鼓膜を震わせる音。
潮騒の、ざわめき。
「ここで会ったのも何かの縁だし……ねえ、ボクと心中してくれない?」
「なかなか過激な口説き台詞だな」
誰もいない、白い砂浜。
「……そんなに、死にたいのか?」
突拍子もない申し出を、彼女は真顔で受け止める。
「そうでもないけど、そろそろ死んでもいいかな、とは思うよ。
積極的に生きていこうって思うだけの目的とか、楽しみがあるわけじゃないからね」
「そうか。まあ、付き合ってやってもいいぞ」
「……え?」
道端でナンパされたかのような軽い返答。
「いいの?」
「ああ」
反対方向から続いてきた2つの足跡が、繋がったその瞬間から運命が巡り始めた。
「ただし私と賭けをして、お前が勝ったらな」
《第7章 秒読みを始めた世界 -knotty-》【3】
「……賭けをしよう、ってあの人は言ったんだ」
相変わらず殺風景な部屋の真ん中で、三人は向き合って座っていた。
「賭け……?」
「この曲のベースパートを一週間で引きこなせたら……一緒に死んでもいい、って」
頼りなく細い糸をたぐりよせるように、たどたどしく、けれど確信を持って万楼は語る。
「それがheliodorの曲……『Melting Snow』だったよ」
一つの有力な可能性に過ぎなかったことを、真実だと裏付けたメロディ。
「ボクの出会った『万楼』は、やっぱり粋さんだった……」
紅朱は目を伏せて、笑った。
「ああ……それは粋の得意な罠だ」
「罠、ですか?」
二人の横で静かに話に耳を傾けていた日向子が思わず口を開いた。
「同じ手に引っ掛かった奴が一人いるからな」
紅朱は思い出し笑いで小さく噴きながら補足する。
「今頃、気色の悪ィ営業スマイルで精出して働いてんだろ」
「有砂様ですか!?」
「……やっぱりお前も気色悪いと思ってたんだな?」
「そ、そのようなことは……」
「気にすんな。その感覚は正常だ」
日向子はそれをどうしても強く否定出来なかった。
「それで、罠というのは……?」
話題を元に戻すのがやっとだった。
「粋のベースには、中毒性がある」
紅朱もそれ以上日向子をいじめるつもりはないようだった。
「言葉で説明するのは難しいが、粋の弾くベースの音自体がな、何か強烈な毒を含んでるんだ」
「うん……痺れるような甘い毒」
万楼が大きく頷く。
「側で聞いてるとすごく気持ちよくなっちゃうんだ。一週間もずっと聞いてたら、もう抜け出せなくなってしまうほど」
さながら、船乗りを海に誘い込む魔性のセイレーン。
魅惑の音色は鼓膜から人々を酔わせ、意のままにする。
「有砂は賭けに負けたらheliodorのメンバーになる筈だった。
けど、あいつは賭けには勝ったが、結局heliodorのメンバーになった。
万楼もそうだったんだろう?」
紅朱の問掛けに、万楼は苦笑で答えた。
「約束通り心中してやる、って言われたけど、ボクはそんなことより、もっとベースを教えてほしいって頼んだんだ。
……行くところがないなら、ボクの部屋で一緒に……暮らさないかって」
それが始まり。
一人の少年が、ベーシストとしての道を歩き始めたきっかけだったのだ。
「ようやく、そこまでは思い出せたんだ」
万楼は少し興奮した様子だった。
「『Melting Snow』を練習してると、どんどん、思い出すんだ。
すぐに思い出すよ。万楼……粋さんがどこへ行ったのか、どんなふうに別れたのかも」
日向子はそんな嬉しそうな万楼に一抹の不安を感じてしまった。
ナイト・アクアリウムで万楼は少し気になることを口にしていた。
あの人の手を離してしまった……確かそんなような言葉だった。
普通の状態ではなかった万楼はあの場での自分の発言を曖昧にしか覚えていないようで、確認しても何のことだかわからなかった。
あの人……それが誰のことかはわからない。
だがそれが彼女なのだとしたら。
きっとそこには何か……万楼を苦しめる真実が隠れている。
万楼は記憶を取り戻したいとずっと願っていた。
日向子もそれが一番いいことだと信じて見守ってきた。
今もそれは変わらない。
だが同時に言いようのない不安も感じてしまう。
急速に解かれていく封印が、乾ききっていない傷口をも開いてはしまわないかと。
「万楼様」
日向子は万楼を真っ直ぐに見つめて言った。
「……頑張って下さいませ。お役に立てることなどないかもしれませんけれど、何かありましたら、いつでもわたくしを呼んで下さい」
万楼は微かに頬をピンク色に染める。
「うん……ありがとう」
ほどなくして万楼の部屋を出た2人はすぐには帰らず、紅朱のバイクをそこに置いたままで、しばし冬空の下を散歩していた。
日向子は写真を美々に返却するために待ち合わせをしているのだが、待ち合わせの約束の時間までまだ少し余裕があった。
ひとりで暇を潰すつもりだったのだが、紅朱は紅朱でバイトの時間までに少し持て余した時間があると言う。
それならば……ということで今しばらく付き合うこととなったのだ。
あてもないゆったりとした散歩。白い息を吐きながら交すとりとめない会話の内容は、自然と粋と万楼のことになっていた。
「粋と万楼の音は本当によく似てる。足りないのは毒の量だけだ」
「毒の量……紅朱様は万楼様に粋様と同じように弾けるようになってほしいのですか?」
「いや、思わない。あれは真似して真似出来るもんじゃねェからな……。
むしろ俺は、そろそろ万楼は粋とは違う個性を身に付ける段階にきたと思ってる」
紅朱の口調は力強い。
「以前の万楼はただ粋の身代わりなろうと必死だった。あの段階で粋の音を聞かせれば、それをただ模倣しようとあがくだけで終わった筈だ。
だが、今の万楼ならそれではダメだとわかるだろう。あいつは、粋に勝ってheliodorのベーシストの座を防衛しなきゃなんねェんだからな」
言いきった紅朱の表情は、温かく、優しい。
万楼へのリーダーとして、バンドの仲間としての愛情を感じとり、日向子の顔も自然と綻んだ。
「まさか、あの曲がきっかけで万楼の記憶があんなにするする戻り始めるとは思わなかったけどな」
ふと流れてきた雲に太陽が遮られるようにして、紅朱の表情に翳りが浮かんだ。
「……俺は、今更粋と再会してどうしようってんだろうな」
「え……?」
「粋が消えた時、俺はもうバンドを辞める気でいた。粋のいないheliodorに未練はなかった。
それに……まるで、今まで自分がやってきたことを全部否定されたような気分だったんだよな。
そのクセ、いつか帰って来てくれるんじゃないかなんて甘い考えも捨てきれてなかった。
だがもうheliodorは新しく生まれ変わって、着々と前に進んでるじゃないか……今更粋と会ったって仕方ない」
万楼には粋を見つけだして、勝つことでheliodorのベーシストでい続けたいという願いがある。
紅朱にはかつてもう一度粋とバンドをやりたいという願いがあったのだろうが、今はもう万楼を仲間として認めているようだ。
少なくとも日向子にはそう思えた。
「紅朱様……粋様に、会いたくないのですか?」
紅朱は目を細め、自嘲的に笑う。
「再会したってまた傷付け合って終わるくらいなら、本当はもう会わないほうがいいのかもしれない」
「そんな……」
胸が苦しくなる。
昨夜の、電話ごしの震えた声が頭をよぎった。
「……紅朱様も、なのですか……?」
「ん?」
日向子の言葉の意味はもちろん紅朱にはわからなかったが、思いは伝わる。
「だが……望もうが望むまいが、もう一度出会う運命なら、きっとまた出会う」
革の黒い手袋をはめた右手が、日向子の頭の上にポン、と乗っかった。
「だからそんな顔すんなよ」
気遣うような優しい声が、日向子の胸に染み込んでいく。
「……はい、紅朱様」
ちょうどその時、二人の横を一台、鮮やかな深紅のフェラーリが通り抜けた。
それがすれ違う瞬間、ほんの一瞬スピードを緩めたことに二人は気が付くことはなかった。
だがドライバーのほうはバックミラーを横目で、けれどしっかりと見つめ、小さく呟いた。
「水無子(ミナコ)……?
……なわけないか」
一方その頃、『気色の悪い営業スマイルで精を出して働いて』いた有砂は、実際慣れない筋肉を酷使して顔面が筋肉痛を起こしそうな勢いで頑張っていた。
「……しんどい……」
有砂自身可能な限りフロアには出たくないと思っているのだが、
「沢城さん、6番ご指名入りましたよ~」
「……ご指名、ってなんですか。いつからこの店はホストクラブに?」
「まあまあ、いいからいいから」
有砂は客から掟破りの「ご指名」をされるほど予想外の大人気となっていた。
おっとりしているが押しの強い店長や、ベテランの先輩店員に押しきられて有砂はフロア専門にさせられつつあった。
時には「あれってheliodorの有砂じゃない??」といった小声の会話が耳に入ってくることもあったが、最終的には「ま、そんなわけないよね」で会話は終了してしまう。
クールさが売りの有砂がまさかそんな……と思うのは無理もない話だ。
結局今日もひたすら接客に明け暮れていた有砂だったが、
「いらっしゃいま……なんや、ジブンか」
不意に作りかけた笑顔を打ち消す。
「お疲れ様です」
玄鳥だった。
「何しに来たんや」
「俺はもともと常連です」
確かにheliodorがここで頻繁にミーティングを行うようになる以前から、玄鳥はこの店をよく利用していた。
だが、
「有砂さんこそ……何が目的ですか?」
この警戒心に満ちた言葉は、どう考えてもただお茶を飲みに来ただけ、という雰囲気ではない。
「バイトの目的が金以外にあるか?」
「……本当のところを聞かせて下さい」
玄鳥は悲愴なほど真面目な顔で問掛ける。
「有砂さんは……日向子さんのこと、どう思ってるんですか?」
有砂は黙ってテーブルに水を置いた。
「……仕事中や。雑談は後にしてくれ」
「有砂さん……すいません、これだけは言わせて下さい。
……日向子さんのこと、気まぐれや遊びなら絶対にやめて下さい。
あの人を傷付けるようなことをしたら、俺は……許さない」
真っ直ぐで熱い思いをストレートにぶつけてくる玄鳥は、まさに有砂とはあらゆる意味で対称的だ。
だが有砂には何故か時々、そんな玄鳥を「懐かしい」と感じる瞬間がある。
有砂が遠い過去に失ってしまったものを、そのまま心の真ん中に持ち続けて大人になったのが玄鳥……そして、日向子なのかもしれない。
「純粋な情熱」は強く眩しく、そして……危ういものだ。
「どうなんですか!? 有砂さん」
答えを聞くまで逃がさないとでも言うような玄鳥の斜め下から突き上げる眼差しに、有砂はゆっくり口を開いた。
「……オレは……」
局地的に緊迫した雰囲気に包まれたカフェの入り口に、ロングブーツのヒールを鳴らして、近付く者がいた。
「日向子が来る前に……コーヒーを一杯飲むくらいの時間はあるよね……」
腕時計を気にしながら、彼女はその扉に、手をかけた。
《つづく》
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