「すごくいい街なんです。海も、山もあって……都会に比べれば不便なことは多いけど、都会にないものもたくさんあって……日向子さんも気に入ってくれるといいんですけど」
「まあ、楽しみですわ」
よく晴れた高い空の下、関越道を軽快に滑るミニバンの車内は、心なしかいつもより弾んだ青年の声と、楽しげな相槌、そして二人の大好きなハードロックのBGMで満たされている。
「……案内したいところはたくさんあるんですけど、今日は難しいですよね」
「ええ……残念ですけれど、どうしても日帰りでしか都合が」
「いいんですよ。元々兄貴のわがままに付き合ってもらってるんですから。
……見ず知らずの人のお墓参りのためにわざわざすいません」
日向子は、後ろの座席を振り返った。
かすみ草と淡いオレンジ色の百合を合わせたブーケが甘い香りを微かに放ちながら横たわる。
「……いいえ、わたくしはサンタさんですから」
《第6章 11月のキャロル -May I fall in love with you?-》【4】
来たる命日に、自分の替わりに墓前に花を手向けてほしいというのが紅朱の口にした願い事だった。
先日の事件で怪我をしてからまだ一週間、抜糸すら済んでいない紅朱はメンバーたちから絶対安静を強いられていた。
半ばやむなしといえどライブの出演時間に遅れた件もあって、さしものジャリアンも今回はおとなしくメンバーの声を受け入れ、日向子に代理を頼んだのだ。
そしてその日向子を地元まで案内するようにと、玄鳥に依頼した。
もっとも紅朱に言われなくてもそうしたに違いなかったが。
「兄貴、本当は自分で来たかった筈ですよ。
上京してから実家の敷居は一回も跨いでいないのに、叔母さんの命日だけは毎年こっそり帰ってましたからね」
「叔母さん」……玄鳥がなにげなく口にした言葉に日向子はなんとなくドキッとした。
浅川兄弟の母方の叔母……これから行く土地に眠る女性が実際は玄鳥のなんであるか日向子は知っている。
玄鳥自身すら知らない事実……兄弟の秘密。
「……叔母様は、どのような方だったのでしょう」
「……実は亡くなったのは俺が物心つく前だから、全然覚えてないんです。
でも、いい人だったのは間違いないと思いますよ」
玄鳥は苦笑する。
「兄貴の初恋の人らしいですからね」
「え?」
そんな話は初めてだったので、日向子は少し驚いた。
確かに紅朱は叔母によく懐いていたこと、その死が非常にショックだったことを口にはしていた。
幼い頃とはいえ、憧れていた女性が亡くなったのならそれは、忘れられない悲しい記憶になるのは当然だろう。
日向子は自分の獅貴への思いを重ねてしまい、胸が痛んだ。
紅朱はどんな思いで初恋の人の遺した命をすぐ側で見守ってきたのだろうか、と。
「……日向子さん?」
玄鳥は日向子の顔が曇ってしまったのに気付いて、少し慌てる。
「あの、どうかしましたか……? 俺、何か変なことを……あ」
「玄鳥様……?」
「日向子さん……もしかして……」
玄鳥はハンドルに絡む指先にきゅっと少し力を込めた。
「……兄貴のそういう話は、あまり聞きたくなかったですか……?」
「そういう、話……とおっしゃいますと……?」
「それは、だから……なんていうか……」
日向子は玄鳥が何を危惧しているのかわからないまま、苦渋に歪む彼の横顔を見つめていた。
沈黙が訪れる。
「mont sucht」のロックバラードが、二人の沈黙を彩る。
一分半にわたる叙情的で壮大な間奏を経て、大サビに差し掛かったところで、
「……日向子さん」
改まったような声で玄鳥が口を開いた。
「俺の願いもひとつ、聞いてくれるって言ってましたよね」
「ええ……」
「……少しだけ、寄り道をしましょう」
進行方向をじっと見つめる玄鳥の真剣な眼差しは、何がしか決意を秘めているようだった。
「……寒く、ないですか?」
「少しだけ……でも、風がとても気持ちいいですね」
髪やコートの裾を揺らめかせながら微笑む日向子に、玄鳥も微笑を返す。
冬の澄んだ海原は、晴れた空の下、ゆったりと波音を響かせている。
二人の佇む岬からは、ずっと遠くの島までが見渡せた。
「……結構、いい景色でしょう? 今日が晴れでよかった」
「玄鳥様はよくここへいらしていたのですか?」
「いえ……実は初めてなんです。来たくても、一人ではなかなか……」
「え?」
言われて辺りを見回すと、日曜の昼過ぎとあって人もそれなりにいるが、それにしても一人できている者は全く見当たらない。
世代を問わず男女二人連れか、子連れの夫妻ばかりだ。
「……ここ、恋人岬っていうんです」
「恋人岬……」
玄鳥は北風のせいではなく、赤くなった顔を、立てたコートの襟で少しだけ隠した。
「伊豆やグアムにあるのと同じです……恋人たちがここで愛を誓うと必ず幸せになれるっていう……」
成程男一人では二の足を踏んで当然だった。
「まあ……そのような場所にわたくしと来てしまってよろしかったのですか?
素敵な恋人の方とご一緒なさるべきでは……」
かなり的外れな気遣いをそれと全く気付かず口にする日向子に、玄鳥は思わず笑って、それからゆっくりとコートの襟から手を放した。
「……日向子さん」
「……はい?」
ひとつ息を整え、玄鳥はゆっくりと告げた。
「……あなたが、なってくれませんか? ……俺の、その……」
あと一息。
たった一言。
わずか数文字付け足すことができれば玄鳥の告白は完成できた。
しかし。
この男、こんなタイミングで邪魔が入らなかったためしがなく……。
「あのォ」
決死の戦いに挑む男の背後からなんとも間伸びした呑気な声がかけられる。
「……玄鳥さん、ですか~?」
二人が振り返ると、どうやら観光客ではなく地元民らしい親子連れのお父さんが声の主だった。
「はあ、そうですけど」
緊張を強制的に解除された玄鳥がぽかんとしていると、
「おい、やっぱり玄鳥さんだって」
「やっぱり本物!?」
今度はその妻らしき女性が目を輝かせてすごい勢いで玄鳥の前にしゃしゃり出る。
「きゃー、ファンなんですぅ、応援してますぅ!! やぁん、かっこいいっ!!」
「え……あ……はい、ありがとうございます」
幼稚園か小学校低学年くらいであろう娘二人も母親に続いて駆け寄って、
「くろろだ~」
「くろちょだ~」
不正確な発音で玄鳥の名前を大声で呼びながらはしゃいでいる。
その声が潮風に乗って辺りに響くと、
「ねえ、くろと、って……」
「heliodorの玄鳥?」
「玄鳥が来てるらしいよ」
「この辺りの出身ってマジだったんだ?」
「すご~い、本人だ~」
すぐさま10人ほど集まって玄鳥をぐるりと囲んだ。
まだ呆然としたまま握手を求められたり、質問責めにあったりしている玄鳥を、日向子は少し離れて見ていた。
みんな玄鳥にばかり気を取られてのことか、日向子の存在にはどうやら気付いてなさそうだった。
玄鳥がファンに声をかけられたり、囲まれたりする光景を見ること自体は珍しいことではなかったが、バンドの拠点である東京から離れてもファンがこれだけいるのかと思い、日向子は純粋に感嘆していた。
もちろんここは玄鳥の地元からそう遠くないところだから、他の土地よりはいくらか知名度が高いのかもしれないが、それでも驚くべきことだった。
「ねえ、あなたも玄鳥さんのファンなの?」
ふと声をかけてきた一人の女性に、日向子は「はい」と答えた。
heliodorが好きで応援しているのだから別に嘘ではない。
「私は名前くらいしか知らないけど、彼氏が好きらしくって」
女性は、群れにまざって何やらギターの奏法や機材について質問しているらしい金髪の青年を指差す。
「よくわかんないけど、すごいんだってね。heliodorだっけ? メンバー個人のスキルは全員一定以上のレベルに達してるけど、ギターの玄鳥は飛び抜けてるってあいつは言うけど……そうなのかな?」
「そう……なのでしょうか」
「アマチュアバンドのギタリストとして埋もれるような人じゃないのに~、ってしょっちゅう愚痴ってくるんだけど、私に言われたって困るんだよね~」
日向子は相槌を適度に返しながら、真っ赤な顔で何故かぺこぺこ会釈しているシャイで腰の低いギタリストを見つめていた。
玄鳥が巧いのは当たり前だ。もちろん元々相当な才能があるのだろうが、加えて尋常ならざる努力をしているのだから。
そんな玄鳥が評価されるのは正しいことであり、喜ばしいことである。
それなのに不吉にざわめいてしまう自分の心が、日向子にも不思議だった。
何故だろう。
いつか玄鳥が遠くへ行ってしまいそうな気がする。
少しずつ。
少しずつ。
手の届かない、高い場所へと。
「……そんなこと……あるわけありませんのに」
何があっても信じると誓った小指がかじかんで、痛くて。
寂しくなった。
一歩、二歩あとずさって、そのまま日向子はきびすを返した。
玄鳥を見つめていることが、今は少し辛かった。
だからこの場を離れたかったのだ。
「待って!」
呼び止める声とほとんど同時スタートで駆け出した足音と、騒然とする人々の声。
「待って……日向子さん」
黒いコートの右腕が、翼を広げて包み込むように日向子の肩を引き寄せた。
「玄鳥……様」
「みなさんすいません、今日はこのへんで。よかったらまたライブ見に来て下さいね。また、会いましょう」
早口で、けれど最大限の感謝の気持ちを込めてファンにそう挨拶し、一礼すると、玄鳥は日向子の肩を抱いたまま歩き出す。
「く、玄鳥様……あの……これ、誤解、されてしまいませんか?」
思わず小声で尋ねる日向子。
「……あなたの背中が、あまり寂しそうで、つい……」
玄鳥の顔は先刻までより更に更に、赤く赤くなっていく。
「俺……誤解されていいです……」
「え……?」
「……あなたは、嫌ですか?」
真面目な顔で問う、斜め上の眼差しに、日向子はそっと首を横に振った。
玄鳥は少し安心したように溜め息をついた。
「日向子さんのことほったらかしみたいになってしまってごめんなさい……退屈、でしたよね?」
「いいえ……退屈などではありませんでした」
日向子はまた首を左右した。
「先程玄鳥様もおっしゃいましたでしょう?
わたくし……少し、寂しかったのです」
「日向子さん……」
玄鳥は一瞬目を見開いて、その後どこか困ったような笑みを浮かべた。
「……heliodorはどんどん有名になってます。ライブの動員も信じられない勢いで膨れ上がってきています。どうしてだかちゃんとわかってますか?」
「え……?」
「アンケート見ると、新しいお客さんの大半は『RAPTUS(ラプタス)見てheliodorを知りました』って……書いてあるんです」
『RAPTUS』……日向子の記事が載っている音楽雑誌だ。
「だから、日向子さんのおかげなんですよ」
知らなかった。
雑誌の部数自体はメインの記事如何で多少左右されることはあっても、そうは変動しない。
読者アンケートの結果は悪くないとは聞いていたが、日向子が自分の書いている記事の影響を実感することは今まで全くなかったのだ。
「日向子さんは、俺たちにとって幸運の女神様みたいなものなんですよ」
「そんな……いくらなんでも大袈裟ですわ」
「はは、ちょっと恥ずかしい言い回しでしたね。でも、本当に……あなたが見ていてくれるなら、俺は……」
玄鳥は不意に果てしない空を見上げる。
遠くを、見つめる。
「……もっと高く、飛べるかもしれない……」
《つづく》
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