「……どうして、今日は雪乃ではありませんの?」
 その朝に日向子を迎えに来たのは、釘宮家の古株の使用人・小原(オハラ)だった。
 小原はつい最近白の面積が黒の面積を追い抜いてしまった頭をかいて、言いにくそうに告げる。
「まことに急なことではございますが、本日より日向子お嬢様の送迎は私が任せられることとなりまして……」
「……雪乃に、何かあったのですか?」
「はい……とは、申しましても、けして悪いことではなく……むしろ喜ばしいことかとは思うのですが……」
「どうぞもったいぶらず、おっしゃって?」
 日向子が先を促すと、小原は顔を引き締めて、改まった口調で答えた。
「昨夜、旦那様が漸様を釘宮家の正式な後継者にご指名されました」
《第8章 迷宮の果てで、もう一度 -release-》【1】
「雪乃が……釘宮の後継者……」
 それは小原の言葉通りの、実に「喜ばしい」知らせだった。
 雪乃は幼い頃から釘宮の後継者になるべく教育を受け、努力を重ねてきたのだ。
 むしろ認められるのが、遅すぎたくらいだと日向子も思う。
 だがあまりにも急な決定であった。
 雪乃は年内にも公の場で正式な後継者としての襲名を行うこととなる。
 年が明ければすぐに高槻の携わる事業や役職を順に引き継いでいかなければならないため、今は釘宮邸で各種手続きや最終的な打ち合わせに追われている筈だ。
 もう日向子の世話にかける余裕はないし、またその必要もない。
 後継者として世界中を飛び回って仕事をするようになれば、顔を合わせることすら年に数度ということになりかねない。
 もう雪乃とゆっくり話をするチャンスはほとんどなくなってしまう。
 心の準備のできていなかった日向子には、それは寂しすぎる現実だった。
 デスクに向かい、昨日の紅朱と玄鳥への取材の件を原稿に起こそうとしても、キーボードの上に置かれた指はかろやかに動いてくれそうもなかった。
 なんだか、身も心も重く感じる。
 溜め息がもれる。
 こんな時には決まって「どうしたの?」と声を掛けて相談に乗ってくれる美々も、今は不在だ。
 まるで何かから逃れようとするかのように、前にも増して忙しく働く美々はデスクにいつかなくなっていた。
 日向子はノートパソコンの傍らに置かれた携帯電話を見やった。
 あんなにも頻繁にメールを送ってきていた万楼から、今日は一通も届いていない。
 こちらから送ってみようかとも思ったが、もし練習に集中しているなら邪魔になってしまうかもしれない。
 そう考えると出来なかった。
 同じように結局話を聞けずじまいの有砂のことも気になるのだが、昨夜はだいぶ機嫌が悪そうだったので、もう少し待ってから連絡したほうがいいような気がしていた。
 あまりにも筆が進まないので、日向子は原稿を書くのを諦めて、ノートパソコンを閉じる。
 昨日の取材の後、ラーメン屋で食事していた際、紅朱と玄鳥は翌日も同じスタジオで二人で曲作りをすると話していた。
 来たければ来てもいいとのことだったが、あまり毎日顔を出してもやりにくいのではないかと思い、遠慮してしまっていた。
 そうなるとそこへ行くのも躊躇われる。
 なんだか世界に一人取り残されたような孤独感を感じて、たまらなくやるせない。
 ふと思う。
 普段はなんとなく距離を置かれているような気がするけれど、辛くてたまらない時には、まるで全てを見透かしたようにいつも突然現れて、心を軽くしてくれる人のことを。
「そういえば蝉様は……どうしていらっしゃるのかしら?」
 あの笑顔がなんだか恋しくなって、日向子は携帯電話を手に取った。
――……ちゃんと、見に来てくれとったんや……
――何ゆうてるの? 約束してんから当たり前やないの
――……ん、ああ……そう、やな。……で、どうやった?
――そらもう、めっちゃよかったで
――ホンマに……?
――お前はうちの自慢の子やな……有砂
――……有砂?
――ホンマにかっこよかったで、有砂
――……オレは、佳人やで? ……母さん
――佳、人……?
――……母さん……?
――うちには、佳人なんて子はいてへんよ
「……っ」
 有砂は、無機質なデフォルト設定の着信音で目を覚ました。
 今が何時なのか、いつの間に眠っていたのかもわからないが、ダイニングテーブルに突っ伏したまま夜を明かしたようだ。
 目が覚めてからも有砂はしばらくそのままの姿勢でぼんやりしていた。
 過去という名の夢の余韻に捕まってしまっていた。
 すぐ近くでずっと、携帯電話が鳴っている。
 有砂の携帯の音では、ない。
「……おい……鳴ってるで……」
 半分覚醒しきっていない頭で、呼び掛ける。
「……やかましいから……はよ出ろ、アホ……」
 万が一「間違えて」もいいように、全く同じ機種で全く同じ着信音に設定して、二つ使い分けている……この携帯の主。 
「……蝉……?」
 不意に、霞んでいた意識が覚醒する。
 ゆっくりと身体を起こして、着信音の出所を探した。
 すぐに判明する。それは、テーブルの脇のゴミ箱の中から響いていたのだ。
 点滅するランプが、携帯を包み込むかのようかぶさったウイッグの毛束の隙間から、チカチカとオレンジ色の光を発する。
 有砂はその光景を見つめて、思わず額に手を当てた。
 そう。
 蝉は携帯に出ることはできない。
 ここにはもう、いないのだから。
「……蝉様でいらっしゃいますか? わたくしです。日向子ですわ」
 長い長い呼び出しのコール音が途絶えた途端、日向子は思わず早口で告げていた。
 しかし、返ってきた声は蝉のそれではなかった。
《……お嬢》
「まあ……有砂様」
《……悪かったな、オレで》
 やはり有砂の声音は不機嫌そのものだ。
「いえ、そのようなつもりでは……ご気分を害されたのでしたら申し訳ございません」
《……別にええ。こっちはすでにこれ以上ないくらい気分最悪やからな……》
「あの……何か、あったのですか?」
 日向子はおずおずと尋ねる。
 下手な発言をすると有砂はそのまま無言で電話を切ってしまうのではないかと思った。
 有砂はしばし間をおいて、溜め息を一つついて答えた。
《……蝉の奴が、出ていきよった》
「まあ、またですの? スノウ・ドームへお帰りになっておしまいですのね」
《いや……》
「携帯電話も置いて行ってしまわれたのですね。あちらは電波が入りにくいですから、必要ないのかもしれませんけれど……」
《……そやなくて》
「きっとすぐに戻られますわよ」
 どうにか口を挟もうとしている有砂に気付かず、日向子は笑って告げた。
「もうすぐカウントダウンライブですもの……少なくともそれまでには必ずお帰りになりますでしょう?
heliodorが次のステップへ進むための、大切なイベントですものね」
《……それは》
「でも……」
 日向子は携帯電話を握った指先にキュッと力を込める。
「……寂しい、ですね?
蝉様がいらっしゃらないと……」
《……》
 有砂は少しの間、沈黙した。
 そして、 
《……まあ、少なくとも……》
 吐息の混ざったかすれた声が呟く。
《……この部屋は……オレ一人には広すぎるな……》
「後継者の指名式は二週間後、12月24日に行うことになった」
 「彼」は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。年内に……などと身勝手な申し出を致しまして、先生には大変なご迷惑を」
「私は構わんが、お前のほうは本当に大丈夫なのか?」
 革張りの椅子の肘掛けに肘をつき、頭をもたげた姿勢で、高槻は斜めに「彼」を見上げた。
 「彼」は頷き、応える。
「式で披露する曲はほとんど完成しておりますので、当日までには万全の状態に致します。ご心配には及びません」
「……その話ではない」
 高槻は目をすがめる。
「……本当に、軽音楽には見切りがついたのか?」
「はい」
 「彼」は顔色一つ変えず、完璧な無表情で即答した。
「全てほんの一時の、気の迷いでございましたので」
「……そうか。ならばよいが」
「……それでは私は、取り急ぎ披露曲の準備に入りますので失礼致します」
 「彼」はまた深く頭を下げてから、くるりと書斎から廊下へ続くドアへと踵を返した。
「漸」
 その背中に高槻がもう一つ問いを投げる。
「……眼鏡はもうかけなくていいのか?」
 「彼」は上体だけを軽くひねって振り返る。
「はい。もう、必要がなくなりました」
 そしてもう一度会釈程度に頭を下げて、「彼」高は槻の書斎を後にした。
 広い廊下を歩き、エントランスに続く吹き抜けの階段に差し掛かったところで、
「漸様……いえ、これからは若旦那様とお呼びするべきですね」
 階段を下から上にやってくるところだった、小柄で白髪まじりの頭の品の良さそうな初老の男が呼び止めてきた。
「小原……例の件はお嬢様にお伝えしたか?」
「いえ……それがまだでございまして……」
「何をしている」
 淡々とした口調で言い放つ。
「私は朝のうちにお伝えしろと言った筈だが?」
「……しかし若旦那様、お嬢様はお迎えが若旦那様でなかったことに落胆しておられまして……追い討ちをかけるようなことを申し上げるなど……」
「小原」
 「彼」は気持ち語気を強めて小原を見下ろしながら言った。
「これからも釘宮家で働くつもりなら、私の命令には間違いなく従ってもらう」
 小原は一瞬唖然としたが、元々皺の多い顔に更に皺を寄せ、目を伏せた。
「……それは、心得ておりますが……あまりにもお嬢様がお気の毒です。
若旦那様の襲名式に併せてご婚約を発表などと……何故そのようなことを旦那様に進言なされたのですか?」
「お嬢様のご婚約は先生も切望しておられたこと。お相手は先生がお選びになるのだから、家柄も人格も申し分ない男性に相違ない」
「しかしっ、あのお嬢様がそれを『はい、そうですか』と受け入れる筈がありませんでしょう?」
 おしめをしている頃からこの家の令嬢を見てきた小原にはそんなことはわかりきっていることだ。
 もちろん、「彼」もわかっている。
「反発して、本格的に釘宮を出奔するならそれもよしということだ」
 一片の感情すら覗くことのない「彼」の瞳は、雪の結晶のように冷たく澄んで、何の曇りも存在しない。
「……どちらに転んでも、釘宮日向子をこの家から排斥出来ればそれでいい」
 語る言葉には、いささかの迷いも躊躇もない。
「……何故そのような、ことを……」
 小原は悲しそうに頭を左右に振った。
「……お嬢様は、若旦那様を慕っておいでです。かようなお言葉をお聞きになったら、どれほどお嘆きになるか……」
 悲痛なその訴えですら、もはや「彼」を揺らすことはない。
「……それがどうした?」
 オレンジのウイッグを捨てた「彼」は「蝉」ではない。
 眼鏡をかけなくなった「彼」は「雪乃」でもない。
「つつがなく釘宮の全てを手にしてしまえば、もはや彼女に取り入る理由はない……むしろ目障りだ」
 「釘宮漸」なのだから。
《つづく》
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