「……ん?」
今日のイベント会場まであと100メートルといったところで、紅朱は思わず足を止めた。
歩道の真ん中にちょこんと猫がたたずんでいる。
黒い仔猫だ。
まだ生まれて何ヵ月といったところか?
お行儀よく座って、大きな金色の瞳でじっと紅朱を見ている。
「……あっち行けよ。縁起悪ィな」
紅朱が睨んでも逃げようとはしない。
「なんだよ、飼い猫か……?」
しゃがんで手を伸ばして銀色の首輪を確認しようとした時、
「その子、私のよ」
後ろから声。
氷と氷がぶつかり合ったような、澄んで凛とした声だった。
振り返ると紅朱よりいくらか年下くらいの少女が立っていた。
ゴシックロリータで全身を包んだ、サラサラした直毛の真っ黒な長い髪が印象的な美人だった。
瞳の色も吸い込まれそうな漆黒で、本当に血が通っているのか怪しいほど真っ白な肌との対比が美しい。
紅朱は少女に向き直って、首をつまみ上げるようにして仔猫を差し出した。
「飼い主なら、ちゃんと管理しとけ。車道にでも出たらどうすんだ」
美少女は無表情で猫を受けとると、
「……首謀者はイヅミって子よ」
美しい声で言う。
「どこかで会わなかったか、聞いてみるといいわ」
「……なんだって??」
紅朱は、無表情なまま黒い生き物を手の中で遊ばせる少女をいぶかしげに見つめた。
「『森久保日向子』をちゃんと守りなさい」
「……お前、なんか知ってんのか?」
少女は黒猫を抱いて、険しい顔をしている紅朱の横をすり抜けていった。
「……『森久保日向子』はいずれ鍵になるわ」
「待てよ」
紅朱は少女の肩を掴んで引き留める。
「意味わかんねェことだけ言って去るな」
少女は紅朱を首だけで振り返る。
「つッ」
あどけない顔をした黒猫の爪が、紅朱の手を容赦なく引っ掻いた。
「うにぁ」
「痛ェな……」
紅朱が手を引くと、少女はまた進行方向へと向き直った。
「……気安いわ。私たちはあなた程度の自由には出来ないの」
結局言いたいことだけ言って去っていく少女の後ろ姿を、紅朱は睨んでいた。
本能が、警戒しろと言っている。
刻まれた爪痕に、彼の髪の色と同じ、深紅がにじんでいた。
《第4章 黒い寓話 -inferior-》【5】
「どういたしましょう。またお父様ですわ」
日向子が見つめるモニターには、またしてもしかめっ面の初老の紳士が映っている。
今回は連れはいない。
「困りましたね」
すっかり出掛ける支度を整えた玄鳥は困惑した表情で同じ画面を見つめた。
「機材を積んでハコまで行くにはもう出ないと……リハに間に合わないかもしれないですね」
長いような短いような3日間が終わり、この部屋に別れを告げて、ライブ会場に向かわなくてはいけない玄鳥。
もちろん日向子とともに向かうつもりだったのだが、今二人で出て行くのはあまりにも危険だった。
日向子の父がいるオートロックの正面口を避けて、裏から回ったとしても、駐車場に行けば鉢合わせるかもしれない。
「玄鳥様、お先に出て下さい。本日は雪乃も来られないとのことですけれど、わたくしはお父様がお帰りになってから、一人で会場に向かいますわ」
「……そう、するしかないですかね」
玄鳥は心底残念そうに嘆息した。
「……でも日向子さん、この3日間本当にありがとうございました」
「こちらこそ、色々なお話を伺えてとても楽しかったですわ。
また、いつでも遊びにいらして下さいね」
玄鳥はちょっと現金に思われるほどにわかに機嫌を回復し、いつもの照れた顔で笑った。
「はい!」
「おはようございます」
軽い挨拶の声とともに楽屋入りした玄鳥は、一瞬にして襲いかかってきた2人の仲間たちに容赦なく両腕をホールドされて捕獲された。
「玄鳥クロトくろとっ! どっ、どうだった!? どうだったワケよっ!?」
「玄鳥はもう、大人の階段を登ってしまったの? ねえ、そうなの?」
「……蝉さん、万楼……あの、どうしたんですか? 一体……」
よくわからないが何か必死な二人に詰め寄られ、どうしていいかわからず、立ち尽くす玄鳥を、有砂が同情するような目で見つめた。
「難儀な連中やな……」
眠そうに口癖を呟く有砂に、状況説明を求めようとした玄鳥だったが、それより早く、
「綾」
少し離れたところで、紅朱が口を開いた。
「日向子はどうした? 一緒に来たんだろ」
「いや……日向子さんならあとから一人で」
「一人で?」
紅朱は腰かけていたパイプの椅子から立ち上がり、明らかに静かな怒りを込めた目を実弟に向けながら、つかつかと歩み寄ってきた。
「バカ野郎。今日が一番危ねェってのに一人にしてどうすんだ!」
「……兄貴?」
「ったく……何のために側に置いたかわかんねェだろうが」
玄鳥は今自分がなぜそんなに怒られているのかわからなかったし、実際玄鳥には直接的に非はなかったのだが、紅朱は、
「リハは俺抜きでやってくれ。本番までには戻る」
早口で言い捨てて、鉄砲玉のように楽屋を飛び出した。
それをただ呆然と見送っていた玄鳥だったが、我に返ると、いきなりの出来事で身体から離れた二人と、それともう一人に、
「俺はリハまでに戻りますから」
と言い残し、風のような早さで兄の後を追った。
「あの……おっしゃっている意味がわたくしには判りかねるのですが……」
いつもの白いバッグを胸の前で持って、日向子は小首をかしげていた。
「だからさー、ちょっと付き合ってって言ってんだよ」
「楽しいところに連れてってあげるからさ♪」
「ねえ、いいじゃん☆」
今日heliodorが出演するライブハウスへ向かう途中の細い路地で、日向子は一瞬にして数人の男たちに囲まれた。
いかにも柄のよろしくない雰囲気のチンピラ崩れのような男たちは、チープな脚本に沿ったかのような台詞をめいめいに口走りながら、馴れ馴れしい軽薄な笑顔を見せる。
「あの、わたくし少し急いでおりますので……お誘いになるなら他の方を当たって頂きたいのですけれど……」
当惑しながらも日向子はあくまで丁寧に頼んでみたのだが、
「そんなこと言わないでよ。ほら、おいでって」
少し乱暴に腕を掴まれてしまう。
「あのっ……」
叫ぼうとした口も塞がれてしまった。
「来てくんないと困るんだよ。もう前払いで半分金貰っちゃってるしさ」
「そうそう。大丈夫、ちょっとラブホでも入って写真撮るだけだからさ」
「オールヌードでね♪」
「ははははは」
「……!」
日向子の思考回路は激しくスパークして、正常に働く状態ではもはやなかった。
男たちの言葉の意味さえ理解できなかったが、ただ大きく邪悪な意志が自分に向けられ、呑み込もうとしていることだけを感じとっていた。
「……っ……」
助けて。誰か。
声に出来ない叫びを上げて、きつく目を閉じた。
と。
ぷしゅーっ。
妙な音がして、冷たい水飛沫が頬にかかった。
「わ、冷てぇっ!!」
「なんだこりゃっ、げーっ」
掴まれていた手と、塞がれていた口がいきなり自由になった。
驚いて目を開けると、服や髪を濡らした男たちが騒いでいた。
一体何が起きたのか?
「走れ! 日向子!!」
そのよく知る声で、はっと我に返る。
中身のなくなったコーラのボトルが足元をコロコロ転がっていく。
「早く! こっちだ!!」
日向子は促されるままに駆け出した。
「あ、逃げるなよっ」
「待てこら!!」
男たちの手をすり抜けて、さしのべられていた手を必死で掴む。
「逃げるぞ、日向子」
「紅朱様……!!」
鮮やかな紅の髪を晩秋の風になびかせながら、紅朱が日向子の手を取った。
けして離れないよう、強く強く握って走る。
日向子はその速さについていくのに必死にならざるをえなかったが、その手の力強さだけははっきり感じていた。
小柄な身体のわりに大きくてしっかりした手の感触。
日向子はそれを、心から頼もしく思っていた。
一方の男たちも急いで日向子たちを追い掛けようとした。
しかし。
「ここは、通さない」
立ちはだかった者がいた。
「な、なんだてめぇは」
「とっととどけ!」
口々にうるさくがなる男たちを、静かに睨みつけて、黒髪に白いメッシュの青年は、きっぱりと言い放った。
「あの人を傷つけようとするなら、俺は絶対に許さない。
命が惜しくないならかかって来いよ……」
「はあ……はあ……」
「……大丈夫か? 悪ィ、無理に走らせちまったな」
「……はぁ……はぁ……いいえっ……あのっ……はぁ……はぁ……」
「無理に喋るな。息が整ってからにしろ。ここにいりゃ、とりあえず安全だしな」
紅朱の言葉に頷いて、日向子はまずゆっくりと息が整うのを待ち、だんだんと落ち着いたところで、キョロキョロと周りを見回した。
無我夢中で飛込んだその空間は、かつて日向子が一度たりとも踏み込んだことない未知の世界だった。
「……紅朱様、あの、ここは……?」
日向子の問いに、紅朱は少しだけ気まずそうに言った。
「……ラブホ」
「らぶほ?」
「……ラブ、ホテルって言やわかんのか?」
日向子の目は、点になった。
「あの……えっと……らぶほてる、といいますと……あの……らぶほてるでしょうか……?」
「……まるで『狂戦士(バーサーカー)』ね」
「……あ」
深くはないが浅くもないだろうダメージを受けたならず者たちが逃げて行った後。
駆け付けた警察に軽く聴取を受け、終わって、一人になった玄鳥に呼び掛けてきたのは、あの少女だった。
「半分は八つ当たりに見えたけれどね」
「……なんですか、八つ当たりって」
「自覚がないのね」
仔猫が緻密なレースをあしらった肩の上でぐいんと伸びながら欠伸する。
「にゅう」
玄鳥はその様を見ながら、
「……お久しぶりです。ライブ、見に来てくれたんですか? 望音(モネ)さん」
努めて普通の口調で語りかけた。
「いいえ。そろそろ気が変わったかと思って会いに来ただけよ」
少女は能面のような顔で囁く。
玄鳥は苦笑して、首を横に振った。
「いいえ」
約束と柔かな温もりを記憶している左手の薬指を、右手で包みながら。
「そう」
少女……望音は淡々と言い放って、仔猫のシュバルツを撫でてやりながら玄鳥に背中を向けた。
「また会いましょう、浅川綾」
細い路地から大通りに出た望音は、路肩に停車していた黒いクーペに歩み寄り、ウインドウがわずかに開いた運転席を覗き込んだ。
「困ったものね、あなたの『鵺(キメラ)』は。まだ自分がただの『玄鳥(ツバメ)』と信じているみたい。
そんな器に収まる器量ではないと、いつになったら自覚してくれるのかしらね」
「……とりあえず、お乗りなさい、『唄姫(ディーヴァ)』。彼が絡むと君は本当にお喋りになる」
運転席から返ってきたのは、上質なワインより心地良く人を酔わせる甘い美声だった。
望音はその美声にすら表情を変えることなく、助手席のドアにゆっくり手をかけ、静かな声で囁いた。
「……ええ。行きましょう。伯爵」
《第5章へつづく》
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