「……はい、では、おやすみなさいませ」
終話ボタンを押して、日向子は1つ、吐息をついた。
ものの数分ではあったが、美々と電話で話したことである程度気は紛れた。
美々に託したお手製ケーキの評判は悪くなかったそうで、浅川兄弟も一口ずつは食べてくれたようだった。
「……蝉様にも、食べて頂きたかったですわね」
また溜め息が漏れる。
ガウンを羽織っても、冷たい空気が肌を刺すような二十日月の夜。
噴水庭園を臨むバルコニーの寒々しい景色は、いつかのパーティーの夜を思い出させる。
ここから見えるあの場所で、蝉とダンスしたのだ。今思い出しても夢のような出来事だ。
「……蝉様なら……こんな時、なんとおっしゃるかしら」
《第9章 嘘つきな彼等 -play-》【2】
朝、朝食の席に高槻や漸が同席することはなかった。
多忙な高槻が一緒に朝食をとることはもともと少なかったが、漸のほうはそうではない。
実家にいた頃は早起きが苦手な日向子を起こすところから、職場に送り届けるまで、特別な理由がない限り漸はいつも一緒だった。
その日々を、昨夜漸は「家族ごっこ」と言った。
家族ごっこは終わりなのだと……。
結局食事はろくに喉を通らずに、早々に退席した日向子を、
「お嬢様」
小原が呼び止めた。
「お嬢様、申し訳ございません。ご婚約の件は私からお嬢様にお話し申し上げるよう、漸様にきつく申しつけられておりましたものを……どうしても切り出せず、返ってお嬢様を驚かせてしまいましたようで」
白い頭のベテラン使用人のあまりにもしょぼくれた様子に、日向子は首を左右して微笑んで見せた。
「……確かに驚きましたけれど、遅かれ早かれいずれはこうなるのはわかっていましたもの」
避けては通れないのだ。
相応の家に嫁ぎ、平穏無事に生きることこそ日向子の幸せと信じる、頑固な父親との戦いは。
「小原、心配してくれてありがとう……けれど、表立ってわたくしをかばうことはなさらないでね。
あなたにはこれからもこの家を支えて頂きたいから……」
「お嬢様……」
わかっている。
二択なのだ。
父の決めた相手に嫁ぐが、あるいは……全てを捨ててこの家から逃げるか。
「お嬢様、どうぞ、思い余った行動を取られませぬように……まだ、チャンスがございます」
「……チャンス?」
「はい、本日お見えになるお嬢様の交際相手の男性が旦那様のお目に留まるようお祈りしておりますので」
「まあ」
漸のことばかり考えてすっかり忘れていたが、そういえばそんな話をしていた。
「では……今朝から屋敷の使用人たちがバタバタしているのは、もしや……」
「もちろん歓迎の準備にございます。旦那様のお言いつけでそれはもう念入りに……」
「お父様……!」
日頃はあまり察しが良いとは言えない日向子だが、流石に実父の考えはある程度読むことができた。
高槻はわざと盛大な歓待をするつもりなのだ。
免疫のない中流以下の男なら萎縮して逃げ出したくなるような……。
最終的にはうろたえている男の鼻先に大枚の手切れ金でもつきつけて帰らせるつもりなのだろう。
もっとも最初からはったりで言ってしまっただけのことなのだから、この準備は無駄になるだろうが。
「……お嬢様、お顔のお色が一段と優れないようですが……」
「……わたくし、ちょっとお部屋でピアノを弾いてまいります……」
日向子は心の中で、期待させてしまった小原や他の使用人に謝罪しながら自室へと向かう。
部屋に戻って少し心を落ち着けたら高槻ともう一度話そうと思った。
それでらちがあかないようなら、選択する。
運命の二者択一。
それに思い巡らせながら廊下を歩いていると、
「……あ」
けして狭くはない屋敷だというのに、何故遭遇してしまうのだろうか。
「雪乃……」
動揺する日向子と違い、漸は顔色一つ変えず、形式だけの会釈をすると、そのまま無言で通り過ぎようとした。
「ねえ」
日向子がそれを静かに呼び止める。
「……本当に、家族ごっこ……だったのですか?」
漸は立ち止まるが、日向子のほうを見ようとはしない。
「……わたくしを騙して、利用していたと?」
日向子は振り向かない背中に問掛ける。
「……それならばどうして、あなたのピアノの音は、いつもあんなに優しかったのですか?
たとえ言葉でいくつ嘘を列ねていたとしても、音楽は嘘をつかないのではなくて?」
「くだらないですね」
漸は日向子に背を向けたまま、きっぱりと言い放つ。
「……父親にあっさり見限られる程度の凡才のあなたが、音楽がどうのとこの私に説くなどばかげています」
「でも……っ」
更に言い募ろうとした瞬間、急ぎ足で近付いてくる靴音が耳に届いた。
「……お嬢様!」
今しがた別れたばかりの小原がいささか興奮した様子で飛んでくるのが見えた。
「お見えになりましてございます!」
「……はい?」
首を傾げる日向子に、小原は先程の言葉につくはずの主語を口にした。
「お嬢様の大切なお方にございます。さあ、早く応接室へ」
「え……?」
何のことやらさっぱりわからない日向子だったが、小原にせかされるまま応接室へと向かうよりなかった。
「……どうなっているのかしら……?」
日向子の姿が見えなくなると、小原は未だ興奮冷めやらぬ様子で呟いた。
「しかし、お嬢様のお相手がまさか……まこと不思議な巡り会わせでございます……これも奥様のお導きか……」
まだ立ち去っていなかった漸はいぶかしげにそんな小原を見やった。
「……どんな男だ?」
「使用人の教育がなってへんのちゃうか? ……お嬢」
「……はあ」
「人の顔を見るなりみんなで大騒ぎしよって、いたいけな小市民がいきなり問答無用でご令嬢のフィアンセにされてもうてるわけやけど」
当然だが、全ては小原たちの勘違いだった。
「申し訳ありません、有砂様……」
そう、応接室で待っていたのは有砂だったのだ。
話によれば屋敷の門の前に近付くや否やありえない数の使用人に取り囲まれ、名を名乗って(無論本名のほうである)日向子は在宅かと尋ねただけで勝手に勘違いされてしまっていたという。
「特に白髪のオッサンがなんやエライテンション上がってもうてたけど、一体どういうわけや? これは」
日向子は「申し訳ありませんでした」ともう一度謝罪し、ことの次第を説明した。
「……ある程度の事情は聞いとったけど……それはまた、難儀なことやな」
「そうですか……美々お姉さまから聞いていらっしゃいましたのね。……もしかして、わたくしを心配して来て下さったのですか?」
日向子の問いに、有砂は一拍間をおいて、
「そう、や」
と答えた。
日向子も一拍空けて、
「……ではないとするとなんでしょうか」
と返した。
「……ん?」
「わたくしは、これでもheliodorの番記者ですから」
本当に真実を突いていたならば、有砂の性格上絶対にあっさり肯定しない筈だということくらいは、もう日向子にもわかっている。
「本当の理由を追求されると面倒なことになるから、そういうことにしておこう、と思われましたのでしょう?」
自信たっぷりに尋ねる日向子に、有砂はふっと小さくシニカルな笑みを浮かべた。
「……まあ、否定はせんけど」
「うふふ、当たりましたわね」
日向子は予想が当たったことが嬉しくて、思わず微笑した。
その微笑を眺めながら、有砂はふっと笑みを打ち消した。
「……心配、してへんこともないけどな」
「え?」
日向子は更に言葉を重ねようとしたが、それを遮るように応接室のドアがノックされた。
「お嬢様」
ドアの向こうから小原の声がする。
「旦那様と漸様がいらっしゃいました」
日向子は一瞬びくっと肩をすくませて、有砂の顔を見た。
有砂は真意を読み取り難い表情を浮かべながらも、
「……本当のことを話すか? それともオレは『そういう』設定がええんか?」
「……え? えっと」
日向子にはっきりと返事をする間も与えず、ドアは開け放たれてしまっていた。
いかにも気難しい顔をした初老の男が、そしてスーツ姿の青年が順に入室する。
最後に小原が姿を見せ、
「当家の主人・釘宮高槻様、そしてその後継となられる釘宮漸様にございます」
と、有砂に向けて紹介する。
席から立ち上がった有砂は、ごく当たり障りのない口調で、
「……沢城、佳人……と申します」
と名乗り、
「……初めまして」
と最後に付け足した。
「……初めまして。沢城、さん」
漸が淡々とした口調で顔色一つ変えずに返す。
有砂は一瞬、目をすがめたが、何もなかったようにそれを消し去った。
高槻はしばらく黙ったまま有砂をしげしげと見つめていたが、
「……まあ、座りなさい」
そう短く促した。
有砂と日向子、高槻と漸。2対2で向かい合って席につくと、すぐに入れたてのお茶と、お菓子が運ばれてくる。
甘い香りを立てるテーブルの上で、さまざまな思惑と緊張感が交錯していた。
アールグレイの水面に視線を落として何かを考え込んでいるような有砂。
一言も声を発せず、お茶にもお菓子にも手をつけないまま対面の客を凝視する高槻。
それに倣うように沈黙を守ったままの漸。
日向子は三人を交互に見やりながら、
「あの」
最初に沈黙を破った。
「……お父様、雪乃、この方は……」
テーブルの下。真実の告白をしようとした日向子の、膝に乗せていた小さな手を大きな手が覆うようにして握った。
「っ、あり……」
「ご挨拶が大変遅くなり、申し訳ありません」
日向子の告白を制した有砂が、はっきりとした口調で告げる。
「すでにお聞きの通り、私は現在、日向子さんとお付き合いをさせて頂いています」
「ええっ……」
思わず叫びそうになる日向子の手を、有砂は更にぎゅっと力を込めて握る。
「……ぶしつけですが、単刀直入にお願い致します。
お嬢さんとの結婚を、認めては頂けませんでしょうか」
真剣な表情で高槻を見つめる有砂の横顔を、日向子は完全に絶句しながら見つめていた。
その向かいでは、漸が同じように驚きの色を微かに浮かべる。
有砂はそんな漸をちらりと見て、また高槻に視線を戻した。
「……佳人君、と言ったな」
高槻がゆっくりと口を開いた。
「……君のお父上は、知っているのかね?」
有砂は首を縦にした。
「はい。父も日向子さんのことをそれはもう……大変気に入ったようで」
確かに気に入られていたことは間違いなかった。
日向子の脳裏に先日のアトリエでの一件が蘇る。
あまりありがたい気に入られ方ではない。
日向子は有砂がどういうつもりなのかわからず戸惑い、そして何より心配していた。
眉間に深く皺を刻んだまま目をつぶった高槻は、その目を開けた瞬間どう出るだろうかと。
たとえ怒ってもいきなり手を出すことはないが、相手の全人格を否定するほどの辛辣な台詞が飛び出すかもしれないし、手切れ金を叩きつけて追い返すかもしれない。
漸も、そして当の有砂でさえも実際はそう考えていたのだ。
しかし。
高槻は両目を開くと同時に、聞き間違えようもない言葉を口にした。
「よろしい……認めよう」
有砂は言葉もなく眉尻を動かし、そのまま固まった。
「……は?」
「お父様、今……」
ぽかんとする日向子。
そして漸は完全にポーカーフェイスを打ち砕かれ、
「……先生……!…」
思わず立ち上がった。
「……一体、どういうことですか!?」
《つづく》
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