「ついに買ったの?」
「うん」
白いボディの最新型携帯を両手で包むようにして、不慣れな手付きでぴこぴことキーを押しながら、万楼は上機嫌な笑みを浮かべている。
「……で、早速誰にメールしてるんだ?」
問いながらも、玄鳥はそれが愚問だと知っていた。
連絡がとりにくくて不便だから携帯を持てとみんなで再三説得したにも関わらず、必要性を認識していなかった万楼が自主的に携帯を買ったのだ。
それは、彼に「繋がりたい」相手が出来たからに相違ない。
「送信、完了っと」
万楼は満面の笑みで玄鳥に買ったばかりの携帯を見せた。
メッセージが消えて待受に戻ったディスプレイには、二人で顔を寄せて撮った、まるでカップルのような万楼と日向子の写真。
「お前っ……こんな写真いつ?」
「えへへ」
「えへへ、じゃない!」
わかりやすく動揺する玄鳥に、万楼は追い討ちをかけるかのように告げた。
「今のはね、またデートしようね、っていうメールだよ」
《第7章 秒読みを始めた世界 -knotty-》【1】
「なんかさっきから30分おきくらいにメール来てない?」
「万楼様は新しい携帯をお持ちになったばかりで、誰かにメールしたくて仕方がないのですわ、きっと」
別に不慣れということもないのに、緩慢な仕草で返信メールを作成する日向子を、美々は苦笑して見守る。
「けどさ、ほとんど付き合いたてのカップルみたいじゃない? ……いっそ、本当に付き合っちゃったらどう?」
日向子の脳裏にちらっと、夜の水族館でのことがよぎった。
あの時の頬の感触……あれは多分……。
キス。
そのことを思い出す度に日向子は頭の中で「万楼様は帰国子女・万楼様は帰国子女・万楼様は帰国子女……」と唱えることにしていた。
きっと頬にキスするくらいは万楼にとっては挨拶程度のものなんだろうという解釈をすることにしたのだ。
この時も日向子が沈黙したのはお題目を唱えるためだったのだが、美々はそれを少し違う意味で受け取った。
「……日向子は、やっぱり伯爵様じゃなきゃ嫌なの? もったいないよ。あんた、可愛いんだから……その気になればいくらでもイイオトコ捕まえられるのに」
「……美々お姉さまは、どうですの?」
「え?」
なんとか送信を完了した携帯を閉じて、日向子は美々を振り返る。
「美々お姉さまこそ、殿方とはお付き合いなさらないのですか?」
美々は一瞬虚をつかれたような顔をしたが、すぐに笑ってみせる。
「別に、今は仕事が楽しいから必要ないよ。結婚願望とかって全っ然ないしね……」
美々は同性の日向子の目から見てもかなりの美人で、背丈もすらりとしていて細いのに出るところはしっかり出たモデル体型。
性格も明るくて社交的、面倒見のいい性格だから、年上からも年下からも極めて男性受けはいい。
それなのに一切特定の恋人を作ろうとはしない。
挙句に、
「まあ、もしあたしが男だったら、日向子にプロポーズするところだけどね~」
「お姉さまったら……」
この日向子溺愛っぷりのせいで、定期的にレスビアン疑惑が浮上してしまう有り様だ。
「あ、いけない……そろそろ先方と打ち合わせの時間だ。ごめんね、今日はお茶付き合えなくて」
「いいえ、お仕事頑張ってくださいませ」
バッグを左手、右手に大量の資料や書類のようなものを抱えて、「じゃあね」と小走りで美々はデスクを後にした。
その慌ただしい後ろ姿を見送った後、日向子は何気無く今まで美々がいたデスクのほうを見やった。
「あら……」
デスクのすぐ下の床に何かが落ちている。
美々が今落として行ったのだろうか?
日向子は少し屈んで、それを拾い上げた。
拾い上げてみるとそれは、一枚の写真だった。
「……?」
日向子は写真を見つめながら首を傾げた。
写真に写っているのは、子どもだった。
3つか4つくらいの女の子と男の子で、まるでアンティークドールのようなゴシック調の黒い服で、もし姿勢を正して並んで座っていたなら本当に人形と間違えてしまいそうなふうだ。
しかし写真では、ちょこんと座っている女の子を男の子が縫いぐるみを抱くようにぎゅっと抱き締めていて、二人ともこの上なく活き活きとした笑顔だった。
なんとも微笑ましい写真ではあるのだが、日向子は思わず凝視してしまっていた。
写真は昨日今日撮られたものではなく、何年も昔に撮られたような年季を経て色褪せたものであるのに、日向子はかなり最近、この男の子を見ている。
「……菊人、ちゃん?」
もちろん、似ているがそうではないのだろう。
菊人でないとするならば、これは……。
「有砂様……?」
もちろんそうと決まったわけではない。
しかし、日向子は微かに胸騒ぎを感じた。
明日、この写真が美々のものなのか、どこで入手したのかを聞いてみなくては……。
もしこれが有砂の写真なら、一緒に写っているのは……。
「なんだよ、今日も蝉と有砂は遅刻か?」
紅朱がやって来た時、いつものカフェのいつもの席には、玄鳥と万楼だけが対面に座っていた。
「いや、二人とも今日は来れないみたいだけど……」
「蝉はいつも通りだし、有砂は新しいバイトを始めたばかりだから大変らしいよ~」
「……それ、ミーティング中はしまっとけよ?」
「は~い」
作成中のメールを保存して、大切そうに携帯をポケットにしまう万楼を見て、紅朱は何故か安堵していた。
ずっとあのポケットの中には、錆びて重く沈黙した壊れた携帯電話が入っていたのを紅朱は知っている。
恐らくはたった一人、過去に万楼が「繋がりたい」と願った人物のために持っていた携帯電話。
けしてもう繋がらない電話を持ち歩くことで、万楼を自分を過去から逃げられないように戒めようとしていたのではないか?
けれど壊れた携帯は所詮、もうどこにも繋がることはない。
過去にだって、もう繋がらない。
止まっていた時間が動き出した今なら……次の段階に進んでもいいのかもしれない。
紅朱は静かな決意を秘めて席に着いた。
「ちょっとジェラシーだなあ」
「あ?」
すぐにそんなシリアスな心情は吹っ飛んでしまう。
当の万楼のおかげで。
「リーダーって必ず、こういう時は玄鳥の横に座るよね」
「は? 別に意識してそうしてるわけじゃねェよ」
「無意識なあたりが更にジェラシーだなあ」
確かに紅朱は今何も考えず、自然に玄鳥の横に座った。
理由は別にない。
「ジェラシーってなんだ、気持ち悪ィな」
「まったくだよ、変なこと言わないでくれ」
呆れ顔の二人が面白かったのか、万楼は楽しそうに笑う。
「リーダーはやっぱり玄鳥が大好きなんだね」
「まだ言うか……」
「兄貴、こいつは今ちょっと変なテンションだから言っても無駄な気がする」
紅朱は溜め息をついた。
折角真面目な話をしようと思っていたのに、どう空気を戻せばいいのやら、という感じだ。
おまけにこのタイミングで、
「まあ、皆様おはようございます」
ひょっこりと日向子が現れてしまった。
「ミーティングをなさっているのですか?」
もちろんここは日向子の行き付けの店でもあるのだから、この時間帯なら偶然の鉢合わせは十分考えられることではあったが。
「お姉さん一人なの? 一緒に座ろうよ。席なら空いてるよ」
万楼はいきなり目を輝かせて、唯一の空席……つまりは自分の横を示す。
「あ、お前っ」
玄鳥が反射的に身を乗り出す。
「えへへ」
「……」
「……なんで俺を睨むんだ、綾」
「……いや、別に」
紅朱には窓側に対面で座った二人の間に漂う緊張感や、飛び散る見えない火花が全く察知できていなかった。
察知できていないのは日向子も同じだったが。
「見て見て、お姉さん。期間限定の新作ケーキがあるんだよ? パイ生地ベースなんだけどね~」
「まあ、美味しそうですわ……」
メニューを広げて、二人で肩を寄せ合うようにして覗き込む。
万楼の、人に警戒心を与えることなく距離を縮めるテクニックは最早天性の才能だった。
「……だからなんで俺を恨みがましい目で見るんだ、綾」
「……気のせいだよ」
すでに十分におかしな空気に包まれたこのテーブルではあったが、今日はこれで終わりではなかった。
まあ、重なる時は重なるものである。
「……いらっしゃいませ」
シックな黒のソムリエエプロンをまとった男性店員が、日向子の席に静かに水の入ったグラスを置いた。
「ありがとうございます、あの、オーダーをお願いしま……」
振り返った状態のまま日向子は固まった。
そして他三人も見事なくらいカチンカチンに固まってしまっていた。
「あ、あの……」
「な、なんで?」
「……まさか」
「……何やってんだ? お前」
「……ご注文、お決まりでしたら承りますが?」
四人のよく知っている長身の愛想のない関西弁の男が、嫌味なほどスマートに制服とソムリエエプロンを着こなして、片手に正式名称をハンディターミナルという、お馴染の注文端末、もう一方にはトレイを持って立っていた。
「有砂様……ですわね?」
「……見ればわかるやろ」
日向子の問掛けに平然と答えるさまは全くいつもの有砂だった。
「有砂さんの新しいバイト先……ってここなんですか?」
「それならそうとボクたちにも言っておいてくれればいいのに」
「よく採用されたな、本当にお前に接客業なんて出来るのか?」
物珍しそうにしげしげと見つめながらめいめいに口を開くメンバーたちをうるさそうに見やって、
「……注文は?」
かったるそうに再度促した。
四人はなんとなく顔を見合わせて、それから、コーラ、カフェオレ、メロンソーダ、紅茶……といういつも通りの飲み物に、限定のフルーツケーキを2つオーダーした。
有砂は、
「ご注文を繰り返します」
と、マニュアル通りにオーダーをリピートする。
「……以上でよろしいですか?」
リピートし終わると、日向子が代表するように、
「はい、結構ですわ」
と答えた。
「かしこまりました」
有砂はトレイを持った手を前に持って来て、流れるような身のこなしで一礼すると、
「ごゆっくり、どうぞ」
にこっ、と日向子に向かって思いきり微笑んだ。
「えっ」
あまりにも見慣れないものを目の当たりにしてしまった日向子もびっくりしたが、メンバーたちは数珠繋ぎの悲惨な玉突き事故でも目撃したかのような顔で有砂をぽかん、と見ていた。
有砂はすぐに奇跡の極上スマイルを打ち消して、ふん、と鼻先で笑ってテーブルから離れて行った。
後に残された四人は、有砂のほうをチラチラ見ながら何か色々言い合って騒いでいる。
「……そんなに驚くことでもないやろ」
有砂はそんな彼ら……とりわけ、神妙な顔をした日向子を遠目に見ながら、小さく呟く。
「……あのアホに出来ることが、オレに出来ないとでも……?」
「へっくしゅん……!!」
「ゼン兄、風邪?」
「いや、そんなことないんだケド……」
「気をつけてね、最近冷え込むから」
「うん、そーだね……で、さ。何? 大事な話って」
まだ昼間だというのに、二人が同時に黙ると、壁時計が秒針を打つのが聞こえるほど、「園長室」はいやに静かだった。
「……うづみ、ちゃん?」
嵐の前というのは、本当に静かなものなんだとこの後蝉は思い知ることとなる。
「ゼン兄……私……結婚、するの」
《つづく》
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