写真の真ん中に指を置く。
「赤い髪がボーカルの紅朱(コウシュ)様」
そのすぐ右。
「黒い髪に白いメッシュがギターの玄鳥(クロト)様」
その更に右。
「ワイン色の髪の背の高い方がドラムの有砂(アリサ)様」
反対側。
「オレンジ色の髪はキーボードの蝉(ゼン)様」
そして最後。
「白っぽいピンク色の髪の方はベースの万楼(マロウ)様ですわね」
「うん、合ってる。ちゃんと覚えられたね」
美々は満足そうに頷く。
「彼等が『heliodor(ヘリオドール)』。あんたが担当するバンドだよ」
《序章 太陽の国へ -Let's go,Rock'n'Role lady-》【2】
「2000年冬、ボーカルの紅朱、キーボードの蝉、初代ベースの粋(スイ)による3ピースのメロコアバンドとして結成。
2002年夏、ドラムの……有砂が加入。
2004年秋、粋の脱退とともに突然の活動休止。
2006年春、ギターの玄鳥と2代目ベースの万楼を加えて、これも突然の活動再開。
再開以後はハードロックに移行したと言われているけど、これは主なメロディーメーカーが粋から玄鳥に変わったからだね。
結成当時から現代に到るまで音源はデモテの一本すら発表されてないから、初期のheliodorを知らないファンも多いって話」
「まあ……波瀾万丈なバンド様でいらっしゃいますのね」
デスクに並べた資料に黄色い蛍光ペンでラインを引きながら、日向子は感心したように呟いた。
「ファンの方もさぞやご心配なさったでしょうね。わたくしも《mont sucht(モントザハト)》が解散して、伯爵様がおひとりで活動を再開されるまでは生きた心地が致しませんでしたもの」
「そっか~、あんたのルーツは《mont sucht》だもんね」
「ええ、《mont sucht》のデビュー曲をたまたまラジオで耳にすることがなければ今のわたくしはありませんでしたわ。
ああ、この声はわたくしの伯爵様……と、一瞬で確信致しましたのよ」
手首を飾る月の意匠のシルバーブレスを指でなぞりながら恍惚とした表情を浮かべる、日向子のいつものクセが出始めたことに苦笑いしながら、美々はコホンと咳払いした。
「あんたの高山獅貴命はわかってるけど、伯爵様ネタはheliodorのメンバーの前では言わないようにね」
「……はい? 何故でしょうか」
「リーダーの紅朱がね……高山獅貴のアンチだから」
「アンチ……」
「そう。ファンの間じゃ超有名な話。heliodorのメンバーは全員加入する時に高山獅貴の踏み絵踏まされた、とかってネットで通説になってるらしいよ」
「まあ……そのようなことが?」
世の中に色々な考えの人間がいるのは当然のことではあるが、自分の何より大好きなものが嫌いなどと聞くと少なからず寂しい気持ちになるのは仕方のないことだった。
「……それは残念ですわね」
「ま、嫌いなもんはしょうがないって。とにかくそこだけ気を付けてね。忠告は以上……はい、これ」
美々は、ラインだらけの資料の上にそっと……チケットを一枚置いた。
「実際音聞かなきゃどうにもなんないでしょ? 今日、渋谷カルテットのイベントライブにこのバンドが参加するから、見ておいで」
それは都内では比較的小規模なライブハウスで、日向子も何度か取材のアシストで先輩記者に同行したことがあった。
資料で見たheliodorの現在の動員数からすれば、随分と狭い会場であり、更に対バンが4組もいるということであれば、単純に計算しても倍率が5倍である。恐らくファンにとってはプレミアとも言えるチケットだ。
「本来はシークレットに近いライブで、マスコミ関係者も遮断なんだけどね。知り合いのバンドが出るからなんとか一枚確保してもらったよ」
「美々お姉さま……わざわざわたくしのために?」
「厄介な仕事押し付けたんだからこのくらいは任せてよね」
美々の面倒見の良さは日向子もよくわかっていることだが、この取材に関しては妙に気合いが入っているように感じていた。
ただ新米の日向子を心配してのことなのだろうか。
それとも美々はheliodorというバンドに何か特別な思い入れがあるのだろうか……?
日向子には未だに美々がこの企画を自ら手掛けないことが不思議に思えてならなかった。
「あの……本当にわたくしが行ってよろしいのですか?」
念を押すように問う。
「あたしは、日向子に任せる……あたしには出来ないことも日向子になら出来る……そう思うから」
念を押すように答えが返ってきた。
日向子はしっかり頷いて、チケットを手に取った。
新たな決意を胸に抱きながら。
「まあ……あれは……!」
いきなり立ち止まるなり、日向子はうっとりと斜め上を見上げた。
通行人がちょっと迷惑そうに日向子を避けていく。
視線の先にあったものは、大手CDショップの入り口……その上方を飾る広告看板だった。
《高山獅貴 New Single 「Phase of the moon」DROP》
あの涼しげな眼差しが日向子を見下ろしていた。
CD自体は当然のように予約して、一昨日の火曜に「フライングゲット」していたが、広告を見掛ける度に日向子はこの状態に陥る。
そして今日は残念ながら、そんな日向子をたしなめてくれる人間は周りに存在しなかった。
ドン。
「きゃっ」
思いきり突き飛ばされて日向子の身体が前のめりに傾いた。
そしてその瞬間、肩にかけていた白いショルダーバッグが、ぐっと引っ張られ、そして腕をすり抜けた。
「……あッ」
慣性の法則に導かれてアスファルトに向かうところだった日向子の身体は不意に支えを得た。
「大丈夫??」
くの字に曲がった細い腰を誰かの腕がしっかり支える。
「あ、ありがとうございます」
体勢を立て直して声の主を見た。
まるで白磁の人形のような美少年が大きな瞳で日向子を見つめていた。
日向子の危機を救った少年は、少し前に流れた、薄桃色のサラサラした髪を横によけて微笑んだ。
「怪我はない?」
「あ、はい……でもバッグが」
「それなら多分、ちゃんと取り返してくれるから心配しないで」
「……え??」
すぐに少し離れたところで大きな歓声が上がった。
「ほらね」
美少年が視線を歓声のほうへスライドさせ、日向子もそれに倣い、すぐに驚きの表情を浮かべた。
「まあ……」
歩行者が円形に避けてぽっかり空いた空間に、うつ伏せに倒れた中年男と、その肩口を足で踏みつけながら、男の手からバッグをもぎ取る青年の姿があった。
「ひったくりです。誰か、110番をお願いします」
青年の声に、近くにいたサラリーマン風の男が急いで携帯を取り出していた。
中年のひったくり男は完全に失神しているらしく、青年が離れても立ち上がるどころかぴくりとも動かなかった。
「大丈夫でしょうか……あのおじさま」
思わず呟いてしまった日向子に、美少年は一瞬目を丸くした。
「お姉さん、ひったくりの心配をしてあげてるの? 随分優しいというか……」
「ただのマヌケちゃうか?」
いつからそこにいたのか、日本人離れして背の高い別の青年が抑揚のない関西弁で淡々と評した。
「高そうなバッグぶら下げて、こんな往来でぼんやりつっ立っとったほうも悪いと思うで……」
日向子は青年の顔を見上げて、ぱちぱち瞬きした。
「わたくしもそう思います。もう8回目ですもの」
「……8回目……?」
「わたくしは、バッグを持つのに向いてないんでしょうか??」
「……なんやそれ」
思わず毒気を抜かれて唖然としている青年に、横の美少年が小さく吹き出した。
「面白いお姉さんだ……毒舌大魔王様に勝っちゃったね」
「……アホか。勝手にけったいな異名つけんといてくれ」
仲がいいのか悪いのかよくわからないコンビを、とりあえず見守っていた日向子に、
「あの」
背中から声をかけてきたのは、たった今ひったくり犯を成敗して大活躍したにも関わらず、一瞬全員に忘れられていたお手柄青年だった。
「これ……中身、確認してみて下さいね」
奪還したバッグを差し出す彼を見て、日向子はあることに気付き、「まあ」と短く声を上げた。
青年も気付いていたらしく、少し複雑な笑みを浮かべた。
「あの、昨日もお会いしましたよね? あの時はお騒がせしてすいませんでした」
青年はカフェで遭遇したあの兄弟の、弟、のほうだった。
「いいえ、そのようなことよりも、危ないところを本当にありがとうございました。あなた様のおかげで大切なものを持っていかれずに済みましたわ」
「そんなに大切なものが入ってたんですか?」
「ええ、ですけれど……」
日向子は唐突に顔を曇らせて、バッグを持っていた青年の手を、取った。
「えっ」
青年は驚いて反射的に手を引こうとしたが、日向子は、離さない。
「わたくしのせいで、お怪我をなさいましたのね」
「えッ……いや、それは……ただ、えっと、バッグを取る時に、相手の爪がちょっと……ってだけだし……」
何故か完全にしどろもどろになった青年の右手の甲に、赤くみみず腫れのような跡が2センチほど残っていて、じわっと血がにじみ出している。
「……あの、別に痛くもないし。問題ないんで……」
その言葉は日向子だけでなく、連れの二人にも向けられているようだった。
長身の青年は、
「……ま、仮に粉砕骨折してようが甘やかさへんけどな」
と鼻で笑い、美少年は、
「男の勲章だね」
と楽しそうに評した。
「少々お待ち下さいませ」
日向子はいそいそと……いや、傍目からはかなり緩慢なアクションであったが、本人としては大急ぎでバッグを開いて、小さなポーチから絆創膏を取り出した。
「後できちんと消毒なさって下さいませね?」
「あ……はい」
日向子は青年の手に、丁寧に絆創膏を貼って、その上から手を重ねた。
「お大事になさいませね?」
少し小首を傾けてにっこり笑ってみせた。
それが、いかに罪深い微笑みであるか。
日向子本人はまったく気が付いていなかった。
それも仕方ないだろう。日向子の手が離れた後も、固まったまま立ち尽くしている青年ですら、まだ自覚できていなかったのだから。
「……」
「どうかなさいまして?」
「え、いや……なんでも……その、早く、大切なものが無事か確認を……」
「あ、そうでしたわね」
日向子は急いで(もちろん彼女なりの全速力で、ということである)バッグを探り、
「大丈夫ですわ。ちゃんとありました」
今一番大切なもの……美々から貰ったライブチケットを取り出して見せた。
「あ」
日向子を囲む三人は、ほとんど同時に声を上げた。
「はい?」
不思議そうな日向子に、それぞれがどこか含みのある表情を浮かべた。
「あの~……何か??」
太陽はその強大な引力で、運命を少しずつ引き寄せている。
《END》
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