「まあ」
今日のイベント会場まであと100メートルといったところで、日向子は思わず足を止めた。
歩道の真ん中にちょこんと猫がたたずんでいる。
黒い仔猫だ。
まだ生まれて何ヵ月といったところか?
お行儀よく座って、大きな金色の瞳でじっと日向子を見ている。
「なんて可愛らしい……」
日向子が近付いても逃げようとはしない。
「あら首輪をしていますのね……?」
しゃがんで手を伸ばして銀色の首輪を確認しようとした時、
「その子、私のよ」
後ろから声。
氷と氷がぶつかり合ったような、澄んで凛とした声だった。
振り返ると、日向子と同じか少し年下くらいの少女が立っていた。
ゴシックロリータで全身を包んだ、サラサラした直毛の真っ黒な長い髪が印象的な美人だった。
瞳の色も吸い込まれそうな漆黒で、本当に血が通っているのか怪しいほど真っ白な肌との対比が美しい。
日向子は少女に笑いかけ、抱き上げた仔猫を差し出した。
「可愛らしい仔猫ちゃんですのね?」
美少女は無表情で猫を受けとると、
「シュバルツは仔猫ちゃんじゃないわ」
美しい声で言う。
「黒豹のベビィなの」
「黒豹……??」
日向子は、少女の手の中で嬉しそうにじゃれついている黒い生き物を思わず見た。
「だったら、凄いわよね」
「はあ」
少女は「シュバルツ」を抱いて、ポカンとしている日向子の横をすり抜けていった。
「……ただの例え話よ」
《第4章 黒い寓話 -inferior-》【1】
熱狂のステージは中盤に差し掛かっていた。
《せめて 聞いてくれ
甘い台詞じゃないが
親愛なる君のために
愛を込めたとっておきさ》
日向子は少し身体を揺すってリズムを取りながら、いつものように、メンバーひとりひとりの姿を目で追っていく。
紅朱は今日も絶好調だ。
《聞きわけもなく
まくしたてるDarlin'
どんな顔であやまれば
許してくれるんでしょうか?》
有砂はいつも通り、とても安定している。
《出来ないものは 出来ないと
言い切る僕のスタンスを
怠慢だと君は責めるけど
果たせない約束は
君とはしない》
スノウ・ドームの一件以来しばらくは不調そうだった万楼も、だいぶ持ち直して見える。
《要求をつきつける前に
不可解な君の素顔を
特定するヒントを
僕に投げておくれ》
サビのあたまで少し走ってしまって、蝉が舌を出して笑う。日向子もつられて笑う。
《僕の話を最後まで
聞いてくれたらわかるだろう
秒針が三度回るまで
何も言わずに待っていて》
Aサビの後はすかさず8小節のギターソロ、日向子はステージ上手の玄鳥を見やった。
その瞬間、まるでタイミングを合わせたように玄鳥と目が合った。
「あ」という顔をした玄鳥は、すぐにそれを微笑に転じた……のだが。
「……?」
日向子はその微笑に妙な違和感と不安を覚えた。
その正体はすぐに判明する。
ソロの最初の二小節が鳴った直後、玄鳥のギターの4弦がバチッと弾けるように切れて、それを合図としたかのように玄鳥の身体は突如として、崩れた。
「……玄鳥様……!?」
会場は騒然となり、上手前方を中心にいくつもの悲鳴が上がる。
よろめくように前傾姿勢でバランスを失った玄鳥は、声を上げることもなく、そのままギターをかばうような格好で膝を折って、その場に倒れた。
ほとんど間を空けず、紅朱が邪魔だとばかりに蹴倒したマイクスタンドが倒れ、転がって、キン、とマイクがこめかみに突き刺さる悲鳴を上げた。
「綾……っ!!」
ステージ上であるにも関わらず、実名で呼び掛けながら、紅朱は誰より早く玄鳥に駆け寄った。
「綾っ!!」
「紅朱、落ち着いて!」
「むやみに動かさないほうがいいと思うな」
玄鳥を抱き起こそうとした紅朱を、蝉と万楼が慌てて制する。
有砂は冷静に、スタッフに向けてスティックを軽く下向きに三度、振った。
『照明を、落とせ』
暗転した暗闇の中で止まない悲鳴に包まれながら、日向子もまた大きな不安にさいなまれていた。
「玄鳥様……どうなさったの……??」
「……ん……」
左側頭部がズキズキと痛む。
外傷によるものではなく、内側から響く痛みだ。
それは、なじみの鈍痛。
それに耐えながら、玄鳥はゆっくりと目を開けていく。
柔らかい光が網膜にさしこんでくる。
そして鼓膜は、
「まあ、お気付きになりまして?」
一番心地好く響く声を捕まえた。
「……あ」
一気に目を開いて、ほとんど反射的に身体を起こそうとした。
「……うっ」
苦痛が鋭さを増して襲いかかり、目の前の景色が揺れる。
「いけませんわ、まだ起き上がらないで寝ていらして下さい」
玄鳥はそのまま柔らかいベッドに再び身を沈めた。
ベッド?
玄鳥はそこに引っ掛かりを覚えた。
玄鳥の部屋は和室で、寝具はベッドではなく布団だ。
ということは、少なくともここは玄鳥の部屋ではないのだ。
では一体、ここはどこだろう??
「もうすぐお食事が出来ますから、横になったまま待っていらして下さい」
「……は、はい?」
玄鳥はその光景に、愕然とし、何度も瞬きを繰り返し、何度も目をこすった。
夢か?
いや、夢なら痛みは感じない筈だ。
ならば現実なのか?
これは。
クリーム色のフリルのついたエプロンをまとった日向子が、料理用のミトンをはめた手を頬に当ててにっこり微笑んでいる。
「おじや……お好きですか?」
状況は全く飲み込めない。
飲み込めないが……。
「だ……大好きです!!」
元気よく返事し過ぎてまた頭が痛かったが、そんなことはどうでもよかった。
エプロン日向子は安心したように笑う。
「まあ、お顔の色……随分よくなられて」
顔色がいいどころか、耳まで赤くなっているに違いない自分をかなり恥ずかしく思いつつ、玄鳥は恐る恐る問掛けた。
「あの……日向子さん……ここはもしかして……」
「はい、わたくしの部屋です」
「……あの……ってことは今俺が寝ているのは……」
「わたくしの寝室のベッドです」
「……えっ……ええっ!?」
「……あの、やはり返ってご迷惑だったでしょうか?」
「……いや……あの……なんていうか……そういうわけじゃなくて……その」
客観的に観察したら哀れなくらい完全なパニック状態を起こしている玄鳥に、日向子は心配そうに近付いてきた。
「……どういたしましょう。お顔がどんどん赤くなって。もしや熱がおありなのでは……?」
日向子はベッドサイドに身をかがめて、ミトンを外した手を玄鳥の額にぴたっと当てた。
「……っ……」
「やはり少しお熱いような……」
「ひっ……日向子さんっ……」
近いです。
近すぎます。
もう言葉が声にならない。
至近距離で見つめてくる愛くるしい瞳に、玄鳥はもはやだんだんと混乱を通りこして釘付けになっていた。
「玄鳥様……?」
そして、心配そうに自分の名前をつむぐ唇にも……。
「あ……」
玄鳥は甘く痺れるような感覚に捕まったまま、うっとりと目を細めた。
「日向子さん……」
と。その時。
「おい日向子! 鍋噴いてたから火止めたぞ?」
かなり乱暴にドアが開け放たれて、とてもよく知っている顔が現れた。
「まあ紅朱様、申し訳ありません。わたくしったら……」
日向子は立ち上がるなり、ミトンをはめ直しながらとてとてとキッチンに走って行った。
玄鳥はそれを呆然と見送り、それから部屋に残った人物を見やった。
「なんだ綾、結構平気そうじゃねェか」
呑気な口調で評する実兄に、忘れていた左側頭部の痛みが一気に蘇った気がした。
「そうか……またこのパターンか……」
ライブ中に昏倒した玄鳥が、日向子のマンションで目を覚ますまでの空白の時間はこうだった。
結局メンバーの手で楽屋まで運ばれた玄鳥は、完全に意識を手放しており、顔色は蒼白だった。
駆け付けた日向子まで青ざめてしまったほどに。
しかし、最初あれだけ取り乱していた紅朱も、他のメンバーたちも意外と冷静な態度だった。
「……いつか倒れるんじゃないかと思ったよ」
と万楼が呟く。
「最近かなり無理してたっぽいしね~?」
蝉が溜め息まじりでそう言うと、その傍らで有砂が呆れ顔で口を開く。
「……マッド・ギタリストめ」
日向子は思わず誰にともなく尋ねた。
「玄鳥様……そんなにご無理をなさっていたのでしょうか?」
「ああ。当人も自覚してなかったろうがな」
代表するかのように紅朱が答えた。
「綾はバンドマンのくせに、普段やたら早寝早起きだし、三度のメシもきっちり摂って、規則正しい生活してやがる。
それが一旦練習や作曲活動にのめりこむと、文字通り寝食忘れて熱中しちまうとこがあってな」
「まあ、真面目な玄鳥様らしいですわね……」
日向子がそう言うと、
「確かに真面目な奴だケド、それとはまた違うかも」
蝉が苦笑いする。
「なんかもう、取り憑かれちゃってま~す、ってカンジ?
集中力マックスの玄鳥見たら、多分日向子ちゃん引くと思う……怖いんだって、マジで」
随分大袈裟な物言いだと日向子は思ったが、誰一人それを否定する者もフォローする者もなく、一様に「なんか今怖いもの思い出しちゃった」という顔をしていた。
紅朱は嘆息する。
「近頃は別件でも頭の痛い問題があって、対策を練ったりしてたしな……そんな時くらい他は手ェ抜きゃいいんだが……言っても聞かねェんだよ、このバカ」
紅朱は少し苛立って見えた。
「こんなことになっても、起きたら普通に練習し始めそうだよね、玄鳥」
万楼が苦笑いをしながら言うと、有砂は、
「いっそしばらくギター触れない環境に隔離したらどうや?」
涼しい顔でわりと過激な提案を投げかける。
「ああ、案外そりゃいいかもな」
紅朱は意外なほどあっさりとその提案を採用した。
「誰か3日くらいこいつ引き取れ」
「ボクのところは無理だよ。狭いから」
万楼が真っ先にそう主張し、
「……これ以上やかましいんが増えるなんて冗談やない」
「……ってことなんで、うちもちょっとな~……紅朱んとこ連れてけばイイじゃん? 可愛い弟なんだから」
同居コンビも難色を示した。
紅朱はきっぱりと
「嫌なこった。面倒くせェ」
情け容赦もなく拒否した。
「俺の生活習慣に朝から晩までダメ出ししやがるに決まってる」
結局全員が引き取りたがらないのでは、仕方がないかと思ったせつな……。
「ではわたくしの部屋に来て頂きましょうか?」
日向子が当たり前のように口にした言葉に、一同騒然となった。
「こっこら! 日向子ちゃん! きみは女の子なんだから簡単に男を部屋に泊めちゃダメっ!! 絶対ダメ!!」
「うん。ボクもあんまりよくないと思うよ……お姉さん」
蝉と万楼はかなり真剣に反対し、有砂でさえも、
「……本気か?」
と眉根を寄せた。
だが紅朱だけは、
「いや、いいんじゃないか」
ためらいもなく賛同した。
「女が相手ならわがまま言わずおとなしくするだろうし……日向子んとこのマンションは確か結構広かったよな?」
「はい、全く問題ありません」
「大アリだよ!!」
綺麗にハモる蝉と万楼、有砂の溜め息もすっかり無視して、日向子と玄鳥の三日間同棲生活がここに大決定した。
「綾を頼むな? 日向子」
「はい! わたくしにお任せ下さい」
《つづく》
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