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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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「わかりました。もう、お止め致しません。でもいつか、いつの日か必ず」

 涙を飲み込んで、言の葉を紡ぎ出す。

「わたくしをあなた様の花嫁にして下さい……そう、約束して下さい」

 こんなにもこの心を悲しませるのだから。寂しくさせるのだから。

「では、レディ。あなたはいつか、あなたの力でこの伯爵めに会いにいらっしゃい」

「わたくしの……力で?」

「その長い月日の間に、あなたはかけがえのないものをいくつも見付けるでしょう。それを全て手放す覚悟があると認めたなら、私はその時……あなたをさらっていきます」


 あなたがここに残したものは、冷たく光る銀の月。

 そして、たったひとつの約束。












《序章 太陽の国へ -Let's go,Rock'n'Role lady-》【1】









「まあ、編集長様……それは本当でしょうか?」

 新米雑誌記者・森久保日向子(モリクボ・ヒナコ)の前に今大きなチャンスが投じられた。

「そうだ。本来ならまだお前のような新人に任せる仕事じゃないが、特例として、本誌11月号から来年の3月号の5号連続、カラー1P企画を担当してもらうことになった」

「わたくしなどで、本当によろしいのでしょうか……?」

 孫がいてもおかしくない年齢ながら、透けるほどの金色に髪を脱色した、派手な赤いジャケット編集長は、デスクに並べられた企画書を眺めながらさかんに瞬きを繰り返す、それこそ娘のような年齢の部下に、なんとも不安げな眼差しを向けていた。

「俺が聞きたいよ。だが、井上が是非お前にと言うもんだからな」

「……井上……美々(ミミ)様ですか?」

「そう、あたしの推薦だよ。日向子」

 すぐ後ろのデスクで、日向子が最もお世話になっている大先輩が軽く手をひらつかせた。

「あたしの代わりにその企画、あんたにやってほしいんだ」








 その二人連れは揃って美人だったが、随分とミスマッチな取り合わせだった。

 片や褐色に近い肌をルーズなストリート系ファッションで包んだB系ギャル。

 もう一人は150センチあるかないかの小柄な身体に上品な白いスーツが微妙に似合っていない、ほわんとした雰囲気の女性……いや、少女という形容のほうが似合うかもしれない。


 周りの人々の視線を色々な意味で集めながら、二人は紅茶を飲んでいた。

 編集オフィス近くのこの静かなカフェで、昼食をとるのは日向子と美々の定番だった。

「……ってわけよ。ホント大変だった~」

 今日のようにお気に入りの窓際の一番奥が空いていた日などは、それだけでいつもより話が弾む気がした。

「まあ……美々お姉さまは本当にお忙しくていらっしゃいますのね~」

「そ。だから例の企画は日向子に譲ろうと思ってさ」

「けれど、他にももっと重要度の低い仕事がたくさんありますでしょう? なぜこの企画をわたくしに??」

「……別に、ただなんとなく、日向子ならって思っただけ」

 美々はパールのグロスで艶めく唇に苦笑の歪みを持たせる。

「結構ね、クセのあるバンドの取材だから。ある意味、日向子向きだと思う」

「はあ……それはどういう」





「チケットを送った~~ッ!?」




 突然、穏やかな午後を派手にぶち壊す声が、店内に響き渡った。


「迷惑だからあんまり大きい声出さないでくれよ。ただでさえ兄貴の声はよく響くんだから……」

「お前がこんなとこでそんな重大告白をしでかすからだろうが」

「別にいいじゃないか。来たいって言ってるんだから来たって……」


 何やら、日向子たち以上に目立つ二人組がカウンター席に座って言い合いしているようだった。

 日向子と美々からは後ろ姿しか確認できなかったが、男同士なのだが、一人は長い真っ赤な髪を椅子の位置より下まで垂らしていた。
 もう一人は短い黒髪をつんつん立てていて、そこを差し引いても連れより幾らか上背がありそうだった。

 しかし会話の文脈からするとどうやらこちらが兄弟の弟のほうのようだが。


「で、来るのかよ。明日」

「うん……平日だから父さんは無理だけど、母さんは絶対来るって……」

「お前、ちゃんとオールスタンディングだって説明したのかよ。あのババア、途中でくたばっちまうんじゃねェか?」


「まあ……」

 日向子は、短く呟いて、おもむろにカップを置いて立ち上がった。

「日向子……どうした?」

 美々の問掛けには答えず、日向子はすたすたと派手な兄弟(主に兄がだが)が座るカウンター席へ一直線に向かって行った。


「そのお言葉は、いかがなものでしょうか」


 赤い髪の男の横に立っての第一声がそれだった。

「は?」

 男が不機嫌な顔で振り返ると、日向子は一切臆することなく更にこう続けた。

「ご自分のお母様を『ババア』などとお呼びになってはいけませんわ。あまつさえくたばる、などとは冗談でもおっしゃらないほうがいいと、わたくしは思います」

「なんだよ……いきなり。あんた誰だ」

 相手も負けていなかった。

「なんでいきなり見ず知らずの奴に説教されなきゃなんねェんだ」

 普通の女子なら泣いても仕方がないくらいの勢いでにらんできた。

 だが幸か不幸か日向子は普通の女の子ではなかった。

「どうぞ、ご両親を大切になさって下さいね」

 にっこり微笑んで、ぺこりと頭を下げた。

「ではわたくしはこれで」

「は? ……おい」

「……あ、兄貴、とりあえずここ出たほうがいいよ。目立ち過ぎだから」

 完璧に唖然としている二人を残し、日向子は言いたいことだけ言ってくるりと踵を返し、またすたすたと美々の元へ戻って行った。

「日向子、あんた何やってるのよ」

 流石に呆れた顔の美々にも、一点の曇りもない笑みを向ける。

「一日一善ですわ」

「あ、そう……」

 もう早々にツッコむことを断念した美々は、会計を急いで済ませて立ち去ろうとしている兄弟を視線で追った。

「……なんか見覚えあるなぁ。あの二人……」










「……というような一日でしたのよ。雪乃(ユキノ)」

「左様でございますか……」

 高級住宅街を颯爽と滑る艶な黒塗りの超高級車の中に、あの笑顔がまた花開いていた。

「しかしお嬢様、そのように無闇やたらと無鉄砲な行動を取られては危険です。何かあってからでは遅いのですよ」

「まあ……本当に雪乃は心配症ですのね」

 日向子の話相手は、ほとんど表情を変えず、淡々とした慇懃な口調で受答えながらハンドルを握る、眼鏡をかけた黒いスーツの男だった。
 男は、バックミラーに映る、少しふくれた顔の美少女をちらりと見て、また前方に注意を向ける。

「私には、何があってもお嬢様をお守りする責任がありますので」

「そうは言っても、このように毎日送迎してもらっていては、全く独り暮らしの気分が出ませんわ……なんだかずっとお父様に監視されてるみたいですわね」

「……そう思って頂いても差し支えありません。それでお嬢様が自覚を持って下さるなら」

「まあ……雪乃ったら」

 日向子はふくれっ面を解除して、くすくす笑った。

「笑い事ではありません。お嬢様が所属されているマスコミ芸能、音楽業界にはとかく物騒な輩がはびこっているものと聞き及んでおりますゆえ。お嬢様におかれましては、今一度気を引き締めて頂きたく存じます」

「そんなものかしら」

「はい」

 日向子はぐっと伸びをして息を吐いた。

「……ねえ? 雪乃」

「はい」

「雪乃は、小さい頃からなんでもお父様の仰るように、命じられた通りになさってますわよね」

「はい……ご希望に沿える限りはそのように」

「でも何かを、自分の意思と力で、自由にしてみたいとは思ったことはありませんの?」

「……私は今も特に不自由だとは感じておりませんので、何ともお答えし難いですね」

「そう。わたくしはね、ずっと不自由を感じていましたわ。
けれど外で『森久保』と名乗るようになって、以前よりずっと自由な心持ちですのよ……。
『釘宮高槻(クギミヤ・タカツキ)』の令嬢だから、などと誰にも言われずに済みますもの」

 日向子は、バッグから取り出した、立派な革製のケースに収まった社員証を見つめた。
 それは『釘宮日向子』ではなく、『森久保日向子』の社員証だ。

 自由へのパスポート。

「わたくし、お父様に認めて頂くためにも今度のお仕事を、自分の力で絶対に成功させてみせますわ。雪乃も応援していて頂戴」

「……承知致しました」

 黒塗りの外車と遜色のない、超高級マンションの前で停車し、先に降りてドアを開けた雪乃に手を引かれ、 日向子はすとんと地に足をつけた。

「お嬢様、先日お伝えしましたように、申し訳ありませんが明日は私用の為お迎えにあがることができません」

「ええ、よろしくてよ」

「ご迷惑をおかけ致します。では、また明後日伺います」

「はい、ご機嫌よう」

 日向子は軽い会釈をして、マンションの中へと消えて行った。

 姿が見えなくなるまで見送った雪乃は、ひとつ溜め息をついて眼鏡を、外した。

「……あぁ、超しんどかった……」

 ぐったりしたように半眼して、短いダークブラウンの髪に指を突っ込む。

「でも……マジで結構、イタイとこ、ツッコんでくるんだよなぁ……あのコ」

 自嘲的な笑み。

「……ま、いいや。そろそろ着替えてリハ行かないとね」













「伯爵様、日向子は本日、また一歩伯爵様に近付くことが出来たような気が致します」

 若い女の子の独り暮らしにしては無駄に随分と広い3LDK。
 本人はもっと安くて小さい部屋がよかったのだが、父親が用意した部屋を使うというのが、独り暮らし許可の条件のひとつだったので仕方なかった。

 日向子が先月から暮らし始めたこの「城」には、ひとつひとつが、シンプルながら品の良い上質なインテリアや小物が並んでいたが、そんなものは目に入らなくなってしまうほど特徴的な要素があり、初めて入室した人間ならまずは間違いなくそこに驚くだろう。


 どの部屋にも決まって同じ人物のポスターが貼られている。

 中でも、グランドピアノが鎮座したピアノ室には、壁の半面を全て覆うほどの、タペストリータイプの特大ポスターが飾られていて、日向子は帰宅して最初にいつもこのポスターの前に立つのを日課にしていた。

「伯爵様……『高山獅貴(タカヤマ・シキ)』」


 冷たく冴えた眼差しで、ポスターの中からこちらを見つめる、どこか妖しげな微笑の男。
 それが彼女の敬愛して止まない伯爵様だった。
















《つづく》
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 写真の真ん中に指を置く。

「赤い髪がボーカルの紅朱(コウシュ)様」

 そのすぐ右。

「黒い髪に白いメッシュがギターの玄鳥(クロト)様」

 その更に右。

「ワイン色の髪の背の高い方がドラムの有砂(アリサ)様」

 反対側。

「オレンジ色の髪はキーボードの蝉(ゼン)様」

 そして最後。

「白っぽいピンク色の髪の方はベースの万楼(マロウ)様ですわね」


「うん、合ってる。ちゃんと覚えられたね」

 美々は満足そうに頷く。

「彼等が『heliodor(ヘリオドール)』。あんたが担当するバンドだよ」










《序章 太陽の国へ -Let's go,Rock'n'Role lady-》【2】












「2000年冬、ボーカルの紅朱、キーボードの蝉、初代ベースの粋(スイ)による3ピースのメロコアバンドとして結成。
2002年夏、ドラムの……有砂が加入。
2004年秋、粋の脱退とともに突然の活動休止。
2006年春、ギターの玄鳥と2代目ベースの万楼を加えて、これも突然の活動再開。
再開以後はハードロックに移行したと言われているけど、これは主なメロディーメーカーが粋から玄鳥に変わったからだね。
結成当時から現代に到るまで音源はデモテの一本すら発表されてないから、初期のheliodorを知らないファンも多いって話」

「まあ……波瀾万丈なバンド様でいらっしゃいますのね」

 デスクに並べた資料に黄色い蛍光ペンでラインを引きながら、日向子は感心したように呟いた。

「ファンの方もさぞやご心配なさったでしょうね。わたくしも《mont sucht(モントザハト)》が解散して、伯爵様がおひとりで活動を再開されるまでは生きた心地が致しませんでしたもの」

「そっか~、あんたのルーツは《mont sucht》だもんね」

「ええ、《mont sucht》のデビュー曲をたまたまラジオで耳にすることがなければ今のわたくしはありませんでしたわ。
ああ、この声はわたくしの伯爵様……と、一瞬で確信致しましたのよ」

 手首を飾る月の意匠のシルバーブレスを指でなぞりながら恍惚とした表情を浮かべる、日向子のいつものクセが出始めたことに苦笑いしながら、美々はコホンと咳払いした。

「あんたの高山獅貴命はわかってるけど、伯爵様ネタはheliodorのメンバーの前では言わないようにね」

「……はい? 何故でしょうか」

「リーダーの紅朱がね……高山獅貴のアンチだから」

「アンチ……」

「そう。ファンの間じゃ超有名な話。heliodorのメンバーは全員加入する時に高山獅貴の踏み絵踏まされた、とかってネットで通説になってるらしいよ」

「まあ……そのようなことが?」

 世の中に色々な考えの人間がいるのは当然のことではあるが、自分の何より大好きなものが嫌いなどと聞くと少なからず寂しい気持ちになるのは仕方のないことだった。

「……それは残念ですわね」

「ま、嫌いなもんはしょうがないって。とにかくそこだけ気を付けてね。忠告は以上……はい、これ」

 美々は、ラインだらけの資料の上にそっと……チケットを一枚置いた。

「実際音聞かなきゃどうにもなんないでしょ? 今日、渋谷カルテットのイベントライブにこのバンドが参加するから、見ておいで」

 それは都内では比較的小規模なライブハウスで、日向子も何度か取材のアシストで先輩記者に同行したことがあった。

 資料で見たheliodorの現在の動員数からすれば、随分と狭い会場であり、更に対バンが4組もいるということであれば、単純に計算しても倍率が5倍である。恐らくファンにとってはプレミアとも言えるチケットだ。

「本来はシークレットに近いライブで、マスコミ関係者も遮断なんだけどね。知り合いのバンドが出るからなんとか一枚確保してもらったよ」

「美々お姉さま……わざわざわたくしのために?」

「厄介な仕事押し付けたんだからこのくらいは任せてよね」

 美々の面倒見の良さは日向子もよくわかっていることだが、この取材に関しては妙に気合いが入っているように感じていた。
 ただ新米の日向子を心配してのことなのだろうか。

 それとも美々はheliodorというバンドに何か特別な思い入れがあるのだろうか……?

 日向子には未だに美々がこの企画を自ら手掛けないことが不思議に思えてならなかった。

「あの……本当にわたくしが行ってよろしいのですか?」

 念を押すように問う。

「あたしは、日向子に任せる……あたしには出来ないことも日向子になら出来る……そう思うから」

 念を押すように答えが返ってきた。

 日向子はしっかり頷いて、チケットを手に取った。

 新たな決意を胸に抱きながら。










「まあ……あれは……!」

 いきなり立ち止まるなり、日向子はうっとりと斜め上を見上げた。
 通行人がちょっと迷惑そうに日向子を避けていく。

 視線の先にあったものは、大手CDショップの入り口……その上方を飾る広告看板だった。

《高山獅貴 New Single 「Phase of the moon」DROP》

 あの涼しげな眼差しが日向子を見下ろしていた。

 CD自体は当然のように予約して、一昨日の火曜に「フライングゲット」していたが、広告を見掛ける度に日向子はこの状態に陥る。

 そして今日は残念ながら、そんな日向子をたしなめてくれる人間は周りに存在しなかった。


 ドン。


「きゃっ」

 思いきり突き飛ばされて日向子の身体が前のめりに傾いた。

 そしてその瞬間、肩にかけていた白いショルダーバッグが、ぐっと引っ張られ、そして腕をすり抜けた。

「……あッ」

 慣性の法則に導かれてアスファルトに向かうところだった日向子の身体は不意に支えを得た。

「大丈夫??」

 くの字に曲がった細い腰を誰かの腕がしっかり支える。

「あ、ありがとうございます」

 体勢を立て直して声の主を見た。
 まるで白磁の人形のような美少年が大きな瞳で日向子を見つめていた。

 日向子の危機を救った少年は、少し前に流れた、薄桃色のサラサラした髪を横によけて微笑んだ。

「怪我はない?」

「あ、はい……でもバッグが」

「それなら多分、ちゃんと取り返してくれるから心配しないで」

「……え??」


 すぐに少し離れたところで大きな歓声が上がった。

「ほらね」

 美少年が視線を歓声のほうへスライドさせ、日向子もそれに倣い、すぐに驚きの表情を浮かべた。

「まあ……」

 歩行者が円形に避けてぽっかり空いた空間に、うつ伏せに倒れた中年男と、その肩口を足で踏みつけながら、男の手からバッグをもぎ取る青年の姿があった。

「ひったくりです。誰か、110番をお願いします」

 青年の声に、近くにいたサラリーマン風の男が急いで携帯を取り出していた。

 中年のひったくり男は完全に失神しているらしく、青年が離れても立ち上がるどころかぴくりとも動かなかった。

「大丈夫でしょうか……あのおじさま」

 思わず呟いてしまった日向子に、美少年は一瞬目を丸くした。

「お姉さん、ひったくりの心配をしてあげてるの? 随分優しいというか……」

「ただのマヌケちゃうか?」

 いつからそこにいたのか、日本人離れして背の高い別の青年が抑揚のない関西弁で淡々と評した。

「高そうなバッグぶら下げて、こんな往来でぼんやりつっ立っとったほうも悪いと思うで……」

 日向子は青年の顔を見上げて、ぱちぱち瞬きした。

「わたくしもそう思います。もう8回目ですもの」

「……8回目……?」

「わたくしは、バッグを持つのに向いてないんでしょうか??」

「……なんやそれ」

 思わず毒気を抜かれて唖然としている青年に、横の美少年が小さく吹き出した。

「面白いお姉さんだ……毒舌大魔王様に勝っちゃったね」

「……アホか。勝手にけったいな異名つけんといてくれ」

 仲がいいのか悪いのかよくわからないコンビを、とりあえず見守っていた日向子に、

「あの」

 背中から声をかけてきたのは、たった今ひったくり犯を成敗して大活躍したにも関わらず、一瞬全員に忘れられていたお手柄青年だった。

「これ……中身、確認してみて下さいね」

 奪還したバッグを差し出す彼を見て、日向子はあることに気付き、「まあ」と短く声を上げた。

 青年も気付いていたらしく、少し複雑な笑みを浮かべた。

「あの、昨日もお会いしましたよね? あの時はお騒がせしてすいませんでした」

 青年はカフェで遭遇したあの兄弟の、弟、のほうだった。

「いいえ、そのようなことよりも、危ないところを本当にありがとうございました。あなた様のおかげで大切なものを持っていかれずに済みましたわ」

「そんなに大切なものが入ってたんですか?」

「ええ、ですけれど……」

 日向子は唐突に顔を曇らせて、バッグを持っていた青年の手を、取った。

「えっ」

 青年は驚いて反射的に手を引こうとしたが、日向子は、離さない。

「わたくしのせいで、お怪我をなさいましたのね」

「えッ……いや、それは……ただ、えっと、バッグを取る時に、相手の爪がちょっと……ってだけだし……」

 何故か完全にしどろもどろになった青年の右手の甲に、赤くみみず腫れのような跡が2センチほど残っていて、じわっと血がにじみ出している。

「……あの、別に痛くもないし。問題ないんで……」

 その言葉は日向子だけでなく、連れの二人にも向けられているようだった。

 長身の青年は、

「……ま、仮に粉砕骨折してようが甘やかさへんけどな」

 と鼻で笑い、美少年は、

「男の勲章だね」

 と楽しそうに評した。

「少々お待ち下さいませ」

 日向子はいそいそと……いや、傍目からはかなり緩慢なアクションであったが、本人としては大急ぎでバッグを開いて、小さなポーチから絆創膏を取り出した。

「後できちんと消毒なさって下さいませね?」

「あ……はい」

 日向子は青年の手に、丁寧に絆創膏を貼って、その上から手を重ねた。

「お大事になさいませね?」

 少し小首を傾けてにっこり笑ってみせた。
 


 それが、いかに罪深い微笑みであるか。
 日向子本人はまったく気が付いていなかった。

 それも仕方ないだろう。日向子の手が離れた後も、固まったまま立ち尽くしている青年ですら、まだ自覚できていなかったのだから。


「……」

「どうかなさいまして?」

「え、いや……なんでも……その、早く、大切なものが無事か確認を……」

「あ、そうでしたわね」

 日向子は急いで(もちろん彼女なりの全速力で、ということである)バッグを探り、

「大丈夫ですわ。ちゃんとありました」

 今一番大切なもの……美々から貰ったライブチケットを取り出して見せた。

「あ」

 日向子を囲む三人は、ほとんど同時に声を上げた。

「はい?」

 不思議そうな日向子に、それぞれがどこか含みのある表情を浮かべた。

「あの~……何か??」











 太陽はその強大な引力で、運命を少しずつ引き寄せている。








《END》
「……番までのチケットをお持ちのお客様ご入場下さい」

「どうぞ押し合わず前へお進み下さい」

「こちらでチケットを拝見致します」

「カメラ、テープレコーダーはお持ちじゃありませんか??」

「ドリンク代500円です……はい、どうぞ」



「今日はどちらのバンドを見にいらっしゃいましたか??」





「……heliodor、です」







《序章 太陽の国へ -Let's go,Rock'n'Role lady-》【3】












 キャパシティの1.6倍ほどの人数を飲み込んだライブハウス「渋谷カルテット」。

 4バンド目の演奏が終わり、客電がついた。
 あとはトリの一組を残すばかりだ。
 日向子は、わずかに逆流を始める人波の真っ只中でぴょんぴょん飛び跳ねていた。
 一切の段差が存在しないこのライブハウスでは、身長150センチジャストの日向子の視界は完全に閉ざされてしまう。

「皆様……どちらにいらっしゃるのでしょう」

 日向子が探しているのは先刻出会ったあの3人だった。


「実は、俺たちもそこに行くんです……だから、きっとまたすぐ会えますね」


 どこか恥ずかしそうにそう言った、青年の顔を思い出す。

「……もしお会い出来なかったらどうしましょう。お名前も伺っておりませんし……」

 男性客はあまりいないし、3人のうち1人はかなりの長身なのだから、 絶対に目立つと思うが、なぜかそれらしきは見当たらない。

「いらっしゃいませんわ……ワイン色の髪の背の高い方と、薄い桃色の髪のお綺麗な方と、それに黒髪に白いメッシュの……」

 確認するようにボソボソ呟いていた日向子は、ふと何かを思い出しそうになった。

「……なぜでしょう……何かが引っ掛かりますわ……」

「誰かを探しているの? お友達とはぐれたのかしら」

 明らかに挙動不審な様子だった日向子に、親切にも声をかけてきた女性がいた。

 客層からやや逸脱した、少々年配とおぼしき女性で、優しそうな雰囲気だった。

「お友達……になりたい方々を探しておりますの」

「そう。見付かるといいわね」

 その笑顔が、なんとなくあの黒髪の青年のそれとダブって見えた。

「あの……もしやあなた様は……」


 問掛けは悲鳴にかき消えた。
 目の前の風景が闇に溶けて、1秒の半分くらいの間をおいて、甲高い波音を響かせて押し寄せた怒濤が、自分の意思とは関係なしに身体を前へ前へと押し流していく。

「あ……」

 一瞬波の隙間で、あの年配女性が倒れかけているのが目に入ったが、日向子はもう波に沈み、運ばれていくしかなかった。

「今の方……大丈夫でしょうか……」

 スモークで煙るステージが、人の頭ごしにモザイクのように見え隠れする。日向子は身動きのとれない、他人の体温や呼吸や鼓動がダイレクトに4方から伝わる密集地帯で、爪先が攣るほど必死に背伸びしながら、なんとか可視の領域を広げようと頑張っていた。

 本日のトリを飾るバンド……この華やかな狂乱の津波が求めるもの。

 heliodor、をその目に焼き付けるために。


 そしてギターのサウンドを全面に出したオープニングSEが響く中、とうとうメンバーが姿を現した。

「紅朱~ッ!!」

「マロ様ぁ!!」

 叫ぶ声が幾重にも重なって、際限なくボルテージが上がっていくフロアで、日向子だけが爪先立ちでぽかんと立ち尽くす。

「……まあ」

 先程いくら見渡しても見付からなかった人たちの姿を、ステージの上に見つけた。

 一瞬、人違いだろうかと思ったが、すぐにそれは一転して確信となる。

 すぐ隣にいた二人組の会話が耳に届いた。


「ねえ、玄鳥さぁ、右手に絆創膏貼ってない?」

「怪我してんのかなあ」


 日向子もまさにそれを見ていた。
 右手の甲に絆創膏を貼ったギタリストはまるで誰かを探すように、こちらを見渡している。

「あの方々……heliodorのメンバー様たちでしたのね……!」

 どおりで引っ掛かった筈だった。
 彼らの容姿の特徴は、資料に載っていた写真と全く同じだったのだから。

 私服かステージ衣装か、メイクをしているかいないかの違いがそれに気付かせなかった。

 ほの暗い緋色の照明を浴びながら、センターで意識を集中するように斜め下を向いている赤い髪の小柄な青年もまた、昨日カフェで出会ったあの人物。
 そうに違いなかった。


「なんというめぐり会わせでしょう……」


 ここに到る前にメンバー五人のうち四人と偶然にも出会っていたとは。

 実はそれだけではないのだが、少なくとも日向子はそう思っていた。


 SEがフェードするのと比例して、フロアはやがて水を打ったような静けさに変わっていった。

 そして。

 ボーカル、紅朱が顔を上げた。


「Ghost Ship」


 ウイスパーボイスでタイトルが告げられた瞬間、再び沸き起こる歓声とともに、歪んだ重低音のイントロが空気を震わせるように鳴り響いた。

 疾走感あふれるギターにタイトなビートを刻むドラム、風貌からは想像出来ない骨太なベースのライン、無機質なほど正確に絡み合うそれらの音に、彩りを与える華やかな音色はキーボード。
 聞く者全てを強制的にバンドの生み出す世界に引っ張りこむ、畳み掛けるようなスピードチューン。



《まだ許すの? まだ揺れるの?
 独り遊びが 思い出せない
 君は夜型 彼仕様

 泥の船だと 知りながら
 降りられない 君
 night cruise
 航海は 終わらない》


 艶を含んだハリのあるボーカルは、甘く耳に心地好い音域。

《言えないから?
 癒えないから?
 ぬるま湯も 5年浸かれば媚薬
 シャドウの藍も 彼仕様

 純愛の亡霊船(ゴースト・シップ)
 風のない海
 dead rock
 後悔は 終わらない》

 ステージの端ギリギリに立って、マイクスタンドを自在に操りながら唄う紅朱は、このそれぞれに独特の輝きを放つメンバーの中において、誰よりも鮮明なオーラをかもし出す。

 間違いなく、このバンドの主役は彼だ。


《ねえ そろそろ
 僕と行きませんか?

 角度の違うキスと
 平手打ちする勇気を 君に》


 日向子は息をするのすら忘れるほど、ステージに釘付けになっていた。

「すごい……」


《「馴れ合い」「お芝居」「述懐」
 他愛ない 「自愛」
 言い訳を全て 論破して
 君の弱さは 殺してあげる

 残骸は そこに沈めて
 海底に 辿り着く頃には
 多分 朝に気付く筈だから……》












「あ」

 日向子が明確な意識を取り戻したのは、アンコールの第一声が響いた瞬間だった。

 すぐに沸き起こるアンコールの嵐の中で、日向子は立ち尽くす。

 頭の芯が痺れていて、なんだかぼーっとするようだった。

 高山獅貴のライブに行った後も似たような状態になるが、それとはまた違うような気もする。

 散らばった思考をかき集めていると、ふと先程の二人組の声がまた聞こえた。

「さっき、途中で倒れて運ばれてた人いたね」

「うん、見えた。結構いいトシのおばさんだよね」


 日向子の脳裏に、あの女性の優しげな顔が浮かんだ。

「まさか……」

 日向子は、暗転したまま再びメンバーたちが戻るのを待ち続けるステージを見上げて、一瞬悩んだが、意を決したようにそちらに背を向けた。














 日向子はまだ人もまばらなドリンクカウンターでミネラルウォーターを引き換えて、物販スペースを横切り、あの女性の姿を探し求めた。

 と。



「だから言わんこっちゃないだろうが!」



 聞き覚えのある怒声が響いた。

 バックステージに向かう通路の扉の前で、今の今までステージに立っていたボーカルの紅朱が仁王立ちしていた。

 激しいライブの余韻で、赤い長髪は汗で首筋に張り付き、肩口に引っ掛けた白いタオルとコントラストを描いている。

「ババアにはスタンディングのライブなんて無理に決まってる……だから俺は来るなって言ったんだよ」

 紅朱の見下ろした目線の先には、パイプ椅子にしなだれかかるように座ったあの女性だった。

 心なしか青い顔をしている。

「……ごめんね、お兄ちゃん」

 少しかすれた囁き。

 やっぱり、と日向子は思った。
 あの女性は兄弟の母なのだろう。
 女性的な柔らかい雰囲気ではあるが、よく見れば顔のパーツが二人によく似ている。

「……綾ちゃんもね、最初はすごく反対したんだけど……母さん、どうしても二人のやっているバンドが見たかったから無理を言って頼んだの……だからお兄ちゃん、綾ちゃんを叱らないであげてね」

 紅朱は渋い顔をしたまま、深く溜め息をつく。

「あんたになんかあったら……ジジイに会わす顔ないだろ。頼むから、無茶するなよ……」

「……父さんも本当は来たかったみたいよ」

「……まさか」

「本当よ。確かに昔は父さん、二人が音楽の道に進んだこと、よく思ってなかったかもしれない。だけど今は応援してるのよ」

「……そんなわけねェだろ……だって俺は」

 紅朱の、ステージの上で観客を堂々と煽っていた姿からは想像もできないような、どこか悲しげな顔。
 それは日向子の胸を少し締め付けた。

「……我慢なんて、しなくていいの」

 紅朱の母は苦しげながらも、優しく微笑んだ。

「お兄ちゃんも綾ちゃんも、私たちの自慢の息子……あんなにかっこいい姿見たら、ますます鼻が高いわね」

「……ありが、とう」

 ぎこちなく感謝を口にする様は、不器用な優しさを感じさせた。

「……紅朱様」

 とっさに呼び掛けていた。

 驚いたように振り返る紅朱。

「げッ、昨日の……っていうか、なんでいる? 見てたのかよ!」

 顔を赤くしてうろたえる息子を、母親は微笑ましいものを見るように見ていた。

 日向子は二人に歩み寄り、いきなり頭を下げた。

「昨日のこと、申し訳ありませんでした」

「……あ?」

「紅朱様はお言葉こそ乱暴でいらっしゃいますが、お母様思いの優しい殿方でしたのね」

「な、何言ってんだ、お前……やめろ。俺はそういうキャラでは売ってねェ」

 タオルで赤らんだ顔を半分多いながら顔を背ける。

「紅朱~、そろそろ出ないとお客さんはけちゃうかもしんないよ~」」


 バックステージのほうからメンバーの一人、アップにしたオレンジの髪が鮮やかなキーボードの蝉がやって来た。

「ってちょっとちょっと、何こんな時に女のコナンパして……」

 目が合った瞬間、蝉はまるで幽霊でも目撃したような顔で硬直した。

「おじょ……!?」

「はい?」

「……こ、紅朱ッ、とにかく早く来てッ」

 尻に火がついたような勢いでUターンしてステージ裏に去ってしまった。

「なんだ、あいつ……」

 紅朱もいぶかしがりながら、それを目で見送ったあと、

「ババアは椅子に座って袖からステージ見ろよ……それと……まあ、いいや。お前も一緒に来い」

 と日向子に顎で通路を示した。

「よくわからないが、うちのギタリストが、昨日の女に会ったらVIP待遇にしてやれって言うんでな」

















《つづく》
「日向子さんは、ライターさんなんですよね」

「はい。そうは言いましても、まだまだ駆け出しですけれど」

「ということは業界の人なわけですよね……」

「一応はそういうことになるかと思います」

「そうか……そうなのか……」

「あの~、どうかなさいましたか?」

「気にしないで、お姉さん。玄鳥は『やったー。これで兄貴に怒られずに、堂々と打ち上げに誘えるぞ』と思って少しニヤニヤしちゃっただけだから」

「はい??」


「ちょッ、ちょっと……痛ッ!!」









《序章 太陽の国へ -Let's go,Rock'n'Role lady-》【4】










「変なこと言わないでくれよ、日向子さんが気を悪くするだろ」

 玄鳥はいささか大袈裟な剣幕で万楼に詰め寄った。
 詰め寄られた万楼は一切動じる様子もない。

「天井に頭ぶつけるほど慌てることないのに。ボクだってお姉さんが打ち上げに来てくれたら嬉しいからね」

「打ち上げ……わたくしがお邪魔してよろしいのですか??」

「もちろん、俺も歓迎しますよ……その、参加するのheliodorのメンバーだけだから、遠慮しないで下さい。
うちはリーダーの兄貴がアルコールダメだし、万楼がまだ未成年なんで、他のバンドとはあんまり付き合いがなくて。場所もファミレスだったり、誰かの家だったり」

「有砂や蝉はちょっと不満そうだけどね」

 日向子は二人に向かってにっこりと微笑を返した。

「ありがとうございます。是非ご一緒させて下さい」



 終演後2時間近くが経過し、人気のほとんど無くなった搬入口で、作業を一通り終えた玄鳥と万楼、それに日向子は機材車(玄鳥が私有、提供しているミニバンである)に乗り込んで他のメンバーを待っているところだった。
 運転席に玄鳥、2列目のシートに日向子と万楼が少し間をおいて座っていて、ついさっきまで騒がしかった「出待ち」のファンが去った後は、祭の後の静けさだけが残っている。

 紅朱は有砂に車を出させて母親を宿泊するホテルまで送りに行っていて、蝉は他バンドの打ち上げに少し顔を出すということだったが……。

「蝉、逃げたね」

 万楼がぽつんと呟いた。

「うん……」


 複雑な表情で頷いた玄鳥を見やりながら、日向子は先刻の……終演直後の楽屋での出来事を思い出していた。












「……お前、やる気あんのかよ」

 低いところから発せられた声とともに、鋭い視線が蝉を射抜いていた。

「とても金が取れるプレイじゃなかった」

 腕を組んで壁に背をつけて立つ紅朱は、けして広くはない楽屋でありながら、彼の周囲だけぽっかり無人になるほどの迫力を有していた。

 日向子や、他のメンバーたちも楽屋の外に出て、入り口付近からそれを見守っていた。

「あれは……その……」

 椅子に座って、少しうつ向き加減なオレンジ頭の青年は、もごもごと口を開く。

「ちょっと……調子、悪かったってゆーか……アクシデントがあって……動揺、して……」

「本編はむしろ調子よかったじゃねェか……なんでアンコールだけあんなザマなんだよ」

「だから……アクシデントが……」

「だとしてもステージでは表に出すな。当たり前だろ?」

「うん……ごめん」


 あまりにも修羅場然とした雰囲気に、日向子は心配になってくる。

「お厳しい方ですのね。紅朱様」

「まあ、確かにリーダーはライブにこだわり持ってるから、よくダメ出ししてくるけどね……」

「今日の兄貴はいつもより機嫌悪いな」

「……恥をかかされたと感じとるんちゃうか? 母親がわざわざ見に来とったからな」

 冷静に分析する有砂のほうを他三人が思わず振り返ったのは、紅朱に負けず劣らず、彼の機嫌が悪そうだったからだ。

「……確かに蝉はミスを連発したかもしれへん。けど素人が気付くのはせいぜい1つか2つやろ。実際、絶賛やったやないか」

「まあ……確かに母さんは喜んでましたね。出来がどうとかは大して関係ないんでしょうけど……」

「そうですわね」

 日向子も玄鳥に同意する。

「ご自分のお子さんが、ご立派にステージに立っていらっしゃったら、それだけで無条件に感動なさるに違いませんもの」

 その時、万楼が苦笑して長い睫毛を少し伏せたこと。そして有砂が小さく舌打ちしたことに日向子は気付かなかった。


「もしや……蝉様はわたくしのような部外者が横で見ていたから、調子を崩されたのでは……」

 という不安が突如脳裏に浮かび、次の瞬間には、

「あの……!」

 修羅場空間に突入していたからだ。

「……!!」

 全員が声にならない叫びを上げた。

「なんだ、今取り込み中だから入ってくるな」

 紅朱の怒りの矛先は日向子のほうへベクトルを変えようとした。

「待った!」

 いきなり蝉が顔を上げた。

「おれが悪いよ。全部悪い……マジで、全部おれの責任だから。関係ない人には当たらないでよ」

 一瞬前までとは別人のようなキッパリした口調に、紅朱も微かにひるんだ。

「蝉……お前?」

 蝉は、日向子のほうをチラッと見やった。

「キミは、悪くない」

「蝉様……」

「ただあれが《heliodor》だって思わないで。ホントはもっとずっとカッコいいバンドだからさ」

 日向子は大きく首を縦にした。

「……はい。わたくし、もっとheliodorを知りたいと思いました。そして……たくさんの人に伝えなくてはと」

 日向子は、紅朱のすぐ側までゆっくり歩み寄り、真っ直ぐに彼を見つめた。

「取材を、させて下さい」

「……あんた、マスコミ関係か?」

「はい。わたくしは……」

 日向子は、昼間危うく奪われかけたバッグの中に手を突っ込んで、名刺ケースから名刺を引っ張り出した……つもりだったのだが。

「こういうものです」

「……17530」

「え?」


 読みあげられた数字に驚いて、自分が手にしているものを良く確かめる。

「あら、間違えましたわ。これは伯爵様のファンクラブの会員証でした」

「……耽溺同盟?」

「はい、耽溺同盟です」

「……へえ。あんた、あいつのファンなんだ」


「あ」

 日向子は今更思い出していた。
 美々から受けた重要なアドバイスを。


『あんたの高山獅貴命はわかってるけど、伯爵様ネタはheliodorのメンバーの前では言わないようにね』


「……そうでしたわ……」

『リーダーの紅朱がね……高山獅貴のアンチだから』

「……あの、わたくしは……」


『そう。ファンの間じゃ超有名な話。heliodorのメンバーは全員加入する時に高山獅貴の踏み絵踏まされた、とかってネットで通説になってるらしいよ』




「わたくし、踏めません!!」




 沈黙の後、最初に蝉が吹き出した。
 
「ヤバっ……ウケる、それ」

 楽屋の外からも笑い声が聞こえてくる。

 日向子は何が起きたかよくわからず、ただおろおろしながら紅朱を見つめていた。

 紅朱は一つ大きく息を吐いた。

「ネタに決まってんだろ」

「ネタ……?」

「未だに踏み絵説を信じてる奴がいたとは……」

 呆れ果てたような顔で目を半眼する。

 しかし、微かにではあるが紅朱も笑っていた。

「確かに俺は高山獅貴の野郎は大嫌いだが、別に他の奴が支持するのに口出したりしねェから」

「そう、なのですか……」

 日向子は胸を撫で下ろした。

「大体、うちの弟がそれのクリスタル会員だからな」


「クリスタル?」

「なんだ知らねェのか? ナンバーが2桁までの奴は会員証がクリスタルで出来てっから、俗にクリスタル会員って呼ばれてるらしい」

「……まあ」












「それにしても驚きましたわ、玄鳥様が伯爵様のファンでいらしたなんて……しかも、クリスタル会員様とは」

「99番なんで、滑り込みですけどね。持ち歩くと壊しそうで部屋に飾りっぱなしだし……そんなにいいものでも」

「玄鳥は獅貴マニアだから、部屋に遊びに行くと色んなものがあって楽しいよ」

「まあ、是非拝見したいですわ」

「えっ……あ……」

「……ご迷惑ですの?」

「気にしないで、お姉さん。玄鳥は自分の部屋に女の子を上げたことがないから慌てているだけなんだ」

「だ、だからッ、変なこと言うなよ」

「また頭ぶつけるよ」


 ライブ後特有の、身体は疲れているのに異様に興奮してハイテンションな状態になりながら、待ち惚け組の話は弾んでいた。


「わたくしの部屋にも、お客様はまだお招きしておりませんわ。時々父の遣いで雪乃は参りますけれど」

「執事さんか何かですか?」

「メイドさんじゃない?」

「いえ、雪乃はわたくしのお世話をしてくれてはいますけれど、使用人ではありませんのよ。
父に師事して勉強しておりますの。後継者候補として父が後見人になっていまして」

「師事、ですか……」

「お姉さんのお父さんって何やってる人??」

「それは……」


 真実を口にすべきか否か一瞬躊躇った。
 その瞬間、まるで狙いすましたように日向子の携帯が鳴った。

「まあ……噂をすれば、雪乃からですわ」















 日向子はまだ視界の隅にあるミニバンを名残惜しそうに振り返った。

「今すぐ迎えに来る……などと。お父様の命令は理不尽ですわ……」

 雪乃からの電話を切った日向子は玄鳥と万楼に、打ち上げに参加出来なくなった旨を伝えた。

 二人はとても残念そうだったが、日向子も心から残念で仕方がなかった。

 通りに向けて歩いていた日向子は、ふと向こうから歩いてくる人影を見て歩みを止めた。

「紅朱様……?」

 風でふわりと揺れる赤い髪は、夜の薄闇でもはっきりとわかる。

「あんたか」

 紅朱は日向子から数メートル離れたところまで歩いてきて、同じように立ち止まった。

「有砂様は……?」

「一応蝉を迎えに行かせた。ま、本当によその打ち上げに参加してんのかどうかは怪しいとこだけどな……」

「そうですの……」

「あんたはもう帰るのか? 打ち上げに誘われなかったのか?」

 日向子が事情を話すと、紅朱は「そうか」と呟くように言って、少し間をおいて尋ねた。

「あんた、お嬢様なんだろ? なんで雑誌記者になんかなろうと思った?」

 日向子は何の躊躇もなく即答した。

「伯爵様のお近付きになりたかったからです」

「……よくそんな不純な動機を堂々と言えるな」

「嘘をついても仕方がありませんわ。それに、今はそれだけではないですし」

 紅朱はフッと軽く笑みを浮かべた。

「まあ、正直なところは買ってやってもいいか」

「はい?」

「……一応、メンバーには取材に協力するように言っておいてやる。言われなくても協力しそうな奴もいるが……」

「まあ、ありがとうございます! では、改めてお渡しし損なった名刺を……」
 日向子はバッグを探りながら、紅朱までの数メートルの距離を走って近付こうとした。が。

「きゃ……!」

 残り1メートルの石畳を蹴った爪先が、石の割れ目に引っ掛かった。

「なっ」

 滑り落ちた名刺入れからこぼれた名刺が少し風に泳ぎながらぱらぱらと散らばる。

 そして。

 日向子の華奢な身体は紅朱の胸に飛び込み……そしてそのまま、勢い余って押し倒した。

「……」

「……」

 冷たい地べたに尻餅をついた紅朱、そしてその上に完全に乗っかった状態の日向子。

 日向子は状況の整理が追い付かず、きょとんとした顔のまま、

「これ、どうぞ」

 拾った名刺の一枚を差し出した。

「ん……ああ」

 紅朱も呆然としたまま、それを受け取った。

「森久保日向子、か」

 息がかかるほど近くで、あの美声が囁いた。

「色々大胆な奴だな」








 親愛なる伯爵様。
 日向子は今日、初めて殿方を押し倒してしまいました。

 ともあれ……素敵な夜でした。

 記念すべき、第一歩の夜です。








《第1章につづく》
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