「ごめんね、お姉さん。今日の練習、蝉はいないんだ」
「まあ、どうなさったのですか? 蝉様」
「うーんとね……」
万楼は芸術品めいた綺麗な顔に、苦笑を刻んだ。
「なんか、家出しちゃったみたいなんだ」
予想を越えた告白に、日向子は手にしていたいつもの白いバッグをすとんと取り落とした。
「い……家出ですの!?」
「うん。有砂に置き手紙残して行ったみたい。
『原点に返って自分を見つめ直してくる』とかって。
玄鳥が携帯にかけたけど繋がらなかった」
日向子はバッグを拾い上げるのも忘れて、淡々とドラムセットの調整を行っている有砂にちょこちょこと駆け寄る。
「あの……蝉様が家出なさったというのは本当でしょうか」
「……そうみたいやな。バイクもなくなっとったし」
「昨日の蝉様に変わったところはございませんでしたか? 何かお悩みなのでは……」
心配に胸を痛める日向子を、有砂は相変わらずの無愛想な顔で見やった。
「……気になるなら、様子を見に行ったらどうや?
あいつは多分……『スノウ・ドーム』におる」
《第3章 林檎には罪を 口付けには罰を -impatience-》【2】
「『スノウ・ドーム』……」
「結構遠かったね。車とかバイクなら半分の時間で着くみたいだけど」
電車とバスを乗り継いで2時間半。
都会の喧騒から遠く離れた山沿いの土地にそれはあった。
どうやら小さい子供たちの手で作られた手書きの看板は、風雨にあせながらも独特の温かで素朴な雰囲気を漂わせていた。
その脇には、数十段にわたる石段があり、看板の矢印はその上を示している。
「この上のようですわね」
「結構急な階段だから気を付けてね。バッグ、持ってあげる」
万楼は日向子の手荷物をひょいっと取って階段を登り始めた。
「ありがとうございます、万楼様」
日向子もその斜め後ろに続く。
「……それにしても本当によろしかったのですか? わざわざご同行頂いて」
「うん。バイトも休みだし……ボクも蝉のことは気になるし」
「やはりそうですわよね」
「……それにさ」
万楼は少し首をひねって、どこか悪戯っぽい笑顔を日向子に向けた。
「たまにはお姉さんと二人っきりで遠くへ出掛けたかったから」
「万楼様……」
今日のようによく晴れた日の、秋の高い青空のように澄んで美しい微笑に、日向子は一瞬見とれていた。
「あの……わたくしも、万楼様とご一緒出来て嬉しいですわ」
「本当? よかった」
万楼はまた前を向き直って、流石はリズミカルに石段を蹴る。
「でも、お姉さんはこれがボクじゃなくてもそう言うよね、きっと」
日向子は思わず首を傾げる。
「……先日、有砂様に似たようなことを言われた気が致しますわ」
「ふうん……やっぱり思うことはみんな一緒なんだ」
少し遅れ出した日向子に合わせ、万楼は階段を登るペースを落とした。
「お姉さんって、ボクたち5人に徹底してニュートラルだよね……記者さんなんだから当たり前だけど」
「わたくしとしては意識してそうしているわけではないのですけれど……それはよくないことでしょうか?」
「ううん、多分それが正しいんだよ。だけど男としては、ちょっと聞いてみたいかな」
「はい……?」
「お姉さんは……heliodorのメンバーの中で、誰が一番好き??」
日向子は思わず足を止めて、秋風にサラサラと絹糸のような髪をなびかせる万楼の後頭部を凝視した。
「……誰が一番、好き、か……ですか? えっと……」
「ああ、ごめん。本当に悩まなくていいよ。答えられないのわかってるから」
万楼も立ち止まり、今度は身体ごとくるりと日向子を振り返った。
「みんな同じくらい好きならそれはそれでバランスが取れるからいいのかな」
確かに日向子には難しすぎる質問だった。
紅朱も、玄鳥も、蝉も、有砂も、そして万楼も……日向子にとってはみんな等しく尊敬と好意を抱く存在だからだ。
もちろん誰が欠けてもいけないし、誰か一人を贔屓するようなこともしてはいけないような気がしていた。
というより、本当に考えたことがなかったのだ。
「うまくお答えできなくて申し訳ありません……」
「だから、それはわかっていて聞いたんだって。謝らないで」
そう言って笑った万楼は、
「……ん?」
にわかにそれを打ち消して、視線を石段の上に向けた。
「万楼様……?」
「聞こえない? 音」
日向子は黙って、秋風に耳をこらした。
「……あ……」
風は、微かにだが聞き覚えのあるメロディを、二人のもとへ運んできていた。いくつもの甲高い笑い声をまじえて。
「この曲は確か……」
「うん。絶対そう……heliodorの曲だよ」
二人は顔を見合わせて頷き、万楼はバッグを持っていない手で日向子の手を握った。
「行こう」
「……はい」
強く握る手に導かれて、日向子は急ぎ足で石段の残りを駆け上がった。
《今更背伸びをしたところで
意味がないことを知っていた
僕らの視界は交わらないよ
見たい景色が違うから》
ギターを鳴らしながら、まだ幼さの残る少女が歌っている。
《今更約束したところで
果たせないことを知っていた
僕らの時間は重ならないよ
欲しい未来が違うから》
ベースとドラムを演奏するのも、それぞれ違う年頃の少女たちで、彼女たちが鳴らす音は、heliodorの楽曲を大幅にアレンジしたものとなっている。
原曲よりポップス色が強く、いかにも愛らしい少女たちによく似合うような編曲だ。
《わかり合えない絶望を
わかり合うこともできなくて
わかったようなことばかり
わけもわからずに》
それはかなりレベルの高いheliodorのコピーバンドのようだったが、その表現はあるいは適切ではないかもしれない。
なぜならキーボードのパートを奏でているのは、コピー元の本人だったからだ。
《林檎には罪を 口付けには罰を
僕たちはふがいない王子と姫
抱えた夢ほどは愛せなかったね
大事にもできなかった
棺の中に君を残して
今 この森を去ろう》
1コーラス目が終わった時、ふと周りを見渡したキーボーディストは、日向子と万楼に気付き、その指を止めた。
「日向子ちゃん……万楼……」
ともにステージに立っていた三人の少女たちも演奏を中止し、一斉に振り返る。
丸太を組んだ素朴な円形ステージの下に集まってはしゃいでいた10人ちょっとの小さな子供たちも、不思議そうにしている。
「蝉様……お会い出来てよかったですわ」
ほっとしている日向子とは裏腹に、蝉はどこか焦ったような顔をして、
「うづみちゃん」
ドラムを担当していた、20歳かそこらであろう黒髪を三つ編みにした眼鏡の少女へと声をかけた。
うづみというらしい、いかにも真面目そうなその少女は、蝉を見やって一度頷き、立ち上がってステージを降り、日向子と万楼のほうへやって来た。
「ようこそ、《スノウ・ドーム》へ」
うづみは微笑んで、言った。
「今日は私たち《heliometer(ヘリオメーター)》のライブの日です。
よかったら、こちらへ来て聞いて下さい」
ヘリオメーター……太陽儀を意味する名前。
日向子と万楼はまた顔を見合わせた。
「あれはさ、おれがプロデュースしたコピーバンドなんだよ」
誰もいなくなった丸太のステージに腰かけて、蝉が少し得意そうに言った。
「ドラムのうづみちゃん、ベースのいづみちゃん、ギタボのちづみちゃんの三人編制で、今日はおれがサポやってみたんだケド。いいカンジだったっしょ?」
「うん。よかった」
万楼が興奮した様子で頷いた。
「特にドラムの……うづみちゃん? 頑張ればプロで通じるんじゃないかな」
「マジで? それ本人に言ってやって。めちゃめちゃ喜ぶから」
日向子は楽しそうに話す二人を見て、改めて安堵していた。
蝉が家出したと聞いた時には、何か余程深い悩みがあってのことに違いないと思い心配していたが、少なくとも今見た限りでは、予想よりは遥かに元気そうだった。
「……ここが蝉様や有砂様が生活されていた場所ですのね」
「せっかくだから有砂も来ればよかったのに」
「ど~かな~」
蝉は苦笑する。
「ぶっちゃけ、うづみちゃんは、昔っからよっちんをライバル視してんだよね~……よっちんに対抗してドラム始めた子だからさぁ。
一緒に来てなくてある意味正解だったかも」
蝉の話では、三年前にスノウ・ドームの設立者だった園長先生が他界し、ドームの出身者でスタッフとして働いていたうづみが後を継いで実質上の経営者となっているらしい。
いづみは高校生、ちづみは中学生で、それぞれドームを出た後、学生ボランティアとして働いているということだった。
一方でheliodorの大ファンでもある三人はそれぞれ楽器を勉強し、蝉の協力を受けながら「heliometer」を結成した。
毎週日曜日に子どもたちの前でライブをするのが恒例行事だという。
「さながら、heliodorの妹分ですわね」
「うん、そんなカンジ☆」
蝉は本当に嬉しそうだ。
彼にとってこの場所と、それに関わるものがどれだけ愛しいものであるかを物語っている。
「……あの、蝉様」
話の流れが一段落したところで日向子は切り出した。
「……当分、こちらでお過ごしになるおつもりですか?」
蝉はゆっくり首を横に振った。
「……ううん。明日には帰るつもり。そんなにゆっくりはしてらんないんだよね……やんなきゃいけないこといっぱいあるし」
その表情にはどこか複雑な色が見てとれた。
「蝉、帰りたくなさそう」
万楼はそれを直球で指摘した。
蝉はまた首を左右する。
「そーゆーワケじゃないんだ。マジで。ただなんていうか……」
「……お疲れでいらっしゃいますのね?」
日向子は心から労るように言った。
「……蝉様には今休息が必要でいらっしゃるのだと思いますわ」
蝉は日向子をじっと見つめて、ふっと笑んだ。
どこか辛そうに。
「……そだね。多分ちょっと疲れちゃったんだ。……おれ、すごい欲張りだからさ……なんか一個捨てられれば楽になるのに、結局全部抱えちゃうんだよね」
憂いを宿した目線が、足元へと落ちた。
「だからおれは……何をやっても、中途半端なんだ」
「蝉様……?」
「皆さん、お食事の用意ができましたよ。
食堂へお集まり下さい」
沈んだ空気を撹拌するかのように、うずみの声が響いた。
蝉は一つ溜め息をついて、
「いこっか♪」
いつものように明るい声で二人を促し、腰かけていたステージを降りた。
日向子は微かな胸騒ぎを感じていた。
《つづく》
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