「……プロポーズを、なさったのですか?」
「ああ。本気でな」
紅朱はいたって真面目な顔で語る。
「俺は綾の父親になるつもりだった」
幼く淡い恋の記憶を辿る紅朱はそれを恥じらうどころか、誇らしげにすら見える。
「叔母様は、何と?」
日向子もそんな紅朱をもちろん嘲笑ったりしなかった。
「フラれた」
「まあ」
「幼稚園バッグ引っ掛けたガキに面と向かって、『年下には興味がないの。ごめんね』だってよ」
まるで今しがたの出来事を語るかのように不機嫌そうに口をへの字に曲げる紅朱に、日向子は微笑する。
「叔母様は……紅朱様を子供扱いなさらなかったのですね?」
紅朱もそれに、小さく笑った。
「そうだな。あの人はいつだって俺を一人の人間として扱ってくれた。
……もっとも、俺はやっぱりガキでしかなかったがな」
《第6章 11月のキャロル -May I fall in love with you?-》【5】
「紅朱、様……?」
意味深な言葉の意味を問おうとした日向子に、紅朱は笑って、おもむろに割箸を差し出した。
「……冷めるぞ、とりあえず食え」
「あ、はい。頂きますわ」
二人の前には少し前に運ばれてきたばかりの杉屋謹製牛丼とみそ汁、それにサラダがある。
ランチタイムを少し外した中途半端な時間のせいで、杉屋店内は比較的閑散としている。
向かい合ってもくもくと牛丼を食べるこの二人連れは、通りかかる度に店員にチラ見されている。
日向子は相変わらずこういった店が全く似合わないし、連れている男も相当ミスマッチである。
間違いなく、異色なのだ。
さながら月と太陽が同じ空で輝くような。
当の二人はそんなことを気にする様子もなかったが。
「たまごと絡めるとお味がまろやかになりますわね」
「うまいか?」
「はい、とっても」
「そうか。よかったな」
何とも和やかな空気をかもし出しながら、楽しそうに食事している。
「ところでお前は東京生まれの東京育ちなのか?」
お茶を呑みながら、ふと思い出したように紅朱が口を開いた。
「はい、そうですの。お母様は北海道の生まれですけれど」
「ふーん、オヤジさんとどうやって出会ったんだ? やっぱり親の決めた相手同士だったり、見合いとかか?」
「知り合ったのは病院ですわ」
「……病院?」
「お母様は看護婦でしたのよ。お父様が胃を患って入院した時に出会ったと聞きました」
紅朱は箸を止めて日向子を見やった。
「……もしかして病院ってのは、あの病院か?」
「はい。我が家のかかりつけの病院のことですわ」
紅朱にとっても、つい先日運びこまれたばかりの記憶も新しいあの病院。
「……もしかしてお前のおふくろさんて、普通の家の生まれだったりするか?」
「はい。お母様の実家は由緒ある家柄でもなければ、資産家でもありませんわ」
日向子は、紅朱が驚いた顔をするのも無理はないと思った。
日向子の話を聞いていれば、その父親は家柄や世間体を何より気にする厳格な人物というイメージを抱かざるをえない。
そしてそれは実際その通りなのだった。
「お母様が亡くなってからというもの、お父様は口酸っぱくおっしゃるようになりましたわ……人にはそれぞれ生きるべき世界があると。
生きるべき世界からはみだすと人は必ず不幸になると……。
お母様は、家の名に恥じない妻になろうと気を張りすぎて寿命を縮めたと思っていらっしゃるのかしら……」
平凡な家庭で生まれ育った女性が、名家……とりわけ釘宮のような特殊な家で生きていくのは、けして楽なことではなかっただろう。
若さと、抑えきれない想いにつき動かされて、周囲の反対を押し切って結婚した結果が、最愛の人に死に至るほどの苦労を背負わせることになったのだとしたら……父が深く後悔するのは無理もないことだ。
「……だからオヤジさんはお前がマスコミみたいな特殊な仕事についたり、俺たちみたいな連中と関わるのが面白くねェんだな」
「ええ……そうかもしれません」
娘を不幸にさせないためにあらゆる災いの種を遠ざけ、排除する。
いばら姫を呪いから守るために国中の糸車を燃やしてしまった王様のように。
「お前が時々変にお嬢様らしからぬ言動をとる理由はよくわかった」
紅朱は苦笑し、けれどすぐに真顔になった。
「……人にはそれぞれ生きるべき世界があるって意見は俺も賛成だな。そこからはみだすと不幸になるってのもわからなくはない。
……だがその世界、ってのは血筋や家柄で決まるもんじゃねェよ。生まれた瞬間から運命が決まるなんて俺は信じねェからな……だってガキは親を選べねェだろ?」
日向子は頷いた。
万楼や有砂のように親の都合に振り回されて苦労する者がいれば、玄鳥や蝉のようにあっけなく家族を失ってしまう者もいる。
とても理不尽な不幸を意思に関係なく背負わされる。
「生きるべき世界ってのは、生まれとは関係なく、生きながら自分で見付けるもんだと俺は思う。
より自分らしく、より気持ちよく生きることができる世界……俺にとってはheliodorだけどな」
日向子はまた頷いた。紅朱は満足そうに笑う。
「今heliodorを手放せば間違いなく俺は不幸になるだろうしな」
日向子には紅朱の語る「世界」に純粋に共感することができた。
「生きるべき世界で生きる」、それはその人のけして譲れない、大切な、心の真ん中にあるもを守って生きること。
それは簡単なようで難しいこと。
「メンバーも、ライブに来るファンもそれぞれが違う生きるべき世界を持ってるのかもしれねェが、少なくともheliodorの音楽を共有している間はな……繋がって、ひとつになる。
その瞬間の快感は半端ねェよな」
日向子は更にまた頷いた。
その感覚は、初めてheliodorと出会ったあの時から何度も感じてきた。
紅朱はいつの間にか空になった丼の縁に割箸を置きながら、日向子を見つめる。
「heliodorが好きか? 日向子」
「もちろんですわ」
「なら大丈夫だ……俺とお前の世界はちゃんと繋がってる」
heliodor……熱狂と歓喜、そして燃え盛る情熱と温かい想いを抱いた太陽の国。
二人の世界が交わる場所。
「わたくしにとって、heliodorはいつの間にか本当にかけがえのないものになってしまいましたわ」
今まで高山獅貴……伯爵への憧れだけが日向子の世界の中心だった。
伯爵にいつか食べてもらいたくて料理を練習し、伯爵を想う故に他の男性に興味を持つこともなく、伯爵のもとにたどり着くために父親と対立してまで音楽雑誌の記者を志し、伯爵と少しでも関係のあるものは何でも手を出し、ただ伯爵と再び出会うことだけを目的に生きてきたようなものだったのに。
今はもうそれだけではない。
「わたくしは記者を志してよかったと心より思いますわ」
紅朱はそんな日向子を、色素の薄い瞳で優しく見つめる。
「……確かにお前の記事は読んでるほうが恥ずかしくなるほど愛に満ちてるよな」
「まあ……お読み頂いてるのですか?」
「そりゃ読んでるさ、全員な」
日向子があまり大袈裟に驚いたので、紅朱はいかにも愉快そうに声をたてて笑った。
「いい加減しっかり自覚しろよ……俺たちはみんなお前が好きなんだ」
「好き……ですか」
「……あ」
大して深く意味もなく発した言葉を反芻されて、紅朱は今更のように、
「いや、好き……ってのは、変な意味じゃねェけど」
慌てて注釈する。
だがそのことがかえって日向子に「好き」という言葉を意識させた。
「……」
「おい、お前なんで無言で頬染めてんだよ」
「……え」
日向子は自分の頬に思わず手を当てた。
確かになんだか体温が少し上がった気がする。
温かいお味噌汁や、牛丼に振掛けた七味のせいではなく……。
紅朱は、何故かぼーっとしてしまっている日向子をじっと凝視した。
「……お前、まさかうちのメンバーの中に誰か気になる奴がいるのか?」
いきなりストレートにぶつけられた質問に、日向子はとっさに答えることができず、混乱してしまっていた。
その沈黙をどう受け止めたのか、紅朱はぐっと身を乗り出した。
「なあ、そうなのか? 誰だ? お前は誰が好きなんだ??」
「いえ、その……」
あまりの勢いに圧倒されて、日向子はどんどん思考回路を混線させていった。
「わたくし……わたくしは……伯爵様しか好きになりません……」
ほんの数ヵ月前まで真実だったそれは、まるでとってつけたような逃げの言い訳のようだった。
本当の気持ちを無意識に隠そうとしているかのような、建前の言葉。
自覚した瞬間に壊れてしまいそうな、微かな恋の兆しをその裏側に秘めた言葉。
「……そんなに高山獅貴が好きなのかよ」
紅朱はそれを文字通りに受け取って、不機嫌そうに目をそらした。
「……面白くねェ」
「紅朱様……」
冷めたお茶を飲み干すと、ようやくなんとか頭が回り始める。
「紅朱様は何故それほど伯爵様を嫌われるのですか?」
「お前こそあんな奴なんかのどこが好きなんだ」
紅朱は苛立ちを隠そうともせずに語気を荒げる。
「高山獅貴がどういう男かちゃんとわかってて言ってんのか?」
鋭い問掛けだった。
日向子にとって伯爵と過ごした時間など幼い頃のほんの数日間……それも真夜中の僅かな時間だけのこと。
伯爵のことをちゃんとわかっているなどとは間違っても言い切ることはできない。
「……わたくしは伯爵様のことをよく知らないかもしれません……だからこそ、近くに行って、もっと知りたいのです。
そして自分の気持ちも、確かめなくては……」
「……初恋なんて、綺麗なまんましまっておいたほうが幸せかもしれないぞ……?」
紅朱は呟く。
「……真実なんて、知らなくて済むなら知らないはうがいい……」
日向子に対してのみ向けられた言葉ではないように聞こえた。
それは玄鳥のことを言っているのだろうか?
それとも……彼自身が真実と引き替えに何か大切なものを壊してしまったということなのか。
誰にでも秘密があり、誰にでも苦悩があり……日向子はheliodorのメンバーたちを取材し、交流することで少しずつ彼等の真実を知ってきた。
ステージの上に立つ姿からは想像もできないほど、弱い一面も見てしまった。
そんなことは当たり前のことかもしれない。
彼等は普通の人間で、普通の……男、なのだから。
もしもあの颯爽として優雅で、欠点などなにもなさそうな伯爵にもそんな真実があるなら、日向子はやはり知りたいと思う。
それが例えば、耳を塞ぎたくなるような残酷な真実でも。
「……それでもわたくしは、伯爵様を好きになったことを悔やんだりは致しませんわ」
はっきりと告げた言葉に、紅朱はしばらくの沈黙の後で溜め息をついて、苦笑した。
「……強情な奴だ。オヤジさんの苦労が偲ばれるよな、まったく……」
「ふふふ」
「……まあいい。俺は負けてやる気はねェしな」
「……はい?」
「……あんな奴なんか忘れちまうくらい、夢中にさせてやるからな」
ファンなら腰が砕けるような美声の囁きに、日向子は目を丸くして固まった。
「……heliodorに、な!」
と紅朱が付け足す瞬間まで。
穏やかな時が流れていた。
しかしゆっくりと、カウントダウンは始まっている。
運命の日に向かって……。
《第7章につづく》
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