「……日向子」
大きな窓から差し込む西日の眩しさに、幼い少女は目を細める。
「なんでしゅの……? おとうしゃま」
「……今日からこの子がこの屋敷で暮らすことになった」
逆光の中に立つ父と、傍らに佇む少年の姿が、太陽が沈みゆくことでゆっくりと明らかになっていく。
「……はじめまして、おじょうさま」
まだあどけない顔を緊張にこわばらせながら、少年は恭しくお辞儀した。
「ほんじつより、くぎみやたかつきせんせいのもとでべんきょうさせていただくことになった……『ゆきのぜん』です。
よろしくおねがいします」
少女は、にっこり笑った。
「はいっ。よろしくでしゅわ、じぇん!」
「……ぜん、です」
少年は生真面目に訂正した。
「……じぇんっ」
「……ぜん、です」
「だから……じぇん、でしょう?」
「……」
少年は困ったような顔をしてしばらく考えたあと、言った。
「……ゆきの、とよんでください」
《第3章 林檎には罪を 口付けには罰を -impatience-》【1】
「……先生、失礼します」
「……来たか、漸」
あの日とよく似た西日が、部屋の中を赤く染めあげている。
「……わかっているとは思うが、娘の……日向子のことだ」
「はい。お嬢様は、おかわりなく健やかにお過ごしです」
「……仕事は順調そうなのか?」
「はい。そのようにお見受け致します」
「……そうか」
60を間近にした初老の紳士は、その低い声に苦渋をにじませた。
「……もっと早く挫折するかと思ったが、あれも案外としぶとい」
それは先程の問掛けが、愛娘が選んだ道を尊重し、応援しようという意図とはまるで逆の意味を持つことを如実に物語る言葉だった。
「……それで、日向子にちょっかいを出す不届き者の影はないんだろうな?」
「……はい。そのような気配は……ございません」
紳士はとりあえず安堵したかのように深く息をついた。
「くれぐれも間違いのないよう、よく監視するように。
日向子はいずれ遠くないうちに見合いをさせて、しかるべき家に嫁がせねばならない。傷物にするわけにはいかんのだからな」
「……心得ております。
それでは、本日もお嬢様をお迎えに参りますので、失礼させて頂きます」
几帳面な礼をして、「釘宮漸」は茜色の窓に背中を向けた。
「……漸」
紳士はその背中に言葉を投げる。
「……お前も、釘宮の後継候補の自覚があるなら、雑多でやかましい軟派な軽音楽にばかり傾倒するようなことのないようにしなさい。
私が見込んだ才能を、空費するんじゃない」
「釘宮漸」は激しく渦を巻く感情を、いつものように呑み込んだ。
悟られてはいけない本心を隠した。
「……バンド活動に関しましては、先生のご寛大な配慮に感謝しております。
これからも釘宮の名に泥を塗ることのないよう、精進致します……」
「ねえ、雪乃。相談があるのだけど」
「……なんでしょうか」
日向子は懸命に頭をフル回転させながら、運転席の青年へ向け、昨日から考えておいた台詞をつむぐ。
「雪乃、お父様のお使いをしながらお勉強するの、大変ですわよね?」
「……それが私の役目ですので」
「でも雪乃はいずれ釘宮の家を継ぐ人なのだから、もっとピアノの修練に専念すべきだと思いますの!」
「……何が、おっしゃりたいのですが? お嬢様」
日向子は「来た!」とばかりに切り出した。
「例えば、わたくしの送迎だけでも誰か他の方に替わって頂いたら、随分と雪乃も楽になるのではなくて!?」
「断固お断り致します」
きっぱりした口調でぴしゃっとシャットアウトされて、日向子はたじろいだ。
「……やっぱり、ダメですの?」
「当然です……何をお考えですか」
「……ダメですわよねぇ……」
「……誰に頼まれたかは存じませんが、お嬢様を責任持って送迎するのも、私の役目です。他の誰に譲るわけにも参りません」
日向子はちょっとがっかりしたような顔をしていたが、
「そうですわね。わたくしも、こうして雪乃と話しているとなんだか安心しますし」
と、次第に機嫌を回復させた。
「わたくしたちは、子どもの頃からずっと一緒ですものね」
「はい」
「でもどうしてお父様はあなたを正式な養子にして、名実ともの後継者にしないのかしら。
いつまでもまるで使用人のような扱いをするなんて、おかしいですわよね。
高校入学を期にあなたがお父様の後継候補になることが決まったと聞いた時は、てっきりわたくしにお兄様が出来るものと思いましたのに」
「……私は、今のままで十分満足しておりますので」
日向子は小さな溜め息をついて、シートにもたれかかった。
「……お父様のお考えになることは、わたくしにはよくわかりませんわ……」
日向子を無事マンションまで送り届けた後、雪乃はいつものように、素顔を隠すレンズを外した。
日向子の部屋の窓に灯りがつくのを見届けながら、「雪乃」から「蝉」になった青年は、言えなかった真実を独り呟いた。
「……おれがキミのお兄ちゃんになれないのはね……雑多でやかましい軟派な軽音楽にばかり傾倒してるから、だよ、お嬢様……」
自嘲の笑みを浮かべながら、蝉はポケットに入れていた仕事用の携帯の電源を落とし、グローブボックスの中にしまってあったプライベート用のそれと持ち換えた。
「……あ、メール」
受信ボックスを開くと、20分ほど前に届いていたらしい紅朱からの新着メールがあった。
「……んー?」
絵文字を一つも使わない洒落っけのない文面の、簡潔なメッセージ。
『緊急ミーティングやる。仕事終わったら綾ん家に集合。
ちょっと面倒なことになった』
「面倒なこと……って何??」
「面倒なことってのは、『D-union』絡みだ」
紅朱の口から『D-union』という言葉が出た瞬間、全員が微妙な表情を浮かべた。
玄鳥の部屋……けして広くはないが、綺麗な1ルームの和室に集まったheliodorのメンバー5人。
「『D-union』……ってさ」
万楼が口を開いた。
「確か、ちょっと前に出来たボクたちの私設ファンクラブだよね。ライブの時に花くれたり、連名でファンレターくれたりする……」
「……善意の団体やで。基本的には……な」
有砂はたっぷりと含みのある言い回しで呟いた。
「学校の生徒会みたいなもんだからねー」
蝉が言った。
「マナーの悪いファンを注意したりして、ドーリィを統轄してくれてるのはマジ助かるんだケド……ちょっと過激な団体なんだよね~」
「過激な団体……??」
興味深げにリピートする万楼に、いつにないほど真剣な顔付きで玄鳥が告げた。
「どうやら……会員制掲示板で、粛清会議っていうのを毎月やってるらしくてね。
行動や思想に問題があるドーリィをターゲットとして選んで、粛清するとか」
「粛清……?」
あまりにも物騒な言葉に万楼は目をしばたかせた。
「それ、殺すわけじゃないよね?」
「当たり前だろ」
と、紅朱。
「ライブハウスに出入り出来なくなるように工作したり、メンバーに近付かないように脅迫したり……ってところだな。ほとんど犯罪スレスレだ」
「なんかすごいね……」
ジュースをちゅるちゅるストローですすりながら、万楼は目を半眼した。
「本当にそんなことやってるの?」
「現状はあくまで噂、ってとこだ。嘘か本当か定かじゃないまま、ネットで流布されて広がっちまってる」
紅朱は苦々しそうに呟く。
「だがそんな噂があるだけで十分大問題だ。
真偽を確かめたいところなんだが、なかなか容易じゃない」
「何しろ、会員以外には公開されてないですからね」
玄鳥が後を引き継いで言った。
「会員になるには、厳重な審査があるし……メンバーの俺たちが潜り込んでの内部調査も難しい」
「警察に頼んじゃえば?」
「それも噂程度では無理だよ。ことを荒だてるのは得策じゃないし……」
「そっか……」
静まりかえった部屋にチュルチュルと、万楼がすするジュースの音だけが響いた。
その沈黙を破ったのは、有砂だった。
「……お嬢に協力してもらったらどうや?」
四人はほぼ同時に有砂に視線を向けた。
「よっちん、それどゆコト?」
代表するようにたずねる蝉。
「言った通りの意味やけど?」
「つまり、あれか?」
今度は紅朱が口を開いた。
「日向子をスパイとして入会させて、内部調査するってことか?」
「それは難しいですよ」
玄鳥が言った。
「入会審査は本当に徹底していて、素性を隠すのはほとんど不可能と言っていいでしょう。
日向子さんはマスコミ関係者ですから、警戒されて審査を通らないに決まってます」
「……別に、内部に潜入せんでもええ方法があるやろ?」
「有砂、そんなもったいぶった言い方しないで教えてよ」
万楼がしびれをきらしたように訴える。他の三人も全く同じ心境だった。
有砂は、答えた。
「ターゲットになればええやろ」
「ターゲット?」
万楼は目を丸くする。
紅朱もいぶかしげに問う。
「……日向子を粛清会議にかけさせるように仕向けるってのか?」
「いくらなんでもそれは……」
玄鳥が口を挟む。
「日向子さんを危険な目に遭わせることになりかねないでしょう?
とてもじゃないけど俺は賛成できません」
「同意、同意!」
蝉は元気よく挙手する。
「日向子ちゃんを巻き込むなんてダメに決まってんじゃん!」
「反対するんやったら代替案を出したらどうや?」
有砂はさらりと切り返す。
4人は思わず沈黙した。
今度はジュースをすする音すらしない静けさが広がった。
結局、結論を保留にしたままその日の緊急ミーティングは解散となった。
「あのさぁ」
マンションに帰った後。コーヒーをいれるためにケトルを火にかける有砂に向かい、「オフ」モードになった蝉は言った。
「……よくわかんないんだケド」
「何が」
「よっちんさ……うちのお嬢様に、おれの替わりに運転手やりたいって話、マジでしたっしょ?」
「……した。誰かさんのせいで無理そうやけどな」
「それは当たり前! ……ケド、よっちんさ……こないだの一件以来、結構あの子と話したりするようになったじゃん?
おれ的にはうまくいってるんだな、って思ったワケよ。変な意味じゃなくてさ」
「……で?」
「……あの子をターゲットにしよう、なんてなんで言うの??」
どこか責めるような口調になっているのを自覚していたが、仕方がないと思った。
有砂は顔色一つ変えない。
「……バンドのメンバーとしても合理的な判断をしただけやろ。
そして、仮にお嬢が危ない目におおたとしたら、それを守るんはジブンの仕事ちゃうんか?」
「それはっ……そうだケド……」
「守りきる自信がないんやったら、偉そうに監視役を気取るのはやめるんやな……鬱陶しいだけや」
「……よっちん……」
蝉は、動揺していた。
「……ジブンは、heliodorのメンバーとしても、お嬢の世話役としても、釘宮の後継としても……中途半端やな」
つきつけられた言葉は、鋭く胸に突き刺さった。
《つづく》
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