「本当に、一体どんな奴なんだ……日向子さんの婚約者って」
「婚約者じゃないよ、玄鳥。婚約するかもしれない人、でしょう?」
スタジオの駐車場に降り立った年少組は、美々の口から明かされた日向子の婚約騒動な一夜明けても当然のように興奮気味に話していた。
今日練習の見学に来る予定の日向子の意思を一応確認した上で、場合によっては妨害作戦を練らなくてはと昨夜も万楼の部屋でさんざん語り合い、そのまま今日も二人でここへ来たのだった。
「どっちだっていい。どうせろくでもない奴に決まってるさ」
「なんで決まってるの? 案外いい人で、お姉さんも気に入っちゃうことだってありえるよ?」
「……まだ日向子さんに会ってもいないのに婚約話を進めるような相手がいい人だと思うか?」
「ああ、そっか」
首を大きく上下する万楼。玄鳥は、すぐ近くに駐車されていた白のセダンを見やって、独り言のように呟いた。
「そんなどこの誰とも知れない奴に日向子さんを持っていかれるくらいなら……まだ有砂さんにかっさらわれるほうがマシだよ……」
《第9章 嘘つきな彼等 -play-》【4】
珍しく一番最後に到着した玄鳥と万楼は、スタジオ入り口のロビーの椅子に座って、何やら難しい顔をしているバンドのリーダーに遭遇した。
「おはよう、リーダー。なんで中に入らないの?」
「有砂さんも来てるんだろ?」
あっけらかんと声をかける二人に、紅朱は何故かかたい表情を浮かべたままだ。
「兄貴?」
「……なあ、お前ら」
低いトーンで、問う。
「日向子の奴、結婚……しちまうかもしれねェぞ?」
あまりにも衝撃的な発言に、他二人は完全にポカンとしている。
「あいつもう来てて、それで聞いたんだ……昨日のこととか、婚約者こととか……したらな、あいつ何て言ったと思う?」
「あの……どうなってしまうのやらわたくしにもまだわかりませんけれど……けしてわたくしを不幸にはしないとおっしゃって下さいましたから、今は信じてお任せしておりますの」
「え」
目を丸くしたまま綺麗にハモる玄鳥と万楼に、紅朱はにわかに立ち上がった。
「お前ら、これって、どうなんだ!? 俺には結構マンザラでもないので前向きに検討中、って意味にしか聞こえねェ……!」
「確かに……ボクにもそういう解釈しか……」
「そんなわけない!」
玄鳥だけがキッパリと否定する。
「日向子さんは口の巧い男に言いくるめられて、騙されてるんだ……絶対!」
「……ねえ玄鳥」
そんな玄鳥とは反対に、万楼はすぐに冷静さを取り戻していた。
「気持ちはわかるんだけど、そうやって決めつけるのってどうかと思う……」
「万楼……?」
確かに言っていることはかなり正論だったが、玄鳥は、
「お前は……もうあきらめるのか?」
思わず問い返した。
万楼の様子は、夜の公園でライバル宣言した時とは全然違う。
「わからない。でもボクには口出しする権利なんかないよ」
万楼が日向子に対して消極的になってきていることはわかっていた。
理由も聞いた。
忘れていたとはいえ、他の女性を好いていた自分が、日向子を好きになってしまったことに対する自己嫌悪。
そして、自分の本当の気持ちがどちらにあるのかはっきり掴めない自己疑心。
「……お姉さんが誰かと結婚、って考えるとせつなくはなるけどね……」
「万楼………」
「それに……お姉さんはぼんやりしてるところもあるけど、案外頭のいい人だと思う。
いい人と悪い人の区別くらいはつくと思うし、本気で嫌だと思ったらちゃんと自分で逃げ出す筈だよ。
そうなったら、その時にボクたちが支えてあげればいいんじゃないかな」
「……なかなかいいこと言うじゃねェか」
黙って聞いていた紅朱が感心したように口を開いた。
「流石は、日向子の弟分だな」
「え、ボクって弟分だったの?」
「違うのか? いつも『お姉さん』って呼んでなついてんだろ?」
「兄貴……」
ここまでの会話の流れをふまえても相変わらずわかっていない兄に、もはやかける言葉もない玄鳥。
しかし万楼はふっと、微かに笑みを浮かべた。
「弟……か。それもいいかな……」
その日の取材が終わると、日向子は迎えに来た小原の車でまた実家に帰った。
また書庫に行って、昨日見ていたアルバムの続きを見るつもりだったのだが、三分と経たないうちに日向子はすぐに書庫から飛び出した。
「……これは、どういうこと……?」
良家の令嬢にも関わらず廊下を駆け出した日向子は、角を曲がる時に向こうから来る相手とぶつかりそうになった。
漸だった。
「……何事ですか? 屋敷の中を走り回るなど非常識ではありませんか」
相変わらず冷たい反応の漸だったが、日向子はそれどころではなく、焦った口調で問う。
「ねえ雪乃、書庫にあったアルバムがどこへ行ったか知らないかしら? 昨日まで確かにありましたのに……」
「ああ、あれでしたら今朝私が処分させましたが?」
あっさり返ってきたショッキングな言葉に、日向子は半分我を忘れて、漸の両腕をひしっと掴んだ。
「どうして……!?」
「……書庫が手狭になってきたので、不要な物を処分しただけですが、いけませんか?」
「あれは不要な物などでは……!!」
「ああ、そうですね。少し早まったことをしたかもしれません」
漸は、ほとんど涙目で見上げる日向子を見下ろして冷笑する。
「もうすぐあなたの部屋が空くのですから、そこを第二書庫にしてしまえばこと足りますね」
「っ」
頭の中が空白に溶けてしまったようだった。
「……不要……あなたにとってはそうなのかもしれないけれど、わたくしにはかけがえのないものでしたのよ……?」
ぎゅっと掴んだ両手に力を込める。
「……そんなの、あんまりですわ……!」
「……離して頂けますか? 私にはやるべき仕事が山ほどありますので」
言いながら日向子の手をほとんど力任せにふりほどいた。
うつむいて、ついにすすり泣く日向子の脇をすり抜けて、靴音が遠ざかる。
「……雪、乃……っ」
振り返って名前を呼んでも答えはなく、こちらを見ることすらしない。
「思い出を抱き締めることすら……許してくれないの……?」
抜け出したと思っていた失意が再び日向子を捕えていた。
とめどなく涙があふれてきて、視界はぼやけていく。
「日向子」
失意に沈みかけた意識を呼び戻すかのような、威厳のある声が呼び掛ける。
「日向子」
二度目。日向子はゆっくりと振り返った。
「……お父様」
いつ見ても厳しい顔をした父親が、いつからそこにいたのか、日向子を見つめていた。
「……顔を洗ったら私の部屋に来なさい」
短く促され、その有無を言わさない口調に、日向子はしゃくり上げながらも反射的に頷いていた。
「かけなさい」
座るだけでお金を取れそうなほど高級な革のソファに座った日向子は、紅茶を置いて退出して行った小原を労うと、向かいに座った父親に視線を戻した。
高槻と日向子が向かい合って二人きりでお茶を飲むのは、実際十年以上ぶりだった。
和やかな雰囲気などは皆無だったが、それでも日向子は不思議と落ち着きを取り戻していく自分に気付いていた。
「……日向子」
やがて高槻はゆっくりと切り出した。
「お前も釘宮の人間ならば他愛ないことで一々取り乱すものではない」
「……けれどお父様」
「写真など、漸が手放したものに比べれば全く他愛もない」
「……え?」
言われている意味がわからずに、何も返答出来ない日向子。
高槻は続けた。
「漸はお前を遠ざけたいのだろう。お前が側にいる限り、あれは手放したものを忘れることができないだろうからな」
「手放したもの……?」
高槻は一度押し黙り、それからまた少し角度の違う話をし始めた。
「……釘宮の後継者となることは並大抵のことではない。私とて、生まれたその日から周囲の多大な期待と重圧を受け、幾度も苦しんだ。
何度逃げたいと思ったか知れない」
「お父様が、ですか?」
「そうだ。それほどに釘宮の名前は重い。
周囲から後継となる男子を養子にするように強く勧められた時も、私はひどく懐疑的だった。
生まれた時から釘宮である私にとっても重荷だったものを、他家に生まれた子供が果たして背負いきれるのか」
高槻もまた、釘宮という名前をその父親から受け継いだ身……その高槻が語る言葉にはとてつもない深みがあった。
「漸と同じくらいピアノの素質がある子どもはたくさんいたが、漸ほど芯の強い、肝のすわった子どもは他にいなかった。
あれに、どうしても釘宮の後継者にならなくてはならない『目的』があることには気付いていたが、そんなことはどうでもいい。
ただ並々ならぬ覚悟の元で、子どもらしい素顔を隠して釘宮の人間になろうと必死に努力している漸に、私は全てを譲りたいと考えたのだ」
日向子の脳裏に、初めて漸に会った時の朧気な記憶が蘇る。
上手に名前を呼べなくて、困らせてしまったあの時だ。
大人びた声と表情は、しかし実は緊張で微かに揺らいでいたような気がする。
「とはいえ、若者はとかく葛藤するものだ。
思春期を経て世界が広がれば、もっと他の可能性を模索したいと感じることもある。
……だから私は、漸が成人し、決意が固まるまでは正式な養子縁組をしないことにしたのだ」
日向子は正直心の底から驚いていた。
頭が固く、厳しいばかりのワンマンで時代錯誤な父親だとばかり思っていた人は、こんなにも深い考えを持って漸を見守ってきていたのだ。
「そして漸は今、釘宮を背負う茨の道を選んだ。
……それ以外の可能性を手放すことに未練はないようなことを言ってはいるが、本心ではないだろうと私は思う」
「……雪乃には、他に何か進みたい道があるのですか……?」
かつてそんなことを何気無く雪乃に聞いたことがあったが、その時は何も言っていなかった。
言ってくれなかった。
胸がきゅっと締め付けられる。
「雪乃は、わたくしにはいつも本当のことを何も話してくれなかった……。
本当は優しい人でも、ひどい人でももう構わないから、あの人の本当の気持ちが知りたいです……。
……今からでも知りたいと思うけれど、もう何もかも遅すぎるかしら……」
「取り乱すなと言ったばかりだ。未熟者めが」
「あ……」
高槻の言葉は厳しかったが、今は何故か優しく聞こえる。
亡き母はよく高槻の優しいところが好きだと話していて、日向子にはそれが不思議でならなかったのだが、少しだけわかった気がする。
高槻は強く、厳しくあろうとしているのだ。
「釘宮」という役割を果たすために。
その生き方は、深紅の髪をしたあの青年とどこか似ている。
「……『そういうキャラで売って』いますのね」
「……なんだそれは」
いぶかしげに眉間に皺を寄せる高槻に、日向子は微かな笑みを向けた。
「……お父様と同じ……わたくしが泣くと怒る人のことを少し、思い出してしまって」
いよいよいぶかしそうな高槻に、日向子は本格的にクスクス笑いを浮かべる。
「……もう泣きません。写真を失っても、思い出が失われるわけではありませんもの。
雪乃が捨てるというなら、雪乃の分もわたくしが抱えてゆきます。
……忘れたりしません」
書斎のドアの前に封筒を携えた青年が立ち尽くしていた。
ノックをするために緩く握っていた拳をきゅっと固め、下に下ろす。
封筒を持つ手にも力がこもり、くしゃりと潰れた。
「……先生……お嬢、様……」
呟きは、かすれて、消える。
「……そう、だね。この曲じゃダメだ……」
《つづく》
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