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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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「蝉、いつ帰って来るのかなあ」

 万楼は綺麗な顔を少し歪めて溜め息をつく。

 カウントダウンライブまで、あと二週間を切っている。
 未だに五人揃って練習が出来ていないことに、焦りを感じていたのは万楼だけではなかった。

 スタジオに集まってはみても、なんとなくモチベーションが上がらず、手応えも得られないのは無理もない話だ。

「……確かに、そろそろリミットかもな」

「四人ではもうやれることをやりきってしまったような感じだし」

 紅朱も玄鳥も、もはや蝉抜きでの練習には大して意義がないことをとっくに悟っていた。

 だが蝉がいずれ必ず戻って来ることを前提に考えている彼らとは、一線を画している男もいる。

「……後でオレが、蝉の様子を見てくる」

 有砂が口を開く。

 三人は明らかに驚きの表情で見やった。

「え、お前がか?」

「有砂さんが積極的に行動するなんて、なんて珍しい……」

「ダメだよ二人とも、あんまり言うとまたへそ曲げちゃうから」

 言いたい放題の仲間たちに、有砂が嫌味のひとつでも返そうとしたその時。



「すいません。お邪魔します!!」










《第9章 嘘つきな彼等 -play-》【1】











 スタジオの入り口からひょっこり顔を出した人物を見て、4人はそれぞれ全く違う反応を示した。

「……誰?」

 初対面の万楼は首を傾げ、

「え、あの時の……?」

 一度たまたま遭遇していた玄鳥は驚き、

「よう、久しぶり」

 普通に面識のある紅朱は気さくに声をかけ、

「……なんや、どうした?」

 有砂は何故かほんの少しばつが悪いような顔をしている。

「日向子が急に来れなくなっちゃったから、約束のヤツをあたしが代わりに持って来たんだけど……あ、万楼さんと玄鳥さんは一応ハジメマテ、ですよね」

 モデルばりの美女はにっこり笑って告げる。

「蓮芳出版『RAPTUS』編集部の井上美々と申します。日向子の親友で、あと……そこで恥ずかしがってる人の、妹です♪」

「なっ……誰がや、アホ!」

 思わず半分立ち上がりかける有砂を、他3名は振り返り、今度は全員同じ反応を示した。


「妹……っ!?」


 メンバーたちは一様に愕然とした表情で叫んだ。

「えッ、有砂って兄妹いたの!?」

「え、えッ……だってこの前はなんか険悪な雰囲気で……」

「前会った時は全然そんな話してなかっただろ!?」

 大騒ぎする3人に、美々は苦笑して見せる。

「……ついこの前まではちょっとだけ、兄妹喧嘩してましたから。……ね?」

 同意を求められた有砂は、溜め息をつきつつも無愛想な顔を上下させた。

「……ちょっとだけ、な」

「そうそう。それで、日向子が仲直りのお祝いにってケーキ焼いてくれて、皆さんでどうぞってことらしいんで持って来たんです」

「ケーキ!?」

 数秒前までプチパニック状態だったのに、一気にテンションの上がる万楼の前で、美々はテーブルの上にケーキの箱を乗せて、オープンする。

「じゃじゃーん☆」

 ホワイトチョコレートでコーティングされた5号サイズのホールケーキの上には、ゼリー掛けのカットフルーツがほとんど隙間なく埋めつくされて、更に三種類のクリームでデコレートされている。

「わあ」

 宝の山を見つけたかのようなキラキラの目をした万楼の横で、浅川兄弟は若干青ざめていた。

「……これ、いくらなんでも……凄過ぎねェか? 見てるだけで胸焼けしそうなんだが」

「あ、兄貴、失礼だろ? ひ、日向子さんのお手製だぞ?」

「お前も引きつってんじゃねェかよっ」

「……いや、それは……だから……」

「あー……すいません、あたしがめちゃめちゃ甘くしてって頼んじゃったから……じゃあこれは三等分かなあ」

「三等分??」

 美々が箱にしっかり入れられていた使い捨て出来るケーキナイフを手にして、手際よく3つに切り分ける。

 一般的なショートケーキの二倍以上の体積があるそれらを、これも持参してきた紙皿三枚に取り分けていく。

「すごいなあ、中が三層になっててシロップ漬けのフルーツが入ってる」

 万楼が断面を眺めながら更に興奮した様子で実況する。

「万楼さんは絶対気に入ると思いました。……味もイケてる筈ですから」

 皿からはみ出さんばかりのケーキの巨塊が、プラスチックのフォークを添えられて万楼に手渡され、

「はい」

 有砂にも回ってきた。
 有砂はそのスウィート・モンスターを凝視したまま固まっている。

「いや、そりゃ有砂には……」

「絶対無理だと思いますけど……」

 浅川兄弟は口々にそう言ったが、美々はケーキの皿を手にしたまま微動だにせず黙っている有砂を見つめて、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。
 そして、

「ええんよ、佳人」

 自身長年封印していた、両親や兄と同じ言葉で囁きかける。

「……あたしも食べるから、あんたも食べ」

 有砂は美々を見やると、無言で頷いた。

 「え? まさか」と思っているギャラリーの目の前でフォークを握った有砂はケーキの鋭角の部分をストッと切り落として、フォークをつき立てると、そのまま口に運んだ。

 一同が固唾を飲んで見守る中、有砂は無表情なまま、一言も声を発することもなく、そのままもくもくとケーキを端から順に片付けていく。

「ねえ、どういうこと? 有砂って甘い物嫌いじゃないの?」

 万楼の問いに、美々が答える。

「ううん。あたしが好きなものは、大体佳人も好きだから」

 言いながら美味しそうにクリームの塊を掬って口にする。

「あたしたち、甘い物は大好きだよ」

「でも有砂、甘い物なんて全然食べてなかったし、ボクが横で食べてるのだって、いつもすごく嫌がって……」

「……食べたくても我慢、してたみたいですから」

 美々はほんの少し、長い睫毛が縁取る目を伏せる。

「甘い物が食べたくても、食べさせて貰えなかった女の子に遠慮して、食べられなかったらしいです」

 有砂は一瞬フォークを握る手を止めて、何か遠い記憶を心に浮かべるような顔を見せたが、すぐにまた黙ってケーキを食べ始めた。

「……よくわかりませんけど、ようするに」

 玄鳥が苦笑いしながら言った。

「万楼は知らず知らずにいつも有砂さんを拷問にかけてたわけだ」

「ええっ、ごめんね、有砂が我慢してるなんて思わなかったから……!!」

 有砂は驚異的な速度で完食したケーキの皿をつ、と万楼に差し出した。

「悪かったと思うんやったら、それを半分」

「えっ、ダメだよ。これはボクの分!」

「半分」

「嫌だ」

「半分」

「嫌だってば!」


「……くっ、まさかリズム隊のケーキの奪い合いを見れる日が来るとはな」


 紅朱はそのあまりにも微笑まし過ぎるやりとりに思わず吹き出した。

「……ところで日向子はどうしたんだ? 急な用事とか言ったよな」

 それはみんな内心気になっていたらしく、四人とも美々のほうへ視線を向けた。

 美々はその視線を受けて、何故か少し困ったような顔をした。

「実は今日、大変な事件がありまして……実家に抗議しに帰っちゃったんですよね~」
















「これは一体どういうことですの!?」

「……品のない大きな声を上げるんじゃない」

「声も大きくなるというものですわ。お父様は一体何のおつもりですか?」

 日向子は書斎の革張りの椅子に身をもたげた実父・高槻に飛びかかかるほどの勢いで問いつめる。

「あんまりですわ、職場の上司に勝手に、わたくしが婚約するなどとでたらめを報告なさるなんて……!!
いつの間にかわたくしが寿退社するなどと噂が広まってしまって、大変な事態ですのよ!!」

 高槻は高音で響く抗議の訴えに頭が痛いような顔をしていたが、

「婚約の準備が進んでいるのは事実だ。24日に後継者の指名と同時にお前の正式な結納も執り行う」

 あっさりと言い放つ。

「そのようなことは、わたくしは聞いておりません……! 第一どなたと婚約しろとおっしゃいますの!?」

「お前の嫁ぎ先は私が決める。間違いのない相手を選ぶから何も心配はいらない」

「わたくしの生涯の伴侶をお父様がお決めになるなんて、納得できませんわ!!」

 いよいよヒートアップする日向子に、高槻は厳しい表情を緩めることなく問掛けた。


「よもや……誰かすでに将来を誓いあった男がいる、などと言うのではないだろうな?」


 予想もしない問いに、日向子は、

「え?」

 素に返って驚いてしまう。

「どうなんだ?」

 ダメ押しとばかりに問われ、日向子は思わず、


「……は、はい、そうなのです……!」


 と、答えていた。

「……なんだと?」

 高槻の眉間に通常より4本余計に深い深い皺が刻み込まれる。

「……どんな男だ??」

「す、素敵な方ですわ……!」

「どういう家の生まれで、どういう仕事をしている男かと聞いているんだ」

「それは……あの……」

 答えに窮してしまう。しばしのにらめっこを続けた後、高槻は溜め息をついて、言った。

「明日、ここに呼びなさい。実際に会って、ふさわしい相手かどうか私が見極める」

「そんな、明日などと……先方にもご都合というものが……」

「お前との将来より自分の都合を取る男ならばそれまでだろう。見極める必要もない」

 高槻の発言はかなり理不尽ではあったが、一概に否定出来ない部分もある。

 本当に日向子に真剣に交際している恋人がいるとすれば、黙っていられる状況ではないだろう。

 ただ残念なことにこの場合は日向子のとっさのハッタリに過ぎないのだが。


「……話は終りだ。私には取り急ぎの仕事がある。もう行きなさい」

 ……などと言われて一方的に書斎を追い出された日向子は、ドアを背にして深く深く溜め息をついた。

「……一体、わたくしはどうしたらいいのかしら……」


 心に決めた相手ならば、いる。

 伯爵……高山獅貴だ。

 だが将来を誓いあうなどとは程遠い……10年以上直接会ってすらいない相手だ。

 もちろん明日、この屋敷に呼ぶなどという真似ができるわけがない。

 仮に呼んだとしても、高山獅貴とはある種の遺恨のある高槻が結婚を許すとは到底思えないが。

 絶望的な暗い気持ちになり、マンションに帰る気力もないので、とりあえず今夜は実家で過ごすことに決めた日向子は、重い足取りで自室に向かう。

 最後の角を曲がったところで、

「……あ」

 ばったりと、出くわした。

「……雪乃? 雪乃ですわね。眼鏡をかけていないから一瞬わかりませんでしたわ」

 仕事中なのかスーツ姿の彼は、涼しい眼差しで日向子を見下ろす。

「……何か、御用でしょうか?」

「ずっとお祝いを言いたかったの。おめでとう、雪乃」

「……恐縮で、ございます」

 彼のいつもと変わらぬ丁寧な言葉には、しかしこれまでにはけっしてなかった凍りつくような冷気が含まれていたが、日向子は気付いていない。

「……そうだわ、雪乃。あなたからお父様にお考えを改めるように進言して頂けませんこと?
わたくしはまだ婚約など……」

「いいえ、ご婚約はして頂きます」

 日向子が雪乃と呼ぶ青年は、キッパリと言い切った。

「私としてもあなたには、釘宮の籍から外れて頂きたい」

「……雪乃?? それは、どういう……」

「あなたは十分、私の役に立って下さいました。感謝しております……ですが」

 日向子は瞳を大きく見開いた。

 その瞳に映る青年は、ひどく酷薄な笑みを浮かべていた。

「……今後、釘宮を名乗るのは私一人でいい。
……言っている意味が、わかりますか?」


 彼の名は、「釘宮 漸」。


「……家族ごっこは、もう終わりました」
















《つづく》
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「……はい、では、おやすみなさいませ」

 終話ボタンを押して、日向子は1つ、吐息をついた。

 ものの数分ではあったが、美々と電話で話したことである程度気は紛れた。

 美々に託したお手製ケーキの評判は悪くなかったそうで、浅川兄弟も一口ずつは食べてくれたようだった。

「……蝉様にも、食べて頂きたかったですわね」

 また溜め息が漏れる。

 ガウンを羽織っても、冷たい空気が肌を刺すような二十日月の夜。

 噴水庭園を臨むバルコニーの寒々しい景色は、いつかのパーティーの夜を思い出させる。

 ここから見えるあの場所で、蝉とダンスしたのだ。今思い出しても夢のような出来事だ。

「……蝉様なら……こんな時、なんとおっしゃるかしら」










《第9章 嘘つきな彼等 -play-》【2】












 朝、朝食の席に高槻や漸が同席することはなかった。
 多忙な高槻が一緒に朝食をとることはもともと少なかったが、漸のほうはそうではない。

 実家にいた頃は早起きが苦手な日向子を起こすところから、職場に送り届けるまで、特別な理由がない限り漸はいつも一緒だった。

 その日々を、昨夜漸は「家族ごっこ」と言った。


 家族ごっこは終わりなのだと……。


 結局食事はろくに喉を通らずに、早々に退席した日向子を、

「お嬢様」

 小原が呼び止めた。

「お嬢様、申し訳ございません。ご婚約の件は私からお嬢様にお話し申し上げるよう、漸様にきつく申しつけられておりましたものを……どうしても切り出せず、返ってお嬢様を驚かせてしまいましたようで」

 白い頭のベテラン使用人のあまりにもしょぼくれた様子に、日向子は首を左右して微笑んで見せた。

「……確かに驚きましたけれど、遅かれ早かれいずれはこうなるのはわかっていましたもの」

 避けては通れないのだ。

 相応の家に嫁ぎ、平穏無事に生きることこそ日向子の幸せと信じる、頑固な父親との戦いは。

「小原、心配してくれてありがとう……けれど、表立ってわたくしをかばうことはなさらないでね。
あなたにはこれからもこの家を支えて頂きたいから……」

「お嬢様……」

 わかっている。

 二択なのだ。

 父の決めた相手に嫁ぐが、あるいは……全てを捨ててこの家から逃げるか。

「お嬢様、どうぞ、思い余った行動を取られませぬように……まだ、チャンスがございます」

「……チャンス?」

「はい、本日お見えになるお嬢様の交際相手の男性が旦那様のお目に留まるようお祈りしておりますので」

「まあ」

 漸のことばかり考えてすっかり忘れていたが、そういえばそんな話をしていた。

「では……今朝から屋敷の使用人たちがバタバタしているのは、もしや……」

「もちろん歓迎の準備にございます。旦那様のお言いつけでそれはもう念入りに……」

「お父様……!」

 日頃はあまり察しが良いとは言えない日向子だが、流石に実父の考えはある程度読むことができた。

 高槻はわざと盛大な歓待をするつもりなのだ。

 免疫のない中流以下の男なら萎縮して逃げ出したくなるような……。

 最終的にはうろたえている男の鼻先に大枚の手切れ金でもつきつけて帰らせるつもりなのだろう。

 もっとも最初からはったりで言ってしまっただけのことなのだから、この準備は無駄になるだろうが。

「……お嬢様、お顔のお色が一段と優れないようですが……」

「……わたくし、ちょっとお部屋でピアノを弾いてまいります……」

 日向子は心の中で、期待させてしまった小原や他の使用人に謝罪しながら自室へと向かう。


 部屋に戻って少し心を落ち着けたら高槻ともう一度話そうと思った。

 それでらちがあかないようなら、選択する。

 運命の二者択一。

 それに思い巡らせながら廊下を歩いていると、

「……あ」

 けして狭くはない屋敷だというのに、何故遭遇してしまうのだろうか。

「雪乃……」

 動揺する日向子と違い、漸は顔色一つ変えず、形式だけの会釈をすると、そのまま無言で通り過ぎようとした。

「ねえ」

 日向子がそれを静かに呼び止める。

「……本当に、家族ごっこ……だったのですか?」

 漸は立ち止まるが、日向子のほうを見ようとはしない。

「……わたくしを騙して、利用していたと?」

 日向子は振り向かない背中に問掛ける。

「……それならばどうして、あなたのピアノの音は、いつもあんなに優しかったのですか?
たとえ言葉でいくつ嘘を列ねていたとしても、音楽は嘘をつかないのではなくて?」

「くだらないですね」

 漸は日向子に背を向けたまま、きっぱりと言い放つ。

「……父親にあっさり見限られる程度の凡才のあなたが、音楽がどうのとこの私に説くなどばかげています」

「でも……っ」

 更に言い募ろうとした瞬間、急ぎ足で近付いてくる靴音が耳に届いた。


「……お嬢様!」


 今しがた別れたばかりの小原がいささか興奮した様子で飛んでくるのが見えた。

「お見えになりましてございます!」

「……はい?」

 首を傾げる日向子に、小原は先程の言葉につくはずの主語を口にした。

「お嬢様の大切なお方にございます。さあ、早く応接室へ」

「え……?」

 何のことやらさっぱりわからない日向子だったが、小原にせかされるまま応接室へと向かうよりなかった。

「……どうなっているのかしら……?」















 日向子の姿が見えなくなると、小原は未だ興奮冷めやらぬ様子で呟いた。

「しかし、お嬢様のお相手がまさか……まこと不思議な巡り会わせでございます……これも奥様のお導きか……」

 まだ立ち去っていなかった漸はいぶかしげにそんな小原を見やった。

「……どんな男だ?」

 







「使用人の教育がなってへんのちゃうか? ……お嬢」

「……はあ」

「人の顔を見るなりみんなで大騒ぎしよって、いたいけな小市民がいきなり問答無用でご令嬢のフィアンセにされてもうてるわけやけど」

 当然だが、全ては小原たちの勘違いだった。

「申し訳ありません、有砂様……」

 そう、応接室で待っていたのは有砂だったのだ。
 
 話によれば屋敷の門の前に近付くや否やありえない数の使用人に取り囲まれ、名を名乗って(無論本名のほうである)日向子は在宅かと尋ねただけで勝手に勘違いされてしまっていたという。

「特に白髪のオッサンがなんやエライテンション上がってもうてたけど、一体どういうわけや? これは」

 日向子は「申し訳ありませんでした」ともう一度謝罪し、ことの次第を説明した。

「……ある程度の事情は聞いとったけど……それはまた、難儀なことやな」

「そうですか……美々お姉さまから聞いていらっしゃいましたのね。……もしかして、わたくしを心配して来て下さったのですか?」

 日向子の問いに、有砂は一拍間をおいて、

「そう、や」

 と答えた。

 日向子も一拍空けて、

「……ではないとするとなんでしょうか」

 と返した。

「……ん?」

「わたくしは、これでもheliodorの番記者ですから」

 本当に真実を突いていたならば、有砂の性格上絶対にあっさり肯定しない筈だということくらいは、もう日向子にもわかっている。

「本当の理由を追求されると面倒なことになるから、そういうことにしておこう、と思われましたのでしょう?」

 自信たっぷりに尋ねる日向子に、有砂はふっと小さくシニカルな笑みを浮かべた。

「……まあ、否定はせんけど」

「うふふ、当たりましたわね」

 日向子は予想が当たったことが嬉しくて、思わず微笑した。

 その微笑を眺めながら、有砂はふっと笑みを打ち消した。

「……心配、してへんこともないけどな」

「え?」

 日向子は更に言葉を重ねようとしたが、それを遮るように応接室のドアがノックされた。


「お嬢様」

 ドアの向こうから小原の声がする。

「旦那様と漸様がいらっしゃいました」


 日向子は一瞬びくっと肩をすくませて、有砂の顔を見た。

 有砂は真意を読み取り難い表情を浮かべながらも、

「……本当のことを話すか? それともオレは『そういう』設定がええんか?」

「……え? えっと」

 日向子にはっきりと返事をする間も与えず、ドアは開け放たれてしまっていた。

 いかにも気難しい顔をした初老の男が、そしてスーツ姿の青年が順に入室する。

 最後に小原が姿を見せ、

「当家の主人・釘宮高槻様、そしてその後継となられる釘宮漸様にございます」

 と、有砂に向けて紹介する。
 席から立ち上がった有砂は、ごく当たり障りのない口調で、

「……沢城、佳人……と申します」

 と名乗り、

「……初めまして」

 と最後に付け足した。

「……初めまして。沢城、さん」

 漸が淡々とした口調で顔色一つ変えずに返す。

 有砂は一瞬、目をすがめたが、何もなかったようにそれを消し去った。


 高槻はしばらく黙ったまま有砂をしげしげと見つめていたが、

「……まあ、座りなさい」

 そう短く促した。


 有砂と日向子、高槻と漸。2対2で向かい合って席につくと、すぐに入れたてのお茶と、お菓子が運ばれてくる。

 甘い香りを立てるテーブルの上で、さまざまな思惑と緊張感が交錯していた。

 アールグレイの水面に視線を落として何かを考え込んでいるような有砂。

 一言も声を発せず、お茶にもお菓子にも手をつけないまま対面の客を凝視する高槻。

 それに倣うように沈黙を守ったままの漸。

 日向子は三人を交互に見やりながら、

「あの」

 最初に沈黙を破った。

「……お父様、雪乃、この方は……」

 テーブルの下。真実の告白をしようとした日向子の、膝に乗せていた小さな手を大きな手が覆うようにして握った。

「っ、あり……」

「ご挨拶が大変遅くなり、申し訳ありません」

 日向子の告白を制した有砂が、はっきりとした口調で告げる。

「すでにお聞きの通り、私は現在、日向子さんとお付き合いをさせて頂いています」

「ええっ……」

 思わず叫びそうになる日向子の手を、有砂は更にぎゅっと力を込めて握る。

「……ぶしつけですが、単刀直入にお願い致します。
お嬢さんとの結婚を、認めては頂けませんでしょうか」

 真剣な表情で高槻を見つめる有砂の横顔を、日向子は完全に絶句しながら見つめていた。

 その向かいでは、漸が同じように驚きの色を微かに浮かべる。

 有砂はそんな漸をちらりと見て、また高槻に視線を戻した。

「……佳人君、と言ったな」

 高槻がゆっくりと口を開いた。

「……君のお父上は、知っているのかね?」

 有砂は首を縦にした。

「はい。父も日向子さんのことをそれはもう……大変気に入ったようで」

 確かに気に入られていたことは間違いなかった。

 日向子の脳裏に先日のアトリエでの一件が蘇る。

 あまりありがたい気に入られ方ではない。

 日向子は有砂がどういうつもりなのかわからず戸惑い、そして何より心配していた。

 眉間に深く皺を刻んだまま目をつぶった高槻は、その目を開けた瞬間どう出るだろうかと。

 たとえ怒ってもいきなり手を出すことはないが、相手の全人格を否定するほどの辛辣な台詞が飛び出すかもしれないし、手切れ金を叩きつけて追い返すかもしれない。

 漸も、そして当の有砂でさえも実際はそう考えていたのだ。

 しかし。

 高槻は両目を開くと同時に、聞き間違えようもない言葉を口にした。


「よろしい……認めよう」

 有砂は言葉もなく眉尻を動かし、そのまま固まった。

「……は?」

「お父様、今……」

 ぽかんとする日向子。

 そして漸は完全にポーカーフェイスを打ち砕かれ、

「……先生……!…」

 思わず立ち上がった。

「……一体、どういうことですか!?」











《つづく》
「君のお父上……秀人くんには大きな借りがある」

 高槻が言った。

「彼がそう望むならば、娘を沢城家に嫁がせることに異存はない」

 誰もが耳を疑う言葉だった。

「……父に、借り……ですか?」

 さしもの有砂も驚きを露にしている。
 どうやら秀人は日向子の母、水無子と面識があった(本人曰く元カレ)らしいということは知っていたが、高槻とも関係していたとは思っていなかった。
 それは日向子も同じだった。

「……お父様……お話を、詳しくお聞かせ頂けませんこと?」








《第9章 嘘つきな彼等 -play-》【3】











 高槻の語る因縁は、日向子が誕生する以前にまで遡るものだった。

 看護婦だった水無子を見そめて婚約した高槻だったが、周囲の水無子に対する風当たりは相当なものだったという。

 水無子は高槻に恥をかかせまいと努力してはいたが、生まれ育ちの違いによる偏見もあいまって、社交の場でも明らかに浮き上がってしまい、陰でこそこそとさげすまれ、嘲笑されているような状況だった。

 そんな折に、気鋭の若手デザイナーとして名を上げつつあった秀人との出会いがあったのだという。

 秀人は水無子の美しさを絶賛し、自ら水無子の装飾品やドレスのプロデュースを買って出た。

「……最初は他人の婚約者に下心を持って近付き、色目を使うけしからん輩と思ったものだが」

 高槻の言葉に、若者たちは皆内心「それは実際その通りだったに違いない」と思ったが、それを口に出来る空気ではなかった。

「秀人くんが、自身の新しいブランド名を水無子の名前から取って名付けたこともあり、周囲の評価は随分と暖かいものになっていった」

 沢城秀人のブランド……「SIXS(シックス)」。

 それは六月生まれであることに由来する「水無子」という名前から発想されたものだった。

 秀人の実子で、そのブランドとかつて専属モデル契約を結んでいた有砂でさえも知らなかった事実だった。

 「元カレ」は冗談にしても、実際水無子と秀人は因縁浅からぬ関係であったと知り、日向子も心底驚いていた。

 高槻はさらに続ける。

「しかし秀人くんとは十年以上前に絶縁状態となっていた。
ある出来事から、交流を続けると迷惑がかかるから、と向こうから連絡を絶ったためだ」

 ある出来事……恐らくは、沢城家の双子の悲劇のことだろう。

 マスコミにセンセーショナルに書き立てられる渦中の一家と懇意と知れれば巻き込まれかねない。

「私は当時も彼への借りを返すために尽力したいと考えていたが、協力出来たことといえば、彼の家族のために完全にマスコミをシャットダウンできる隠れ家を紹介したことくらいだ」

 漸と有砂は同時にはっとしていた。

 少し遅れて日向子も思いいたった。

「スノウ・ドーム……?」

 有砂をスノウ・ドームに入所させるよう手引きしたのは高槻だったのだ。

 少年たちの出会いはただの偶然ではなかった。














「よう。ご立派やな。見違えたで」

「……」

 夕刻、漸が一人になるのを見計らって、有砂はその背中に声をかけた。

 漸は自室のドアにかけた手を戻し、ゆっくりと振り返った。

「……何故、あんな嘘を?」

 睨むような眼差しで問う。

「……嘘?」

「お嬢様と、付き合っているなんて……」

「嘘やないで」

 有砂は薄く笑い、即座に切り返す。

「お嬢とはもう、随分深い仲やし」

「……まさか」

「証明をお望みなん?」

 チャリ、と軽く金属がこすれる音を立て、有砂はポケットから小さな鍵を引っ張り出した。

 鍵には、漸にも見覚えのある月の形をしたキーホルダーがついている。

 高山獅貴のファンクラブ限定ライブのグッズだと……聞かされている。

「それは……彼女の部屋の」

「合鍵。もうほとんど同棲みたいなもんやから」

 意表をつく小道具を提示されて、漸は思わずうろたえていた。

「っ……」

「そんなに驚くこともないやろう? お嬢かてガキと違うんやで……あいつ、脱がせてみたら案外ええ身体つきしとるしな」

「お前……!」

「別に、遊びで抱いてるわけちゃうんやからええやろ。親御さんにも結婚の了承得たしな」

 漸は一瞬沸騰しかけたある種の感情を必死に沈静化させようとするように唇を噛んだ。

「それなら……お前は、お前のしたいようにすればいい。
しかしどうする? いくら恩人の子だと言っても、先生はバンドマンとの結婚はお許しにはならない」

 言い放つ漸に、有砂はあっさりと答える。

「バンド……? もちろん、辞めるで」

「な……?」

「オレは釘宮家に婿入りして事業のいくつかを任せてもらうつもりや……お前が引き継ぐ筈のな。
バンドなんて続けるより、ずっと安定したええ暮らしが出来るやろうな」

「黙れ……っ」

 漸は、恐らく考えるよりも先に有砂の襟首に掴みかかっていた。
 掴みかかられた有砂は、苦痛に顔を歪めながらも余裕の笑みを絶やさない。

「……なんで怒るんや? ジブンかて目的のためにバンド捨てたんやろ?」

「っ」

 ひるんだ漸の手を掴んで、引き離す。

「この手はもうクラシック以外弾かへんのやろ? お嬢のためにハンドル握るこもない……」

 有砂の淡々とした言葉は、1つ1つ鋭い針となって漸に突き刺さる。

「……正直、このまんまひねり潰したいくらい腹立っとんねんで」

 漸は深く息を吐き出すと、突き刺さった針を振り払おうとするかのように、鼻先に笑みを浮かべる。

「……成程、そうやって動揺を誘う魂胆なわけか。
悪いけど、無駄だよ」

 冷たい声音で告げながら、有砂の手をふりほどく。

「お前が言う通り。おれは自分の目的のために何もかもを切り捨てた。
どうせならば釘宮家の全てを手に入れる……そのためにはお嬢様には他家に嫁いでもらうほうが都合がいい。
……お前がお嬢様とどんな関係でも別に構わない。
だけど、おれの邪魔はするな」

 鋭い視線を残して、漸は自室の中へと消えて行った。

 残された有砂はしばらく閉ざされたドアを見つめていたが、不意に、小さく笑った。

「……ホンマに、難儀な男や」










 ドアを背にした漸は立ち尽くしたまま、額に手を押し当て、うつ向いていた。

「……何もかも予定通りにはいかないもんだな」


 吐き捨てるように呟いて、フラフラと窓際の机に歩み寄る。

 書きかけの譜面が散らばった机の上には、シンプルな木製の写真立てで飾られたセピア色の写真がある。

 古い小さなピアノの前で撮った、父と慕う人との写真。

 ピアノという生き甲斐を与えてくれた人。

「だけど……ためらいなんて、もう許されない……」









 書架で半分隠れた窓から西日がさしこんでいる。

 日向子がこの釘宮家の一階奥の書庫に足を踏み入れるのは、学生時代以来だったが、常に整頓されて綺麗に埃を払われているのは相変わらずだ。

 探し物を見つけるのも簡単だった。

 表紙がビロードで飾られた古いアルバム。

 日向子がこの世に誕生する前の写真を集めたアルバムだ。

 在りし日の母・水無子、まだ今よりはずっと穏やかな雰囲気の高槻、フサフサした黒髪の小原。

 そして、有砂と見間違えてしまいそうな秀人の写真もそこにはあった。

 更には……伯爵・高山獅貴の姿を収めたものも。

 秀人が高山獅貴と同じデザインのコートを着ていたのは、両者の間に交流があった……あるいは現在進行形で交流があるという可能性を示唆している。

 世界は広いようで本当に狭いものなのだと、実感せざるをえない。

「それにしても……どうして有砂様はあのような……」

 嘘をついたのだろうか?

 後で理由を問いつめた日向子に、有砂は真面目な顔をして囁いた。

「悪いが、しばらく、オレの嘘に付き合うてくれ。……どう転んでもお嬢を不幸にはせんから」

 すぐには理由を話すつもりがないらしい。

 12月の夕暮れはあまりにも短く、気が付けば窓の外は漆黒の闇だった。

 時の流れが速い。

 一日があっという間に終わってしまう。

 流されるように。

 追い立てられるように。


 アルバムを元の場所にしまって書庫を出ると、微かだがピアノの音が聞こえてきた。

 屋敷の中で日向子以外にピアノを奏でる人間は二人しかいない。

 高槻は午後から出掛けたまままだ戻らない。ということは……。

「雪乃の部屋……」

 久々に聞く、彼の弾くピアノの音色。

 本当に久々の筈なのだが……何故か、あまりそんな気がしない。

 もっと最近、どこかでこの音を聞いた気がするのは何故だろうか。

 それにしても今日の旋律は、せつない響きだ。

 心の内側に何を秘めたらこんなふうにせつない音が鳴るのだろう。

 二度も冷たく日向子を突き放した人……それでも……。

 日向子は小走りで書庫の中に舞い戻った。

 暗い部屋に灯りをつけて、先程と同じ書架の前に立ち、年月日とシリアルナンバーのついた背表紙を人指し指でたどり、何冊かをまとめて引っ張り出す。

 それは、日向子が雪乃と呼んできた人物がこの屋敷に来てからの記録。

 写真好きだった水無子が亡くなってからはぐっと枚数が減ったが、かわって小原が折りを見て撮ってくれたものが残っている。

 幼い頃から、彼はあまり笑顔で写っていない。
 いかにもな作り笑いを除いては、いつもはりつめたような真面目な顔で写っている。

 あまりに無邪気だった少女時代の日向子にはわからなかったが、彼のような出自の人間が釘宮家の一員として生きるためには、大変な苦労があったのかもしれない。

 かつて蝉から「雪乃は保身のために日向子に取り入ろうとしたのかもしれない」と言われた時には怒って「そんなことはない」と否定した。

 だが実際は、そうだったのかもしれない。

 日向子の知らないところで彼は苦悩し、自分を偽り、戦ってきたのかもしれない。

「わたくしは……雪乃のこと、本当は何も……何も、わかっていないのかもしれない……」

 こわばった顔の彼の横で、日向子はリラックスしきった眩しい笑顔や、少し甘えたような幼い顔、時には泣き顔や寝顔……さらけ出して写っている。

 だが「雪乃」という少年の素顔を、日向子は知らない気がした。

「……家族ごっこ……だったのかもしれない」


 けれどそれでも、長方形に区切られて並んだ思い出の数々は、愛しく、尊い。その「家族ごっこ」は日向子にはかけがえのない日々だった。

 秀人の別段善意ではなかったのだろうちょっとした気まぐれに、高槻が深く感謝しているように……相手の気持ちがどこか別にあっても、それで救われる人がいる。

 本当に大切なのは自分が相手をどう思っているか……かつて蝉から教わった大切なことをもう一度思い出す。

 日向子はぎゅっとアルバムを抱き締めて、目を閉じた。













「雪乃」

 絶えず鍵盤の奏でる音が漏れ聞こえる部屋のドアをノックした。

 ピアノの音が、止まる。

「……部屋から出て来なくてもいいから。聞いていて」

 少しだけ声をはって、ドアの向こうにしっかり届くように、日向子は言った。

「ごめんなさい」

 あふれる感情で声が震えないように、必死に堪える。

「ずっとずっと、家族ごっこしてしまってごめんなさい。
もう遅いかもしれないけれど、わたくしは……あなたと本当の家族になりたいです。
それが叶わないとしても」

 拒絶されてもいい。

 ただ伝えよう。

 伝えなければきっと後悔する。


「ずっと側にいてくれて、ありがとう。
幾つもの思い出の中にあなたがいてくれることが、わたくしの幸いです」


















 沈黙した白と黒の世界へ音もなく雫が落ちる。

「ねえ……なんで……キミは……おれを楽にしてくれないの……?」











《つづく》
「本当に、一体どんな奴なんだ……日向子さんの婚約者って」

「婚約者じゃないよ、玄鳥。婚約するかもしれない人、でしょう?」

 スタジオの駐車場に降り立った年少組は、美々の口から明かされた日向子の婚約騒動な一夜明けても当然のように興奮気味に話していた。

 今日練習の見学に来る予定の日向子の意思を一応確認した上で、場合によっては妨害作戦を練らなくてはと昨夜も万楼の部屋でさんざん語り合い、そのまま今日も二人でここへ来たのだった。

「どっちだっていい。どうせろくでもない奴に決まってるさ」

「なんで決まってるの? 案外いい人で、お姉さんも気に入っちゃうことだってありえるよ?」

「……まだ日向子さんに会ってもいないのに婚約話を進めるような相手がいい人だと思うか?」

「ああ、そっか」

 首を大きく上下する万楼。玄鳥は、すぐ近くに駐車されていた白のセダンを見やって、独り言のように呟いた。

「そんなどこの誰とも知れない奴に日向子さんを持っていかれるくらいなら……まだ有砂さんにかっさらわれるほうがマシだよ……」











《第9章 嘘つきな彼等 -play-》【4】











 珍しく一番最後に到着した玄鳥と万楼は、スタジオ入り口のロビーの椅子に座って、何やら難しい顔をしているバンドのリーダーに遭遇した。

「おはよう、リーダー。なんで中に入らないの?」

「有砂さんも来てるんだろ?」

 あっけらかんと声をかける二人に、紅朱は何故かかたい表情を浮かべたままだ。

「兄貴?」

「……なあ、お前ら」

 低いトーンで、問う。


「日向子の奴、結婚……しちまうかもしれねェぞ?」

 あまりにも衝撃的な発言に、他二人は完全にポカンとしている。


「あいつもう来てて、それで聞いたんだ……昨日のこととか、婚約者こととか……したらな、あいつ何て言ったと思う?」




「あの……どうなってしまうのやらわたくしにもまだわかりませんけれど……けしてわたくしを不幸にはしないとおっしゃって下さいましたから、今は信じてお任せしておりますの」



「え」

 目を丸くしたまま綺麗にハモる玄鳥と万楼に、紅朱はにわかに立ち上がった。

「お前ら、これって、どうなんだ!? 俺には結構マンザラでもないので前向きに検討中、って意味にしか聞こえねェ……!」

「確かに……ボクにもそういう解釈しか……」

「そんなわけない!」

 玄鳥だけがキッパリと否定する。

「日向子さんは口の巧い男に言いくるめられて、騙されてるんだ……絶対!」

「……ねえ玄鳥」

 そんな玄鳥とは反対に、万楼はすぐに冷静さを取り戻していた。

「気持ちはわかるんだけど、そうやって決めつけるのってどうかと思う……」

「万楼……?」

 確かに言っていることはかなり正論だったが、玄鳥は、

「お前は……もうあきらめるのか?」

 思わず問い返した。

 万楼の様子は、夜の公園でライバル宣言した時とは全然違う。

「わからない。でもボクには口出しする権利なんかないよ」

 万楼が日向子に対して消極的になってきていることはわかっていた。
 理由も聞いた。

 忘れていたとはいえ、他の女性を好いていた自分が、日向子を好きになってしまったことに対する自己嫌悪。

 そして、自分の本当の気持ちがどちらにあるのかはっきり掴めない自己疑心。

「……お姉さんが誰かと結婚、って考えるとせつなくはなるけどね……」

「万楼………」

「それに……お姉さんはぼんやりしてるところもあるけど、案外頭のいい人だと思う。
いい人と悪い人の区別くらいはつくと思うし、本気で嫌だと思ったらちゃんと自分で逃げ出す筈だよ。
そうなったら、その時にボクたちが支えてあげればいいんじゃないかな」

「……なかなかいいこと言うじゃねェか」

 黙って聞いていた紅朱が感心したように口を開いた。

「流石は、日向子の弟分だな」

「え、ボクって弟分だったの?」

「違うのか? いつも『お姉さん』って呼んでなついてんだろ?」

「兄貴……」

 ここまでの会話の流れをふまえても相変わらずわかっていない兄に、もはやかける言葉もない玄鳥。

 しかし万楼はふっと、微かに笑みを浮かべた。

「弟……か。それもいいかな……」













 その日の取材が終わると、日向子は迎えに来た小原の車でまた実家に帰った。

 また書庫に行って、昨日見ていたアルバムの続きを見るつもりだったのだが、三分と経たないうちに日向子はすぐに書庫から飛び出した。

「……これは、どういうこと……?」

 良家の令嬢にも関わらず廊下を駆け出した日向子は、角を曲がる時に向こうから来る相手とぶつかりそうになった。

 漸だった。

「……何事ですか? 屋敷の中を走り回るなど非常識ではありませんか」

 相変わらず冷たい反応の漸だったが、日向子はそれどころではなく、焦った口調で問う。

「ねえ雪乃、書庫にあったアルバムがどこへ行ったか知らないかしら? 昨日まで確かにありましたのに……」

「ああ、あれでしたら今朝私が処分させましたが?」

 あっさり返ってきたショッキングな言葉に、日向子は半分我を忘れて、漸の両腕をひしっと掴んだ。

「どうして……!?」

「……書庫が手狭になってきたので、不要な物を処分しただけですが、いけませんか?」

「あれは不要な物などでは……!!」

「ああ、そうですね。少し早まったことをしたかもしれません」

 漸は、ほとんど涙目で見上げる日向子を見下ろして冷笑する。

「もうすぐあなたの部屋が空くのですから、そこを第二書庫にしてしまえばこと足りますね」

「っ」

 頭の中が空白に溶けてしまったようだった。

「……不要……あなたにとってはそうなのかもしれないけれど、わたくしにはかけがえのないものでしたのよ……?」

 ぎゅっと掴んだ両手に力を込める。

「……そんなの、あんまりですわ……!」

「……離して頂けますか? 私にはやるべき仕事が山ほどありますので」

 言いながら日向子の手をほとんど力任せにふりほどいた。

 うつむいて、ついにすすり泣く日向子の脇をすり抜けて、靴音が遠ざかる。

「……雪、乃……っ」

 振り返って名前を呼んでも答えはなく、こちらを見ることすらしない。

「思い出を抱き締めることすら……許してくれないの……?」


 抜け出したと思っていた失意が再び日向子を捕えていた。

 とめどなく涙があふれてきて、視界はぼやけていく。


「日向子」


 失意に沈みかけた意識を呼び戻すかのような、威厳のある声が呼び掛ける。

「日向子」

 二度目。日向子はゆっくりと振り返った。

「……お父様」

 いつ見ても厳しい顔をした父親が、いつからそこにいたのか、日向子を見つめていた。

「……顔を洗ったら私の部屋に来なさい」

 短く促され、その有無を言わさない口調に、日向子はしゃくり上げながらも反射的に頷いていた。














「かけなさい」

 座るだけでお金を取れそうなほど高級な革のソファに座った日向子は、紅茶を置いて退出して行った小原を労うと、向かいに座った父親に視線を戻した。

 高槻と日向子が向かい合って二人きりでお茶を飲むのは、実際十年以上ぶりだった。
 和やかな雰囲気などは皆無だったが、それでも日向子は不思議と落ち着きを取り戻していく自分に気付いていた。

「……日向子」

 やがて高槻はゆっくりと切り出した。

「お前も釘宮の人間ならば他愛ないことで一々取り乱すものではない」

「……けれどお父様」

「写真など、漸が手放したものに比べれば全く他愛もない」

「……え?」

 言われている意味がわからずに、何も返答出来ない日向子。

 高槻は続けた。

「漸はお前を遠ざけたいのだろう。お前が側にいる限り、あれは手放したものを忘れることができないだろうからな」


「手放したもの……?」

 高槻は一度押し黙り、それからまた少し角度の違う話をし始めた。

「……釘宮の後継者となることは並大抵のことではない。私とて、生まれたその日から周囲の多大な期待と重圧を受け、幾度も苦しんだ。
何度逃げたいと思ったか知れない」

「お父様が、ですか?」

「そうだ。それほどに釘宮の名前は重い。
周囲から後継となる男子を養子にするように強く勧められた時も、私はひどく懐疑的だった。
生まれた時から釘宮である私にとっても重荷だったものを、他家に生まれた子供が果たして背負いきれるのか」

 高槻もまた、釘宮という名前をその父親から受け継いだ身……その高槻が語る言葉にはとてつもない深みがあった。

「漸と同じくらいピアノの素質がある子どもはたくさんいたが、漸ほど芯の強い、肝のすわった子どもは他にいなかった。
あれに、どうしても釘宮の後継者にならなくてはならない『目的』があることには気付いていたが、そんなことはどうでもいい。
ただ並々ならぬ覚悟の元で、子どもらしい素顔を隠して釘宮の人間になろうと必死に努力している漸に、私は全てを譲りたいと考えたのだ」

 日向子の脳裏に、初めて漸に会った時の朧気な記憶が蘇る。
 上手に名前を呼べなくて、困らせてしまったあの時だ。
 大人びた声と表情は、しかし実は緊張で微かに揺らいでいたような気がする。

「とはいえ、若者はとかく葛藤するものだ。
思春期を経て世界が広がれば、もっと他の可能性を模索したいと感じることもある。
……だから私は、漸が成人し、決意が固まるまでは正式な養子縁組をしないことにしたのだ」

 日向子は正直心の底から驚いていた。
 頭が固く、厳しいばかりのワンマンで時代錯誤な父親だとばかり思っていた人は、こんなにも深い考えを持って漸を見守ってきていたのだ。

「そして漸は今、釘宮を背負う茨の道を選んだ。
……それ以外の可能性を手放すことに未練はないようなことを言ってはいるが、本心ではないだろうと私は思う」

「……雪乃には、他に何か進みたい道があるのですか……?」

 かつてそんなことを何気無く雪乃に聞いたことがあったが、その時は何も言っていなかった。

 言ってくれなかった。

 胸がきゅっと締め付けられる。

「雪乃は、わたくしにはいつも本当のことを何も話してくれなかった……。
本当は優しい人でも、ひどい人でももう構わないから、あの人の本当の気持ちが知りたいです……。
……今からでも知りたいと思うけれど、もう何もかも遅すぎるかしら……」

「取り乱すなと言ったばかりだ。未熟者めが」

「あ……」

 高槻の言葉は厳しかったが、今は何故か優しく聞こえる。

 亡き母はよく高槻の優しいところが好きだと話していて、日向子にはそれが不思議でならなかったのだが、少しだけわかった気がする。

 高槻は強く、厳しくあろうとしているのだ。
 
 「釘宮」という役割を果たすために。

 その生き方は、深紅の髪をしたあの青年とどこか似ている。

「……『そういうキャラで売って』いますのね」

「……なんだそれは」

 いぶかしげに眉間に皺を寄せる高槻に、日向子は微かな笑みを向けた。

「……お父様と同じ……わたくしが泣くと怒る人のことを少し、思い出してしまって」

 いよいよいぶかしそうな高槻に、日向子は本格的にクスクス笑いを浮かべる。

「……もう泣きません。写真を失っても、思い出が失われるわけではありませんもの。
雪乃が捨てるというなら、雪乃の分もわたくしが抱えてゆきます。
……忘れたりしません」










 書斎のドアの前に封筒を携えた青年が立ち尽くしていた。
 ノックをするために緩く握っていた拳をきゅっと固め、下に下ろす。

 封筒を持つ手にも力がこもり、くしゃりと潰れた。

「……先生……お嬢、様……」

 呟きは、かすれて、消える。

「……そう、だね。この曲じゃダメだ……」














《つづく》
「楽しくない……」

 溜め息混じりの呟きがもれる。

「男の衣裳見立てるなんて、パパはちっとも楽しないで~、佳人~」

「やかましいオッサンやな……この間の件をホンマに反省しとんやったら黙って協力したらええねん」

「はいはい……わかりましたぁ。
まあ、やるからには完璧に仕上げますケド~?
ほんならキミたち、こっち来て」

 子どものようにむくれる中年男と、その息子の傍らで居心地悪そうにしていた三人は不意に促されて顔を見合わせ、揃って頷いた。

 とりあえず、致し方ない。

「有砂のパパ、よろしくね」

「どうぞお手柔らかに」

「とっとと頼むぜ、若作りのおっさん」


「……佳人、僕この赤いの嫌い」

「ええからとっととやれ」








《第9章 嘘つきな彼等 -play-》【5】










「お麗しいですわ、お嬢様」

 十ほど年上のメイドが感嘆の悲鳴を上げた。

「まるで奥様が蘇ったかのようですよ」

 日向子は感慨深く、鏡の中の自分を眺めていた。
 バロックパールをあしらったプリンセスラインの黒いドレス。
 実際、こんなドレスを着た若いころの母親の姿を写真で見せてもらったことは何度もある。

「わたくしよりお母様のほうがずっと綺麗でしたわよ」

「まあ、そんなにご謙遜なさらなくともよろしいではありませんか。
ああ、そう遠くない日に今度は純白のウエディングドレスを着たお嬢様を見られるなんて……まるで夢のようですわ」

「はあ……」

 日向子は明らかに戸惑った表情を見せたが、テンションの上がっているメイドは気付くことなく、鼻唄まじりにアクセサリー選びを始めていた。

 なんとも落ち着かない気分になってしまう。

 このドレスは、アトリエでのことへの謝罪を兼ねて秀人が今日のためにと言って贈ってきたものだ。

 一体秀人はどこまで知っているのだろう。
 まさか本当に沢城家に嫁ぐと思っているのではないだろうか。

 それ以前に気になるのは有砂の真意だった。

 今日の夕刻、式は始まってしまう。あと数時間しかない。
 釘宮高槻の後継者の指名と、釘宮家令嬢の婚約を発表するための式だ。

 有砂には何か考えがあるのだとは思うが、万が一このまま有砂と正式に婚約することにでもなってしまったらどうしよう……という不安が頭を去来する。

 別に有砂が嫌だというのではない。

 だが、こんな形で将来の結婚相手がいきなり決まってしまうのは困る。

 何より。

 日向子の心の中にはまだ「伯爵」がいる。

 「伯爵」への思慕は未だに揺るぐことなくここにあるのだ。

 こんな気持ちを抱いたまま誰と結ばれることができるだろうか?












「どうも、大変ご無沙汰を致しまして」

「ああ、息災のようだな」

「ええ、おかげさまで」

 実際に親しげに挨拶を交す二人を見るまで、有砂は内心どこかで疑っていたのだが、真実二人は友人と呼べる関係のようだった。

 高槻と秀人。まるでタイプの違う二人が、肩を並べている様は何とも不思議な光景だった。

「あいにく到着がギリギリになってまうんやけど、あとで僕のハニーちゃん紹介しますね♪」

「懲りん男だな、君は……」

「ええ、僕には恋が必要なんです。常に恋をしてへんと、僕のイマジネーションの泉は枯渇してまうんですよ。……ねえ、みんな? そうやろ」

 振り返った先には一目で「SIXS」製とわかる独特なデザインの黒いフォーマルウエアを着た三人の青年が立っていた。

 赤毛と黒髪に白いメッシュと、ピンクがかった白金の髪の三人はそれぞれに何とも複雑な表情を浮かべながら、

「……はい、先生のおっしゃる通りです」

 前もって言われた通りの言葉を口を揃えて答えた。

「彼らは……?」

 高槻の問いに、有砂が答えた。

「父のアシスタントです。今日は勉強のために同行していますが、邪魔にならないようにしますから、どうぞお気になさらずに」









「あ」

 小さく声を上げた。

 身支度を整えて、式の会場に向かう途中、日向子はまたしても彼と鉢合わせてしまった。

「雪乃……」

 アルバムの一件以来、一度も顔を合わせていなかった。
 式で披露する曲の制作にかかりっきりでろくに部屋から出て来なかったからだった。

 数日ぶりに見た彼の顔には疲労の色がくっきりと見て取れる。

 無言のままにすれ違おうとした瞬間、ほんの少しその身体が不自然に傾げた。

「雪乃……!」

 とっさに支えるように腕に触れていた。

 すぐに振り払われるかと思ったが、それはなかった。

「……雪乃、疲れているのでしょう?
 まだ式までは時間があるわ、お部屋でお休みになってはいかが?」

 彼は相変わらず表情の変化に乏しい面を、わずかにふせた。

「……お気遣いなく」

 そっと、日向子の手に自身の手を重ね、静かに腕を離させる。

「……雪乃」

 頼りない足取りで遠ざかっていく姿を見送って、日向子は今ほんの束の間彼に触れていた手を見やった。

 あの綺麗な手から「温もり」を感じたのはとても久しぶりだった。
 一瞬の触れ合いで感じた、戸惑うほどの優しさ。

「わからないわ……雪乃。あなたはわたくしを……本当はどう思っているのですか……?」











「……有砂のパパって本当に面白い人だね」

「え、面白いかな……? 俺はちょっと、いや大分苦手だけど」

「な~にが、『僕の機嫌損ねたらすぐに退場やからね~♪』だ。調子に乗りやがって。
おい有砂、あいつなんとかしろよ!!」

「……帰ってもええよ。お嬢が心配やないんやったらな」

 なかばコスチュームプレイの様相を呈したheliodorの面々が、一人を除いて釘宮邸の一室に集っていた。

 沢城秀人のアシスタントという設定は、有砂の提案だった。

 確かに怪しまれずに潜り込むにはいい作戦かもしれなかったが、少なくとも紅朱と玄鳥は不満をのぞかせていた。

「……だいたいなんで有砂さんが日向子さんの恋人なんですか!?」

「せやから説明したやろう? ただ『反応』を見たくてゆうただけの冗談のつもりやったって。
……まさかあっさり許可されるとは思てへんかったけどな」

 実際有砂は『彼』が動揺するかどうか見たかっただけだった。そのあとは、今のは冗談だと言うつもりだったのだが……。

「……だったら俺がその役、やりたかったんですけど……」

「え~、玄鳥には無理だよ」

 万楼が笑う。

「玄鳥は役者に向いてないもんね。バカ正直だから」

「う」

 確かに人よりかなり嘘の下手な玄鳥は何も言えなくなってしまった。

 今日とて見破られてしまうのではないかとかなり神経をすり減らしているほどだ。

 あの見るからにおっかない釘宮高槻の前で、日向子の恋人を装うことなどとても出来そうにない。

「……で、どうなんだ有砂。そろそろ本当のところを教えろよ」

 気の毒な弟をよそに、紅朱はゆっくりと問掛ける。

「……日向子と、『あいつ』はどういう関係なんだ。偶然たまたま同じ名字でした、なんて馬鹿なことは言わねェだろうな?」

 有砂からメンバーに語られていたのは真実の断片。

 森久保は母親の旧姓、日向子の本当の姓は「釘宮」であるということ。

 日向子の婚約が発表される場に、必ず蝉がいるということ。

 そして、そこで蝉は何らかの答えを出すということだった。

「……悪いが」

 有砂はきっぱりと返した。

「オレの口から全てを話す気はない」

 いぶかしげな面々を見渡して、更に続ける。

「黙って見ていれば真実は自ずと判明する……どんな形にせよ、な。判明した後にどうするかは各自の自由や」

 有砂のいつにない毅然とした雰囲気に、メンバーたちは押し黙った。

「……あの男は何年もの間さんざん嘘をついて、さんざん秘密を作って、さんざん悩んで、さんざん苦しんだ。
せやから、最終決断はあいつがするべきやと思う。
それであいつが……二度と帰って来なかったとしても」














 すっかり日が落ちたというのに小さな灯り一つ灯らない暗い部屋の中で、青年がベッドの上に横たわっていた。

 今日の式の主役の一人だった。

「……ん……」

 浅い、とても浅い眠りから目が覚める。

 それでも丸一日も眠っていたかのように、とても頭の中がすっきりしていた。

 自分がするべきことがクリアに見えている。
 最後の迷いが打ち払われていた。

 もう今度こそ揺れることはない。

「……おれは、弾く……あの曲を」

 小さく呟いて、ゆっくりとベッドから起き上がった。




 運命の時が今訪れたのだ。










 日向子は、高槻の隣に座って視線を純白のテーブルクロスに落としていた。
 着々と式が進行するにつれ、日向子の心臓はその高鳴りを強くしていった。

 ちらりと有砂や秀人のいるテーブルを見やったが、有砂は落ち着いた表情で、式の進行を見守っているばかりだ。

 その近くに立っている(予定外のゲストのためテーブルが用意されていなかったようだ)、何故だかどこかで見たことのあるような三人組の存在にも気付いていたが、ゆっくり確認するだけの心の余裕が日向子にはなかった。

「日向子」

 高槻が口を開く。

「あまりそわそわするな。みっともない」

「……すみません、お父様……」

「……いよいよ、漸が出てくる。ちゃんと見ていなさい」

「……ええ」

 確かに、自分のことで頭がいっぱいになっているとはいえ、漸の晴れ姿はやはりしっかりと見ておきたいし、見ていなければいけないと思った。

 漸はホワイトタイで正装し、彼のために用意された舞台の上に姿を現した。

 漸がどういう経緯で釘宮家の後継となるに至ったか、会場内に知らない者はほとんどいなかったが、堂々とした歩みで颯爽と現れた漸は、生まれながらの名家の令息だと言われても疑う余地がないほど立派なものだった。

 肉眼で日の光を見上げるかのような眩しさを感じながら、日向子は漸をじっと見ていた。

 ゲストたちに向けて深く礼をした漸が頭を上げた時、ほんの一瞬だけ視線がぶつかった気がした。

「……!」

 その一瞬、漸は微笑していた。

 日向子に向けて確かに微笑んでいた。

 見たこともないような……けれど初めて見たのではない、そんな笑顔だった。

 ……誰かに似ていた?

 でも誰に……?


 困惑している日向子の前で、漸はゲストたちの拍手と品定めのような数多の視線を一身に受けながらピアノの前に座っていた。

 日向子の横で舞台を見上げる高槻の眼差しにも力がこもる。

 やがてゆっくりと、最初の指が最初の鍵へ。

 踊るように動く10本の指は、奏でていく。

 それはせつなく。

 それは優しく。

 それは独創的で。

 そして日向子と、他の何人かにとっては驚愕に満ちた旋律だった。



「これ……この曲は……」


 ピアノソロとして、大幅なアレンジを加えられてはいるが、軸となるメロディは全くそのままだ。

 全くそのままの、




「……Melting Snow……?」












《第10章へつづく》
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