「……日向子さん!?」
玄鳥は驚きに目を丸くしていた。
「どうしたんですか? こんなに早く」
驚くのも無理はない。
まだ知らせてあった練習の時間までは二時間近くある。
「……玄鳥様は時々、スタジオに早くお入りになって自主練習なさるとお聞きしたので」
日向子の息は白く凍てつき、頬は寒さに紅く染まっていた。
「俺を……待ってたんですか?」
「……どうしても、早くお会いしたくて……ご迷惑だったかしら」
戸惑ったような表情を見せる玄鳥に、日向子はそっと微笑みかけた。
《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【1】
数分後、二人はスタジオのロビーでホットドリンクを飲んでいた。
煙草の焦げ痕のついた長椅子に座って、ちょうど昨日紅朱とそうしたように、日向子は玄鳥と隣合っている。
自販機で買った、缶入りのココアが冷えた身体をゆっくりと温めていく。
けれど心はまだ震えている。
寒さではなく、大きな不安で。
「……玄鳥様に謝らなくてはなりませんわ」
「謝る、ですか……」
「玄鳥様のことで、いくつか知っていて黙っていたことがありましたから」
「……それは、日向子さんが謝るようなことじゃないですよ」
玄鳥は、抹茶ラテをすすりながら静かに答える。
「むしろ、秘密を背負ったことで苦しい思いをしたんじゃないですか?
……他人の家の事情に巻き込まれたようなもんだし」
「そんなことは……」
「あなたが気に病むようなことじゃないんですよ……いいんです」
日向子は視線を床に落とした。
玄鳥の口調はいつもと変わらず穏やかで、つむぐ言葉は日向子を気遣ったものだ。
けれど、何故か今日の玄鳥にはとてつもなく高い壁を感じる。
まるで「お前には関係ないんだから、これ以上首を突っ込むな」と言われたような気分だった。
まるで、少し前の有砂や、日向子を遠ざけようとしていた雪乃と接する時に感じていたような、あの緊張感がそこにあった。
しかし、あんな重大な真実を一度に知ってしまった以上、玄鳥にだって色々と思うところがあるのだろう……と、まだどこかで楽観的な見方をしていたのかもしれない。
時間はかかるかもしれないが、すぐにまた元の玄鳥に戻ってくれるだろうと。
「……日向子さん」
玄鳥がまた静かに口を開いた。
「俺はむしろ、本当のことがわかってよかったんだと思います。
隠されてきたことを恨むつもりも全然ないですよ……浅川家の家族のこと、変わらずに愛してます」
「玄鳥様……」
玄鳥が断言してくれたことに少なからず安堵する。
「……とにかく、今は何も考えず、カウントダウンライブに全力を賭けるつもりでいます。兄貴にも、電話でそう伝えました。……あ、日向子さんは来れないんでしたね」
「ええ、そうですの……」
高山獅貴……玄鳥の実の父親に取材するためだ。
紅朱に宣言したように、日向子の決意は固かった。
「……伯爵様と、お話がしたいんです」
「……俺もあなたに伯爵と話してみてほしいです」
「……え?」
「あなたが高山獅貴という男に兄貴と同じように反発するのか……それとも……」
半ば独り言のような呟きを打ち切り、玄鳥は少し冷めた抹茶ラテを飲み干した。
「……ベストを尽くしましょうね、お互いに」
多くの人にとってそうであるように、森久保日向子とheliodorにとっても、年末の最後の一週間は、慌ただしく、日常の倍速で過ぎていった。
12月31日。
運命の日は容赦なく訪れた。
コートの下におろしたてのスーツを隠した日向子は、車のウインドウごしに、たどり着いた目的地を眺めた。
今年の春に六本木ヒルズに移転したばかりの高山獅貴の個人事務所のオフィスビルは、音楽業界及び経済界における彼の存在、ステータスを如実に物語る堂々たるたたずまいで日向子を迎えた。
大手のプロダクションやレコード会社にもけしてひけをとることはない。
これが、伯爵の城。
「……ついに、ここまで来ましたね、お嬢様」
運転席から同じように外を眺めていた雪乃が感慨深げに呟いた。
「ええ……ついにお会い出来るのだわ、あの方に」
「……行かれるのですね」
雪乃は眼鏡の奥の双眸を日向子に向ける。
「……無意味なのはわかっているのですが、お引き留めしたい気持ちです。
……あなたがこのまま、もう戻って来ないのではないかと不安でなりません」
「雪乃……」
ただ記者として、取材に行くだけだ。
命を落とすような危ない場所に行くわけでも、遠い国に旅に出るわけでもない。
雪乃の発言は、あまりにも大袈裟な心配のようだったが、本人はいたって真面目な様子だった。
「せめて、傍らにいられればと思うのですが……」
「……あなたはもう行かなくてはならないものね」
日向子は微笑んで、運転席と助手席のシートの間に、軽く身体を乗り出して、不意打ちで雪乃の眼鏡を取り上げた。
「あ」
「……日向子はライブの成功を心よりお祈りしていると、皆様にお伝え下さいませね」
そう言って眼鏡を手渡された運転手は、ふっと苦笑いした。
「わかったよ……必ず、キミに恥じないライブにするからね」
応接室の扉が開けられた瞬間、日向子は全身を静電気が走り抜けたかのように、震えが走るのを感じた。
1面硝子ばりの窓からさしこむ逆光の眩しさに、視界を奪われながら、ゆっくりと歩みを進める。
案内の役目を終えた、テキパキした女性秘書が手短く挨拶をして立ち去ると、その部屋にはもう紛れもなく、日向子と彼の二人しか存在しなくなった。
「やあ、ようこそいらっしゃいました」
ちょうど高槻が愛用しているのとよく似た革の椅子から立ち上がり、彼はゆっくりと日向子に歩み寄った。
日向子もまた、ゆっくりと近付き、光に包まれた部屋の、ちょうど真ん中で二人は向かい合った。
「……あ……」
日向子はまずは丁重に挨拶して、自己紹介して、名刺を渡して……と頭の中では次に取るべき行動をシュミレートしていたが、実際にはさながら金縛りにあったように動くことも、言葉をつむぐこともできなかった。
ただあの冷たい氷のような眼差しで見下ろされているというだけで。
彼はそんな日向子の様子に小さく笑みを浮かべて、少しだけ膝を折るようにして日向子に少し視線の角度を近付けた。
「……どうしたのですか? そのように脅えて」
甘い、甘い囁き。
「……昔はもっと、臆することなく、この私を見つめて下さったではありませんか……姫?」
日向子ははっとしたように、声を絞り出した。
「……覚えていて下さったのですか……?」
「ふふ、私からすればそれほど昔の出来事ではない……まるで昨日のようです。あなたの可愛らしい細い手首に、そのブレスをつけて差し上げたあの日が……」
日向子の胸は激しく高鳴っていた。
自分にとってかけがえのない、人生を変えるほどの出来事だったあの出会い。
その記憶がしっかりと伯爵の中にも刻まれていたことがたまらなく嬉しかった。
ここに来る直前まで渦を巻いていた複雑な感情は、今この瞬間にはどこかへ消え失せてしまい、ただ純粋な感動がそこにあった。
「……お会いしたかったです……ずっと……ずっと」
涙がじわりと滲み出して、視界を歪ませる。
「わたくしは……たどり着けたのでしょうか? 自分の力で……」
「……レディ」
次の瞬間、日向子は伯爵の腕の中にいた。
ふわりと温もりに包まれて、抱き締められる懐かしい感覚に、いよいよ涙があふれ出す。
「……伯爵様……伯爵様……!」
その胸にすがって、幼い少女に戻ったかのように泣きじゃくっていた。
こんなことが許されるのは恐らく今だけだと、頭の片隅で理解しながらも……。
「日向子の奴……今頃、高山獅貴と会ってんだよな……」
時計を見ながら紅朱が漏らした微かな呟きを聞き留めて、万楼が嘆息した。
「ライブが終わるまで、お姉さんの話題禁止じゃなかったっけ? リーダーが言い出したんだよ」
「……ああ、そうだったな。悪ィ」
紅朱は気まずそうにに返したが、蝉は、
「いいじゃん! どーせみんなあのコのこと気になってんだからさー。気になってんのに気にならない振りしたってリハに集中なんてできっこないし」
ここぞとばかりに別な主張を繰り出した。
「ね、そうでしょ? 玄鳥」
同意を求められた玄鳥は、
「……そう、ですね」
どこか話半分のような気のない返事をした。
「……珍しく余裕やな、ジブン」
有砂に指摘されても、
「……そんなわけじゃないですけど……俺はやっぱり今夜はライブに専念したいですから……」
と無味乾燥な言葉を返すのみだった。
ここしばらく、なんとはなしに玄鳥の様子がおかしいことには誰もが気付いていたが、ほとんどのメンバーはその理由を「日向子が長年憧れてきた初恋の人・高山獅貴と対面する」ことに由来するものだとばかり思っていたが、それは誤解だった。
本当の理由を知っている紅朱は、それでも玄鳥にかけるべき言葉を見い出すことができないままに、不自然な距離を置いて接することしかできずにいた。
ようやく綺麗に揃ったと思った五角形が、激しい歪みを訴えていた……。
「あ、あの……伯爵様、一体どちらへ?」
「折角の晦に、ただ部屋に閉じ籠って話しているのは味気無いとは思いませんか?」
「はあ……」
さんざん泣いた後で、多少落ち着きを取り戻した日向子は、伯爵に無礼を詫びた。
しかし伯爵は、そんな日向子をまるで慰めるかのように「外へ出ませんか? もしもドライブがお嫌いでなかったら」と耳元に囁いた。
予想だにしない誘いに驚いた日向子だったが、申し出を受けることにした。
しかし実際にサイドシートに乗り込むと、隣り合った距離の近さに戸惑わずにはいられなかった。
もちろんつい先程まで胸にすがって泣いていたのだから、それに比べれば大したことではないようだが、我を失っていた時にはそれほど感じなかったものが、今は日向子の体温を確実に1度は上昇させていた。
「そういえば」
一方ハンドルを握る伯爵は相変わらず、気品すら漂わせる穏やかな物腰。
「誤解される前に1つだけ言っておきたいんだがね……あなたの取材を受けることにしたのは、あなたの素性や、あなたとの過去とは無関係に、ただあなたの記者としての能力を評価してのことなのですよ」
日向子は頷いた。
編集長からも伯爵はheliodorの特集記事を読んで日向子を指名したのだと聞いている。
「あなたの文章には対象への愛情を感じる……一方的な好奇心や、不躾なほど商売気を感じさせるこなれた物書きにはないみずみずしい才能だ」
「もったいないお言葉ですわ……」
伯爵が自分の記事を評価してくれたことは何より嬉しかったが、不意に現実の問題が脳裏に蘇ってしまう。
「わたくしの記事に魅力を感じて下さったのだとすれば、それはheliodorというバンドに魅力があるからですもの」
そしてheliodorというバンドは、伯爵にとってただの有望な若手バンドという以上の意味を持っている筈なのだ。
「……伯爵様は、heliodorをどう思っていらっしゃるのですか……?」
伯爵は進行方向を見つめたまま、微笑を崩すことなく呟いた。
「期待しているさ……色々な意味でね」
《つづく》
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