「……万楼様?」
「……」
「あの」
「……」
憂い顔の美少年は首を横に振った。
「ごめん。今のボクに優しくしないで」
「……」
来る時よりも閑散とした、ローカル線の車内は、とても静かだった。
一番端の席に座って、銀色のポールに頭を預けた万楼はほとんど口を開かなかった。
ただ時折、呟くようにこんな独り言を吐き捨てるばかりだ。
「……最悪だ。……ボクは、最悪だ……」
日向子はただその隣に座って、見つめていることしかできなかった。
《第3章 林檎には罪を 口付けには罰を -impatience-》【5】
「あ、おかえり……」
外から部屋の灯りを確認して、いることはわかっていたのだが、ひょこっと自室から顔を出した蝉を見て、有砂は鼻で笑った。
「……また、随分早いお帰りやな。一泊二日て、中坊でももう少し頑張るんちゃうか」
「だって二日も家空けたら、よっちん寂しくて泣いちゃうかなぁって」
「……もっかい叩き出したろうか」
「冗談だってば~」
有砂は鬱陶しそうに蝉を睨んで、それから、
「で?」
短く問いかけた。
その不親切なクエスチョンの意味を察して、蝉は答えた。
「おれはスノウ・ドームが大好きだった……ケド、今はheliodorも負けないくらい大切だし……どっちもおれの家族みたいなものだと思う。
それともう一人……おれのこと、家族って言ってくれるあの子のことも……」
蝉は目を細めて、大切な笑顔を思い浮かべる。
「今はもう、『釘宮』と切り離しても守りたいと思ってるから」
「……で?」
有砂は再度繰り返した。
蝉は小さく頷く。
「中途半端はしない。全部本気で、命がけで守るよ。……だから、heliodorのために日向子ちゃんを危ない目に遭わすのはやっぱりヤだ」
そして有砂が何か言う前に、続ける。
「あーっと……代替案はまだ特にナイんだケドさぁ……マジで超真剣に考えてっからー、ちょっと待ってくんない? ……ダメ?」
ぱちんと顔の前で掌を合わせて「お願ーい」とやりながら、恐る恐る有砂の顔を覗き込む蝉。
有砂は溜め息をつく。
「……下手の考え休むに似たり」
「うわっ、何それっ……おれの努力をあっさり否定ですか~!?」
「アホが無理してどうなるもんでもないやろ……そういうことは得意な人間に任せとけばええ、ゆーことや。
幸いうちのバンドには頭脳明晰な参謀がおるからな……そろそろ何か言ってくるやろ」
蝉が「そっか」、と短く呟いて、ある意味ほっとしたような、拍子抜けしたような顔をしていると、有砂は更にこう続けた。
「守りたい、と思う人間が自分だけやと思って油断せんことや……。
お前の大事なもんを、お前と同じくらい大事にしたい奴も中にはいてる」
「……じゃあね」
最寄り駅で先に降りようとした万楼の色白な手首を日向子は、とっさに掴んだ。
万楼は、
「……優しくしないでってば」
うつむいて呟いた。
日向子は慎重に言葉を選んで語りかける。
「万楼様……わたくしを助けることができなかったことを気になさっているのなら……」
「ごめん……次会う時には普通に戻っておくから。今日はこのままバイバイにして」
日向子は仕方なく手を離し、万楼はしまりかけたドアをくぐって電車を降りてしまった。
窓から心配そうに見つめる日向子を連れて電車が行ってしまうまで、万楼はホームにたたずんでいた。
そして電車が見えなくなると同時に、万楼はしゃがみこんだ。
「最悪だ……蝉がいなかったらお姉さん死んでたかもしれないのに……」
苦しそうにギュッと目をつぶって呟いた。
「……頭の中が蝉へのヤキモチでいっぱいなんて最悪だよ……!」
大きな鏡の前で少女がたたずんでいた。
彼女の普段の服装からは想像も難しいような、まるで商売女のような露出の高い黒いワンピースを着ている。
長い黒髪にはゆるゆるとウエーブがかかっていて、今しがたほどいた三編みのクセがしっかりと残っている。
鏡の前で少女は少しずつ、自分を着替えていく。
眼鏡をコンタクトに変えて、化粧っけのなかった顔に彩りをのせていく。
完成する頃には、鏡の前には少女はいなかった。
彼女は十分に成熟した身体と色香を持つ大人の女だった。
「……いづみ。私、ちゃんと綺麗?」
「うん……うづ姉は誰よりも綺麗だよ」
何故か寂しそうに微笑んで、制服姿の快活そうな女子高生は、敬愛する「姉」にファーのコートをかけた。
「……でも私が何をしているか知られたら、ゼン兄に嫌われちゃうね」
「うづ姉……」
「でもいい、私は嫌われてもいい。ゼン兄が自分のやりたいことを好きなように出来るようになるんだったら、私はそれ以上なんにも望まない」
華やかに着飾ったうづみは、迷いのない目で鏡の中の自分を見つめた。
「ちづみは私を白雪姫と呼んでくれたけど……悪魔と契った私はもう、魔女でしかないわね」
「うづ姉!」
いづみはうづみにすがりつくようにして抱きついた。
「大丈夫……何があっても味方だからね」
「……ありがとう。もう行かなきゃ……そろそろあの人が迎えに来る」
「……よりによって、あんな人と……本気で結婚するつもりなの?」
訴えるような目で見つめるいづみに、うづみは微笑んだ。
「他になかったから。スノウ・ドームを救済できるだけの資本力がある知り合いなんて」
うづみは化粧台の引き出しから、小さな黒い箱を取り出した。
開くと中には、複雑な細工で林檎の意匠をあしらった、シルバーのリングがある。
「ああいう人だから、取り入るのも難しくなかったしね」
箱の蓋を開いたところには、やはりシルバーでメッセージが記されている。
《Dear my SNOW-WHITE
From H.SAWASHIRO》
契約の証を左手の薬指にはめた「魔女」は、全ての罪を背負って今夜も安息の森を出て行った。
「お迎えが遅くなって申し訳ございません……お嬢様」
車から降りて恭しく礼をする雪乃を、日向子は黙ってじっと見つめた。
「……お嬢様?」
「……ごめんなさい。なんでもないの」
日向子はちらり、と自分の手首を見つめ、小さく溜め息をついた後車に乗り込んだ。
あれが雪乃だったと考えるにはあまりにも現実離れしている。
流石の日向子も、きっと夢を見ていたのだろうと思い始めていた。
「……お顔の色が優れないようにお見受けしますが、何かございましたか?」
運転席からの問掛けに、日向子は少し動揺した。
あんな危険なことがあったと勘付かれたら、散々怒られて父に告げ口されてしまうかもしれない。
「な……何も、何もありませんでしたわよ!」
「左様でございますか……では私の考えすぎということなのでしょう」
雪乃があまりあっけなく引き下がったので、日向子は少し驚いた。
雪乃は静かな口調で続けた。
「昨夜見た夢が気にかかっていたのやもしれません」
「……夢?」
「お嬢様が湖に落ちる夢です」
「……えっ」
驚いて、日向子は言葉を失った。
「慌てて水に入ってお助け致しましたが、ご無事を確認できるまでは生きた心地が致しませんでした」
「雪乃……」
今日の雪乃は、お説教以外では無口な彼にしては珍しく、少々饒舌なようだった。
「目が覚めた後も、あれはまことに夢だったかと疑いを抱いてしまうほど生々しい夢だったもので、よもやお嬢様の身に何かあったのではないかと心配しておりましたので」
その言葉を聞いて、日向子はなんとなく胸がいっぱいになった気がした。
「……わたくしも、そのような夢を見たような気がしますわ」
思わずくすくすと笑ってしまう。
「夢の中でまで雪乃は仕事熱心ですのね……あんまり無理はなさらないで」
「お嬢様こそ夢の中でまで無茶をなさらないで下さい。どれだけ心配させれば気がお済みですか」
「……ええ、ごめんなさい」
今度は日向子があっさりと引き下がり、雪乃を少し驚かせた。
日向子は少し間をおいて、
「この間、雪乃にわたくしの送迎を他の方に代行してもらってはどうかと相談したことがあったでしょう?」
「……はい」
「誰かに頼まれたと雪乃は思ったみたいですけれど、本当はわたくしがお願いしたのよ」
「……お嬢様が、ですか?」
「わたくしのこと、雪乃の負担になっているのではと思っていたから……。
ちょうど今お仕事を探している方がいらっしゃったのでお願いしてみたの」
日向子はさながら悪戯に失敗した子どものように笑っている。
「実はその方にも断られてしまったのですけれど」
「……断られた……のですか?」
「ええ、自分には荷が重いからと。
もし雪乃もそのほうがいいと思っているならもう一度お願いするつもりでしたけれど、多分また断られてしまったのではないかしら。
確か……わたくしのようなややこしい女の面倒を好んで見たがる物好きは、大変貴重だから大事にするように、というようなこともおっしゃっていましたわ」
「……」
「雪乃?」
「……それは……また随分な物言いをする方がいたものですね」
日向子をいつも通り送り届けた雪乃は、眼鏡を外すと、思いきりシートを後ろに倒して寝そべって伸びをした。
「……あ~っ……危なかった……今日という今日は超ヤバかった……」
いつ感情が氾濫して仮面にヒビが入ってしまうか気が気ではなかった。
「……あの子って……あんな可愛かったっけ……?」
もしかしたらこっそり口許がにやけてしまってたのではないかと思うくらいに。
「あいつもあいつだし~……まったく、ややこしい性格してんのどっちよ……」
「雪乃」モードをオフにして、車の天井を見上げながら、思う存分蝉は笑った。
笑って、笑って、気が済むと、ゆっくりシートを起こした。
携帯を、グローブボックスの中のプライベート用携帯と持ち換える際、蝉はラミネートのケースに入った古い写真を一緒に引っ張り出した。
小さなピアノの前で撮った、いかにもヤンチャそうな明るい笑顔の少年と、それを見守る優しそうな年輩の男性の写真。
蝉はそれを懐かしそうに見つめながら、囁くように言った。
「……お義父さん……おれ今かなり、生きてて良かったって思う……マジで、そう思うよ」
灯りもつけない真っ暗な部屋の中で、パソコンのモニターだけが光を放っている。
「絶対に……あなただけを不幸にはしないからね」
涙ぐんだような声と、カタカタとキーを叩く音が闇の中に溶けていく。
「それに……あの女だけ幸せになんてさせてたまるもんか」
渦を巻く負の感情とは裏腹な、無機質な文字が打ち出される。
《同士諸君
己の立場を利用して
heliodorに接近し
メンバーに必要以上に
干渉する傾向にある
危険人物を特定した
蓮芳出版の記者
「森久保 日向子」の
粛清をここに提案する》
「……これで、いいんだ……」
暗い微笑を浮かべて、少女は最後に自らの肩書きと名を、そこに記した。
《D-unite 会長 イヅミ》
今新たなる危機が、日向子に迫ろうとしていた。
《第4章へつづく》
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