あ。お姉さん、仕事終わった?
今日の夜暇? 暇だったらボクの部屋に遊びに来てよ。
ボク、久し振りにお姉さんとカレーが作りたいな。
……いいの!? やったー、じゃあさあ、まずは一緒にスーパーに買い物に行くよね?
嬉しいなあ。お姉さんとデートだ。
《終章 さよなら、マーメイド ―Prince dilemma―》
「ふう、カレーもデザートもすっごく美味しかったね」
「ええ、とっても」
万楼は、出会ったばかりの頃には極度の偏食家だった。
初めて一緒にカレーを作った時は、随分残していたような気がするが(カレーどころではなかったとも言える)、今日はおかわりまでしている。
今日に限らず、普段からスウィーツ以外のものも作るようになったらしく、冷蔵庫の中身も以前見た時とは随分様変わりしていた。
まるで生活感の感じられない、サッパリし過ぎていた部屋の中も、家具や雑貨類が増え、窓辺には小さいサボテンの鉢植えまで飾られている。
万楼の生活は、良い方向へどんどん変わって来ている……日向子はそう確信していた。
万楼は幸せそうな明るい笑顔で、「今度はアレが食べたい」「コレはどうやって作ればいいのかな?」と、話す。
同じくらい幸せな笑顔でそれに応えていた日向子だったが、ふと時計が目に入ってしまった。
「……まあ、気が付けば随分遅くなってしまいましたわね」
「……そう、かな?」
「洗い物をして帰りますわね」
立ち上がり、テーブルの上のお皿を重ねようと伸ばした日向子の手を、万楼の手が掴んだ。
「……今日、泊まってよ」
睫毛の長い大きな目が、上目遣いに見つめる。
「……お姉さんと一緒に寝たいな」
いつもより少し低いトーンで囁いて、その目を細めて微笑む。
「ダメ?」
日向子は、
「はい、構いませんよ」
何のためらいもなくあっさり即答した。
万楼はびっくりして目をパチパチさせる。
「えっ、いいの!?」
「はい。でも出来れば、パジャマと着替えを取りに帰りたいですわ」
「う、うん、それはいいけど」
「ふふふ、なんだか楽しいですわね。パジャマパーティーは久し振りですの」
「……パジャマ、パーティー??」
「せっかくですから、美々お姉さまや望音様もお誘いしてみませんか? 大勢のほうが楽しいもの」
「……はあぁ」
万楼は、身体の奥底から吐き出すような深い深い溜め息をついた。
「万楼、様??」
「……やっぱり帰っていいよ」
「……ということがありましたの」
「……ありましたの、じゃないって」
いつものカフェで事情を聞いた美々は、完全に引きつっていた。
「それは流石に庇いきれないよ、あたし……」
「やっぱり、わたくしに問題があったのでしょうか」
「……っていうかさ、日向子。独り暮らしの年頃の男の子に、『泊まっていって』って言われたら、普通もっと違うリアクションがあるんじゃないの?」
ストレートの紅茶にたっぷり砂糖を溶かしながら、美々は畳み掛けるように説く。
「彼はけしてパジャマパーティーがしたかったわけじゃないと思うよ……」
「それは……」
日向子は考える。
美々の言っている意味は、わかる。
流石にもう20代も半ばの大人の女なのだから、わからないわけはない。
しかし、万楼に関してはどうしてもその手の警戒心を持つことができなかった。
万楼はずっと年下で、自分のことを「お姉さん」と呼んでなついてくれている男の子。
時折大人びた表情を見せたり、驚くほどの頼り甲斐を発揮することもあるけれど、だいたいは甘い物を頬張りながらニコニコ笑ってる。
そんな彼がとてもいとおしい。
一緒にいればとても楽しいし、ベーシストとして成長していく姿をずっとずっと見守っていたいとも思っている。
まるで本当の姉のように……。
「わたくしは……ただ……」
「そこ、座っていいか?」
ハスキーな声が不意に呼び掛ける。
声のほうを振り返った2人は思わず目を丸くした。
「あなたは……」
「粋様……」
一見凛々しい青年のような端正な顔立ちの麗人が、すぐ近くに立っていた。
「玄鳥から、heliodorのメンバーがよく溜まってるって聞いてたから寄ってみたんだ……今日はいないんだな」
同席を許すか許さないか、まだ答えていないにも関わらず、粋は遠慮なく同じテーブルに着く。
「まあ、いいさ。面白い話も聞けたし」
「面白い話……?」
「可愛い弟子の恋愛事情だよ」
「恋愛、事情?」
粋はろくにメニューも見ないで、素早く店員を呼ぶと、コーラを注文した。
注ぐだけで出来上がる注文品はすぐに届く。
粋は、真冬には少し寒々しいそれを、ストローも使わずにごくごく飲んだかと思うと、若干呆気にとられている日向子を見やる。
「響平を、男としては見れないのか?」
「え……」
「響平にも原因があるんだけどさ……あいつの話し方や仕草がやたらと幼くなったのは、私と暮らし出してからなんだよな」
粋は昔を懐かしむような遠い目をしていた。
「……他人とのコミュニケーションの取り方を覚える過程で、てっとり早いやり方を身に付けたってところだろう」
決して明るくはない、万楼の生い立ちと青春時代……その最初の転換期となったのがこの女性との出会いだった。
今更ながら、日向子はその事実を噛み締めていた。
何となく、苦しい……。
そんな日向子の想いを知ってか知らずか、粋はふと別な話を切り出してきた。
「……私はずっと、女として扱われることがとても苦痛だった」
彼女自身の話だ。
「……ある時、女として特別視せず、男同士と全く同じ友情を示してくれる奴に出会った。
出会って、気づいたら惚れてた」
まるで自嘲するような笑みを浮かべる。
「惚れた途端、女として見てもらえないのが辛くなってきた……馬鹿馬鹿しい話だろ。
だけど、あまりにも辛くて、何も言わずに離れた……」
粋が誰のことを語っているのか、日向子にもなんとなくわかった気がした。恐らくは美々も。
しかしそれぞれの胸にしまったまま、黙って粋の言葉に耳を傾けていた。
「人魚は尾びれを翻して海の中を自由に泳ぎ回るが、その格好では王子のいる陸には上がれない……自分自身を守るために身に付けた『自分らしさ』が、足枷になることもある……幸せに辿り着くのに随分遠回りが必要になる……私のようにな」
「どう、したの? こんな夜中に」
玄関口に顔を出した万楼は、シャワーを浴びてからあまり時間が立っていないらしく、フルーツ系のシャンプーの匂いが甘く香っていた。
「連絡もせずにいきなり押し掛けてしまって申し訳ありません……どうしても早く万楼様にお会いしたかったのですわ」
「そう……わかった、入って」
やはり万楼は、どことなく元気がないようだった。
日向子を部屋に通すと、口数も少なく、2人分のミルクココアを作り始めた。
日向子も黙ったまま、ココアが出来上がって、万楼がテーブルに着くのを待っていた。
「……どうぞ」
「……ありがとうございます」
温かいカップで両手を温めながら、日向子はとうとうゆっくり口を開く。
「昨日のこと……申し訳ありませんでした」
「……どうして、謝るの」
「……わたくしの態度が、万楼様を傷付けてしまいましたから」
「……いいよ、そんなの。謝らないでよ……なんか惨めだもの」
居心地の悪そうな顔をしながら、万楼は目を伏せていた。
「……つまりお姉さんにとっては、ボクはそういう対象じゃないっていうだけだから、さ」
「……そういう対象だと思わないようにしていたのかもしれませんわ」
「どういう意味……?」
セイレーンの異名を持つベーシストが語った人魚の例え話。
それは彼女自身のことであり、彼女の愛弟子のことであり、そして日向子のことでもあった。
「わたくしは……万楼様から『お姉さん』と呼んで頂けることに気を良くして、いつからか万楼様の本当の姉のようにならなければ……と思っていたような気がしますの。
万楼様の大人びた一面や、男性としての力強い魅力に、心が動いても気が付かないふりをしていたのかもしれません」
好きな人は誰?と紅朱や美々に聞かれた時、伯爵にブレスを返した時。
確かに思い描いたのは、目の前にいる人だったというのに。
「お姉さん……それって」
「教えて下さい、万楼様。わたくしはあなたの『お姉さん』ですか?」
「……っ」
万楼は泣きそうに顔を歪めて、テーブルの上で丸めた両手をぎゅっときつく握り、拳を固めた。
「違う……あなたは『お姉さん』なんかじゃない。
ボクの大事な女の人……恋焦がれてたまらない、たったひとりの特別な人」
伏せていた顔を上げ、覚悟を決めたように、万楼は告げた。
「恋をしてるんだ。抱き締めたい、キスしたいって思ってるんだ」
どんなに仲睦まじくとも、姉と弟の間ではけして生まれることのない、激しい愛情。
お互いに、怖じ気づき、もてあまし、目をそらしてきた。
だけどそれはいつからか生まれ、ずっとそこにあったのだ。
「……わたくしも、あなたのことが好きです。
1人の素敵な男性として、あなたをお慕いしていますわ」
するりと、今までのことが嘘のように、本当の気持ちが口をついた。
口にした途端確信へ変わる。
錯覚ではない。
愛している。
「……本当に、そう思ってるの?」
万楼は微かに震えた声で問う。
「……はい」
「……ボクのことが好きなの……?」
「……ええ、心から」
「……じゃあ、キスしていい?」
日向子は返答するかわりにそっと目を閉じた。
肩に触れる、繊細な指の感触。
ほとんど同時に伝わる熱。唇から唇へ。
柔らかい色のリップで色づくそれの輪郭をなぞるように、熱が揺らめく。
やがて名残惜しそうに離れていき、日向子は静かに瞳を開けた。
目の前には、熱にうかされたような、酔いしれたような顔をした男性がいる。
初めてのキスの相手。
初めて心を通わせ合った特別な異性。
彼は甘い声で囁きかける。
「……好きだよ、日向子。大好きだ」
日向子は魔法にでもかけられたかのように、ほとんどは夢見心地で、それに微笑んだ。
万楼も優しく微笑み返し、そしてこう続けた。
「……今日、泊まってよ」
「あ……」
昨日と同じ言葉。
それなのに日向子は一気に顔を赤く染めてしまう。
万楼はくすくす笑う。
「可愛いなあ、ボクの日向子は……」
《END》
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