「……え……?」
何かひどい聞き間違いをしてしまったのかと思った。
「……俺たちは本当の兄弟じゃない」
聞き間違いなどではなかった。
「戸籍の上では兄弟でも、血縁から言えば、綾は……俺の従兄弟だ」
「いと、こ……」
まるで目の前の景色がぐるりと反転してしまったように思った。
うつむいた紅朱の表情は未だうかがい知れない。
「……そのことを、綾は、知らない」
《第5章 今宵、囚われて -attachment-》【3】
「ここにいるような気がしたよ」
人気のない夜の公園で、ブランコに座ってうなだれている玄鳥を見つけた万楼は、そのあまりにもセオリーに則った光景に、
「玄鳥って……古典派だよね」
と思わず呟いた。
「……茶化しに来たなら独りにしてくれないか」
玄鳥が目を半眼するのにも関わらず、万楼はちゃんと古典派の流儀に則って隣のブランコに座った。
「あったかい缶コーヒーでも買ってきて『ほら』って投げてあげればよかったかな」
「いらない」
「ごめんごめん、いじけないで」
万楼はスニーカーの先で削れた地面をなぞりながら笑う。
「……玄鳥がリーダーと本気で喧嘩するところなんて初めて見たからちょっとびっくりした」
玄鳥は視線を足元に落としたまま溜め息をついた。
「……大人げないよな、俺も。兄貴のあの手のもの言いには慣れたつもりだったんだけど」
「そうなの?」
「少なくとも今までは我慢できてたのに」
玄鳥はどうやら、楽屋での一件をすっかり反省しているらしかった。
「……日向子さん、何か言ってた……?」
「え? うーん……ボクもすぐ飛び出しちゃったからな。困ったような顔はしてたと思う」
玄鳥は自嘲の笑みを浮かべて、自分の左手を見る。
「……早速、約束破っちゃったかな……」
「約束……?」
「何でもないよ」
玄鳥はその左手でそのまま自分の目元を覆った。
「虫の居所が悪かっただけなのかもしれない……」
「リーダーの?」
「いや、俺のだよ……兄貴と日向子さんを見てたら、なんか……」
言葉に詰まった玄鳥に、万楼は小さく笑った。
「ヤキモチ、妬いちゃった?」
「笑うなよ……」
「ごめん、おかしくなっちゃった。玄鳥の気持ちが、わかり過ぎて」
「え?」
真意を問うように顔を上げた玄鳥を、万楼はいつになく真剣な顔で見つめて、言った。
「好きな人ができたんだ」
まるで美少女のような綺麗な顔をした少年が、「男」の目をしている。
「できればボクが、彼女の特別になりたい。……玄鳥も、そうなんでしょう?」
「万楼……」
たとえ名前を口にしなくても、玄鳥にも容易に察することができた。
万楼が好きになったという女性が誰であるか。
それは、玄鳥が想うのと同じ人だ。
「だからボクは、もう玄鳥の応援はしてあげられないんだ」
万楼が苦笑する。それが伝染したかのように、玄鳥も微かに笑んだ。
「……参ったなあ。これ以上ライバルが増えないでくれるといいんだけど」
「ねーねー、マジであれ、フォローしなくてよかったの?
これがきっかけでウチ解散しちゃったりしないよねー?」
「そうなったら心置きなく、ピアノに専念できるやないか。よかったな」
「笑えない冗談言わないの!」
年少二人が夜の公園で古典的に友情を深め合っていた頃、同居コンビは自宅に帰り着いていた。
帰宅するなり蝉は、有砂の部屋に居座ってずっとぶつぶつ言っていたが、有砂のほうはいたって冷静だった。
ベッドに寝転がって恨めしそうに見つめる蝉はそっちのけで、テーブルに頬杖をついて求人雑誌をめくっている。
「ねーねーねー、よっちんは心配じゃないワケ? あの仲良し兄弟が大喧嘩だよ?」
有砂は雑誌をめくる手も、記事を追う目もそのままで、
「賠償請求はな、親子間では成立せんけど、兄弟間では成立するらしいで」
「……はい?」
「兄弟は他人の始まり、ゆうことや……なんぼ仲が良くても、他人が腹の底で何考えとるかなんて、実際のところは言われるまでわからんもんやろ」
蝉は少しだけ考えてから、
「……つまり、たまには言いたいこと言って喧嘩するのもいいかも……ってコト??」
有砂は答えなかったが、蝉は「そっかそっか」と感心したように首を何度も上下する。
「よっちんてばなかなか深いコト言うじゃん……無駄にバンド内最年長ってワケじゃなかったんだね~」
「……大体、首突っ込むのも面倒やしな。よその家の兄弟喧嘩なんて」
蝉は、枕に預けていた頭をちょっと持ち上げた。
「羨ましいと思わない?」
有砂の手が止まった。
「おれの妹は喧嘩出来る年になる前に天国に行っちゃったんだよね……だけどさ」
蝉は笑う。
「いつかよっちんは、ちゃんと喧嘩出来るといいね」
「……なんやそれ」
「そろそろ捜してあげなよ、有砂ちゃんのこと」
「……捜して、どうなるんや?」
「んー……わかんないケド、とりあえずうちのお嬢様は喜ぶんじゃないの」
「お嬢喜ばせて何かオレに得があるんか?」
ようやく雑誌から視線を離して、有砂は蝉を見やった。
蝉は何故か妙にニヤニヤしている。
「そゆコト言うケドさ……ぶっちゃけ、よっちんは、日向子ちゃんのコトどうなのよ?」
「……何が?」
「ちょっとはオンナとして意識したりしないの?」
「……なんで?」
「なんでってこともないケドさ、あの子のお目つけ役としてはちょっと気になるワケよ」
有砂はいよいよ憮然とした面持ちで、蝉を睨む。
「オレはあんなガキに手出すほど女に不自由してへんから」
「……手出そうとして拒否られて、平手打ちされたくせに……っ、あたっ!」
飛んできた雑誌の固い角が蝉の額にジャストミートした。
「うっさい」
「ぼ、暴力反対~」
若干涙目になりながら額を押さえる蝉に、
「ジブンこそどうなんや」
有砂はすかさず反撃を開始する。
「お嬢様のためなら火の中水の中なんやろ?」
「え、そりゃそうだケド……あの子はおれの家族だしさぁ……それに」
蝉は真っ赤なおでこを晒しながら、少し複雑な笑顔を浮かべた。
「何にしたってさ、あの子にとって大切なのは『雪乃』で『蝉』じゃないからね~」
「綾が弟になったのは、俺が5才、あいつが3才ん時だ」
くしくも数日前、美々が座っていたのと同じ席に座って、日向子は紅朱の話に耳を傾けていた。
「綾の実の母親……俺の叔母は、一人で綾を生んで育ててたんだが、元々大きな病気を患ってて、それが元で死んだ。
俺は叔母に懐いて、よく遊びに行ってたからな……かなりショックだったし、はっきり覚えてる」
時折、コーラのグラスを口に運びながら、紅朱はゆっくりと過去を紐解いていく。
「綾はまだ小さかったから、覚えてないし、教えるつもりもない。
今は浅川の家があいつの家だからな。
幸い、姉妹だった母親同士がよく似てたおかげで、俺と綾の容貌も似てたから、誰に疑われることもなかった」
「そうしてずっと……20年も、兄弟として過ごしていらっしゃったのですね?」
「ああ」
そういえば玄鳥は、父方の遺伝だという赤みがかった髪も引き継いでいない。
もちろんそれが100パーセント引き継がれるとは限らないから取り立てて不思議に思う者はいないだろうが。
「……最初の10年は、あいつの『兄貴』になることが課題だった。そっからの10年は俺があいつの『兄貴』であり続けることが課題になった。
その境目になったのが、中学時代に起きた事件だ」
紅朱の赤みかがった瞳に、怒りをたたえた炎が不意に灯った気がした。
「……綾の実の父親が、恥じ知らずにも訪ねてきやがったんだ。
今更綾を引き取りたいとか抜かしやがって、あの下道……」
「そんな……」
「もちろん俺も浅川の両親も断固拒絶してやったさ。綾にはバレなかったが、万が一バレたらって不安が、その日から俺の中に住み着いた」
「あの」
日向子は思わず言った。
「わたくしは、もしも玄鳥様が真実をお知りになったとしても、長年家族として暮らしていらっしゃった浅川の皆様を捨てるようなことはないと思うのですけれど……」
他の誰かならいざ知らず、なにしろあの玄鳥のことだ。
しかし紅朱は、日向子を、およそ普段からは想像出来ないほど弱々しい目で見つめる。
「……だけどあいつは、父親の名前を知ったら、きっと迷う」
「……なぜですの?」
「……それはっ」
紅朱は一瞬、言いかけた言葉を飲み込んで、別の言葉を口にした。
「……俺が違う道を選んでいれば、こんなことにならなかったんだ……だから、俺には浅川家の平穏を守る責任がある。
俺はいつまたあの男が来てもいいように、綾を引き留められるだけの強さを持ってなきゃなんねェんだ。
どんなに迷ったとしても最後には俺を……浅川家を選ばせるために」
悲愴な決意を語る横顔は、とても青ざめて見えた。
この人をここまで脅えさせるものはなんなのだろう……と日向子は思った。
今は聞いても答えてくれないのかもしれないが。
日向子もまたその問いを飲み込んで、別の問いを口にした。
「紅朱様は、玄鳥様を……支配したいのですか?」
「……」
紅朱は何も言わず、苦しそうに眉間に皺を寄せて、手の中のグラスを見つめていたが、
「人と人の絆は、力ずくで繋ぎ留めたり、引き離したりするものでしょうか?」
その言葉に一瞬目を見開いて、日向子をを見た。
その目は、懐かしい古い写真を眺めているかのように、微かに細められている。
「同じこと言い残して、出てった女が昔いた」
「え……」
「……3年も経つのに、何も成長してねェ」
3年前に出ていった、紅朱の大切な女性……本人の口から直接その人の話が出たのは、恐らく初めてだった。
「粋さんの……」
紅朱のこの目は、粋のためのもの。
ただひとり、長い間ずっと紅朱の心を囚えたままのひと。
日向子の胸は、何故かチクッと痛んだような気がした。
紅朱はコーラの残りを一気に飲み干し、深く息を吐き出すと、不意に乾いた笑いを浮かべた。
「……綾が、あんなにムキになって俺に歯向かって来たのは初めてだった。
あいつは急速に成長して、俺の手から離れようとしてるんだろう……。
それを素直に喜んでやれない俺は、所詮偽物の兄貴でしかないのかもな」
「そのようなことはありませんわ!」
日向子の声は無意識に大きくなってしまっていた。少し驚いている紅朱に、日向子のは微笑みかける。
「『バカ野郎』ですわ」
「あ?」
予想だにしない言葉を投げ掛けられて、唖然とする紅朱。
日向子は微笑みを絶やさずに続ける。
「紅朱様は、紅朱様が思うよりずっとよく頑張っていらっしゃいますわ。
わたくしが認めて差し上げましてよ」
「お前……」
「わたくしがそう言っているのですから、どなたにも文句は言わせませんわ」
暗闇の中で日向子を包んだ温かい言葉を、そっくりそのまま返した。
「っ……ははは」
紅朱は思わず吹き出して、笑い出した。
「……言っとくが俺は泣かねェからな!」
「もし泣きたくなったらおっしゃってください。
わたくしは後ろを向いておりますから」
「だから泣かねェっての」
紅朱は笑った顔のままで、ぽつり、と呟いた。
「……今日の話、誰にも言うなよ。他に知ってんのは綾以外の家族と、あいつの実父だけだからな」
「もちろんですわ……けれどよかったのですか?
わたくしなどに話してしまって……」
「ああ。お前にはいつか聞いてもらいたかった」
紅朱の目は、いつになくとても優しかった。
一つ嵐が去った後の空のように。
「……思った通り、なんとなく軽くなった」
《つづく》
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