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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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 ……おお。悪ィ、仕事中だったか?
 何回かかけたけど、なかなか携帯繋がらなかったぞ。

 ……あ? BLA-ICAぁ? なんだよ、あっちもお前が取材すんのかよ……。

 ……いや、怒ってねェよ。別に怒っちゃいねェけど……っつーか、んなことはどうだっていい。

 仕事、何時で上がれんのか聞きたかったんだ。

 迎えに行ってやるよ……多分びっくりするぜ??








《終章 紅い糸、紡いで ―End of curse―》









「な、びっくりしだたろ?」

「は、はい……びっくりいたしました……」

 「びっくりした」というよりは、現在進行形でびっくりしているのだ。

 落ち着かなくてキョロキョロしたり、いずまいをただしたりしている日向子に、右隣に座る紅朱はたまりかねて笑う。

「心配すんなって」

 彼が座っている場所は、ドライバーズシート。
 何とも見慣れない光景がそこにあった。

 紅朱から「迎えに行く」という電話が入った時には、てっきりいつものようにバイクを飛ばして来るのだろうと思った。

 ところが待ち合わせの場所へ向かった日向子を迎えたのは、いつも機材車として玄鳥が運転している、あの車だった。

 紅朱がそれを運転してきたのだと知った瞬間、彼の思惑通りに日向子は心底驚いたのだった。

「免許証、お持ちだったのですね」

「取ったんだよ、ついこないだようやくな。
……練習してたのはギターだけじゃない」

 確かに見慣れた車体の前と後ろには、鮮やかな色合いの「初心者マーク」が輝いていた。

 肝心の運転のほうは、身の危険を感じるほどではないが、やはりぎこちなさを残しており、技術云々というよりは運転者の性格によるものかもしれないが……少々荒っぽい。

 雪乃や玄鳥の安全運転に慣れている日向子には、全く別の乗り物のようにすら感じられた。

「あの、何故、わざわざ紅朱様が免許を? 玄鳥がいらっしゃらなかった間、蝉様や有砂様が機材搬送をなさってましたし、特に必要なかったのでは……」

「……綾が担ってたもんを、全部自分で背負わなきゃなんねェ、と思ってたからな……」

「紅朱様……」

「厄介な性分だよな、実際に背負えるかどうかもわかんねェのに抱え込む……一生直んねェかもな」

 自嘲を含んだ呟きだったが、その横顔には言葉ほど気負ったものは感じられなかった。

 玄鳥は、帰って来たのだ。自らの意志で。

 今の紅朱には、彼の役割まで背負う必要はない。


「実はな、運転の練習がてら、一昨日綾と実家に帰ったんだ」

 軽く顎で指し示した先には、フロントガラスに吸盤で取り付けられた「交通安全」のお守り……が、何故か3つ。

「地元の神社のお守りなんだけどな、ジジイとババァと綾がひとつずつよこしやがって……そんなに俺の運転が心配かって感じだよな」

 それは、家出同然に家を出た紅朱にとっては数年ぶりの家族団欒を過ごせたということ。

 特に対立していた父親とも、ちゃんと向き合うことができたということを意味していた。

「……綾と話し合って、打ち明けることにしたんだ……綾が本当の両親のことを知ったってこととか、色々な。
結局ババァは泣かしちまったけど、話せて良かった。ようやく溝が埋まったって感じたぜ」

 そう語る紅朱の声も表情も、晴れ晴れとしている。

「……ジジイも、俺たちのやりたいようにやれ、って言ってくれたしな」

 茨に閉じ込められて眠りについた、お伽噺のお城のように、長い間浅川家の時間は止まっていたのかもしれない。

 秘密と不安を抱えて、大切なものを失うことに怯えて、閉ざされていたのかもしれない。

 真実が明らかになったことでいっそ、家族の絆は強まった。

 紅朱の独りで抱え込む性格は確かに簡単には変わらないのだろうが、今までと本当に何も変わらないわけではない。

 力で押さえつけるばかりでは解決しないことに気付いた彼は、本当に潰されそうになったらちゃんと周りに頭を下げて協力を求めることができるに違いないし、協力を求めれば力を貸してくれる人間はたくさんいる。

 彼の最愛の家族、そして頼もしいメンバーたち……それにもちろん、日向子もその一人だ。

「これで何もかも、落着ですわね」

「……」

「……紅朱様?」

「……」

 紅朱が急に黙ってしまったので、日向子は何か走行に問題でも発生したのかと、思い出したようにまたまたそわそわしてしまう。

 しかし理由はそういうことではなかった。



 結局日向子のマンションの前に着くまで、沈黙を守ったままだった紅朱は、車のエンジンを切った後で、ようやく口を開いた。

「……お前、断ったんだってな……綾の、告白」

 あまりにも意表を突いた言葉に、日向子は思わず顔を赤らめた。

「それは……」

 紛れもない事実だった。

 heliodorとBLA-ICAの運命のライブの、その後。

 合同ミーティングという名の合同打ち上げの帰り、日向子をマンションまで送る役を買って出た玄鳥は、今と全く同じようなシチュエーションで、マンションの前に停めた車の中で、自らの想いを告げた。

 そして日向子は、その想いを受け入れることができなかった。

「……他に、好きな奴がいるって言ったらしいな」

「……はい」

 紅朱があまりにも神妙な顔つきをしているので、日向子もつられて真剣な顔になってしまう。

「……お前の、好きな奴って……誰だ?」

「えっ……」

 心臓が跳ねる。

「やっぱり、高山獅貴か……?」

「……いいえ……」

 それはもうすでに卒業した「憧れ」。
 今の日向子にはもっと大切な人がいる。

「……俺の知ってる奴か?」

「……はい」

「……heliodorの、誰かなのか?」

 どんどん鼓動が加速する。それは多分、お互いに。

「……はい」

「……日向子!」

 名前を呼ばれると同時に、肩に手がかけられる。

 わずかに痛みすら感じるほど強く掴まれて、驚いている間に、黒い色素の薄い、炎のような2つの瞳に真っ直ぐ射すくめられていた。

「……日向子、俺は……お前が、好きだ」

「……紅朱様……?」

「自分でも最近まで自覚してなかったが、もう随分前からお前のことは、女として見てたと思う……」

 声音にも、肩に感じる指先の感触にも、じんじん熱を帯びているようだった。

「……それもただの女じゃなく、特別な、女としてだ。
……だから……」

 次の言葉が発せられるまでのわずかな沈黙が、まるで永遠のように長く感じられた。

 紅朱は、その眼差しをわずかに細めて微笑する。

「……お前は幸せになれよ、絶対」

「……え?」

 肩を掴んでいた手が離れて、微熱だけがそこに取り残される。

「……お前の好きな奴が、俺の仲間なら何も心配はねェな。
それが綾の奴なら言うことなかったが……」

「……紅朱様?」

「万楼はまだまだガキっぽいところはあるが、芯は強いし、素直で可愛い奴だ」

「……えっと」

「蝉は……俺よりお前のほうがわかってるかもな。あれで真面目な奴だし、信頼できる」

「……あの」

「有砂は……まあ、色々あったが、今は落ち着いてるし、あいつも兄貴だけあって意外に面倒見はいいんだよな」

「……紅朱様」

「クセのある奴ばっかりだが、みんな俺の自慢の仲間だ。だから、お前が誰と一緒になっても俺は……」

「……紅朱様っ!!」

 思わず大きな声で制してしまっていた。
 そうでもしなければ延々と聞かされそうだったからだ。

 紅朱のいささか的外れ過ぎる激励の言葉を。

 日向子はふーっと一度呼吸すると、また紅朱が何か言い出す前に先に口を開いた。

「紅朱様は、大切なメンバーをお一方お忘れでいらっしゃいませんこと!?」

「は?」

「heliodorは5人でheliodorですのに……紅朱様は4人しか名前をお出しになっていないでしょう?」

 言われた紅朱は、ぽかんとしていたが、今しがた自分が上げたメンバーの名前を反芻しながら、親指から順に左手の指を折っていく。

「……いや、合ってるだろ、綾と万楼と蝉と有砂……」

 日向子は、最後に残った指……紅朱の左手の小指にそっと手を重ねる。

「もう1人はどなたでしたか……?」

 紅朱は触れ合った手を凝視ながら、呟くように答えた。

「……お……俺??」

 ようやく辿り着いた答えに、日向子は今更ながら少しはにかんだ笑みを見せた。

「……はい」

「違う」

「……はい?」

「違う。そんなわけねェ」

「???」


 紅朱はまるで逃げるように、日向子の手から自らそれを逃がし、随分伸びてきたワンレングスの髪に突っ込んだ。

「俺は……口が悪いし、態度もデカいし、女の扱いなんかろくにわかんねェし……」

「でもお優しい方ですわ」

 出会ってすぐにそう言った時、紅朱はそれを否定した。

 しかし、彼のことをよく知る度に、日向子は彼の優しさを目の当たりにしてきた。

 heliodorの狂信的なファンの団体に狙われた時には、自らの危険も省みずに何度も助けてくれた。

 メンバーのため、家族のため、時にはうちひしがれながらも頑張っている姿を見て、何か力になりたいと思うようになった。

 その想いが恋へと変わっていったのはいつからだったのか。

「本当に、俺……なのか」

「ええ」

「……っ」

 紅朱は、いきなりガクッとハンドルに頭を伏せたかと思うと、

「やべェ……どういう顔していいかわかんねェ……」

 と、吐息まじりの言葉を漏らした。

 耳や頬が髪と同じ赤い色に染まっている。

「……両想いってわかってたら、もうちょっとカッコよく気持ち伝えたのに……なんか俺、超ダサいじゃねェか……」

「では……もう一度、聞かせて頂けませんか?」

「……」

 紅朱はしばらく押し黙り、そのまま自分自身が落ち着くのを待っているようだった。

 やがてゆっくり頭を持ち上げると、コホン、と若干わざとらしい咳払いをして、日向子に向き直る。

 そして。

「俺はお前が好きだ……俺が必ず、お前を幸せにしてやる」

 率直で飾り気のない、けれど力強く紅朱らしい愛の言葉だった。

「……やっぱり紅朱様はすごい方ですわ」

「あ……?」

「その言葉だけでもう、わたくしはこんなにも幸せな気持ちになれたのですもの」

 そう言った日向子の顔には自然に心からの笑みが浮かんでいた。

 向かい合う紅朱の顔にも同じ笑顔が生まれる。

 想いの通い合った2人だけができる幸せな笑顔だ。

 紅朱は、少しシートを後ろに下げて、日向子の背中に手を回し、自分のほうに引き寄せた。そのままギュッと抱き締める。

「俺も、ヤバいくらい幸せだ」

「紅朱様……」

「でもこんなもんじゃなくて、これからもっともっと幸せにしてやるから覚悟しとけよ」











 ――それから一週間後。


 サイドシートに座ってすぐ、日向子は言った。

「あの……なんだか、随分増えましたわね」

「そうなんだよな、流石に邪魔になってきちまってよ」

 紅朱は溜め息をつきつつ、それらをひとつひとつ指差していった。

「あれが万楼、デカイのは蝉で、バックミラーのとこが有砂。あのキラキラしたやつは美々。その横はあのゴスロリ猫女……ったく、なんであいつまで」

 それらは全部交通安全のお守りで、この一週間、乗る度にどんどん増えてきていた。

「まあ、望音様まで……紅朱様のご心配を?」

「俺の、じゃなくて、いつも助手席に乗るお前の心配してんだろ」

 お守りの加護なのか、本人のポテンシャルなのか、紅朱の運転技術はぐんぐん向上している。

 本人も、ハンドルを握る姿が最近とても楽しげだ。

「……そのうち自分の車も買わねェとな」

「楽しいですか? 車は」

「ああ、いいな。バイクに2人乗りもいいが……車なら、お前の顔が見られるしな」

 サラッと囁かれた甘い台詞に、日向子は思わず赤面した。











《END》
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 あ、どうも。俺です。

 望音ちゃんの取材はもう終わったんですか?

 ……そうですか、良かったです。あの子が何か失礼なこととか言ってないかな、って心配で……。

 ……あ、いや、違います! それを確かめるためだけに電話したわけじゃなくて……えっと……。


 ……やっぱり、いいです……。

 また掛け直しますね……それじゃ。








《終章 その翼にさらわれる ―Vertical updraft―》










「……また?」

「……はい、また、でした……」

 玄鳥から、こんな電話が入るのは半ば日課のようになっていた。

 携帯を手にしたまま、不思議そうに小首を傾げる日向子を見やり、美々は溜め息をついた。

「……あんたも苦労するわ」










 あの夜もそうだった。
 玄鳥は何か言いたそうにしていたのだ。

 heliodorとBLA-ICAの対決の日。
 合同ミーティングという名の合同打ち上げの帰り、自宅マンションまで送ってくれた玄鳥は、別れ際、一度日向子を呼び止めた。

 しかし、何も言わなかった。ただ、もう一度「おやすみなさい」と言った以外には何も……。



 仕事を終えて編集部を出た日向子は、美々と少しだけお茶して、別れた。

 店に入ってから出るまでも、店を出てから雪乃の車で帰宅するまでも、帰宅してからもずっとずっと、考えるのは玄鳥のことばかりだった。

 また携帯が鳴るのを待っている。

 それがたんに、奇妙な電話の用件を知りたい……という好奇心のみに由来するものではないと、日向子自身はっきり自覚していた。


 そしてそんな日向子を見て、美々も楽しそうに言っていた。


「恋してるんだね……日向子」


 帰宅した日向子は、コートを脱いだ後、まっすぐにピアノ室に行き、ピアノの前に座った。

 そこからよく見える位置に飾られていた、高山獅貴のタぺストリーは、今はない。

 たとえまだあったとしても、今の日向子には目に入らなかったに違いない。


「玄鳥様……」


 これではいけない……と思った。

 仮にも雑誌記者ともあろうものが、自分から行動を起こさなくてどうするのかと。

 会いに行こう。

 思い立ってすぐに、脱いだばかりのコートを取りに行った。

 急いで素早くそれを着直すと(もちろん日向子なりに急いだ結果の、日向子なりの素早さだ)、転がるようにしてマンションから駆け出す。

 望音の話では、今日はBLA-ICAのスタジオ練習の日で、玄鳥も参加する予定だということだった。

 練習に合流するために、タクシーに乗り込んだ望音が、運転手に告げた場所なら記憶している。

 そこへ行けば、玄鳥に会える筈だ。














 練習スタジオのすぐ側でタクシーを降りた日向子は、はやる気持ちを抑えながら、けれど抑えきれない速い足取りで、再び駆け出した。

 あと数歩で入り口……というところで、日向子の足は止まる。

「あれは……」

 スタジオ裏手に続く、狭路から黒っぽいものが見え隠れしている。

 猫だ。

「……シュバルツちゃん?」

 思わず歩み寄った瞬間、日向子の眼前に現れたのは驚くべき光景だった。

 わずかに差し込む夕焼けに照らされた薄暗い路地に、重なり合う2つのシルエット。

 小さなほうは望音。

 大きなほうは玄鳥。

 少し踵を上げて背伸びした望音を、玄鳥はしっかり抱き留めていた。

 まるで恋愛映画のワンシーンのような、眩しい景色。

 半ば呆然としていた日向子の足元で、


「うにぁ」


 シュバルツが空気も読まずに欠伸をする。

 それは玄鳥の耳にも届き、そして……。


「……っ、日向子さん!?」

 見つかってしまった。

「あ……」

「あのっ、これは……」

「……申し訳ありません。失礼致します……!」


 玄鳥がどんな顔をしていたのか、望音はどうしていたか、全くわからなかった。

 ただ早くその場から離れたくて、後ろも振り返らずに一目散に駆け出していた。















 大して土地勘もない街中を闇雲に走った日向子は、白い息を吐きながらようやく立ち止まった。

 最後の残光が消え去った夜の闇の中、線路とその手前の鉄線に遮られ、日向子の前に道はもうなくなっていた。

 一体どれだけの間走っていたのだろう。

 すっかり都会の喧騒から離れて、まるで人気のない場所に辿り着いてしまったらしい。

 引き返そう……ゆっくり振り返った日向子は、振り返った格好のまま、目を見開いて固まった。

「っ……どうして」

 すぐ後ろに玄鳥が立っていた。

「どうして……って、あなたが逃げるから追いかけて来たに決まってるでしょう」

 いつもとは少し違う、険しさをにじませた声。

「……ずっと、後ろに?」

「はい……あなたは一度も振り返らなかったから、気づかなかったでしょうけど」

 日向子がいくら全力で走っても、玄鳥が走り負けるほど加速することはできなかった。

 それでも流石に多少は息が上がっているらしく、白い息が夜の闇に規則正しく吐き出されていた。


「どうして、逃げたんですか……?」

 玄鳥の問い掛けに、日向子は俯いたまま何も答えられなかった。

「答えてくれないなら……そのまま黙って、俺の話を聞いて下さい」

 玄鳥は一定の距離を保った立ち位置のまま、日向子にゆっくりと語り掛ける。

「……出来ればあなたには見てほしくなかった。
どんな理由であれ、他の女の子に触れているところを……見られたくありませんでした。あなたに、だけは。

それがどういう意味か、わかりますか?」

 どくっと胸が高鳴る。

 日向子は思わず俯いていた顔を上げて、玄鳥を見た。

 どこか苦しそうで、けれど優しげな目で、玄鳥は真っ直ぐ見つめている。

「ずっと……あなたに伝えたかったけど、何度も約束を破って来た俺が、どんな言葉を選べばこの想いをちゃんとわかってもらえるのか、信じてもらえるのか……わからなくて、悩んでたんです」

 あの夜も。

 何度も繰り返した電話も。

 彼は言葉を探し、そして見つからなくて打ち消した。

「今もそうです……あなたを何と言って引き留めたらいいのかわからなかったから、黙ってこんなところまでついて来てしまった……情けない男なんです、俺は」

「そんなこと……」

「どうか、最後まで聞いて下さい……結局ありふれた言葉しか捕まえられそうにないけど、今、俺の気持ちを伝えます」

 均衡を破るかのように、玄鳥は静かに足を前に出した。

「俺は日向子さんを、愛しています」

 それはあまりにもシンプルで、ありふれた……けれど、迷いの欠片もない真摯な愛の言葉。

 言葉とともに歩み寄った、黒いコートの両腕が、日向子の身体を抱き締めていた。

「俺はあなたしか見ていない……側にいても、離れていても、誰と一緒にいても……俺はいつも、あなただけを想ってるんだ……!」

「玄鳥様……っ」

 走ったせいで、高くなったままのお互いの体温がはっきりとわかってしまう。

 それ以上にぐんぐん高まっている心の温度はもはや沸点に近い。


 心から好きだと思った人から、「愛してる」と言われたのだから。


「わたくし……っ、わたくしも玄鳥様が好きです……!」

 耳元で、いとおしい声が優しく囁く。

「いいんですか……? 今度は本当にさらいますよ」

 いつかの別れの日のことが、脳裏を過る。

 飛び去っていく翼を、見送ることしかできなかった日のことが。


「……どこへでも、さらって下さい」


 黒い翼を大きく広げ、上昇気流に乗り、どこまでも舞い上がっていくというのなら、その背に乗せて連れて行ってほしい。

 望む場所へ、どこへなりとも。

「……ありがとう」

 お礼の言葉を紡いだ唇が、そっと、日向子のそれに重なる。

 ただ少し触れ合うだけの、ささやかな口付け。

 今の2人にはそれが精一杯で、それだけで目一杯の幸せを互いに感じていた。












「……あの娘、本当に伯爵のことを慕ってたんです」

 線路伝いの暗い道を、2人は歩いていた。

「……恋愛感情……と呼べるものなのかはわかりませんけど……すごく、好きだった」

「……わかりますわ、なんとなくですけれど」

 手と手をしっかり繋いで、ゆっくり歩いていた。

「……平気な顔をしていたけど、伯爵に置いていかれて辛かったんでしょう。
……練習中に急に泣き出してしまって、仕方なく一緒にスタジオを出て」

「慰めて、いらっしゃったのですね」

「ただ側にいただけで何も言えなかったんですけどね……抱きつかれるとは思ってなかったです」

 苦笑いする横顔を見つめながら、日向子は妙に納得していた。

 玄鳥がheliodorを脱退して、いなくなってしまった時の気持ち。

 失ってみて初めて、本当に大切だったのだと思い知らされる。

 思わず繋いだ指に力がこもってしまう。

 すぐに、同じ強さで握り返される。

「……なんだか夢を見ているようで……こうしてないと怖くなります」

 玄鳥は日向子の手の感触を確かめようとするかのように繋いだ手の指を動かす。

「その……俺たち、恋人同士になれたんですよ、ね?」

「……はい。相思相愛の、恋人同士……ですわ」

「……あは」

「……ふふ」

 20代半ばの恋人同士としては、あまりにも甘酸っぱい。

 日向子にとって玄鳥が初めての彼氏であり、玄鳥にとって日向子が初めての彼女なのだから、無理もないのかもしれないが。

「こんなところ、みんなに見られたら何を言われるか……」

「では、皆様には内緒に致しますか?」

「……それは……ちょっと俺には無理かも。
元々隠し事は苦手なのに、ここしばらく隠し事まみれで本当に疲れました」

 そう。それが日向子のよく知っている玄鳥だ。

 真面目で誠実で、嘘のつけない優しい人。

「それに……」

 遠くでカンカンと、踏切の閉まる音が聞こえていた。

「……みんなには知っておいてもらわないと困るんです。

あなたが、誰のものなのかを」

 ゴーッと音を立てて、急行電車が風をまといながら走り抜けていく。

 束の間、すべての音がかき消されたその瞬間、日向子をじっと見つめる眼差しには好戦的ともとれるような、熱が宿っていた。

 それは今まで日向子の知らなかった玄鳥。

 けれどわかっていた。

 玄鳥が内に秘めている情熱がどれほどのものであるかは。

「……あなたは俺がさらうと決めたから、誰にも渡すつもりはないです」

 キッパリと言い切った言葉の力強さに、日向子もまた、力強く頷いて見せる。

「……ずっと、離さないで下さい。
わたくしを置いては、どこへも飛んでいかないで」


 風が止み、警報の音もやがて静まった時、玄鳥はいつもの優しい笑顔で日向子を見つめていた。

「……いつかあなたをもっと高い空へ連れて行きます。俺の翼で、きっと……」















《END》
 あ。お姉さん、仕事終わった?

 今日の夜暇? 暇だったらボクの部屋に遊びに来てよ。

 ボク、久し振りにお姉さんとカレーが作りたいな。

 ……いいの!? やったー、じゃあさあ、まずは一緒にスーパーに買い物に行くよね?

 嬉しいなあ。お姉さんとデートだ。









《終章 さよなら、マーメイド ―Prince dilemma―》











「ふう、カレーもデザートもすっごく美味しかったね」

「ええ、とっても」

 万楼は、出会ったばかりの頃には極度の偏食家だった。

 初めて一緒にカレーを作った時は、随分残していたような気がするが(カレーどころではなかったとも言える)、今日はおかわりまでしている。

 今日に限らず、普段からスウィーツ以外のものも作るようになったらしく、冷蔵庫の中身も以前見た時とは随分様変わりしていた。

 まるで生活感の感じられない、サッパリし過ぎていた部屋の中も、家具や雑貨類が増え、窓辺には小さいサボテンの鉢植えまで飾られている。

 万楼の生活は、良い方向へどんどん変わって来ている……日向子はそう確信していた。

 万楼は幸せそうな明るい笑顔で、「今度はアレが食べたい」「コレはどうやって作ればいいのかな?」と、話す。

 同じくらい幸せな笑顔でそれに応えていた日向子だったが、ふと時計が目に入ってしまった。

「……まあ、気が付けば随分遅くなってしまいましたわね」

「……そう、かな?」

「洗い物をして帰りますわね」

 立ち上がり、テーブルの上のお皿を重ねようと伸ばした日向子の手を、万楼の手が掴んだ。

「……今日、泊まってよ」

 睫毛の長い大きな目が、上目遣いに見つめる。


「……お姉さんと一緒に寝たいな」

 いつもより少し低いトーンで囁いて、その目を細めて微笑む。

「ダメ?」

 日向子は、

「はい、構いませんよ」

 何のためらいもなくあっさり即答した。

 万楼はびっくりして目をパチパチさせる。

「えっ、いいの!?」

「はい。でも出来れば、パジャマと着替えを取りに帰りたいですわ」

「う、うん、それはいいけど」

「ふふふ、なんだか楽しいですわね。パジャマパーティーは久し振りですの」

「……パジャマ、パーティー??」

「せっかくですから、美々お姉さまや望音様もお誘いしてみませんか? 大勢のほうが楽しいもの」

「……はあぁ」

 万楼は、身体の奥底から吐き出すような深い深い溜め息をついた。

「万楼、様??」

「……やっぱり帰っていいよ」
















「……ということがありましたの」

「……ありましたの、じゃないって」

 いつものカフェで事情を聞いた美々は、完全に引きつっていた。

「それは流石に庇いきれないよ、あたし……」

「やっぱり、わたくしに問題があったのでしょうか」

「……っていうかさ、日向子。独り暮らしの年頃の男の子に、『泊まっていって』って言われたら、普通もっと違うリアクションがあるんじゃないの?」

 ストレートの紅茶にたっぷり砂糖を溶かしながら、美々は畳み掛けるように説く。

「彼はけしてパジャマパーティーがしたかったわけじゃないと思うよ……」

「それは……」

 日向子は考える。

 美々の言っている意味は、わかる。

 流石にもう20代も半ばの大人の女なのだから、わからないわけはない。

 しかし、万楼に関してはどうしてもその手の警戒心を持つことができなかった。

 万楼はずっと年下で、自分のことを「お姉さん」と呼んでなついてくれている男の子。

 時折大人びた表情を見せたり、驚くほどの頼り甲斐を発揮することもあるけれど、だいたいは甘い物を頬張りながらニコニコ笑ってる。

 そんな彼がとてもいとおしい。

 一緒にいればとても楽しいし、ベーシストとして成長していく姿をずっとずっと見守っていたいとも思っている。

 まるで本当の姉のように……。

「わたくしは……ただ……」




「そこ、座っていいか?」




 ハスキーな声が不意に呼び掛ける。

 声のほうを振り返った2人は思わず目を丸くした。

「あなたは……」

「粋様……」

 一見凛々しい青年のような端正な顔立ちの麗人が、すぐ近くに立っていた。

「玄鳥から、heliodorのメンバーがよく溜まってるって聞いてたから寄ってみたんだ……今日はいないんだな」

 同席を許すか許さないか、まだ答えていないにも関わらず、粋は遠慮なく同じテーブルに着く。

「まあ、いいさ。面白い話も聞けたし」

「面白い話……?」

「可愛い弟子の恋愛事情だよ」

「恋愛、事情?」

 粋はろくにメニューも見ないで、素早く店員を呼ぶと、コーラを注文した。

 注ぐだけで出来上がる注文品はすぐに届く。

 粋は、真冬には少し寒々しいそれを、ストローも使わずにごくごく飲んだかと思うと、若干呆気にとられている日向子を見やる。

「響平を、男としては見れないのか?」

「え……」

「響平にも原因があるんだけどさ……あいつの話し方や仕草がやたらと幼くなったのは、私と暮らし出してからなんだよな」

 粋は昔を懐かしむような遠い目をしていた。

「……他人とのコミュニケーションの取り方を覚える過程で、てっとり早いやり方を身に付けたってところだろう」

 決して明るくはない、万楼の生い立ちと青春時代……その最初の転換期となったのがこの女性との出会いだった。

 今更ながら、日向子はその事実を噛み締めていた。

 何となく、苦しい……。


 そんな日向子の想いを知ってか知らずか、粋はふと別な話を切り出してきた。

「……私はずっと、女として扱われることがとても苦痛だった」

 彼女自身の話だ。

「……ある時、女として特別視せず、男同士と全く同じ友情を示してくれる奴に出会った。

出会って、気づいたら惚れてた」

 まるで自嘲するような笑みを浮かべる。

「惚れた途端、女として見てもらえないのが辛くなってきた……馬鹿馬鹿しい話だろ。

だけど、あまりにも辛くて、何も言わずに離れた……」

 粋が誰のことを語っているのか、日向子にもなんとなくわかった気がした。恐らくは美々も。

 しかしそれぞれの胸にしまったまま、黙って粋の言葉に耳を傾けていた。

「人魚は尾びれを翻して海の中を自由に泳ぎ回るが、その格好では王子のいる陸には上がれない……自分自身を守るために身に付けた『自分らしさ』が、足枷になることもある……幸せに辿り着くのに随分遠回りが必要になる……私のようにな」
















「どう、したの? こんな夜中に」

 玄関口に顔を出した万楼は、シャワーを浴びてからあまり時間が立っていないらしく、フルーツ系のシャンプーの匂いが甘く香っていた。

「連絡もせずにいきなり押し掛けてしまって申し訳ありません……どうしても早く万楼様にお会いしたかったのですわ」

「そう……わかった、入って」

 やはり万楼は、どことなく元気がないようだった。

 日向子を部屋に通すと、口数も少なく、2人分のミルクココアを作り始めた。

 日向子も黙ったまま、ココアが出来上がって、万楼がテーブルに着くのを待っていた。

「……どうぞ」

「……ありがとうございます」

 温かいカップで両手を温めながら、日向子はとうとうゆっくり口を開く。

「昨日のこと……申し訳ありませんでした」

「……どうして、謝るの」

「……わたくしの態度が、万楼様を傷付けてしまいましたから」

「……いいよ、そんなの。謝らないでよ……なんか惨めだもの」

 居心地の悪そうな顔をしながら、万楼は目を伏せていた。

「……つまりお姉さんにとっては、ボクはそういう対象じゃないっていうだけだから、さ」

「……そういう対象だと思わないようにしていたのかもしれませんわ」

「どういう意味……?」


 セイレーンの異名を持つベーシストが語った人魚の例え話。

 それは彼女自身のことであり、彼女の愛弟子のことであり、そして日向子のことでもあった。

「わたくしは……万楼様から『お姉さん』と呼んで頂けることに気を良くして、いつからか万楼様の本当の姉のようにならなければ……と思っていたような気がしますの。

万楼様の大人びた一面や、男性としての力強い魅力に、心が動いても気が付かないふりをしていたのかもしれません」

 好きな人は誰?と紅朱や美々に聞かれた時、伯爵にブレスを返した時。

 確かに思い描いたのは、目の前にいる人だったというのに。

「お姉さん……それって」

「教えて下さい、万楼様。わたくしはあなたの『お姉さん』ですか?」

「……っ」

 万楼は泣きそうに顔を歪めて、テーブルの上で丸めた両手をぎゅっときつく握り、拳を固めた。

「違う……あなたは『お姉さん』なんかじゃない。
ボクの大事な女の人……恋焦がれてたまらない、たったひとりの特別な人」

 伏せていた顔を上げ、覚悟を決めたように、万楼は告げた。

「恋をしてるんだ。抱き締めたい、キスしたいって思ってるんだ」

 どんなに仲睦まじくとも、姉と弟の間ではけして生まれることのない、激しい愛情。

 お互いに、怖じ気づき、もてあまし、目をそらしてきた。

 だけどそれはいつからか生まれ、ずっとそこにあったのだ。

「……わたくしも、あなたのことが好きです。
1人の素敵な男性として、あなたをお慕いしていますわ」

 するりと、今までのことが嘘のように、本当の気持ちが口をついた。

 口にした途端確信へ変わる。

 錯覚ではない。

 愛している。

「……本当に、そう思ってるの?」

 万楼は微かに震えた声で問う。

「……はい」

「……ボクのことが好きなの……?」

「……ええ、心から」

「……じゃあ、キスしていい?」

 日向子は返答するかわりにそっと目を閉じた。

 肩に触れる、繊細な指の感触。

 ほとんど同時に伝わる熱。唇から唇へ。

 柔らかい色のリップで色づくそれの輪郭をなぞるように、熱が揺らめく。

 やがて名残惜しそうに離れていき、日向子は静かに瞳を開けた。

 目の前には、熱にうかされたような、酔いしれたような顔をした男性がいる。

 初めてのキスの相手。

 初めて心を通わせ合った特別な異性。

 彼は甘い声で囁きかける。

「……好きだよ、日向子。大好きだ」

 日向子は魔法にでもかけられたかのように、ほとんどは夢見心地で、それに微笑んだ。

 万楼も優しく微笑み返し、そしてこう続けた。



「……今日、泊まってよ」


「あ……」

 昨日と同じ言葉。

 それなのに日向子は一気に顔を赤く染めてしまう。

 万楼はくすくす笑う。




「可愛いなあ、ボクの日向子は……」












《END》
 お仕事、お疲れ様♪

 今日は送り迎えできなくてごめんね?

 ……うんうん、みんなバッチリ絶好調だよ。今度のライブ楽しみにしててねー。

 ……うん、で、あのさ、今度の日曜日なんだけど……もし何も予定がなかったらちょっと付き合ってくれない、かな……。

 ……スノウ・ドーム。

 キミにはあんまりイイ思い出がない場所かもしれないんだケドね。

 ……ホント!? 良かった。ありがと……日向子ちゃん。









《終章 雪色の願い・オレンジの想い ―As You Like It―》








「まあ……随分綺麗になりましたね」

「うん、びっくりでしょ? まだまだ改修工事真っ最中なんだけどね」

 蝉の大切な実家・《スノウ・ドーム》は今、生まれ変わりつつある。

 長きに渡る経営難で老朽化していた建物や設備は、もうすぐ完全にリニューアルする。

 施設の子どもたちは一時的にバラバラに別の施設に預けられているが、春を迎える頃にはまた騒がしい声や足音、そして笑顔がここに溢れ返る。

 今日は作業が休みということもあって、2人の他には誰もいない。

 ところどころシートで覆われ、仕材が積まれた建物の中を、2人はのんびり歩いていた。

「これもうづみちゃんのおかげなんだよね!」

 周りがあまりにも静かなので、蝉の声は、よく響く。

「《BLA-ICA》の契約金……前金だけでもびっくりするくらい高額だったみたいだからさ。
おまけに、すごく割のいい副業までゲットしちゃってさ」

「割のいい副業、ですか?」

「……あれ、聞いてなかった? モデルだよ、モデル」

「モデル……というとまさか、有砂様の……」

「ビンゴ」

 日向子にとっては《スノウ・ドーム》より、よほどいい思い出のない人物……沢城秀人がやはり関わっているようだった。

「婚約は解消したけど、よっちんのオヤジさんはうづみちゃんのこと、かなり気に入ってるっぽいからね~……売り込んだらあっさり契約してくれたって言ってた」

「……あの、大丈夫なのでしょうか」

「大丈夫大丈夫、うづみちゃんしっかりしてるし……すぐにバイトなんか必要なくなるだろうし」

 それには日向子も大きく頷いた。

 《BLA-ICA》は、すぐにも人気を獲得して、ヒットチャートを駆け抜けるに違いない。

 もちろん《heliodor》も負けてはいないが。

 蝉は更に言葉を続ける。

「モデルでもアシスタントでも同じ金額で契約するって言われたらしいんだけど、モデル選んだところがうづみちゃんらしいってゆーか……」

「え?」

「楽器のパート選びと一緒……絶対よっちんに対抗したいんだと思うよ」

 苦笑いする蝉。

 ことあるごとに有砂をライバル視するといううづみ……その理由は、実際のところ蝉にもわかっているのだろう。

 うづみは蝉を愛している。他の「家族」たちが注ぐ愛情とは別の意味で。

 わかっているからこそ、呟く。


「……あの子は、いい子だから。必ず幸せになれるよ。おれなんかの力を借りなくてもね」


 暗に物語っていた。

 その想いには、自分は応えられないと。

 もしかするとうづみにもすでにそう伝えたのかもしれない。

 それが《BLA-ICA》加入……蝉との前向きな決別に繋がったとしたら、とても自然な理由だ。

 蝉はうづみの想いには応えられなかった。

 何故だろう。

 日向子は考える。

 誰か他に、彼には想う人がいるのだろうか……。




「ここ、入ろ」


 微妙な空気を打ち消すように蝉が、ひとつの部屋の前で立ち止まる。

「ここは……」

「覚えてた?」

「ええ!」

 この場所ならよく覚えている。

 蝉と連弾した「遊戯室」だ。

 蝉が扉を開け、中に一歩踏み込むと、すぐにあるものが目に入る。

 すでにすっかり改修されて、様変わりした部屋の中に変わらず鎮座する古びたピアノ。

 日向子はなんだか嬉しくなって、小走りでピアノに近づいた。

「……お久しぶり、ですわね」

 傷だらけのそれを優しく撫でる。


「……これだけはそのままにしといて、っておれが頼んだんだよ」

「思い出の品ですものね」

「そう、始まりの場所」

 2色の鍵盤と共に過ごしてきた、彼の駆け足の青春。

 全てはここから始まったのだ。

「……ちょっと、弾こっか。また一緒にさ」

「ええ、喜んで」



 以前そうしたのと同じように日向子が椅子に座り、その後ろに立った蝉が手を伸ばして鍵盤を辿る。

 曲も同じだ。

 「手のひらを太陽に」。蝉が初めて覚えた曲。

 素朴な音で、日向子にとってもどこか懐かしいメロディを奏でる。

 しかし日向子の心中は、前にこの曲を弾いた時とは微妙に違っていた。

 あの時はただ楽しいだけだったのだ。

 今は違う。

 綺麗な蝉の指の動きや、時々触れてしまう彼の腕、斜め上で見下ろす笑顔、そんなものが気になって仕方がない。

 蝉のことが、気になってしまう……。


「……日向子ちゃん?」

「え? ……あ」

 気が付いたら鍵盤の上で、手が止まってしまっていた。

「どうしたの?」

 なんとなく、言い訳を探す。

「いえ……少し、指先が冷たくなってしまって」

「……そっか。暖房ついてないからね、ココ。気づかなくてゴメンね」

 不意にさりげなく。

 本当にさりげなく。

 日向子の両手が温もりに包まれた。

「あ……」

 背中から、肩越しに伸ばされた蝉の手が、日向子の手をくるんでいた。

「……おれの手はあったかいでしょ?」

 頭の上で蝉の声がする。

 死角なので、どんな顔をしているのか日向子には見えない。

「……キミとまたここで、ピアノが弾けて嬉しかった。

……たとえこれが最後になっても悔いはないって思うよ」

「最後、って……」

「……別におれが消えてなくなるワケじゃないよ、でも……2人でこんなふうに過ごせるのは最後になっちゃうかもしれない」

 日向子の小さな手を包んだ、蝉の大きな手が何故か微かに震えているように感じられた。

「……ねえ、今からキミに大切な話をしようと思うんだ」

「大切な、話……?」

「そう、大切な話……だから、話す前にひとつだけ、キミに選んでほしい」

 蝉の手がギュッと日向子の手を握りしめる。

「……このまま話を続けていいなら、キミは右手をちょっと上げる」

「……はい」

「……大切な話を、もう1人のおれの言葉で聞きたいなら左手を上げる。……簡単でしょ?」


 もう1人のおれ……それは言うまでもなく、「雪乃」のことだ。

 ずっと日向子のとても身近にいた人物。大切な、家族。

 「蝉」と「雪乃」は同一人物の別の呼び名だ。

 別に本当に二重人格なわけでもなく、ただ時と場合に合わせて話し方や、態度を意図的に切り替えているに過ぎない。

 彼の秘密を知ってからは、日向子もそれに合わせて呼び方や、接し方を変えている……まるで、ごっこ遊びをしているようで、客観的に見れば滑稽なのかもしれない。

 それでも彼が、「蝉」という名前を捨てなかったことが嬉しかった。

 「雪乃」という役割を続けてくれていることが嬉しかった。

 「蝉」と「雪乃」……どちらも失いたくないと思う。

「……さあ、選んでよ」

 彼は促す。

 彼が「大切な話」をする……正直、どちらの言葉でも構わない。

 けれど、彼がどちらかを選んでくれと、そう言うのであれば……。


 日向子はゆっくりと、蝉の手ごと右手を持ち上げた。

「……わかった。じゃあ、このまま話すからね」


 日向子の左手を解放し、右手は握ったまま。


 そのまま、今度は背中を包み込むようにして、蝉は後ろから日向子を抱きしめた。

「……好きだよ……日向子ちゃん」

 耳元で囁かれる、「大切な話」。

「……いつから、なんてよくわからないケド、キミのことが誰よりも大切になってた。

大好きなキミの願いならなんでもおれが叶えてあげる……ピアノしかできない男だけど、必ずキミを幸せにしてみせるよ。だから……」

 右の頬に、唇が触れる。

「おれのカノジョになって下さい」


 それが彼の「大切な話」。

 とても彼らしい、愛の告白。

 それは日向子が、ずっと待ち望んでいた言葉だった。

 伯爵から卒業したあの日から、温めていた想いを受け止めてくれる愛しい言葉。

「……わたくしで、よろしいのですか?」

「……キミじゃないと、イヤなんだってば」

「……わかりました」

 日向子は少し首を右にひねって、愛しい人の顔を真っ直ぐに見つめた。

「わたくしを、あなたの彼女にして下さい」

 日向子の答えを受けて、少し緊張していた彼の顔にじんわりと安堵の色が浮かんだ。

「……カノジョ、だったらいいのかな? 今度はそこに、キスしても」

 左手の人差し指で、日向子の唇に触れる。

 日向子ははにかんだ笑みを浮かべて、ゆっくりと首を縦に振った。


 ようやく唇を重ね合う瞬間、重なったままの右手は、どちらからともなく求め合うように指を絡め合った……。










 《スノウ・ドーム》を出た2人は、生まれ変わって新しい季節を迎えようとしている、その場所を外からもう一度眺めていた。

 この場所が新しくなるように、2人の関係も新しいものに変わっていく。


 変わらないものをその中に秘めたままに。


 蝉は大きく伸びをしながら、口を開いた。

「あー、折角カノジョが出来たケド、超前途多難!」

「そうですか??」

「だってよりによって恩師の娘に手を出しちゃってるわけじゃん?
おれ、ひょっとしたら先生にぶん殴られちゃうんじゃないかなぁ」

「お父様は厳しい方ですけれど、暴力を振るうことはないと思いますわ」

「わかんないじゃん、日向子ちゃん、お屋敷に彼氏連れて来たことなんて……あったか。ははは……」


 蝉が言っているのは有砂のことだろう。

 なんだか笑顔がひきつっている。

「あー!!なんか思い出したらメラメラしてきた!!」

「め、メラメラですか?」

「そうだよ、思い出してみたら何かっていうと、みんなしておれのお姫様に馴れ馴れしくしてくれちゃってさー。
最初に絶対に手は出すなって釘刺したのに……おれの話なんて無視じゃんっ。もうっっ!!」

「ぜ、蝉様……落ち着いて、きゃっ!?」

 蝉はいきなり日向子の身体をひょいっと抱き上げてしまう。

 いわゆるお姫様抱っこ、と呼ばれる状態だ。

「もう二度と他のヤツになんか触らせないぞ!
親友だろうと仲間だろうとぜーったいに!!」

「あの、あの~」

「よーし、帰ろう! 早速お屋敷に直行して先生に結婚の許しをもらわなくっちゃ!!」

「け、結婚て……」

「殴られても蹴られても、ぜーったい許可してもらうからねっ」

「……ふふ、もう蝉様ったら」


 どんな形でもいい。

 どんな順番でもいい。


 2人が一緒にいられれば、どんな未来でもハッピーエンドになる。



《END》
 ……俺、やけど……まだ仕事やったか?

 ……そうか。……別に、急ぎの用ってことでもないんやけどな……。

 ジブン、今週末とか、予定空いてへんか……?

 ……いや、あいつが……菊人が遊園地に行きたいゆうてて、俺が連れてくことになりそうなんやけど……俺だけやとまた、ほら、わかるやろ?

 だから、出来たらジブンも……。


 は……?

 ……っ!? おいっ! ジブンいつの間に……!!





《終章 鏡の城の…… ―Dream of not ending―》







「あんたねえ、いい年して、いたいけな子どもをだしにするもんやないよ……情けないなー」

 通話中に横から日向子の携帯を取り上げた美々は、憤慨した様子で、実の兄をなじる。

 もちろん本気で罵倒しているわけではなく、彼女なりの親愛表現の一環なのだろう……と、日向子はとりあえず見守る。

 美々が有砂と話す時の、たまに関西弁が混ざる話し方。日向子には最初違和感があったのだが、もうすっかり慣れてしまった。

「……うん。そういうことで、よろしく。じゃあね」

 どうやら話は終わったらしい。通話の途切れた携帯電話が日向子の手に返ってくる。

 美々は、今までとうって変わった上機嫌な笑顔を見せた。

「今週末、空けといてね。Wデートだから」

「Wデート?」

「そ。あたしと日向子、佳人と菊ちゃんのWデート」

「それは……」

 女女・男男で果たしてWデートが成立するものなのだろうか……という疑問もさることながら、引っ掛かる組み合わせだ。

「あの、せっかくならご兄弟水入らずのほうがよろしいのでは?」

「だって遊園地でしょ? 大抵のアトラクションは2人ずつ乗るように出来てるじゃない。3人じゃ余っちゃうでしょ」

 言われてみればその通り。思わず納得しかけていた日向子に、美々はさらにこう囁いた。

「いいじゃない。菊ちゃんからしたら日向子もお姉ちゃんみたいなものだし……お兄ちゃんの婚約者なんだからさ」

「そっ」

 予想だにしない発言に、弁解の言葉が喉に引っ掛かって出て来ず、日向子は目を白黒させる。

「ま、そういうことで。よろしくねー!」

 言いたいことだけ言いっぱなしで、ご機嫌なまま去っていく美々を見送りながら、日向子は思い切り赤面していた。

 婚約……それは正式に交わされたことではなく、そもそも形だけのものでしかない。

 それでも指摘されると意識してしまうのは何故か……その理由は、日向子自身が一番よくわかっていた。










 日向子が着いた時、遊園地の入場ゲートの側にある待ち合わせ場所のモニュメントの前には、すでに待っている人の姿があった。

 有砂だ。

 妹ではなく、兄のほうの。

 練習やミーティングには比較的遅れて来ることの多い有砂が一番乗りとは珍しい。

 駆け寄る日向子の足もおのずと早足になってしまった。

「有砂様!」

 笑顔で呼び掛けた直後に、日向子は思い切り固まった。

 半年に満たない付き合いとはいえ、わからない筈もない。

 有砂は、機嫌が悪い。

「あの……」

 戸惑っている日向子を斜め上から見下ろして、有砂は、

「来たか……ほんなら、帰るで」

 思いもよらない提案を投げ掛けてきた。

「はい?? 帰る……んですか?」

「そうや」

「あの……まだ、お姉さまと菊人ちゃんも来ていらっしゃ」

「来ないから帰るんや」

 有砂は深く溜め息をつくと、いよいよ混乱している日向子に告げる。

「……ハメられたかもしれん」

 有砂の説明によれば、ついたった今、有砂の携帯に美々からドタキャンの連絡が入ったのだという。

 菊人がお腹が痛いと言っているので、このまま休日診療の病院に連れて行く……遊園地は2人で楽しんで来て、と。

「まあ、それは心配ですわね」

「どうだか……怪しいもんやな」

「え……?」

「ハナっから来る気なかったんやないか……俺とお嬢を2人にするつもりでな」

 確かに、美々ならやりかねない……日向子にも反論しようがなかった。

 わかっていた。美々は多分、気づいているのだろうと。
 日向子が有砂に対してどういう感情を抱いているのかを……。

「有砂様は……」

 自然と口をつく言葉。

「有砂様は、わたくしと2人きりではお嫌ですか?」

「っ」

 ほとんど反射的に目を逸らした有砂に、日向子は思わずしゅんとしてしまう。

「お嫌ですのね……」

「……誰も嫌とはゆうてへんけど……ただ」

「ただ?」

「俺と遊園地に行っても楽しくはないで……多分」

「そんなことはないと思いますけれど……」

 日向子は少し笑って、逸らされた視線の先に頭を傾けた。

「楽しくなくても構いません……と言ったらご一緒して頂けるのでしょうか」










「これは……」

「……意味はわかるやろ」

「ええ、まあ……」

 入場してすぐに有砂が要求したもの……それは日向子が仕事柄常に携帯しているもの……ペンだった。

 有砂は渋い顔をしながら、ゲートで渡された園内パンフレットを開くと、そこにペンで無数の記号を書き込み、ペンと一緒に日向子に手渡した。

 パンフレットのMAPの上に、ざっと見ただけで20個くらいは書き込まれている記号……「×」。

 意味するところは「拒絶」だった。

 有砂が拒絶の意志を表明したアトラクションは、コースター、フリーホール、バイキング……心臓に疾患のある人や、妊婦さんが乗ってはいけない類いのものたち。

 あるいは、身長130センチ未満の子どもが一緒なら、乗らなくて済むジャンル。

「有砂様、あの……もしや絶叫マシーンが」

「うるさい。とりあえず、向こう行くで」

 それ以上追及するなとばかりに、先んじて早足で歩き出す有砂の後ろ姿を見つめながら、日向子は笑いを堪えるのに必死だった。











「あの」

「……ん?」

「どうしてここも『×』なのですか?」

 いくつかの『平和な』アトラクションを回って、次はどこへ行こうかとマップを眺めていた日向子は、他とは少し趣の違う『拒絶』ポイントを見つけた。

 しかもそれは、今まさに目の前に建っている。


「『ミラー・キャッスル』は絶叫マシーンではないですわよね」

「そうやな……」

 キラキラと、陽光を照り返す銀色の城。

 それを見上げながら、有砂は複雑な表情を浮かべていた。

「……思い出がある」

「悪い思い出ですか?」

「……そう悪い思い出でもないところが始末が悪い」

「それは……」

 そこにそれ以上踏み込んでも平気なのかどうか、躊躇して言葉を選ぶ日向子。それをチラリと見やって、有砂のほうから口を開いた。

「ガキの頃1回だけ、家族4人でここに来たことがあった。
……けど、その頃から円満な家庭やなかったから……些細なことで両親が険悪な雰囲気になってな。
俺は幼心に嫌気がさして、妹連れて2人でここに逃げ込んだ」

「……綺麗なお城ですものね」

「まあ、当然ながら、そう長くはおれんかったけどな」

 小さな子どもが2人、アトラクションの中に入ったまま出て来なくなれば、すぐに従業員も気がつくだろう。想像にたやすい。

「ほんの小一時間くらいのことやったのに、母さんはボロボロ泣いてて化粧がぐちゃぐちゃやった。
おまけにあのクソ親父まで、めちゃめちゃ嬉しそうに『お前たちが無事で良かった』……とか……」

 沢城家の事情を知らない者が聞けば、何とも微笑ましいエピソードだと思うだろう。

 しかし日向子は知っている。彼が何故、苦い薬を飲み干すような顔で記憶を辿っているのか。

 その優しい思い出はやがて彼を裏切り、より深い絶望をもたらしたのだ。

「……有砂様……」

 日向子はたまらず、有砂の手を取った。
 はっとしたように、切れ長の眼差しが日向子を見つめてくる。

 愛情深いが故に、寂しげな瞳。

「……幸せに、なりましょう」
「……なんて?」

「幸せに……ならなくてはダメだと思います」

 有砂の大きな手を、ギュッと握った。

「有砂様も、美々お姉さまも、秀人様も、有佳様も、薔子様も、菊人ちゃんも、メンバーの皆様も、それにわたくしも……有砂様と、有砂様の人生に関わった人がみんな幸せにならなければダメだと思います。
有砂様を悲しませた出来事や、刻まれた傷が全て、無駄なことでも間違ったことでもなかったと……証明するために」

 どんな不幸も後悔も、幸せな未来に繋がっていたのだと……そう思えれば何もかも報われる。

 そんな気がする。

 有砂は無言でしばらく日向子を見つめていたが、やがて低い声で呟いた。

「……中、入ってみるか」

「え?」

「『ミラー・キャッスル』……久々に入ってみたくなった」

 そう言うと、日向子の答えを待つことなく、歩き出す。

「あっ」

 自然と手を繋いだまま歩く格好になってしまっていた。













「まあ……綺麗」

 『ミラー・キャッスル』の中では、鏡張りの壁が色とりどりのライトを反射して、キラキラと星のように瞬いていた。

「ロマンチックで幻想的で……夢の中の景色のようですわね」

 思わず口をついた言葉に、有砂は小さく溜め息をついた。

 ふと足が止まる。

「……お嬢は、いつもこんな綺麗な夢を見てきたんやな。
俺はずっと、悪夢しか見たことがなかった気がする……」

「有砂様……」

 彼を苛んで来た哀しい過去……穏やかな眠りを奪ってきた悪夢。

「……でも、最近はそうでもない。
俺も綺麗なものを、夢に見るようになってきた」

「綺麗なもの……? どんな夢ですか?」

「……そうやな、例えば……」

 え? ……と、驚くのが間に合わないほど突然、さりげなく、有砂の顔が日向子のすぐ目の前まで近づいて来ていた。

「……嫌なら、殴ってもええから」

 囁かれた言葉の意味を把握するより先に、唇が触れ合っていた。

 キスされたのだと理解した時には、もう離れていて、日向子はただ呆気にとられたように自分の唇に指で触れていた。

「……有砂様……今……」

「……例えば、こういう夢は悪くない」

 夢?

 夢なのだろうか?

 夢だと言われれば、そんな気がする。

「これは……わたくしの見ている夢なのかしら……」

 そうでなければ、有砂がこんなことをする理由がわからない。

「……わたくしが、有砂様のことばかり考えているからこんな夢を見ているのでしょうか……」

 独り言のように呟く日向子を、見たこともないような優しい笑みを浮かべた有砂が見下ろしている。

「夢にしておきたいんやったら……まあ、それでもええ。
……ただし、二度と覚めないかもしれんけど」

「……そんなことをおっしゃるなんて、秀人様みたいで変です」

 思わず日向子も笑ってしまった。

「……そうやな。俺もゆうててそう思った」

 ああ、これが夢だとしたら本当に、なんて幸せな夢だろう。

「……けど、惚れた女の前でくらいは、こういうのもええんちゃうか」

 美しい景色の中で、好きな人と想いが通じ合う夢。

 気づけば腕の中にいて、抱き締められていて。

「……好きや、お嬢」

 愛の言葉を捧げてくれていて、それに頷く自分がいて。

 もう一度、唇が重なった……。











 プリズムの海から、再び青い空の下へ。
 まだ2月とは思えない暖かな日差しの元へと戻って来た。

 斜め上を見やれば、そこにあった2つの瞳が、慌てたように逃げる。

「……恥ずかしいから、あんまり見るな」

 何故か今更、照れているらしい。

 そんなところがまたたまらなく愛しくて、見つめずにはいられない。

「ふふふ」

「笑うな」

 幾千の鏡が見せる美しい幻想の世界が終わっても、まだ夢が覚める気配はない。

 彼のコートのポケットの中、微かに熱を帯びた右手と左手は繋がったままだった。











《END》
 ……私だ。仕事は終わったのか?

 ……そうか。

 ……いや、今夜の予定を念のため確認しておこうと思っただけだ。

 ……ああ。漸は遅れるようなので小原を迎えには行かせようと思う。

 ……では、そうしよう。……気をつけて帰りなさい。








《終章 午前零時の戯言 -Under the moon-》










「そういえば今日だっけ、日向子のパパのお誕生日」

「ええ。そうですの」

「そっか、いいね」

 「羨ましいな」と美々は微笑する。

 確かにこのところ、釘宮父子の関係はわりとうまくいっていた。

 雪乃の一件以来、日向子は高槻を純粋に尊敬することができるようになったし、高槻のほうも日向子のことをある程度認めてくれているようだ。

 時々はこうして、直接電話もしてくる。

 わざわざ電話をして、発売したばかりの雑誌の、担当記事のダメ出しをしてくることさえあった。

 そんな時は喜んでいいのか、落ち込んでいいのか迷ってしまう。

 しかし電話の最後にはいつも「頑張りなさい」と激励の言葉が添えられているので、やはり少し嬉しくなる。


 結婚についてはまだ多少気をもんでいるようだが、日向子の気持ちははっきりしている。

 まだ当分、結婚はしない。

 今一番大切にしたいもの、それは「記者」という仕事だからだ。


 はじめは、伯爵に近づきたいという、不純な動機からついた仕事ではあったが、得たものは数えきれない。

 たくさんの仲間や、一生ものの親友と出会い、家族との関係や自分自身の心と向き合って大きく成長を遂げた。

 そして今は純粋に記者という仕事にやりがいを感じ、楽しんでいる。

 自分の見聞きしたもの、感じたものを、言葉としてたくさんの人に伝える……それはとても困難で、とても面白い。


 自分には音楽で誰かの心を動かす力はないけれど、素晴らしい音楽と、誰かの心を引き合わせることはできるかもしれない。

 そう考えると、日向子にはやる気がみなぎってくるのだ。


 











 釘宮高槻の誕生日を祝う宴は、毎年夜更けまで続く。

 元々華やかな社交の場がそれほど得意ではなかった日向子には苦行でしかなく、ここ数年は何かと理由をつけては欠席していた。

 今回も、つい先日の騙し討ち見合いパーティーの件が頭を過って、かなり慎重になっていたのだが、意を決して参加を決めたのだった。

 結果として不安は杞憂に終わり、かわるがわる縁談話を持ちかけられるような事態にはならなかった。

 おそらく高槻が事前に根回しをしてくれていたのだろう。

 とはいえ、微笑みをキープしたままの状態で、息苦しいドレスと、不馴れなヒールを身につけて長時間過ごすのは楽なことではなかった。


 そろそろ限界かもしれないと思い始めた時、


「日向子」


 パーティーの主賓が声をかけてきた。

「……お父様」

「少し話したいことがある。ついて来なさい」

 口調は有無を言わさない命令調子であったが、どこか優しさを感じさせる言葉だった。

「……はい」

 素直に頷いた日向子は、歩き出した高槻に続いて、来賓たちの間を抜けていく。

「……よろしいのですか?主賓が席を外してしまって」

「気にすることはない……そう長い話ではないからな」

 父子はにぎやかな場所から離れ、人気のない庭園へ出た。

 冴え冴えと、三日月が輝く夜空の下へと。

「お話とはなんでしょうか? お父様」

「……日向子、お前に今一度覚悟を問いたい」

 威厳に満ちた父親の問いかけ。

「お前にとって何よりも大切なものは、記者という仕事……そうだな?」

「はい、その通りですわ」

 答えは即答だったが、もちろん軽い気持ちではない。

 真剣な気持ちがぶれることなく伝わるように、真っ直ぐ高槻の目を見つめて告げた。

「わたくしは、この仕事に生涯を捧げるつもりですわ」

「よくわかった……ならばこれを」

 高槻は、月明かりにキラリと光る、小さな金属製の何かを日向子に差し出した。

 レースの手袋をつけた、日向子の手にそれは手渡される。

「これは……」

 鍵だった。

 見覚えのあるものだ。

 日向子が自分の手で開け閉めをしたことはないが、どの部屋の鍵かはわかる。

「……行ってみなさい」

「……はい」


 ギュッと鍵を握り締めた。










 その鍵を飲み込み、カチリと音を立てる鍵穴。

 それはやはり、ゲストハウスのものだった。

 すべての始まりの場所……その扉を今、ゆっくりと開く。

 部屋の中は薄闇に沈んでいる。

 うっすらと闇照らすものは、テーブルの上と壁際にいくつか飾られたキャンドルの光と、大きな窓から差し込む月明かりだけ。

 それなのに、まるで自信が銀色の光を放っているかのように、窓辺に立つ彼の姿はくっきりと、鮮やかに見ることができた。

 どこか物憂げな眼差しをこちらに投げ掛け、彼は微笑している。


「やあ」


 静かな声。


 あまりにも短いその一言を聞いただけで、日向子はへたりこんでしまいそうだった。

 なんとか立っていることはできたものの、金縛りにでもあったように動くことができない。

 声すらも出せない。

 ただ気がつけば、何故か一筋、涙がほほを伝っていた。

「……何故泣くのですか?レディ」

 気取っているようで、他人を小馬鹿にしているようで、少し優しい……不思議な言葉。

「伯爵様……!」

 この世界に2人といない、唯一無二の銀色の吸血鬼。

 雲に隠れ、見えなくなっていた月がゆっくり姿を現したように、彼が再びそこに立っていた。

「いや……伯爵は廃業したので、単なる高山獅貴さ」

「何故、ここに……?」

「君に会いたくてね」

「……」

「ふふ、疑っている顔だ。可愛いな。
……先生は言ってなかったかい。仕事の話をしに来たんだよ」

 仕事の話……思いがけないことだった。
 だが、確かに高槻は、鍵を渡す前に日向子の仕事に対する覚悟を問うてきていた。

 高山獅貴には以前、自分の下で働く気はないかと誘われたことがあった。
 しかし今や高山獅貴の所有していた会社は全て他人の手に渡り、BLA-ICAのプロデュースも離れてしまっている。

 この上の「仕事の話」とはなんだろうか。

 戸惑う日向子に、高山獅貴は小さく笑って歩み寄ってくる。
 そして、こう言った。

「……本を、書いてくれないだろうか」

「……本?」

「そう……本だよ。私のことを本にしてくれないか?」

 高山獅貴の本……?
 日向子は驚きに目を丸くした。

「何もかも包み隠すことなく、削り落とすことなく……私の全てを、ね。
長い仕事になるだろうが……出来れば君に任せたい」

「何故、わたくしに……自著という形ではいけないのですか?」

「私本人の言葉よりも、第3者の言葉として記されたもののほうが、伝説の記録には相応しいとは思わないか?」

 伝説の記録……。

 そうまさに、彼の半生は伝説だ。

 表舞台から忽然と消え去った今でさえも、人々の心の中で伝説は綴られていく。

 虚も実も飲み込んで。

「やってくれませんか? 森久保日向子さん」


 そっと差し出された手。日向子はその手をしばらく見つめ、やがてゆっくりと、自らの手を重ねた。


「……書きます」


 指と指がわずかに絡む。

 彼の手はいつもひんやりして冷たい。

「わたくしに書かせて下さい」

 しかし、包み込むようにして握られた手には微かな温もりが感じられた。

 伯爵は満足げな笑みを浮かべ、日向子の手を放した。

 自由になった手に、寂しさを感じしまう。

 自由な空に放たれながら、鳥籠が恋しくて、舞い戻ってしまう小鳥のように……また戻って来てしまったのだろうか。

 卒業した筈の憧れ。
 過去になった筈の想い。

「覚えているだろうか……」

 不意に高山獅貴は口を開いた。

「……夢を叶えたらどうするつもりですか、と君は尋ねた」

「はい……覚えています」

 幾つかの真実を彼の口から打ち明けられた、あの再会の日に。

 確かにそんな疑問を投げ掛けた。

「ようやくその答えを考える余裕が出来た。
あくまでも考える余裕が出来た、というだけで、全く答えは用意出来ていないがね。
……その本の原稿が出来上がる頃には、何かひとつくらいは掴んでいるかもしれない」

「そうですか……では、本の最後を締め括るのは、その答えになるかもしれませんわね」

「……ああ。そうかもしれない」

 そう言って笑う高山獅貴は、もともと年齢不詳だったが、更に若々しい顔に見えた。

「命のあるうちにやってみたいことは、色々とあるにはあってね……まだ訪れていない国に行ってみるのもいい。まだ触れたことのない楽器を奏でるのもいい。絵を描いてみるのももいいな。
それから……一度くらい結婚しておいてもいいかもしれない」

「けっ、結婚ですか!?」

 サラッと口にした言葉に、思わず大きな声が出てしまった。

「まあ、こればかりは俺の一存では難しいからなあ……適当な相手が見つからなかったら、君がしてくれるかい?」

「な、何をおっしゃってるんですか!!」

 あまりにも軽い口調で言われた言葉に、滑稽なほど大袈裟に反応してしまい、日向子は恥ずかしさに俯いてしまう。

「……年頃の女性に、そのような冗談をおっしゃらないで下さいませ」

 ましてや、自分にずっと恋い焦がれていた人間に対して、そんな言い方をされては冷静でなどいられない。

「では、冗談で済むように祈っておいてくれればいい」

「おっしゃっている意味がわかりかねます!」

 冗談で済むように?

 冗談で済まないことがあるとでもいうのか。

 問い詰めても意味をなさない。

 それは未来の話。

 まだ決まっていない「答え」の話。

 ただひとつだけわかっていることは、少なくとも本の原稿が出来るその時までは、彼と離れることはできないということだ。


「では、よろしく頼むよ……レディ?」











《END》
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