立ち上がり、また一礼した彼に、会場中から惜しみ無い拍手が送られていた。
ごく数人の例外を除いて。
そのごく数人に入ってしまった日向子は、ただ大きく目を見開いたまま、演奏を終えた彼の姿を見つめていた。
明確に思考を定めることも叶わず、ただただ魂を抜かれたように見つめていた。
司会者がゲストへの挨拶を促し、マイクを手渡す。
彼は会場中を見渡し、やがて、口を開く。
「謝罪しなければならないことが、2つあります」
思いもかけない一声に、ざわめきが起こっても、構うことなく彼は一気に言葉をつむいだ。
「今の曲はオリジナルではなく、友人の創った曲を編曲したものです。
まずはそのことをお詫びします。
そしてもう1つ……」
一度だけ深く呼吸し、はっきりと告げた。
「……雪乃漸は、釘宮高槻先生の後継を辞退致します」
《第10章 吸血鬼 -baptize-》【1】
より一層騒がしくなった周囲に構うことなく、漸は告白を続ける。
「おれは最初から釘宮家の財産と権威を目当てに先生に取り入った汚い人間です」
人前で自身を「おれは」と表現した彼は、クールで非情な仮面を脱ぎ去って、ナイーブな青年の素顔をさらけだしていた。
「おれみたいな卑しい男を家族として慕ってくれていた人を利用して、傷つけて……おれを仲間として受け入れてくれた人たちも、最後には裏切ってしまいました」
微かに震える声。
今にも泣き出しそうな瞳が、日向子の胸を締め付ける。
思わず飛び出して行って「もうやめて」と言いたくなるほどに。
けれどそうしたとしてもきっと彼は全てを語り終わるまでやめないだろう。
「……偉大な先生はそんなおれの浅はかな考えなどとうに見抜いていらっしゃって……見抜いて尚、おれを選んで下さいました」
日向子のすぐ傍らで、高槻もまた真っ直ぐに漸を見つめている。
漸は高槻の鋭い視線を受け止めたまま、更に言葉を紡ぎ出す。
「嘘に汚れた舌の根で、今更何を言っても無意味だと思います……だけどおれは、ピアニストの端くれとして、先生を本当に尊敬していました。
そのことを忘れてしまうほどに、自分の不純さや、亡くなった育ての父とも呼べる人への思いが、絶えず後ろめたさとなっておれの目を曇らせてきました」
いつの間にか会場は水を打ったような静けさに包まれ、誰もが漸の言葉に耳を傾けている。
「愚かにも今になってようやく、気が付きました。
自分を救ってくれたスノウ・ドームの人たちがおれにとってかけがえのない家族であるのと同じように、今はもう釘宮家の皆さんも……一緒にバンドをやってきた仲間たちも、おれにとってはもう家族そのものだったってことに」
日向子の中で、2つの面影がゆっくりと重なっていく。
小さな頃から側にいて守ってくれた生真面目な眼鏡の青年と、苦しい時にいつも明るい笑顔で元気づけてくれた優しいオレンジの髪の青年。
こんなに一緒にいたのに、どうして今まで気付くことができなかったのだろう。
「……蝉、様……」
何故か一滴、涙が溢れた。
「……スノウ・ドームに恩を返したい。だけどそのために大切な人たちに嘘をついたり、利用したりするのはもう耐えられないんです……。
それに、おれなんかが継いだら釘宮の名前が汚れてしまうから、だから、おれは後継者には到底なれません」
そして漸は自嘲の笑みを浮かべた。
「抱えきれもしないのに、ばかみたいに両手をめいっぱい広げて……おれは結局何も救えず、誰も守れず、一つも貫けなかった……最悪だ」
「……違う……」
日向子は思わず呟いた。
その瞬間、いきなりすっと眼前にマイクが突き出された。
「……え?」
「言いたいこと、あるんだろう? 言ってやりな」
ハスキーな声が発した言葉が日本語でなければ、外国人と勘違いしそうなほどすらりとした背丈の金髪の女性だった。
何故か男なりをして、サングラスを身に付けていたが、淡い色みのグロスでてかる潤んだ唇は間違いなく女性のそれだ。
反射的にマイクを受け取ってしまった後で、
「あなたは……」
どなたですか? ……と問おうとした日向子の髪をおもむろに撫でつける、長い指。
「蝉を頼んだ。多分知ってるだろうけど、あいつすごくいい奴だから」
その指でヒラヒラと「バイバイ」のサインをして、女性は行ってしまった。
一瞬追い掛けようとした日向子だったが、漸がステージから立ち去ろうとしているのに気付いて、慌ててマイクのスイッチを「ON」にした。
「待って!!」
静まり返った会場に響き渡る切迫した声は、蝉の足を止め、振り返らせた。
日向子は唇の前でしっかりとマイクを構え、蝉を見つめて口を開く。
「……自分を取り巻く全てを愛して、守りたいと思う……それがあなたの優しさの形ではなかったのですか?」
またわずかに会場がざわついた。
蝉は困惑をにじませながら、再びマイクを握り直す。
「おれは優しくなんかない……優柔不断で、強欲で、嘘吐きなだけだよ」
日向子は一拍間を空けて、微笑して見せる。
「それでもいいんです」
「……え?」
いぶかしげに見つめる漸に、日向子は優しく語りかけた。
「それでも、あなたは家族ですから。
わたくしにとっては雪乃も、蝉様も……今目の前にいるあなたも、大切な人です。
あなたがこれからどんな名前で、どんな生き方をしていくとしても……わたくしの気持ちは変わらないでしょう」
蝉はいよいよ泣き出しそうにくしゃくしゃと顔を歪めた。
「……日向子……ちゃん……けど、おれはもう釘宮の家にはいられないし、スノウ・ドームにだって帰れない……それに、heliodorも抜けたし……」
「はァ!!? おいこら、今なんつった!?」
マイクも通していないのにすこぶるよく通る声が、後ろのほうから響いてきた。
「heliodorを抜けていいなんて誰が言った!!」
それは日向子も漸もよく知る声だったが、しかしここにいる筈のない人物の声であった。
漸は呆けたようにその名を口にした。
「紅朱……??」
「いつまで練習サボってんだ、このバカ」
「……なんで……っていうか、その格好どうしたの??」
「うるせェな、どうだっていいだろ」
一目で「SIXS」の製品とわかる、ゴテゴテしているが品の良いゴシック調のフォーマルウエア。
見慣れないスタイルではあるが、その赤い髪を垂らした小柄な青年はどう見ても紅朱だ。
しかもその横で、周囲の目を気にしてキョロキョロしている黒髪の青年も、周囲の目なんか一切お構いなしにスイーツをばくばく食べている美少年も、どう見ても玄鳥と万楼だ。
その近くで、涼しい顔をして事のなりゆきを見守っている有砂が一枚噛んでいることは間違いなさそうだった。
紅朱は肩をいからせながらつかつかと前へ歩み出て、漸を見上げ、睨んだ。
「お前にどんな事情があんのか、未だにサッパリわかんねェけど……とにかく俺はリーダーとして、お前の脱退は認めねェ。わかったら、早く帰って来い」
物も言えずに立ち尽くす漸に、更に呼び掛けた者がいた。
「ゼン兄……!!」
れっきとした招待客として席が用意されていたにも関わらず、遅れて会場入りし、そのまま立ってステージを見ていたうづみが、高いヒールと重たいドレスをものともせずに走り、紅朱のすぐ側まで出て来た。
「もうスノウ・ドームに帰れない……なんて言わないで!!
ようやく目が覚めたの。私も、ゼン兄もきっと焦り過ぎてた……大切なものを守るためなら手段を選ばない、なんて……そんなやり方じゃあ結局大切な人を哀しませるばかりだったのよね。
私はこれから誰にも恥じないやり方でスノウ・ドームを守るつもりよ。
ゼン兄がいつでも帰って来れるように……!!」
うづみは彼女本来の力強く、眩しい笑顔を見せた。
「だからゼン兄もゼン兄らしく、ゼン兄が望む場所で生きて!!」
「……あ……」
漸はまだ半分ぼんやりとした様子で、立ち尽くしている。
heliodorにスノウ・ドーム。どちらも大切なもの。
そして失う覚悟を決めていたものだった。
嘘と裏切りを受け止めて、尚、帰って来いと言ってくれている。
そして。
胸を熱くしながらステージを見上げていた日向子の手から不意にマイクが奪われる。
「……えっ」
高槻だった。
「漸」
威厳に満ちた声が呼び掛け、漸ははっとしたようにそちらを見やった。
「……先生……」
「……お前の仲間はああ言っているが、お前はこれからどうするつもりだ?」
真実を真っ直ぐに問掛ける眼差しに射抜かれた漸は、ゆっくりと答える。
「……戻る、つもりです。先生の軽蔑する軽音楽の道に。heliodorのキーボーディスト・蝉に」
高槻は深く溜め息をつく。
「……私もあまり若くない。あと30年くらいは生きたいとは思っているが……」
だが声音はいつもよりずっと穏やかな雰囲気だった。
「私が健在の間は、好きなようにしなさい。
だが、私が死んだらお前が釘宮を継ぐのだ。
わかったな、漸」
「それは……あの……」
「わかったな」
「……はい……!」
高槻は大きく頷いて、マイクを日向子に返した。
マイクを受け取った日向子は再度ステージに呼び掛ける。
「わかりましたでしょう? あなたがみんな愛おしむのと同じように、みんなあなたを愛しているのだということ」
当初の予定とは随分変わってしまったが、こうして釘宮高槻の後継者は無事に衆目に披露され、正式に決定した。
しかし襲名するのはあと何十年か後になりそうだったが……。
そのままステージを降りた漸に、日向子とうづみ、そしてheliodorの面々が駆け寄り、取り囲んだ。
漸は色々な感情に胸をつまらせながら、真っ赤な顔をしている。
「……あの……おれ、もう何て言ったらいいんだか……」
「まあ、よくわかんねェがとりあえず、めでたしめでたしなんだろ?」
紅朱がふっと笑みを浮かべる。
「せっかくクリスマスに集まったんだ、これからどっかでパーティーでもしようぜ?」
「それは賛成だけど」
まだスイーツの皿を持ったままの万楼が口を挟む。
「いいの? まだ式は終わってないんだよね??」
「そういえば」
漸がぽつりと呟く。
「この後、日向子ちゃんの婚約発表だっけ」
当事者でありながらすっかり忘れていた日向子は、
「まあ、そういえばそうでしたわ。どういたしましょう」
と有砂を見た。
有砂は、何か気だるそうに息を吐いて、言った。
「とりあえず、延期でどうや?」
「延期!?」
玄鳥が半分声を裏返らせて叫んだ。
「延期って何ですか!? いずれは本当に婚約しようとでも言うんですか!!?」
「別に……ただ、そういうことにしておけば、お嬢がようわからん他の男と無理矢理結婚させられることはないやろう?」
「それは……」
確かにその通りだった。
形だけとはいえ、日向子に父親公認の恋人がいる以上、他の相手との縁談が持ち上がる心配はない。
「ねえ、あのさ……」
漸が口を開く。
「……つまり二人が、っていうのは……全部嘘、なの??」
日向子は苦笑いしてこくん、と頷いた。
漸は何故か少し安堵したように微笑した。
「そっか……」
《つづく》
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