「……というわけだケド、一応この件は玄鳥には内緒ってコトで!」
「そうだよね。玄鳥には絶対聞かせられないね……」
蝉の言葉に万楼はしきりに首を上下し、紅朱はしばらく考えた後、しれっと呟いた。
「まあ確かに……綾は真面目だからキレるかもしれないよな」
蝉と万楼は同時に紅朱をちらっと見て、顔を見合わせ、ひそひそ声で話し出した。
「マジだよ、この人……まだ玄鳥の気持ち気付いてない」
「あれで気付かないのリーダーとお姉さんくらいだよねぇ?」
「兄としてどーなんだろ、それ……」
「リーダーらしいと言えばリーダーらしいけど」
「なんだよ、何こそこそ喋ってんだよ。感じわりィぞ。俺も蚊帳の外か?」
少々苛立った様子の紅朱を振り返り、二人は綺麗にハモって言った。
「ないしょ」
《第2章 悪夢が眠るまで -solitude-》【5】
「そう……辞めるのね」
「ええ……元々契約は3年やし、潮時やと思いますんで」
「モデルの仕事は楽しくなかったかしら」
「……普通、かな」
「最高に可愛くない感想ね」
カップとソーサーがぶつかる、硬質な音が響き渡った。
「じゃあ……わたしは? 楽しくなかった?」
テーブルに肘をついて顎を乗せた薔子は、上目で有砂の涼しげな顔を見た。
「楽しくなくはないですけど……」
有砂はにこりともせずに答える。
「毎回毎回、最中に名前間違われるんは、流石に興冷めですね……」
薔子は目をすがめた。
「構わないと言ったのはあなたじゃなかった?」
「……」
「いいわ。追いすがるとか趣味じゃないの。終わりにしてあげる」
華やかな赤い唇に、どこか哀しげな笑みが浮かぶ。
「もう会うこともないかもしれないわね……わたしはあなたの『お義母さん』ですらなくなるんだから」
ネイルで彩られた左手の薬指には、リングがない。
「今度のママは、あなたより年下だそうよ。良かったわね、若いママができて……」
有砂は何も言わない。
「所詮わたしは、もう何年も前から名ばかりの女王だったわ……あなた、わたしをずっと憐れんでいたでしょう?
初めて会った時からずっとそんな目をしてたから、生意気で、許せないと思ってた。
だから汚してやろうと思ったのに、無駄だったみたい……当然よね。
赤く塗り潰しても白薔薇は白薔薇でしかないんだから……」
紫色の瞳から溢れた雫が、カップの水面に波紋を生じる。
「……お別れを言う前に謝っておくことがあるわ。
黙っていてごめんなさい……知らなかったでしょうけど、この数年間、あなた宛に何度か手紙をよこしてきたのよ……有砂ちゃん」
初めて有砂の顔にわずかな動揺が走った。
「……有砂が……?」
「全部、あの人が封も開けずに握り潰してたから、何が書いてあったのかも知らない。
……だけど、きっとあなたに会いたかっ」
「やめてくれ」
有砂はきゅっと目を閉じて頭を横に振った。
「……期待したくない……それ以上は聞きたないです……」
「中学生の頃の……本当のおかあさまとのこと、引きずっているのね」
「……」
「確かに……あなたが本格的に心を閉ざしたのはあれからだったものね」
どこか息苦しそうな顔で、有砂は視線を足元に落とした。
「……有砂のことはもうええ。会わないつもりです……もう永遠に」
「……あなたが『有砂』と名乗るのは、決別の証?
トラウマになっている名前を自ら名乗ることで、乗り越えたいの?」
「……そうです」
「そうね……決めるのはあなただと思う。だけど」
薔子は組んだ手に乗せていた顎を引いて、姿勢を正した。
「……これが本当に最後。義母親らしいこと、ひとつだけ言うわ」
涙で化粧が少し崩れた顔に、これまで有砂が見たことのないような優しい笑みが浮かぶ。
「いつまでも悪い夢に逃げ込んでいてはダメ。
あなたは幸せにならなくてはいけない人よ。
独りでは難しいなら……誰かを頼ったっていいんだから、ね」
しばしの沈黙の後、有砂はゆっくり立ち上がって、薔子の横を通り過ぎて行った。
薔子は振り返らない。
ドアを開けると、すぐ目の前に日向子が立っていた。
心配そうに有砂の顔を覗き込む仕草に、悪夢の中に置き去りにしていた幼い面影が重なって見えた。
有砂はまた一度きつく目を閉じて、部屋の中で、きっとまだ泣いている一人の女性に最後の言葉をかけた。
「……ありがとう。かあさん」
「でもなんだか惜しい気が致しますわ」
「……何が」
「モデルをなさっている有砂様も、なんだかいつもとは違った雰囲気でとても素敵でいらっしゃいましたもの。
わたくしも思わず見とれてしまいましたし」
サイドシートでにこにこしている日向子を横目で見て、有砂は呆れたように言った。
「ジブン、深く考えずに、誰にでもそういうこと言うクチやろう」
「まあ、そのようなことはないと思いますけれど」
「いや、無意識にゆーてる筈やで」
有砂の指摘は的確なものだったが、日向子には驚くほど自覚がなかった。
「まあ……オレは別にかまへんけどな。そういう発言を一々真に受けて舞い上がるアホもおるから、気ぃつけや」
日向子は相変わらず要領を得ないようなぽやんとした顔をしていたが、
「……でもわたくし、本当に有砂様は素敵だと思いますわ。
お背が高くていらっしゃって、スタイルがおよろしいから何を着てもお似合いですもの。
雰囲気も大人っぽくて落ち着いていらっしゃるし、話し方も静かで知的な感じが致しますわ。
それにステージでドラムを叩いていらっしゃる時など、本当に……」
「あーっ、だからそれをやめ、ゆーてるんやろ!」
「でもわたくしは……」
有砂が手の甲でダン、とウインドウを叩くと、日向子は流石にびっくりして止まった。
「……では、自粛致しますわ……」
隣で目をぱちぱちさせる日向子の耳に届かないような小声、有砂は、溜め息まじりで呟いた。
「……舞い上がらす気ぃか。アホ」
「そっかそっか、じゃあ原稿はなんとか間に合いそうなんだね」
「はい、蝉様へのインタビューは次回に持ち越しになってしまいそうですけれど」
いつものカフェから、編集部オフィスまでの帰り道、日向子は美々にここまでの取材の報告をしていた。
「いいんじゃない? リズム隊好きのドーリィは熱狂的なの多いし」
「どーりぃ? とはなんですの?」
日向子の知らない単語だった。
「heliodorのファンは自分たちのことをそう呼ぶんだよ。別にメンバーが認定したわけじゃないけど定着してるみたい」
「そうでしたの。美々お姉さまは本当に、heliodorのことをよくご存じですのね??」
「んー……別にそういうわけでもないんだけどね。実はライブだって行ったことないし」
「まあ、では今度のライブには是非ご一緒致しましょう!?」
「え~? いいよ、あたしは。最近またかなり忙しいしさ」
苦笑して手をひらつかせる美々に日向子は残念そうに肩を落とした。
「残念ですわ……」
「うん。ごめんね~」
そんなことを話しながらふと、二人は向こうからやってきた同じく二人組の若い男とすれ違いかけた。
「……あれ? 井上!?」
男の一人が立ち止まり、もう一人も遅れて立ち止まる。
続いて美々と日向子も立ち止まり、そちらを振り返る。
グレーのニット帽の男は、嬉しそうに美々に話しかける。
「ほら、高校ん時一緒だった田村だよ! わかんねぇかな?」
「田村……ってあの田村!? やばい、超久々じゃん! 元気!?」
どうやら高校時代の同級生の偶然の再会だったらしい。
日向子は楽しげな美々の姿を嬉しそうに見ていた。
「……ってことだからさ、忙しくても、もっと同窓会とか顔出せよな?」
「はいはい。わかったよ。じゃあね~、元気でね」
「おう。またな~!」
ハイテンションな長くはない立ち話が終わって、田村というらしい青年とその連れは去って行った。
「ごめん、待たせちゃって」
「いいえ、大丈夫ですわ。では編集部に戻りましょうか?」
また歩き出した日向子たちの遥か後方で、田村はまだ興奮さめやらぬ様子で連れと話していた。
「まさかこんなとこで会うとは思わなかったなぁ」
「あの子か~、お前が高校時代に告って玉砕した、クラス一番の美人って」
「そうそう、かなりイケてたろ!?」
「ま、確かに綺麗だよなぁ」
「同窓会来てくれたらオレまた狙っちゃおっかなぁ……マジでいい女だよなぁ……井上、有砂……!!」
「皆さん……俺に何か隠してませんか?」
玄鳥が思いきって口を開くと、めいめいに鳴らしていた音が一瞬ぷつんと止んで、また鳴り出した。
「兄貴?」
「さぁな……なんのことだかわかんねェな」
「蝉さん?」
「えっ? 何? 何言っちゃってんの? おれたち仲間じゃん! 隠し事なんかあるわけないない♪」
「……万楼?」
「聞こえなーい、ボク、ベースの音でなんにも聞こえなーい」
「……有砂さん?」
玄鳥が最後の一人を振り返ると、練習中にも関わらず何やら薄っぺらい雑誌をめくっていた。
「……って、何サボってるんですか!」
「しゃあないやろ、こっちは緊急に新しい仕事探さなあかんねんから」
「新しい仕事……?」
よく見れば、有砂がめくっているのはバイト求人情報のフリーペーパーだった。
「……有砂さん、モデルの仕事辞めちゃったんですか?」
「……辞めた。契約分はちゃんと働いたからな」
最後までめくり終わったフリーペーパーを投げ捨てて、有砂は欠伸をした。
「今更、時給何百円で働くのもなんやアホらしいな……」
時給何百円で絶賛労働中のメンバーたちは一斉に睨んだが、有砂は我関せずで呟く。
「……やっぱりあの件、お嬢に本気で頼んでみるか……」
「あの件?」
反芻する玄鳥。
有砂はスティックを握りながら、こともなげに言う。
「今のヤツよりかは口やかましくなくて、お嬢の仕事に理解のある運転手を雇う気はないか……って」
「ちょっ……有砂さっ」
「絶っっっ対ダメーーっ!!!」
玄鳥の声を遮って、蝉が絶叫した。
「そんなのおれは認めないぞっっっ!!」
「……リーダー、なんで蝉が取り乱すの?」
「俺が知るか」
ドラムセットに駆け寄って飛び付くようにして蝉は騒ぎ立てる。
「そんなこと冗談でも絶対言っちゃっダメだよっ! よっちん!! あの子うっかり快諾しかねないからっ!!」
「……へえ、そうなんや。ならホンマ頼んでみるか」
「よっちん……!!」
有砂はさながら威嚇するかのように、左手でシャン、とクラッシュライドを鳴らした。
「……口は災いの元。きっちり報復させてもらうで……抱き枕くん」
「あ」
有砂の身の毛がよだつほど不敵な笑みに、蝉は茫然自失となって凍りつくしかなかった。
《第3章につづく》
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