よく考えてみれば、そんなに長い間会わなかったわけではない。
しかし、向かい合う二人は数年ぶりに再会した元恋人同士のような、奇妙な緊張感を抱き、互いを見つめていた。
実際、今店内に入ってきた他の客はそう誤解したかもしれない。
「もう俺の顔なんか見たくないだろうと思ってました……」
玄鳥は苦笑する。
その笑い方は少し、伯爵を思わせた。
「それとも今日はそれを言うために会ってくれたんですかね」
《第12章 君に光が射すように -Love Songs-》【2】
「怒っているかいないかと問われればもちろん怒っていますわ」
日向子は少し大袈裟に「怒った顔」をして見せた。
「いくらなんでも理由もはっきりおっしゃらずに行っておしまいになるなんて」
玄鳥は困ったような顔で視線を少し逃がす。
「そうするしかなかったんです。俺は嘘が巧くないから、下手なごまかしは出来なくて……かと言って本当の気持ちを言ってしまったら意味がなくなってしまうから」
この玄鳥の態度は、日向子の中に少し前から芽生えつつあった、疑念に確信をもたらした。
「玄鳥様はわざと事を荒だてるような方法を選びましたのね?」
玄鳥は一瞬はっとしたように目を見開き、そしてうつむいた。
「……あなたに嫌われる覚悟ならとっくに出来てますからね……この際、あなたにだけは全てを打ち明けてもいいかもしれない」
日向子は静かに首を縦に一度振り、促すように玄鳥をじっと見つめた。
玄鳥もまた頷き返し、そしてゆっくり語り出した。
「俺は伯爵の夢のために利用されることを選んだわけじゃない……俺が伯爵を利用してるんです……自分の夢を叶えるために」
玄鳥の夢……言われて思い当たることが一つ、日向子の記憶にあった。
「紅朱様と……あなたのお兄様と勝負して勝つことですか?」
玄鳥がずっと苦しいくらいに求めながら、抑圧してきたせつなる願い。
「……はい。もうすぐ俺の《BLA-ICA》と、兄貴の《heliodor》で勝負ができる……俺の夢がとうとう叶いそうです」
玄鳥は極力感情を抑えて話そうとしているようだったが、その瞳、その声から隠しきれない興奮が伝わってくる。
彼はどこまでも隠し事の類は苦手だった。
「自分が伯爵と鳳蝶の血を引いた子どもだと知った時に、俺は二人を責めることが出来ませんでした。
むしろ憧れすら感じてしまったんです……その自らの欲望に対する純粋で真っ直ぐな生き方に。
そしてその血を受け継いでいるならきっと……俺にだって出来る筈だと思ったんです」
一言発する度にとめどなく込み上げてくる情動が、テーブルの上で組まれた玄鳥の両手を微かに震えさせている。
「そしてついに実行してしまいました……日向子さんとの約束を破って、仲間の信頼を裏切って……少しも後悔していない俺はまさしくあの人たちの息子なんです」
脱退したことを後悔していないと言い切った玄鳥には、確かに一片の迷いも見て取ることができなかった。
翼を大きく、強く広げて、籠の中から飛び立った鳥のように堂々として、生き生きとした姿だった。
このままその黒く大きな翼をはためかせて遠く、彼方の高い空に飛んで行ってしまうのだろうか。
あの寂しくも美しい銀の月が漂う虚空に。
玄鳥がより玄鳥らしく、自由に生きられるなら、それは素晴らしいことなのかもしれない。
しかし、日向子は胸の奥が苦しくて、仕方がなかった。
今口にしたとしても、きっと何の効力もないであろう言葉が喉元まで来てしまっていた。
《いかないで》
少し沈黙が発生したタイミングを見計らって、ウエイトレスが新しいティーポットを運んできた。
「お取替えさせて頂きます」
二人が何かヘビーな話をしているらしいと察した、まだ新人のウエイトレスは一刻も早く役目を果たして退散しようといささか焦っていたようだった。
「あっ」
ありえない致命的なミス。
持ってきたばかりの熱い紅茶の入ったポットがカタリと斜めに傾き、湯気の立つ中身が溢れ出した。
「きゃっ」
ウエイトレスの悲鳴。
それに重なるように、
「っ」
低く小さくうめく声。
呆然としていた日向子は、ポットの蓋がテーブルに落ちて音を立てたことでやっと我に返った。
「申し訳ありません……!!」
「いえ、お気遣いなく。なんともなかったですから。あなたは大丈夫でしたか?」
「あ、はい。ありがとうございます……本当に申し訳ありません」
平謝りするウエイトレスに笑顔を向ける玄鳥。
どうやら玄鳥がとっさにポットを押さえたおかげで大事にならなかったようだ。
テーブルが少し濡れただけで済んだ。
そのテーブルを綺麗に拭いて、ウエイトレスが行ってしまうと、
「玄鳥様……本当に大丈夫だったのですか?」
日向子は小声で尋ねた。
「ポット自体熱くなっていた筈ですわ……火傷をなさったのでは?」
「確かに少し熱かったですけど……本当に平気ですよ」
なんでもない、と掌を翻して見せる玄鳥の笑顔に、日向子は思わず小さく吹き出してしまった。
「日向子さん?」
「……ご運がよかったからよかったものの、もう少しで大切な手に火傷をなさるところでしたのよ」
日向子はわずかながら、そっと玄鳥の右手に触れた。
「……危険を犯してまで、名前も知らない女性を助けてしまう……そんなあなたもまた本当のあなたなのですわね」
「えっ、あの」
日向子に触れられていることに思いきり動揺し、目をパチパチさせる玄鳥。
「ひったくりの方からわたくしの鞄を取り返して下さった時もそうでしたものね」
かすり傷を負ったこの手に絆創膏を貼ったことを思い出す。
「あの……えっと……っ」
玄鳥は、見る間に顔を真っ赤に染め上げて、完全に麻痺した思考回路に言葉をつむぐこともできずにあわてふためく。
日向子はお構い無しに、玄鳥の手を自身の両手で包んで、ぎゅっと握る。
「わたくし……思い違いをしておりました。玄鳥様の大切な部分は何も変わっていらっしゃらないのに」
本当に玄鳥が自らの欲望だけに忠実に生きる利己的な人間ならば、他人のために大切な手を危険に晒すことなどしないだろう。
しかしこんな時、玄鳥はいつも考えるより先に動いてしまうのだ。
それもまた揺るぎのない、玄鳥……浅川綾の本質なのだろう。
「……あなたは優しい人です。そのあなたが非情に徹しなければならないほどの夢ならば、叶えるべきだと今は思います」
「……日向子さん……」
「ずっと自分の夢を胸の奥に閉じ込めて、我慢してきたのですから。時にはわがままを言ってもいいのではありませんか?」
heliodorを応援する立場の日向子にとって、玄鳥の行動を全肯定するようなその言葉は、矛盾に繋がるものかもしれなかった。
しかし玄鳥の強い決意に触れ、一方で本質的には何も変わらない無条件な他者への優しさを見て、日向子は純粋に玄鳥の夢も応援したいと思った。
玄鳥は困惑しきったように赤い顔のままうつむき、
「……日向子さんは俺のこと良くとらえ過ぎてますよ」
「玄鳥様はご自分のことを悪しざまに言い過ぎですわ」
玄鳥はそっと、少し力の緩んだ日向子の手から自身の手を遠ざけた。
椅子の背持たれに引っ掛けていたコートを手にとって、玄鳥は立ち上がる。
「理由はなんであれ、俺はheliodorを抜けて、違うバンドのメンバーになりました。
俺はもうあなたが応援してくれていた《heliodorの玄鳥》じゃない……だから俺にもう優しくしないで下さい」
「玄鳥様……」
そのまま伝票を手に行ってしまおうとする玄鳥に、思わず日向子も立ち上がり、歩み寄った。
「……そうでなかったら」
日向子の視界で、玄鳥が広げた黒いコートがふわりと波を描き、そのまま日向子の華奢な身体を包み込む。
玄鳥はそのままコートの端を引き寄せるようにして、日向子を引き寄せた。
「……このまま拐います。それでもいいんですか?」
斜め上から見下ろす瞳。その寂しげな輝きは、初恋の人と本当によく似ていた。
同じ道を歩くことができないと知りながら、儚い約束を口にしたあの人に。
「……日向子さんには、月より太陽のほうがずっとよく似合いますよ」
玄鳥は最後に優しく微笑んで、日向子を捕えたコートの戒めを解くと、そのコートを羽織り、ゆっくりときびすを返した……。
「おはようございます」
「よう」
ギターを抱えた紅朱の姿はまだ見慣れない。
紅朱のほうも完全に勘を取り戻すのは大変なのだろう。
連日にわたり、かつて玄鳥がよくそうしたように、一人他のメンバーより早くスタジオに入って練習していた。
「毎回毎回、お前まで早く来ることねェだろ」
「ご迷惑でしたかしら」
「そうは言ってねェよ……むしろ、なんつーか……助かる」
「はい?」
紅朱は指先でティアドロップ型のピックをいじくり回しながら、小声で呟いた。
「……プレッシャーがかかるんだよ……いい意味でな」
日向子の視線をその身に受け止めながら、また、真剣な顔付きで練習を開始する紅朱。
ほとばしる情熱の火の粉が目に見えそうだ……と日向子は思った。
《BLA-ICA》との対決はもう一週間後に迫っている。
戦いの舞台とその方法は、相手方から提示されていた。
同日同時刻に、渋谷区内の隣接する2つのライブハウスでそれぞれ無告知でライブを敢行する。
ライブの模様はリアルタイムで、同じく渋谷区内に隣接する街頭ビジョンで中継される。
最終的に、より動員数が多いほうが勝者となる。
ただし高山獅貴だけは、その圧倒的な知名度がまずあるため、勝負に影響を与えないために今回は参加せず、キーボードはサポートのメンバーに担当させるとのことだった。
伯爵のピアノを知っている日向子にとっては意外性はなくとも、彼がキーボードを弾くなどとは世間一般に認識されていないのだから、顔さえ隠せばそうそうバレることもないだろうが。
あえて不利とも言える条件を提示してきたのは、BLA-ICAは、自分を抜きにしてもheliodorを圧倒できるという自信があるからだろう。
BLA-ICAには高山獅貴のネームバリューを使うことが出来ないが、heliodorもまた、先日のいきなりの脱退劇を経て初めて四人でステージに上がる今回、どれだけのファンが予告もないライブに集まってくれるか……不安は残る。
玄鳥のいないheliodorと、伯爵のいないBLA-ICA……釣り合いは確かにとれているかもしれない。
紅朱たちも真剣だが、BLA-ICA……特に玄鳥は本気で勝負に出るに違いない。
ふと、紅朱に玄鳥の気持ちを伝えるべきか否か、日向子は思案した。
紅朱のほうは多分まだ、玄鳥が自分より高山獅貴を慕って脱退したと考えているのだろう。
他のメンバーたちも、浅川兄弟の秘密は知らないまでも、玄鳥の憧れの人が高山獅貴だったことはみんなわかっているのだから、多分同じように思っているに違いない。
玄鳥があえて言い訳もせず、そう思わせるようにして出て行ったからだ。
heliodorと対決することになった時、紅朱たちが情に流されて実力を発揮出来ないことがないように、わざと誤解させているのだ。
日向子はやはり、今はまだこの誤解を解いてはいけないだろうと感じていた。
理由を知ったら紅朱は、わざと玄鳥を勝たせようとしてしまうかもしれない。
それでは意味がないのだ。
仮に勝負をして、勝ったとしてもそれで玄鳥を連れ戻すことができるかどうかは結局のところわからない。
それでも今は、本気でぶつかり合うことそのものが彼等には必要なのだろう。
たどり着く結末がどんな形であれ、その全てを見守り、半年にわたるheliodorの取材の最後を締め括るレポートを仕上げる。
それが音楽記者・森久保日向子の使命だった。
《つづく》
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