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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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 二人は見つめていた。

 右側のモニターに映っているのは「heliodor」。

 日向子がこれから一生、見守っていくと決めたバンドだ。

 左側に映っているのは「BLA-ICA」。

 高山獅貴がその全てを賭して作り上げたバンドだ。

 太陽の国と月影の国。

 深紅のともしびと、漆黒のはばたき。

 2つの世界を、2人は眺め、感じていた。










《第12章 君に光が射すように -Love Songs-》【4】









「……いかがです? 私のBLA-ICAは」

「……凄いと、思います」

 日向子は左のモニターと左側の音に注意を向ける。

 BLA-ICAは確かに凄い。

 玄鳥と粋という、かつてheliodorを支えた名プレイヤーの力量は言うまでもなく、ドラムのうづみもheliodorのコピーをしていた頃より遥かに腕を上げている。
 そしてボーカリストの望音の透明感のあるボーカルは、彼女の持つ独特の雰囲気と合わさって、不思議な世界を織りなしていく。

 聞く者を魅了する、まるで悪魔に魔法をかけられたような、そんな歌だ。


「……けれどheliodorも負けてはいませんわ」


 右側のモニター。
 heliodorのステージはなにもかもBLA-ICAとは対照的だ。
 BLA-ICAが妖しく人々を誘う誘蛾灯なら、heliodorは力づくで引き寄せる磁石のようだ。

 ほとばしる熱と、力強い旋律……単純に言えばほとんど女性のみで構成されたBLA-ICAより、男性バンドのheliodorのほうがダイナミックに感じられる……ということかもしれない。

 だがそれが強力な磁力を発揮するまでに至るのは、heliodorの四人が本物の実力を持っている証だろう。

 高山獅貴は、ロゼのスパークリングワインを傾けながら、呟いた。

「もちろん……わかっています。heliodorは素晴らしい」

 別段皮肉で言っているわけでもなく、本心からの言葉のようだった。

「私がこんなことを言うのは意外かな」

「……ええ、少しだけ」

 日向子が素直に答えると、伯爵は小さく笑った。

「《玄鳥》というギタリストをここまで育てたのは間違いなく《heliodor》ですよ……私は、《浅川綾》に人並以上の特別な才能があったとは思っていない」

「……え?」

 いよいよ耳を疑う言葉をつきつけられ、日向子は高山獅貴を凝視した。

「ですが……玄鳥様は伯爵様と鳳蝶様の……」

「父親が名ピアニストなら娘も名ピアニストになれるとは限らない……だろう?」

「それは……」

「才能のある者同士を掛け合わせたら、更なる才能が生まれる……そんなくだらない夢物語をいい大人が本当に信じるわけがない。
……死を前にした人間は別だったがね」

 日向子はすっかり唖然とし、言葉を失っていた。
 玄鳥は、不治の病に犯された天才ギタリストの才能を引き継がせるために作った子ども……紅朱はそう信じていたし、伯爵自身も肯定していた筈だった。

「……俺は信じてなどいなかったんだよ、レディ。
気休めでもいい。夢を見せたいと思っただけだ。無念を抱いて死ぬのではなく、最期の瞬間まで希望を持って強く生きてくれればそれでよかった」

 日向子の目には、冷え冷えとした氷の眼差しが微かに揺らいで見えた。

「鳳蝶だって本気で信じていたわけでもないのかもしれない……ただ何も残さず消えていくのが口惜しかったんだろう」

「……それが、玄鳥様の出生の……真の理由ですか?」

「エゴであることに変わりはないだろうがね」

 確かにそれは普通ではないし、勝手な都合には変わりないかもしれない。
 しかし遥かに人間らしい、情のある理由に思われる。

 恋愛という意味合いではないにしろ、高山獅貴という男がいかに自らのパートナーを愛し、大切にしていたかを伺わせた。

「……なぜ今までそのことを隠しておられたのですか?
10年前、もしも玄鳥様を引き取りたいと考えていらっしゃったのなら、本当の理由を話したほうが浅川のご家族を説得しやすかった筈……」

 それは以前から引っ掛かっていたことだった。
 本気で玄鳥を引き取るつもりがあったのなら、それらしい理由を並べて説得するべきなのに、伯爵はそうしなかったのだ。

 まるでわざと紅朱の神経を逆撫でるような言動で挑発した。

「まさか……」

 最後に玄鳥とした会話が日向子の脳裏に蘇る。


「わざと……そうしたのですか? あなたも……?」

 玄鳥がわざと事を荒だてるやり方を選んでバンドを抜けたように。

 高山獅貴は小さく笑った。

「……先程も言った通りです。《heliodor》こそが《浅川綾》……《玄鳥》をここまでのプレイヤーに成長させた」


 玄鳥はいつも紅朱の背中を追い掛けてきた。
 いつまで経っても追い付くことができず、越えることができない……一番近くにいる、最大のライバル。

 紅朱と一緒にいたからこそ、玄鳥は成長したのだ。

「……そして、紅朱様は伯爵様への強い対抗心を秘めて成長した……あなたに負けないために、強くあるためにと……」

「その結果、《heliodor》という素晴らしい力を持ったバンドが生まれた。
《BLA-ICA》がより高く飛翔するために、これほど相応しいライバルはいない」

 「ライバル」……その言葉を口にした刹那、高山獅貴の瞳に確かな熱を見た。

「鳳蝶は何よりもそれを求めていたが、俺では力及ばなかった……それは早すぎた死、以上の不幸だった……」

 面影を重ね合わせるように薄く細められた眼差しは、真っ直ぐに玄鳥を見つめていた。

「生まれてすぐに生涯のライバルと出逢った彼は、とても幸運だ」


 日向子もまた、視線を追うように2つのモニターを見つめた。

 曖昧になっていく。
 どこまでが策謀で、どこまでが偶然なのか。

 彼らを繋ぐ糸は様々な思惑、様々な願いに結びつき、誰も予想しなかったような運命を描き出していた。

 しかしこれは、彼らの望みが結実した、ひとつの結果なのかもしれない。

 遅かれ早かれ、避けることのできなかったイニシエーション。

 ふと、タイミングを合わせたように2つのバンドの音がほぼ同時に止んだ。


 ライブの演奏時間は公平に全く同じに決められている。
 あと一曲。残り時間からすればそれが限界だろう。

 そうこれは、どちらのバンドにとっても最後のMC。
 今まで演奏に時間を割くためにほとんどMCらしいMCはなかったが、ここでもあまり長くは話せないだろう。

 右のモニターの中。
 マイクスタンドに片手を乗せて、まるで瞑想するように、しばし目を閉じていた紅朱が、その目を開き、やがてゆっくり口を開いた。


『……弾きながら唄うってのは疲れるな』

 感触を試すようにギターのネックを握る。

『けど、やってよかった……俺にはやっぱり、このバンドは捨てられないってことがよくわかったからな。

 それに……どうしても唄いたかった唄があるからさ。

できれば5人で演奏したかったが……でも、この曲を作ったのは玄鳥だからな。
たとえここにはいなくても、俺たちの生み出すメロディの中には、いつだってあいつがいる』



 左側のモニターの中。


『……望音ちゃん、一言だけいいかな』

『……どうぞ』

 淡々と最後の曲を紹介しようとした望音を遮って、上手に立つ玄鳥がマイクを通して話し始めた。

『……俺は、《heliodor》というバンドを捨てて、たくさんの人を裏切りました……一番悲しませたくなかった人にも悲しい想いをさせてしまった。

選んだ道に悔いはないけど、ただひとつの心残りは……あの曲を……最後に作った曲を聴かせることができなかったことでした。

だから……メンバーのみんなに手伝ってもらって、最後にその心残りを、晴らしたいと思う』


 紅朱が告げる。

『最後の曲……聞いてほしい』


 玄鳥が言葉を紡ぐ。

『今夜だけ……この曲を弾かせてほしい』


 2人の声が同時にその曲の名を言う。



『《LOVE SONG》』



 同じ、曲!? ……日向子は思わず息を呑んだ。

 ほとんど同時に始まったイントロに、覚えのあるフレーズを見つけた。

 これはいつか2人が作っていた曲……幻になったheliodorのデビュー曲だ。

 封印されそうになっていたその曲を今、演奏しているのだ。

 《heliodor》と《BLA-ICA》が……。







《出会った頃のこと
 まだ覚えているなら
 なるべく早く
 忘れてほしい

 僕はとても弱くて
 その癖に取り繕って
 あまりにも必死で

 恥ずかしいから
 君は忘れていい
 かわりに僕が
 あますことなく
 胸に

 君がくれた雪解けの後
 春はすぐそこまで来ていて
 3つ目の季節
 生まれ変わった僕から
 優しい愛の唄を

 君に光が射すように
 明日は隣に
 いられなくても
 とめどなく 届け》













 《heliodor》と《BLA-ICA》。

 2つのバンドの決戦は、優しく伸びやかなラブバラードで静かに幕を下ろした。


 それぞれに最高のパフォーマンスを見せた2つのバンド、そしてそれを見届けた証人たちは、決戦の舞台となった2つのライブハウスの前に集まっていた。

 すでに一般の客は去り、スタッフも去り、完全に人払いされたそこは静寂に包まれている。

 客数の集計はすでに完了し、その結果はもう高山獅貴、そして日向子には知らされている。

「……そろそろ発表したらどうだ?」

 紅朱は、高山獅貴を軽く睨み付ける。

 相変わらず敵意に満ちた眼差しではあったが、満足のいくライブの後のためかどことなくすっきりしたような雰囲気がある。

 それは他のメンバーも同様で、《heliodor》《BLA-ICA》いずれも、わずかな高揚感を残しつつも、全てやりきったというような落ち着いた顔が並んでいる。

「では……発表は、彼女から」

 高山獅貴は静かに微笑し、促すように日向子に目で合図をした。

 全員に視線が注がれ、同じように全員の顔を眺めながら、日向子は、

「はい……発表します」

 震えそうになる声。
 労るように、傍らに立つ美々が、日向子の背にそっと手を当てる。

「……頑張って」

 親友からの励ましに頷き、日向子は大きく深呼吸した。

 そして……戦いの結果を告げる。


「僅差ですが……勝者は、《BLA-ICA》です」


 はっと息を飲む声が同時にいくつか聞こえた。

「……負け、たの?」

 万楼が呆然と呟く。

「……そんな……!」

 狼狽する蝉の横で、有砂は無言のまま舌打ちをする。

 紅朱もまた、無言で足元に視線を落としている。その表情は伺い知れない。


 一方の《BLA-ICA》も、その反応はさまざまだった。

 全く顔色を変えない望音。
 どこか複雑な表情で蝉を見つめるうづみ。

 粋は、優しく見守るような目でもう一人のメンバーを見ていた。

 もう一人のメンバー、玄鳥は呆けたような顔で立ち尽くしている。

 いつものようにシュバルツを肩に乗せ、撫でながら、望音が淡々と言葉を発する。

「……勝ったんですって。喜んだら? リーダー」

「……勝った? 兄貴に……俺、が??」

 どうやらまだ完全に状況を把握できていないらしい。

 勝者とは思えない戸惑った顔を見せる玄鳥に、望音が更に何かを言おうとした刹那、

「そうだ……俺の、負けだ」

 先に口を開いたのは、顔を上げた紅朱だった。

「兄貴……」

 別々の道を選んで離れた兄弟が、久々に目と目を合わせ、言葉を交わした瞬間だった。












《つづく》
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「負けは、潔く認める」

 紅朱はキッパリとした口調で告げた。

「……その上で、あえて頼む。

帰って来てくれないか?……綾」


「兄貴……」

「4人じゃ無理だとしても、5人揃ったheliodorなら、誰にも負けやしねェ……お前は、そうは思わないか?」

 驚く玄鳥。否、玄鳥に限ったことではない。
 紅朱の言葉はその場にいたほとんどの人間に波紋を投げかけた。

 誰の前でも頑なに強さを誇示してきた紅朱が、切実な声音で「懇願」したのだ。

「お前が必要なんだ……お前のギターで、俺は唄いたい」








《第12章 君に光が射すように -Love Songs-》【5】








「……そうだ、うん、そうだよ」

 万楼が口を開いた。

「玄鳥がheliodorいてくれたら、BLA-ICAにも絶対負けなかったよ!」

 玄鳥は今BLA-ICAのメンバーなのだから、その言い分は破綻している。
 玄鳥が2人いない限りはそんな勝負は成立しないのだから。
 しかし、

「当たり前だよ、5人揃ったらおれたち最強だし!」

 蝉は素直にそれに乗っかった。

「……そうやな。出戻りは他にも一匹おるから、今更責める気もせんしな」

「一匹って……よっちん、さりげなくひどい……」

 有砂すらも肯定した。

「……」

 玄鳥はすぐには言葉を返すことができないまま、戸惑ったような顔をしていた。

「……玄鳥様」

「玄鳥さん!」

 たまりかねて日向子と美々も口を開く。

 玄鳥はその瞳にheliodorのメンバーたちと日向子を順番に映した。

「……帰って来い、って……だって俺は……」

 最悪の形で仲間を裏切った自分が、こんなふうに求められるとは予想していなかったようだった。

 紅朱と勝負すること、紅朱に勝つこと……その大願を果たした今なら、玄鳥は帰って来てくれるかもしれない……日向子は少なからず期待していた。

 だが、それを望まない者もいる。

「……許すと思う?」

 ピシャリ、と望音が言い放つ。

「《BLA-ICA》を選びなさい、浅川綾。あなたの仲間には私たちのほうが相応しい筈よ」

 冷たい命令口調ではあったが、彼女は彼女で是が非でも玄鳥を引き留めたいのだろう。
 いつになく感情を露にしているように見えた。

「私も……玄鳥さんにはもっと色々教えてほしいです……」

 うづみも蝉の手前遠慮がちながら主張する。

「確かに……BLA-ICAとしても得難い人材であることは確かだな」

 粋はどことなく冗談めかした物言いをしつつ、玄鳥を優しげな眼差しで見守っていた。

 もう一度一緒にやりたいと真摯に求めるかつての所属バンドと、ずっと一緒にやりたいと切に願う今のバンド。

 板挟みのような格好になった玄鳥は、相変わらず戸惑った表情のまま、視線を高山獅貴に向けた。

 高山獅貴はフッと彼特有の薄い笑みを浮かべる。

「……子どもではないのだから、自分で考えて、好きなように決めればいい。自らの望みのままに」

「望みのまま……」

 玄鳥は真剣な顔つきで少し俯き、しばし考え込むような顔つきになった。

 みんな彼の決断を待ち、固唾を飲んで見守る。

 日向子も胸の前で手を組み、祈るように玄鳥を見つめていた。

 恐らくは大した時間は経過していないのだが、体感時間は何倍にも思われた。

 そしてやがて、ゆっくりと、玄鳥は口を開いた。


「……許されるなら、俺は……heliodorでもう一度、やりたい」

 思わず、heliodorの面々の顔に喜色が表れた刹那、

「でも今の俺にはBLA-ICAも大事な仲間なんだ……」
「どっちだよ!」
「どっちなのよ」

 苛立ったように紅朱と望音が同時に吐き捨てた。
 まるで本妻と愛人の間でせき立てられる優柔不断な亭主のような構図だった。

 玄鳥は思わず苦笑いしながら、答えた。


「どっちも……じゃ、ダメかな?」


 どっちも? ……あまりにも意外な答えに、一同あっけにとられてしまう。

 玄鳥の性格上、冗談ではありえないこともみんなわかっているだけに。

「heliodorのメンバーとして活動しながら、BLA-ICAにサポートメンバーで入るのはどうかな……と思ったんだけど……」

「綾……お前……」

 紅朱は頭痛を堪えるような顔をしている。

「……図々しい」

 望音の目がすわっている。

「……あのー、皆様はご不満なのでしょうか? わたくしはとても名案だと思ったのですけど」

 空気を読んでいるのかいないのか、日向子はのほほんとした口調で言う。

「大変なこととは思いますが、玄鳥様ほどのお方ならきっと、ご立派に両立されますわ」

「そうですよ」

 涼しい顔で美々が同調する。

「やってみて無理なら、その時にもう一回考えればいいんじゃないですか?」

 少なくともheliodorの面々にとっては蔑ろに出来ない2人の意見を受けて、玄鳥はいくらか自信を増した顔で、もう一度言った。

「わがままばかりですいません……でもどうか、それでやらせて下さい」

 望音は呆れた顔で嘆息した。

「……言い出すと引かない男。一体誰に似たの」

「……それはまあ」

 玄鳥はこの上なく晴れ晴れとした笑みを浮かべた。

「多分、兄貴かな」

「えっ」

 声を上げたのは紅朱だった。
 望音は紅朱を軽く睨んで、ぽつりと呟いた。

「それはまた……嫌な、兄弟ね」

 望音が皮肉っぽく返し、それから随分経ってから紅朱は、

「ば、馬鹿野郎、変な時にだけ人を引き合いに出してんじゃねェよっ、ったく……」

 頑張って毒づいたのたが、顔にはしっかり「嬉しい」と書かれているので、周りには本音がバレバレだった。

 今の今まで、殺伐としたものが漂っていた場が、一気に和やかになってしまうくらいに。

 しかし望音だけは例外だった。

「勝手に一件落着にしないで。
何故BLA-ICAのほうがサポート扱いなの?
デビューが決まっているバンドのほうを優先するべきだわ。
……黙っていないで、伯爵も……伯爵?」

 呼び掛けに応じる者はその場にいなかった。

 いつの間にやら、伯爵の姿は忽然と消え失せている。

 浅川兄弟と望音のやりとりに気をとられているうちに立ち去ってしまったのだろうか。

 だが、それほど遠くへ行ったとも考えにくい。

「わたくし……伯爵様を追いかけて来なくては」

「え……?」

 日向子の思いがけない言葉に、傍らにいた美々は目を丸くした。

「お渡ししなければいけないものがありますの」

「それなら、別に今夜でなくても」

「いいえ……今夜、お渡ししたいのです……!」

「日向子!?」

 驚く美々や他の面々をその場に置き去りにしたまま、日向子は走り出した。

 彼を追いかけるために。










「伯爵様……!」

 冬の夜空の下。
 求めていた長身の後ろ姿を見つけた日向子は、必死に呼び止めた。

「お待ち下さいませ!」

 ゆっくり振り返った高山獅貴は、白い息を吐きながら懸命に駆け寄る日向子に、苦笑して見せた。

「……どうしたのですか? レディ。今生の別れでもないというのに」

「……そうでしょうか……わたくしは、今夜別れたらまた、お会い出来なくなるような気がして仕方がありませんの……」

 それは、予感だった。
 筋道立った理由などどこにも存在しない。

「……だから、これを」

 日向子は寒さでかじかんだ手を不器用に動かして、それ、を外そうとした……だがうまくいかなかった。

 そっと差し伸べられた長い指先が、日向子の指にもわずかな感触を残しながら、かわりに、それ、を外していく。


 細い手首を飾っていた、月を描く銀色の飾り。


「……返しに来たのですね?」

「……はい」

 それは、淡く、幼く、美しかった初恋の終わり。

 夢見がちなか弱い少女を、守ってきたアミュレットは……今夜、その役割を終えるのだろう。

「わたくしが今一番大切にしたいものは、遠い思い出でも、儚い憧れでもないもの……もっと確かな存在だということが……わかった気がするのです。

だから……」

 卒業、しなくては。

 高山獅貴は微笑を刻んだまま、その大きな掌の中にブレスレットを包み込み、コートのポケットへそのまま閉まった。
 視線は真っ直ぐ日向子を見つめたまま。


「……さようなら」















 日本の音楽シーンに様々な伝説を刻んだカリスマ・高山獅貴。

 彼があまりにも突然過ぎる引退表明をしたのは、それから僅か3日後のことだった。

 派手な記者会見を行うこともなく、コメントはマスコミ各社に当てた空白の多いファックスのみ。
 そこにはただ引退という事実だけがあり、その理由も、今後についても、何一つ記されてはいなかったのだった。


 それから1ヶ月を経て、大手のメディアが取り上げなくなってからも、インターネット上では様々な憶測や噂、賛否両方の主張が飛び交い、話題が尽きることはなかった。


 やがてはそれも静かになり、彼の存在そのものが、虚実織り混ぜた伝説として人々の記憶に残っていくのだろうか……。


 ……などと、綺麗にまとめられては困ってしまう者たちも中にはいるのだが。










「……では、やはりデビューは延期なのですね」

「……そうね」

 子猫を抱いたゴスロリ娘は、いつも以上にムスッとした顔つきで投げやりに答える。

「大いに腹立たしいけど、ほんの少し、延期だわ」

「そうですね。《BLA-ICA》ならすぐにまたチャンスを掴むことができますものね」

「当然よ」

 記者として、《BLA-ICA》のボーカリスト・望音の単独インタビューを決行することになった日向子ではあったが、もちろんデビュー延期にまつわる大体の顛末は聞き知っていた。

 高山獅貴プロデュースで、高山獅貴のプロダクションから、高山獅貴自身も参加するバンドとして鳴り物入りでデビューする筈だった《BLA-ICA》は、高山獅貴引退を受けて、すっかり後ろ楯を失ってしまった格好だった。

 今後の活動についても一切何のフォローもなく、メンバーの誰ひとりとして高山獅貴と連絡を取ることもできない。

 もちろん《BLA-ICA》には自力でもすぐにデビューへ漕ぎ着ける自信も、それを裏付ける実力もある。

 望音が不機嫌なのはむしろ、「デビューが決まっているほうを優先すべき」という玄鳥奪回の大義名分が失われたことにあるのかもしれない。

「……伯爵はどこかで高見の見物を決め込んでいるのよ。《BLA-ICA》と《heliodor》を同じラインに立たせることで、私たちが戦うところを死ぬまでずっとニヤニヤしながら眺めているつもりなのね」

「そう、ですわね……」

 雲間から気まぐれに姿を現し、やがてまた隠れる……絶えず巡り、満ちては欠ける孤高の月は、たとえ見えずともずっとそこにいる。
 優雅に微笑みながら見下ろしているのだ……。

 望音は、呟く。

「……私は、自分なら《向こう側》に行けると信じていたの」

 日向子はほんの少し微笑する。

「慕っていらっしゃったのですね……伯爵様のことを」

「……どうかしら。よくわからないわ」

「……わたくしは……《向こう側》にずっと憧れていましたわ」

「……そう」

 望音は彼女にしては珍しい、年相応の少女らしい笑みを浮かべる。

「……趣味が悪いわ」

「ふふふ」












 取材を終えて社に戻り、編集長への簡単な報告を済ませた日向子は、デスクに戻るなりすぐさま美々に捕まった。

「日向子ー、友達が増えても、この大親友を忘れないでよねー」

「まあ、お姉さまったら……」

「言っとくけど、結構本気よ? ただでさえ最近……」

 遮るように、携帯の振動音が鳴った。
 デスクの上に今置いたばかりの日向子の携帯が着信を告げている。

 サブディスプレイに浮かび上がった名前を見て、美々はクスッ、と笑った。


「……早く出たほうが、いいんじゃないの??」












《終章へつづく》
 ……おお。悪ィ、仕事中だったか?
 何回かかけたけど、なかなか携帯繋がらなかったぞ。

 ……あ? BLA-ICAぁ? なんだよ、あっちもお前が取材すんのかよ……。

 ……いや、怒ってねェよ。別に怒っちゃいねェけど……っつーか、んなことはどうだっていい。

 仕事、何時で上がれんのか聞きたかったんだ。

 迎えに行ってやるよ……多分びっくりするぜ??








《終章 紅い糸、紡いで ―End of curse―》









「な、びっくりしだたろ?」

「は、はい……びっくりいたしました……」

 「びっくりした」というよりは、現在進行形でびっくりしているのだ。

 落ち着かなくてキョロキョロしたり、いずまいをただしたりしている日向子に、右隣に座る紅朱はたまりかねて笑う。

「心配すんなって」

 彼が座っている場所は、ドライバーズシート。
 何とも見慣れない光景がそこにあった。

 紅朱から「迎えに行く」という電話が入った時には、てっきりいつものようにバイクを飛ばして来るのだろうと思った。

 ところが待ち合わせの場所へ向かった日向子を迎えたのは、いつも機材車として玄鳥が運転している、あの車だった。

 紅朱がそれを運転してきたのだと知った瞬間、彼の思惑通りに日向子は心底驚いたのだった。

「免許証、お持ちだったのですね」

「取ったんだよ、ついこないだようやくな。
……練習してたのはギターだけじゃない」

 確かに見慣れた車体の前と後ろには、鮮やかな色合いの「初心者マーク」が輝いていた。

 肝心の運転のほうは、身の危険を感じるほどではないが、やはりぎこちなさを残しており、技術云々というよりは運転者の性格によるものかもしれないが……少々荒っぽい。

 雪乃や玄鳥の安全運転に慣れている日向子には、全く別の乗り物のようにすら感じられた。

「あの、何故、わざわざ紅朱様が免許を? 玄鳥がいらっしゃらなかった間、蝉様や有砂様が機材搬送をなさってましたし、特に必要なかったのでは……」

「……綾が担ってたもんを、全部自分で背負わなきゃなんねェ、と思ってたからな……」

「紅朱様……」

「厄介な性分だよな、実際に背負えるかどうかもわかんねェのに抱え込む……一生直んねェかもな」

 自嘲を含んだ呟きだったが、その横顔には言葉ほど気負ったものは感じられなかった。

 玄鳥は、帰って来たのだ。自らの意志で。

 今の紅朱には、彼の役割まで背負う必要はない。


「実はな、運転の練習がてら、一昨日綾と実家に帰ったんだ」

 軽く顎で指し示した先には、フロントガラスに吸盤で取り付けられた「交通安全」のお守り……が、何故か3つ。

「地元の神社のお守りなんだけどな、ジジイとババァと綾がひとつずつよこしやがって……そんなに俺の運転が心配かって感じだよな」

 それは、家出同然に家を出た紅朱にとっては数年ぶりの家族団欒を過ごせたということ。

 特に対立していた父親とも、ちゃんと向き合うことができたということを意味していた。

「……綾と話し合って、打ち明けることにしたんだ……綾が本当の両親のことを知ったってこととか、色々な。
結局ババァは泣かしちまったけど、話せて良かった。ようやく溝が埋まったって感じたぜ」

 そう語る紅朱の声も表情も、晴れ晴れとしている。

「……ジジイも、俺たちのやりたいようにやれ、って言ってくれたしな」

 茨に閉じ込められて眠りについた、お伽噺のお城のように、長い間浅川家の時間は止まっていたのかもしれない。

 秘密と不安を抱えて、大切なものを失うことに怯えて、閉ざされていたのかもしれない。

 真実が明らかになったことでいっそ、家族の絆は強まった。

 紅朱の独りで抱え込む性格は確かに簡単には変わらないのだろうが、今までと本当に何も変わらないわけではない。

 力で押さえつけるばかりでは解決しないことに気付いた彼は、本当に潰されそうになったらちゃんと周りに頭を下げて協力を求めることができるに違いないし、協力を求めれば力を貸してくれる人間はたくさんいる。

 彼の最愛の家族、そして頼もしいメンバーたち……それにもちろん、日向子もその一人だ。

「これで何もかも、落着ですわね」

「……」

「……紅朱様?」

「……」

 紅朱が急に黙ってしまったので、日向子は何か走行に問題でも発生したのかと、思い出したようにまたまたそわそわしてしまう。

 しかし理由はそういうことではなかった。



 結局日向子のマンションの前に着くまで、沈黙を守ったままだった紅朱は、車のエンジンを切った後で、ようやく口を開いた。

「……お前、断ったんだってな……綾の、告白」

 あまりにも意表を突いた言葉に、日向子は思わず顔を赤らめた。

「それは……」

 紛れもない事実だった。

 heliodorとBLA-ICAの運命のライブの、その後。

 合同ミーティングという名の合同打ち上げの帰り、日向子をマンションまで送る役を買って出た玄鳥は、今と全く同じようなシチュエーションで、マンションの前に停めた車の中で、自らの想いを告げた。

 そして日向子は、その想いを受け入れることができなかった。

「……他に、好きな奴がいるって言ったらしいな」

「……はい」

 紅朱があまりにも神妙な顔つきをしているので、日向子もつられて真剣な顔になってしまう。

「……お前の、好きな奴って……誰だ?」

「えっ……」

 心臓が跳ねる。

「やっぱり、高山獅貴か……?」

「……いいえ……」

 それはもうすでに卒業した「憧れ」。
 今の日向子にはもっと大切な人がいる。

「……俺の知ってる奴か?」

「……はい」

「……heliodorの、誰かなのか?」

 どんどん鼓動が加速する。それは多分、お互いに。

「……はい」

「……日向子!」

 名前を呼ばれると同時に、肩に手がかけられる。

 わずかに痛みすら感じるほど強く掴まれて、驚いている間に、黒い色素の薄い、炎のような2つの瞳に真っ直ぐ射すくめられていた。

「……日向子、俺は……お前が、好きだ」

「……紅朱様……?」

「自分でも最近まで自覚してなかったが、もう随分前からお前のことは、女として見てたと思う……」

 声音にも、肩に感じる指先の感触にも、じんじん熱を帯びているようだった。

「……それもただの女じゃなく、特別な、女としてだ。
……だから……」

 次の言葉が発せられるまでのわずかな沈黙が、まるで永遠のように長く感じられた。

 紅朱は、その眼差しをわずかに細めて微笑する。

「……お前は幸せになれよ、絶対」

「……え?」

 肩を掴んでいた手が離れて、微熱だけがそこに取り残される。

「……お前の好きな奴が、俺の仲間なら何も心配はねェな。
それが綾の奴なら言うことなかったが……」

「……紅朱様?」

「万楼はまだまだガキっぽいところはあるが、芯は強いし、素直で可愛い奴だ」

「……えっと」

「蝉は……俺よりお前のほうがわかってるかもな。あれで真面目な奴だし、信頼できる」

「……あの」

「有砂は……まあ、色々あったが、今は落ち着いてるし、あいつも兄貴だけあって意外に面倒見はいいんだよな」

「……紅朱様」

「クセのある奴ばっかりだが、みんな俺の自慢の仲間だ。だから、お前が誰と一緒になっても俺は……」

「……紅朱様っ!!」

 思わず大きな声で制してしまっていた。
 そうでもしなければ延々と聞かされそうだったからだ。

 紅朱のいささか的外れ過ぎる激励の言葉を。

 日向子はふーっと一度呼吸すると、また紅朱が何か言い出す前に先に口を開いた。

「紅朱様は、大切なメンバーをお一方お忘れでいらっしゃいませんこと!?」

「は?」

「heliodorは5人でheliodorですのに……紅朱様は4人しか名前をお出しになっていないでしょう?」

 言われた紅朱は、ぽかんとしていたが、今しがた自分が上げたメンバーの名前を反芻しながら、親指から順に左手の指を折っていく。

「……いや、合ってるだろ、綾と万楼と蝉と有砂……」

 日向子は、最後に残った指……紅朱の左手の小指にそっと手を重ねる。

「もう1人はどなたでしたか……?」

 紅朱は触れ合った手を凝視ながら、呟くように答えた。

「……お……俺??」

 ようやく辿り着いた答えに、日向子は今更ながら少しはにかんだ笑みを見せた。

「……はい」

「違う」

「……はい?」

「違う。そんなわけねェ」

「???」


 紅朱はまるで逃げるように、日向子の手から自らそれを逃がし、随分伸びてきたワンレングスの髪に突っ込んだ。

「俺は……口が悪いし、態度もデカいし、女の扱いなんかろくにわかんねェし……」

「でもお優しい方ですわ」

 出会ってすぐにそう言った時、紅朱はそれを否定した。

 しかし、彼のことをよく知る度に、日向子は彼の優しさを目の当たりにしてきた。

 heliodorの狂信的なファンの団体に狙われた時には、自らの危険も省みずに何度も助けてくれた。

 メンバーのため、家族のため、時にはうちひしがれながらも頑張っている姿を見て、何か力になりたいと思うようになった。

 その想いが恋へと変わっていったのはいつからだったのか。

「本当に、俺……なのか」

「ええ」

「……っ」

 紅朱は、いきなりガクッとハンドルに頭を伏せたかと思うと、

「やべェ……どういう顔していいかわかんねェ……」

 と、吐息まじりの言葉を漏らした。

 耳や頬が髪と同じ赤い色に染まっている。

「……両想いってわかってたら、もうちょっとカッコよく気持ち伝えたのに……なんか俺、超ダサいじゃねェか……」

「では……もう一度、聞かせて頂けませんか?」

「……」

 紅朱はしばらく押し黙り、そのまま自分自身が落ち着くのを待っているようだった。

 やがてゆっくり頭を持ち上げると、コホン、と若干わざとらしい咳払いをして、日向子に向き直る。

 そして。

「俺はお前が好きだ……俺が必ず、お前を幸せにしてやる」

 率直で飾り気のない、けれど力強く紅朱らしい愛の言葉だった。

「……やっぱり紅朱様はすごい方ですわ」

「あ……?」

「その言葉だけでもう、わたくしはこんなにも幸せな気持ちになれたのですもの」

 そう言った日向子の顔には自然に心からの笑みが浮かんでいた。

 向かい合う紅朱の顔にも同じ笑顔が生まれる。

 想いの通い合った2人だけができる幸せな笑顔だ。

 紅朱は、少しシートを後ろに下げて、日向子の背中に手を回し、自分のほうに引き寄せた。そのままギュッと抱き締める。

「俺も、ヤバいくらい幸せだ」

「紅朱様……」

「でもこんなもんじゃなくて、これからもっともっと幸せにしてやるから覚悟しとけよ」











 ――それから一週間後。


 サイドシートに座ってすぐ、日向子は言った。

「あの……なんだか、随分増えましたわね」

「そうなんだよな、流石に邪魔になってきちまってよ」

 紅朱は溜め息をつきつつ、それらをひとつひとつ指差していった。

「あれが万楼、デカイのは蝉で、バックミラーのとこが有砂。あのキラキラしたやつは美々。その横はあのゴスロリ猫女……ったく、なんであいつまで」

 それらは全部交通安全のお守りで、この一週間、乗る度にどんどん増えてきていた。

「まあ、望音様まで……紅朱様のご心配を?」

「俺の、じゃなくて、いつも助手席に乗るお前の心配してんだろ」

 お守りの加護なのか、本人のポテンシャルなのか、紅朱の運転技術はぐんぐん向上している。

 本人も、ハンドルを握る姿が最近とても楽しげだ。

「……そのうち自分の車も買わねェとな」

「楽しいですか? 車は」

「ああ、いいな。バイクに2人乗りもいいが……車なら、お前の顔が見られるしな」

 サラッと囁かれた甘い台詞に、日向子は思わず赤面した。











《END》
 あ、どうも。俺です。

 望音ちゃんの取材はもう終わったんですか?

 ……そうですか、良かったです。あの子が何か失礼なこととか言ってないかな、って心配で……。

 ……あ、いや、違います! それを確かめるためだけに電話したわけじゃなくて……えっと……。


 ……やっぱり、いいです……。

 また掛け直しますね……それじゃ。








《終章 その翼にさらわれる ―Vertical updraft―》










「……また?」

「……はい、また、でした……」

 玄鳥から、こんな電話が入るのは半ば日課のようになっていた。

 携帯を手にしたまま、不思議そうに小首を傾げる日向子を見やり、美々は溜め息をついた。

「……あんたも苦労するわ」










 あの夜もそうだった。
 玄鳥は何か言いたそうにしていたのだ。

 heliodorとBLA-ICAの対決の日。
 合同ミーティングという名の合同打ち上げの帰り、自宅マンションまで送ってくれた玄鳥は、別れ際、一度日向子を呼び止めた。

 しかし、何も言わなかった。ただ、もう一度「おやすみなさい」と言った以外には何も……。



 仕事を終えて編集部を出た日向子は、美々と少しだけお茶して、別れた。

 店に入ってから出るまでも、店を出てから雪乃の車で帰宅するまでも、帰宅してからもずっとずっと、考えるのは玄鳥のことばかりだった。

 また携帯が鳴るのを待っている。

 それがたんに、奇妙な電話の用件を知りたい……という好奇心のみに由来するものではないと、日向子自身はっきり自覚していた。


 そしてそんな日向子を見て、美々も楽しそうに言っていた。


「恋してるんだね……日向子」


 帰宅した日向子は、コートを脱いだ後、まっすぐにピアノ室に行き、ピアノの前に座った。

 そこからよく見える位置に飾られていた、高山獅貴のタぺストリーは、今はない。

 たとえまだあったとしても、今の日向子には目に入らなかったに違いない。


「玄鳥様……」


 これではいけない……と思った。

 仮にも雑誌記者ともあろうものが、自分から行動を起こさなくてどうするのかと。

 会いに行こう。

 思い立ってすぐに、脱いだばかりのコートを取りに行った。

 急いで素早くそれを着直すと(もちろん日向子なりに急いだ結果の、日向子なりの素早さだ)、転がるようにしてマンションから駆け出す。

 望音の話では、今日はBLA-ICAのスタジオ練習の日で、玄鳥も参加する予定だということだった。

 練習に合流するために、タクシーに乗り込んだ望音が、運転手に告げた場所なら記憶している。

 そこへ行けば、玄鳥に会える筈だ。














 練習スタジオのすぐ側でタクシーを降りた日向子は、はやる気持ちを抑えながら、けれど抑えきれない速い足取りで、再び駆け出した。

 あと数歩で入り口……というところで、日向子の足は止まる。

「あれは……」

 スタジオ裏手に続く、狭路から黒っぽいものが見え隠れしている。

 猫だ。

「……シュバルツちゃん?」

 思わず歩み寄った瞬間、日向子の眼前に現れたのは驚くべき光景だった。

 わずかに差し込む夕焼けに照らされた薄暗い路地に、重なり合う2つのシルエット。

 小さなほうは望音。

 大きなほうは玄鳥。

 少し踵を上げて背伸びした望音を、玄鳥はしっかり抱き留めていた。

 まるで恋愛映画のワンシーンのような、眩しい景色。

 半ば呆然としていた日向子の足元で、


「うにぁ」


 シュバルツが空気も読まずに欠伸をする。

 それは玄鳥の耳にも届き、そして……。


「……っ、日向子さん!?」

 見つかってしまった。

「あ……」

「あのっ、これは……」

「……申し訳ありません。失礼致します……!」


 玄鳥がどんな顔をしていたのか、望音はどうしていたか、全くわからなかった。

 ただ早くその場から離れたくて、後ろも振り返らずに一目散に駆け出していた。















 大して土地勘もない街中を闇雲に走った日向子は、白い息を吐きながらようやく立ち止まった。

 最後の残光が消え去った夜の闇の中、線路とその手前の鉄線に遮られ、日向子の前に道はもうなくなっていた。

 一体どれだけの間走っていたのだろう。

 すっかり都会の喧騒から離れて、まるで人気のない場所に辿り着いてしまったらしい。

 引き返そう……ゆっくり振り返った日向子は、振り返った格好のまま、目を見開いて固まった。

「っ……どうして」

 すぐ後ろに玄鳥が立っていた。

「どうして……って、あなたが逃げるから追いかけて来たに決まってるでしょう」

 いつもとは少し違う、険しさをにじませた声。

「……ずっと、後ろに?」

「はい……あなたは一度も振り返らなかったから、気づかなかったでしょうけど」

 日向子がいくら全力で走っても、玄鳥が走り負けるほど加速することはできなかった。

 それでも流石に多少は息が上がっているらしく、白い息が夜の闇に規則正しく吐き出されていた。


「どうして、逃げたんですか……?」

 玄鳥の問い掛けに、日向子は俯いたまま何も答えられなかった。

「答えてくれないなら……そのまま黙って、俺の話を聞いて下さい」

 玄鳥は一定の距離を保った立ち位置のまま、日向子にゆっくりと語り掛ける。

「……出来ればあなたには見てほしくなかった。
どんな理由であれ、他の女の子に触れているところを……見られたくありませんでした。あなたに、だけは。

それがどういう意味か、わかりますか?」

 どくっと胸が高鳴る。

 日向子は思わず俯いていた顔を上げて、玄鳥を見た。

 どこか苦しそうで、けれど優しげな目で、玄鳥は真っ直ぐ見つめている。

「ずっと……あなたに伝えたかったけど、何度も約束を破って来た俺が、どんな言葉を選べばこの想いをちゃんとわかってもらえるのか、信じてもらえるのか……わからなくて、悩んでたんです」

 あの夜も。

 何度も繰り返した電話も。

 彼は言葉を探し、そして見つからなくて打ち消した。

「今もそうです……あなたを何と言って引き留めたらいいのかわからなかったから、黙ってこんなところまでついて来てしまった……情けない男なんです、俺は」

「そんなこと……」

「どうか、最後まで聞いて下さい……結局ありふれた言葉しか捕まえられそうにないけど、今、俺の気持ちを伝えます」

 均衡を破るかのように、玄鳥は静かに足を前に出した。

「俺は日向子さんを、愛しています」

 それはあまりにもシンプルで、ありふれた……けれど、迷いの欠片もない真摯な愛の言葉。

 言葉とともに歩み寄った、黒いコートの両腕が、日向子の身体を抱き締めていた。

「俺はあなたしか見ていない……側にいても、離れていても、誰と一緒にいても……俺はいつも、あなただけを想ってるんだ……!」

「玄鳥様……っ」

 走ったせいで、高くなったままのお互いの体温がはっきりとわかってしまう。

 それ以上にぐんぐん高まっている心の温度はもはや沸点に近い。


 心から好きだと思った人から、「愛してる」と言われたのだから。


「わたくし……っ、わたくしも玄鳥様が好きです……!」

 耳元で、いとおしい声が優しく囁く。

「いいんですか……? 今度は本当にさらいますよ」

 いつかの別れの日のことが、脳裏を過る。

 飛び去っていく翼を、見送ることしかできなかった日のことが。


「……どこへでも、さらって下さい」


 黒い翼を大きく広げ、上昇気流に乗り、どこまでも舞い上がっていくというのなら、その背に乗せて連れて行ってほしい。

 望む場所へ、どこへなりとも。

「……ありがとう」

 お礼の言葉を紡いだ唇が、そっと、日向子のそれに重なる。

 ただ少し触れ合うだけの、ささやかな口付け。

 今の2人にはそれが精一杯で、それだけで目一杯の幸せを互いに感じていた。












「……あの娘、本当に伯爵のことを慕ってたんです」

 線路伝いの暗い道を、2人は歩いていた。

「……恋愛感情……と呼べるものなのかはわかりませんけど……すごく、好きだった」

「……わかりますわ、なんとなくですけれど」

 手と手をしっかり繋いで、ゆっくり歩いていた。

「……平気な顔をしていたけど、伯爵に置いていかれて辛かったんでしょう。
……練習中に急に泣き出してしまって、仕方なく一緒にスタジオを出て」

「慰めて、いらっしゃったのですね」

「ただ側にいただけで何も言えなかったんですけどね……抱きつかれるとは思ってなかったです」

 苦笑いする横顔を見つめながら、日向子は妙に納得していた。

 玄鳥がheliodorを脱退して、いなくなってしまった時の気持ち。

 失ってみて初めて、本当に大切だったのだと思い知らされる。

 思わず繋いだ指に力がこもってしまう。

 すぐに、同じ強さで握り返される。

「……なんだか夢を見ているようで……こうしてないと怖くなります」

 玄鳥は日向子の手の感触を確かめようとするかのように繋いだ手の指を動かす。

「その……俺たち、恋人同士になれたんですよ、ね?」

「……はい。相思相愛の、恋人同士……ですわ」

「……あは」

「……ふふ」

 20代半ばの恋人同士としては、あまりにも甘酸っぱい。

 日向子にとって玄鳥が初めての彼氏であり、玄鳥にとって日向子が初めての彼女なのだから、無理もないのかもしれないが。

「こんなところ、みんなに見られたら何を言われるか……」

「では、皆様には内緒に致しますか?」

「……それは……ちょっと俺には無理かも。
元々隠し事は苦手なのに、ここしばらく隠し事まみれで本当に疲れました」

 そう。それが日向子のよく知っている玄鳥だ。

 真面目で誠実で、嘘のつけない優しい人。

「それに……」

 遠くでカンカンと、踏切の閉まる音が聞こえていた。

「……みんなには知っておいてもらわないと困るんです。

あなたが、誰のものなのかを」

 ゴーッと音を立てて、急行電車が風をまといながら走り抜けていく。

 束の間、すべての音がかき消されたその瞬間、日向子をじっと見つめる眼差しには好戦的ともとれるような、熱が宿っていた。

 それは今まで日向子の知らなかった玄鳥。

 けれどわかっていた。

 玄鳥が内に秘めている情熱がどれほどのものであるかは。

「……あなたは俺がさらうと決めたから、誰にも渡すつもりはないです」

 キッパリと言い切った言葉の力強さに、日向子もまた、力強く頷いて見せる。

「……ずっと、離さないで下さい。
わたくしを置いては、どこへも飛んでいかないで」


 風が止み、警報の音もやがて静まった時、玄鳥はいつもの優しい笑顔で日向子を見つめていた。

「……いつかあなたをもっと高い空へ連れて行きます。俺の翼で、きっと……」















《END》
 あ。お姉さん、仕事終わった?

 今日の夜暇? 暇だったらボクの部屋に遊びに来てよ。

 ボク、久し振りにお姉さんとカレーが作りたいな。

 ……いいの!? やったー、じゃあさあ、まずは一緒にスーパーに買い物に行くよね?

 嬉しいなあ。お姉さんとデートだ。









《終章 さよなら、マーメイド ―Prince dilemma―》











「ふう、カレーもデザートもすっごく美味しかったね」

「ええ、とっても」

 万楼は、出会ったばかりの頃には極度の偏食家だった。

 初めて一緒にカレーを作った時は、随分残していたような気がするが(カレーどころではなかったとも言える)、今日はおかわりまでしている。

 今日に限らず、普段からスウィーツ以外のものも作るようになったらしく、冷蔵庫の中身も以前見た時とは随分様変わりしていた。

 まるで生活感の感じられない、サッパリし過ぎていた部屋の中も、家具や雑貨類が増え、窓辺には小さいサボテンの鉢植えまで飾られている。

 万楼の生活は、良い方向へどんどん変わって来ている……日向子はそう確信していた。

 万楼は幸せそうな明るい笑顔で、「今度はアレが食べたい」「コレはどうやって作ればいいのかな?」と、話す。

 同じくらい幸せな笑顔でそれに応えていた日向子だったが、ふと時計が目に入ってしまった。

「……まあ、気が付けば随分遅くなってしまいましたわね」

「……そう、かな?」

「洗い物をして帰りますわね」

 立ち上がり、テーブルの上のお皿を重ねようと伸ばした日向子の手を、万楼の手が掴んだ。

「……今日、泊まってよ」

 睫毛の長い大きな目が、上目遣いに見つめる。


「……お姉さんと一緒に寝たいな」

 いつもより少し低いトーンで囁いて、その目を細めて微笑む。

「ダメ?」

 日向子は、

「はい、構いませんよ」

 何のためらいもなくあっさり即答した。

 万楼はびっくりして目をパチパチさせる。

「えっ、いいの!?」

「はい。でも出来れば、パジャマと着替えを取りに帰りたいですわ」

「う、うん、それはいいけど」

「ふふふ、なんだか楽しいですわね。パジャマパーティーは久し振りですの」

「……パジャマ、パーティー??」

「せっかくですから、美々お姉さまや望音様もお誘いしてみませんか? 大勢のほうが楽しいもの」

「……はあぁ」

 万楼は、身体の奥底から吐き出すような深い深い溜め息をついた。

「万楼、様??」

「……やっぱり帰っていいよ」
















「……ということがありましたの」

「……ありましたの、じゃないって」

 いつものカフェで事情を聞いた美々は、完全に引きつっていた。

「それは流石に庇いきれないよ、あたし……」

「やっぱり、わたくしに問題があったのでしょうか」

「……っていうかさ、日向子。独り暮らしの年頃の男の子に、『泊まっていって』って言われたら、普通もっと違うリアクションがあるんじゃないの?」

 ストレートの紅茶にたっぷり砂糖を溶かしながら、美々は畳み掛けるように説く。

「彼はけしてパジャマパーティーがしたかったわけじゃないと思うよ……」

「それは……」

 日向子は考える。

 美々の言っている意味は、わかる。

 流石にもう20代も半ばの大人の女なのだから、わからないわけはない。

 しかし、万楼に関してはどうしてもその手の警戒心を持つことができなかった。

 万楼はずっと年下で、自分のことを「お姉さん」と呼んでなついてくれている男の子。

 時折大人びた表情を見せたり、驚くほどの頼り甲斐を発揮することもあるけれど、だいたいは甘い物を頬張りながらニコニコ笑ってる。

 そんな彼がとてもいとおしい。

 一緒にいればとても楽しいし、ベーシストとして成長していく姿をずっとずっと見守っていたいとも思っている。

 まるで本当の姉のように……。

「わたくしは……ただ……」




「そこ、座っていいか?」




 ハスキーな声が不意に呼び掛ける。

 声のほうを振り返った2人は思わず目を丸くした。

「あなたは……」

「粋様……」

 一見凛々しい青年のような端正な顔立ちの麗人が、すぐ近くに立っていた。

「玄鳥から、heliodorのメンバーがよく溜まってるって聞いてたから寄ってみたんだ……今日はいないんだな」

 同席を許すか許さないか、まだ答えていないにも関わらず、粋は遠慮なく同じテーブルに着く。

「まあ、いいさ。面白い話も聞けたし」

「面白い話……?」

「可愛い弟子の恋愛事情だよ」

「恋愛、事情?」

 粋はろくにメニューも見ないで、素早く店員を呼ぶと、コーラを注文した。

 注ぐだけで出来上がる注文品はすぐに届く。

 粋は、真冬には少し寒々しいそれを、ストローも使わずにごくごく飲んだかと思うと、若干呆気にとられている日向子を見やる。

「響平を、男としては見れないのか?」

「え……」

「響平にも原因があるんだけどさ……あいつの話し方や仕草がやたらと幼くなったのは、私と暮らし出してからなんだよな」

 粋は昔を懐かしむような遠い目をしていた。

「……他人とのコミュニケーションの取り方を覚える過程で、てっとり早いやり方を身に付けたってところだろう」

 決して明るくはない、万楼の生い立ちと青春時代……その最初の転換期となったのがこの女性との出会いだった。

 今更ながら、日向子はその事実を噛み締めていた。

 何となく、苦しい……。


 そんな日向子の想いを知ってか知らずか、粋はふと別な話を切り出してきた。

「……私はずっと、女として扱われることがとても苦痛だった」

 彼女自身の話だ。

「……ある時、女として特別視せず、男同士と全く同じ友情を示してくれる奴に出会った。

出会って、気づいたら惚れてた」

 まるで自嘲するような笑みを浮かべる。

「惚れた途端、女として見てもらえないのが辛くなってきた……馬鹿馬鹿しい話だろ。

だけど、あまりにも辛くて、何も言わずに離れた……」

 粋が誰のことを語っているのか、日向子にもなんとなくわかった気がした。恐らくは美々も。

 しかしそれぞれの胸にしまったまま、黙って粋の言葉に耳を傾けていた。

「人魚は尾びれを翻して海の中を自由に泳ぎ回るが、その格好では王子のいる陸には上がれない……自分自身を守るために身に付けた『自分らしさ』が、足枷になることもある……幸せに辿り着くのに随分遠回りが必要になる……私のようにな」
















「どう、したの? こんな夜中に」

 玄関口に顔を出した万楼は、シャワーを浴びてからあまり時間が立っていないらしく、フルーツ系のシャンプーの匂いが甘く香っていた。

「連絡もせずにいきなり押し掛けてしまって申し訳ありません……どうしても早く万楼様にお会いしたかったのですわ」

「そう……わかった、入って」

 やはり万楼は、どことなく元気がないようだった。

 日向子を部屋に通すと、口数も少なく、2人分のミルクココアを作り始めた。

 日向子も黙ったまま、ココアが出来上がって、万楼がテーブルに着くのを待っていた。

「……どうぞ」

「……ありがとうございます」

 温かいカップで両手を温めながら、日向子はとうとうゆっくり口を開く。

「昨日のこと……申し訳ありませんでした」

「……どうして、謝るの」

「……わたくしの態度が、万楼様を傷付けてしまいましたから」

「……いいよ、そんなの。謝らないでよ……なんか惨めだもの」

 居心地の悪そうな顔をしながら、万楼は目を伏せていた。

「……つまりお姉さんにとっては、ボクはそういう対象じゃないっていうだけだから、さ」

「……そういう対象だと思わないようにしていたのかもしれませんわ」

「どういう意味……?」


 セイレーンの異名を持つベーシストが語った人魚の例え話。

 それは彼女自身のことであり、彼女の愛弟子のことであり、そして日向子のことでもあった。

「わたくしは……万楼様から『お姉さん』と呼んで頂けることに気を良くして、いつからか万楼様の本当の姉のようにならなければ……と思っていたような気がしますの。

万楼様の大人びた一面や、男性としての力強い魅力に、心が動いても気が付かないふりをしていたのかもしれません」

 好きな人は誰?と紅朱や美々に聞かれた時、伯爵にブレスを返した時。

 確かに思い描いたのは、目の前にいる人だったというのに。

「お姉さん……それって」

「教えて下さい、万楼様。わたくしはあなたの『お姉さん』ですか?」

「……っ」

 万楼は泣きそうに顔を歪めて、テーブルの上で丸めた両手をぎゅっときつく握り、拳を固めた。

「違う……あなたは『お姉さん』なんかじゃない。
ボクの大事な女の人……恋焦がれてたまらない、たったひとりの特別な人」

 伏せていた顔を上げ、覚悟を決めたように、万楼は告げた。

「恋をしてるんだ。抱き締めたい、キスしたいって思ってるんだ」

 どんなに仲睦まじくとも、姉と弟の間ではけして生まれることのない、激しい愛情。

 お互いに、怖じ気づき、もてあまし、目をそらしてきた。

 だけどそれはいつからか生まれ、ずっとそこにあったのだ。

「……わたくしも、あなたのことが好きです。
1人の素敵な男性として、あなたをお慕いしていますわ」

 するりと、今までのことが嘘のように、本当の気持ちが口をついた。

 口にした途端確信へ変わる。

 錯覚ではない。

 愛している。

「……本当に、そう思ってるの?」

 万楼は微かに震えた声で問う。

「……はい」

「……ボクのことが好きなの……?」

「……ええ、心から」

「……じゃあ、キスしていい?」

 日向子は返答するかわりにそっと目を閉じた。

 肩に触れる、繊細な指の感触。

 ほとんど同時に伝わる熱。唇から唇へ。

 柔らかい色のリップで色づくそれの輪郭をなぞるように、熱が揺らめく。

 やがて名残惜しそうに離れていき、日向子は静かに瞳を開けた。

 目の前には、熱にうかされたような、酔いしれたような顔をした男性がいる。

 初めてのキスの相手。

 初めて心を通わせ合った特別な異性。

 彼は甘い声で囁きかける。

「……好きだよ、日向子。大好きだ」

 日向子は魔法にでもかけられたかのように、ほとんどは夢見心地で、それに微笑んだ。

 万楼も優しく微笑み返し、そしてこう続けた。



「……今日、泊まってよ」


「あ……」

 昨日と同じ言葉。

 それなのに日向子は一気に顔を赤く染めてしまう。

 万楼はくすくす笑う。




「可愛いなあ、ボクの日向子は……」












《END》
 お仕事、お疲れ様♪

 今日は送り迎えできなくてごめんね?

 ……うんうん、みんなバッチリ絶好調だよ。今度のライブ楽しみにしててねー。

 ……うん、で、あのさ、今度の日曜日なんだけど……もし何も予定がなかったらちょっと付き合ってくれない、かな……。

 ……スノウ・ドーム。

 キミにはあんまりイイ思い出がない場所かもしれないんだケドね。

 ……ホント!? 良かった。ありがと……日向子ちゃん。









《終章 雪色の願い・オレンジの想い ―As You Like It―》








「まあ……随分綺麗になりましたね」

「うん、びっくりでしょ? まだまだ改修工事真っ最中なんだけどね」

 蝉の大切な実家・《スノウ・ドーム》は今、生まれ変わりつつある。

 長きに渡る経営難で老朽化していた建物や設備は、もうすぐ完全にリニューアルする。

 施設の子どもたちは一時的にバラバラに別の施設に預けられているが、春を迎える頃にはまた騒がしい声や足音、そして笑顔がここに溢れ返る。

 今日は作業が休みということもあって、2人の他には誰もいない。

 ところどころシートで覆われ、仕材が積まれた建物の中を、2人はのんびり歩いていた。

「これもうづみちゃんのおかげなんだよね!」

 周りがあまりにも静かなので、蝉の声は、よく響く。

「《BLA-ICA》の契約金……前金だけでもびっくりするくらい高額だったみたいだからさ。
おまけに、すごく割のいい副業までゲットしちゃってさ」

「割のいい副業、ですか?」

「……あれ、聞いてなかった? モデルだよ、モデル」

「モデル……というとまさか、有砂様の……」

「ビンゴ」

 日向子にとっては《スノウ・ドーム》より、よほどいい思い出のない人物……沢城秀人がやはり関わっているようだった。

「婚約は解消したけど、よっちんのオヤジさんはうづみちゃんのこと、かなり気に入ってるっぽいからね~……売り込んだらあっさり契約してくれたって言ってた」

「……あの、大丈夫なのでしょうか」

「大丈夫大丈夫、うづみちゃんしっかりしてるし……すぐにバイトなんか必要なくなるだろうし」

 それには日向子も大きく頷いた。

 《BLA-ICA》は、すぐにも人気を獲得して、ヒットチャートを駆け抜けるに違いない。

 もちろん《heliodor》も負けてはいないが。

 蝉は更に言葉を続ける。

「モデルでもアシスタントでも同じ金額で契約するって言われたらしいんだけど、モデル選んだところがうづみちゃんらしいってゆーか……」

「え?」

「楽器のパート選びと一緒……絶対よっちんに対抗したいんだと思うよ」

 苦笑いする蝉。

 ことあるごとに有砂をライバル視するといううづみ……その理由は、実際のところ蝉にもわかっているのだろう。

 うづみは蝉を愛している。他の「家族」たちが注ぐ愛情とは別の意味で。

 わかっているからこそ、呟く。


「……あの子は、いい子だから。必ず幸せになれるよ。おれなんかの力を借りなくてもね」


 暗に物語っていた。

 その想いには、自分は応えられないと。

 もしかするとうづみにもすでにそう伝えたのかもしれない。

 それが《BLA-ICA》加入……蝉との前向きな決別に繋がったとしたら、とても自然な理由だ。

 蝉はうづみの想いには応えられなかった。

 何故だろう。

 日向子は考える。

 誰か他に、彼には想う人がいるのだろうか……。




「ここ、入ろ」


 微妙な空気を打ち消すように蝉が、ひとつの部屋の前で立ち止まる。

「ここは……」

「覚えてた?」

「ええ!」

 この場所ならよく覚えている。

 蝉と連弾した「遊戯室」だ。

 蝉が扉を開け、中に一歩踏み込むと、すぐにあるものが目に入る。

 すでにすっかり改修されて、様変わりした部屋の中に変わらず鎮座する古びたピアノ。

 日向子はなんだか嬉しくなって、小走りでピアノに近づいた。

「……お久しぶり、ですわね」

 傷だらけのそれを優しく撫でる。


「……これだけはそのままにしといて、っておれが頼んだんだよ」

「思い出の品ですものね」

「そう、始まりの場所」

 2色の鍵盤と共に過ごしてきた、彼の駆け足の青春。

 全てはここから始まったのだ。

「……ちょっと、弾こっか。また一緒にさ」

「ええ、喜んで」



 以前そうしたのと同じように日向子が椅子に座り、その後ろに立った蝉が手を伸ばして鍵盤を辿る。

 曲も同じだ。

 「手のひらを太陽に」。蝉が初めて覚えた曲。

 素朴な音で、日向子にとってもどこか懐かしいメロディを奏でる。

 しかし日向子の心中は、前にこの曲を弾いた時とは微妙に違っていた。

 あの時はただ楽しいだけだったのだ。

 今は違う。

 綺麗な蝉の指の動きや、時々触れてしまう彼の腕、斜め上で見下ろす笑顔、そんなものが気になって仕方がない。

 蝉のことが、気になってしまう……。


「……日向子ちゃん?」

「え? ……あ」

 気が付いたら鍵盤の上で、手が止まってしまっていた。

「どうしたの?」

 なんとなく、言い訳を探す。

「いえ……少し、指先が冷たくなってしまって」

「……そっか。暖房ついてないからね、ココ。気づかなくてゴメンね」

 不意にさりげなく。

 本当にさりげなく。

 日向子の両手が温もりに包まれた。

「あ……」

 背中から、肩越しに伸ばされた蝉の手が、日向子の手をくるんでいた。

「……おれの手はあったかいでしょ?」

 頭の上で蝉の声がする。

 死角なので、どんな顔をしているのか日向子には見えない。

「……キミとまたここで、ピアノが弾けて嬉しかった。

……たとえこれが最後になっても悔いはないって思うよ」

「最後、って……」

「……別におれが消えてなくなるワケじゃないよ、でも……2人でこんなふうに過ごせるのは最後になっちゃうかもしれない」

 日向子の小さな手を包んだ、蝉の大きな手が何故か微かに震えているように感じられた。

「……ねえ、今からキミに大切な話をしようと思うんだ」

「大切な、話……?」

「そう、大切な話……だから、話す前にひとつだけ、キミに選んでほしい」

 蝉の手がギュッと日向子の手を握りしめる。

「……このまま話を続けていいなら、キミは右手をちょっと上げる」

「……はい」

「……大切な話を、もう1人のおれの言葉で聞きたいなら左手を上げる。……簡単でしょ?」


 もう1人のおれ……それは言うまでもなく、「雪乃」のことだ。

 ずっと日向子のとても身近にいた人物。大切な、家族。

 「蝉」と「雪乃」は同一人物の別の呼び名だ。

 別に本当に二重人格なわけでもなく、ただ時と場合に合わせて話し方や、態度を意図的に切り替えているに過ぎない。

 彼の秘密を知ってからは、日向子もそれに合わせて呼び方や、接し方を変えている……まるで、ごっこ遊びをしているようで、客観的に見れば滑稽なのかもしれない。

 それでも彼が、「蝉」という名前を捨てなかったことが嬉しかった。

 「雪乃」という役割を続けてくれていることが嬉しかった。

 「蝉」と「雪乃」……どちらも失いたくないと思う。

「……さあ、選んでよ」

 彼は促す。

 彼が「大切な話」をする……正直、どちらの言葉でも構わない。

 けれど、彼がどちらかを選んでくれと、そう言うのであれば……。


 日向子はゆっくりと、蝉の手ごと右手を持ち上げた。

「……わかった。じゃあ、このまま話すからね」


 日向子の左手を解放し、右手は握ったまま。


 そのまま、今度は背中を包み込むようにして、蝉は後ろから日向子を抱きしめた。

「……好きだよ……日向子ちゃん」

 耳元で囁かれる、「大切な話」。

「……いつから、なんてよくわからないケド、キミのことが誰よりも大切になってた。

大好きなキミの願いならなんでもおれが叶えてあげる……ピアノしかできない男だけど、必ずキミを幸せにしてみせるよ。だから……」

 右の頬に、唇が触れる。

「おれのカノジョになって下さい」


 それが彼の「大切な話」。

 とても彼らしい、愛の告白。

 それは日向子が、ずっと待ち望んでいた言葉だった。

 伯爵から卒業したあの日から、温めていた想いを受け止めてくれる愛しい言葉。

「……わたくしで、よろしいのですか?」

「……キミじゃないと、イヤなんだってば」

「……わかりました」

 日向子は少し首を右にひねって、愛しい人の顔を真っ直ぐに見つめた。

「わたくしを、あなたの彼女にして下さい」

 日向子の答えを受けて、少し緊張していた彼の顔にじんわりと安堵の色が浮かんだ。

「……カノジョ、だったらいいのかな? 今度はそこに、キスしても」

 左手の人差し指で、日向子の唇に触れる。

 日向子ははにかんだ笑みを浮かべて、ゆっくりと首を縦に振った。


 ようやく唇を重ね合う瞬間、重なったままの右手は、どちらからともなく求め合うように指を絡め合った……。










 《スノウ・ドーム》を出た2人は、生まれ変わって新しい季節を迎えようとしている、その場所を外からもう一度眺めていた。

 この場所が新しくなるように、2人の関係も新しいものに変わっていく。


 変わらないものをその中に秘めたままに。


 蝉は大きく伸びをしながら、口を開いた。

「あー、折角カノジョが出来たケド、超前途多難!」

「そうですか??」

「だってよりによって恩師の娘に手を出しちゃってるわけじゃん?
おれ、ひょっとしたら先生にぶん殴られちゃうんじゃないかなぁ」

「お父様は厳しい方ですけれど、暴力を振るうことはないと思いますわ」

「わかんないじゃん、日向子ちゃん、お屋敷に彼氏連れて来たことなんて……あったか。ははは……」


 蝉が言っているのは有砂のことだろう。

 なんだか笑顔がひきつっている。

「あー!!なんか思い出したらメラメラしてきた!!」

「め、メラメラですか?」

「そうだよ、思い出してみたら何かっていうと、みんなしておれのお姫様に馴れ馴れしくしてくれちゃってさー。
最初に絶対に手は出すなって釘刺したのに……おれの話なんて無視じゃんっ。もうっっ!!」

「ぜ、蝉様……落ち着いて、きゃっ!?」

 蝉はいきなり日向子の身体をひょいっと抱き上げてしまう。

 いわゆるお姫様抱っこ、と呼ばれる状態だ。

「もう二度と他のヤツになんか触らせないぞ!
親友だろうと仲間だろうとぜーったいに!!」

「あの、あの~」

「よーし、帰ろう! 早速お屋敷に直行して先生に結婚の許しをもらわなくっちゃ!!」

「け、結婚て……」

「殴られても蹴られても、ぜーったい許可してもらうからねっ」

「……ふふ、もう蝉様ったら」


 どんな形でもいい。

 どんな順番でもいい。


 2人が一緒にいられれば、どんな未来でもハッピーエンドになる。



《END》
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