絞り出すような震えた声で言った。
「……どうしてわざわざ俺にそれを教えに来やがった」
もしも知らなければ。
何も知らなければ。
疑うこともなく。
いつまでもいられたのかもしれない。
偽りだったとしても。
それを、真実と信じて。
「……お前が苦しんであがくところが見たいんだ。俺はサディストだからな」
「……っ」
投げつけた質素な花束が、肩口に当たって、花弁を散らしながら落ちたが、男は構わずに冷笑する。
「お前の前に道は二つしかない。音楽を捨てて俺から逃げるか、音楽で俺を越えてみせるか、だ。さあ、どうする? ……錦(ニシキ)」
金色の太陽が、世界をあまねく照らす時がきたら。
吸血鬼は灰に還るのだろうか。
#5・【紅朱 ―2007・春―】
「ねえ、リーダー」
「なんだ?」
「今日でボクは一年目だ」
「……ああ、そういうことか」
万楼(マロウ)と名乗る風変わりな少年が、遠く四国からやって来た日。
heliodorのベーシストになりたい。
いや、ならなくてはいけないと少年は言った。
「リーダーは、とりあえず一年間ボクを使ってくれると言った。ボクは、どうだった?」
紅朱と万楼が二人きりになることは普段ほとんどない。
ただミーティングにはいつも真っ先に来て待っている玄鳥(クロト)が珍しく遅れ気味で、その次に早い二人が先に待ち合わせのカフェにいたというだけ。
この二人が二人きりになるという状況は、少なくとも紅朱には気まずいものだった。
「……まあまあだな」
自分の言葉に、棘があることには気付いていた。
いつも万楼に対してはこうなってしまう。
「……もうしばらくは使ってやってもいい」
「……よかった」
笑顔で胸を撫で下ろす万楼は、本当は傷付いているのだろうか。
「……ボクはまだここにいていいんだ」
メンバーも、ファンも、同業者すらも、今や万楼の力を認めている。
認められないのはリーダー……紅朱(コウシュ)だけだった。
認めてやりたいと思っているのに、いつも突き放してしまう。
真っ直ぐ向き合うことができない。
決着をつけられない。
別れすらも告げられず、理由も知らされずに終わってしまった絆が縛る。
右手にギターを。
左手に、彼女を。
あの日々はもう、過去になってしまったのに。
それでもこのまま忘れてしまうことは、何か大きなものを手放すようで恐ろしい。
心の奥の大切な部分が、うつろになってしまったら……遠い昔に立てた誓いすらも崩れてしまいそうで。
「リーダーって、強い人だね」
しかし紅朱が思い知ったのと逆のことを、万楼はあっさりと口にした。
「きっと忘れてしまえば楽になるのに、ずっと忘れないでいるんだよね」
まだ水とおしぼりしか置かれていないテーブルの上に、万楼はそっとポケットから取り出したものを乗せた。
「この子は忘れてしまった。きっと、覚えていることが怖かったから、忘れることにしたんだ」
サブウインドウの欠け落ちた、錆びと傷だらけのシルバーの「携帯電話」。
「そしてボクも……」
「記憶の欠落はお前のせいじゃねェだろ……それに、携帯はもう直らねェけど、お前はそうじゃねェからな」
「うん。ボク、頑張って思い出すよ。だから……もう少しだけボクをここにいさせてね」
紅朱は舌打ちした。万楼に対してではなく自分自身に。
フォローのつもりで口にした言葉すら所詮は利己的なものだった。
こうしてこれからも利用していくつもりのか。
鮮やかな粋の面影を持つ都合のよいベーシストとして。
いつか粋を取り戻すための、重要な手掛りとして。
万楼は一度もそれに不満をもらしたことなどなかった。
だが本当は万楼とて一人の仲間としてバンドに受け入れてほしいと思わない筈がない。
いつまでも形だけの正式メンバーでいいわけがない。
万楼はそれ以上その話題には触れず、メニューを広げて、にこにこしながらスイーツの品定めを始めた。
「有砂(アリサ)は、今日も遅いかな。有砂が来る前にパフェ食べておこうかなぁ」
「……残念やったな、今すぐそのページは閉じてもらうで」
欠伸をしながら現れた有砂が、万楼の隣に座るや否やスイーツのページをめくって隠してしまう。
「あ。なんだ今日は早いね」
実際には30分近く遅刻しているのだが、有砂にしては確かに早かった。
だがそれよりも入ってくるタイミングが良すぎる。
案外二人が話しているのを見て、一段落する頃を見計らって入ってきたのかもしれない。
個人主義者のような顔をしているが、案外周りの空気には敏感な男だ。
「有砂、甘いものが嫌いだなんて人生を半分損してると思うよ」
「ジブンこそせいぜい糖尿病には気ぃつけることやな」
「あは、心配してくれてありがとう」
「……あのなぁ」
少々わかりにくい態度をとってはいるが、有砂は万楼を可愛がっている。
バンドのリーダーとして有砂を五年間見てきた紅朱にはよくわかる。
「じゃあやっぱりメロンソーダかなあ」
楽しそうにメニューを眺める万楼を横で見ている姿は、まるで面倒見のいい兄のようですらある。
「うぁ、ラブラブ~。おれちょっとジェラシーなんだケド」
「……アホか。どんな第一声や」
続いてやって来た蝉(ゼン) が他の客には若干迷惑であろうテンションで、紅朱の隣に座った。
「よっちん、万楼ばっか構うしさ~、長年育んだおれとの愛はどこいっちゃったのって感じ??」
「しかし、玄鳥が遅刻とは、今年の夏も異常気象確定やな」
「え、普通にスルー?」
「ああ……妙だな」
「ねえ……誰かツッコんでよ」
「とりあえずオーダーしようよ。ボク、やっぱりメロンソーダ!!」
「しくしく」
「ごめんなさい!!」
玄鳥がカフェに到着した頃には、テーブルの上のコーラと、メロンソーダと、ブレンドコーヒーと、オレンジジュースが半分以上減った頃だった。
「ホントにすいません!」
気の毒なくらい慌てながらぺこぺこ頭を下げる玄鳥だったが、遅刻を責めようとする者はいなかった。
待ち惚けしたメンバーのうち二人は常習犯、他の二人も、ことがイレギュラー過ぎたので腹を立てるよりも心配や好奇心が先に立つ。
「何かあったのか?」
代表して問う実兄に、弟は苦笑いする。
「……ごめん。えっと……寝坊」
「綾(アヤ)」
少し口調を硬質なものに転じる。
「別に遅刻はいい。でも下手な嘘をつくのは気にいらねェ」
その瞬間、玄鳥の顔に明らかな動揺が走った。
全員がそれを黙って見守る。
紅朱が指摘するまでもない。玄鳥はheliodorで一番嘘をつくのが苦手な男だ。
「正直に言えねェような理由か?」
更に問いつめた。
いつもの玄鳥ならここで諦めて、本当のことを打ち明けるのだが、
「……対した理由じゃないよ……遅れたのはホントにごめんなさい。ミーティング、始めましょう」
「……綾?」
もう一度問おうとした紅朱から、玄鳥はさりげなく目をそらした。
「ま、いんじゃない?」
あっけらかんとした口調で蝉が間に入ってきた。
「玄鳥だっていい大人なんだし、さ。紅朱だって、弟に言えないことの一つや二つあるっしょ?」
「っ」
目の前に、あの景色が広がった気がした。
強風が砂埃を舞いあげて、灰色にくすんだ小さな墓地の風景。
舞い散る花びらと。
嘲笑う声。
「……綾は、そのこと知ってんのかよ」
「……もちろん知らないだろう。別に俺が教えてやってもいいが」
ざりっ……と砂利を踏みしめた。
「……言うな。言ったらお前を殺してやる。絶対に殺す……」
誰かに対してこんなに怒りを燃やしたことは今までなかった。
「浅川錦」の人生を、今まで、と、これから、に分けた風の午後。
「殺せないさ。……俺は吸血鬼だから」
「……兄貴?」
自分とほとんど同じ造りの顔が、自分には絶対にできそうもない表情で顔をのぞきこむ。
「ごめん……あの……そのうち、話すよ」
記憶に捕まって沈黙してしまったのを、気分を害したからだと受け取ったのだろう。
「いや、もういい。早く座れよ」
言えないことの一つや二つ。
確かにある。
玄鳥に隠していることが、紅朱には二つあった。
どちらもこのまま墓まで持っていくつもりの秘密だ。
だがもしかしたらこの時。
もう少し強く玄鳥を問いつめていたら、数ヵ月後に発生するあの事件は起きなかったかもしれないが……。
太陽の光は強まるほどに、濃い影を生む。
「欠落感」という影。
「劣等感」という影。
「孤独感」という影。
「焦燥感」という影。
そして、
「執着心」という影。
白昼にあっても、そこには宵闇の王が棲んでいるのかもしれない。
その暗黒に光を投じる者がやがて現れることに、彼らはまだ気付いていない。。
そして彼女もまた……。
「美々(ミミ)お姉様、わたくし、とうとう念願の独り暮らしを始めましてよ」
紅朱たちの席の対角線上にある、最も遠い席では呑気で優雅なティータイムが繰り広げられていた。
「えッ、ホントに? よかったじゃない。よくパパさんからオッケー出たね」
「ふふふ。わたくしの熱意に、お父様もとうとう根負けされましたの。これで気兼ねなくベッドルームにもダイニングにもリビングにも好きなだけ伯爵(カウント)様のポスターを貼ることができるというものですわ!」
「はいはい、まったく……あんたはなんでも高山獅貴(タカヤマ・シキ)のことばっかなんだから……。折角独り暮らしするんだから、もっと身近な男の子でも捕まえて部屋連れ込んじゃえば?」
「まあ……美々お姉さま、何をおっしゃるの? わたくしは幼少の頃より生涯伯爵様をお慕いすると決めておりましてよ。他の殿方など考えられませんわ」
「……これだもんなぁ。まったくもう。ある意味羨ましいお嬢様だよね……日向子(ヒナコ)は」
咲き誇る薔薇のような微笑を浮かべて、彼女は左手首の月の意匠のシルバーブレスをそっと撫でた。
「……愛しの伯爵様……わたくしとの約束を覚えていらっしゃいますか……?」
彼女と彼らの運命はまだ交わらない。
しかしその日は、何の前ぶれもなく、やがてやってくるのだ……。
《END》
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