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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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「すごくいい街なんです。海も、山もあって……都会に比べれば不便なことは多いけど、都会にないものもたくさんあって……日向子さんも気に入ってくれるといいんですけど」

「まあ、楽しみですわ」

 よく晴れた高い空の下、関越道を軽快に滑るミニバンの車内は、心なしかいつもより弾んだ青年の声と、楽しげな相槌、そして二人の大好きなハードロックのBGMで満たされている。

「……案内したいところはたくさんあるんですけど、今日は難しいですよね」

「ええ……残念ですけれど、どうしても日帰りでしか都合が」

「いいんですよ。元々兄貴のわがままに付き合ってもらってるんですから。
……見ず知らずの人のお墓参りのためにわざわざすいません」

 日向子は、後ろの座席を振り返った。

 かすみ草と淡いオレンジ色の百合を合わせたブーケが甘い香りを微かに放ちながら横たわる。

「……いいえ、わたくしはサンタさんですから」






《第6章 11月のキャロル -May I fall in love with you?-》【4】










 来たる命日に、自分の替わりに墓前に花を手向けてほしいというのが紅朱の口にした願い事だった。

 先日の事件で怪我をしてからまだ一週間、抜糸すら済んでいない紅朱はメンバーたちから絶対安静を強いられていた。
 半ばやむなしといえどライブの出演時間に遅れた件もあって、さしものジャリアンも今回はおとなしくメンバーの声を受け入れ、日向子に代理を頼んだのだ。
 そしてその日向子を地元まで案内するようにと、玄鳥に依頼した。

 もっとも紅朱に言われなくてもそうしたに違いなかったが。


「兄貴、本当は自分で来たかった筈ですよ。
上京してから実家の敷居は一回も跨いでいないのに、叔母さんの命日だけは毎年こっそり帰ってましたからね」

 「叔母さん」……玄鳥がなにげなく口にした言葉に日向子はなんとなくドキッとした。

 浅川兄弟の母方の叔母……これから行く土地に眠る女性が実際は玄鳥のなんであるか日向子は知っている。

 玄鳥自身すら知らない事実……兄弟の秘密。

「……叔母様は、どのような方だったのでしょう」

「……実は亡くなったのは俺が物心つく前だから、全然覚えてないんです。
でも、いい人だったのは間違いないと思いますよ」

 玄鳥は苦笑する。

「兄貴の初恋の人らしいですからね」

「え?」

 そんな話は初めてだったので、日向子は少し驚いた。
 確かに紅朱は叔母によく懐いていたこと、その死が非常にショックだったことを口にはしていた。

 幼い頃とはいえ、憧れていた女性が亡くなったのならそれは、忘れられない悲しい記憶になるのは当然だろう。

 日向子は自分の獅貴への思いを重ねてしまい、胸が痛んだ。

 紅朱はどんな思いで初恋の人の遺した命をすぐ側で見守ってきたのだろうか、と。

「……日向子さん?」

 玄鳥は日向子の顔が曇ってしまったのに気付いて、少し慌てる。

「あの、どうかしましたか……? 俺、何か変なことを……あ」

「玄鳥様……?」

「日向子さん……もしかして……」

 玄鳥はハンドルに絡む指先にきゅっと少し力を込めた。

「……兄貴のそういう話は、あまり聞きたくなかったですか……?」

「そういう、話……とおっしゃいますと……?」

「それは、だから……なんていうか……」

 日向子は玄鳥が何を危惧しているのかわからないまま、苦渋に歪む彼の横顔を見つめていた。

 沈黙が訪れる。

 「mont sucht」のロックバラードが、二人の沈黙を彩る。

 一分半にわたる叙情的で壮大な間奏を経て、大サビに差し掛かったところで、

「……日向子さん」

 改まったような声で玄鳥が口を開いた。

「俺の願いもひとつ、聞いてくれるって言ってましたよね」

「ええ……」

「……少しだけ、寄り道をしましょう」

 進行方向をじっと見つめる玄鳥の真剣な眼差しは、何がしか決意を秘めているようだった。















「……寒く、ないですか?」

「少しだけ……でも、風がとても気持ちいいですね」

 髪やコートの裾を揺らめかせながら微笑む日向子に、玄鳥も微笑を返す。

 冬の澄んだ海原は、晴れた空の下、ゆったりと波音を響かせている。

 二人の佇む岬からは、ずっと遠くの島までが見渡せた。

「……結構、いい景色でしょう? 今日が晴れでよかった」

「玄鳥様はよくここへいらしていたのですか?」

「いえ……実は初めてなんです。来たくても、一人ではなかなか……」

「え?」

 言われて辺りを見回すと、日曜の昼過ぎとあって人もそれなりにいるが、それにしても一人できている者は全く見当たらない。

 世代を問わず男女二人連れか、子連れの夫妻ばかりだ。

「……ここ、恋人岬っていうんです」

「恋人岬……」

 玄鳥は北風のせいではなく、赤くなった顔を、立てたコートの襟で少しだけ隠した。

「伊豆やグアムにあるのと同じです……恋人たちがここで愛を誓うと必ず幸せになれるっていう……」

 成程男一人では二の足を踏んで当然だった。

「まあ……そのような場所にわたくしと来てしまってよろしかったのですか?
素敵な恋人の方とご一緒なさるべきでは……」

 かなり的外れな気遣いをそれと全く気付かず口にする日向子に、玄鳥は思わず笑って、それからゆっくりとコートの襟から手を放した。

「……日向子さん」

「……はい?」

 ひとつ息を整え、玄鳥はゆっくりと告げた。


「……あなたが、なってくれませんか? ……俺の、その……」


 あと一息。

 たった一言。


 わずか数文字付け足すことができれば玄鳥の告白は完成できた。


 しかし。


 この男、こんなタイミングで邪魔が入らなかったためしがなく……。



「あのォ」



 決死の戦いに挑む男の背後からなんとも間伸びした呑気な声がかけられる。

「……玄鳥さん、ですか~?」

 二人が振り返ると、どうやら観光客ではなく地元民らしい親子連れのお父さんが声の主だった。

「はあ、そうですけど」

 緊張を強制的に解除された玄鳥がぽかんとしていると、

「おい、やっぱり玄鳥さんだって」

「やっぱり本物!?」

 今度はその妻らしき女性が目を輝かせてすごい勢いで玄鳥の前にしゃしゃり出る。

「きゃー、ファンなんですぅ、応援してますぅ!! やぁん、かっこいいっ!!」

「え……あ……はい、ありがとうございます」

 幼稚園か小学校低学年くらいであろう娘二人も母親に続いて駆け寄って、

「くろろだ~」

「くろちょだ~」

 不正確な発音で玄鳥の名前を大声で呼びながらはしゃいでいる。

 その声が潮風に乗って辺りに響くと、

「ねえ、くろと、って……」

「heliodorの玄鳥?」

「玄鳥が来てるらしいよ」

「この辺りの出身ってマジだったんだ?」

「すご~い、本人だ~」



 すぐさま10人ほど集まって玄鳥をぐるりと囲んだ。

 まだ呆然としたまま握手を求められたり、質問責めにあったりしている玄鳥を、日向子は少し離れて見ていた。

 みんな玄鳥にばかり気を取られてのことか、日向子の存在にはどうやら気付いてなさそうだった。

 玄鳥がファンに声をかけられたり、囲まれたりする光景を見ること自体は珍しいことではなかったが、バンドの拠点である東京から離れてもファンがこれだけいるのかと思い、日向子は純粋に感嘆していた。

 もちろんここは玄鳥の地元からそう遠くないところだから、他の土地よりはいくらか知名度が高いのかもしれないが、それでも驚くべきことだった。

「ねえ、あなたも玄鳥さんのファンなの?」

 ふと声をかけてきた一人の女性に、日向子は「はい」と答えた。
 heliodorが好きで応援しているのだから別に嘘ではない。

「私は名前くらいしか知らないけど、彼氏が好きらしくって」

 女性は、群れにまざって何やらギターの奏法や機材について質問しているらしい金髪の青年を指差す。

「よくわかんないけど、すごいんだってね。heliodorだっけ? メンバー個人のスキルは全員一定以上のレベルに達してるけど、ギターの玄鳥は飛び抜けてるってあいつは言うけど……そうなのかな?」

「そう……なのでしょうか」

「アマチュアバンドのギタリストとして埋もれるような人じゃないのに~、ってしょっちゅう愚痴ってくるんだけど、私に言われたって困るんだよね~」

 日向子は相槌を適度に返しながら、真っ赤な顔で何故かぺこぺこ会釈しているシャイで腰の低いギタリストを見つめていた。

 玄鳥が巧いのは当たり前だ。もちろん元々相当な才能があるのだろうが、加えて尋常ならざる努力をしているのだから。

 そんな玄鳥が評価されるのは正しいことであり、喜ばしいことである。

 それなのに不吉にざわめいてしまう自分の心が、日向子にも不思議だった。

 何故だろう。

 いつか玄鳥が遠くへ行ってしまいそうな気がする。

 少しずつ。

 少しずつ。

 手の届かない、高い場所へと。


「……そんなこと……あるわけありませんのに」


 何があっても信じると誓った小指がかじかんで、痛くて。

 寂しくなった。

 一歩、二歩あとずさって、そのまま日向子はきびすを返した。

 玄鳥を見つめていることが、今は少し辛かった。

 だからこの場を離れたかったのだ。



「待って!」



 呼び止める声とほとんど同時スタートで駆け出した足音と、騒然とする人々の声。

「待って……日向子さん」

 黒いコートの右腕が、翼を広げて包み込むように日向子の肩を引き寄せた。

「玄鳥……様」

「みなさんすいません、今日はこのへんで。よかったらまたライブ見に来て下さいね。また、会いましょう」

 早口で、けれど最大限の感謝の気持ちを込めてファンにそう挨拶し、一礼すると、玄鳥は日向子の肩を抱いたまま歩き出す。

「く、玄鳥様……あの……これ、誤解、されてしまいませんか?」

 思わず小声で尋ねる日向子。

「……あなたの背中が、あまり寂しそうで、つい……」

 玄鳥の顔は先刻までより更に更に、赤く赤くなっていく。

「俺……誤解されていいです……」

「え……?」

「……あなたは、嫌ですか?」

 真面目な顔で問う、斜め上の眼差しに、日向子はそっと首を横に振った。

 玄鳥は少し安心したように溜め息をついた。

「日向子さんのことほったらかしみたいになってしまってごめんなさい……退屈、でしたよね?」

「いいえ……退屈などではありませんでした」

 日向子はまた首を左右した。

「先程玄鳥様もおっしゃいましたでしょう?
わたくし……少し、寂しかったのです」

「日向子さん……」

 玄鳥は一瞬目を見開いて、その後どこか困ったような笑みを浮かべた。

「……heliodorはどんどん有名になってます。ライブの動員も信じられない勢いで膨れ上がってきています。どうしてだかちゃんとわかってますか?」

「え……?」

「アンケート見ると、新しいお客さんの大半は『RAPTUS(ラプタス)見てheliodorを知りました』って……書いてあるんです」

 『RAPTUS』……日向子の記事が載っている音楽雑誌だ。

「だから、日向子さんのおかげなんですよ」

 知らなかった。
 雑誌の部数自体はメインの記事如何で多少左右されることはあっても、そうは変動しない。
 読者アンケートの結果は悪くないとは聞いていたが、日向子が自分の書いている記事の影響を実感することは今まで全くなかったのだ。

「日向子さんは、俺たちにとって幸運の女神様みたいなものなんですよ」

「そんな……いくらなんでも大袈裟ですわ」

「はは、ちょっと恥ずかしい言い回しでしたね。でも、本当に……あなたが見ていてくれるなら、俺は……」

 玄鳥は不意に果てしない空を見上げる。

 遠くを、見つめる。

「……もっと高く、飛べるかもしれない……」








《つづく》
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「……プロポーズを、なさったのですか?」

「ああ。本気でな」

 紅朱はいたって真面目な顔で語る。

「俺は綾の父親になるつもりだった」

 幼く淡い恋の記憶を辿る紅朱はそれを恥じらうどころか、誇らしげにすら見える。

「叔母様は、何と?」

 日向子もそんな紅朱をもちろん嘲笑ったりしなかった。

「フラれた」

「まあ」

「幼稚園バッグ引っ掛けたガキに面と向かって、『年下には興味がないの。ごめんね』だってよ」

 まるで今しがたの出来事を語るかのように不機嫌そうに口をへの字に曲げる紅朱に、日向子は微笑する。

「叔母様は……紅朱様を子供扱いなさらなかったのですね?」

 紅朱もそれに、小さく笑った。

「そうだな。あの人はいつだって俺を一人の人間として扱ってくれた。
……もっとも、俺はやっぱりガキでしかなかったがな」












《第6章 11月のキャロル -May I fall in love with you?-》【5】











「紅朱、様……?」

 意味深な言葉の意味を問おうとした日向子に、紅朱は笑って、おもむろに割箸を差し出した。

「……冷めるぞ、とりあえず食え」

「あ、はい。頂きますわ」

 二人の前には少し前に運ばれてきたばかりの杉屋謹製牛丼とみそ汁、それにサラダがある。

 ランチタイムを少し外した中途半端な時間のせいで、杉屋店内は比較的閑散としている。

 向かい合ってもくもくと牛丼を食べるこの二人連れは、通りかかる度に店員にチラ見されている。

 日向子は相変わらずこういった店が全く似合わないし、連れている男も相当ミスマッチである。

 間違いなく、異色なのだ。


 さながら月と太陽が同じ空で輝くような。



 当の二人はそんなことを気にする様子もなかったが。

「たまごと絡めるとお味がまろやかになりますわね」

「うまいか?」

「はい、とっても」

「そうか。よかったな」


 何とも和やかな空気をかもし出しながら、楽しそうに食事している。


「ところでお前は東京生まれの東京育ちなのか?」

 お茶を呑みながら、ふと思い出したように紅朱が口を開いた。

「はい、そうですの。お母様は北海道の生まれですけれど」

「ふーん、オヤジさんとどうやって出会ったんだ? やっぱり親の決めた相手同士だったり、見合いとかか?」

「知り合ったのは病院ですわ」

「……病院?」

「お母様は看護婦でしたのよ。お父様が胃を患って入院した時に出会ったと聞きました」

 紅朱は箸を止めて日向子を見やった。

「……もしかして病院ってのは、あの病院か?」

「はい。我が家のかかりつけの病院のことですわ」

 紅朱にとっても、つい先日運びこまれたばかりの記憶も新しいあの病院。

「……もしかしてお前のおふくろさんて、普通の家の生まれだったりするか?」

「はい。お母様の実家は由緒ある家柄でもなければ、資産家でもありませんわ」

 日向子は、紅朱が驚いた顔をするのも無理はないと思った。
 日向子の話を聞いていれば、その父親は家柄や世間体を何より気にする厳格な人物というイメージを抱かざるをえない。
 そしてそれは実際その通りなのだった。

「お母様が亡くなってからというもの、お父様は口酸っぱくおっしゃるようになりましたわ……人にはそれぞれ生きるべき世界があると。
生きるべき世界からはみだすと人は必ず不幸になると……。
お母様は、家の名に恥じない妻になろうと気を張りすぎて寿命を縮めたと思っていらっしゃるのかしら……」

 平凡な家庭で生まれ育った女性が、名家……とりわけ釘宮のような特殊な家で生きていくのは、けして楽なことではなかっただろう。
 若さと、抑えきれない想いにつき動かされて、周囲の反対を押し切って結婚した結果が、最愛の人に死に至るほどの苦労を背負わせることになったのだとしたら……父が深く後悔するのは無理もないことだ。

「……だからオヤジさんはお前がマスコミみたいな特殊な仕事についたり、俺たちみたいな連中と関わるのが面白くねェんだな」

「ええ……そうかもしれません」

 娘を不幸にさせないためにあらゆる災いの種を遠ざけ、排除する。

 いばら姫を呪いから守るために国中の糸車を燃やしてしまった王様のように。

「お前が時々変にお嬢様らしからぬ言動をとる理由はよくわかった」

 紅朱は苦笑し、けれどすぐに真顔になった。

「……人にはそれぞれ生きるべき世界があるって意見は俺も賛成だな。そこからはみだすと不幸になるってのもわからなくはない。
……だがその世界、ってのは血筋や家柄で決まるもんじゃねェよ。生まれた瞬間から運命が決まるなんて俺は信じねェからな……だってガキは親を選べねェだろ?」

 日向子は頷いた。
 万楼や有砂のように親の都合に振り回されて苦労する者がいれば、玄鳥や蝉のようにあっけなく家族を失ってしまう者もいる。

 とても理不尽な不幸を意思に関係なく背負わされる。

「生きるべき世界ってのは、生まれとは関係なく、生きながら自分で見付けるもんだと俺は思う。
より自分らしく、より気持ちよく生きることができる世界……俺にとってはheliodorだけどな」

 日向子はまた頷いた。紅朱は満足そうに笑う。

「今heliodorを手放せば間違いなく俺は不幸になるだろうしな」

 日向子には紅朱の語る「世界」に純粋に共感することができた。

 「生きるべき世界で生きる」、それはその人のけして譲れない、大切な、心の真ん中にあるもを守って生きること。

 それは簡単なようで難しいこと。

「メンバーも、ライブに来るファンもそれぞれが違う生きるべき世界を持ってるのかもしれねェが、少なくともheliodorの音楽を共有している間はな……繋がって、ひとつになる。
その瞬間の快感は半端ねェよな」

 日向子は更にまた頷いた。

 その感覚は、初めてheliodorと出会ったあの時から何度も感じてきた。

 紅朱はいつの間にか空になった丼の縁に割箸を置きながら、日向子を見つめる。

「heliodorが好きか? 日向子」

「もちろんですわ」

「なら大丈夫だ……俺とお前の世界はちゃんと繋がってる」

 heliodor……熱狂と歓喜、そして燃え盛る情熱と温かい想いを抱いた太陽の国。

 二人の世界が交わる場所。


「わたくしにとって、heliodorはいつの間にか本当にかけがえのないものになってしまいましたわ」


 今まで高山獅貴……伯爵への憧れだけが日向子の世界の中心だった。

 伯爵にいつか食べてもらいたくて料理を練習し、伯爵を想う故に他の男性に興味を持つこともなく、伯爵のもとにたどり着くために父親と対立してまで音楽雑誌の記者を志し、伯爵と少しでも関係のあるものは何でも手を出し、ただ伯爵と再び出会うことだけを目的に生きてきたようなものだったのに。

 今はもうそれだけではない。

「わたくしは記者を志してよかったと心より思いますわ」

 紅朱はそんな日向子を、色素の薄い瞳で優しく見つめる。

「……確かにお前の記事は読んでるほうが恥ずかしくなるほど愛に満ちてるよな」

「まあ……お読み頂いてるのですか?」

「そりゃ読んでるさ、全員な」

 日向子があまり大袈裟に驚いたので、紅朱はいかにも愉快そうに声をたてて笑った。

「いい加減しっかり自覚しろよ……俺たちはみんなお前が好きなんだ」

「好き……ですか」

「……あ」

 大して深く意味もなく発した言葉を反芻されて、紅朱は今更のように、

「いや、好き……ってのは、変な意味じゃねェけど」

 慌てて注釈する。

 だがそのことがかえって日向子に「好き」という言葉を意識させた。

「……」

「おい、お前なんで無言で頬染めてんだよ」

「……え」

 日向子は自分の頬に思わず手を当てた。

 確かになんだか体温が少し上がった気がする。

 温かいお味噌汁や、牛丼に振掛けた七味のせいではなく……。

 紅朱は、何故かぼーっとしてしまっている日向子をじっと凝視した。


「……お前、まさかうちのメンバーの中に誰か気になる奴がいるのか?」


 いきなりストレートにぶつけられた質問に、日向子はとっさに答えることができず、混乱してしまっていた。

 その沈黙をどう受け止めたのか、紅朱はぐっと身を乗り出した。

「なあ、そうなのか? 誰だ? お前は誰が好きなんだ??」

「いえ、その……」

 あまりの勢いに圧倒されて、日向子はどんどん思考回路を混線させていった。

「わたくし……わたくしは……伯爵様しか好きになりません……」


 ほんの数ヵ月前まで真実だったそれは、まるでとってつけたような逃げの言い訳のようだった。

 本当の気持ちを無意識に隠そうとしているかのような、建前の言葉。

 自覚した瞬間に壊れてしまいそうな、微かな恋の兆しをその裏側に秘めた言葉。

「……そんなに高山獅貴が好きなのかよ」

 紅朱はそれを文字通りに受け取って、不機嫌そうに目をそらした。

「……面白くねェ」

「紅朱様……」

 冷めたお茶を飲み干すと、ようやくなんとか頭が回り始める。

「紅朱様は何故それほど伯爵様を嫌われるのですか?」

「お前こそあんな奴なんかのどこが好きなんだ」

 紅朱は苛立ちを隠そうともせずに語気を荒げる。

「高山獅貴がどういう男かちゃんとわかってて言ってんのか?」

 鋭い問掛けだった。
 日向子にとって伯爵と過ごした時間など幼い頃のほんの数日間……それも真夜中の僅かな時間だけのこと。

 伯爵のことをちゃんとわかっているなどとは間違っても言い切ることはできない。


「……わたくしは伯爵様のことをよく知らないかもしれません……だからこそ、近くに行って、もっと知りたいのです。
そして自分の気持ちも、確かめなくては……」

「……初恋なんて、綺麗なまんましまっておいたほうが幸せかもしれないぞ……?」

 紅朱は呟く。

「……真実なんて、知らなくて済むなら知らないはうがいい……」

 日向子に対してのみ向けられた言葉ではないように聞こえた。

 それは玄鳥のことを言っているのだろうか?
 それとも……彼自身が真実と引き替えに何か大切なものを壊してしまったということなのか。

 誰にでも秘密があり、誰にでも苦悩があり……日向子はheliodorのメンバーたちを取材し、交流することで少しずつ彼等の真実を知ってきた。

 ステージの上に立つ姿からは想像もできないほど、弱い一面も見てしまった。

 そんなことは当たり前のことかもしれない。

 彼等は普通の人間で、普通の……男、なのだから。

 もしもあの颯爽として優雅で、欠点などなにもなさそうな伯爵にもそんな真実があるなら、日向子はやはり知りたいと思う。

 それが例えば、耳を塞ぎたくなるような残酷な真実でも。

「……それでもわたくしは、伯爵様を好きになったことを悔やんだりは致しませんわ」

 はっきりと告げた言葉に、紅朱はしばらくの沈黙の後で溜め息をついて、苦笑した。

「……強情な奴だ。オヤジさんの苦労が偲ばれるよな、まったく……」

「ふふふ」

「……まあいい。俺は負けてやる気はねェしな」

「……はい?」



「……あんな奴なんか忘れちまうくらい、夢中にさせてやるからな」



 ファンなら腰が砕けるような美声の囁きに、日向子は目を丸くして固まった。

「……heliodorに、な!」

 と紅朱が付け足す瞬間まで。










 穏やかな時が流れていた。

 しかしゆっくりと、カウントダウンは始まっている。

 運命の日に向かって……。













《第7章につづく》
「ついに買ったの?」

「うん」

 白いボディの最新型携帯を両手で包むようにして、不慣れな手付きでぴこぴことキーを押しながら、万楼は上機嫌な笑みを浮かべている。

「……で、早速誰にメールしてるんだ?」

 問いながらも、玄鳥はそれが愚問だと知っていた。

 連絡がとりにくくて不便だから携帯を持てとみんなで再三説得したにも関わらず、必要性を認識していなかった万楼が自主的に携帯を買ったのだ。

 それは、彼に「繋がりたい」相手が出来たからに相違ない。

「送信、完了っと」

 万楼は満面の笑みで玄鳥に買ったばかりの携帯を見せた。

 メッセージが消えて待受に戻ったディスプレイには、二人で顔を寄せて撮った、まるでカップルのような万楼と日向子の写真。

「お前っ……こんな写真いつ?」

「えへへ」

「えへへ、じゃない!」

 わかりやすく動揺する玄鳥に、万楼は追い討ちをかけるかのように告げた。

「今のはね、またデートしようね、っていうメールだよ」












《第7章 秒読みを始めた世界 -knotty-》【1】








「なんかさっきから30分おきくらいにメール来てない?」

「万楼様は新しい携帯をお持ちになったばかりで、誰かにメールしたくて仕方がないのですわ、きっと」

 別に不慣れということもないのに、緩慢な仕草で返信メールを作成する日向子を、美々は苦笑して見守る。

「けどさ、ほとんど付き合いたてのカップルみたいじゃない? ……いっそ、本当に付き合っちゃったらどう?」

 日向子の脳裏にちらっと、夜の水族館でのことがよぎった。

 あの時の頬の感触……あれは多分……。

 キス。

 そのことを思い出す度に日向子は頭の中で「万楼様は帰国子女・万楼様は帰国子女・万楼様は帰国子女……」と唱えることにしていた。

 きっと頬にキスするくらいは万楼にとっては挨拶程度のものなんだろうという解釈をすることにしたのだ。

 この時も日向子が沈黙したのはお題目を唱えるためだったのだが、美々はそれを少し違う意味で受け取った。

「……日向子は、やっぱり伯爵様じゃなきゃ嫌なの? もったいないよ。あんた、可愛いんだから……その気になればいくらでもイイオトコ捕まえられるのに」

「……美々お姉さまは、どうですの?」

「え?」

 なんとか送信を完了した携帯を閉じて、日向子は美々を振り返る。

「美々お姉さまこそ、殿方とはお付き合いなさらないのですか?」

 美々は一瞬虚をつかれたような顔をしたが、すぐに笑ってみせる。

「別に、今は仕事が楽しいから必要ないよ。結婚願望とかって全っ然ないしね……」

 美々は同性の日向子の目から見てもかなりの美人で、背丈もすらりとしていて細いのに出るところはしっかり出たモデル体型。
 性格も明るくて社交的、面倒見のいい性格だから、年上からも年下からも極めて男性受けはいい。
 それなのに一切特定の恋人を作ろうとはしない。
 挙句に、

「まあ、もしあたしが男だったら、日向子にプロポーズするところだけどね~」

「お姉さまったら……」

 この日向子溺愛っぷりのせいで、定期的にレスビアン疑惑が浮上してしまう有り様だ。

「あ、いけない……そろそろ先方と打ち合わせの時間だ。ごめんね、今日はお茶付き合えなくて」

「いいえ、お仕事頑張ってくださいませ」

 バッグを左手、右手に大量の資料や書類のようなものを抱えて、「じゃあね」と小走りで美々はデスクを後にした。

 その慌ただしい後ろ姿を見送った後、日向子は何気無く今まで美々がいたデスクのほうを見やった。

「あら……」

 デスクのすぐ下の床に何かが落ちている。
 
 美々が今落として行ったのだろうか?

 日向子は少し屈んで、それを拾い上げた。

 拾い上げてみるとそれは、一枚の写真だった。

「……?」

 日向子は写真を見つめながら首を傾げた。

 写真に写っているのは、子どもだった。
 3つか4つくらいの女の子と男の子で、まるでアンティークドールのようなゴシック調の黒い服で、もし姿勢を正して並んで座っていたなら本当に人形と間違えてしまいそうなふうだ。

 しかし写真では、ちょこんと座っている女の子を男の子が縫いぐるみを抱くようにぎゅっと抱き締めていて、二人ともこの上なく活き活きとした笑顔だった。

 なんとも微笑ましい写真ではあるのだが、日向子は思わず凝視してしまっていた。

 写真は昨日今日撮られたものではなく、何年も昔に撮られたような年季を経て色褪せたものであるのに、日向子はかなり最近、この男の子を見ている。

「……菊人、ちゃん?」

 もちろん、似ているがそうではないのだろう。

 菊人でないとするならば、これは……。

「有砂様……?」

 もちろんそうと決まったわけではない。
 しかし、日向子は微かに胸騒ぎを感じた。

 明日、この写真が美々のものなのか、どこで入手したのかを聞いてみなくては……。

 もしこれが有砂の写真なら、一緒に写っているのは……。












「なんだよ、今日も蝉と有砂は遅刻か?」

 紅朱がやって来た時、いつものカフェのいつもの席には、玄鳥と万楼だけが対面に座っていた。

「いや、二人とも今日は来れないみたいだけど……」

「蝉はいつも通りだし、有砂は新しいバイトを始めたばかりだから大変らしいよ~」

「……それ、ミーティング中はしまっとけよ?」

「は~い」

 作成中のメールを保存して、大切そうに携帯をポケットにしまう万楼を見て、紅朱は何故か安堵していた。

 ずっとあのポケットの中には、錆びて重く沈黙した壊れた携帯電話が入っていたのを紅朱は知っている。

 恐らくはたった一人、過去に万楼が「繋がりたい」と願った人物のために持っていた携帯電話。

 けしてもう繋がらない電話を持ち歩くことで、万楼を自分を過去から逃げられないように戒めようとしていたのではないか?

 けれど壊れた携帯は所詮、もうどこにも繋がることはない。

 過去にだって、もう繋がらない。

 止まっていた時間が動き出した今なら……次の段階に進んでもいいのかもしれない。

 紅朱は静かな決意を秘めて席に着いた。

「ちょっとジェラシーだなあ」

「あ?」

 すぐにそんなシリアスな心情は吹っ飛んでしまう。

 当の万楼のおかげで。

「リーダーって必ず、こういう時は玄鳥の横に座るよね」

「は? 別に意識してそうしてるわけじゃねェよ」

「無意識なあたりが更にジェラシーだなあ」

 確かに紅朱は今何も考えず、自然に玄鳥の横に座った。
 理由は別にない。

「ジェラシーってなんだ、気持ち悪ィな」

「まったくだよ、変なこと言わないでくれ」

 呆れ顔の二人が面白かったのか、万楼は楽しそうに笑う。

「リーダーはやっぱり玄鳥が大好きなんだね」

「まだ言うか……」

「兄貴、こいつは今ちょっと変なテンションだから言っても無駄な気がする」

 紅朱は溜め息をついた。
 折角真面目な話をしようと思っていたのに、どう空気を戻せばいいのやら、という感じだ。

 おまけにこのタイミングで、


「まあ、皆様おはようございます」


 ひょっこりと日向子が現れてしまった。

「ミーティングをなさっているのですか?」

 もちろんここは日向子の行き付けの店でもあるのだから、この時間帯なら偶然の鉢合わせは十分考えられることではあったが。

「お姉さん一人なの? 一緒に座ろうよ。席なら空いてるよ」

 万楼はいきなり目を輝かせて、唯一の空席……つまりは自分の横を示す。

「あ、お前っ」

 玄鳥が反射的に身を乗り出す。

「えへへ」

「……」

「……なんで俺を睨むんだ、綾」

「……いや、別に」

 紅朱には窓側に対面で座った二人の間に漂う緊張感や、飛び散る見えない火花が全く察知できていなかった。

 察知できていないのは日向子も同じだったが。


「見て見て、お姉さん。期間限定の新作ケーキがあるんだよ? パイ生地ベースなんだけどね~」

「まあ、美味しそうですわ……」

 メニューを広げて、二人で肩を寄せ合うようにして覗き込む。

 万楼の、人に警戒心を与えることなく距離を縮めるテクニックは最早天性の才能だった。

「……だからなんで俺を恨みがましい目で見るんだ、綾」

「……気のせいだよ」

 すでに十分におかしな空気に包まれたこのテーブルではあったが、今日はこれで終わりではなかった。

 まあ、重なる時は重なるものである。


「……いらっしゃいませ」


 シックな黒のソムリエエプロンをまとった男性店員が、日向子の席に静かに水の入ったグラスを置いた。

「ありがとうございます、あの、オーダーをお願いしま……」


 振り返った状態のまま日向子は固まった。

 そして他三人も見事なくらいカチンカチンに固まってしまっていた。

「あ、あの……」

「な、なんで?」

「……まさか」


「……何やってんだ? お前」



「……ご注文、お決まりでしたら承りますが?」

 四人のよく知っている長身の愛想のない関西弁の男が、嫌味なほどスマートに制服とソムリエエプロンを着こなして、片手に正式名称をハンディターミナルという、お馴染の注文端末、もう一方にはトレイを持って立っていた。

「有砂様……ですわね?」

「……見ればわかるやろ」

 日向子の問掛けに平然と答えるさまは全くいつもの有砂だった。

「有砂さんの新しいバイト先……ってここなんですか?」

「それならそうとボクたちにも言っておいてくれればいいのに」

「よく採用されたな、本当にお前に接客業なんて出来るのか?」

 物珍しそうにしげしげと見つめながらめいめいに口を開くメンバーたちをうるさそうに見やって、

「……注文は?」

 かったるそうに再度促した。

 四人はなんとなく顔を見合わせて、それから、コーラ、カフェオレ、メロンソーダ、紅茶……といういつも通りの飲み物に、限定のフルーツケーキを2つオーダーした。
 有砂は、

「ご注文を繰り返します」

 と、マニュアル通りにオーダーをリピートする。

「……以上でよろしいですか?」

 リピートし終わると、日向子が代表するように、

「はい、結構ですわ」

 と答えた。

「かしこまりました」

 有砂はトレイを持った手を前に持って来て、流れるような身のこなしで一礼すると、


「ごゆっくり、どうぞ」


 にこっ、と日向子に向かって思いきり微笑んだ。

「えっ」

 あまりにも見慣れないものを目の当たりにしてしまった日向子もびっくりしたが、メンバーたちは数珠繋ぎの悲惨な玉突き事故でも目撃したかのような顔で有砂をぽかん、と見ていた。

 有砂はすぐに奇跡の極上スマイルを打ち消して、ふん、と鼻先で笑ってテーブルから離れて行った。

 後に残された四人は、有砂のほうをチラチラ見ながら何か色々言い合って騒いでいる。

「……そんなに驚くことでもないやろ」

 有砂はそんな彼ら……とりわけ、神妙な顔をした日向子を遠目に見ながら、小さく呟く。

「……あのアホに出来ることが、オレに出来ないとでも……?」












「へっくしゅん……!!」

「ゼン兄、風邪?」

「いや、そんなことないんだケド……」

「気をつけてね、最近冷え込むから」

「うん、そーだね……で、さ。何? 大事な話って」

 まだ昼間だというのに、二人が同時に黙ると、壁時計が秒針を打つのが聞こえるほど、「園長室」はいやに静かだった。

「……うづみ、ちゃん?」

 嵐の前というのは、本当に静かなものなんだとこの後蝉は思い知ることとなる。


「ゼン兄……私……結婚、するの」













《つづく》
「万楼」

「何? リーダー」

 紅朱がようやくその話を切り出すことができたのは、帰り際のことだった。

 玄鳥の車で送ってもらおうと、乗り込みかけていたところを呼び止めて、紅朱は、

「受け取れ」

 万楼に向けて山なりに何かを投げてよこした。

「わっ、何?」

 両手でなんとかそれをキャッチする。

「……これ、MD?」

「その曲、やるから練習しとけ」

 万楼はラベルの文字をゆっくり読む。

「……『Melting snow』……」

 横で見ていた玄鳥が、はっとしたように紅朱を見た。

「兄貴、この曲は……」

「……綾、お前もギターのアレンジ、ちゃんと考えておけよ」

「……うん」

 真剣な顔をする二人を交互に見やりながら、万楼はただならない雰囲気を感じとっていた。

「『Melting snow』……この曲って……何?」












《第7章 秒読みを始めた世界 -knotty-》【2】










「……それで、今年は急遽、大晦日にカウントダウン・ワンマンライブを開催なさるのですって。今から本当に楽しみですわ」

 カフェでのミーティングで知らされた一ヶ月後の大きなイベント。

 冬休みまでの日数を指折り数える日向子は子どものように、そわそわしていた。

「ですから、大晦日は朝帰りになってしまいますけれど、お父様には内緒にしておいて頂けて?」

 運転席に向けてにこやかに微笑んだ。

 しかし。反応が、ない。

「……雪乃? 信号……青ですわよ?」

「……あ」

 思い出したようにアクセルを踏んで、再発進する。

「……失礼致しました」

「……雪乃、運転中に考え事というのはどうかと思いますわ。何か心配なことでも?」

「……いえ……大したことでは、ありません」

 言葉とは裏腹に、声音には全く覇気がない。

「……雪乃……」

 何があったのだろう。

 雪乃がこんなにもあからさまな動揺を見せるようなことがあったのだろうか。

「雪乃……わたくしでは頼りないかもしれませんけれど、気が向いたら何でも話してね」

 雪乃は何も、答えなかった。













 密閉型のイヤホンを耳に突っ込んで、万楼はシートに横になっていた。

 さながら胎児のように身体を丸めて、目を閉じて音に意識を集中する。


《温もりを拒んで進む
 万年雪の荒野では
 あらがうほどに凍てついて
 僕はもう
 目を開けられない》

 今より少し若い紅朱の声。

《絶望が
 孤独が
 虚偽が
 降り積もる街では
 月の光を憎んだ夜に
 爪先まで冷えて
 ひどく、痛んだ》

 今より少しだけ不安定な有砂のドラムに、今より少しおとなしい蝉の奏でるキーボード。

 だがギターは、玄鳥の音ではない……。

 そして。

《秘密と罪を抱えたまま
 旅を続けてきたけど
 ささやかなともしびは
 ここにあった
 こんな僕すら変えるだろうか
 唄う意味さえ変えるだろうか》

 じわりと、目尻からあふれた雫が、滴る。

 自分とよく似た、けれどずっと存在感とのある重低音。

《いつか解けていくよ
 哀しい夢も
 繰り返した過ちも
 愚かな執着も
 目覚めたら 冬が逝く
 微かな傷痕だけを残して》


「……あの人の、ベースだ……」

 息苦しい程に胸が詰まった。

「……万楼」

 労るような穏やかな声で、運転席から玄鳥が語りかける。

「その曲は、3年前に粋さんが作ったんだ……最後に、ね」

「最後に……?」

「一度もライブで演奏されることのなかった……幻の曲。もし演奏されていればheliodorの代表曲になったかもしれない曲だよ」

 伝説のベーシストが残した、幻の曲。

「……粋さんが戻るまで、封印される筈だった曲を、兄貴は唄うつもりなんだ。万楼のベースで……」

 とめどなく涙があふれてくる。

 涙の理由の半分は、自分は紅朱から本当に認められたのだという感激。

 もう半分は、この曲自体が持つ、引き裂かれるのではないかと思うほど心臓を締め付ける懐かしさ。

「……玄鳥……ボク、この曲聞くの……多分、初めてじゃ、ない」


 閉ざされていた扉が、軋んでいる。開かれようとしている。

 さながら耳に響くこのベースライン自体が、パスワードであるかのように。













 真夜中。
 就寝しようとしていた日向子の携帯が着信を知らせた。

 一瞬また万楼からのメールかと思ったが、それはメールではなく電話で、ディスプレイの名前も違っていた。

「お待たせ致しました、日向子です」

 電話の主は、ファーストネームで気がねなく名乗ることができる相手。

《ごめんね、まだ起きてた?》

「はい、大丈夫ですわ。美々お姉様」

《……そっか、ありがと。あのね、その、たいしたことじゃないんだけど……今日、あんたと別れる時にあたし、落し物……しなかったかなって》

「……写真、ですか?」

 日向子は慎重な声音で問い返した。

《……うん……日向子が、見つけてくれたんだ》

 美々の口調は写真があったことへの安堵と、それを日向子が見つけたということへの微かな動揺……相反する要素を含んでいるように思えた。

「……写真はわたくしが保管しておりますわ、ご安心下さいませ」

《……あたしに、何か聞きたいこと、あるんじゃないの……?》

「……え?」

《……聞いてもいいよ。そのかわり、あたしのお願いもひとつ聞いてくれるならね》

 美々の声は、震えているようだった。
 日向子は、答える。

「……ひとつだけ。
写真の女の子は……美々お姉さまですか?」

 思いつめたような吐息が生んだノイズが、携帯ごしに耳元を通り抜けた。

《……そうだよ》


 予想通りの答えだった。

 偶然にしては出来すぎている。

 だがこれは、偶然ではない。

 あんなにもheliodorに詳しかった美々が、どうしてもheliodorの直接取材を引き受けられなかったその理由がようやくわかった。

 美々はずっとheliodorを見守ってきたのだ。

 けっして気が付かれることのないように、ひっそりと。

 そして自分には出来ないことを日向子に託した。

「……美々お姉さまが……有砂様の」

《日向子》

 まるで咎めるかのような強い口調で、美々は日向子を制した。

《約束だから、あたしのお願い、聞いてくれるよね》

「はい……」


 美々はきっぱりと言い放った。


《余計なことは、絶対しないで》


「美々お姉さま……」

 かつて美々の口から聞いたこともなかった、突き刺さるような冷たい声。

 それは出会ったばかりの頃の有砂を思わせた。


 やはり二人はどこか似ているのだろう。双子の兄妹なのだから。


「……お二人に家族として再会してほしいと願うことは、余計なことですか?」

《……やめて。会いたくなんかないの》

「美々お姉さま……」

《わかって、日向子。あんたのこと、親友と見込んで頼んでるんだよ》

 親友……憧れの先輩からそう呼ばれたことを、嬉しく思わないわけではない。

 しかし日向子はいたたまれず、泣きたいような気持ちでいっぱいだった。

 古い写真の中の無垢な眩しい笑顔、二つ。

 皮肉な運命に引き裂かれてしまっただけだ。

 二人の心と身体に残った傷がどれだけ深いとしても、こんなにも強く結び合っていた絆が、元に戻れないなどということがあるだろうか。

 きっかけさえあれば、きっと……日向子はそう純粋に信じていた。

 それでも。


「……わかりましたわ」

 そのきっかけを本人が望まないというなら、今の日向子にはどうすることもできない。












「余計なお世話かもしれんけど……それは、醤油やで」

「……え。あれ」

 蝉は今自分がグラスに注ごうとしているものをまじまじと見つめた。

「……どうやったら水と醤油を見間違えられるんや。寝惚けとんか?」

 呆れた顔で、ダイニングを通過しようとする有砂を、

「……よっちん」

 蝉は思わず呼び止めた。

「……なんや」

 面倒臭そうに立ち止まった有砂を見つめて、蝉は黙った。

「……はよ言え」

 こんなことを相談出来る相手は、有砂しかいない。

 秘密を知っているのは有砂だけだし、このことは有砂自身にも深く関わることだ。

「……えっと、あのさ……その……」

 どう切り出していいのかわからない。
 
 頭の中で、昼間つきつけられたうづみの言葉が反響している。



「年が明けたらすぐに入籍するの……沢城秀人と。離婚してから半年は籍を入れられないらしくて、随分待たされたけどね。
これでスノウ・ドームを立て直すことが出来るわ。

ようやく、私がゼン兄を自由にしてあげられるの」



 どうしてもっと早く気付かなかったのか。

 思えば随分前からうづみの様子はずっとおかしかったのに。

 自分のことにばかり夢中になっていて思いやることができなかった。

 自分がいつまでも正式な釘宮の後継者になれないばかりにうづみが犠牲になる。

 うづみに……大事な幼馴染みに身売りのような真似をさせてまでバンドを続けるというのか?

 うづみはそうしろと言う。

 蝉がバンドを辞めずに済むなら、それ以上は何もいらないと。



「いいの……だって、私はゼン兄を愛してるから。ゼン兄が幸せになってくれればそれでいいの」



 あまりにも残酷なタイミングで告げられた、一途な想い。

 もう蝉には自分がどうしたいのか、どうしたらいいのかわからなくなってしまっていた。

「……蝉?」

「よっちん……あの」

「……バイトのことやったら、ジブンに非難される謂われはないで」

「え」

「……どこで働こうとオレの自由やろ」

 さっぱり本題とは関係ない話題を不意に出されて、蝉はタイミングを見失ってしまった。

「……やだな、十数年来の親友がやっと社会復帰できたのに非難なんかするワケないじゃん」

 誰に強制されているわけでもないのに明るく振る舞ってしまう。

「しかも動機が、気になるオンナのコがよく利用するお店で働きたいから……なんてそんな純情な高校生みたいな」

「醤油飲み干して死ね」

「幼稚園レベルの愛情表現しかできなかったよっちんが、いっきに高校生レベルまで飛び級なんておれ感動して泣いちゃいそー」

「……そうか。自殺志願なんやな」

 有砂が死ねの殺すのと言い出す時は、あながち否定できない部分を突かれて反論の言葉が浮かばない時なのだと、蝉はとっくに見抜いている。

 そんなことがわからないほど浅い付き合いではない。

「……マジでさ……心配、してないよ」

 蝉は苦笑する。

「よっちんはもう平気じゃん。おれがお節介やく必要ない……」

「蝉……?」

 有砂のほうも蝉の様子が何か普通でないことは感じとれたようだった。

「……もし、さ。マジで、もしもの話だよ?
……おれがもうあの子の側にいられなくなっちゃったらさ……」

 思い詰めた言葉が、あふれ出す。

「……よっちんが、守ってあげてくれる?」

 有砂は一瞬切長の目を見開き、蝉を凝視したが、ほとんど間を空けずにきっぱり答えた。


「断る」

「え……?」

 まさかこんなにはっきり拒否されるとは。

 あっけにとられている蝉に、有砂は呆れ顔で溜め息をもらした。

「……やっぱり寝惚けてるやろ。アホなことゆうてんとはよ水飲んで寝てまえ」

「……あ、うん」

 ダイニングを出て行く有砂を見送って、蝉もまた溜め息をついた。



「……大丈夫だって言ってよ……おれが、いなくなっても……」















《つづく》
 鼓膜を震わせる音。

 潮騒の、ざわめき。

「ここで会ったのも何かの縁だし……ねえ、ボクと心中してくれない?」

「なかなか過激な口説き台詞だな」

 誰もいない、白い砂浜。
「……そんなに、死にたいのか?」

 突拍子もない申し出を、彼女は真顔で受け止める。

「そうでもないけど、そろそろ死んでもいいかな、とは思うよ。
積極的に生きていこうって思うだけの目的とか、楽しみがあるわけじゃないからね」

「そうか。まあ、付き合ってやってもいいぞ」

「……え?」

 道端でナンパされたかのような軽い返答。

「いいの?」

「ああ」


 反対方向から続いてきた2つの足跡が、繋がったその瞬間から運命が巡り始めた。


「ただし私と賭けをして、お前が勝ったらな」













《第7章 秒読みを始めた世界 -knotty-》【3】











「……賭けをしよう、ってあの人は言ったんだ」

 相変わらず殺風景な部屋の真ん中で、三人は向き合って座っていた。

「賭け……?」

「この曲のベースパートを一週間で引きこなせたら……一緒に死んでもいい、って」

 頼りなく細い糸をたぐりよせるように、たどたどしく、けれど確信を持って万楼は語る。

「それがheliodorの曲……『Melting Snow』だったよ」

 一つの有力な可能性に過ぎなかったことを、真実だと裏付けたメロディ。

「ボクの出会った『万楼』は、やっぱり粋さんだった……」

 紅朱は目を伏せて、笑った。

「ああ……それは粋の得意な罠だ」

「罠、ですか?」

 二人の横で静かに話に耳を傾けていた日向子が思わず口を開いた。

「同じ手に引っ掛かった奴が一人いるからな」

 紅朱は思い出し笑いで小さく噴きながら補足する。

「今頃、気色の悪ィ営業スマイルで精出して働いてんだろ」

「有砂様ですか!?」

「……やっぱりお前も気色悪いと思ってたんだな?」

「そ、そのようなことは……」

「気にすんな。その感覚は正常だ」

 日向子はそれをどうしても強く否定出来なかった。

「それで、罠というのは……?」

 話題を元に戻すのがやっとだった。

「粋のベースには、中毒性がある」

 紅朱もそれ以上日向子をいじめるつもりはないようだった。

「言葉で説明するのは難しいが、粋の弾くベースの音自体がな、何か強烈な毒を含んでるんだ」

「うん……痺れるような甘い毒」

 万楼が大きく頷く。

「側で聞いてるとすごく気持ちよくなっちゃうんだ。一週間もずっと聞いてたら、もう抜け出せなくなってしまうほど」


 さながら、船乗りを海に誘い込む魔性のセイレーン。
 魅惑の音色は鼓膜から人々を酔わせ、意のままにする。


「有砂は賭けに負けたらheliodorのメンバーになる筈だった。
けど、あいつは賭けには勝ったが、結局heliodorのメンバーになった。
万楼もそうだったんだろう?」

 紅朱の問掛けに、万楼は苦笑で答えた。

「約束通り心中してやる、って言われたけど、ボクはそんなことより、もっとベースを教えてほしいって頼んだんだ。
……行くところがないなら、ボクの部屋で一緒に……暮らさないかって」

 それが始まり。

 一人の少年が、ベーシストとしての道を歩き始めたきっかけだったのだ。

「ようやく、そこまでは思い出せたんだ」

 万楼は少し興奮した様子だった。

「『Melting Snow』を練習してると、どんどん、思い出すんだ。
すぐに思い出すよ。万楼……粋さんがどこへ行ったのか、どんなふうに別れたのかも」

 日向子はそんな嬉しそうな万楼に一抹の不安を感じてしまった。

 ナイト・アクアリウムで万楼は少し気になることを口にしていた。

 あの人の手を離してしまった……確かそんなような言葉だった。

 普通の状態ではなかった万楼はあの場での自分の発言を曖昧にしか覚えていないようで、確認しても何のことだかわからなかった。

 あの人……それが誰のことかはわからない。

 だがそれが彼女なのだとしたら。

 きっとそこには何か……万楼を苦しめる真実が隠れている。

 万楼は記憶を取り戻したいとずっと願っていた。
 日向子もそれが一番いいことだと信じて見守ってきた。

 今もそれは変わらない。

 だが同時に言いようのない不安も感じてしまう。

 急速に解かれていく封印が、乾ききっていない傷口をも開いてはしまわないかと。

「万楼様」

 日向子は万楼を真っ直ぐに見つめて言った。

「……頑張って下さいませ。お役に立てることなどないかもしれませんけれど、何かありましたら、いつでもわたくしを呼んで下さい」

 万楼は微かに頬をピンク色に染める。

「うん……ありがとう」














 ほどなくして万楼の部屋を出た2人はすぐには帰らず、紅朱のバイクをそこに置いたままで、しばし冬空の下を散歩していた。

 日向子は写真を美々に返却するために待ち合わせをしているのだが、待ち合わせの約束の時間までまだ少し余裕があった。

 ひとりで暇を潰すつもりだったのだが、紅朱は紅朱でバイトの時間までに少し持て余した時間があると言う。

 それならば……ということで今しばらく付き合うこととなったのだ。

 あてもないゆったりとした散歩。白い息を吐きながら交すとりとめない会話の内容は、自然と粋と万楼のことになっていた。

「粋と万楼の音は本当によく似てる。足りないのは毒の量だけだ」

「毒の量……紅朱様は万楼様に粋様と同じように弾けるようになってほしいのですか?」

「いや、思わない。あれは真似して真似出来るもんじゃねェからな……。
むしろ俺は、そろそろ万楼は粋とは違う個性を身に付ける段階にきたと思ってる」

 紅朱の口調は力強い。

「以前の万楼はただ粋の身代わりなろうと必死だった。あの段階で粋の音を聞かせれば、それをただ模倣しようとあがくだけで終わった筈だ。
だが、今の万楼ならそれではダメだとわかるだろう。あいつは、粋に勝ってheliodorのベーシストの座を防衛しなきゃなんねェんだからな」

 言いきった紅朱の表情は、温かく、優しい。
 万楼へのリーダーとして、バンドの仲間としての愛情を感じとり、日向子の顔も自然と綻んだ。

「まさか、あの曲がきっかけで万楼の記憶があんなにするする戻り始めるとは思わなかったけどな」

 ふと流れてきた雲に太陽が遮られるようにして、紅朱の表情に翳りが浮かんだ。

「……俺は、今更粋と再会してどうしようってんだろうな」

「え……?」

「粋が消えた時、俺はもうバンドを辞める気でいた。粋のいないheliodorに未練はなかった。
それに……まるで、今まで自分がやってきたことを全部否定されたような気分だったんだよな。
そのクセ、いつか帰って来てくれるんじゃないかなんて甘い考えも捨てきれてなかった。
だがもうheliodorは新しく生まれ変わって、着々と前に進んでるじゃないか……今更粋と会ったって仕方ない」

 万楼には粋を見つけだして、勝つことでheliodorのベーシストでい続けたいという願いがある。

 紅朱にはかつてもう一度粋とバンドをやりたいという願いがあったのだろうが、今はもう万楼を仲間として認めているようだ。

 少なくとも日向子にはそう思えた。

「紅朱様……粋様に、会いたくないのですか?」

 紅朱は目を細め、自嘲的に笑う。

「再会したってまた傷付け合って終わるくらいなら、本当はもう会わないほうがいいのかもしれない」

「そんな……」

 胸が苦しくなる。

 昨夜の、電話ごしの震えた声が頭をよぎった。

「……紅朱様も、なのですか……?」

「ん?」

 日向子の言葉の意味はもちろん紅朱にはわからなかったが、思いは伝わる。

「だが……望もうが望むまいが、もう一度出会う運命なら、きっとまた出会う」

 革の黒い手袋をはめた右手が、日向子の頭の上にポン、と乗っかった。

「だからそんな顔すんなよ」


 気遣うような優しい声が、日向子の胸に染み込んでいく。 

「……はい、紅朱様」



 ちょうどその時、二人の横を一台、鮮やかな深紅のフェラーリが通り抜けた。

 それがすれ違う瞬間、ほんの一瞬スピードを緩めたことに二人は気が付くことはなかった。

 だがドライバーのほうはバックミラーを横目で、けれどしっかりと見つめ、小さく呟いた。



「水無子(ミナコ)……?
……なわけないか」













 一方その頃、『気色の悪い営業スマイルで精を出して働いて』いた有砂は、実際慣れない筋肉を酷使して顔面が筋肉痛を起こしそうな勢いで頑張っていた。

「……しんどい……」

 有砂自身可能な限りフロアには出たくないと思っているのだが、

「沢城さん、6番ご指名入りましたよ~」

「……ご指名、ってなんですか。いつからこの店はホストクラブに?」

「まあまあ、いいからいいから」

 有砂は客から掟破りの「ご指名」をされるほど予想外の大人気となっていた。

 おっとりしているが押しの強い店長や、ベテランの先輩店員に押しきられて有砂はフロア専門にさせられつつあった。

 時には「あれってheliodorの有砂じゃない??」といった小声の会話が耳に入ってくることもあったが、最終的には「ま、そんなわけないよね」で会話は終了してしまう。

 クールさが売りの有砂がまさかそんな……と思うのは無理もない話だ。

 結局今日もひたすら接客に明け暮れていた有砂だったが、


「いらっしゃいま……なんや、ジブンか」

 不意に作りかけた笑顔を打ち消す。

「お疲れ様です」

 玄鳥だった。

「何しに来たんや」

「俺はもともと常連です」

 確かにheliodorがここで頻繁にミーティングを行うようになる以前から、玄鳥はこの店をよく利用していた。
 だが、

「有砂さんこそ……何が目的ですか?」

 この警戒心に満ちた言葉は、どう考えてもただお茶を飲みに来ただけ、という雰囲気ではない。

「バイトの目的が金以外にあるか?」

「……本当のところを聞かせて下さい」

 玄鳥は悲愴なほど真面目な顔で問掛ける。

「有砂さんは……日向子さんのこと、どう思ってるんですか?」

 有砂は黙ってテーブルに水を置いた。

「……仕事中や。雑談は後にしてくれ」

「有砂さん……すいません、これだけは言わせて下さい。
……日向子さんのこと、気まぐれや遊びなら絶対にやめて下さい。
あの人を傷付けるようなことをしたら、俺は……許さない」

 真っ直ぐで熱い思いをストレートにぶつけてくる玄鳥は、まさに有砂とはあらゆる意味で対称的だ。

 だが有砂には何故か時々、そんな玄鳥を「懐かしい」と感じる瞬間がある。

 有砂が遠い過去に失ってしまったものを、そのまま心の真ん中に持ち続けて大人になったのが玄鳥……そして、日向子なのかもしれない。

 「純粋な情熱」は強く眩しく、そして……危ういものだ。

「どうなんですか!? 有砂さん」

 答えを聞くまで逃がさないとでも言うような玄鳥の斜め下から突き上げる眼差しに、有砂はゆっくり口を開いた。

「……オレは……」












 局地的に緊迫した雰囲気に包まれたカフェの入り口に、ロングブーツのヒールを鳴らして、近付く者がいた。

「日向子が来る前に……コーヒーを一杯飲むくらいの時間はあるよね……」

 腕時計を気にしながら、彼女はその扉に、手をかけた。
















《つづく》
 約束の駅前広場のベンチ。

「ごめんごめん、ちょっと遅刻だね」

 いつも通りの笑顔で小走りに美々が駆け寄ってくる。

「いいえ、わたくしも今来たばかりですわ」

「そっか。どこ行く?」

「そうですわね……先月行ったエスニックのお店などはいかがですか?」

「いいね、そうしよう」

 美々があまりにもいつもと変わらないことに、日向子は少しの安堵と大きな違和感を感じた。

 先に立って歩き出した背中にそっと問掛けるべく口を開く。

「……美々お姉さま? あの」

「日向子」

 振り返らずに、美々は告げた。

「……写真、返さなくていいよ」

「え?」

 予想もしない言葉だった。

「あんたにあげる。捨ててくれて、いいから」

 振り返った美々はやはり、微笑んでいた。

 痛々しいまでに明るい笑顔で。

「過去なんか、もういらない」










《第7章 秒読みを始めた世界 -knotty-》【4】












「よっちん……それ、ツッコミ待ち?」

「は? ……っ」

 有砂は完全に巣のリアクションで、手にしていたものを洗面台の上に投げるように置いた。

 それはどう見ても洗顔フォームで、蝉が声をかけなければ確実に有砂はそれを歯ブラシにつけて口に入れていたに違いない。

「間違えたの?」

「……うるさい」

 先だってと真逆の状況に、蝉は苦笑し、有砂は気まずそうに目をそらした。

「疲れてんじゃん? 仕事、大変なんでしょ?」

「……そうやな」

 有砂はあっさり肯定した。

 ということは他に何か理由があるんだろうな、と蝉は思った。

 聞いてやるべきだろうか?

 聞いても答えてくれないかもしれないが。


「よっちん、あのさ……もし何かあったんならさ、相談……してくれていいよ?」

「……別に」

 反応は予想通りだった。

 相変わらず蝉の親友は、他人に甘えることがどこまでも苦手だ。

 だが蝉はわかっていた。

 今はもう、自分が必死になる必要はないということを。

「じゃあ……日向子ちゃんに聞いてもらいなよ」

「……別に、何もないゆうてるやろ」

「うん、わかった、わかった。おやすみ」

 蝉はそれ以上何も聞かずに自室へ戻った。

 灯りをつけることもなくベッドに無造作に身体を倒して、天井を見上げる。

「だよね……きっとおれは、手を貸さないほうがいい……」

 シャワールームから漏れ聞こえてくる水音をBGMに瞼を閉じた。

「……だって……これからはもう……」










 最大にひねったシャワーを頭から全身に浴びながら、有砂はきつく目を閉じ、うつむいていた。

 歪に痕を残す胸元に、右の手を当てる。

「……っ」

 傷痕に爪を立てて、ぎりぎりとつき立てる。
 えぐれた肌ににじんだ赤い液体は、豪雨のようなシャワーの水流にすぐに洗い流されていく。

「……さ……」

 呟いた名前もかき消され、ともに排水口へと吸い込まれた。










 どこにも帰る場所のなくなってしまった写真を手帳にはさみ、バッグにしまう。
 無意識に、溜め息をつく。

「……お姉さま……」

 美々にとってそれが最良の選択ならば、仕方ない。
 日向子は何度も自分にそう言い聞かせているが、心は少しも晴れてくれなかった。

 そもそも、美々は昨夜までは確かに写真を取り戻したがっていたのだ。
 それが土壇場になって「いらない」などと言い出したのは何故か?

 理由があるに違いない。

 だが美々はその理由を教えてはくれなかった。

 今は無理でもいつかは……そう願って静観するしかないのかもしれない。
 その時がくるまで大切に写真を保管しようと心に決めた。

「さて、お仕事ですわ」

 気合いを入れて、スタジオのドアをくぐる。

「おはようございます!」

 精一杯元気に挨拶すると、

「あ、おはようございます」

「おお、来たな」

 今日の取材の相手である浅川兄弟が待ちかねていたというように日向子を迎え入れる。

 今日は二人だけで新曲の製作ということで、その合間にカウントダウンライブと製作中の楽曲についてのインタビューを行うことになっていた。

「新曲というのは、カウントダウンで発表する曲なのですか?」

「いや、発表はもうちょっと後だな……桜が咲くまでにはってとこか」

「まあ随分先ですのね」

 驚く日向子に、玄鳥が後ろ手に差し出したとっておきのプレゼントを満を持して差し出すような顔で告げる。

「今度の曲がおそらく、heliodorのインディーズデビュー曲になります」

「インディーズデビュー……CDになるのですか!?」

「かねてから声をかけて頂いていたインディーズレーベルの方と、3月リリースの予定で話を進めているところなんです」

 それはheliodorにとって初の音源制作ということだ。
 もともと彼等ほどのレベルのバンドが未だにCDはおろかデモテープのひとつも世に発表していないというのは極めて珍しいことだった。
 ファンはもちろんのこと、業界的にも長く待ちわびた決断だ。

「新生heliodorが活動開始して丁度2年だ。頃合いだと思ってな」

 以前美々に聞いた話によれば、heliodorには、デビューの話が一度持ち上がっていたという。

 だが粋の脱退に伴う活動休止で立ち消えとなった。

 恐らくはあの曲、「Melting snow」がそうなのではないか。

 それを日向子が問うと、紅朱は首を縦にした。

「俺にとっても思い入れのある曲なんだ、あれは……出来れば音源として発表したかった。
だが新生heliodorが、昔のメンバーの曲でデビューするわけにはいかねェだろ。
だから、カウントダウンライブで演奏して供養することにしたんだ」

 紅朱がかの曲を演奏することにしたのは、実に前向きな趣向からだったのだ。

 日向子は感心していた。

「新曲は一体どのような曲になるのですか?」

 身を乗り出す日向子に、兄弟は顔を見合わせて笑った。

「それはまだ内緒です」

「ま、曲が完成すんのをいい子で待ってろよ」

「まあ」

 日向子はわざとらしく怒ったような顔をして見せた。

「お二人とも意地悪ですのね」

 すぐに笑ってしまったが。

 紅朱と、玄鳥と。
 3人で微笑みを交していると、心の支えが少しとれて楽になるような気がした。

「さてと……なんか腹減ったな。そろそろメシ行くか?」

 紅朱の言葉に時計を見やると、いつの間にか19時を回ろうとしていた。

「日向子さんも一緒に行きますよね?」

 玄鳥の問掛けに日向子はもちろん満開の笑顔で答えた。

「はい、もちろんですわ。ご一緒させて下さいませ」


 3人で過ごす、穏やかな安らぎに満ちた時間。

 それがこの日を境に失われてしまうことを、今はまだ誰も知らない。











 何度も書き直した手紙は、書き直す度にシンプルなものになっていった。

 言い訳をくどくど書き列ねてもなんにもならないような気がした。

「これで、いいか」

 最終的には本当に短いメッセージとなってしまったそれを、蝉はダイニングのテーブルに置いた。

「……少しは……」

 かすれた声で呟く。

「……寂しがるかな……」

 ふっと苦笑する。

 あまりにも図々しい願望だと思った。


 蝉はうつむきながら、テーブル脇のゴミ箱を覗いた。

 今しがた蝉自身がそこへ葬った品が恨めしげに蝉を見上げていた。


 オレンジ色のウイッグ。

 ジャラジャラとストラップのついた携帯電話。


 その他こんな小さなゴミ箱には入りきらないほとんどの私物をこの部屋に置き去りにするのだ。


「……ごめんね……」


 バイクの鍵や財布以外、ほとんど手ぶらに近い状態で、蝉は部屋を出た。

 部屋の鍵をしっかり閉めると、しばらく握り締めていたその鍵をドアポストから、ストン、と落とす。

「……っ……」

 早足で歩き出す。

「……紅朱……」

 涙が滲む。

「……玄鳥……」

 視界がぼやける。

「……万楼……」

 胸が詰まる。

「……よっちん……」

 息が苦しい。

「……日向子ちゃんっ……」

 痛い。






「さよなら」











「……え?」

 急に日向子は立ち止まり、後ろを振り返った。

「どうかしましたか?」

 心配そうに玄鳥が声を掛ける。
 少し先を歩いていた紅朱も立ち止まった。

「いえ……なんとなく、どなたかに呼ばれたような気がしたのですけれど……」

 キョロキョロ見渡したが、知人らしき者は全く見当たらない。

「気のせい……かしら?」

 その時、タイミングを合わせたかのように日向子の携帯が振動した。

「あら……万楼様かしら?」

 携帯に着信=万楼、といった図式が脳内に確立されつつある日向子の様子に、傍らの玄鳥は少し複雑な顔をしたが、

「まあ、珍しいですわ。有砂様からお電話なんて」

 有砂からと判明していよいよ渋い顔をした。

 一方紅朱は、

「少し店がこむ時間だから、俺と綾で先に行って席を取る。お前は電話が終わってからゆっくり来いよ」

 と気遣いを見せ、日向子もそれを承知した。

 実は二人の電話の内容が気になって仕方ない玄鳥も、やむをえず兄について先に歩き出した。











「なんで怒ってんだ? お前」

 自分のグラスを引き寄せながら、紅朱が問う。

 当然のように紅朱がチョイスしたラーメン屋で、テーブル席を何とか確保した兄弟は対面に座っていた。
 玄鳥はお冷やを一気飲みして空のグラスをどん、とテーブルに置いた。

 振動で、テーブルの真ん中で待ち惚ける3杯目が、その水面をふるふる震わせた。

「やっぱり俺、有砂さんのことは信用できない」

「脈絡なく不穏当なこと言ってんじゃねェよ。うっかり日向子が聞いたら確実にしょげるぞ」

「……ごめん。けど」

 玄鳥は険しい顔で目を伏せる。

「あの人はやっぱり、女性に対していい加減で冷た過ぎると思う。
昨日だって、ただならない雰囲気の女の人が声を掛けてきてて……多分、過去に関係のあった女性なんだろうけど……それを、あんな言い方して」

「どんな言い方だか知らねェが、あいつのそういうところは昔からだろ。
最近はマシんなったほうじゃねェか。今更何カリカリしてんだ」

「っ、それは日向子さんがっ」


「わたくしが?」


「えっ」


 いつの間にかテーブル横に立っていた日向子が興味深そうに玄鳥を大きな瞳で見つめていた。

「わたくしが、どうなさいましたの?」

「いや……なんでもないんで。その、どうぞ……座って下さい」

 日向子は不思議そうに玄鳥を見つめていたが、促されるままに……座った。


「……あ」


 玄鳥は少し目を見開いて、短く声をもらした。

 日向子は自然に、とても自然に座った。

 紅朱の隣の席に。

「ん? どうかしたか?」

 品書きを見ながら呑気に問掛ける紅朱は、おそらく何も特別な感想は抱いていない。

 だが玄鳥の頭の中には、先日の万楼の言葉がまざまざと蘇っていた。



――無意識なあたりが更にジェラシーだなあ



「……本当、だよな……」

「はい? 何か、おっしゃいましたか?」

「綾、お前も早く注文決めろよ」


 どこまでも無邪気な二人に、玄鳥は追い詰められていた。
















《つづく》
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