「ふふ……ちょっとくすぐったい……」
「……ごめん……もうちょっとやから」
「……うん、早くね」
「……ん」
一度淡い菫色に染まった不規則なタイルのような爪先に、更に鮮やかに二度目を重ねる。
湯上がりの、少しほてった桜色のくるぶしのあたりに手を添えて、元から先へと緻密に丁寧に染めていく。
一番最後まで終わると、そのまま甲に唇を落とす。
「あっ」
不意打ちに驚いた足先が暴れて、頬をしゅっとかすめる。
「……もう、佳人(ヨシヒト)ったら」
まだ乾いていなかったペディキュアは、佳人の頬に一筋、傷跡のようにその色を残した。
「やり直す……?」
「……もういいわよ、しょうがないわね……佳人は」
頬を彩る菫色を、柔らかい指先が辿る。
「……わたしももう待てないわ……夜が明けてしまうじゃない」
そのまま誘うように唇に触れた指先。佳人はその手首を取って、彼女をそのまま真新しいシーツの上に横倒し、バスローブごと背中から抱き締めた。
「……ふふふっ……やぁね……こどもみたい」
「オレはお子様やから……お人形が一緒やないと眠れへん………」
しゅるしゅると、布と布が擦れ合う音がした。
「……あら、男の子が、着せかえ人形遊びをするの?」
「……いや。オレは、脱がすだけ……」
#3・【有砂 ―2002・夏―】
「ありがとう、この辺でいいわ」
「……ん。ほなね」
「バイバイ。佳人」
着飾った彼女が角の向こうへと消えてから、そういえば名前を聞かなかったな、と思った。
もっとも、もう会うこともないだろうから別に構わないのだか。
なぜかそんなことをふと思い巡らせてしまったのだ。
そんな、運命の悪戯のような一瞬の間がなければ、
「よっちん!!」
この、偶然の再会は起こり得なかったのだろうか。
「やっぱよっちんじゃん♪ おれだよ、おれおれおれ☆」
その時はまだその手の詐欺が流行する前だったが、車に駆け寄ってきて飽きっぱなしだったウインドウに顔を寄せて「おれおれ」わめく男は、極めて胡散臭かった。
しかも頭の色はねっこから先まで綺麗なオレンジ色。それを長く伸ばして、かなり高い位置で黒いリボンで結わえている。
服装はラフなTシャツにブラックジーンズとはいえ、身体中にじゃらじゃらシルバーをぶら下げていたりと、かなりインパクトのある風貌だ。
もし先に佳人に「よっちん」と呼び掛けていなかったら、佳人は無言でウインドウを閉めて走り去っていたに違いなかった。
「……釘宮(クギミヤ)……?」
色のついたメガネの奥の人懐っこい笑顔は、確かに記憶の引き出しにあった。忘れたくても忘れられなかった、というほうが適当だろうか。
「よっ、久しぶり☆ 卒業式以来じゃんかぁ。よっちんてば全っ然変わってないし、超ウケんなぁ、ははは」
「……そか。ほんならな」
「おお、じゃあまたな~! ……って違うじゃん!! せっかくこうして再会したんだからさぁ、これからメシ行こうよ、メシ。はい、決定!」
「……はぁ??」
「しっかし、よっちんとはつくづく縁があるってゆーか……高校の入学式で発見した時もマジウケたもんなぁ。ははっ」
「……さっきらからウケるウケるってなんやジブン。他の表現はしらんのか」
「そのクールな切り返し、まさによっちん節ってカンジ♪ 懐いなぁ」
ランチメニューのハンバーグセットにがっつきながらハイテンションで一方的に喋りまくる相手を静かに見つめながら、佳人のほうも不本意ながら学生時代の記憶を呼び起こし、重ねていた。
あの頃から釘宮漸(クギミヤゼン)は、けして国語の成績が悪いわけでもないのに、こういう頭の悪い喋り方で、妙に楽しげに馴れ馴れしく話しかけてきた。
むしろそれよりずっと前、初めて会った時から、勝手に「よっちん」などとあだ名をつけてやたらと絡んできていた。全く変わらない男だ。
それからしばらく、付き合いで頼んだ安っぽいアイスコーヒーを飲みながら窓の向こうを眺めて、佳人はマシンガンのような声を右から左へ聞き流していた。
「……ところで、さっきよっちん女の人といたじゃん? あれ、よっちんの彼女?」
「……いや」
「あ、もしかして《有砂》ちゃん!?」
「……っ」
久々に聞かされた名前に、一瞬砂を噛んだような苦さを感じた。
「……あ、悪い。その感じだと……まだ有砂ちゃんとは……」
佳人の表情を読み、流石にトーンダウンする漸。一方の佳人はふっと小さく笑った。
「……もう一生会うことないやろ」
「そんなことないって! 家族なんだからいつかちゃんとわかり合える時がくるって! きっとまた一緒に……」
「……何が家族なんだから、や、ジブンは両親の顔も覚えてへんクセに」
「……それは」
虚をつかれたような顔をした漸を見て、今度は佳人が、
「……悪い」
短く謝罪した。
漸は首を横に振った。
「いや、よっちんの言う通りかもなぁ。マジごめん。おれ、ちょっと無神経だったな……。なあ……新しい家族とは、ちょっとは話とか出来るようになった?」
「……いや。高校出てからはほとんど家には帰ってへんから」
「じゃあ今は独り暮らしかぁ」
「……独り暮らしとは言われへんかなあ……別に、毎晩オンナんトコ泊まったり、車で寝たりしとるだけやから」
「はぁぁあ?? どんな社会人だよ。そんな生活ありえねー」
「ジブンこそどういう社会人や、その浮かれたアタマはなんやねん」
「おれ?」
漸は口の端にデミグラスソースをつけたままにっこり笑った。
「おれはほら、コレもんで」
両手の平をハンバーグの鉄板のほうに向けて、五指をランダムに動かすジェスチャー。
「IT企業にでも就職したか」
わかっていてわざとそう言ってみた。
「ンなわけないじゃん! オレがやってんのはバンド。キーボード弾いてんの。これでも一応プロ目指しててさ~」
「そう思っているなら、練習にはちゃんと参加してもらわないと困るんだがなぁ」
凛としたハスキーボイスがフロア内に響き、まるでリモコンのポーズボタンを押したように漸が静止した。
「す……すぃ」
女、だった。
とはいえ背丈は170以上ありそうな上、メンズかユニセックスと思われる、色気のないタンクトップの下は凹凸の少ないスレンダーな体躯らしく、ともすれば中性的な美男子にも見えなくはない。
しかもこの口調にこの威圧感だ。
「貴様、何度携帯に電話したと思っている。もうとっくに待ち合わせの時間は過ぎているぞ」
「いや、あの……」
テーブルの横に仁王立ちして漸を睨みつけている大迫力の女。その気迫に、バイト店員たちも「他のお客様のご迷惑になりますので」のきっかけを見い出せずにまごまごしている。
「粋(スイ)、あの……これにはワケがあって~」
「何だ。聞いてやる。言ってみろ」
佳人は半ば気圧されながら、二人のやりとりを見守っていた。
漸はおもいっきりうろたえながら慌ただしく目線を泳がせる。
必死に言い訳を検討しているらしかった。
そのうちにぱっと佳人と目が合い、途端ににっこり笑った。
嫌な予感がした。
「実はこいつをスカウトしてたんだ~」
「スカウト?」
佳人は粋と呼ばれた女と綺麗にハモって反芻した。
「そう、こいつ沢城佳人(サワシロ・ヨシヒト)っていって、高校の軽音部時代の仲間で、ドラム担当だったヤツなんだ♪」
「釘みッ……」
「ホントのコトじゃん」
粋は切長の綺麗な目を佳人に向けた。
「そうなのか?」
「まあ……一応」
ただし佳人は半分無理矢理漸に入部させられて、部室に顔を出すこともほとんどない幽霊部員だったのだが。
「粋、固定のドラム欲しいって前から言ってたじゃん。だからさぁ」
「ほう、成程」
「……釘宮、お前何ゆーて」
「それなら早速今日の練習に付き合って貰うか」
「おい!」
当事者の意志を確認することもなく、なんだか勝手に話が進んでいる。
「……いいから! とりあえず付き合って! なっ。おれ会計してくる。コーヒー代出しとくよん♪」
「釘宮っ」
伝票を持って駆けていく漸を追い掛けようと立ち上がったせつな、
「……悪いな、あんた。巻き込んで」
粋がさっきまでとはうって変わった穏やかな声で話しかけてきた。
「……スカウトってのはあいつのデタラメだろ。大方高校の同級生にばったり出くわして、懐かしくて話し込んでしまった。そんなところか」
呆れたような笑みを浮かべる。
「……気付いとったならなんでゆーたらんのです?」
「蝉(ゼン)はバンドの仲間だからな。その友人なら私も興味がある。本当にドラムをやっていたならどれほどのものか聞いてみたいしな」
「……別にただ、あの頃部にドラムを叩けるヤツがほとんどおらんかったから……釘宮がオレに頼んできたってだけですから」
「名指しで頼んだ、ということはあんた……ドラム経験者だったんだろ?」
鋭いツッコミが回り込むようにして佳人を少しずつ追い込む。
「……中学時代にかじっとっただけです。ガキの遊びですよ」
「ウソばっかり。ものすごーくガチでやってたクセに。隠さなくてもいいじゃん」
いつの間にか会計を済ませた漸が、釣り銭をしまいながら戻ってきた。
「スゴい真剣に、でも楽しそうにドラムやってたよっちんを知ってるから、おれは誘ったんだけどな~」
まるで古い日記を他人に無断で紐解かれたような気分を味わいながら、佳人は視線を床に落とした。
「……だとしても昔のことや」
「その情熱はもう冷めてしまった?」
粋が、べりーショートのサイドを少しかき上げながら笑う。
「……私がもう一度惚れさせてやろうか?」
心臓を射すくめるような、眩しい微笑だった。
「今度は一生抜け出せなくしてやるよ」
今まで受けてきたどの口説き台詞より脳髄を痺れさせる、甘く、キツイ毒を含んだ言葉だった。
太陽はもうすぐ南中に昇りつめようとしていた。
それは栄光の時。
束の間の黄金の季節。
もっとも高いところを過ぎ、もっとも暑い時が過ぎたら、そのあとはただ黄昏の闇へと静かに落ちていくしかないということを、まだ人々は忘れている。
《END》
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