「お祭りは中止ね」
思えば、自分から話し掛けたのは初めてだったかもしれない。
生徒玄関を出てすぐのところ、地面を叩く雨がかろうじて当たらない位置に立って、彼は空を見上げていた。
暗い空。
止まない水音。
「……あんた、2学期からはもう学校、来ないんでしょ?」
少しだけ歩み寄る。彼の後ろに。
「明日から夏休みだし、今日でお別れね。
それじゃ、さよなら」
そう告げて立ち去ろうとしたその時。
「雨なら止むよ」
キッパリと、放たれた言葉。
「……私にはそうは思えないけど」
「じゃあ、賭けるかい?」
アイン=ライスフェルトはゆっくりと振り返った。
「夕方までに雨が止んだら、君はユカタを着て僕とデートだ」
藍色の瞳は、暗い空の下でもキラキラ輝いている。
こんなにも切れ間なく空は泣いているのに、この男は笑っていた。
「……雨が止まなくて、私が勝ったら?」
「来年のFest(お祭り)に日本に帰って来て、僕がデートしてあげる」
「なにそれ……」
不覚にも吹き出してしまった。
自分の思い通りにならないものなど何もないとでもいうような、傲慢で、無邪気な笑顔。
「……そんな賭け、ありえない」
「Ja、それならマキナも、雨が止むほうに賭けてくれる?」
アインはもう一度、雲に覆われた低い空を見上げ、目に見えない何かを掴もうとするように手を伸ばした。
「虹が見たいな」
長い指先がすーっと、アーチの形を描く。
「日本の虹は、7色って本当?」
憎たらしくて、憎めない笑顔。
「さぞかし、綺麗なんだろうね」
その笑顔、虹を探す指、輝く藍色の瞳、アイン=ライスフェルトという男……。
「……綺麗、かもね」
……そうして、あの短い夏は始まったのだ。
序章 いつかその目に映る虹―Sternebogen― 【5】
「へえ……釘宮音楽大学のご出身なんですか」
「いえ。入りはしましたが、出てはいないんです。家の事情で中途退学しましたから」
電話ごしに聞くよりも更に耳ざわりのいい爽やかな美声。
「……なんだかもったいないですね。釘宮といえば日本の私立音大でもトップの名門なのでは……」
「そうですね……まあ、自分程度には、元々不釣り合いな場所だったんでしょう。負け惜しみではなく、それほど未練はなかったんです」
信号が赤になった。マキナはミラーに目をやり、後部座席の左に姿勢良く座った男・横山夕景(ヨコヤマ・ユウケイ)を改めて観察する。
マキナより3つ年上だという彼は、年齢以上に落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
手をかけてケアしていそうなアッシュグレイの髪は、清潔感のあるスッキリした短髪で、クセもなくサラサラしている。
体型は細身で、どちらかというと女性的な顔立ちをしていて、歌舞伎の女形などやらせてみたらはまりそうな容貌だ。
アクセサリーの類いはあまり好まないのか、時計くらいしか身につけておらず、シンプルなシャツにジーンズという、飾り気の一切ない地味な格好をしているのに関わらず、それが何故か様になっている。
口調や仕草から育ちの良さが滲み出ており、まるで「お忍びの王子様」のようだ……と、マキナは思った。
そして、奇妙なことに思い至った。
そういえば。
前にもどこかでこんなことを思った気がする。
随分昔に、彼とよく似た雰囲気の誰かに出会ったような……。
「おい、青だぜ?」
はっと我に返り、慌てて車を発進させる。
いつの間にか信号が変わっていたようだ。
「ぼーっとしてんじゃねえよ。危なっかしい女だな、お前。
日本の音楽シーン、いや全世界の宝を乗せてるって自覚持ってハンドル握ってやがんだろうなぁ?」
「はいはい、ごめんなさいね」
確かに、ぼんやりしていたのは認めるし、気付かせてもらったのはありがたいが、やはり少々カチンとくる。
横山夕景とは、頭の先から爪先まで何もかも正反対と言っていい男・富沢煉司(トミザワ・レンジ)。
後部座席の右側にドッカリ座り込んだ、頭の悪そうな狼男が、正式に「Sternebogen」のメンバーに決まったのはつい2日前のことだ。
最初こそアインの強引な押しになんだかんだとごねていたが、結局言いくるめられた格好だった。
決定的だったのは、対立候補だった筈の夕景の言葉。
「煉司くん……といえば、華やかで大胆なステージングで有名ですね。
彼のようなギタリストがいるのなら、確かに俺の出る幕は無いですね」
出会うなり、清々しい笑顔で誉め称えられた煉司は、すっかり気を良くして、「なんだよ、わかってんじゃねえか!!」云々と饒舌にまくし立て、気づけば暫定メンバー全員一致で加入決定となっていた。
そして。
「Sternebogen」には更に問題児が増えた。
マキナは思わず、ハンドルを切りながら嘆息した。
気まぐれでわがままなアイン。
無口無愛想な翠人。
おバカでうるさい煉司。
ついでに言えば、プロデューサーは音痴三冠王のスーパーマイペース。
そんな彼らをこれから先サポートして行かなければならないのだと思うと、頭が痛くなって来る。
とはいえ全く希望がないわけではない。
今のマキナにとっての希望は、2つ。
1つは彼。
横山夕景が加入したことだった。
ギタリストとして候補に上がっていた彼が、何故かキーボーディストとして。
「……あの、夕景さん」
「はい」
「何度も確認するようで申し訳ないんですけど……本当に、いいんですか?」
「『Sternebogen』への参加のことですか? それとも、パートチェンジについてですか?
……まあ、どちらにしても答えは同じなわけですが」
名門音楽大学にピアノ専攻で入学していたとはいえ、現在はギタリストとして主にスタジオミュージシャンをしていた夕景が、わざわざ楽器を持ちかえてまで「Sternebogen」に参加するというのはおかしな話だ。
「俺は、ギターという楽器自体に強い思い入れがあるわけではないんですから」
と、夕景は語っていたが、マキナの中には依然として釈然としないものが残っていた。
そうでありながら、その状況を受け入れてしまったのは、彼が極めて「まとも」だったからだ。
プロデューサーを含めて4人のクセ者が揃った「Sternebogen」。
先の苦労は目に見えている。
ならばせめて、苦労を共有する「まとも」な人材が1人くらい欲しい。
そこに希望を見出だしたい。
そんな思いが勝ってしまったのだ。
「俺は『Sternebogen』というプロジェクトにとても興味があります。
そこに加われるなら、担当パートなんて些末なことなんです」
そう断言する夕景に、安堵してしまっているのも事実だった。
デビューに向けて、時間に追われていることもある。
ここは奇特な人材に恵まれたことを、「幸運」と解釈するべきなのかもしれない。
とにもかくにもメンバーは4人集まった。
残るは1人、ドラム担当だ。
このたった1つの残った椅子に、出来るだけ「まとも」な人材をあてがうことができれば……それがマキナのもう1つの希望だった。
そして実は、マキナには1人あてがあった。
彼がそれを引き受けてくれるか、引き受けてくれたとして、藤群や他のメンバーが納得するかどうかはわからない。
とりあえず、本人と話だけでもしてみたい……そう判断し、今マキナは車を走らせている。
彼がサポートドラムとして参加している筈のライブハウスへと。
「ってゆーかよぉ」
煉司が口を開く。
「いい加減教えろよ。どんな野郎なんだー? お前が推薦するドラマーってのはよ」
「何度も言ってるでしょ? まだ藤群さんにも話してないし、正式にオファーを出すかどうかも未定なの。だから詳しくはまだ話せない。
今日だってあんたについて来いと言った覚えはないんだけど」
「夕景には言ったじゃねえか!!」
「それは夕景さんがリーダーだからよ」
「暫定、リーダーだろーがっ! オレ様はまだ認めてねぇ!!」
「はいはい、わかったから大人しくしてなさい」
夕景をリーダーにしてはどうか、と藤群に進言したのはマキナだった。
当然だ。最年長であるという点を除いても、バンドのリーダーを任せられるのは夕景しかいない。
今日も、とりあえずリーダーの夕景と2人で出掛ける予定だったのが、こそこそ話していた内容が、うっかり煉司の耳に入ってしまった。
自分もついて行くと言って聞かない煉司を、仕方なく同行させることになったのだ。
それでもアインや翠人がついて来るよりはよかったのかもしれない。
煉司はうるさいが単純で、あの2人よりは遥かに扱いやすい。
「俺は、事前に情報を入れて、先入観を持たないほうがいいような気がするけど」
などと夕景が言えば、
「……うっ……ま、まあ、そりゃ一理あんな……」
案外あっさり引く。
相手に理路整然と話されると弱いらしく、何も反論出来なくなるようだ。
早くも攻略法発見……マキナは心の中でニヤリとした。
コインパーキングに車を停め、入り組んだ狭路を縫うように歩いて、繁華街の外れ、小さなビルの地下にあるライブハウスの入り口へと3人はようやく辿り着いた。
「確かここは前に使ったなー。小規模だが、わりと音響のちゃんとしたハコだったぜ。スタッフの手際もよかったしなー。
けどオレ様があの時……」
地下に続く階段を降りながら延々と無駄口を叩く煉司を綺麗にスルーしつつ、マキナもまた、微かに音漏れの聞こえてくる、薄暗い階段へと踏み出そうとしていた。
「待った」
呼び止めたのは夕景だった。
「足元、見えにくいでしょう? 俺が先に下ります。万が一あなたが躓いても、大丈夫なように」
サラッと囁かれた言葉に一瞬、ビクッ、とマキナの肩が揺れる。
「……っ、平気です」
振り切るように、マキナは先頭で階段を降り始めた。
「あ……」
夕景は驚いたように短く声をもらしたが、
「……すいません」
謝罪の言葉を告げる。
それは棘のようにマキナに刺さる。
折角好意で言ってくれたのだから、素直に先に行ってもらうべきだったのかもしれない。
可愛いげのない行動だと自分でも思ったが、これはもう脊髄反射に近いもので、どうにもならない。
異性に気遣われたり、女性として興味を持たれたり、触られたりすると、途端に身体を電撃が駆け抜ける。
「男」が苦手なのだ。
アイン=ライスフェルトとの苦い思い出もひとつの理由だが、そのずっと前から、マキナは「男性不信」で、生理的にどこかで「嫌悪」していた。
理由は思い当たるが、あんまり考えないようにしている。
思い出しても気分が悪いだけだからだ。
人間対人間として向かい合う分には気にならない。
けれど、相手の中に「男」を感じてしまうともうダメなのだ。
たったあれだけのことでも動揺してしまう自分を心の中で笑い飛ばし、なるべく早く頭を切り換える。
見極めなければ……これから会う人物が「Sternebogen」の最後のメンバーとして相応しいかどうかを……。
判断出来るだろうか、感情に流されず。
未だ心のどこかで大きな引け目を感じる「彼」のことを。
「……西原天海(ニシハラ・アマミ)……」
薄闇の底に伸びる階段の入り口。
切れ長の目をした青年は、立ち尽くしたまま、思い詰めたように下へと降りて行く華奢な背中をじっと見つめていた。
「可哀想に……ずっと、君はひとりぼっちだね」
小さな呟き。そして、
「でも、大丈夫だ……」
ククク、と喉を鳴らして、彼は低く笑った。
「君の願いは、俺が全部叶えてあげる……そういう約束だろう? ……マキナ」
《第1章へつづく》
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