたね」

 つい先日、秀人に似たようなことを言われたばかりのような気がして、日向子は思わず首を傾げた。

「……思い通りにならない、というのは誉め言葉ですの?」

「……そうは聞こえませんでしたか?」

「よくわかりませんわ」

「では言い方を変えましょう」

 雪乃はわずかに、ほんのわずかに微笑した。

「……お手を拝借致します」

 日向子は一旦アルバムを横において、言われるがままに片手を差し出した。
 雪乃は恭しくその手を取り、真摯な眼差しを日向子に向けた。

「……あなたは、美しい人です。心も身体も、全てに魅了されずにいられないほど」

 予想を遥かに越えた直球の賛美に、日向子の心臓は激しく反応を示す。
 体温が上がっていくのがはっきりとわかる。

「……雪乃……」

「……再びここに誓いを立てましょう。
いつか本当にあなたが誰かを選び、旅立つその日まで……この私があなたを守り通します」

 そっと指先に唇が触れた。
 誓いの口付け。


 その手を離した後、雪乃はまるで何事もなかったようにハンドルを握り、車を出した。

 日向子はいつものように目的地に着くまで他愛ないおしゃべりをし、雪乃は適度に相槌を打つ。

 けれど互いの胸の高鳴りは、しばらくおさまることなく続いていた。













 突発クリスマスパーティーは、heliodorメンバーと日向子、うづみ、後から誘った美々の八人で行われることになった。

 ちなみに秀人もかなり参加に意欲的だったのだが、全員一致で却下となり、いじけながら高槻と飲みに行った次第だ。

 パーティーの会場は話し合った結果、日向子のマンションに決まった。

 理由は単純に一番広いからだったが、誰より強く主張したのは万楼で、どうやらheliodorの中で自分一人が日向子の部屋に入ったことがないのを密かに不満に感じていたようだ。

 一度解散し、各自分担した買い出しを行い、約束の時間に日向子のマンションに集合することとなった。













 「何をぼーっとつっ立っとんねん。邪魔臭い」

「あ……うん……ごめん」

 有砂とシェアする部屋に久々に足を踏み入れた「蝉」は、着替えながらあちらこちらへ視線を向けた。

 出て行く前と何も変わっていない。

 何も変わっていない、ということは放置されていたということではない。

 維持されていたということだ。

「……ねえ、おれの部屋も掃除とかしてくれてたの……?」

 同居人に呼び掛ける。返事はない。

「……あ」

 ベッドの枕の上に、蝉が捨てた筈のオレンジのウイッグと携帯電話が並べて置かれている。

「ねえ、拾ってくれたの……?」

 懲りずに呼び掛ける。今度は返事があった。

「燃えるゴミのゴミ箱にほってあったやろ? ……いらんのやったら分別してもっかいほっとけ」

「……いつも分別しないのそっちじゃん……おれがいっつも後で直して、さあ……」

 感極まって目の端に熱いものが込み上げてくる。

「……いらないわけないじゃん……っ」


 この部屋ごと切り捨てようとした「蝉」。

 全てが、ここで待っていてくれた。

「……っ」

 今まで殺してきた分、一気にあふれ出した感情がとめどなく、流れる。

「……っ、うぁぁーあん、よっちぃぃーん……っ!!」


 たまらなくなり、キッチンで冷蔵庫の中のミネラルウォーターを取り出そうとしていた有砂の背中に駆け寄り、おもいっきり抱きついた。

「な、なんや……!」

 勢いで少し屈んだ姿勢のまま前のめり、頭を思いきり上段のドアにぶつけた有砂は後ろに首をひねり、抗議の目を向ける。

「……アホ、いきなり何すんねん」

 しかし当の蝉はそれに気付いていない様子で、ひしと有砂の細身な胴体にしがみついている。

「よっちぃん……ごめんねぇぇ……っ」

「キショいっちゅうねん……離せ」

「っふぇえん……っ、よっちぃぃん……!」

「泣くなっ、鬱陶しい……」

 ひどく久々に用いた「よっちん」という彼しか使わない呼称。
 それを繰り返し呟きながら、ついに背中に頭を押し付けて号泣しだした蝉に、有砂は不機嫌な顔で舌打ちし、溜め息をついた。


「……まったく……難儀な親友やな」


 蝉がより一層、火がついたように泣き出したことは言うまでもない。

 さながら季節を間違えて鳴くセミのように……蝉はしばらくの間そのまま泣いていた。












「そうですか、じゃあ蝉さんが帰ってきて、日向子も当分寿退社はなしってことで、めでたしめでたしな感じですね」

 今日の出来事を聞いた美々はかなり呑気に感想を口にした。

「めでたしめでたし……なんですかねえ」

 玄鳥はめでたくない顔でハンドルを握っている。

 助手席に美々を、後ろに万楼と、買い込んだ大量の食材を乗せて日向子のマンションへと向かう道すがら、彼のテンションはじりじり下降していく。

「……なんか最近、いつも俺、蚊帳の外なんですよね……」

「何言ってるの? ボクもリーダーもそうだったでしょう?」

「まあ……そうなんだけど、何ていうか」

 玄鳥は進行方向を見つめたまま、少しその瞳をすがめた。

「俺は蝉さんみたいに昔から一緒にいたわけでも、有砂さんみたいに家族ぐるみで関係があるわけでもない……二人とも、なんかズルいよな……」

「玄鳥さんって、本当に日向子が好きなんですね~」

 しみじみと評する美々に、玄鳥は今更顔を赤くする。
 それに美々は笑って、少し抑えた声で囁いた。

「……だったら覚悟して下さいね」

「はい??」

「……うちの日向子を傷付けたら、もう明日は来ないと思って下さい♪」


 冗談めいた口調と裏腹に、きらりと鋭く光る美々の眼差しに、玄鳥と万楼はただただ苦笑いをするしかなかった。












《つづく》
「なんだ、まだ誰も来てねェのか」

「はい、紅朱様が一番乗りですわ」

 突発クリスマスパーティーの最初の客が着いた時、日向子はパーティーの会場として解放するピアノ室の準備を進めていた。

 といっても料理や何かは買い出し部隊が到着するまで用意できないため、テーブルを用意した以外は、少し物を動かしたり、掃除したりという程度だが、紅朱は壁の色が他と違う一角を目にとめて、

「日向子、アレは撤去したのか?」

 と問うた。

 アレとは以前訪問した時に見た、日向子の大切なタペストリーのことだ。

「ええ、今夜は」

 日向子がそう答えると、紅朱は苦笑した。

「あんまり俺に気ィ使うな……後で綾に睨まれちまうだろうが」











《第10章 吸血鬼 -baptize-》【3】










 やることはやりつくした日向子は、簡易ベッドをソファーがわりにして、座っていた紅朱の横に人一人分くらいの間隔を空けて座った。

「皆様遅いですわね」

「ああ。綾たちは美々を迎えに行ったから仕方ねェが、蝉と有砂は何やってんだろうな。
まさか久々の再会に号泣しながら抱き合ってるわけでもねェだろ」

 冗談で言ったわりに、実はなかなかいい線をついている。

「まあ、あいつらの遅刻癖は今に始まったことじゃなかったか……」

 などと言いながら、日向子から見ても紅朱はすこぶる機嫌がよさそうだった。

「やっと全員でカウントダウンライブの練習が出来ますね?」

「……ああ、そうだな」

 もしもあのまま蝉がheliodorを離れてしまっていたら、紅朱は粋の時と同じように心に深い傷を負ってしまったに違いない。

 もちろん紅朱だけではない。
 他の仲間たちも、そして日向子も。

 5人揃ってこそのheliodor。
 誰が欠けたheliodorも見たくはないと、今、日向子は改めて感じていた。

「……そういや、ホテル出る前に、お前の親父さんに声かけられたぞ」

「まあ、お父様が……?」

 よもや式でのことを咎められたのではないかと不安になってしまった日向子に気付き、紅朱は軽く首を横に振った。

「別に説教されたわけじゃねェよ。睨まれはしたが……あれはあの人のデフォルトなんだろ??」

「ええまあ……では何を言われたのですか?」

 紅朱はふっと目を細めて小さく笑う。

「よろしく頼む、ってよ。蝉のこと」

「……まあ」

「よくわかんねェけど、緩和されつつあるんじゃねェか? 親父さんのロックバンド嫌い」

「……そうだと嬉しいのですけどね」

 日向子は肩をすくめて笑った。

 実際はロックバンドが嫌いであることには変わりはないのかもしれない。
 だが高槻は蝉の選択を認め、紅朱の心意気を認めたのだろう。
 そして仲間たちの絆と、日向子の願いも……。

「まあ、有砂の親父とすら親しく付き合えるくらいだから、意外とキャパが広いのかもな」

「そうですわね」

 これにはあっさりと躊躇いなく同意する。

「わたくしは今回の一件で父を色々な意味で尊敬するようになりましました」

「だろうな……まあ、それにしても、お前の婚約が延期になってほっとしたぜ。かなりヒヤヒヤしたからな」

「ヒヤヒヤ……ですか」

 日向子が何の気なしに反芻すると、紅朱は何故かはっとしたように一瞬大きく目を見開き、

「いや、ヒヤヒヤってのは……その……お前が寿退社なんかされちまったら、heliodorの記事は誰が書くんだ、って話になんだろーが」

「もしそうなったら、美々お姉さまが後任になって下さると思いますから、ご心配にはおよびませんわ」

「……そりゃあ、美々は信用できる相手だとは思うが……」

 紅朱は深く息を吐いて、日向子を見つめる。

「俺が認めたheliodorの担当記者はお前なんだ。
特集の連載が終わっても、お前にはずっと俺たちの行く末を見てってほしい」

「紅朱様……」

「……いいよな?」

「……はい」

 思いもかけず、真剣な口調で告げられた言葉。

 それはベッドの上というシチュエーションもあいまって、日向子にいつかの停電の夜を思い出させていた。

 逃げ込んだ個室の中で、身を寄せ合って。

 失いかけた自信を取り戻させてくれたのは紅朱の力強い優しさと、伝わる体温。

 少し不器用で誤解を受けやすい性格だけれど、仲間のため、夢のため、家族のために紅朱はいつもひたむきだった。

 今ならそれは父親の高槻と同じ生き方だと理解できる。

 高槻とは血の繋がった親子でありながら幼い頃より、親子らしい交流などほとんどなかった。

 かつては母も健在で、雪乃や小原、他の使用人たちにも囲まれて。

 それでもどこかで寂しさを感じていた。

 街を歩く、自分と同じくらいの子どもが父親と手を繋いで楽しそうに歩いているのが羨ましかった。

 父親の大きな手に包まれたいと思っていた。

 そんな時に現れたのが「伯爵」だった。

 あるいは探し求めていた父性を伯爵の中に見ていたのかもしれない。

 だからずっと追い掛けてきたのだろうか……?


 求めてやまなかったのだろうか??



 それはわからないが、あの停電の夜に紅朱にはっきり認めて貰ったことがあんなにも嬉しかったのは、彼に父の面影を重ねたからだ。それだけは確信出来る。

 本当に認めてほしかったのは父だったのだから。


 反発しつつも渇望した、父という大きな存在。
 

 それを理解出来た今、日向子はまた新たな気持ちで伯爵への想いや、紅朱との関わりを見出していけるような気がしていた。

 父親の代替ではなく。

 もっと別な……。

「どうした? 日向子」

「いえ……」

 怪訝な顔をする紅朱に、クスリと微笑む。
 ふと、相変わらず艶やかで綺麗な彼の深紅の髪に目がいく。

「紅朱様……また、おぐしに触らせて頂けませんこと?」

「は? いいけど……あれから、まだ大して伸びてねェぞ?」

「近くで見ているとどうしても触りたくなってしまいますの」

 日向子は空いていた人一人分の距離をすり寄り、そっと手を伸ばして、紅の絹糸のような髪に指先で触れる。

「……紅朱様のおぐしは相変わらずお綺麗ですわね」

 髪を撫でながらうっとりしたように笑みを浮かべる日向子に、紅朱は何故か落ち着かない表情で視線を泳がせる。

「……そんなに好きなのかよ。変な奴だな……」

「うふふ、ですけれど……女としてはほんの少し嫉妬してしまいますわね」

「なんでだ? お前だってこんなに……」

 紅朱は思わず日向子の髪に触れて、すぐに離した。

「あ、悪ィ」

「……紅朱様?」

 日向子は更に距離を詰めて、紅朱の顔を覗いた。

「……なんだかいつもとご様子が違いますわ」

 いつも真っ直ぐ日向子をとらえていた紅朱の鋭利な刃物を思わせる2つの瞳が、今日は何故か明後日のほうばかり見ている。

「……別に何も違いやしねェよ」

 いつも耳に心地好い美声が、心なしか上擦っている。

「でも……」

 更に言い募ろうとした時、ベッドの傍らに無造作に置かれたままの日向子の携帯が着信を告げる。

 着信音が毛嫌いしている男の新曲であることにも構わず、紅朱は、

「ほら、電話だぞ。早く出ろよ」

 と救いを得たような安堵の色が滲む声で告げる。

「あ、はい……では失礼致します」

 日向子はほんのわずかな引っ掛かりを感じながらも、促されるままに携帯電話に手を伸ばした。

「あら……編集長様ですわ」

 ディスプレイを確認して、通話ボタンを押す。

「はい、森久保です……はい……」

 編集長が、携帯ごしに妙に興奮した口調で早口にまくし立てるのを相槌を打ちながら聞いていた日向子は、やがて相槌を忘れ、瞬きすら忘れ、呆然とした表情になっていた。

「日向子……? どうした?」

 紅朱も異変を察し、小声で問うが、それすら気付かない様子の日向子。
 どうやらそのまま一方的に通話は終了してしまい、やがて携帯を持つ手を静かに下ろした。

「……日向子!?」

 少し強い口調で再度問う紅朱。

 日向子ははっと我に返り、紅朱をゆっくりと見た。

「……伯爵様が、RAPTUSの取材をお受けになると……」

「……高山獅貴、が?」

 眉間に皺を寄せる紅朱。日向子は困惑したような声で更に続ける。

「……取材記者に、名指しでわたくしを……」

「……お前を担当にしろ、ってのかよ」

「にわかには信じられないことなのですが……わたくしのheliodor特集記事を読んで下さって、大変気に入って頂けたようだと編集長が……」

「……へえ……よかったじゃねェか。もっと喜んだらどうだ?」

 紅朱は多分に含みのある口調でそう言った。
 しかし日向子は素直に受け止めて、目を伏せた。

「はい……でも……」

 日向子にとってそれは、あまりにも現実離れした展開だった。
 
 伯爵の元へ続く長い旅の第一歩だと思っていた初めての大役であったheliodorの特集連載。
 それがいきなり当の伯爵の目にとまってしまうなど、誰が予想していただろうか?

 予想だにしない途方もない奇跡に直面すると、人間の感情はなかなか追い付いてこないものらしかった。

 日頃人を疑うことなどほとんどない日向子も、まだどこかで「担がれているのではないか?」と疑わずにはいられなかった。

「信じられませんわ……そんなこと、とても……」

「……ありえねェことじゃねェさ……」

 紅朱はひどく険しい表情で吐き捨てるように呟いた。

「紅朱様……?」

「……で、やるつもりなのか? 取材」

「それは……もちろん、またとない機会だと思います……。
編集長様も、珍しく手放しで激励して下さいましたし……期待もして下さっていました……でも」

「何か引っ掛かるのか?」

「……それが、取材の日時が、指定されていて……」

 日向子は膝上においていた手を丸めて、きゅっと握った。

「12月31日……大晦日の夜なのです」

「っ、な」

 紅朱は絶句した。

 大晦日の夜といえばもちろん、heliodorのカウントダウンライブが予定されている。
 彼等の新たな始まりとなるであろう特別なライブだ。

 紅朱はその突き刺すような視線を日向子に真っ直ぐ向けた。

「……だったら断れ」

 冷ややかな声。

「今さっき約束したばっかりだろ? ……お前はheliodorを……俺たちをずっと見てってくれんだろ?
だったら……迷うなよ」

 まるで責め立てるような言葉が次々と日向子の胸に突き刺さる。

 heliodorの大切なライブに参加できない……などと言えば紅朱が怒るのはわかりきったことだった。

「……今すぐ編集長に電話して、誰か他の奴に代わってもらえよ。
それで高山獅貴が納得しなくても知ったことか」

 有無を言わさない剣幕に、日向子はまだ片方の手の中にある携帯電話に目を落とした。

 確かに断るなら早いほうがいい。
 編集長はすぐに納得はしないかもしれないが、よく話せばどうにかなる筈だ。

「でも……」

 だが日向子には、躊躇われた。

 夢にまで見た憧れの人からさしのべられた手を振り払うなど、辛すぎる。

 伯爵への思いを見つめ直すためにも、是非かの人と会いたい。話をしたい。

 それが正直な気持ちだった。

 だが、heliodorと伯爵の間で迷う日向子の態度は紅朱の感情を逆撫でる。

「……あいつを選ぶのかよ、日向子……」

 かつて感じたことのないほどの、紅朱の強い怒りを感じて、日向子は微かな身体の震えを覚えた。

 一言「もちろんheliodorを選ぶ」と言えば済む。

 しかし、それができなかった……。

「……」

 無言のままうつむくことしかできない日向子に、紅朱は舌打ちしてベッドから立ち上がった。

「……見損なった。もう勝手にしろ」

 言い捨てて部屋を出ていく彼を引き留める言葉など、今の日向子には何もつむぐことができなかった。














《つづく》
 結局、heliodor+αのクリスマスパーティーは、言い出した本人が一人欠席という形で、なんとも微妙な空気のまま開宴された。

 途中で何故か反対方向へ向かう紅朱のバイクとすれ違った玄鳥たちはもちろん、いきなり意気消沈した日向子を見た他のメンバーやうづみもすぐに異変を察した。

 詳しい理由を話さず、自分のせいで紅朱を怒らせてしまったと、ひたすら謝る日向子を問いつめることは誰にもできなかった。

 ただ、波乱の聖夜はまだ終わったわけではなかったことを誰もが感じていた。









《第10章 吸血鬼 -baptize-》【4】










「いいんですよ、こういうことはうちじゃ俺が一番得意なんですから」

「でも……」

「任せて下さいよ」

 空になった皿に手際よく、そして綺麗に新しい料理を盛り付けていく玄鳥は、確かに主婦を通り越して一端のシェフのようだった。

「日向子さんこそ洗い物なら後で俺がやりますから、ピアノ室に戻って大丈夫ですよ」

「まあ、そういうわけには参りませんわ……それに」

「……働いてるほうが、気が紛れる……とか?」

「……」

 黙ってしまった日向子に、玄鳥はそっと微笑みかける。

「……女心って難しいけど、俺、日向子さんの考えていることだけなら最近少しわかるようになったみたいです」

「……玄鳥様」

「少し話しませんか……ここのマンションは、屋上に上がれましたっけね?」










「ちょっとナーバスなところもあったと思いますよ……今日は兄貴が蝉さんや粋さんに出会った日と同じ、聖夜なんですから」

 外の空気を吸って来るとだけ言って上着を羽織って出た二人を、誰も問いつめず、引き留めなかった。
 玄鳥の意図はわかりきっていたし、玄鳥がしなければ多分、違う誰かがそれをしたに違いない。

 そしてそれをするのはこの場合、玄鳥が最適任者であろうことも明白だった。

 冴え冴えした夜空を見上げながら、二人は何もない屋上の真ん中にたたずんでいた。


「兄貴はいつも、大事なものを『抱え込み』たがるんです……」

「……そう、ですわね」

 日向子は思い出す。

 紅朱は大事なものを『抱え込む』。
 逃がさないために。
 失わないために。

 縛り付けてでも留めようと。

 そしてそんな紅朱の最も手放し難いものが、今目の前にいる青年なのだった。

「……だけど、正直……兄貴の伯爵に対する感情の正体は、俺にも掴めません……どうしてあんなに嫌っているのか。昔は違ったのに……」

「そう、なのですか?」

「はい……俺がmont suchtを聞き始めたのは兄貴の影響でしたからね……」

 今の紅朱からは想像も出来ない事実だ。

「不思議なもので、本気で音楽の道に進みたいと言い出したのと同時期に、兄貴は高山獅貴を毛嫌いするようになったんです」

 日向子は記憶を掘り起こして考える。

 以前、玄鳥は言っていた。紅朱が音楽の道に進むと言い出したのは中学の時だと。

 中学の時といえば、紅朱も確かターニングポイントになったと語っていた時期だ。
 玄鳥の本当の父親が訪ねてきて、以来紅朱は玄鳥が本当の父親を選ぶことをひどく恐れてきたという。

 そして、もし自分が違う道を選んでいれば……とも言っていた。

 違う道、とは、音楽以外の道……という意味なのだろうが、言われた時にはどういうことか理解できなかった。

 しかし今改めて考えてみると、ある一つの解釈が生じる。


 玄鳥はいつも紅朱の後ろについてきた。

 紅朱がギターを手にしたことで、玄鳥もまたギターを手にした。

 紅朱が始めたから、玄鳥もそれに続いたのだ。

 紅朱がそのことを悔やんでいたのだとしたら、玄鳥が音楽を通して実父に近付いてしまう、と思ったからではないか?


 もしそうならば結論は出る。

 玄鳥の父親はミュージシャンなのだ。

 それも、恐らくは大物で……玄鳥が憧れを抱くような人物。

「……まさか……」

 胸がドキドキしていた。

 あまりにも現実離れしている。

 だが、現実であれば全てが符合する。

「……日向子さん?」

 いぶかしげに名前を呼ぶ玄鳥をじっと見つめる。

 鼓動が止まらなくなる。

「どうしたんですか?」

 何か答えなければと思うのだが、何も出て来ない。

 玄鳥は一歩日向子に歩み寄った。

「……兄貴のこと、何か心当たりがあるんですか? ……それなら教えてくれませんか??」


 知りたがっている玄鳥。

 けして知られたくない紅朱。

 玄鳥には知る権利がある。

 だが少なくともそれを第三者の口から語ることはできない。

「……わたくしには何も申し上げられません」

 ましてや、確証すらないのだ。

「ただ……どうか忘れないで下さい」

 白い息を吐きながら、日向子は左手の薬指を玄鳥に向けてそっと差し出した。

「ゆびきり、しましたわよね?」

「……ええ」

 玄鳥は優しく微笑し、自身の小指をそっと絡ませた。

「……俺は、あなたを悲しませない」

「わたくしは、玄鳥様を何があっても信じますわ」


 再び結ばれる大切な約束。

 冷えきったお互いの指にはっとする。

「……そろそろみんなのところへ戻りましょうか」

「そうですわね……」






 部屋へと戻る道すがら、二人はほとんど同じことを考えていた。

 「真実が知りたい」

 それがいかに残酷で、無慈悲な現実であったとしても……。











 幾度目かのチャイムで、ようやく部屋の主が顔を出した。

「っ」

 つり目を大きく見開いて、

「なっ、おま……!」

 驚愕に声を失っていた。

「申し訳ありません、アポイントメントを取ろうと思ったのですけれど、事前に連絡しても今のあなたは会って下さらないだろうと、蝉様がおっしゃっていましたので……」

 昨日の今日ということもあり、おまけにおよそ人前には出られないような年季の入った寝間着のジャージ姿で髪もボサボサの紅朱は、非常にバツの悪い表情で日向子を見つめていた。無言のままで。

「……紅朱様はわたくしの顔など見たくもないとお思いでしょうけれど」

 日向子はそんな紅朱を真っ直ぐ見つめていた。

「わたくしには、これで本当に紅朱様に嫌われてしまったとしても確かめたいことがあります」

 日向子の眼差しに宿るただならない強い意志は、やがて紅朱の心を少し、動かした。

「……10分、待っててくれ。とりあえず、着替えくらいさせろ」

 ボソリと呟いて、一度ドアを閉ざすと、部屋の中へと戻っていった。

 とりあえず、いきなり門前払いにされなくてよかった、と日向子は心から安堵した。

 だがそれは、もう後戻りの許されない状況になってしまったことをも意味した。

 日向子は手首を飾るブレスを見つめて、気を抜けば逃げ出してしまいそうな自分を震い立たせた。

 










 きっちり10分後、ボサボサだった髪をどうにか見られるようにセットしてグレーのダウンジャケットを羽織った紅朱が出て来た。

「……外でいいか? ちょっと寒いかもしれねェが」

「ええ、大丈夫ですわ」

 まだ少しバツの悪い顔をしたまま、微妙な早足で歩き出した紅朱に、日向子は置いていかれまいとしっかりついていく。

 冬の風に煽られる紅朱の深紅の髪は、後ろから見ているとまるで炎が揺らめくように見えた。

 その髪にみとれながら歩いていたため、不意に紅朱が立ち止まった瞬間、日向子は危うくその背中にぶつかりそうになった。

「ここでいいか」

「あ、はい」

 辿り着いた場所は、公園と呼ぶにはあまりにもささやかな石畳の広場で、東屋のような形状をしている。
 囲うように配置された葉の落ちた寂しそうな植え込みの真ん中に、古いベンチがあった。

 そこに紅朱と隣合って座ると、なんだか都会の喧騒から隔てられたような不思議な気分になり、日向子は澄んだ高い空を見上げた。。

「……素敵なところですわね」

「……たまに、来る。なんとなく気に入ってんだ。誰かと一緒なのは今回が初めてだけどな」

 紅朱もまた視線を空へ向けている。

 ばかみたいに並んで、青空を見つめていた。

「……昨日はカッとなっちまって悪かったと思ってる」

 空を見たまま紅朱は言う。

「頭冷やして考えた。……俺がお前の仕事の内容をどうこう言うなんて傲慢だったよな。
……高山獅貴クラスの大物の取材を任されるなんて、お前にとっちゃこの上ないチャンスだろ……何より、奴はお前の目標だったわけだしな」

 日向子は、そっと視線を空から地上へ……青から赤へと移行させた。
 紅朱の横顔は、あまりにもせつなそうで胸が苦しくなる。

 どうして彼は、高山獅貴の名を口にする度に苦しそうな顔をするのだろう。

「……迷惑ですか?」

 横顔に問掛ける。

「……これ以上、あなたの心に踏み込むのは……迷惑ですか?」

 紅朱は空を映したその目を細くすがめた。















「……留守か……」

 いくらチャイムを鳴らしても出て来ない部屋の主に、玄鳥はとうとう諦めを選択した。
 じっさい部屋の中は10分ほど前から無人だ。
 20分ほど前に、違う客が来たために、見事に行き違いになったのだ。

 諦めてマンションの敷地から出てすぐ、

「……あれ?」

 黒い小さい毛玉みたいなものが、坂の上からまるで転がるようにして向かってきて、玄鳥の脚の下で止まった。

「うにゃ」

 猫だ。

 銀の首輪をした黒い仔猫。

 アーモンド型の目で玄鳥を見上げている。

「……その首輪……シュバルツかい?」

「うにゃー」

 肯定するように鳴くと、また転がる毛玉のように素早く移動を開始する。

「あ、こら。そっちは車道だ。危ないよ」

















「……俺は多分、お前に全て打ち明けたいんだと思う……」

 紅朱は呟くように言った。

「打ち明けたら俺は少し楽になれる気がするから……だけど、打ち明けたなら、そのことできっとお前を傷付けてしまう……だから話したくなかった」

 その美声に苦渋がにじむ。日向子は首を左右に振る。

「……傷付く覚悟はしてきました。だから答えて下さい」

 振り返った紅朱の、色素の薄い透けるような瞳を真っ直ぐに見つめて、そして、その問いを投げ掛けた。

「……玄鳥様の本当のお父様は、伯爵様ですか?」


 紅朱は驚いたふうでもなく、最初から全てを悟っていたような顔をして、静かにその問掛けを受け止め、答えた。


「……そうだ」


「っ」

 日向子の心臓は、大きく高鳴った。

「綾は……俺の叔母、浅川紗(アサカワ・タエ)と高山獅貴の間に生まれた子どもだ」

「……お二人は、ご結婚を……?」

「……してねェよ。紗さんは一人で綾を生んで、死ぬまで一人で育てようとした」

 覚悟をしていたことなのに、頭の芯がビリビリ痺れていた。

 恋焦がれてきた人には自分と同じ年の息子がいて……しかもその息子はとても身近な人で。

 血の気が引いていく……。

「日向子」

「あ」

 紅朱が、おもむろに手を握ってきたことで我に返る。

「……これ以上、話さないほうがいいか? 無理するな」

 心配そうに問いながら、強く強く手を握ってくれる……ただそれだけのことが日向子を踏みとどまらせた。

 逃げてはいけない。

「……いいえ、全て聞かせて下さい……伯爵様と、紗様はどのようにして愛を育まれたのですか?」

 紅朱の顔が今まで以上に苦しそうに歪められた。


「愛を育む……か、そうだったらどんなによかっただろうな」

「え……?」

「……二人は恋人同士なんかじゃなかった……愛し合って授かった子じゃねェんだよ……!! アイツは……!!」

 紅朱の心をこうも頑にしてきたのは、まさにその重すぎる真実だった。
















《つづく》
「どうだ……? 悪い話じゃないだろう??」

「……でも」

「……やっぱり、気が引けるか? ……大切な想い人を裏切るような格好になるから」

「それもあります……だけど、それよりなんだか信じられなくて……私が、貴女やあの人の仲間に選ばれるなんて……考えてもみなかったから」

「お前のことは色々調べたんだ。そのなりふり構わないところが、とても魅力的だな」

「……えっ」

「この計画に加わる人間は……みんな、似た者同士なんだ。他人を巻き込まずにいられないほど、強烈な願い……欲望を抱えてる」

「……欲望?」

「……ああ、欲望だよ。……欲望に忠実に生きられる者だけが、このプロジェクトには必要だって……そう、伯爵や望音は言ってる」










《第10章 吸血鬼 -baptize-》【5】











「紗さんにはもう1つの名前があった」

 ゆっくりと開いていく、禁じられた過去の扉。

 秘めて語られざるべき、真実の物語。

「伝説のバンド《mont sucht》の幻の初代ギタリスト……」

「……あげ、は……様……?」

「そう。綾が尊敬している、あの鳳蝶だ」

 普通であれば、幻のギタリストが女性だったことも驚くべき事実だったが、示された因縁の凄まじさの前では、そんなことはもう問題にもならなかった。

 玄鳥は何も知らずにして、見えないものに導かれるように自分の肉親の音にずっと焦がれていたのだ。

 ただの偶然と片付けられるようなものではない。

「紗さんはギタリストとしての夢に賭けて上京し、高山獅貴たちと出会ってバンドを組んだ……そして活動が軌道に乗り始めた頃に悪夢が襲った……それが、病だ」

 紅朱は、幼い記憶に深く刻まれた「死」を思い出したのか、いよいよ辛そうに目を伏せる。

「病が進行して、もうバンド活動も継続出来なくなり、あとはただ死を待つ身になってしまった紗さんの絶望は計り知れない。
天才薄命……という奴だったのかもしれねェが。
だがある意味で紗さん以上に、その過酷な運命を呪っていたのが高山獅貴だった。
紗さんの才能が死によって失われることを惜しんだ高山獅貴は、驚くべき提案をした……」






――鳳蝶、死ぬ前に俺の子供を生む気はないか?








「……紗さんの才能、更には……自分自身の才能をも引き継いだ《怪物》をこの世界に生み出すこと。それが高山獅貴の野望だった」

「……!」

 日向子は完全に言葉を失っていた。
 言葉ばかりではなく、感情すら追い付かず、ただ呆然と紅朱の言葉を待つしかなかった。


「俺がその事実を知ったのは……10年前の紗さんの命日だった。
いつものように墓参りに行った俺の前に、あの男が現れたんだ……驚いたぜ、当時の俺は綾と同じように、純粋に高山獅貴を尊敬してたからな。
奴が綾の父親だと名乗った時、一瞬だけ綾を羨ましいと思ったくらいだ……。
もしあいつが真実を語らず、ただ紗さんの恋人として……そして綾の血の繋がった肉親として……息子を引き取りたいと言っていたら……俺は綾を託していたかもしれない」

 だが高山獅貴は告げたのだ。
 彼の息子がどのような経緯でこの世に誕生したか。

「……綾を自分の元へ引き取って、ギタリストとして育て上げ、亡き《鳳蝶》の後釜にしたい……だからよこせってあいつは言ったんだ。
高山獅貴は綾に父親としての愛情なんてこれっぽっちも持ってやしない……綾を使ってアーティストとしての自分の欲望を満たしたいだけだ……そんな奴に俺の大事な家族を渡せってのか!? 出来るわけねェだろ!!」

 堪えきれずに感情を激して吐露する紅朱に、日向子は思わず手をさしのべ、冷たいベンチの上で固く握られた拳をくるんだ。

 震えているのが紅朱なのか自分なのか、両方なのかわからない。

 引き出されるように蘇る記憶の中で、伯爵が微笑する。

 すぐ近くで見つめた、あの氷塊のような瞳。

 彼は自分が何者かわかっていると言っていた。

 自分の求めるものがなにかわかっているから、それ以外を切り捨てることができるのだと……。


 高山獅貴が求めていたものは、早逝した天才の音色をこの世に蘇らせること。

 獅子の爪牙と鳳の翼を持つ《怪物》として……?


「……ですが、何故……何故伯爵様は、紅朱様に全てお話になったのでしょうか? 黙っていればスムーズに玄鳥様を引き取ることもできたかもしれませんのに……」

「あいつは……俺が苦しんであがくところが見たいと言ってた」

「……え?」

「……本当にそれだけの理由だったのか、それとも何か別の……」


 「意図があったのか」と続けようとした紅朱の言葉を遮るように、



「うにゃー」



 と、癖のある猫の鳴き声が、すぐ近くから聞こえた。

 反射的に鳴き声のほうへと振り返った二人は、振り返った状態のままフリーズしていた。

「うにゃ」

 呑気に楽しそうに鳴いている仔猫を、されるがままに足元にまとわりつかせ、彼がそこに立っていた。

 二人が振り返ったことにも気付いていないのではないかというほどにぼんやりした顔で……けれど、それでいて視線は確実に二人の方に向けられている。


「……綾?」


 こんなところにいるわけがなかったのに。

 それは幻でも悪夢でもなく玄鳥だった。

 紅朱ははっとしたようにいきなり立ち上がり、立ち尽くす玄鳥に駆け寄り、ぼんやりしている彼の両肩を掴んだ。

「いつからいたんだ!? 聞いてたのか!!?」

 日向子も遅れて立ち上がり、急いで紅朱に続いた。

 もし玄鳥が随分前からそこにいたなら、十分に二人の会話を聞き取ることができる距離だった。

「玄鳥様……!」

 まるで祈るような気持ちだった。

「あ」

 玄鳥は、さながら白昼夢から呼び起こされるようにはっと紅朱を見た。

「綾……?」

 まるで脅えたような声で名前を呼ぶ紅朱を見つめて、玄鳥は困惑したように口を開いた。

「あ……ごめん、俺……立ち聞きしようと思ったわけじゃなくて……シュバルツを……あの、猫を追い掛けてて……あれ、またいなく」

「猫なんかどうだっていいんだよ! 綾、お前今の話を……」

「……どこ行ったのかな……あいつ……まだちっちゃいし……危なっかしくて」

「綾!!」


 焦りを募らせる紅朱と、噛み合わない言葉を重ねる玄鳥。
 二人の姿を見ていたたまれなくなった日向子は、思わず飛び付くようにして玄鳥の右腕を掴んだ。

「……玄鳥様……!!」

「あ……日向子さん……。日向子さんも兄貴に会いに来てたんですね……俺も、兄貴に聞こうと思って来たんです……兄貴がどうして」

 言いながら玄鳥の顔はどんどんどんどん青ざめていく。

「兄貴がどうして……伯爵を……嫌って……るのか……」

「玄鳥様……」

 蒼白した顔で、ついに沈黙する。

 それこそが紅朱の問掛けに対する明確な答えだった。

 玄鳥は聞いてしまったのだ。
 自分がいかにしてこの世に生を受けたか。
 長い間隠されてきた、大きな秘密を。

「……綾……」

「俺が……伯爵と、鳳蝶の……息子……?」

 紅朱は絶望したように目を見開き、自分より上背のある玄鳥を、まるですがりつくようにして、抱き締めた。

「……違う、お前は俺の弟だ。浅川家の家族だ……!」

 必死に絞り出す声に、玄鳥はいよいよ動揺を顕著に示し、日向子につかまっているのと反対の手で自身の顔を覆った。


「……俺は……」


「玄鳥様は玄鳥様ですわ」

 日向子もまた懸命に呼び掛ける。

「玄鳥様の出生など、わたくしには何も関係ありません。真面目でお優しくて、お兄様思いの……今目の前にいらっしゃるあなたが全てですわ。だから……」

「日向子さん……」

 玄鳥はまだ平常心とはかけ離れた状態ではあったものの、ほんの少しだけ我に返ったように、二人を見た。

「……大丈夫です。すいません……少しだけ、一人にしてもらえませんか?」

 紅朱は迷っているようだったが、日向子に視線で促され「わかった」 と呟き、玄鳥の身体を解放した。

 二人が歩き出し、少し離れると、玄鳥はつい先程まで二人が座っていたベンチに一人で座り、少しずつ雲の出始めた12月の空を眺めていた。

 日向子と紅朱は何度も振り返りながらも、ただその場を去るしかなかった。














「可哀想に。さぞやショックだったのでしょうね」

 ぼんやりと空を見ていた瞳がゆっくりと視線を旋回させ、彼女の姿を見つけた。

 黒い仔猫を手に載せた、ゴシックロリィタの少女がにこりともせずに見つめている。

「……あなたが何にショックを受けたか当ててあげましょうか? 浅川綾」

 淡々とした言葉を紡ぎながら、無表情な玄鳥の隣に特に断りもなく座った。

「あなたがショックを受けたのは、傷付けなかった自分自身」

 玄鳥は、苦しそうに眉根を寄せる。

「そして湧き上がってくる認めたくない感情を、二人に悟られたくなくて一人になった……軽蔑されたくなかったから」

「っ……」

 傷口をナイフでえぐるような言葉を拒むように、玄鳥は両手で耳を塞ぎ、首を左右する。

「あなた、人より頭がいいんだからわかるでしょう? 自分の本性に逆らうから苦しいのよ。……いくら小さなツバメだと思い込もうとしても、今更無駄なの」

 薄い黒レースの手袋に包まれた手が、まるで愛撫するように、耳を覆う玄鳥の手に触れる。

「素直になってもいいわ。私はけして軽蔑しない。むしろそんなあなたが、とても愛しいとすら思う」

 そっと手を取り、下に下ろさせると、暗い色で彩った唇を耳元に寄せる。

「……教えて。あなたの本当の気持ち」

 玄鳥は目を閉じて、深く息を吐いた。



「……ゾクゾクした」



 息と一緒に、押し殺していた言葉が漏れた。


「……自分の中に伯爵と鳳蝶の血が流れているなんて……純粋に、凄いと思ってしまったんだ……自分が兄貴や両親の本当の家族じゃないことに傷付くより先に……興奮してしまった自分が、許せなかった……」

「そう……確かにそれは普通の感覚じゃないわね」

「……うん……」

「あなたは異常なのよ」

「……そうかもしれない……」


「……もうわかったでしょう? あなたはあなたが考えるような平凡な人間でも、善良な人間でもないの」

 玄鳥はいつの間にかすっかり冷静さを取り戻した、静かな眼差しを再び空へ向けた。


「……ああ。そうだね」













 その頃、紅朱と日向子は、マンションに引き返すことなく、あてのない散歩を続けていた。

 どちらがそう切り出したわけでもなかったが、そうせずにはいられない気分だった。

 歩いているうちに大分落ち着きを取り戻した日向子は、沈んだ顔をしている紅朱の横顔を見上げては、胸を痛めた。

 あんなにも強気な人が泣きそうな目をしている。

 自分が紅朱に会いに来たりしなければ、玄鳥に知られることはなかったのかもしれない。

 だがそんなことを謝ったとしても、今の紅朱には何の救いにもならないだろう。

 余計に気を遣わせるだけに違いない。


 必要なのはきっと、下手な慰めなどではない。


「紅朱様……」


 たくさん悩んで日向子は切り出した。


「……わたくしは、伯爵様の取材、やはりお引き受けしようと思います」

「……なんだって?」

 思わず立ち止まる紅朱。

「お前、それでもあいつを……」

「いいえ、そうではありません……ただ、直接会って確かめたいことがたくさん……たくさんありますの」

 強い決意を真っ直ぐぶつける。

「heliodorの皆様のライブには参加できません……けれど、離れていても心は一緒ですわ。
応援しています。いつも、変わることなく……」















《第11章へつづく》
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