「どうだ……? 悪い話じゃないだろう??」
「……でも」
「……やっぱり、気が引けるか? ……大切な想い人を裏切るような格好になるから」
「それもあります……だけど、それよりなんだか信じられなくて……私が、貴女やあの人の仲間に選ばれるなんて……考えてもみなかったから」
「お前のことは色々調べたんだ。そのなりふり構わないところが、とても魅力的だな」
「……えっ」
「この計画に加わる人間は……みんな、似た者同士なんだ。他人を巻き込まずにいられないほど、強烈な願い……欲望を抱えてる」
「……欲望?」
「……ああ、欲望だよ。……欲望に忠実に生きられる者だけが、このプロジェクトには必要だって……そう、伯爵や望音は言ってる」
《第10章 吸血鬼 -baptize-》【5】
「紗さんにはもう1つの名前があった」
ゆっくりと開いていく、禁じられた過去の扉。
秘めて語られざるべき、真実の物語。
「伝説のバンド《mont sucht》の幻の初代ギタリスト……」
「……あげ、は……様……?」
「そう。綾が尊敬している、あの鳳蝶だ」
普通であれば、幻のギタリストが女性だったことも驚くべき事実だったが、示された因縁の凄まじさの前では、そんなことはもう問題にもならなかった。
玄鳥は何も知らずにして、見えないものに導かれるように自分の肉親の音にずっと焦がれていたのだ。
ただの偶然と片付けられるようなものではない。
「紗さんはギタリストとしての夢に賭けて上京し、高山獅貴たちと出会ってバンドを組んだ……そして活動が軌道に乗り始めた頃に悪夢が襲った……それが、病だ」
紅朱は、幼い記憶に深く刻まれた「死」を思い出したのか、いよいよ辛そうに目を伏せる。
「病が進行して、もうバンド活動も継続出来なくなり、あとはただ死を待つ身になってしまった紗さんの絶望は計り知れない。
天才薄命……という奴だったのかもしれねェが。
だがある意味で紗さん以上に、その過酷な運命を呪っていたのが高山獅貴だった。
紗さんの才能が死によって失われることを惜しんだ高山獅貴は、驚くべき提案をした……」
――鳳蝶、死ぬ前に俺の子供を生む気はないか?
「……紗さんの才能、更には……自分自身の才能をも引き継いだ《怪物》をこの世界に生み出すこと。それが高山獅貴の野望だった」
「……!」
日向子は完全に言葉を失っていた。
言葉ばかりではなく、感情すら追い付かず、ただ呆然と紅朱の言葉を待つしかなかった。
「俺がその事実を知ったのは……10年前の紗さんの命日だった。
いつものように墓参りに行った俺の前に、あの男が現れたんだ……驚いたぜ、当時の俺は綾と同じように、純粋に高山獅貴を尊敬してたからな。
奴が綾の父親だと名乗った時、一瞬だけ綾を羨ましいと思ったくらいだ……。
もしあいつが真実を語らず、ただ紗さんの恋人として……そして綾の血の繋がった肉親として……息子を引き取りたいと言っていたら……俺は綾を託していたかもしれない」
だが高山獅貴は告げたのだ。
彼の息子がどのような経緯でこの世に誕生したか。
「……綾を自分の元へ引き取って、ギタリストとして育て上げ、亡き《鳳蝶》の後釜にしたい……だからよこせってあいつは言ったんだ。
高山獅貴は綾に父親としての愛情なんてこれっぽっちも持ってやしない……綾を使ってアーティストとしての自分の欲望を満たしたいだけだ……そんな奴に俺の大事な家族を渡せってのか!? 出来るわけねェだろ!!」
堪えきれずに感情を激して吐露する紅朱に、日向子は思わず手をさしのべ、冷たいベンチの上で固く握られた拳をくるんだ。
震えているのが紅朱なのか自分なのか、両方なのかわからない。
引き出されるように蘇る記憶の中で、伯爵が微笑する。
すぐ近くで見つめた、あの氷塊のような瞳。
彼は自分が何者かわかっていると言っていた。
自分の求めるものがなにかわかっているから、それ以外を切り捨てることができるのだと……。
高山獅貴が求めていたものは、早逝した天才の音色をこの世に蘇らせること。
獅子の爪牙と鳳の翼を持つ《怪物》として……?
「……ですが、何故……何故伯爵様は、紅朱様に全てお話になったのでしょうか? 黙っていればスムーズに玄鳥様を引き取ることもできたかもしれませんのに……」
「あいつは……俺が苦しんであがくところが見たいと言ってた」
「……え?」
「……本当にそれだけの理由だったのか、それとも何か別の……」
「意図があったのか」と続けようとした紅朱の言葉を遮るように、
「うにゃー」
と、癖のある猫の鳴き声が、すぐ近くから聞こえた。
反射的に鳴き声のほうへと振り返った二人は、振り返った状態のままフリーズしていた。
「うにゃ」
呑気に楽しそうに鳴いている仔猫を、されるがままに足元にまとわりつかせ、彼がそこに立っていた。
二人が振り返ったことにも気付いていないのではないかというほどにぼんやりした顔で……けれど、それでいて視線は確実に二人の方に向けられている。
「……綾?」
こんなところにいるわけがなかったのに。
それは幻でも悪夢でもなく玄鳥だった。
紅朱ははっとしたようにいきなり立ち上がり、立ち尽くす玄鳥に駆け寄り、ぼんやりしている彼の両肩を掴んだ。
「いつからいたんだ!? 聞いてたのか!!?」
日向子も遅れて立ち上がり、急いで紅朱に続いた。
もし玄鳥が随分前からそこにいたなら、十分に二人の会話を聞き取ることができる距離だった。
「玄鳥様……!」
まるで祈るような気持ちだった。
「あ」
玄鳥は、さながら白昼夢から呼び起こされるようにはっと紅朱を見た。
「綾……?」
まるで脅えたような声で名前を呼ぶ紅朱を見つめて、玄鳥は困惑したように口を開いた。
「あ……ごめん、俺……立ち聞きしようと思ったわけじゃなくて……シュバルツを……あの、猫を追い掛けてて……あれ、またいなく」
「猫なんかどうだっていいんだよ! 綾、お前今の話を……」
「……どこ行ったのかな……あいつ……まだちっちゃいし……危なっかしくて」
「綾!!」
焦りを募らせる紅朱と、噛み合わない言葉を重ねる玄鳥。
二人の姿を見ていたたまれなくなった日向子は、思わず飛び付くようにして玄鳥の右腕を掴んだ。
「……玄鳥様……!!」
「あ……日向子さん……。日向子さんも兄貴に会いに来てたんですね……俺も、兄貴に聞こうと思って来たんです……兄貴がどうして」
言いながら玄鳥の顔はどんどんどんどん青ざめていく。
「兄貴がどうして……伯爵を……嫌って……るのか……」
「玄鳥様……」
蒼白した顔で、ついに沈黙する。
それこそが紅朱の問掛けに対する明確な答えだった。
玄鳥は聞いてしまったのだ。
自分がいかにしてこの世に生を受けたか。
長い間隠されてきた、大きな秘密を。
「……綾……」
「俺が……伯爵と、鳳蝶の……息子……?」
紅朱は絶望したように目を見開き、自分より上背のある玄鳥を、まるですがりつくようにして、抱き締めた。
「……違う、お前は俺の弟だ。浅川家の家族だ……!」
必死に絞り出す声に、玄鳥はいよいよ動揺を顕著に示し、日向子につかまっているのと反対の手で自身の顔を覆った。
「……俺は……」
「玄鳥様は玄鳥様ですわ」
日向子もまた懸命に呼び掛ける。
「玄鳥様の出生など、わたくしには何も関係ありません。真面目でお優しくて、お兄様思いの……今目の前にいらっしゃるあなたが全てですわ。だから……」
「日向子さん……」
玄鳥はまだ平常心とはかけ離れた状態ではあったものの、ほんの少しだけ我に返ったように、二人を見た。
「……大丈夫です。すいません……少しだけ、一人にしてもらえませんか?」
紅朱は迷っているようだったが、日向子に視線で促され「わかった」 と呟き、玄鳥の身体を解放した。
二人が歩き出し、少し離れると、玄鳥はつい先程まで二人が座っていたベンチに一人で座り、少しずつ雲の出始めた12月の空を眺めていた。
日向子と紅朱は何度も振り返りながらも、ただその場を去るしかなかった。
「可哀想に。さぞやショックだったのでしょうね」
ぼんやりと空を見ていた瞳がゆっくりと視線を旋回させ、彼女の姿を見つけた。
黒い仔猫を手に載せた、ゴシックロリィタの少女がにこりともせずに見つめている。
「……あなたが何にショックを受けたか当ててあげましょうか? 浅川綾」
淡々とした言葉を紡ぎながら、無表情な玄鳥の隣に特に断りもなく座った。
「あなたがショックを受けたのは、傷付けなかった自分自身」
玄鳥は、苦しそうに眉根を寄せる。
「そして湧き上がってくる認めたくない感情を、二人に悟られたくなくて一人になった……軽蔑されたくなかったから」
「っ……」
傷口をナイフでえぐるような言葉を拒むように、玄鳥は両手で耳を塞ぎ、首を左右する。
「あなた、人より頭がいいんだからわかるでしょう? 自分の本性に逆らうから苦しいのよ。……いくら小さなツバメだと思い込もうとしても、今更無駄なの」
薄い黒レースの手袋に包まれた手が、まるで愛撫するように、耳を覆う玄鳥の手に触れる。
「素直になってもいいわ。私はけして軽蔑しない。むしろそんなあなたが、とても愛しいとすら思う」
そっと手を取り、下に下ろさせると、暗い色で彩った唇を耳元に寄せる。
「……教えて。あなたの本当の気持ち」
玄鳥は目を閉じて、深く息を吐いた。
「……ゾクゾクした」
息と一緒に、押し殺していた言葉が漏れた。
「……自分の中に伯爵と鳳蝶の血が流れているなんて……純粋に、凄いと思ってしまったんだ……自分が兄貴や両親の本当の家族じゃないことに傷付くより先に……興奮してしまった自分が、許せなかった……」
「そう……確かにそれは普通の感覚じゃないわね」
「……うん……」
「あなたは異常なのよ」
「……そうかもしれない……」
「……もうわかったでしょう? あなたはあなたが考えるような平凡な人間でも、善良な人間でもないの」
玄鳥はいつの間にかすっかり冷静さを取り戻した、静かな眼差しを再び空へ向けた。
「……ああ。そうだね」
その頃、紅朱と日向子は、マンションに引き返すことなく、あてのない散歩を続けていた。
どちらがそう切り出したわけでもなかったが、そうせずにはいられない気分だった。
歩いているうちに大分落ち着きを取り戻した日向子は、沈んだ顔をしている紅朱の横顔を見上げては、胸を痛めた。
あんなにも強気な人が泣きそうな目をしている。
自分が紅朱に会いに来たりしなければ、玄鳥に知られることはなかったのかもしれない。
だがそんなことを謝ったとしても、今の紅朱には何の救いにもならないだろう。
余計に気を遣わせるだけに違いない。
必要なのはきっと、下手な慰めなどではない。
「紅朱様……」
たくさん悩んで日向子は切り出した。
「……わたくしは、伯爵様の取材、やはりお引き受けしようと思います」
「……なんだって?」
思わず立ち止まる紅朱。
「お前、それでもあいつを……」
「いいえ、そうではありません……ただ、直接会って確かめたいことがたくさん……たくさんありますの」
強い決意を真っ直ぐぶつける。
「heliodorの皆様のライブには参加できません……けれど、離れていても心は一緒ですわ。
応援しています。いつも、変わることなく……」
《第11章へつづく》
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