「でも、なんでカレーなの?」
「わたくしの一番得意な料理ですの」
「なるほどね」
「カレー、お嫌いですか?」
「……わからない」
「はい?」
「あんまり食べたことがないからわからない」
万楼は冗談を言っているようには見えなかった。
「お母様から作って頂いたり、学校の給食等でお食べにはなりませんでしたの?」
「うーん……食べたことないからな……どっちも」
「どっちも、ですか?」
「うん。ボクのママはご飯を作ってくれたこと、ないよ」
《第1章 人魚の足跡 -missing-》【3】
玉葱。
「ボクの家は母子家庭なんだけどね」
人参。
「ママはアメリカの食品研究所の研究員なんだ。詳しくはよくわからないけど、ダイエット食品とか栄養補助食品とか、なんかそういうのを研究してるみたい」
じゃが芋。
「ボクもジュニアハイスクールまではアメリカにいたんだけど、ママはほとんど家に帰って来なくて、ハウスキーパーのおばさんがボクの世話をしてくれてた」
茄子。
「ボクはおばさんが作る料理が口に合わなくて、お菓子ばっかり食べてた」
トマト。
「今思うとおばさんの料理が下手だったわけじゃなくて、ママがおばさんに使うように指示してたサンプルの加工食材がまずかったんだけどさ」
パプリカ。
「……そうやって、ママをボクを使って実験のデータを取っていたんだよ。頭のいい人が考えることはすごいよね」
コーン。
「……一度すごいアレルギーが発生して病院に運ばれたことがあったんだけど、ママはすぐに病院に飛んできた。
お医者さんに100個くらい質問して、ボクにもその倍くらい質問項目があるアンケート用紙をくれて、必ず全部記入するように念を押して、研究所帰ったよ……」
ブロッコリー。
「その時に、独り暮らしして日本の高校に行こうって思ったんだけどね」
エレンギ。
「……野菜はこんなところでしょうか」
「そう。次は?」
「ではお肉を」
「えーっと……あっちだね」
野菜でいっぱいのショッピングカートを押しながら、精肉売り場に向かう万楼の後ろ姿を一歩後ろから見つめる日向子。
万楼が、まるで他愛ない失敗談でも語るように話した言葉が、胸に重くのしかかった。
「……お辛かったのでは?」
「わからない。それがボクの普通だったし。でも、お菓子以外のものにあんまり食欲が湧かないのはそのせいかもしれない……あ、こっちはお魚か。お肉はあっちだった」
ここは万楼のマンションのすぐ近くのスーパーマーケットなのだが、売り場の位置を把握していない万楼はさっきからキョロキョロしてばかりいた。
その背中があまりにも不安げで、心細く思われて、日向子は思わず呼び掛けた。
「万楼様」
「……なに?」
日向子は少しだけ考えて、慎重に言葉を探した。
「……きっとお母様の研究は、世の中のためになるご立派なものなのだと思いますわ。
万楼様のデータもきっと、たくさんの人たちのために使われた筈です。それは大変、意味のあることではないでしょうか」
万楼はカートを止めて、日向子を振り返った。
「うん……そうだといいな」
「万楼様は力持ちでいらっしゃいますわね」
「そう?」
「初めてお会いした時も、わたくしを軽々と支えて下さいました」
万楼は45リットルの買い物袋いっぱいの荷物二つを涼しい顔で軽々と持って、日向子と並んで歩く。
「別にそんなに重くないよ? 荷物もお姉さんも」
万楼はくすくす笑う。
「それともボクがこういう見た目だから、意外だって思われてしまうのかな」
「まあ、そのようなつもりではありませんでしたけれど……お気に障りまして……?」
「ううん。ボクはギャップで売ってるからいいんだ」
「売ってる、ですか。それはようするに、他の人にそのような認識を与えたい、ということですわよね? 確か紅朱様も以前そのようなことを……」
「なんとなくだけれどね、みんなやっぱり多かれ少なかれ自己演出はしていると思うんだ。
メイクをしたり、本名とは違う名前を名乗ったりするのもそうだし。
……それはまたチーム内での役割分担、でもあるのかな」
「役割……」
秋の日暮れ。
アスファルトに長く伸びた2つの影は、夕景をゆっくりと進む。
「例えばリーダーはリーダーだから、よりリーダーらしくあろうと努力してる。
玄鳥はリーダーの弟だから、絶対にリーダーよりでしゃばらないよね」
「そうですわね……では、万楼様の役割は?」
「ボク? ボクは……」
少しずつ、残照が遠くのビル街に吸い込まれていく。
黄昏が訪れる。
「代役」
トントントン。
一口台にじゃが芋を切って、ボールの中の水へ。
手早いとは言い難いが丁寧な仕事で日向子はシンプルな作業を進めていた。
万楼は水洗いした人参を眺めながら、
「……キャロットのジュレにしたいなぁ」
などと呟いている。
「だめです」
「やっぱり?」
ロフト付き1DKの万楼の部屋は、異常なほど生活感がない。
キッチン周辺の設備は、非常に充実している(主に製菓用の調理器具であるが)ものの、それ以外は必要最低限の簡素なモノトーンのインテリアや、必要最低限の家電製品がぽつぽつと置かれている。
ベースや機材がまとめてある一角がなければ、ここに住む人間がどんな人間かを知る手掛りは何一つなかっただろう。
日向子は万楼が口にした「代役」という言葉を思い返していた。
「代役」という役割。
それは終わりを約束された役割。
日向子は、この部屋が万楼にとって「一時滞在」のための仮の宿に過ぎないのだと悟った。
「万楼様は……いつか、heliodorのベースを辞めてしまわれるのですか?」
「うん」
しゃり、しゃり、と万楼の動かすピーラーの刃先からオレンジ色のリボンが垂れる。
「お姉さんも知ってるよね? heliodorには粋さんっていうベーシストがいるんだよ」
「……存じてますわ」
「今は色々あってここにいないけど、みんないつか粋さんが帰ってくるって信じてる。粋さんが必要なんだよ」
「そんな……」
日向子は包丁を一度止めて万楼を見た。
万楼の表情はいつもと変わらない。とても静かで、柔らかい笑みを浮かべている。
「玄鳥がボクをみんなに紹介してくれた時、玄鳥以外の全員がボクの加入に最初反対したよ。
それは技術的に未熟だったからという理由じゃない。……ボクを代役にするのがしのびなかったからだ」
一度呼吸をおいて、万楼は続けた。
「ボクのベースは粋さんと似過ぎていたから。粋さんよりはずっと下手だけど。
……意識して似せたわけじゃないよ。ボクは粋さんのベースを聞いたこともない筈……だと思ってたから」
「どういう、ことでしょうか?」
「……手が止まってるよ、お姉さん」
「あ、そうでしたわ……ごめんなさい」
日向子は慌てて、鮮やかな赤いパプリカを手にとって、包丁を握り直した。
万楼は日向子が作業を再開するのを見てから、また話し始めた。
「……ボクが高校進学と同時に日本に来たっていう話はしたね。
それからボクは高松の静かな街で暮らしてた。
ベースを始めたのは多分その頃で、heliodorを知ったのも多分その頃」
「……多分、ですか?」
「覚えて、ないんだ」
「……え?」
「ボクはある日、海に落ちた。運良く大した怪我もなく救助された。
……だけど目覚めたボクは忘れてしまった。高校生活の大半の記憶がごっそり抜け落ちてしまったんだ」
はらり、と色鮮やかなリボンがザルの上に落ちる。
万楼はザルに溜ったそれを、生ゴミのバケツへとバサッと葬った。
「覚えていることといえば……ボクは、多分誰かと一緒に暮らしていた。
ベースを教えてくれたのはその人で、ボクにheliodorというバンドを訪ねるように言ったんだ……そしてボクはその人を《万楼》って呼んでた。
……《万楼》ってね、粋さんが昔飼ってた熱帯魚の名前なんだって」
かつてのベーシストとよく似た音を奏でるベーシスト。
そして、偶然にしては出来すぎた一致。
「《万楼》は粋さんなのかもしれない」
具材を軽く炒めて、たっぷりの水で茹でる。
灰汁を取り除きながら時間をかけて。
その間、恐らく雑誌の記事としては使えないであろう万楼の話はゆっくりと続けられた。
「代役」で構わないということ、いつか記憶が蘇れば粋の行方がわかるかもしれないということを主張して、heliodorのメンバーにしてもらったという経緯。
そして《万楼》を自ら名乗るのは、本物の《万楼》がいつか気付いて訪ねて来ることを期待してのことだという事情。
万楼はあまりにもあっさりとそれらを物語る。
そんなことは自分にとっては大した問題ではないとでも言いたそうだ。
けれど日向子にはなんとなくわかり始めていた。
辛いことだからこそ、万楼は話すのだ。
ヒリヒリとしみる傷跡を、ゆっくりと湯舟にさらしてなじませるように、そうやって心の痛みを緩和しようとしている。
実の母親からモルモットのような扱いを受け続け、愛情を得られなかったことが哀しくないわけがない。
平気なら、こんな奇妙な食生活を送っているわけがない。
そして本当は……万楼は代役などではなく、真の意味でheliodorの仲間になりたいと思っているのではないのか??
「そろそろ、ルーを入れる?」
万楼の笑顔はもはや、痛々しいものにしか見えない。
日向子にはどんな言葉が万楼を救うのかまだわからなかった。
そもそも言葉などで救えるのかどうかもよくわからない。
気休めでは何もならない。
もしも紅朱たちが実際、万楼を代役として見ていて、本当は粋を必要としているというのなら、日向子にはどうすることもできないのだから。
「お姉さん……?」
今できることは話を聞いてあげること。
少しでも痛みが和らぐように、笑ってあげること。
「……そうですわね、ルーを入れましょう。それと、これも」
日向子は中辛の市販のルーと、硝子の小瓶に入った赤茶色の粉末を持ち出した。
「その粉は何? さっき買ったものじゃないよね」
「これは今朝、雪乃がくれたスパイスですわ。カレーを作るなら是非使うようにと言っておりました」
「……ふうん。雪乃さんか……その人、ボクたちのことあんまりよく思ってなさそうだよね」
「そうでしょうか……? わたくしはよく……」
万楼は小瓶を少し振ってハラハラ舞う粉を見つめる。
「実は毒、だったりして」
「はい?」
「……なーんてね」
《つづく》
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