「紅朱様っ」
何度も何度も「ごめんなさい」を連呼して、泣きながらいづみが去ってしまうと、すぐに、紅朱は崩れるように膝を折った。
黒いジャケットの背中には裂目にそった染みが広がっている。
「……だせェな、綾なら無傷で守れたかもしんねェ」
「何をおっしゃっ……」
感情が一気にあふれ、息が詰まって言葉にならない。
自分を省みず守ってくれたのだ。
そればかりか紅朱はとっさに血のついた凶器を遠くへ蹴り飛ばし、痛々しい傷口をいづみに悟られまいとしたのだ。
彼女の罪を軽くしてあげるために。
立ち直るチャンスをあげるために。
痛みに耐えて、立っていたのだ。
「……おいまさか、泣いてねェだろうな……?」
日向子に背中を向けたまま、紅朱は囁く。苦しげな呼吸の狭間で。
「泣いたりしたら承知しねェからな……」
そしてゆっくりと、冷たいコンクリートにその身を沈めた……。
「……紅朱様……!!!!」
《第5章 今宵、囚われて -attachment-》【5】
「綾。預金通帳とにらめっこは楽しいのか?」
「うわっ……! 兄貴」
急いで引き出しの中に押し込まれる「浅川綾」名義の通帳。
「なんか、でかい買い物すんだろ」
「ち、違うよ……なんでもないよ」
「……あ、そ」
「部屋に入る時はノックしてくれっていつも言ってるだろ」
「はいはい」
適当に返事して部屋を出る。
別にしつこく追求する必要はない。
約10年も「兄弟」をやっていれば大抵のことは察しがつく。
本人は真剣に隠しているつもりなあたりが愉快で、すぐに誰かに話したくなる。
「おい、また綾の病気が始まったぞ、ババア」
夕食の準備をする後ろ姿に話しかける。
「そう……綾ちゃん、今度は何がしたいって?」
とんとんと長葱をリズミカルに刻みながら、尋ねてきた母に、軽い口調で答えた。
「多分、ギターだな」
包丁の音が、止まった。
「ギター……」
「俺がクラスの奴とバンドやってんの見てやりたくなったんだろ。
全くしょうがねェよな、あいつも……」
「お兄ちゃん」
背中を向けたままの母が、嫌に静かな声で告げる。
「そのこと、お父さんにはまだ話しちゃダメよ」
その声と、動かない背中だけでビシビシと伝わってくる感覚。
禁忌の気配。
何か口の中が一気に、乾いてしまったような気がした。
「……なあ」
言葉を絞り出す。
「ジジイ……なんで俺がバンドやりたいって言った時、あんなに反対したんだ……?
他のことは『なんでも経験だからやってみなさい』って感じなのに……なんで、音楽だけ……さ」
母の小さな背中が、微かに震えている気がした。
「きっと……お兄ちゃんを見て、綾ちゃんも音楽をやりたがるから……そうすると母さんが悲しむと、思ったからよ」
か弱い声が、絞り出す。
「……綾ちゃんの本当の両親はね、二人ともミュージックだったの……昔一緒にバンドをやっていたのよ」
「……え?」
「可愛い妹が、ギターケースを抱えて、駆け落ち同然に家を出て行った時は本当に寂しかった……だから。
……怖い……音楽という翼を得たら、綾ちゃんもどこかへ行ってしまいそうで……っ」
「……ババア、泣いてんのか……?」
駆け寄りたいと思う反面、強烈な罪悪感で、金縛りにあったように動けなくなる。
もし自分が音楽の道に進みたいなどと思わなければ、こんなふうに悲しませなかったんだろうか?
「……綾は俺の弟だろ。浅川家の家族だろ……どこにも飛んで行かせたりしねェよ。
……翼をへし折ってでも、俺が繋ぎ留めてやる」
必死に慰めたつもりだったのに、静かなおえつが止まることはなかった。
どうしていいかわからなくて、ただただ立ち尽くすしかなかった。
「……あったま悪ィ……」
「え? 何かおっしゃりまして?」
「なんか昔のことをちょっと思い出したんだ……走馬灯みてェな感じだ」
「まあ、縁起でもない表現をなさらないで下さい」
「センス悪かったか? 多目に見ろ……頭ん中ぼーっとしてっからな」
日向子は即座に救急車を呼び、万楼の件でも世話になった病院に紅朱を搬送してもらった。
無論、今度のことを「事件」にしないためだ。
紅朱の背中の傷は出血量が多く、少々の輸血と15針の縫合を要した。
意識が覚醒して後も、すぐには気分がすっきりしないのは当然とも言える。
「それにしてももったいなかったですわね……紅朱様のおぐし……」
日向子お気に入りの深紅の髪は、カッターで切断され、不揃いになってしまったため、結局切り揃えられてしまった。
サイドと同じ長さになったため、まだ男性としてはかなり長めとはいえ、肩につかないくらいの長さになってしまった。
「別に、たかが髪だしな……。まあ、お前が気に入ってんならまた伸ばしてもいいが」
「ええ、ぜひ!」
日向子は紅朱の傍らで、しゅるしゅると梨をむいていた。
「……そういうことは得意なんだな? お前」
日向子は誉められたことに素直に喜びながら、一切れを楊枝に刺して紅朱に差し出した。
「どうぞ召し上がれ」
「ん」
紅朱は何の躊躇いも恥じらいもなくそれに食らいつくと、しゃくしゃく食べた。
「こういうのは、ガキの頃にババアにやってもらって以来だな」
日向子はほとんど反射的に、
「粋さんにはして頂かなかったのですか?」
言い終わってすぐに後悔するような配慮のない質問を口にしてしまい、その通りにしっかり後悔した。
「……下世話なことをお聞きしてしまいましたわ」
「ねェよ」
「……はい?」
紅朱は大して気を悪くしたふうでもなく答え、
「粋とは別に、恋人だったわけでもないからな」
驚くべき事実を明かした。
「大方蝉辺りが言った冗談を間に受けたんだろ?
一緒に暮らしてたこともあるし、公私ともにかけがえない相手だったことは認める。
俺たちは……言ってみれば親友だった」
「親友……」
「ああ。戦友と言ったっていい。
男だ女だなんて関係ない、信頼で結ばれたパートナーだった。
はっきりした理由も言わず、heliodorを抜けたい、なんて言い出す前までのことだけどな」
微かに目をふせた紅朱の、その表情には嘘があるとは思えなかった。
紅朱と粋は恋人同士ではなかった。
けれど、あるいはもっと深い絆のある関係だったのかもしれない。
紅朱は背中の傷よりもずっと痛みを伴う心の傷を辿って言った。
「あの時、俺は初めて粋に手を上げた。力ずくで、引き留めようとした。
俺のくだらない常套手段だな……」
「紅朱様……」
紅朱は溜め息をついて、それから心配して顔を曇らせる日向子を見つめた。
「全くお前の言う通りだ。力ずくで解決することなんか何もねェな。
ただ力を振るった罪悪感が残るだけだ。
ガキの頃から人の上に立ってやりたい放題やってきたが……俺は元々、リーダーの器じゃねェのかもな……」
「まあ」
日向子は何故か半分怒ったような顔で紅朱を見つめ返した。
「heliodorの皆様は、紅朱様のことが恐ろしくて逆らえないような弱虫さんではありませんわ」
「……あ?」
「あのように個性的な皆様を束ねること、力だけでは無理だとは思いませんか?
メンバーの皆様はもっと違うところを見て、違うところに惹かれて、紅朱様についてきていらっしゃるのではないでしょうか」
紅朱は何か言おうとしたが、それを遮って、とんとんと病室のドアを叩く音がした。
「リーダー、入ってもいい?」
廊下から聞こえてきた声に、一瞬驚いて反応が遅れつつ、
「……ああ」
紅朱は入室を許可した。
「お見舞いにお菓子作って来たよ。エクレア嫌いじゃなかったよね?」
最年少のバンドメンバーが、ラッピング用のバスケットを抱えて顔を出した。
「万楼……」
「この間はリーダーがボクの病室に駆け付けてくれたよね」
日向子にバスケットを預けた万楼は紅朱ににっこり微笑む。
「リーダーは、大切な人、だからね」
万楼に続くように、賑やかな声が飛込んでくる。
「紅朱大丈夫~!?」
蝉だ。
「ってゆーか、一人でカッコつけるからこんなことになるんじゃん。おれたちにも相談してよ!」
「……お嬢が重傷ゆうから来てみれば、案外けろっとしとるやないか、しぶとい男やな」
有砂も続いて部屋に入ってきた。
続々とやってくるメンバーたちに、まだはっきりしていない頭のせいもあって、返す言葉の見付からない紅朱。
日向子はそんな彼をなんとなく微笑ましく思いながら、見つめていた。
そして。
「……兄貴」
病室の入り口から、気まずそうな声。
紅朱のことをこう呼ぶ人間が、世の中に二人といるわけがない。
メンバーと日向子が見守る中、うつ向き加減でゆっくりとベッドに近付く。
「綾……」
「兄貴、あのさ……俺……」
「ちょっと待て」
強い口調で紅朱は玄鳥の言葉を遮った。
「謝ろうとしてるだろ、お前」
「え……うん。だって、俺……」
「謝んな」
玄鳥ばかりでなく、その場にいた全員がいぶかしげな顔で紅朱を見つめていた。
紅朱は、玄鳥を真っ直ぐに見て言った。
「……ここでお前に謝られたら俺はまた、成長できなくなる。
……謝るのは俺だ。俺が、間違ってた」
「兄貴……」
紅朱はゆっくり目を閉じて、告げた。
「……ごめん。あと……ありがとな。お前がいてくれて助かった。
これからも俺の右腕として……支えてくれるか?」
一気に言い切ったあと、気恥ずかしそうに、視線を泳がせながら、紅朱は玄鳥に右手を差し出した。
玄鳥は一瞬惚けたような顔をしていたが、
「……兄貴……」
感極まって瞳を微かにうるませながら破顔一笑した。
「……うんっ。俺、頑張るよ」
しっかりと、手と手が重なり、強く握る。
紅朱の顔にも、ようやく笑みが浮かんだ。
浅川兄弟にとっての新しい始まりの瞬間。
日向子も心からの笑顔で、パチパチと拍手する。
それに万楼が続き、蝉が加わり、ついに有砂も付き合った。
拍手と笑い声の響く病室の中は、日溜まりのような温かい空気に包まれていた。
「D-union」が公式ホームページのトップに解散の告知を出したのはそのすぐ後だった。
会長である「イヅミ」の真摯な謝罪文を残して、「D-union」は消滅した。
紅朱は力ずくではない方法で、事態を収拾したのだ。
暴力より遥かに難しく、遥かに強い……「優しさ」でいづみの心を動かした。
「落着……ってところみたい」
「会員各位」への解散告知・謝罪メールを開くことなくゴミ箱に葬り去りながら、愛想の欠片もない黒ずくめの美少女は紅茶を口に運ぶ。
「助かったわ。まだ彼女は利用出来る……役に立ってもらわないと困るもの」
「……おいクロ助、お前のご主人、また何かすごいこと言ってるぞ」
「にゅ」
ハスキーな声で楽しそうに囁く女性から、差し出されたブラシ状の玩具でじゃれる黒い子猫。
黒衣の美少女はノートパソコンから目を離し、テーブルの向かいで愛猫をもてあそぶ彼女をじっと睨んだ。
「シュバルツよ。今はまだ名前を覚えさせているところなんだから、変な名前で呼ばないで、アルテミス」
「お前こそな……誰がアルテミスだ」
美少女は子猫を手元に引き寄せて、黒で彩った指でくすぐりながら、小さく呟いた。
「たくさん名前があって貴女は面倒だわ。一体どの名前が一番好きなの?」
じゃらす対象のなくなった猫じゃらしを指先でしならせて遊びながら、凛々しき狩猟の女神はふっと笑った。
「……粋、かな」
《第6章へつづく》
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