それは、声なき密談。
《編集部から何かリアクションは?》
《いや、まだ何も動きはないと思います》
《やり方がぬるいんじゃないの?》
《確かに上に働きかけて『森久保日向子』を降ろさせる、なんてまだるっこしいよね》
《脅かして、自分から辞退させるべきだ》
《一体何をネタに脅すワケ?》
《ネタなんて、いくらでも作れるでしょ》
《そうね》
《……まあ後一日、様子を見よう》
《あlfrふuiq》
「シュバルツ。悪戯はよしなさい」
「うにゃ」
キーボードを踏み荒らす子猫を抱き上げて、黒い瞳の美少女はその手の中に閉じ込めた。
「……この人たち。またくだらないことを始めるみたい」
《第4章 黒い寓話 -inferior-》【4】
「そうです……ココとココを一緒に押さえて……角度はこういうふうに」
「て、手が攣りそうですわ……」
「あ、辛かったら一度離して休んで下さいね」
「はい、そう致しますわ」
日向子は左手をひらひらと振りながら、
「わたくし、ギターの才能もないのかしら」
と、暗い声で呟いた。
「最初はそういうもんですから……落ち込まないで下さいね?」
そう囁く玄鳥の笑顔に、日向子も笑ってみせた。
「はい……レッスンを続けて頂けますか? 玄鳥先生」
リビングのソファーに座った日向子は、黒光りする新品同様のエレキギターを抱えていた。
玄鳥は少し遠慮がちに日向子の左手を取って、
「じゃあ今のをもう一回」
6本の弦へと導き、正しい位置へと案内する。
このギターも、手にしているピックも、日向子がコレクションしていたあ「高山獅貴」モデルのものだった。
弾けもしないギターを、「高山獅貴」とつくだけで買ってしまったことを話すと、流石の玄鳥も苦笑いしてしまったが、
「それなら、せっかくだから弾いてあげて下さい。手伝いますから」
と、日向子にギターを教えることを提案し、日向子もそれを喜んで受け入れた。
日向子は内心ほっとしていた。
昨夜、玄鳥の奇行とも言える有り様を目撃した日向子は、ピアノ室に戻ってこのギターを引っ張り出した。
玄鳥のためには、家に帰らせて、昼間存分に練習させてあげるのが一番いいとは思ったが、紅朱との約束は破るわけにいかないので、せめて多少なりとギターに触らせてあげたいと考えたのだ。
実際、日向子に指導している玄鳥は水を得た魚のように活き活きとして見える。
まあこの場合、単純にそれだけの理由でもないのだが、日向子には気付きようもないことだった。
「……こうですの?」
「はい……もう少しだけ、しっかり押さえて」
日向子の小さい手を上から包むようにして教えている玄鳥の顔は、ずっと赤く染まったままだ。
「……玄鳥様は教え方がお上手でいらっしゃいますわね?」
「え、そ……そうですか?」
「玄鳥様も紅朱様からギターを教わったりなさったことがありまして?」
「……ないですよ。俺、ギターやってること三年前まで黙ってましたから」
「え?」
「休憩がてら、話しましょうか」
玄鳥はそう言って、一度日向子から手を離して、隣に座った。
「兄貴がバンドやって唄を唄いたいって言い出したのが中学生の頃で。
父さんが大反対だったもんだから、浅川家は戦争状態だったんですよ。
結局兄貴は高校卒業してすぐ家出同然で上京しちゃって。
とてもじゃないけど誰にも言い出せるような雰囲気じゃなかったんです」
玄鳥は笑いながら話してはいたが、その当時はさぞ大変だったに違いない。
一方で日向子は、自分と同じように、やりたいことを貫いたがために父親とぶつかって家を出た紅朱に、親近感を抱いてもいた。
「だけどいつか頃合いを見たら両親にちゃんと話して、俺もバンドやるつもりでした。
出来れば、兄貴とは違うバンドがよかったんですけどね」
「まあ、どうしてですの?」
日向子が意外そうに目を丸くすると、玄鳥は少し複雑な表情をあらわした。
「……兄貴と、勝負したかったんです」
「勝負……?」
「俺が兄貴のやってることを自分もやりたくなるのは、兄貴に勝ってみたいっていう願望からなんです。多分ね」
日向子が玄鳥の新しい一面を……その根幹をなす思いを知った瞬間だった。
「兄貴は好奇心は旺盛なんだけど、実はかなり飽きっぽい人なんです。
何を始めても、俺が兄貴のレベルに到達する前にはやめちゃいますから。
そうなると俺は、逆にどこで止めていいかわかんなくなるんです」
「どこで止めていいかわからない……ですか」
「どんなに上達しても、『もし兄貴が途中で止めずに続けていれば、今の俺よりずっと上に行ってるに違いない』って、考えてしまうから。
みんなは、そんなの思い込みだ、お前のほうがずっとセンスがあるよ、なんて言ってはくれますけど……。
俺はそんなことじゃ全然納得できなくて、何も達成感を得られないまんまひたすら練習を続けてしまうんですよね」
日向子の脳裏に、昨夜の玄鳥の姿がフラッシュバックする。
心臓の真ん中がきゅっと苦しくなった。
「いつか、どんなことでもいいから兄貴とちゃんと勝負して……勝ちたい。
そう願い続けた俺にとって、兄貴が音楽っていう特別なものを見つけたことは本当に嬉しいことで……兄貴は音楽だけは途中で投げることはない、って思いましたから。
兄貴がバンドやるなら、俺も別のバンドやって……それで勝負しようって決めてたんです」
「でもそうはなりませんでしたわね?」
「はい。兄貴は……ギターが弾けなくなってしまいましたから」
「……そうか。やっぱりそこだけ異常に数が少ないんだな。
わかった……また、連絡する」
携帯を切った紅朱は、舌打ちをして、何色のカーペットがしかれているのかすら判別不可能なほどちらかった室内を、物を蹴散らしながら移動して、ベッドに倒れ込んだ。
握りしめていた携帯を投げ捨てるように手放すと、仰向けの格好で、一本蛍光灯が切れたままの天井を見上げた。
「……そういうことかよ。ただの噂じゃなかったわけだな……」
「3年前。兄貴はバイク事故で怪我して、その後遺症でギターが弾けなくなったって……言われてます」
玄鳥は含みのあるいい回しをあえて選び、その理由も後につけてきた。
「……でもメンバーは口にはしなくても、みんな、なんとなくわかってて。
怪我が理由なら兄貴は諦めたりしないで、克服しようとする筈ですから。
兄貴が弾けなくなったのは、本当は精神的な理由だろうって」
「精神的な……理由」
3年前の出来事で、紅朱を追い詰めるようなことといえば、日向子には思い当たることがひとつあった。
「粋さんの……ことですか?」
「……多分、そうです」
玄鳥はまるで自分のことかのように、辛そうに目を伏せた。
「俺は弱ってる兄貴を見るの、辛くて……だから、つまらない対抗心は封印しなくちゃって思ったんです。
兄貴のかわりに俺が、ギター弾こうって……兄貴の右腕になろうって決めたんですよ。
父さんには兄貴の時の百倍くらい猛烈に反対されましたけど……でも、決意は揺るがなかったですから」
そう言い切る玄鳥の言葉には迷いも偽りもないのがよくわかった。
けれど日向子は、昨夜の玄鳥を見てしまった。
きっとあれもまた玄鳥のひとつの真実。
紅朱を側で支えたい、という新しい願いの陰でくすぶっている……満たされない気持ち。
兄との勝負がつかない限り、玄鳥はいくら練習を積み、いくら巧くなって、誰から称讚されたとて、永遠に心休まることはないのかもしれない。
「いつか……紅朱様がギターを弾けるようになったら、勝負したいですか?」
日向子の問掛けに、玄鳥は少し考えて、答えた。
「どうでしょうね。単純に技術だけならブランク明けの兄貴とじゃ、流石に勝負にならないだろうし……。
勝負するなら、俺がheliodorを抜けて新しいバンドでも組むしか……」
「えっ……」
「いや、冗談ですよ! 本気にしないで下さい」
うっかり口走った言葉への日向子の反応が予想以上に大きかったため、玄鳥は少しうろたえる。
「……まあ、時々そんなことをちらっと考えることもなくはないです。
……実は、すごい人から誘いの声がかかったこともあったりましたからね……。
だけど俺は今、heliodorのギタリストですから。
個人の感情を優先して、たくさんの人を裏切るようなことはするべきじゃないんです……」
日向子は頷いたが、内心はかなり複雑だった。
玄鳥の言っていることは正しい。
正しいが、それでは玄鳥はいつ報われるのだろうか?
玄鳥はいつまでも、報われない心を封印していけるのだろうか?
昨夜、わけもわからず流れ落ちた涙の意味が、今の日向子にはわかるような気がした。
一心に見えないギターを奏でる玄鳥の姿は、怖くもあったが、純粋に美しかった。
別人のようなあの瞳は、どこか遠くを映していた。
玄鳥がいつか……あの時見つめていた遠い場所へ、行ってしまうような予感がした。
だから、涙が出たのだ。
玄鳥にもそんな日向子の気持ちがいくらか伝わったらしく、逆に労るような優しい眼差しで日向子を見つめてきた。
「俺のことで悩んだりしないで下さい。
俺は結局、heliodorが好きなんですよ。だから、ずっと今のバンドで弾いていきます。
……日向子さんが応援してくれるなら尚更、頑張らないといけないし」
まだ笑顔に戻らない日向子に、玄鳥はそっと左手の小指を差し出した。
「指切り、ってちょっと子どもっぽいですかね?」
照れたように笑う。
「日向子さんを悲しませるようなことは絶対にしないと今、ここで、約束します。
だから、あなたは笑っていて下さい」
その言葉に、日向子もそっと左手を差し出した。
「ではわたくしは、玄鳥様の今のお言葉を信じることをお約束致しますわ」
ようやく微笑んで、それから、ゆっくりと指先を近付けていった。
小指と小指が、静かに絡まり合う。
「ゆびきりげんまん……」
無邪気な誓約。
けれど二人はそれを、信じた。
またゆっくりと指と指が離れる。
玄鳥は今更のようにどんどん顔を紅潮させる。
「やっぱり……ちょっと恥ずかしいですね」
「うふふ」
日向子は自分の左手の小指を右手で包み込んだ。大切なものを匿うかのように。
「そうだ、日向子さん。言い忘れましたけどね、ギターに関しては俺、他にも目標にしてる人がいるんですよ」
恥ずかしさを振り払いたいのか、少し早口で玄鳥が切り出した。
「まあ、どなたですの?」
興味津々な日向子に、玄鳥はきっぱりとその名を告げた。
「鳳蝶(アゲハ)です。伝説の、mont suchtの初代ギタリスト」
「鳳蝶様……ですか」
それは、mont suchtの最初期、わずか一年にも満たない間、活動していたという人物。
日向子や玄鳥が生まれる前の出来事で、希少なデモテープこそ残っているものの、その人となりを知る者はほとんどいない。
「mont suchtのギターは何人も替わったけど、やっぱり鳳蝶の音が一番だと思いますから。
アゲハ蝶って英語でスワロー・テイルっていうでしょう?
だから俺は玄鳥、ツバメを意味する名前にしたんです」
「ツバメ……ですか」
感心したように何度も首を上下する日向子に、玄鳥はまだ赤らみが消えない顔で笑いながら、こう続けた。
「鳳蝶が偉大な『鳳(オオトリ)』なら、俺はまだまだちっぽけな『玄鳥(ツバメ)』なんです」
《つづく》
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