「……譲歩したる、ゆーことや」
「譲歩……」
日向子は小さく反芻した。
「オレが提示する3つの条件を守れるんやったら……少しは協力したってもええ」
「まあ、本当ですの!? 有砂様」
ぱあっと表情を明るくする日向子に対し、有砂はあくまで冷たく淡々としている。
「……条件1、オレの邪魔をしない」
日向子は聞きもらすまいと真剣な顔で頷く。
「条件2、オレに干渉しない」
日向子は一々首を縦にする。
「条件3、これで一昨日の件はチャラや……ええな?」
「え??」
「……わかったか?」
「は、はい。お約束致します」
と元気良く返事する。
「わかったら……ついて来てもええ」
有砂は踵を返して歩き出した。
日向子もそれを慌てて追いながら、
「有砂様」
と背中に呼び掛けた。
返事はなかったが続ける。
「一昨日のことですけれど」
有砂は立ち止まって、不機嫌さを露にしながら振り返る。
「……人の話、聞いてへんのか?」
「申し訳ありません、でも一つだけどうしてもお伝えしなければならないことがありますの」
「……なんや?」
心底面倒臭そうに、溜め息混じりに問う有砂。
日向子は微笑して、それから深く深くお辞儀した。
「あの時は、かばって下さってありがとうございました」
「……は?」
それは有砂の予想の範疇にない言葉だった。
「有砂様はわたくしのことを逃がそうとして下さいましたでしょう?
そのお礼だけはどうしても申し上げたくて……」
「……ジブン、アタマ悪いやろ」
有砂は呆れきったような顔で日向子を斜め上から見下ろす。
「……そんな調子やと、いつか怖い目に遭うで」
まるで嘲るような酷薄な笑みを浮かべて。
《第2章 悪夢が眠るまで -solitude-》【2】
約束の日、約束の時間。
目黒駅で待っていた日向子の前に、少し遅れて有砂が現れた。
条件付きの取材許可を得た日向子は、どこへ向かっているのかもよくわからないまま有砂の後ろにくっついていった。
会話らしい会話もないまま、10分弱歩いたところで、どうやら目的地とおぼしき場所に到達したようだった。
「有砂様……ここは?」
「……見ての通りの撮影スタジオ」
「撮影スタジオ……ですか」
日向子がほうけたように小綺麗な建物の外観を眺めていると、中から誰かが出てきた。
「佳人くん、今日も遅刻したのね」
カジュアルな赤いスーツを着た、30代なかばほどの女性だった。
10センチのピンヒールがカツンカツンと硬質な音を響かせる。
化粧も、服装も派手なものだったが、それが見事にはまる華やかな雰囲気の美人で、アシンメトリーの前髪から覗く瞳はパープルのカラーコンタクトで飾られている。
女性は日向子を見て、ふっと微笑した。
「あら、可愛らしいひとと一緒なのね」
「……音楽雑誌の記者。撮影の合間に取材受けるから、邪魔にならんとこにおいといてくれませんか?」
「そんなに冷たい言い方をすることないでしょうに。ふふ……」
女性は淡い紫のマニキュアで染まった左手の指を肉感的な唇に当てて、くすくすと笑った。
薬指に、ゴシック調を取り入れたハートモチーフのシルバーのリングが煌めいていた。
「はじめまして。可愛い記者さん。わたしは沢城薔子(サワシロ・ショウコ)……佳人くんの義母(はは)です」
日向子はぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、有砂をゆっくり振り返る。
「よしひと様……は、有砂様、ですよね?」
「……そうやけど」
「ということは薔子様は……有砂様のお義母様!?」
「そうやゆーてるやろ……」
苛立った雰囲気の有砂とは対称的に、薔子は余裕に満ちた大人の女性だけが浮かべられる微笑を浮かべたままだ。
「……さあ佳人くんは早く準備に入ってちょうだい。……彼女のお相手はわたしがするわ」
「佳人くんはねえ、主人の連れ子なの」
ローズティーの甘い香りがふわりと広がる。
「《SIXS(シックス)》というブランド、ご存じかしら」
「はい……モードゴシック系の」
「主人の沢城秀人(サワシロ・ヒデヒト)はそのオーナー兼デザイナーなのよ。妻のわたしはヘアスタイリスト、そして息子の佳人くんは……専属契約のモデルをやってるというわけ」
薔子とともに、スタジオの隅に用意された簡易タイプのテーブルについて、お茶とお菓子を振る舞われながら、日向子は未知の光景を目にしていた。
heliodorとしてステージに上がる時とはまた一風異なるメイクを施され、黒を基調としたゴシック系のスーツをまとった有砂が、カメラマンに様々な要求をされながら次々とシャッターを切られている。
「有砂様はモデルのお仕事をされていましたのね……」
「佳人くんはブランドイメージにぴったりなのよ……背徳と頽廃、静寂と虚無……そして、官能」
薔子はとても楽しそうに有砂を見つめる。
「実のお母様がモデルをやってらしただけあって、センスもいいしね」
「あの、ぶしつけなことをお聞き致しますけれど……有砂様の本当のお母様はお亡くなりに……?」
「ううん……ご健在ではいらっしゃるみたい。一応ね」
含みのある言い方が気になったが、なんとなくそれ以上突っ込んだ質問をしづらい雰囲気だった。
「……それにしても、有砂様がモデルのお仕事をなさっているなんて意外でした」
「……そうね。わたしは佳人くんが高校生の頃からずっと口説いてたのに、長いことつっぱねられてきたもの。
それが、3年くらい前かしら。いきなり向こうから『やってもいい』なんて言ってきたのは」
「3年前……3年前は……」
粋がheliodorを脱退して、バンド活動が休止した頃。
彼らにとって、もっとも深い暗黒の時代。
「思った通り、あの子はモデル向きだったわ。音楽活動なんてやめて、いっそ本格的に転向すべきなのに」
「それはご無理なのでは……有砂様には大切なバンドがありますもの」
「……大切な、バンドですって?」
「はい」
当然のような顔で頷く日向子を見て、薔子は先程と同じ仕草で笑った。
「本当にあなたって可愛らしいのね」
そしてまたその紫色の双眸を有砂のほうに向けた。
「……あなたにもそのうちわかるんじゃないかしら。
……あの子には大切なものなんて何にもないってこと。自分自身も含めてね」
「そのようなこと……」
反論の言葉をつむごうとした日向子の脳裏に一昨日のできごとがよぎった。
あの時の有砂は、確かにあのまま殺されても別に構わない……そんなふうに見えた。
まるで生きることに執着が感じられない。
撮影が一区切りついたらしい有砂が、ゆっくりと日向子たちのほうに近付いてきた。
「次の衣装がまだ到着してへんゆーて……40分くらい、待ちやから……その間にちゃっちゃとやってくれ」
「あ、はい……!」
待ってましたとばかりの日向子だったが、
「……その前に、少し打ち合わせさせてちょうだい。向こうの部屋でね」
薔子が立ち上がった。
「あ、はい。どうぞ」
取材の条件1は有砂の邪魔をしないこと、だ。
絶対に仕事の邪魔になってはいけない。
有砂を連れて、ピンヒールを鳴らしながら薔子が隣の部屋に消えてしまうと、日向子は少し冷めたローズティーを口にした。
ほんのり、苦いような気がした。
ふと横を見ると、薔子が座っていた椅子の上に、ぽつんと携帯電話が置かれているのに気付いた。
恐らくは薔子のものだろう。
サブディスプレイに着信あり、の表示が出ている。話に気をとられて気付かなかったのだろうか。
日向子は少し迷ったが、薔子に渡しに行くことにした。
「お仕事の急な連絡かもしれませんし……ね」
携帯を手にして、立ち上がった日向子が隣室のドアのほうへ行くと、
「君、開けないほうがいいよ」
若い撮影スタッフの一人が声をかけてきた。
「……なぜでしょう?」
「……なぜも何も、暗黙のルールなんだよ。……首をハネられたくなければ、全て女王様のお心のままに、ってとこかなぁ」
「女王様の、お心のままに……」
その時、日向子の手の中で薔子の携帯が振動をし始した。
「大変……また着信が。やっぱりお届けしないと」
「だからダメだって。まったく……」
若い撮影スタッフは、呆れた顔で隣室のドアに手をかけて、音を立てないようにそっと、1センチほどの隙間を開けた。
「……覗いてみればわかるよ」
「まあ、覗き見だなんて……よくないですわ」
「いいから」
強く促されて、日向子はためらいながらもそっと、隙間から部屋の中を覗いた。
あまり広くはないその部屋にはメイク台や大きい鏡などがあって、どうやら控室のようなところらしかった。
日向子は二人の姿を探して視界を旋回させ、そして、止まった。
日向子の瞳は大きく揺らぎ、見開かれたまま停止する。
メイク台に腰を下ろした薔子は、楽しそうに笑っていた。
リングをはめた左手で有砂の身体を引き寄せて、右手でそのスーツのシャツのボタンを1つずつ外して。
「……また怪我が増えたのね。いけない子……売り物に傷をつけたりして」
「……もともと、傷モノなんで」
「……ふふふ」
ボタンを全て外し終えた右手が有砂の顎のラインを撫でて、肩口を掴み、そして、引き寄せた。
唇が、重なる……。
日向子はそこで、ドアに背中を向けた。
「わかったかい? ……そういうことだから、遠慮してね」
若い撮影スタッフは苦笑いして見せる。
「……血縁はないし、母子って言うには年も近すぎるとはいえ……ねえ。女王様にも困ったもんだよ。
……ああ、この件は一応内密にね」
そう言い残して急いで作業に戻っていった。
日向子の手の中で、うるさく騒いでいた携帯がついに沈黙した。
日向子も沈黙したまま、うつむいていた。
有砂が義理の母親と、深い仲であるらしいという事実もかなり衝撃的だったが、それよりも胸が痛いのは、今、薔子の言葉に反論できなくなりつつある自分に対してだった。
有砂には大切なものが、ない。
自分自身ですら大切では、ない。
「本当に……そうなのですか? 有砂様……」
携帯の終話ボタンを手探りで押した紫色の爪先が、再び目の前に開かれた胸元に触れる。
「……やっぱり、わざとやったんですね……携帯」
「ふふ……意地悪だったかしらね」
「……そうですね」
「……だって頭にくるでしょ? 何にも知らない小娘がこのわたしに反論しようなんて、生意気だわ」
黙ったままの有砂の背中に、細く、しなやかな両腕が回される。
「……あんな、頭の弱そうなお子様は、あなたにはふさわしくない……そうよね? 佳人……」
「……珍しいこともあるもんだ」
ミラー越しに、こちらへ向かってくる日向子の姿を確認して、蝉は車を降りた。
「お嬢様が自分から迎えに来て~、なんて……どういう風の吹き回しかな」
胸ポケットの眼鏡をかけて、「雪乃モード」を「オン」にする。
「お迎えに上がりました。お嬢様」
うつ向き気味に歩いていた日向子は、ゆっくり顔を上げた。
「雪乃……」
「……お嬢様? いかがなさ……」
揺れる瞳から、雫が滑り落ちる。
「……雪乃……!」
そのまま日向子は、雪乃の胸に飛び込んできた。
「……お嬢、様……?」
「ごめんなさい……っ、今だけ……少しだけ……」
雪乃は、わけも話さず泣き続ける日向子に身体を明け渡したまま、立ち尽くしていた。
《つづく》
PR