「ねえ。100円、頂戴」
なれなれしく肩を叩いてきた赤の他人。
「100円足りないんだ」
その赤の他人からのぶしつけな要求が、
「……100円?」
問答無用に黙殺されずに済んだのは、
「うん。412円と、あとはもうおっきいのしかないんだ」
単純に彼の笑顔が、可愛かったからだ。
「100円玉、キミは持っていないかな」
その笑顔に捕まった、彼女は重たくマスカラを重ねた睫毛を一瞬しばたかせた。
「え……えっと」
彼女がポケットに押し込んだコインケースの中身を思い出すよりも早く、
「はい100円!!」
前後左右から銀色のコインを乗せた掌が彼の前に差し出された。
合計四枚。
その持ち主たちはみんな「美少年と仲良くなる突然の大チャンス」に目がぎらついている。
「はは、東京の女の子ってみんな優しいんだな」
その美少年は、いよいよ嬉しそうに顔をほころばせた。
「どうもありがとう」
4枚の100円玉を、集めて握り締める。
そこにもう一枚、100円玉が差し出された。
肩を叩かれた彼女だった。
「よ、よかったら……」
美少年はそれも遠慮なく受け取ると、他の四枚と合わせてぎゅっと握った。
「やった。ドリンク代、浮いた」
「円」で「縁」を買った女の子たちは、さっと彼を取り囲んだ。
「ねえねえ、《東京の》、ってことはお兄さん遠征組?? このイベ」
「どのバンド見に来たの? あたしはねぇ、3ば」
「そのチケ、Bチケ? 前のほう場所とっといてあげるから一緒に見ない? 上手側のほ」
「ねえねえ、せっかくだからメアド交換しな~い? 赤外せ」
「あの、あたし、リサ。あなたは?」
聖徳太子のアビリティは身に付けていない美少年は、唯一聞き取れた最後の質問にだけ、ゆっくりと、答えた。質問者は、最初の少女だった。
「ボクの、名前? ……万楼(マロウ)、って呼んで」
#1・【万楼 ―2006・春―】
「あれ、帰るの? リサ」
「ううん。目当てのバンド終わったから、残りは後ろで見ようかなって」
「そうなんだ」
「……万楼、ライブハウスってあんまり慣れてない?」
「初めてなんだ」
開場時間まで万楼を質問ぜめにしていた「バンギャ」たちは、前方の似たような集団の中にめいめいに潜り込んで、もう薄闇の中でなくても見分けがつきそうになかった。
一方。機材の入れ換えを行う暗転したステージを、壁に寄りかかりながら見つめる万楼の、中性的で整った横顔は、すれ違う人をいつも少し振り向かせた。
リサは少しだけ得意気に、そんな万楼の隣に立った。
「高松から来たって言ってたよね」
「うん。飛行機で」
「万楼はリッチだね。あたしは金沢から。高速バスの夜行で」
「遠征、っていうんだっけ」
「うん。当たり前みたいにうちらは使うけど、改めて言われるとなんか仰々しい言葉だよね」
「カッコいいと思うよ」
万楼はそう言って、サラサラした直毛の髪をサイドかき上げる。
長い前髪の隙間からのぞく大きな瞳は、正面からではきっと直視できないほど眩く煌めく。
「ねえところで、携帯、ホントに持ってないの?」
「持ってないんだ。携帯もパソコンも」
「不便じゃないの?」
「なぜ? 昔はそんなものなかったのに、みんな平気だったよ」
「……万楼って、だいぶ変わってるね」
「そうかな」
「うん。変」
「変かぁ」
リサの言いようにも特に気を悪くするでもなく、万楼は、
「リサは東京のバンド、詳しいのかな」
ふと話題を変えてきた。
「《heliodor(ヘリオドール)》っていうバンド、知ってる?」
「ヘリオドール?」
シャン、とステージの上でセッティング中のシンバルが鳴った。
「ボクは本当はそのバンドを探しているんだ。だけど」
万楼の大きな瞳が微かに揺れた。
「ずっと前に活動休止して、行方がわからないって言われたんだ」
溜め息を吐いて、一瞬、唇を噛む。
彼が初めて見せたうかない表情だった。
「だけど、今日のイベントに出るバンドの、サポートギターの人が、heliodorのメンバーによく似てるから見てみたら?って言われたから」
「紅朱(コウシュ)に、似てるんだよね」
「知ってるの?」
「heliodorは、有名だからね。人気あったし」
「紅朱って人が、ギタリスト?」
「紅朱はボーカルだよ。ギタボ。でも」
リサはなぜか申し訳なさそうに声をひそめた。
「私は事故に遭って死んだって聞いたけど」
「……」
万楼はリサを振り返り、緩慢な動きで首を左右した。
「それは、困る」
「困るって言われても……あ」
「どうしたの?」
「多分、あの人がそうだよ。サポートギターの人。確かに顔は紅朱そっくりだから、ネットでも話題になってる」
リサはステージの上手を指差した。
なんとはなしに、オーディエンスにも波のようなどよめきがあったようだった。
ギターのチューニングをしているのは、20代前半くらいの細身の青年だった。
黒と思われる短い髪に、一部白いメッシュを入れている。
他のメンバーと同じようなカジュアルな黒いジャケットを羽織っていた。
「ペンギンみたいだ」
万楼がボソッと評した。
「ペンギンって……」
ほどなくしてステージを照明が照らし出し、人の塊がだっと前方に押し寄せる。SEと黄色い歓声がフェードインし、そしてアウトした。
鳴り出した演奏の音に負けないように万楼は少し声のトーンをあげる。
「紅朱って人とは本当に違うの?」
「……違うと思う」
「どうして?」
「紅朱より、ずっと巧いから」
「全っ然動かない」
「終演後のドリンクカウンターは混むからね」
「覚えておくよ」
ドリンクチケットを指先でもてあそびながら、万楼は小さく笑った。
一方通行の人波に揉まれながら、渋滞するロビーで立ち往生する二人は、やはりなんとなく注目を集めている気がした。
「リサ、あのペンギンさんと話をするにはどうしたらいいのかな?」
「う~ん……噂だと《待ち》しても、ほとんどスルーらしいからね」
「話せないの?」
「難しいかな。でも、万楼は男の子だし、警戒されにくいから、少しくらいなら聞いてくれるかもしれないよ」
「本当に!?」
久々に明るい表情に戻った万楼に、リサも笑った。そしてそっと手を差しのべた。
「ドリンクチケット、貸して。私が引き換えるから、万楼は先に行って待ってなよ。このハコなら多分、正面に向かって右奥の入り口からメンが出入りする筈だから、そこにいるといいんじゃないかな」
「いいの?」
「ペンギンさんと話せるといいね」
「ありがとう……!!」
お互いに今日一番の笑顔を浮かべた。
万楼からリサへ、ラミ加工された小さなチケットが渡される。
「メロンソーダにして」
「OK」
「お疲れ、玄鳥(クロト)」
「お疲れ様です。今日はありがとうございました」
右手に持ったプラスチックカップに入ったビールが傾いて、危うく溢れそうなくらい深く一礼する。
「勉強させてもらいました」
「何言ってんだ、こっちはお前に食われないかハラハラもんだったぜ」
「そんな」
「だな。お前はちゃんと自分の存在感を演出しながら、メインを引き立てるコツを得てる。大したギタリストだよ」
「……褒め過ぎですって」
いきなり手放しに称賛されて、玄鳥と呼ばれた青年は照れ臭そうに白メッシュの頭をかいた。
「……なんだか、紅朱が照れてるみたいでキモイな」
「……」
それに関してはノーコメントで、玄鳥はビールを口に運んだ。
「なあ、玄鳥」
同じようにビールをあおりながら、つい先刻同じステージに上がったボーカリストは、少し改まった声で問うた。
「heliodorはまだ動かないのか?」
玄鳥は吊り気味のアーモンド型の眼をすがめた。
「まだです。肝心のベースが……」
「やっぱり、《粋(スイ)》ほどのベーシストの代わりが務まる人間はそうはいないか」
「ええ……特に、有砂(アリサ)さんがなかなか納得してくれなくて。みんな、毎日日本中を飛び回ってますよ。オレもそうするべきなのかもしれないけど、それより今はこうやって少しでも経験を積みたいと思ってます……オレは兄貴の右腕ですから」
「そう、か」
残念そうに嘆息する先輩ミュージシャンに、玄鳥はカップを握る手に少し力を込めた。
人々は暗黒の空を見上げ、ひざまずいて待望する。
再びこの空に太陽が昇ることを。
「ペンギンさん!」
玄鳥が思わず振り返ってしまったのは、あまりにも呼ばれ慣れない名前だったからだろう。
すぐ側で誰かが吹き出したのがわかった。
「あの……オレ?」
「ペンギンさん、ペンギンさん」
「ペンギンさん」を連呼するとびきりの美少年に唖然としつつも、玄鳥はコホンとベタな咳払いをした。
「あの、オレはペンギンさんじゃ……」
「ペンギンさんは、本当は紅朱さんって人なの?」
直球な問掛けをぶつける美少年は、妙に真剣な顔付きだった。
「ボクは万楼。heliodorでベースを弾くために高松から来たんだよ」
「え……? 君は」
「ある人に、頼まれたんだ。だから……」
「heliodor」の名前を出したことで、ただでも目立っていた二人は一気に周囲の視線を集めていた。
それを察した玄鳥は、とっさに万楼の手首を掴んで引き寄せた。
「君、とりあえず一緒に来て……話を聞くから」
「その人なら、例の紅朱のソックリさんとどっかに行っちゃいましたよ。私もおっかけたんだけど、撒かれちゃった~」
「そう……ですか」
リサは両手にプラスチックのコップを持ったまま、人もまばらになり始めた搬入口に立ち尽くしていた。
「万楼……ペンギンさんと話せたのかな……」
もう一度会ってメロンソーダを渡せなかったのは残念だったが、リサには不思議な予感があった。
万楼にはいつかまた会える気がする。そしてその時彼は、もしかしたら「向こう側」かもしれないと。
どうしてそう思うかと聞かれれば、それは「バンギャの勘」というやつだろうか。
カップの中でたゆたう、透き通った鮮やかな緑の液体を、迷った挙句口に持っていった。
「……少なくとも、二割はあたしのだし」
潮騒の街からやってきたその少年こそが、最後の欠片だった。
一度は完成し、そしてあっけなく瓦解してしまった「太陽の国」を再び形造るための……。
明けない夜はない。
朝日はもうすぐ、世界を照らす。
《END》
PR