クラシカルなデザインの紺色のセーラーをまとった可憐な少女は、冬の冷たい風に身震いしながらも、自室の窓から見える白亜の建物を背伸びして眺めていた。
「お嬢様、お召し換えをな…らないのですか?」
まだ中学に上がったばかりの少年が、声変わり前のボーイソプラノには似合わない口調で話しかけても、幼い少女は外ばかり見ている。
「……ねえ、雪乃?」
「はい……?」
「……一昨日からゲストハウスにお泊まりのお客様……一度もお姿を拝見しておりませんが、どういった方なのかご存じでして?」
「詳しくは存じませんが、先生の音大教授時代の教え子の方と伺っております」
「まあ、では雪乃にとっては兄弟子様にあたるのですわね?」
「はい……確かに」
そういえば先程から、風に乗って微かにピアノの音が聞こえる。
冴え冴えとして冷たい、冬の景色によく似合う音色。
「……なんて美しくて……せつないメロディ……」
《第5章 今宵、囚われて -attachment-》【4】
「……お嬢様?」
呼び掛けには応答がなかった。
雪乃はバックミラーから、後部座席をうかがった。
日向子はバッグを抱えたままウインドウに頭を預けてすっかり眠ってしまっている。
彼女は深く深く、「思い出」という名の夢の世界へと旅立っていた。
雪乃は、溜め息をつき、眼鏡を少し下にずらして独り言を呟いた。
「……ゆうべは帰るの遅かったのかな……。
お疲れ様、日向子ちゃん」
それは冴えわたる満月の夜。
フリルたっぷりの白いガウンをまとった小さな少女は、寒さに震えながらも、大理石の渡り廊下を忍び足で歩いていた。
こんなところを誰かに見付かればただでは済まないに違いないが、好奇心には勝てない。
ゲストハウスから時折流れるあの旋律。
奏でているのがどんな人なのか、突き止めなければ眠れない。
幸運にも誰の目にもとまらずに白亜の建物まで行き着くことができたが、どうやらそこには最もたちの悪い先客が来てしまっているようだった。
彼女の父親が、誰か……恐らくは例の客人と話している声が聞こえる。
はしたないことと知りながら、少女は大きな扉の鍵穴を片目で覗きこんだ。
「……釘宮先生」
甘く、たっぷり艶を含んだ声で、青年が囁く。
「……これ以上押し問答を続けて何とします?
私の気が変わることは、金輪際ないと断言致します」
「君はどうしても、その珠玉のような才能を自らドブ川に棄てたいというのかね」
「ドブ川とは……また、実に手厳しい」
対面にどかりと腰を下ろし厳しい目付きで睨む中年男性に、青年はふっと含みのある笑みを見せる。
「ならば先生、私はドブにつかりきったドブねずみということですよ。
こんな卑しい奴めはお捨て置き下さい」
「馬鹿なことを言うんじゃない。君のピアニストとしての才能は本物だ、今からだって遅くはない。
私は君を釘宮の後継に指名したい」
「……後継なら、勤勉で素様ある利口な少年を見つけられたのでは?」
「あれはまだほんの原石だ、磨き上げても君を越える大器となる保証はない」
「……まあ、ごもっともですね」
青年は不思議な笑みを浮かべたまま、中年男性をその切長の眼差しで見つめる。
「あいにくと私にとりましては、音楽大学に進んだことも、ピアノを専攻したこともほんの暇潰しです。
私は何故か、暇潰しで始めたことでも人より巧く出来てしまうことが多いものですからね。
釘宮先生の後継……というのは、暇潰しで襲名するには少々荷が重いのでお断り致します」
「君という男は……」
呆れたようにうめく中年。
「……お約束通り、5日後の式典が最後です。お諦め下さい、先生」
中年男性……父親がこちらに来るのに気付き、少女はとっさに開く扉の陰に身を潜めた。
憤慨した様子ですたすたと歩く父親は、一人娘がそんなところに隠れていることには全く気付かなかった。
少女が小さな胸を撫で下ろしていると、
「……今晩は、どちら様かな」
あの甘い囁き声が部屋の中から響いた。
「もう隠れなくていいですから、入っていらっしゃい」
少女はおずおずと、部屋の中へ入って行った。
20代後半と思われる、背の高い細身の青年が革張りのソファに腰かけて笑っている。
「おや、これは可愛いレディのおでましだ」
レディ、と呼ばれたことで少女はにわかに姿勢を正し、ガウンのすそをつまんでレディらしいお辞儀をした。
「釘宮日向子と申します。どうぞお見知り置きを」
青年は楽しそうに微笑しながら立ち上がり、こちらも紳士らしく丁重に、
「お目にかかれて光栄です。私のことは……伯爵とお呼び下さい、レディ」
「かう……んと様ですの?」
「無論、爵位を賜った本物の伯爵ではないが……人からは何故かそう呼ばれていてね」
日向子は、確かにその呼び名はこの青年に本当によく似合うと思った。
「伯爵様……ピアノをお辞めになりますの?」
父親と青年の会話は11歳の少女にはいささか難解極まり、更にはところどころ聞き取れなかったため、全てを理解出来たわけではなかったが、どうやら青年はピアニストになるつもりがなさそうなのは確かだった。
「さて……折りを見て弾くこともあるやもしれないが。あなたのお父上の望むような形ではないだろうね」
「そうですの……」
日向子が少し残念そうな顔をしたので、伯爵はふと微かに目を細め、ゆっくりと歩み寄った。
「レディ」
膝を折って日向子の視線の高さに合わせると、ここにくる間にすっかり冷えてしまった柔らかい頬に、大きな手を当てがった。
温かい部屋の中にいた筈の伯爵の手が、更に冷たいことに日向子は驚いた。
けれどそれよりも、間近で見る伯爵の瞳は氷塊のように冷たかった。
「……人にはそれぞれ偽れない本性というものがある。本性を隠したまま生きることは窮屈で不自由で、退屈なものになるでしょう。
私は自分の本性が何者か、何を求めるか……よくわかっているので、他のものは全て切り捨てることができるのだよ」
「切り捨てる……?」
「本当に欲しいものを手に入れるためなら、その覚悟は必要になる……例えば将来美しく成長したレディには、何人もの紳士から求愛されるかもしれない。しかしその中から選べるのは一人しかいない」
日向子はこくんと頷いた。
伯爵はあくまでも優しい笑顔を見せる。
「いつかそんな相手と出会ったら、けして躊躇ってはいけないよ」
いつか、と伯爵は言う。
けれど日向子は今、目の前の双つの瞳が放つ月光のような光に釘付けになっていた。
まるで満ちた月の引力のように。
伯爵の声も眼差しも、冷たい指も、日向子の心をするすると引き寄せる。
そっと小さな手を、頬を包む伯爵の大きな手にそわせ、真っ直ぐに見つめる。
「ではわたくしは……何を捨てれば伯爵様を手に入れることができますかしら……?」
伯爵は一瞬眉を持ち上げ、すぐにまた余裕げな笑みに戻った。
「この伯爵を求めるのですか? レディ」
「……お嬢様!」
はっと日向子は目を開いた。
「恐れ入りますが、そろそろお目覚め下さい」
ドライバーシートから、ボーイソプラノではないが、夢の中と変わらない口調で語りかける幼馴染みをしばらくぼんやり見つめていた日向子だったが、だんだん頭がはっきりしてくる。
「そうでしたわ……お仕事……行かなければいけないのでしたわね?」
「左様でございます。お疲れのところ大変かと思いますが、お急ぎにならないと遅刻されます」
遅刻、の二文字に一気に覚醒した日向子は、
「ありがとう、雪乃」
短く労って、雪乃にドアを開けてもらうのを待たずにバッグを抱えて飛び出して行った。
駐車場からオフィスビルへ向けて、本人的には全速力で走りながら、日向子は今しがた見た夢を思い出していた。
それは間違いなく過去、本当にあったこと。
日向子が初めて伯爵を名乗る紳士と出会い、瞬く間に囚われてしまった不思議な夜の記憶。
どうして今になってこんな夢を見たのだろうか、と疑問に思いはしたが、思いがけず夢の中で伯爵と会えたことに日向子はときめきを感じた。
今日は素敵な一日になるかもしれない。
そんな淡い期待は、驚くほど早く裏切られた。
「森久保日向子」
編集部のビルまであとほんの少しというところで、目の前に立ちはだかった者がいた。
それが見知った少女だったので、日向子は立ち止まる。
「あなたは……いづみ、さん?」
柔らかなピンク色のダッフルコートを着た少女が、真っ白な息を吐きながら、日向子を凝視していた。
「意気地なしな連中はとっとと諦めたけど、わたしは引かない」
「何を、おっしゃってますの……?」
少女の瞳には深い闇が映っている……狂気という名の闇が。
「お金の力を使ったの? それともその可愛い顔でメンバーに取り入ったの?
……それともやっぱり、寝たの?」
日向子はざりっと一歩後ずさった。
「いづみさん……」
少女がコートのポケットに突っ込んでいた手を引くと、そこには危うく輝く銀色の刃が握られていた。
「いづみ……さん……」
壊れたラジカセのように、呆然と繰り返す日向子。
いづみはキリキリと最大まで刃を押し上げたカッターを右手に握って、叫んだ。
「粛清……!!」
カッターを握ったいづみがスプリンターのように全速力で駆け込むのが見えた、その直後。
日向子が見たのは千切れて風に踊る「深紅」の破片だった。
その向こうにへたりこむいづみと、コンクリの地面に叩き付けられて、刃が真っ二つになったカッター。
「……っ」
短い吐息が耳をくすぐった。
「……間に合ったな」
囁く声は甘く、けれどよく通る強い響き。
日向子の身体を片腕で支えながら、覆い被さるようにして立っていたその声の主は、
「……お前は絶対に一言も喋るな」
きっぱりと命令して、日向子に背を向けた。
日向子は今更のように頷いて、声には出さずに彼の名前を呼んだ。
紅朱様……。
「なんで……あなたが?」
愕然としているいづみに、紅朱は告げる。
「ああして宣戦布告してやれば、反応は2つに1つだろ。諦めるか、ぶちキレるか……。
こんくらいは想定してるに決まってんだろ」
紅朱は舌打ちして足元のカッターを蹴った。
「バカだろ、お前。こんな工作カッターじゃ、ジャケットすら貫通しねェよ」
日向子は、思わず声を上げそうになった。
言葉とは裏腹に、綺麗に袈裟がけに切り裂かれたジャケットからはとめどなく血が滲み始めている。
「……気に入らねェから力ずくで排除なんて馬鹿馬鹿しい考えは捨てちまえ。
そんなもんじゃ、人の絆は左右出来ない……この女に教わったことだ。
俺なんかよりずっと森久保日向子は器のデカイ女なんだよ。
それを逆恨みなんてとんだお角違いだ」
痛みなど感じていないというように、全くなんでもない口調で紅朱は、いづみに呼び掛ける。
「わかったら、謝れ」
《つづく》
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