三度目のチャイムでようやくゆっくりドアが開いた。
「おはようございます!」
日向子サンタは、もちろんそこにはこの部屋の住人のどちらかが立っているものと信じ、元気よく挨拶した。
「あら……?」
しかし、日向子の視界には何故か誰もいなかった。
ドアを開けた人物は、実はもう少し下にいたのだ。
「……だあれ?」
何故か足元から可愛らしい声がする。
日向子はゆっくりと視線を下方へスライドさせた。
「まあ」
小さい男の子が日向子を見上げていた。
初めて見る子どもの筈だが、なんとはなしに見覚えがあるような気がする。
日向子と男の子はお互いに不思議そうな顔をして見つめ合っていた。
と。
「おいクソガキ、何勝手に開けと……」
奥から有砂が姿を見せたが、日向子の姿を見つけるなり、一気に顔を引きつらせた。
「お嬢……っ」
日向子は何気無く男の子と有砂を交互に見比べた。
似ている。
「有砂様……お子様いらっしゃったのですか??」
《第6章 11月のキャロル -May I fall in love with you?-》【2】
「……帰れ」
すっかり目をすわらせて、即座に玄関のドアを閉めようとする有砂に、日向子は少し慌てて、
「も、申し訳ありません! お待ち下さいませ!」
なんとかそれを制する。
「では、この子は一体どこの子なのですか?」
「それは……」
有砂は彼にしては珍しく当惑したように目を泳がせる。
「……まあ、ここではなんやから」
どうにか入室を許された日向子は、本来の目的はひとまずおいておいて、
「……それであの、この子はこの状態でよろしいですか?」
と、自分の膝の上を示す。
有砂にどことなく顔立ちの似た、謎の少年は日向子がソファに座るなり、その膝の上にどかっと頭を乗せて寝転がってしまったのだ。
「……このガキは生意気に……」
有砂はなんだか面白くなさそうだったが、
「まあ、おとなしゅうしとんのやったらええか……」
と溜め息をついた。
何やらリラックスした様子だったが、目線はじっと日向子の顔へ向いたままだ。
「お可愛らしい。甘えん坊さんですわね?」
にこっと笑いかけると、びくっと反応していきなり、うつ伏せ寝に切り替わった。
「……あら?」
「……何を照れとんねん、ガキのくせに」
「うふふ」
日向子は、少年の頭を撫で撫でしてあげながら、
「……お話、聞かせて頂けますか?」
と有砂を見やる。
有砂は相変わらず、何故かひどく気まずそうな顔をしている。
「……そいつは、菊人(キクヒト)。薔子さんと親父の子……やねんけど……今、ちょっと預かっとんねんか」
回りくどい言い方だったせいで日向子は一瞬考えてしまってから、
「では有砂様の弟様ですの!?」
思いきり驚いた。
「弟ゆうても、コレが生まれる頃にはオレは家を出とったから……ほとんど初対面やな。
しかも薔子さんともども半年近く前に沢城の籍抜けとるから、姓もちゃうし」
「そうですか、薔子様が引き取られたのですね」
日向子がそう言うと、何故か有砂はますます決まりの悪そうな顔になった。
「あの……何か、お気に障りまして?」
心配して尋ねると、
「……別にそういうわけちゃうけど……」
などと曖昧に答えながら、そんな有り様が自分でも嫌になったのか、一つ息をついて、切り出した。
「オレは、菊人を薔子さんから預かったんやで」
「?……ええ」
「ということは、未だに薔子さんと会おたりしとるんやで」
「はあ」
「はあ、て……お嬢は、別に気にならへんのか?」
「……はい、特に」
「……あ、そう」
「あの……気にしたほうがよろしいですか?」
「……別に結構や」
有砂はどこか不満そうに見えたが、日向子にはその理由がよくわからなかった。
だが本当は、有砂にも自分が苛立っている理由がよくわかっていなかった。
よくわからないまま無言の気まずい空気が流れ出し、
「……あの……」
日向子は何か別のことを尋ねようとしたが、その瞬間、いつの間にか仰向けになっていた菊人が、なんの前ぶれもなく口を開いた。
「……おねえちゃん、おとななのにおっぱいないの?」
言うが早いか手を伸ばして、もふ、と日向子の胸にタッチした。
「ぺったんこ」
色々な意味で大人二人は絶句した。
「このガキは……ホンマ……」
呆れ果てる有砂。一方、日向子はしばらく固まった後で、じんわり顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……ぺったんこ」
「密かに気にしとったんやな、お嬢……」
「……ぺったんこ」
あまりにも深く沈んでしまったAカップの令嬢に、流石の有砂も同情せずにはいられなかったようで、
「別に、そない気にすることないやろ……こいつの場合基準のハードル高いからな」
どうやらフォローらしき言葉を口にしたのだが、日向子はしょんぼりしたままじっと有砂を上目で見つめた。
「薔子様のお胸はそんなに豊かでいらっしゃるのですか……?」
有砂は一瞬間をおいて、
「……まあ……結構」
「……今、どんなだったか思い出してらっしゃいました?」
「っ、違っ……」
有砂はとっさにソファから若干腰を浮かせた。
「……冗談ですわ」
と、日向子は苦笑して見せた。
「あまりにもショッキングだったので、ちょっぴり八つ当たりしてしまいました。申し訳ありません」
有砂は黙って、一つ息を吐いてから、まるで取り繕うように座り直した。
「……まったく、特に気にならへんとかゆうて、案外気になっとるんちゃうやろうな、ジブン……」
口をつくのは文句だったが、何故か有砂は先刻までよりいくらか機嫌がよさそうに見える。
日向子は、そんな有砂をどこかとらえどころなく感じつつも、改めて充実しているとはお世辞にも言い難い胸に手を当てた。
「……やはり殿方はお胸が大きいほうがお好みなのでしょうか……?」
「……さあ、人によるんちゃうか」
「有砂様はいかがですか?」
「……別に」
有砂の口許に、意味深な笑みが浮かぶ。
「後腐れなくヤレるオンナやったら誰でも」
「有砂様!」
日向子は思わず菊人を見やった。
いつの間にか、膝上を占拠した大胆不敵な少年は少し身体を丸めて寝息を立てていた。
どうやら今の、幼児にはちょっと聞かせられない過激発言は耳に届いていないようだ。
日向子は少しほっとして、微笑した。
「けれど、今は違うのですわよね?」
「……ん?」
「蝉様からお聞き致しました。このところ有砂様が無断外泊せずに毎晩ちゃんと帰っておられると」
「……それは……」
何も不都合な話をしているわけではないのに、有砂は何故か居心地の悪そうな顔をする。
「……今は職探しで忙しいねんで。遊んでる暇がないだけや」
何故か言い訳を求める。
「なかなか癖が直りませんのね……?」
日向子は呟く。
「……癖?」
有砂はいぶかしげに反芻する。
「そのように天邪鬼に振る舞って、進んで誤解を受けようとなさいますでしょう?」
「……なんて?」
「本当はお心の温かい、真面目な方だと、人に知られるのがお嫌なのですか?」
「……また説教か……」
有砂は明らかに当惑している様子だったが、日向子は構わずに続ける。
「……薔子様とのこと、気にはならないかとお聞きになりましたでしょう?
本当言うと、お会いしたばかりの頃の有砂様を思い出すと、たくさん泣いた時のことがよぎって、胸が苦しくなります。
けれど、今はもう大丈夫です。有砂様は少しずつ本来のお姿に戻られようとなさってますものね」
有砂に言い訳の隙を与えないように、日向子は切れ間なく畳み掛ける。
「薔子様と連絡を取っていらっしゃったのも、菊人ちゃんとお会いになったのも、ご心配でいらしたからでしょう?
かつての妹様のような不幸が起きないように、見守ってらっしゃるのでしょう?
そのくらいはわたくしにとてわかりますわ」
日向子がなんとか遮られることなく全てを言い切ると、有砂は頭痛をこらえるように苦しげな表情で、片手で顔を覆った。
「……あんまり、オレを甘やかすな」
戸惑い、微かに震える声。
「……全然あかんねん。ガキ連れて帰ったんはええけど、何をしたらええかわからん。
こいつも何したい、とか一切言わへんし……」
「有砂様……」
「……優しくする、てどうしたらええんや?
……愛したいと思っても、オレには愛し方がようわからん」
それはようやく有砂からこぼれ落ちた、一欠片の真実の思い。
隠していた素直な言葉。
そしてそれ自体が、彼が素直になれない理由でもあった。
「焦らないで下さい、有砂様」
微かに垣間見えた素顔に、日向子は語りかける。
「……ゆっくり思い出せばよろしいではありませんか。お一人では難しければ、わたくしがお手伝い致しますわ」
有砂はしばしの沈黙の後、顔を覆っていた手をどかして、日向子を見やった。
「……お嬢には、みっともないところ見せてばっかりやな」
「……いいえ、また一つ有砂様のことがわかった気が致します」
そう言って微笑む日向子に、有砂もまた、小さく笑った。
「……オレもオレのことが少しわかった気ぃする」
「はい?」
「……自分が何を必要としとったんか、とかな」
「……あの?」
「まあええ……ところでジブン、今日は何しにきたんや?」
不意に問われ、日向子はすっかり忘れていたクリスマス企画の件を思い出した。
「実は……」
日向子はポラロイド撮影の許可を得たいということと、その代わりに何でも有砂の希望に応えたいということを、説明した。
「なるほどな……」
「はい、有砂様のお願いはなんでしょうか?」
有砂は特に迷うこともなく、即答した。
「八時に、薔子さんが迎えに来る……それまで、ガキのお守りを手伝ってくれるか?」
「ええ、もちろん……どの道この状態では立ち上がることもできませんし」
膝上のあどけない寝顔を見つめてくすくす笑う。
「……そういえば、わたくしや有砂様にもこのくらいの子どもがいてもおかしくないのでしたわね?」
「……そうやな。その前に、結婚せなあかんけどな」
「結婚……」
日向子にはまだ少し、リアリティのない言葉だった。
その相手といえば今まで伯爵以外考えられなかったが、しかし伯爵との結婚を今リアルに想像出来るかと聞かれればかなり難しい。
なんだか考え込んでしまう日向子だったが、有砂はそんな様を見て、意地悪く笑った。
「……まあ心配せんでも、世の中には『ぺったんこ』が好きなオトコもようさんおるからな」
「……ぺったんこ」
せっかく忘れていたことを蒸し返されて、日向子はまたしゅんとうなだれてしまった。
有砂は、一瞬笑みを打ち消して、小さな声で呟いた。
「……万が一行き遅れたら、オレが引き取ったってもええ」
日向子は顔をあげる。
「はい? ……何かおっしゃいましたか?」
「いや……ただの独り言や」
この極めて天邪鬼な男が、本当に素直になるにはやはりもう少し、時間がかかりそうだ。
《つづく》
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