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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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「ついに買ったの?」

「うん」

 白いボディの最新型携帯を両手で包むようにして、不慣れな手付きでぴこぴことキーを押しながら、万楼は上機嫌な笑みを浮かべている。

「……で、早速誰にメールしてるんだ?」

 問いながらも、玄鳥はそれが愚問だと知っていた。

 連絡がとりにくくて不便だから携帯を持てとみんなで再三説得したにも関わらず、必要性を認識していなかった万楼が自主的に携帯を買ったのだ。

 それは、彼に「繋がりたい」相手が出来たからに相違ない。

「送信、完了っと」

 万楼は満面の笑みで玄鳥に買ったばかりの携帯を見せた。

 メッセージが消えて待受に戻ったディスプレイには、二人で顔を寄せて撮った、まるでカップルのような万楼と日向子の写真。

「お前っ……こんな写真いつ?」

「えへへ」

「えへへ、じゃない!」

 わかりやすく動揺する玄鳥に、万楼は追い討ちをかけるかのように告げた。

「今のはね、またデートしようね、っていうメールだよ」












《第7章 秒読みを始めた世界 -knotty-》【1】








「なんかさっきから30分おきくらいにメール来てない?」

「万楼様は新しい携帯をお持ちになったばかりで、誰かにメールしたくて仕方がないのですわ、きっと」

 別に不慣れということもないのに、緩慢な仕草で返信メールを作成する日向子を、美々は苦笑して見守る。

「けどさ、ほとんど付き合いたてのカップルみたいじゃない? ……いっそ、本当に付き合っちゃったらどう?」

 日向子の脳裏にちらっと、夜の水族館でのことがよぎった。

 あの時の頬の感触……あれは多分……。

 キス。

 そのことを思い出す度に日向子は頭の中で「万楼様は帰国子女・万楼様は帰国子女・万楼様は帰国子女……」と唱えることにしていた。

 きっと頬にキスするくらいは万楼にとっては挨拶程度のものなんだろうという解釈をすることにしたのだ。

 この時も日向子が沈黙したのはお題目を唱えるためだったのだが、美々はそれを少し違う意味で受け取った。

「……日向子は、やっぱり伯爵様じゃなきゃ嫌なの? もったいないよ。あんた、可愛いんだから……その気になればいくらでもイイオトコ捕まえられるのに」

「……美々お姉さまは、どうですの?」

「え?」

 なんとか送信を完了した携帯を閉じて、日向子は美々を振り返る。

「美々お姉さまこそ、殿方とはお付き合いなさらないのですか?」

 美々は一瞬虚をつかれたような顔をしたが、すぐに笑ってみせる。

「別に、今は仕事が楽しいから必要ないよ。結婚願望とかって全っ然ないしね……」

 美々は同性の日向子の目から見てもかなりの美人で、背丈もすらりとしていて細いのに出るところはしっかり出たモデル体型。
 性格も明るくて社交的、面倒見のいい性格だから、年上からも年下からも極めて男性受けはいい。
 それなのに一切特定の恋人を作ろうとはしない。
 挙句に、

「まあ、もしあたしが男だったら、日向子にプロポーズするところだけどね~」

「お姉さまったら……」

 この日向子溺愛っぷりのせいで、定期的にレスビアン疑惑が浮上してしまう有り様だ。

「あ、いけない……そろそろ先方と打ち合わせの時間だ。ごめんね、今日はお茶付き合えなくて」

「いいえ、お仕事頑張ってくださいませ」

 バッグを左手、右手に大量の資料や書類のようなものを抱えて、「じゃあね」と小走りで美々はデスクを後にした。

 その慌ただしい後ろ姿を見送った後、日向子は何気無く今まで美々がいたデスクのほうを見やった。

「あら……」

 デスクのすぐ下の床に何かが落ちている。
 
 美々が今落として行ったのだろうか?

 日向子は少し屈んで、それを拾い上げた。

 拾い上げてみるとそれは、一枚の写真だった。

「……?」

 日向子は写真を見つめながら首を傾げた。

 写真に写っているのは、子どもだった。
 3つか4つくらいの女の子と男の子で、まるでアンティークドールのようなゴシック調の黒い服で、もし姿勢を正して並んで座っていたなら本当に人形と間違えてしまいそうなふうだ。

 しかし写真では、ちょこんと座っている女の子を男の子が縫いぐるみを抱くようにぎゅっと抱き締めていて、二人ともこの上なく活き活きとした笑顔だった。

 なんとも微笑ましい写真ではあるのだが、日向子は思わず凝視してしまっていた。

 写真は昨日今日撮られたものではなく、何年も昔に撮られたような年季を経て色褪せたものであるのに、日向子はかなり最近、この男の子を見ている。

「……菊人、ちゃん?」

 もちろん、似ているがそうではないのだろう。

 菊人でないとするならば、これは……。

「有砂様……?」

 もちろんそうと決まったわけではない。
 しかし、日向子は微かに胸騒ぎを感じた。

 明日、この写真が美々のものなのか、どこで入手したのかを聞いてみなくては……。

 もしこれが有砂の写真なら、一緒に写っているのは……。












「なんだよ、今日も蝉と有砂は遅刻か?」

 紅朱がやって来た時、いつものカフェのいつもの席には、玄鳥と万楼だけが対面に座っていた。

「いや、二人とも今日は来れないみたいだけど……」

「蝉はいつも通りだし、有砂は新しいバイトを始めたばかりだから大変らしいよ~」

「……それ、ミーティング中はしまっとけよ?」

「は~い」

 作成中のメールを保存して、大切そうに携帯をポケットにしまう万楼を見て、紅朱は何故か安堵していた。

 ずっとあのポケットの中には、錆びて重く沈黙した壊れた携帯電話が入っていたのを紅朱は知っている。

 恐らくはたった一人、過去に万楼が「繋がりたい」と願った人物のために持っていた携帯電話。

 けしてもう繋がらない電話を持ち歩くことで、万楼を自分を過去から逃げられないように戒めようとしていたのではないか?

 けれど壊れた携帯は所詮、もうどこにも繋がることはない。

 過去にだって、もう繋がらない。

 止まっていた時間が動き出した今なら……次の段階に進んでもいいのかもしれない。

 紅朱は静かな決意を秘めて席に着いた。

「ちょっとジェラシーだなあ」

「あ?」

 すぐにそんなシリアスな心情は吹っ飛んでしまう。

 当の万楼のおかげで。

「リーダーって必ず、こういう時は玄鳥の横に座るよね」

「は? 別に意識してそうしてるわけじゃねェよ」

「無意識なあたりが更にジェラシーだなあ」

 確かに紅朱は今何も考えず、自然に玄鳥の横に座った。
 理由は別にない。

「ジェラシーってなんだ、気持ち悪ィな」

「まったくだよ、変なこと言わないでくれ」

 呆れ顔の二人が面白かったのか、万楼は楽しそうに笑う。

「リーダーはやっぱり玄鳥が大好きなんだね」

「まだ言うか……」

「兄貴、こいつは今ちょっと変なテンションだから言っても無駄な気がする」

 紅朱は溜め息をついた。
 折角真面目な話をしようと思っていたのに、どう空気を戻せばいいのやら、という感じだ。

 おまけにこのタイミングで、


「まあ、皆様おはようございます」


 ひょっこりと日向子が現れてしまった。

「ミーティングをなさっているのですか?」

 もちろんここは日向子の行き付けの店でもあるのだから、この時間帯なら偶然の鉢合わせは十分考えられることではあったが。

「お姉さん一人なの? 一緒に座ろうよ。席なら空いてるよ」

 万楼はいきなり目を輝かせて、唯一の空席……つまりは自分の横を示す。

「あ、お前っ」

 玄鳥が反射的に身を乗り出す。

「えへへ」

「……」

「……なんで俺を睨むんだ、綾」

「……いや、別に」

 紅朱には窓側に対面で座った二人の間に漂う緊張感や、飛び散る見えない火花が全く察知できていなかった。

 察知できていないのは日向子も同じだったが。


「見て見て、お姉さん。期間限定の新作ケーキがあるんだよ? パイ生地ベースなんだけどね~」

「まあ、美味しそうですわ……」

 メニューを広げて、二人で肩を寄せ合うようにして覗き込む。

 万楼の、人に警戒心を与えることなく距離を縮めるテクニックは最早天性の才能だった。

「……だからなんで俺を恨みがましい目で見るんだ、綾」

「……気のせいだよ」

 すでに十分におかしな空気に包まれたこのテーブルではあったが、今日はこれで終わりではなかった。

 まあ、重なる時は重なるものである。


「……いらっしゃいませ」


 シックな黒のソムリエエプロンをまとった男性店員が、日向子の席に静かに水の入ったグラスを置いた。

「ありがとうございます、あの、オーダーをお願いしま……」


 振り返った状態のまま日向子は固まった。

 そして他三人も見事なくらいカチンカチンに固まってしまっていた。

「あ、あの……」

「な、なんで?」

「……まさか」


「……何やってんだ? お前」



「……ご注文、お決まりでしたら承りますが?」

 四人のよく知っている長身の愛想のない関西弁の男が、嫌味なほどスマートに制服とソムリエエプロンを着こなして、片手に正式名称をハンディターミナルという、お馴染の注文端末、もう一方にはトレイを持って立っていた。

「有砂様……ですわね?」

「……見ればわかるやろ」

 日向子の問掛けに平然と答えるさまは全くいつもの有砂だった。

「有砂さんの新しいバイト先……ってここなんですか?」

「それならそうとボクたちにも言っておいてくれればいいのに」

「よく採用されたな、本当にお前に接客業なんて出来るのか?」

 物珍しそうにしげしげと見つめながらめいめいに口を開くメンバーたちをうるさそうに見やって、

「……注文は?」

 かったるそうに再度促した。

 四人はなんとなく顔を見合わせて、それから、コーラ、カフェオレ、メロンソーダ、紅茶……といういつも通りの飲み物に、限定のフルーツケーキを2つオーダーした。
 有砂は、

「ご注文を繰り返します」

 と、マニュアル通りにオーダーをリピートする。

「……以上でよろしいですか?」

 リピートし終わると、日向子が代表するように、

「はい、結構ですわ」

 と答えた。

「かしこまりました」

 有砂はトレイを持った手を前に持って来て、流れるような身のこなしで一礼すると、


「ごゆっくり、どうぞ」


 にこっ、と日向子に向かって思いきり微笑んだ。

「えっ」

 あまりにも見慣れないものを目の当たりにしてしまった日向子もびっくりしたが、メンバーたちは数珠繋ぎの悲惨な玉突き事故でも目撃したかのような顔で有砂をぽかん、と見ていた。

 有砂はすぐに奇跡の極上スマイルを打ち消して、ふん、と鼻先で笑ってテーブルから離れて行った。

 後に残された四人は、有砂のほうをチラチラ見ながら何か色々言い合って騒いでいる。

「……そんなに驚くことでもないやろ」

 有砂はそんな彼ら……とりわけ、神妙な顔をした日向子を遠目に見ながら、小さく呟く。

「……あのアホに出来ることが、オレに出来ないとでも……?」












「へっくしゅん……!!」

「ゼン兄、風邪?」

「いや、そんなことないんだケド……」

「気をつけてね、最近冷え込むから」

「うん、そーだね……で、さ。何? 大事な話って」

 まだ昼間だというのに、二人が同時に黙ると、壁時計が秒針を打つのが聞こえるほど、「園長室」はいやに静かだった。

「……うづみ、ちゃん?」

 嵐の前というのは、本当に静かなものなんだとこの後蝉は思い知ることとなる。


「ゼン兄……私……結婚、するの」













《つづく》
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「万楼」

「何? リーダー」

 紅朱がようやくその話を切り出すことができたのは、帰り際のことだった。

 玄鳥の車で送ってもらおうと、乗り込みかけていたところを呼び止めて、紅朱は、

「受け取れ」

 万楼に向けて山なりに何かを投げてよこした。

「わっ、何?」

 両手でなんとかそれをキャッチする。

「……これ、MD?」

「その曲、やるから練習しとけ」

 万楼はラベルの文字をゆっくり読む。

「……『Melting snow』……」

 横で見ていた玄鳥が、はっとしたように紅朱を見た。

「兄貴、この曲は……」

「……綾、お前もギターのアレンジ、ちゃんと考えておけよ」

「……うん」

 真剣な顔をする二人を交互に見やりながら、万楼はただならない雰囲気を感じとっていた。

「『Melting snow』……この曲って……何?」












《第7章 秒読みを始めた世界 -knotty-》【2】










「……それで、今年は急遽、大晦日にカウントダウン・ワンマンライブを開催なさるのですって。今から本当に楽しみですわ」

 カフェでのミーティングで知らされた一ヶ月後の大きなイベント。

 冬休みまでの日数を指折り数える日向子は子どものように、そわそわしていた。

「ですから、大晦日は朝帰りになってしまいますけれど、お父様には内緒にしておいて頂けて?」

 運転席に向けてにこやかに微笑んだ。

 しかし。反応が、ない。

「……雪乃? 信号……青ですわよ?」

「……あ」

 思い出したようにアクセルを踏んで、再発進する。

「……失礼致しました」

「……雪乃、運転中に考え事というのはどうかと思いますわ。何か心配なことでも?」

「……いえ……大したことでは、ありません」

 言葉とは裏腹に、声音には全く覇気がない。

「……雪乃……」

 何があったのだろう。

 雪乃がこんなにもあからさまな動揺を見せるようなことがあったのだろうか。

「雪乃……わたくしでは頼りないかもしれませんけれど、気が向いたら何でも話してね」

 雪乃は何も、答えなかった。













 密閉型のイヤホンを耳に突っ込んで、万楼はシートに横になっていた。

 さながら胎児のように身体を丸めて、目を閉じて音に意識を集中する。


《温もりを拒んで進む
 万年雪の荒野では
 あらがうほどに凍てついて
 僕はもう
 目を開けられない》

 今より少し若い紅朱の声。

《絶望が
 孤独が
 虚偽が
 降り積もる街では
 月の光を憎んだ夜に
 爪先まで冷えて
 ひどく、痛んだ》

 今より少しだけ不安定な有砂のドラムに、今より少しおとなしい蝉の奏でるキーボード。

 だがギターは、玄鳥の音ではない……。

 そして。

《秘密と罪を抱えたまま
 旅を続けてきたけど
 ささやかなともしびは
 ここにあった
 こんな僕すら変えるだろうか
 唄う意味さえ変えるだろうか》

 じわりと、目尻からあふれた雫が、滴る。

 自分とよく似た、けれどずっと存在感とのある重低音。

《いつか解けていくよ
 哀しい夢も
 繰り返した過ちも
 愚かな執着も
 目覚めたら 冬が逝く
 微かな傷痕だけを残して》


「……あの人の、ベースだ……」

 息苦しい程に胸が詰まった。

「……万楼」

 労るような穏やかな声で、運転席から玄鳥が語りかける。

「その曲は、3年前に粋さんが作ったんだ……最後に、ね」

「最後に……?」

「一度もライブで演奏されることのなかった……幻の曲。もし演奏されていればheliodorの代表曲になったかもしれない曲だよ」

 伝説のベーシストが残した、幻の曲。

「……粋さんが戻るまで、封印される筈だった曲を、兄貴は唄うつもりなんだ。万楼のベースで……」

 とめどなく涙があふれてくる。

 涙の理由の半分は、自分は紅朱から本当に認められたのだという感激。

 もう半分は、この曲自体が持つ、引き裂かれるのではないかと思うほど心臓を締め付ける懐かしさ。

「……玄鳥……ボク、この曲聞くの……多分、初めてじゃ、ない」


 閉ざされていた扉が、軋んでいる。開かれようとしている。

 さながら耳に響くこのベースライン自体が、パスワードであるかのように。













 真夜中。
 就寝しようとしていた日向子の携帯が着信を知らせた。

 一瞬また万楼からのメールかと思ったが、それはメールではなく電話で、ディスプレイの名前も違っていた。

「お待たせ致しました、日向子です」

 電話の主は、ファーストネームで気がねなく名乗ることができる相手。

《ごめんね、まだ起きてた?》

「はい、大丈夫ですわ。美々お姉様」

《……そっか、ありがと。あのね、その、たいしたことじゃないんだけど……今日、あんたと別れる時にあたし、落し物……しなかったかなって》

「……写真、ですか?」

 日向子は慎重な声音で問い返した。

《……うん……日向子が、見つけてくれたんだ》

 美々の口調は写真があったことへの安堵と、それを日向子が見つけたということへの微かな動揺……相反する要素を含んでいるように思えた。

「……写真はわたくしが保管しておりますわ、ご安心下さいませ」

《……あたしに、何か聞きたいこと、あるんじゃないの……?》

「……え?」

《……聞いてもいいよ。そのかわり、あたしのお願いもひとつ聞いてくれるならね》

 美々の声は、震えているようだった。
 日向子は、答える。

「……ひとつだけ。
写真の女の子は……美々お姉さまですか?」

 思いつめたような吐息が生んだノイズが、携帯ごしに耳元を通り抜けた。

《……そうだよ》


 予想通りの答えだった。

 偶然にしては出来すぎている。

 だがこれは、偶然ではない。

 あんなにもheliodorに詳しかった美々が、どうしてもheliodorの直接取材を引き受けられなかったその理由がようやくわかった。

 美々はずっとheliodorを見守ってきたのだ。

 けっして気が付かれることのないように、ひっそりと。

 そして自分には出来ないことを日向子に託した。

「……美々お姉さまが……有砂様の」

《日向子》

 まるで咎めるかのような強い口調で、美々は日向子を制した。

《約束だから、あたしのお願い、聞いてくれるよね》

「はい……」


 美々はきっぱりと言い放った。


《余計なことは、絶対しないで》


「美々お姉さま……」

 かつて美々の口から聞いたこともなかった、突き刺さるような冷たい声。

 それは出会ったばかりの頃の有砂を思わせた。


 やはり二人はどこか似ているのだろう。双子の兄妹なのだから。


「……お二人に家族として再会してほしいと願うことは、余計なことですか?」

《……やめて。会いたくなんかないの》

「美々お姉さま……」

《わかって、日向子。あんたのこと、親友と見込んで頼んでるんだよ》

 親友……憧れの先輩からそう呼ばれたことを、嬉しく思わないわけではない。

 しかし日向子はいたたまれず、泣きたいような気持ちでいっぱいだった。

 古い写真の中の無垢な眩しい笑顔、二つ。

 皮肉な運命に引き裂かれてしまっただけだ。

 二人の心と身体に残った傷がどれだけ深いとしても、こんなにも強く結び合っていた絆が、元に戻れないなどということがあるだろうか。

 きっかけさえあれば、きっと……日向子はそう純粋に信じていた。

 それでも。


「……わかりましたわ」

 そのきっかけを本人が望まないというなら、今の日向子にはどうすることもできない。












「余計なお世話かもしれんけど……それは、醤油やで」

「……え。あれ」

 蝉は今自分がグラスに注ごうとしているものをまじまじと見つめた。

「……どうやったら水と醤油を見間違えられるんや。寝惚けとんか?」

 呆れた顔で、ダイニングを通過しようとする有砂を、

「……よっちん」

 蝉は思わず呼び止めた。

「……なんや」

 面倒臭そうに立ち止まった有砂を見つめて、蝉は黙った。

「……はよ言え」

 こんなことを相談出来る相手は、有砂しかいない。

 秘密を知っているのは有砂だけだし、このことは有砂自身にも深く関わることだ。

「……えっと、あのさ……その……」

 どう切り出していいのかわからない。
 
 頭の中で、昼間つきつけられたうづみの言葉が反響している。



「年が明けたらすぐに入籍するの……沢城秀人と。離婚してから半年は籍を入れられないらしくて、随分待たされたけどね。
これでスノウ・ドームを立て直すことが出来るわ。

ようやく、私がゼン兄を自由にしてあげられるの」



 どうしてもっと早く気付かなかったのか。

 思えば随分前からうづみの様子はずっとおかしかったのに。

 自分のことにばかり夢中になっていて思いやることができなかった。

 自分がいつまでも正式な釘宮の後継者になれないばかりにうづみが犠牲になる。

 うづみに……大事な幼馴染みに身売りのような真似をさせてまでバンドを続けるというのか?

 うづみはそうしろと言う。

 蝉がバンドを辞めずに済むなら、それ以上は何もいらないと。



「いいの……だって、私はゼン兄を愛してるから。ゼン兄が幸せになってくれればそれでいいの」



 あまりにも残酷なタイミングで告げられた、一途な想い。

 もう蝉には自分がどうしたいのか、どうしたらいいのかわからなくなってしまっていた。

「……蝉?」

「よっちん……あの」

「……バイトのことやったら、ジブンに非難される謂われはないで」

「え」

「……どこで働こうとオレの自由やろ」

 さっぱり本題とは関係ない話題を不意に出されて、蝉はタイミングを見失ってしまった。

「……やだな、十数年来の親友がやっと社会復帰できたのに非難なんかするワケないじゃん」

 誰に強制されているわけでもないのに明るく振る舞ってしまう。

「しかも動機が、気になるオンナのコがよく利用するお店で働きたいから……なんてそんな純情な高校生みたいな」

「醤油飲み干して死ね」

「幼稚園レベルの愛情表現しかできなかったよっちんが、いっきに高校生レベルまで飛び級なんておれ感動して泣いちゃいそー」

「……そうか。自殺志願なんやな」

 有砂が死ねの殺すのと言い出す時は、あながち否定できない部分を突かれて反論の言葉が浮かばない時なのだと、蝉はとっくに見抜いている。

 そんなことがわからないほど浅い付き合いではない。

「……マジでさ……心配、してないよ」

 蝉は苦笑する。

「よっちんはもう平気じゃん。おれがお節介やく必要ない……」

「蝉……?」

 有砂のほうも蝉の様子が何か普通でないことは感じとれたようだった。

「……もし、さ。マジで、もしもの話だよ?
……おれがもうあの子の側にいられなくなっちゃったらさ……」

 思い詰めた言葉が、あふれ出す。

「……よっちんが、守ってあげてくれる?」

 有砂は一瞬切長の目を見開き、蝉を凝視したが、ほとんど間を空けずにきっぱり答えた。


「断る」

「え……?」

 まさかこんなにはっきり拒否されるとは。

 あっけにとられている蝉に、有砂は呆れ顔で溜め息をもらした。

「……やっぱり寝惚けてるやろ。アホなことゆうてんとはよ水飲んで寝てまえ」

「……あ、うん」

 ダイニングを出て行く有砂を見送って、蝉もまた溜め息をついた。



「……大丈夫だって言ってよ……おれが、いなくなっても……」















《つづく》
 鼓膜を震わせる音。

 潮騒の、ざわめき。

「ここで会ったのも何かの縁だし……ねえ、ボクと心中してくれない?」

「なかなか過激な口説き台詞だな」

 誰もいない、白い砂浜。
「……そんなに、死にたいのか?」

 突拍子もない申し出を、彼女は真顔で受け止める。

「そうでもないけど、そろそろ死んでもいいかな、とは思うよ。
積極的に生きていこうって思うだけの目的とか、楽しみがあるわけじゃないからね」

「そうか。まあ、付き合ってやってもいいぞ」

「……え?」

 道端でナンパされたかのような軽い返答。

「いいの?」

「ああ」


 反対方向から続いてきた2つの足跡が、繋がったその瞬間から運命が巡り始めた。


「ただし私と賭けをして、お前が勝ったらな」













《第7章 秒読みを始めた世界 -knotty-》【3】











「……賭けをしよう、ってあの人は言ったんだ」

 相変わらず殺風景な部屋の真ん中で、三人は向き合って座っていた。

「賭け……?」

「この曲のベースパートを一週間で引きこなせたら……一緒に死んでもいい、って」

 頼りなく細い糸をたぐりよせるように、たどたどしく、けれど確信を持って万楼は語る。

「それがheliodorの曲……『Melting Snow』だったよ」

 一つの有力な可能性に過ぎなかったことを、真実だと裏付けたメロディ。

「ボクの出会った『万楼』は、やっぱり粋さんだった……」

 紅朱は目を伏せて、笑った。

「ああ……それは粋の得意な罠だ」

「罠、ですか?」

 二人の横で静かに話に耳を傾けていた日向子が思わず口を開いた。

「同じ手に引っ掛かった奴が一人いるからな」

 紅朱は思い出し笑いで小さく噴きながら補足する。

「今頃、気色の悪ィ営業スマイルで精出して働いてんだろ」

「有砂様ですか!?」

「……やっぱりお前も気色悪いと思ってたんだな?」

「そ、そのようなことは……」

「気にすんな。その感覚は正常だ」

 日向子はそれをどうしても強く否定出来なかった。

「それで、罠というのは……?」

 話題を元に戻すのがやっとだった。

「粋のベースには、中毒性がある」

 紅朱もそれ以上日向子をいじめるつもりはないようだった。

「言葉で説明するのは難しいが、粋の弾くベースの音自体がな、何か強烈な毒を含んでるんだ」

「うん……痺れるような甘い毒」

 万楼が大きく頷く。

「側で聞いてるとすごく気持ちよくなっちゃうんだ。一週間もずっと聞いてたら、もう抜け出せなくなってしまうほど」


 さながら、船乗りを海に誘い込む魔性のセイレーン。
 魅惑の音色は鼓膜から人々を酔わせ、意のままにする。


「有砂は賭けに負けたらheliodorのメンバーになる筈だった。
けど、あいつは賭けには勝ったが、結局heliodorのメンバーになった。
万楼もそうだったんだろう?」

 紅朱の問掛けに、万楼は苦笑で答えた。

「約束通り心中してやる、って言われたけど、ボクはそんなことより、もっとベースを教えてほしいって頼んだんだ。
……行くところがないなら、ボクの部屋で一緒に……暮らさないかって」

 それが始まり。

 一人の少年が、ベーシストとしての道を歩き始めたきっかけだったのだ。

「ようやく、そこまでは思い出せたんだ」

 万楼は少し興奮した様子だった。

「『Melting Snow』を練習してると、どんどん、思い出すんだ。
すぐに思い出すよ。万楼……粋さんがどこへ行ったのか、どんなふうに別れたのかも」

 日向子はそんな嬉しそうな万楼に一抹の不安を感じてしまった。

 ナイト・アクアリウムで万楼は少し気になることを口にしていた。

 あの人の手を離してしまった……確かそんなような言葉だった。

 普通の状態ではなかった万楼はあの場での自分の発言を曖昧にしか覚えていないようで、確認しても何のことだかわからなかった。

 あの人……それが誰のことかはわからない。

 だがそれが彼女なのだとしたら。

 きっとそこには何か……万楼を苦しめる真実が隠れている。

 万楼は記憶を取り戻したいとずっと願っていた。
 日向子もそれが一番いいことだと信じて見守ってきた。

 今もそれは変わらない。

 だが同時に言いようのない不安も感じてしまう。

 急速に解かれていく封印が、乾ききっていない傷口をも開いてはしまわないかと。

「万楼様」

 日向子は万楼を真っ直ぐに見つめて言った。

「……頑張って下さいませ。お役に立てることなどないかもしれませんけれど、何かありましたら、いつでもわたくしを呼んで下さい」

 万楼は微かに頬をピンク色に染める。

「うん……ありがとう」














 ほどなくして万楼の部屋を出た2人はすぐには帰らず、紅朱のバイクをそこに置いたままで、しばし冬空の下を散歩していた。

 日向子は写真を美々に返却するために待ち合わせをしているのだが、待ち合わせの約束の時間までまだ少し余裕があった。

 ひとりで暇を潰すつもりだったのだが、紅朱は紅朱でバイトの時間までに少し持て余した時間があると言う。

 それならば……ということで今しばらく付き合うこととなったのだ。

 あてもないゆったりとした散歩。白い息を吐きながら交すとりとめない会話の内容は、自然と粋と万楼のことになっていた。

「粋と万楼の音は本当によく似てる。足りないのは毒の量だけだ」

「毒の量……紅朱様は万楼様に粋様と同じように弾けるようになってほしいのですか?」

「いや、思わない。あれは真似して真似出来るもんじゃねェからな……。
むしろ俺は、そろそろ万楼は粋とは違う個性を身に付ける段階にきたと思ってる」

 紅朱の口調は力強い。

「以前の万楼はただ粋の身代わりなろうと必死だった。あの段階で粋の音を聞かせれば、それをただ模倣しようとあがくだけで終わった筈だ。
だが、今の万楼ならそれではダメだとわかるだろう。あいつは、粋に勝ってheliodorのベーシストの座を防衛しなきゃなんねェんだからな」

 言いきった紅朱の表情は、温かく、優しい。
 万楼へのリーダーとして、バンドの仲間としての愛情を感じとり、日向子の顔も自然と綻んだ。

「まさか、あの曲がきっかけで万楼の記憶があんなにするする戻り始めるとは思わなかったけどな」

 ふと流れてきた雲に太陽が遮られるようにして、紅朱の表情に翳りが浮かんだ。

「……俺は、今更粋と再会してどうしようってんだろうな」

「え……?」

「粋が消えた時、俺はもうバンドを辞める気でいた。粋のいないheliodorに未練はなかった。
それに……まるで、今まで自分がやってきたことを全部否定されたような気分だったんだよな。
そのクセ、いつか帰って来てくれるんじゃないかなんて甘い考えも捨てきれてなかった。
だがもうheliodorは新しく生まれ変わって、着々と前に進んでるじゃないか……今更粋と会ったって仕方ない」

 万楼には粋を見つけだして、勝つことでheliodorのベーシストでい続けたいという願いがある。

 紅朱にはかつてもう一度粋とバンドをやりたいという願いがあったのだろうが、今はもう万楼を仲間として認めているようだ。

 少なくとも日向子にはそう思えた。

「紅朱様……粋様に、会いたくないのですか?」

 紅朱は目を細め、自嘲的に笑う。

「再会したってまた傷付け合って終わるくらいなら、本当はもう会わないほうがいいのかもしれない」

「そんな……」

 胸が苦しくなる。

 昨夜の、電話ごしの震えた声が頭をよぎった。

「……紅朱様も、なのですか……?」

「ん?」

 日向子の言葉の意味はもちろん紅朱にはわからなかったが、思いは伝わる。

「だが……望もうが望むまいが、もう一度出会う運命なら、きっとまた出会う」

 革の黒い手袋をはめた右手が、日向子の頭の上にポン、と乗っかった。

「だからそんな顔すんなよ」


 気遣うような優しい声が、日向子の胸に染み込んでいく。 

「……はい、紅朱様」



 ちょうどその時、二人の横を一台、鮮やかな深紅のフェラーリが通り抜けた。

 それがすれ違う瞬間、ほんの一瞬スピードを緩めたことに二人は気が付くことはなかった。

 だがドライバーのほうはバックミラーを横目で、けれどしっかりと見つめ、小さく呟いた。



「水無子(ミナコ)……?
……なわけないか」













 一方その頃、『気色の悪い営業スマイルで精を出して働いて』いた有砂は、実際慣れない筋肉を酷使して顔面が筋肉痛を起こしそうな勢いで頑張っていた。

「……しんどい……」

 有砂自身可能な限りフロアには出たくないと思っているのだが、

「沢城さん、6番ご指名入りましたよ~」

「……ご指名、ってなんですか。いつからこの店はホストクラブに?」

「まあまあ、いいからいいから」

 有砂は客から掟破りの「ご指名」をされるほど予想外の大人気となっていた。

 おっとりしているが押しの強い店長や、ベテランの先輩店員に押しきられて有砂はフロア専門にさせられつつあった。

 時には「あれってheliodorの有砂じゃない??」といった小声の会話が耳に入ってくることもあったが、最終的には「ま、そんなわけないよね」で会話は終了してしまう。

 クールさが売りの有砂がまさかそんな……と思うのは無理もない話だ。

 結局今日もひたすら接客に明け暮れていた有砂だったが、


「いらっしゃいま……なんや、ジブンか」

 不意に作りかけた笑顔を打ち消す。

「お疲れ様です」

 玄鳥だった。

「何しに来たんや」

「俺はもともと常連です」

 確かにheliodorがここで頻繁にミーティングを行うようになる以前から、玄鳥はこの店をよく利用していた。
 だが、

「有砂さんこそ……何が目的ですか?」

 この警戒心に満ちた言葉は、どう考えてもただお茶を飲みに来ただけ、という雰囲気ではない。

「バイトの目的が金以外にあるか?」

「……本当のところを聞かせて下さい」

 玄鳥は悲愴なほど真面目な顔で問掛ける。

「有砂さんは……日向子さんのこと、どう思ってるんですか?」

 有砂は黙ってテーブルに水を置いた。

「……仕事中や。雑談は後にしてくれ」

「有砂さん……すいません、これだけは言わせて下さい。
……日向子さんのこと、気まぐれや遊びなら絶対にやめて下さい。
あの人を傷付けるようなことをしたら、俺は……許さない」

 真っ直ぐで熱い思いをストレートにぶつけてくる玄鳥は、まさに有砂とはあらゆる意味で対称的だ。

 だが有砂には何故か時々、そんな玄鳥を「懐かしい」と感じる瞬間がある。

 有砂が遠い過去に失ってしまったものを、そのまま心の真ん中に持ち続けて大人になったのが玄鳥……そして、日向子なのかもしれない。

 「純粋な情熱」は強く眩しく、そして……危ういものだ。

「どうなんですか!? 有砂さん」

 答えを聞くまで逃がさないとでも言うような玄鳥の斜め下から突き上げる眼差しに、有砂はゆっくり口を開いた。

「……オレは……」












 局地的に緊迫した雰囲気に包まれたカフェの入り口に、ロングブーツのヒールを鳴らして、近付く者がいた。

「日向子が来る前に……コーヒーを一杯飲むくらいの時間はあるよね……」

 腕時計を気にしながら、彼女はその扉に、手をかけた。
















《つづく》
 約束の駅前広場のベンチ。

「ごめんごめん、ちょっと遅刻だね」

 いつも通りの笑顔で小走りに美々が駆け寄ってくる。

「いいえ、わたくしも今来たばかりですわ」

「そっか。どこ行く?」

「そうですわね……先月行ったエスニックのお店などはいかがですか?」

「いいね、そうしよう」

 美々があまりにもいつもと変わらないことに、日向子は少しの安堵と大きな違和感を感じた。

 先に立って歩き出した背中にそっと問掛けるべく口を開く。

「……美々お姉さま? あの」

「日向子」

 振り返らずに、美々は告げた。

「……写真、返さなくていいよ」

「え?」

 予想もしない言葉だった。

「あんたにあげる。捨ててくれて、いいから」

 振り返った美々はやはり、微笑んでいた。

 痛々しいまでに明るい笑顔で。

「過去なんか、もういらない」










《第7章 秒読みを始めた世界 -knotty-》【4】












「よっちん……それ、ツッコミ待ち?」

「は? ……っ」

 有砂は完全に巣のリアクションで、手にしていたものを洗面台の上に投げるように置いた。

 それはどう見ても洗顔フォームで、蝉が声をかけなければ確実に有砂はそれを歯ブラシにつけて口に入れていたに違いない。

「間違えたの?」

「……うるさい」

 先だってと真逆の状況に、蝉は苦笑し、有砂は気まずそうに目をそらした。

「疲れてんじゃん? 仕事、大変なんでしょ?」

「……そうやな」

 有砂はあっさり肯定した。

 ということは他に何か理由があるんだろうな、と蝉は思った。

 聞いてやるべきだろうか?

 聞いても答えてくれないかもしれないが。


「よっちん、あのさ……もし何かあったんならさ、相談……してくれていいよ?」

「……別に」

 反応は予想通りだった。

 相変わらず蝉の親友は、他人に甘えることがどこまでも苦手だ。

 だが蝉はわかっていた。

 今はもう、自分が必死になる必要はないということを。

「じゃあ……日向子ちゃんに聞いてもらいなよ」

「……別に、何もないゆうてるやろ」

「うん、わかった、わかった。おやすみ」

 蝉はそれ以上何も聞かずに自室へ戻った。

 灯りをつけることもなくベッドに無造作に身体を倒して、天井を見上げる。

「だよね……きっとおれは、手を貸さないほうがいい……」

 シャワールームから漏れ聞こえてくる水音をBGMに瞼を閉じた。

「……だって……これからはもう……」










 最大にひねったシャワーを頭から全身に浴びながら、有砂はきつく目を閉じ、うつむいていた。

 歪に痕を残す胸元に、右の手を当てる。

「……っ」

 傷痕に爪を立てて、ぎりぎりとつき立てる。
 えぐれた肌ににじんだ赤い液体は、豪雨のようなシャワーの水流にすぐに洗い流されていく。

「……さ……」

 呟いた名前もかき消され、ともに排水口へと吸い込まれた。










 どこにも帰る場所のなくなってしまった写真を手帳にはさみ、バッグにしまう。
 無意識に、溜め息をつく。

「……お姉さま……」

 美々にとってそれが最良の選択ならば、仕方ない。
 日向子は何度も自分にそう言い聞かせているが、心は少しも晴れてくれなかった。

 そもそも、美々は昨夜までは確かに写真を取り戻したがっていたのだ。
 それが土壇場になって「いらない」などと言い出したのは何故か?

 理由があるに違いない。

 だが美々はその理由を教えてはくれなかった。

 今は無理でもいつかは……そう願って静観するしかないのかもしれない。
 その時がくるまで大切に写真を保管しようと心に決めた。

「さて、お仕事ですわ」

 気合いを入れて、スタジオのドアをくぐる。

「おはようございます!」

 精一杯元気に挨拶すると、

「あ、おはようございます」

「おお、来たな」

 今日の取材の相手である浅川兄弟が待ちかねていたというように日向子を迎え入れる。

 今日は二人だけで新曲の製作ということで、その合間にカウントダウンライブと製作中の楽曲についてのインタビューを行うことになっていた。

「新曲というのは、カウントダウンで発表する曲なのですか?」

「いや、発表はもうちょっと後だな……桜が咲くまでにはってとこか」

「まあ随分先ですのね」

 驚く日向子に、玄鳥が後ろ手に差し出したとっておきのプレゼントを満を持して差し出すような顔で告げる。

「今度の曲がおそらく、heliodorのインディーズデビュー曲になります」

「インディーズデビュー……CDになるのですか!?」

「かねてから声をかけて頂いていたインディーズレーベルの方と、3月リリースの予定で話を進めているところなんです」

 それはheliodorにとって初の音源制作ということだ。
 もともと彼等ほどのレベルのバンドが未だにCDはおろかデモテープのひとつも世に発表していないというのは極めて珍しいことだった。
 ファンはもちろんのこと、業界的にも長く待ちわびた決断だ。

「新生heliodorが活動開始して丁度2年だ。頃合いだと思ってな」

 以前美々に聞いた話によれば、heliodorには、デビューの話が一度持ち上がっていたという。

 だが粋の脱退に伴う活動休止で立ち消えとなった。

 恐らくはあの曲、「Melting snow」がそうなのではないか。

 それを日向子が問うと、紅朱は首を縦にした。

「俺にとっても思い入れのある曲なんだ、あれは……出来れば音源として発表したかった。
だが新生heliodorが、昔のメンバーの曲でデビューするわけにはいかねェだろ。
だから、カウントダウンライブで演奏して供養することにしたんだ」

 紅朱がかの曲を演奏することにしたのは、実に前向きな趣向からだったのだ。

 日向子は感心していた。

「新曲は一体どのような曲になるのですか?」

 身を乗り出す日向子に、兄弟は顔を見合わせて笑った。

「それはまだ内緒です」

「ま、曲が完成すんのをいい子で待ってろよ」

「まあ」

 日向子はわざとらしく怒ったような顔をして見せた。

「お二人とも意地悪ですのね」

 すぐに笑ってしまったが。

 紅朱と、玄鳥と。
 3人で微笑みを交していると、心の支えが少しとれて楽になるような気がした。

「さてと……なんか腹減ったな。そろそろメシ行くか?」

 紅朱の言葉に時計を見やると、いつの間にか19時を回ろうとしていた。

「日向子さんも一緒に行きますよね?」

 玄鳥の問掛けに日向子はもちろん満開の笑顔で答えた。

「はい、もちろんですわ。ご一緒させて下さいませ」


 3人で過ごす、穏やかな安らぎに満ちた時間。

 それがこの日を境に失われてしまうことを、今はまだ誰も知らない。











 何度も書き直した手紙は、書き直す度にシンプルなものになっていった。

 言い訳をくどくど書き列ねてもなんにもならないような気がした。

「これで、いいか」

 最終的には本当に短いメッセージとなってしまったそれを、蝉はダイニングのテーブルに置いた。

「……少しは……」

 かすれた声で呟く。

「……寂しがるかな……」

 ふっと苦笑する。

 あまりにも図々しい願望だと思った。


 蝉はうつむきながら、テーブル脇のゴミ箱を覗いた。

 今しがた蝉自身がそこへ葬った品が恨めしげに蝉を見上げていた。


 オレンジ色のウイッグ。

 ジャラジャラとストラップのついた携帯電話。


 その他こんな小さなゴミ箱には入りきらないほとんどの私物をこの部屋に置き去りにするのだ。


「……ごめんね……」


 バイクの鍵や財布以外、ほとんど手ぶらに近い状態で、蝉は部屋を出た。

 部屋の鍵をしっかり閉めると、しばらく握り締めていたその鍵をドアポストから、ストン、と落とす。

「……っ……」

 早足で歩き出す。

「……紅朱……」

 涙が滲む。

「……玄鳥……」

 視界がぼやける。

「……万楼……」

 胸が詰まる。

「……よっちん……」

 息が苦しい。

「……日向子ちゃんっ……」

 痛い。






「さよなら」











「……え?」

 急に日向子は立ち止まり、後ろを振り返った。

「どうかしましたか?」

 心配そうに玄鳥が声を掛ける。
 少し先を歩いていた紅朱も立ち止まった。

「いえ……なんとなく、どなたかに呼ばれたような気がしたのですけれど……」

 キョロキョロ見渡したが、知人らしき者は全く見当たらない。

「気のせい……かしら?」

 その時、タイミングを合わせたかのように日向子の携帯が振動した。

「あら……万楼様かしら?」

 携帯に着信=万楼、といった図式が脳内に確立されつつある日向子の様子に、傍らの玄鳥は少し複雑な顔をしたが、

「まあ、珍しいですわ。有砂様からお電話なんて」

 有砂からと判明していよいよ渋い顔をした。

 一方紅朱は、

「少し店がこむ時間だから、俺と綾で先に行って席を取る。お前は電話が終わってからゆっくり来いよ」

 と気遣いを見せ、日向子もそれを承知した。

 実は二人の電話の内容が気になって仕方ない玄鳥も、やむをえず兄について先に歩き出した。











「なんで怒ってんだ? お前」

 自分のグラスを引き寄せながら、紅朱が問う。

 当然のように紅朱がチョイスしたラーメン屋で、テーブル席を何とか確保した兄弟は対面に座っていた。
 玄鳥はお冷やを一気飲みして空のグラスをどん、とテーブルに置いた。

 振動で、テーブルの真ん中で待ち惚ける3杯目が、その水面をふるふる震わせた。

「やっぱり俺、有砂さんのことは信用できない」

「脈絡なく不穏当なこと言ってんじゃねェよ。うっかり日向子が聞いたら確実にしょげるぞ」

「……ごめん。けど」

 玄鳥は険しい顔で目を伏せる。

「あの人はやっぱり、女性に対していい加減で冷た過ぎると思う。
昨日だって、ただならない雰囲気の女の人が声を掛けてきてて……多分、過去に関係のあった女性なんだろうけど……それを、あんな言い方して」

「どんな言い方だか知らねェが、あいつのそういうところは昔からだろ。
最近はマシんなったほうじゃねェか。今更何カリカリしてんだ」

「っ、それは日向子さんがっ」


「わたくしが?」


「えっ」


 いつの間にかテーブル横に立っていた日向子が興味深そうに玄鳥を大きな瞳で見つめていた。

「わたくしが、どうなさいましたの?」

「いや……なんでもないんで。その、どうぞ……座って下さい」

 日向子は不思議そうに玄鳥を見つめていたが、促されるままに……座った。


「……あ」


 玄鳥は少し目を見開いて、短く声をもらした。

 日向子は自然に、とても自然に座った。

 紅朱の隣の席に。

「ん? どうかしたか?」

 品書きを見ながら呑気に問掛ける紅朱は、おそらく何も特別な感想は抱いていない。

 だが玄鳥の頭の中には、先日の万楼の言葉がまざまざと蘇っていた。



――無意識なあたりが更にジェラシーだなあ



「……本当、だよな……」

「はい? 何か、おっしゃいましたか?」

「綾、お前も早く注文決めろよ」


 どこまでも無邪気な二人に、玄鳥は追い詰められていた。
















《つづく》
「どうしても、行くの?」

「ああ」

 あまりにもあっさりとした返事。

「だけど万楼がいなくなったら、ボクはまた独りぼっちになるよ」

「男の癖に情けない顔をするな……響平」

 犬や猫を撫でつけるようにがしがしと頭を撫でてくる。

「お前は東京へ行け。heliodorはきっと、お前を必要とする筈だ」

「heliodorなんか……嫌いだよ」

 ふつふつ、と自分の内側から見覚えのない感情が沸き上がってくる。

「万楼がこの街を去るのも、heliodorの為でしょう?」

「違うな……私自身の為だ」

「じゃあ、万楼にとって……heliodorは、過去?」

 つきつけた問いに、彼女は黙ったままどこか悲しそうに笑う。

「側にいても……万楼の心はいつも遠くにある……ボクを、見てくれてない」

「響平、私は」

 もうたくさんだ。

 無我夢中ですがるように、細く締まった腰を抱き締めた。

「……どうしても行くなら、最後に抱かせてよ。
今夜だけ、ボクのものになって」














《第7章 秒読みを始めた世界 -knotty-》【5】











「……今の……何?」

 両腕にリアルに蘇ってくる感触。

 その光景は、ただの白昼夢ではないと、全身の感覚が訴えている。

 ベースを抱えたまま、万楼は呆然としていた。

「……ボクは……?」


 照明を落とした薄暗い部屋の中で、「Melting snow」のせつないメロディだけがエンドレスで流れていた。












「日向子の奴、なんか急いでたな」

「……うん」

「有砂からの電話となんか関係あんのかな……」

「……」

 ラーメン屋を出てすぐに日向子と別れた浅川兄弟は、スタジオの駐車場へと向かっていた。

「……兄貴」

 突然玄鳥が立ち止まった。

「なんだ?」

 紅朱もまた、立ち止まる。
 そしてようやく自分を見つめる玄鳥の瞳に宿る思い詰めたような感情を察した。

「……綾?」

 玄鳥は紅朱を睨むようにして口を開いた。

「兄貴は日向子さんをどう思ってる?」

「どう……って、いい奴だと思ってるぞ?」

「女性としてどう思うかって聞いてるんだよ」

「あ? 女性として? なんだよ、それ」

 玄鳥はじれったそうに語気を荒げる。

「彼女を恋愛対象として見てるかってことだよ!」

 紅朱はあまりの勢いに不覚にも圧倒されていた。
 即答しない兄に痺れをきらしたように、玄鳥はついに言い放った。

「俺は、日向子さんが好きだよ……初めて彼女の手に触れた……あの瞬間から、ずっと、ずっとバカみたいに恋焦がれて……彼女だけを見てきたんだ」

 往来で大声で口にするには、通常ちょっとためらわれるような台詞を真剣に口にしながら、玄鳥は一歩踏み込み、唖然としている紅朱の両肩をぐっと掴んだ。

「兄貴はどうなんだよ!? そういうつもりじゃないんだったら、頼むから俺の邪魔をしないでくれ」

「邪魔……って……」

 肩に食い込む指の力の強さに、紅朱は玄鳥がいかに本気かを文字通り痛いほど思い知らされていた。

「悪ィ……全然、知らなかった。お前……日向子に、惚れてたんだな」

 自分で告白したことだというのに、玄鳥は微かに顔を赤らめてうつむき、紅朱から手を引いた。

「……うん」

 紅朱はしばしそんな玄鳥を見つめていたが、ややあって小さく溜め息をついた。

「……いいんじゃないか」

「え?」

 顔を上げた玄鳥に、苦笑して見せる。

「お前はしっかりし過ぎてっから、案外日向子みたいに抜けてる奴が合うかもしれねェな」

「……兄貴……」

 驚きで玄鳥の瞳がまんまるになる。

「応援してくれるのか? 俺のこと……」

「バカ……当たり前だろうが、俺はお前の兄貴だぞ」

 瞬間、玄鳥は感激と安堵がミックスされた半分泣きそうな笑顔で、

「……兄貴っ!!」

「うあっ」

 いきなり紅朱を思いきり抱き締めてきた。

「ありがとう! 兄貴っ!!」

「なっ、離せバカ野郎! 見られまくってんだろうが!!」

 あまつさえ玄鳥の腕にちょうどよくすっぽり収まってしまう自分の体型を疎みながら、紅朱は必死に逃れ出た。

「……ったく、大袈裟なんだよ、お前は」

「ごめん……けど、俺はもしかして兄貴も日向子さんのこと気になってたらどうしようかって思ってたからさ……」

「……あのなぁ、んなこと……」

 ふと。

 紅朱の頭の中に、日向子が現れる。

 微笑んだ日向子。

 涙を浮かべた日向子。

 すねた顔。

 恥じらう顔。

 鳥のさえずるような澄んだ声。

 触れた時の髪や肌の柔らかさ。

 真っ直ぐに見つめてくる大きな瞳。


「……あるわけ、ねェだろ」

 そうだ。

 意識したことなどなかった。

 これまでは一度も。

 そしてこれからも……?

 正体のはっきりしないもやもやを胸の真ん中に感じながらも、紅朱は玄鳥に笑ってみせる。 

「あ、そういや心配すんなよ。このことは他の奴らにはちゃんと黙っててやるからな」

「あの……すごく言いにくいんだけどさ。知らなかったのって……兄貴だけだよ?」

「あ?」













 日向子は有砂を待っていた。
 電話で、バイトが終わり次第そのまま真っ直ぐ迎えに来るから適当に時間を潰しているようにと言われていたので、12月を彩るイルミネーションを眺めながら、ふらふらと意味もなく街をぶらつく。

 有砂のほうから連絡をしてくること自体が珍しく、しかもその内容が「話したいことがあるから付き合ってほしい」……だ。
 声音が少し弱々しく聞こえたのは、バイト疲れのせいだけだったのか。

 何かあったのだろうか。日向子は不安を感じていた。

「有砂様……」

 名前を呟いた瞬間、日向子のすぐ横でふいに停車した車があった。

「有砂様?」

 振り返ったがそれは有砂の車ではなかった。
 艶やかなボディの薔薇色のフェラーリ。

「……やっぱり、水無子に似てる」

 わずかに開いたウインドウから声が聞こえた。
 男性の声だ。

「水無子……?」

 日向子はその名を聞き留めて、目をしばたかせた。

「わたくしの母が水無子ですけれど……」

「母っ? ほんならキミ、水無子の娘なん? えっ、ホンマに!?」

 早口の関西弁がまくし立てたかと思うと、少々乱暴に運転席側のドアが開け放たれた。

「そら生き写しも無理ないか、高槻センセーの遺伝子は一体どこいってもたんやー?」

 車から降りたのは、黒いロングコートを着た、背の高い、一見年齢不祥な男性だった。
 雰囲気から恐らく日向子より10以上は年上であろうとは思われたが。
 だがそれよりも、日向子は彼の着ているコートのほうに気をとられていた。

 よく覚えている。


 別れ際に、伯爵がまとっていたあのコートと全く同じデザインだ。


「あの……どなた様ですか?」

 男性は、日向子を見下ろして楽しそうに笑う。

「僕なー、キミのママの昔の彼氏やねん」

「えっ?」

「ああ、ええね。その驚いた顔とかホンマそっくりやわ」

 遠慮もなく伸ばされた左手のいくつものシルバーで飾られた五指が、日向子の右頬に触れる。

「実に、そそるね」



 ダンッ、と突然鈍い音が辺りに響いた。

 日向子と男性は同時に振り返り、

「まあ……っ」

「なぁっ……!!」

 同時に叫び、顔色を変えた。

「ちょっ、オマエはなんちゅーことをっ、先月納車したばっかやねんぞ!?」

「……あんたこそ年甲斐もなく恥さらしな真似せんといてくれへんか?」

 有砂だった。

 日向子には先刻から展開があまりに急過ぎて、何が起きているのか整理しきれなかったが、どうやら先刻の音は、有砂がフェラーリのバンパーを蹴り上げた音だったようだ。

「お嬢」

「は、はい」

「危ないからこっち来とき」

「はあ……」

 日向子はよくわからないまま、ひょこひょこと有砂の側に寄っていった。

「なんや、キミは佳人のタレやったん?」

「たれ?? あの、有砂様のお知り合いですか?」

 有砂は不機嫌そうに舌打ちした。

「いや、思いっきり赤の他人や。ほっといて行くで、お嬢」

 日向子の手首を掴んでとっとと歩き出そうとする有砂だったが、

「こーら、パパにそんな口聞いたらあかんやろ? 誰のおかげでそんな大きなった思てんねや」

「……パパ?」

「少なくともあんたのおかげやないやろ、クソ親父」

「おや、じ……?」

 日向子は目を見開いて、有砂と男性を見比べた。

 そうだ。

 コートにばかり気を取られていたが、よく見れば男性のルックスは、ほとんど有砂の「未来予想図」のようだ。

「あの……あなたが、沢城秀人さん……?」

 男性は微笑む。

「うん、そうやで♪ ちなみにキミの名前は?」

「あの……日向子、です」

「日向子か。カワイイ名前やんか~、キミにぴったりやん」

 軽い口調で評しながら、
「はい、あげる」

 差し出してきたのは名刺だった。

「僕のアトリエの住所、書いてあるからいつでも遊びに来てくれてええよ♪」

「はあ……」

「アホか、受け取らんでええって」

 有砂はイライラした様子で日向子の手首を引っ張る。

「ほら、行くで」

「あっ……はい」

 引きずられるようにして有砂に連行されながらも、日向子は少しだけ後ろを振り返った。

 秀人は微笑を浮かべたままヒラヒラと手を振っていた。

 日向子は軽く会釈だけを返して有砂に視線をスライドさせた。

 静かな怒りをたぎらせている様子だ。

 声をかけるのをためらってしまう。

 日向子は受け取った名刺をとりあえずコートのポケットにしまいこんだ。

 あの人が沢城秀人。

 有砂や、美々や、菊人の実の父親。

「……驚いたやろ?」

 有砂が口を開いた。

「……あれでもそこそこええ年やねんで。半世紀近く生きてもあんな調子や……昔からちっとも変わらへん。恥ずかしい奴や……」

 日向子には秀人が見た目より遥かに年齢を重ねていることよりも、秀人が話に聞いてイメージしていたほど悪い人に見えなかったことのほうが意外だった。

 だがけして、良い人に見えたというわけではない。

 感じたのは、善悪の境界の曖昧な、子供のような危うさだ。

 確かにあの人は、危険な人なのだろうと日向子は感じていた。

「お嬢」

「はい」

「間違ってもあのクソ親父と二人っきりで会ったりしたらあかんからな」

「はい、あの……有砂様、ところで今日は何を」

「今日はもうええ……気ィ削がれたから、ジブンをマンションまで送ったら帰るわ」

「……そう、ですか」

 とても残念なことだ。

 だが、今日は、ということは日を改めてまた話してくれるということだ。

 日向子は頷いた。

「わかりました。またいつでもお話し下さいね?」















 今一番会いたくない男と遭遇してしまったことにより、バイトの疲労感が一気に10倍に膨れ上がったようで、身も心も重く感じながら有砂は帰宅した。

 いい加減深い時間となっていたが、蝉のバイクがないようだった。

 蝉が釘宮やスノウ・ドームの事情で遅くなることはよくあるが、いつも必ず帰宅連絡をよこしてくる。

 何か、引っ掛かるものを感じた。


 そしてそれが杞憂ではないことを、有砂はダイニングルームで、知った。

 顔に似合わず達者な文字で記されたあまりにも短い、伝言。

「……あのアホ……」

 有砂は奥歯を噛んで、ぐしゃっ、とメモ握り潰した。







『よっちんへ

 今までありがとう

 おれはやっぱり

 釘宮漸、として

 生きていくことにします

 勝手でごめん

 heliodorと

 あの娘をよろしくね』














《第8章へつづく》
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