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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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「どうしても、行くの?」

「ああ」

 あまりにもあっさりとした返事。

「だけど万楼がいなくなったら、ボクはまた独りぼっちになるよ」

「男の癖に情けない顔をするな……響平」

 犬や猫を撫でつけるようにがしがしと頭を撫でてくる。

「お前は東京へ行け。heliodorはきっと、お前を必要とする筈だ」

「heliodorなんか……嫌いだよ」

 ふつふつ、と自分の内側から見覚えのない感情が沸き上がってくる。

「万楼がこの街を去るのも、heliodorの為でしょう?」

「違うな……私自身の為だ」

「じゃあ、万楼にとって……heliodorは、過去?」

 つきつけた問いに、彼女は黙ったままどこか悲しそうに笑う。

「側にいても……万楼の心はいつも遠くにある……ボクを、見てくれてない」

「響平、私は」

 もうたくさんだ。

 無我夢中ですがるように、細く締まった腰を抱き締めた。

「……どうしても行くなら、最後に抱かせてよ。
今夜だけ、ボクのものになって」














《第7章 秒読みを始めた世界 -knotty-》【5】











「……今の……何?」

 両腕にリアルに蘇ってくる感触。

 その光景は、ただの白昼夢ではないと、全身の感覚が訴えている。

 ベースを抱えたまま、万楼は呆然としていた。

「……ボクは……?」


 照明を落とした薄暗い部屋の中で、「Melting snow」のせつないメロディだけがエンドレスで流れていた。












「日向子の奴、なんか急いでたな」

「……うん」

「有砂からの電話となんか関係あんのかな……」

「……」

 ラーメン屋を出てすぐに日向子と別れた浅川兄弟は、スタジオの駐車場へと向かっていた。

「……兄貴」

 突然玄鳥が立ち止まった。

「なんだ?」

 紅朱もまた、立ち止まる。
 そしてようやく自分を見つめる玄鳥の瞳に宿る思い詰めたような感情を察した。

「……綾?」

 玄鳥は紅朱を睨むようにして口を開いた。

「兄貴は日向子さんをどう思ってる?」

「どう……って、いい奴だと思ってるぞ?」

「女性としてどう思うかって聞いてるんだよ」

「あ? 女性として? なんだよ、それ」

 玄鳥はじれったそうに語気を荒げる。

「彼女を恋愛対象として見てるかってことだよ!」

 紅朱はあまりの勢いに不覚にも圧倒されていた。
 即答しない兄に痺れをきらしたように、玄鳥はついに言い放った。

「俺は、日向子さんが好きだよ……初めて彼女の手に触れた……あの瞬間から、ずっと、ずっとバカみたいに恋焦がれて……彼女だけを見てきたんだ」

 往来で大声で口にするには、通常ちょっとためらわれるような台詞を真剣に口にしながら、玄鳥は一歩踏み込み、唖然としている紅朱の両肩をぐっと掴んだ。

「兄貴はどうなんだよ!? そういうつもりじゃないんだったら、頼むから俺の邪魔をしないでくれ」

「邪魔……って……」

 肩に食い込む指の力の強さに、紅朱は玄鳥がいかに本気かを文字通り痛いほど思い知らされていた。

「悪ィ……全然、知らなかった。お前……日向子に、惚れてたんだな」

 自分で告白したことだというのに、玄鳥は微かに顔を赤らめてうつむき、紅朱から手を引いた。

「……うん」

 紅朱はしばしそんな玄鳥を見つめていたが、ややあって小さく溜め息をついた。

「……いいんじゃないか」

「え?」

 顔を上げた玄鳥に、苦笑して見せる。

「お前はしっかりし過ぎてっから、案外日向子みたいに抜けてる奴が合うかもしれねェな」

「……兄貴……」

 驚きで玄鳥の瞳がまんまるになる。

「応援してくれるのか? 俺のこと……」

「バカ……当たり前だろうが、俺はお前の兄貴だぞ」

 瞬間、玄鳥は感激と安堵がミックスされた半分泣きそうな笑顔で、

「……兄貴っ!!」

「うあっ」

 いきなり紅朱を思いきり抱き締めてきた。

「ありがとう! 兄貴っ!!」

「なっ、離せバカ野郎! 見られまくってんだろうが!!」

 あまつさえ玄鳥の腕にちょうどよくすっぽり収まってしまう自分の体型を疎みながら、紅朱は必死に逃れ出た。

「……ったく、大袈裟なんだよ、お前は」

「ごめん……けど、俺はもしかして兄貴も日向子さんのこと気になってたらどうしようかって思ってたからさ……」

「……あのなぁ、んなこと……」

 ふと。

 紅朱の頭の中に、日向子が現れる。

 微笑んだ日向子。

 涙を浮かべた日向子。

 すねた顔。

 恥じらう顔。

 鳥のさえずるような澄んだ声。

 触れた時の髪や肌の柔らかさ。

 真っ直ぐに見つめてくる大きな瞳。


「……あるわけ、ねェだろ」

 そうだ。

 意識したことなどなかった。

 これまでは一度も。

 そしてこれからも……?

 正体のはっきりしないもやもやを胸の真ん中に感じながらも、紅朱は玄鳥に笑ってみせる。 

「あ、そういや心配すんなよ。このことは他の奴らにはちゃんと黙っててやるからな」

「あの……すごく言いにくいんだけどさ。知らなかったのって……兄貴だけだよ?」

「あ?」













 日向子は有砂を待っていた。
 電話で、バイトが終わり次第そのまま真っ直ぐ迎えに来るから適当に時間を潰しているようにと言われていたので、12月を彩るイルミネーションを眺めながら、ふらふらと意味もなく街をぶらつく。

 有砂のほうから連絡をしてくること自体が珍しく、しかもその内容が「話したいことがあるから付き合ってほしい」……だ。
 声音が少し弱々しく聞こえたのは、バイト疲れのせいだけだったのか。

 何かあったのだろうか。日向子は不安を感じていた。

「有砂様……」

 名前を呟いた瞬間、日向子のすぐ横でふいに停車した車があった。

「有砂様?」

 振り返ったがそれは有砂の車ではなかった。
 艶やかなボディの薔薇色のフェラーリ。

「……やっぱり、水無子に似てる」

 わずかに開いたウインドウから声が聞こえた。
 男性の声だ。

「水無子……?」

 日向子はその名を聞き留めて、目をしばたかせた。

「わたくしの母が水無子ですけれど……」

「母っ? ほんならキミ、水無子の娘なん? えっ、ホンマに!?」

 早口の関西弁がまくし立てたかと思うと、少々乱暴に運転席側のドアが開け放たれた。

「そら生き写しも無理ないか、高槻センセーの遺伝子は一体どこいってもたんやー?」

 車から降りたのは、黒いロングコートを着た、背の高い、一見年齢不祥な男性だった。
 雰囲気から恐らく日向子より10以上は年上であろうとは思われたが。
 だがそれよりも、日向子は彼の着ているコートのほうに気をとられていた。

 よく覚えている。


 別れ際に、伯爵がまとっていたあのコートと全く同じデザインだ。


「あの……どなた様ですか?」

 男性は、日向子を見下ろして楽しそうに笑う。

「僕なー、キミのママの昔の彼氏やねん」

「えっ?」

「ああ、ええね。その驚いた顔とかホンマそっくりやわ」

 遠慮もなく伸ばされた左手のいくつものシルバーで飾られた五指が、日向子の右頬に触れる。

「実に、そそるね」



 ダンッ、と突然鈍い音が辺りに響いた。

 日向子と男性は同時に振り返り、

「まあ……っ」

「なぁっ……!!」

 同時に叫び、顔色を変えた。

「ちょっ、オマエはなんちゅーことをっ、先月納車したばっかやねんぞ!?」

「……あんたこそ年甲斐もなく恥さらしな真似せんといてくれへんか?」

 有砂だった。

 日向子には先刻から展開があまりに急過ぎて、何が起きているのか整理しきれなかったが、どうやら先刻の音は、有砂がフェラーリのバンパーを蹴り上げた音だったようだ。

「お嬢」

「は、はい」

「危ないからこっち来とき」

「はあ……」

 日向子はよくわからないまま、ひょこひょこと有砂の側に寄っていった。

「なんや、キミは佳人のタレやったん?」

「たれ?? あの、有砂様のお知り合いですか?」

 有砂は不機嫌そうに舌打ちした。

「いや、思いっきり赤の他人や。ほっといて行くで、お嬢」

 日向子の手首を掴んでとっとと歩き出そうとする有砂だったが、

「こーら、パパにそんな口聞いたらあかんやろ? 誰のおかげでそんな大きなった思てんねや」

「……パパ?」

「少なくともあんたのおかげやないやろ、クソ親父」

「おや、じ……?」

 日向子は目を見開いて、有砂と男性を見比べた。

 そうだ。

 コートにばかり気を取られていたが、よく見れば男性のルックスは、ほとんど有砂の「未来予想図」のようだ。

「あの……あなたが、沢城秀人さん……?」

 男性は微笑む。

「うん、そうやで♪ ちなみにキミの名前は?」

「あの……日向子、です」

「日向子か。カワイイ名前やんか~、キミにぴったりやん」

 軽い口調で評しながら、
「はい、あげる」

 差し出してきたのは名刺だった。

「僕のアトリエの住所、書いてあるからいつでも遊びに来てくれてええよ♪」

「はあ……」

「アホか、受け取らんでええって」

 有砂はイライラした様子で日向子の手首を引っ張る。

「ほら、行くで」

「あっ……はい」

 引きずられるようにして有砂に連行されながらも、日向子は少しだけ後ろを振り返った。

 秀人は微笑を浮かべたままヒラヒラと手を振っていた。

 日向子は軽く会釈だけを返して有砂に視線をスライドさせた。

 静かな怒りをたぎらせている様子だ。

 声をかけるのをためらってしまう。

 日向子は受け取った名刺をとりあえずコートのポケットにしまいこんだ。

 あの人が沢城秀人。

 有砂や、美々や、菊人の実の父親。

「……驚いたやろ?」

 有砂が口を開いた。

「……あれでもそこそこええ年やねんで。半世紀近く生きてもあんな調子や……昔からちっとも変わらへん。恥ずかしい奴や……」

 日向子には秀人が見た目より遥かに年齢を重ねていることよりも、秀人が話に聞いてイメージしていたほど悪い人に見えなかったことのほうが意外だった。

 だがけして、良い人に見えたというわけではない。

 感じたのは、善悪の境界の曖昧な、子供のような危うさだ。

 確かにあの人は、危険な人なのだろうと日向子は感じていた。

「お嬢」

「はい」

「間違ってもあのクソ親父と二人っきりで会ったりしたらあかんからな」

「はい、あの……有砂様、ところで今日は何を」

「今日はもうええ……気ィ削がれたから、ジブンをマンションまで送ったら帰るわ」

「……そう、ですか」

 とても残念なことだ。

 だが、今日は、ということは日を改めてまた話してくれるということだ。

 日向子は頷いた。

「わかりました。またいつでもお話し下さいね?」















 今一番会いたくない男と遭遇してしまったことにより、バイトの疲労感が一気に10倍に膨れ上がったようで、身も心も重く感じながら有砂は帰宅した。

 いい加減深い時間となっていたが、蝉のバイクがないようだった。

 蝉が釘宮やスノウ・ドームの事情で遅くなることはよくあるが、いつも必ず帰宅連絡をよこしてくる。

 何か、引っ掛かるものを感じた。


 そしてそれが杞憂ではないことを、有砂はダイニングルームで、知った。

 顔に似合わず達者な文字で記されたあまりにも短い、伝言。

「……あのアホ……」

 有砂は奥歯を噛んで、ぐしゃっ、とメモ握り潰した。







『よっちんへ

 今までありがとう

 おれはやっぱり

 釘宮漸、として

 生きていくことにします

 勝手でごめん

 heliodorと

 あの娘をよろしくね』














《第8章へつづく》
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「……どうして、今日は雪乃ではありませんの?」

 その朝に日向子を迎えに来たのは、釘宮家の古株の使用人・小原(オハラ)だった。

 小原はつい最近白の面積が黒の面積を追い抜いてしまった頭をかいて、言いにくそうに告げる。

「まことに急なことではございますが、本日より日向子お嬢様の送迎は私が任せられることとなりまして……」

「……雪乃に、何かあったのですか?」

「はい……とは、申しましても、けして悪いことではなく……むしろ喜ばしいことかとは思うのですが……」

「どうぞもったいぶらず、おっしゃって?」

 日向子が先を促すと、小原は顔を引き締めて、改まった口調で答えた。

「昨夜、旦那様が漸様を釘宮家の正式な後継者にご指名されました」








《第8章 迷宮の果てで、もう一度 -release-》【1】









「雪乃が……釘宮の後継者……」

 それは小原の言葉通りの、実に「喜ばしい」知らせだった。

 雪乃は幼い頃から釘宮の後継者になるべく教育を受け、努力を重ねてきたのだ。
 むしろ認められるのが、遅すぎたくらいだと日向子も思う。

 だがあまりにも急な決定であった。

 雪乃は年内にも公の場で正式な後継者としての襲名を行うこととなる。
 年が明ければすぐに高槻の携わる事業や役職を順に引き継いでいかなければならないため、今は釘宮邸で各種手続きや最終的な打ち合わせに追われている筈だ。

 もう日向子の世話にかける余裕はないし、またその必要もない。


 後継者として世界中を飛び回って仕事をするようになれば、顔を合わせることすら年に数度ということになりかねない。

 もう雪乃とゆっくり話をするチャンスはほとんどなくなってしまう。

 心の準備のできていなかった日向子には、それは寂しすぎる現実だった。

 デスクに向かい、昨日の紅朱と玄鳥への取材の件を原稿に起こそうとしても、キーボードの上に置かれた指はかろやかに動いてくれそうもなかった。

 なんだか、身も心も重く感じる。

 溜め息がもれる。

 こんな時には決まって「どうしたの?」と声を掛けて相談に乗ってくれる美々も、今は不在だ。

 まるで何かから逃れようとするかのように、前にも増して忙しく働く美々はデスクにいつかなくなっていた。

 日向子はノートパソコンの傍らに置かれた携帯電話を見やった。

 あんなにも頻繁にメールを送ってきていた万楼から、今日は一通も届いていない。

 こちらから送ってみようかとも思ったが、もし練習に集中しているなら邪魔になってしまうかもしれない。
 そう考えると出来なかった。

 同じように結局話を聞けずじまいの有砂のことも気になるのだが、昨夜はだいぶ機嫌が悪そうだったので、もう少し待ってから連絡したほうがいいような気がしていた。


 あまりにも筆が進まないので、日向子は原稿を書くのを諦めて、ノートパソコンを閉じる。

 昨日の取材の後、ラーメン屋で食事していた際、紅朱と玄鳥は翌日も同じスタジオで二人で曲作りをすると話していた。
 来たければ来てもいいとのことだったが、あまり毎日顔を出してもやりにくいのではないかと思い、遠慮してしまっていた。
 そうなるとそこへ行くのも躊躇われる。



 なんだか世界に一人取り残されたような孤独感を感じて、たまらなくやるせない。

 ふと思う。

 普段はなんとなく距離を置かれているような気がするけれど、辛くてたまらない時には、まるで全てを見透かしたようにいつも突然現れて、心を軽くしてくれる人のことを。

「そういえば蝉様は……どうしていらっしゃるのかしら?」

 あの笑顔がなんだか恋しくなって、日向子は携帯電話を手に取った。












――……ちゃんと、見に来てくれとったんや……

――何ゆうてるの? 約束してんから当たり前やないの

――……ん、ああ……そう、やな。……で、どうやった?

――そらもう、めっちゃよかったで

――ホンマに……?

――お前はうちの自慢の子やな……有砂

――……有砂?

――ホンマにかっこよかったで、有砂

――……オレは、佳人やで? ……母さん

――佳、人……?

――……母さん……?



――うちには、佳人なんて子はいてへんよ














「……っ」

 有砂は、無機質なデフォルト設定の着信音で目を覚ました。

 今が何時なのか、いつの間に眠っていたのかもわからないが、ダイニングテーブルに突っ伏したまま夜を明かしたようだ。

 目が覚めてからも有砂はしばらくそのままの姿勢でぼんやりしていた。

 過去という名の夢の余韻に捕まってしまっていた。

 すぐ近くでずっと、携帯電話が鳴っている。

 有砂の携帯の音では、ない。

「……おい……鳴ってるで……」

 半分覚醒しきっていない頭で、呼び掛ける。

「……やかましいから……はよ出ろ、アホ……」

 万が一「間違えて」もいいように、全く同じ機種で全く同じ着信音に設定して、二つ使い分けている……この携帯の主。

「……蝉……?」

 不意に、霞んでいた意識が覚醒する。

 ゆっくりと身体を起こして、着信音の出所を探した。
 すぐに判明する。それは、テーブルの脇のゴミ箱の中から響いていたのだ。

 点滅するランプが、携帯を包み込むかのようかぶさったウイッグの毛束の隙間から、チカチカとオレンジ色の光を発する。

 有砂はその光景を見つめて、思わず額に手を当てた。

 そう。

 蝉は携帯に出ることはできない。


 ここにはもう、いないのだから。


















「……蝉様でいらっしゃいますか? わたくしです。日向子ですわ」

 長い長い呼び出しのコール音が途絶えた途端、日向子は思わず早口で告げていた。

 しかし、返ってきた声は蝉のそれではなかった。

《……お嬢》

「まあ……有砂様」

《……悪かったな、オレで》

 やはり有砂の声音は不機嫌そのものだ。

「いえ、そのようなつもりでは……ご気分を害されたのでしたら申し訳ございません」

《……別にええ。こっちはすでにこれ以上ないくらい気分最悪やからな……》

「あの……何か、あったのですか?」

 日向子はおずおずと尋ねる。
 下手な発言をすると有砂はそのまま無言で電話を切ってしまうのではないかと思った。
 有砂はしばし間をおいて、溜め息を一つついて答えた。

《……蝉の奴が、出ていきよった》

「まあ、またですの? スノウ・ドームへお帰りになっておしまいですのね」

《いや……》

「携帯電話も置いて行ってしまわれたのですね。あちらは電波が入りにくいですから、必要ないのかもしれませんけれど……」

《……そやなくて》

「きっとすぐに戻られますわよ」

 どうにか口を挟もうとしている有砂に気付かず、日向子は笑って告げた。

「もうすぐカウントダウンライブですもの……少なくともそれまでには必ずお帰りになりますでしょう?
heliodorが次のステップへ進むための、大切なイベントですものね」

《……それは》

「でも……」

 日向子は携帯電話を握った指先にキュッと力を込める。

「……寂しい、ですね?
蝉様がいらっしゃらないと……」

《……》

 有砂は少しの間、沈黙した。

 そして、

《……まあ、少なくとも……》

 吐息の混ざったかすれた声が呟く。

《……この部屋は……オレ一人には広すぎるな……》














「後継者の指名式は二週間後、12月24日に行うことになった」

 「彼」は深く頭を下げた。

「……ありがとうございます。年内に……などと身勝手な申し出を致しまして、先生には大変なご迷惑を」

「私は構わんが、お前のほうは本当に大丈夫なのか?」

 革張りの椅子の肘掛けに肘をつき、頭をもたげた姿勢で、高槻は斜めに「彼」を見上げた。

 「彼」は頷き、応える。

「式で披露する曲はほとんど完成しておりますので、当日までには万全の状態に致します。ご心配には及びません」

「……その話ではない」

 高槻は目をすがめる。

「……本当に、軽音楽には見切りがついたのか?」

「はい」

 「彼」は顔色一つ変えず、完璧な無表情で即答した。



「全てほんの一時の、気の迷いでございましたので」



「……そうか。ならばよいが」

「……それでは私は、取り急ぎ披露曲の準備に入りますので失礼致します」

 「彼」はまた深く頭を下げてから、くるりと書斎から廊下へ続くドアへと踵を返した。

「漸」

 その背中に高槻がもう一つ問いを投げる。

「……眼鏡はもうかけなくていいのか?」

 「彼」は上体だけを軽くひねって振り返る。

「はい。もう、必要がなくなりました」


 そしてもう一度会釈程度に頭を下げて、「彼」高は槻の書斎を後にした。

 広い廊下を歩き、エントランスに続く吹き抜けの階段に差し掛かったところで、

「漸様……いえ、これからは若旦那様とお呼びするべきですね」

 階段を下から上にやってくるところだった、小柄で白髪まじりの頭の品の良さそうな初老の男が呼び止めてきた。

「小原……例の件はお嬢様にお伝えしたか?」

「いえ……それがまだでございまして……」

「何をしている」

 淡々とした口調で言い放つ。

「私は朝のうちにお伝えしろと言った筈だが?」

「……しかし若旦那様、お嬢様はお迎えが若旦那様でなかったことに落胆しておられまして……追い討ちをかけるようなことを申し上げるなど……」

「小原」

 「彼」は気持ち語気を強めて小原を見下ろしながら言った。

「これからも釘宮家で働くつもりなら、私の命令には間違いなく従ってもらう」

 小原は一瞬唖然としたが、元々皺の多い顔に更に皺を寄せ、目を伏せた。

「……それは、心得ておりますが……あまりにもお嬢様がお気の毒です。
若旦那様の襲名式に併せてご婚約を発表などと……何故そのようなことを旦那様に進言なされたのですか?」

「お嬢様のご婚約は先生も切望しておられたこと。お相手は先生がお選びになるのだから、家柄も人格も申し分ない男性に相違ない」

「しかしっ、あのお嬢様がそれを『はい、そうですか』と受け入れる筈がありませんでしょう?」

 おしめをしている頃からこの家の令嬢を見てきた小原にはそんなことはわかりきっていることだ。

 もちろん、「彼」もわかっている。

「反発して、本格的に釘宮を出奔するならそれもよしということだ」

 一片の感情すら覗くことのない「彼」の瞳は、雪の結晶のように冷たく澄んで、何の曇りも存在しない。

「……どちらに転んでも、釘宮日向子をこの家から排斥出来ればそれでいい」

 語る言葉には、いささかの迷いも躊躇もない。

「……何故そのような、ことを……」

 小原は悲しそうに頭を左右に振った。

「……お嬢様は、若旦那様を慕っておいでです。かようなお言葉をお聞きになったら、どれほどお嘆きになるか……」


 悲痛なその訴えですら、もはや「彼」を揺らすことはない。


「……それがどうした?」
 オレンジのウイッグを捨てた「彼」は「蝉」ではない。

 眼鏡をかけなくなった「彼」は「雪乃」でもない。


「つつがなく釘宮の全てを手にしてしまえば、もはや彼女に取り入る理由はない……むしろ目障りだ」


 「釘宮漸」なのだから。












《つづく》
 その日の練習は、蝉を除く四人で行われていた。

 蝉が「また」出て行ったと聞いて、有砂以外の三人は呆れていた。

 日向子はまたスノウ・ドームへ様子を見に行ってみようかと言ったが、有砂は却下した。


 恐らくバンド内で最も蝉という人を理解しているであろう有砂がそう判断したのならば、仕方ない。

 しかしこうして四人での練習風景を眺めていると、たまらなく寂しい。

 寂しさをまぎらわすように、四人の音の隙間に、日向子は記憶の中の蝉の音色を呼び起こし、埋めていく。

 純粋に蝉の奏でるキーボードの幻だけを追っていると、何かとても、穏やかな気分になる。

 懐かしいとすら感じるのだ。

 「月影逢瀬」を弾いてくれた、あの時を思い出すのだろうか?

 それとも……。










《第8章 迷宮の果てで、もう一度 -release-》【2】










「……すごいね。熟睡だね」

 練習中も時折うとうとしている様子だった日向子は、紅朱が休憩を宣言した途端、ほっとしたか本格的に眠りに落ちてしまった。

 椅子の背もたれに小さい身体を預けて、少し上体を左側に折り曲げるようにして眠る姿は、どう考えても楽な姿勢には見えなかった。

 それで熟睡出来るのが不思議なほどだ。

「お姉さんは寝顔も可愛いね。睫毛長いなあ……」

「おい万楼っ、そんなに近くで……!」

「玄鳥、しーっ。お姉さんが起きちゃうよ」

「……っ、女性の寝顔を覗くなんて失礼じゃないか……」

 どうやら日向子の寝顔を直視出来ないようで、玄鳥は赤い顔で目を泳がせながら抗議する。

 万楼は可愛い顔でニヤニヤ意地悪く笑う。

「見ないともったいないよ。ねえ、リーダー?」

「知るか、俺に振るなよ」

 紅朱は迷惑そうに眉をしかめながらも、器用な姿勢で眠る令嬢を見やった。

 まるで無防備な寝顔をかばうように、サラサラとした絹糸のような髪が流れて、白い頬を少し隠している。

 うっすらと開いたチェリーのような唇からは規則正しく淡い寝息がもれているらしく、胸元が微かに上下している。

 無理な姿勢のためによれたブラウスの合わせ目からその奥の素肌が見えそうで……見えない。

「っ」

 それじゃまるで見たがってるみたいだろ、そんなわけあるか、と紅朱は心の中で自分に突っ込みを入れ、日向子から目をそらした。

「ったく……暑いんだよ、この部屋は……」

 ぶつぶつ言いながら出て行く紅朱を目で追った後、年少組は顔を見合わせた。

「この部屋暑い?」

「いや……肌寒いくらいじゃないか?」

 練習中は暑いので、スタジオの暖房を低めに設定されている。
 汗が冷えると少し寒く感じるほどに。

「ねえ玄鳥、このままだとお姉さん風邪引いちゃうんじゃない?」

「あ、そうだよな……上着とか掛けてあげたほうがいいか」

 玄鳥と万楼は同時に動き、備え付けのハンガーにかけてあったそれぞれの上着をそれぞれに取り、それぞれに日向子に掛けようとして、止まった。

「ボクのコートのほうがファーがふわふわであったかいよ」

「……俺のコートのほうが丈が長くて身体がはみださなくていいと思うけど」

「玄鳥、大人げないよ」

「お前こそ大人になれよ」

 呑気に眠りこける日向子を挟んで、チリチリと静かな火花を散らす男二人……のすぐ目の前で、カーキ色の布が翻った。

「え」

 二人は同時に声を上げて目を丸くする。

 いつの間にか(恐らくは不毛な睨み合いをしている間であろうが)日向子のすぐ傍らに立っていた有砂が、常通りのだるそうな顔をしながら、妙にテキパキとカーキ色のコートで日向子を包んで、挙げ句にあんぐりと口を開けたまま固まる二人を尻目に、ひょいっと日向子の小さい身体を抱き上げてしまった。

「有砂さん!?」

「有砂??」

「……前ん時より軽なってる……」

 日向子はこれでも全く目を覚ます気配もなく、自分がみの虫のように包まれて、お姫様だっこされているとは夢にも思わないだろう。

 有砂はこともなげに、

「ここにおくと練習の邪魔になりそうやから、今のうちに撤収する」

 淡々と言い放った。

「撤収……?」

 ハモる年少組に、

「……気ぃ利かせてドアくらい開けろや。塞がっとるやろう、両手が」

 と目を半眼する。

 するとタイミングよくドアが開き、ロビーの自販機で買ったのだろう500ミリリットルのコーラを片手に紅朱が戻ってきた。

「……は?」

 いきなり奇妙な光景を目にした紅朱の動きが止まっている間に、有砂は日向子を抱えたまま、その横をすり抜けてスタジオを出て行ってしまった。

「……なんだ? あいつどうしたんだ?」

 紅朱は残された二人に説明を求める。

 二人は手にしたコートが引きちぎれるのではないかというほどギュッと力を込めてドアの向こうを睨んだ。

「許せない……」

「有砂……っ!」


 その剣幕に二度驚きながら、紅朱はすれ違いざまに一瞬だけ至近距離で見た日向子の寝顔を何故か思い出していた。

「……美人、だったんだな……日向子って……」



 一方非難と困惑の眼差しを振り切った有砂は、そのまま駐車場へ向かった。
 実は寝たふりなのではないかというくらい全く目覚める気配のない日向子を落とさないように支えながら、苦労して愛車の後部座席に下ろす。

「なんや……誘拐犯の気分やな」

 日向子は少し寒さを覚えたのか、わずかにみじろいで、自分を包む布を更に強く巻き付ける。
 顔の下半分までが隠されてしまった。

「……アホ、窒息するやろ」

 有砂は嘆息して、日向子の口元の部分の布を少し引っ張ってやる。
 再び姿を見せた、控え目な色のグロスで艶めく唇が、微かに動き、声にならない言葉を紡いだ。


 ゆ・き・の


 そう読み取れた。
 
 有砂はおもむろに、軽く曲げた右手中指の関節部分で、こつん、と日向子の額を軽くどついた。

「……また、オレで悪かったな……」













「……雪乃!」

 駆け寄って、後ろ姿に呼び掛けた瞬間、びくっとその背中が震えたような気がした。

「……お嬢様……何故、ここに」

 振り返った少年は、確かに雪乃であったが、雰囲気が全くいつもと違って見えた。

 眼鏡をかけていないからかもしれない。

 いつも妙に大人びた雰囲気の雪乃が、今はなんだか年相応の普通の高校生に見える。

 濃紺のブレザーを着た雪乃の姿は朝・夕と目にしているから珍しくなどない筈なのに、新鮮に思えた。

 もっとも雪乃は大急ぎで通学鞄から眼鏡ケースを取り出して、すぐにいつもの通りに戻ってしまったのだが。

「わざわざこのような場所にいらっしゃるとは……どうなさったのですか?」

「うふふ、理由の一つは雪乃の通う学校が近くで見たかったから、ですわ」

 日向子の通う女学院の中等部校舎からも、この高校の校舎はよく見える。

 学院の女生徒たちは、みんな厳しく育てられた令嬢ばかりで、男性に対する免疫がないため、1キロメートルも離れていないこの場所を、憧れと怖さの入り混じった眼差しで眺めているのだ。

 もっともそれはお互い様で、丘の上にそびえる禁域……名門女学院の制服を着た少女が校門の前にたたずんでいるなどここの男子生徒たちにとってもあまりにレアな出来事だったのだが。

 日向子は自分が注目されていることに気付いていない様子で、ほんわかした笑顔を浮かべながら、ピンク色の可愛らしい紙袋を雪乃に差し出す。

「理由のもうひとつはこれですわ。家庭科実習でラズベリーのケーキを作りましたの。自分でもなかなかよく出来ていると……だから雪乃にも食べて頂きたくて」

「……私の帰宅が、待ちきれなかったので校門で待ち伏せなさっていたというわけですか」

「ええ。雪乃はいつも部活動で遅くなりますでしょう? 同じ『待つ』ならお屋敷よりこちらで、と」

「……お嬢様のお気持ちはよくわかりました。が、とにかくここから移動しましょう」

 雪乃は気持ち早口で告げて、日向子の先に立って歩き出そうとした。


「校門の前でナンパ……それもセシル女学院の生徒とは……なかなかおさかんなことやな、釘宮」

 日向子の知る限り、いつでもどこでも冷静沈着な雪乃の顔が、こんなにもはっきりと驚愕に彩られたことがかつてあっただろうか。
「……さっきから何を妙な話し方しとんねん、不気味すぎるで」

「……これはっ、その……」

「……雪乃? お友達ですの……?」

「……か、彼は、同じ部の……」

「まあ、そうでしたの」

 日向子は、雪乃と同じ制服を少し着崩した、鞄を肩口に引っ掛けるようにして斜に構えて立つ背の高いの少年を見上げて微笑する。

「オーケストラ部のお友達ですのね?」

 少年は、際立った美形ではないが、端正に整った顔を歪ませる。

「……オーケストラ部……?」

「よろしければ、ラズベリーケーキをおひとついかがですか?」

「お嬢様、彼は甘い物は召し上がりません。試食は私が責任を持って致しますので、早く参りましょう」

「……えっ、あ」

「失礼を」

 日向子の手からケーキと鞄を半分奪うように受け取って、歩き始める。

 日向子も仕方なく、

「雪乃とこれからも仲良くなさってね……ごきげんよう」

 と、何かまるで幽霊でも目撃したような顔をして雪乃を凝視する少年に、お辞儀をしてそれに続いた。


「……もう、雪乃ったら……どうなさったの? わたくし、雪乃のお友達ともっとお話したかったですのに」

「先生がお帰りになる前に早くお屋敷に戻りませんと、小原さんがお気の毒です。お迎えに上がっていながら、お嬢様に逃げられたなどと知れたらひどいお叱りを受けるでしょうから」

「……そう、ですわね……わたくし、軽率でしたわ」

 日向子は素直に頷き、雪乃はこっそりと胸を撫で下ろしていた。

「……そういえば、雪乃と帰るのは初めてですわね?」

「……はい」

「これからは毎日二人で帰りませんこと?」

「いけません。お嬢様を毎日歩いて帰らせるわけには参りません」

 ぴしゃりと遮断されてがっかりしながらも、日向子は少し考えて、言った。

「では、いつか雪乃が車に乗れるようになったら、わたくしを毎日迎えに来て頂けて……?」











「まあ……どういたしましょう」


 目を覚ました日向子は、まずそこが自分の部屋のベッドだったことに驚き、次に見覚えのあるコートにぐるぐるくるまっていたことに驚き、ベッドサイドに置かれたメモ書きに更に驚いた。


「……『カギは勝手に使わせてもらった。スペアのほうは預かってるから今度コートと交換する……涎ついとったら殺す』」

 やはりこのコートの主も、日向子を部屋まで送り届けたのも……有砂のようだ。

 日向子は状況を頭の中で整理しつつ、大切な預かりものをハンガーにかけて、ベッド脇に吊す。

 カーキ色のコートからはほんの少し、有砂が使っている香水の香りがする。

 だからだろうか?

 雪乃の夢なのに、有砂によく似た少年が出てきたのは。
 雪乃の友達を見たのはあの時が最初で最後……顔も声も覚えていないのに。

「あら」

 硬い感触を見つけ、「もしや」とポケットの中を探った。

 予想通り……それは有砂の携帯電話だ。

 しかも日向子が手に取るのを待ち構えていたように振動し始める。

「着信ですわ……どういたしましょう?」

 ディスプレイは非通知。

 日向子は悩んだが、携帯がないのに気付いた有砂本人からの着信の可能性を考えて出ることにした。

 通話ボタンを押した途端、日向子が何か言うより早く、上擦った声が響いた。

《佳人くん!?》

 日向子も知っている、女性の声。

 こんなにも取り乱した声は初めてだったが。

《佳人くん……っ、菊人がっ》

 続く言葉に、日向子は目眩を覚えた。


《誘拐、されたかもしれないの……!!》










《つづく》
「……ストーカー?」

 マンションの入り口にしゃがみこんでいた、おさげ髪の若い女は、斜め上から見下ろす男へ眼鏡ごしに強い視線を向けた。

「……ご挨拶ね、沢城佳人。コートも着ないでどこに行ってたの?」

「練習」

 短く答えて通りすぎようとする有砂に、すかさず問掛ける。

「ねえ、ゼン兄は? 連絡がつかないから待ってたんだけど……」

 有砂は立ち止まり、うづみを振り返った。

「……聞いてないんか? あいつならここにはもう戻らんつもりみたいやで」

「え……?」

「……ご丁寧にアパートの名義変更の手続きまで勝手に済ませて出て行きよった。
バンドも辞める気のようやし……お嬢の話と合わせて考えると、釘宮の後継者になるんはほぼ確定らしい。それも、年内やと……スノウ・ドームは安泰そうやな」

 有砂の言葉には多分に皮肉が含まれていたが、

「うそ……」

 うづみはそんなことにまるで気付かないように愕然とした表情でその場にへたりこんだ。

「……そんな……やっと、ゼン兄を自由に出来ると思ったのに……」

 震えながら、両手で頭を抱えるうづみを無言で見下ろしていた有砂は、ふと彼女の左手の薬指にきらめく飾りを目にとめた。

「……その指輪、どこで手に入れた?」










《第8章 迷宮の果てで、もう一度 -release-》【3】










「どうしたの? 日向子……」

 美々はいきなり部屋を訪ねてきた職場の親友兼後輩のただならぬ雰囲気に驚いていた。

 玄関先では話しにくいからという日向子に応えて、とりあえず部屋の中へ入れたが、日向子はソファに腰を下ろすこともなく、切羽詰まった表情で切り出した。

「美々お姉様の、お母様……有佳(ユカ)様が今どちらにいらっしゃるか、おわかりになりますか?」

 思いもかけない問掛けに、美々は日向子を凝視する。

「……なんで?」

 声音はどこか冷たいものになってしまう。

 日向子はひるまず、じっと美々を見返す。

「菊人ちゃん……美々お姉様の弟に当たる男の子が行方不明になりましたの
ハウスキーパーが目を離した隙にお庭からいなくなったと……」

 美々は一瞬目を見開いたが、すぐに打ち消す。

「……それで?」

「はい……ポストに走り書きのようなメモが投函されていたそうで……その、差し出し人の名前が有佳様なのですって」

「……メモには何て?」

「……『この子は私が連れて行きます』、と」

「……」

「有佳様は沢城家とは完全に絶縁していらっしゃったそうで、薔子様には行方がおわかりにならないのですわ。
美々お姉様ならご存じなのではありませんか……?」

 美々は一瞬苦しそうな顔で目を伏せたが、それもまたすぐに打ち消した。

「……その状況だったら確実に誘拐じゃないの。警察に通報すれば済むことでしょ?」

「できれば警察沙汰にはなさりたくないと、薔子様のご判断です……」

 美々はフッとにわかに冷笑した。

「……自分の子どもの身が危ないかもしれないってのに、悠長な女」

 日向子は首をゆっくり左右する。

「薔子様だって一秒でも早く菊人ちゃんの無事を確かめたいと思っていらっしゃいます。
……ただ、出来ることなら大人の都合で深く傷付く子どもをもう出したくないとお考えなのです」

 かつて沢城家の双子に起きた惨劇は、大きくマスコミにも取り上げられて、当事者たちの心に未だ影を落としている。
 
 薔子は当時は自分のことで精一杯だったために、他の人間、それも夫の前妻とその子どもたちを思いやる余裕など全くなかったのだろう。
 しかし年月を経て、自らも子を授かった今、薔子はそれを過ちと認められるようになっていた。

 日向子は電話で話して、そんな薔子の気持ちを察した。
 そして、詳しくは話せないが、有佳の居所に心当たりがあるかもしれない人を知っていること、もしも明日の日付に変わるまでに連絡しなければ、その時は警察に届けるようにと伝えたのだった。

「……なんなのよ、それは」

 うつむいた美々はうめくように呟く。

「あたしの幸せをぶち壊しておいて、今更何言ってんのよ……」

「美々お姉様……」

「日向子……あたし、佳人に会ったよ」

「え……?」

 微かに瞳に涙を浮かべた美々が、顔を上げ、乾いた微笑みをつくる。

「偶然ね……あの店でバイト始めたなんて知らなかったから。
あたし、あんなにつっぱってたのに、実際に会ったら我慢出来なくて、声をかけちゃった」

「……それで?」

「……佳人も気付いたみたいだったけど……言われちゃった。『もうここには来るな』って」

 一滴、涙が頬を伝い落ちる。

「当たり前だよね。……拒絶したのはあたしだったんだから。
……ダメなんだよ、一度壊してしまったものは元になんか戻らないんだ」

 震える言の葉。

「あの女もそれを知るべきなんじゃないの……?
子どもに何かあったって、自業自得よ」

 冷淡とも言える発言とは裏腹に、美々は傷付いた少女の顔をしている。

 日向子はそっと歩み寄り、小さな身体でぎゅっと美々に抱きついた。

「……日向子……」

「あなた方は、いつも自分に嘘をついて、追い詰めようとなさいますのね……欲しいものを要らないと言って、寂しくても寂しいとは言わない。
心にもないことばかり口にして、自ら傷付いて」

 本当に、よく似ているのだ。

 この妹とあの兄とは。

「……もしも、先に声を掛けたのが有砂様だったら、美々お姉様はどうなさいましたか……?」

「……それは」

「もしも相手が自分を憎んでいたら、許してもらえなかったら、拒絶されたら……そんな不安を感じたのではないですか?
傷付くくらいなら、自分から遠ざけてしまおうと……思うのでは?」

 美々は無言だったが、日向子はそんな彼女を見つめて、涙の跡を指で拭う。

「……本当に欲しいものがある時は、どうぞ勇気を出して、なりふり構わず求めて下さい。
その結果何が起きても……わたくしは、美々お姉様のお側にいて、出来る限りお支え致します。
……親友、なのですから」

 美々はきゅっと目を閉じて、今度は反対に日向子を抱き締めた。

「……ありがと……ごめんね。あんたのほうがよっぽど、お姉様みたいだね……」

「……美々お姉様は素敵なお姉様ですわ」

「そうだね、素敵なお姉様でいられるように、もっとしっかりしなくちゃ」

 美々は日向子を抱き締めていた腕をそっとほどいて、もう泣いてはいない、真面目な顔で切り出す。

「だけどごめん、あたしもずっと母さんには会ってなくて、今どこにいるかはわからないんだ」

「そうでしたの……」

「けど、前に母さんが入院してた病院とか、あたしがいた施設とか、色々当たってみればわかるかもしれない。
調べてみるから少し時間をちょうだい」

 いつもの行動力に満ちた頼りになる美々が戻ってきたようで、日向子は非常時に不謹慎かと思いながらも、純粋に嬉しくなった。

「はい、お願い致します……ではその間にわたくしは、もうひとつのあてを当たってみますわ」

「もうひとつのあて?」

 いぶかしげな美々に、日向子は自分のコートのポケットに入れたままだったあるものを取り出し、見せた。

「それ……」

「秀人様の名刺……アトリエに伺ってみようと思いますの。
薔子様がご連絡された際は、まともに話を聞いて頂くことも出来なかったと……わたくしから改めて事情をご説明して、有佳様の居場所をご存じないか確認しようと思いますの。
籍を外れたとしても、菊人ちゃんの実のお父様ですもの、きっと……」

「どうかな」

 苦々しく美々が呟く。

「あの人に世間一般の常識は一切通用しないからね……人並の親の情を期待しても無駄だと思うけど」

「……無駄、だったとしてもただ待っているよりはいいのではないかと思います」

 きっぱりと言い切る日向子だったが、美々はずっと渋い顔をしたままだった。

「……くれぐれも、気を付けてね? 日向子……」








「ねえ、玄鳥はどう思う?」

「何が?」

「有砂のこと。今日のあれってさ、やっぱりお姉さんのこと狙ってるのかな??」

 日向子を練習スタジオから連れ去った有砂は、何食わぬ顔で戻ってきた。

 玄鳥の非難や万楼の詰問も見事に煙に撒き、平然と練習をこなし、帰って行った。

 ファミレスで遅めの夕食をともにする年少組は、未だもやもやした気持ちを抱えたまんまだった。

「……別に有砂さんが本気で日向子さんを好きだっていうなら仕方ないと思う」

 玄鳥はサラダのレタスの青々とした繊維をフォークでザクっと貫く。

「……だけど、いい加減な気持ちの人間が日向子さんに近付くのは耐えられない」

「……いい加減な気持ち……」

 焼きたてのパンケーキにたっぷりメイプルシロップを回しかけながら、万楼はぽつりと呟く。

「……いい加減な気持ち、なのかな……ボク」

「万楼……?」

 玄鳥は恋敵の異変を敏感に感じとっていた。

「……今日、お前、ほとんど日向子さんと話してなかったよな。近くに行ったのは眠ってる時だけで……さ。
しばらくメールも控えてるだろ?」

「チェック細かいな……玄鳥って恋愛になると粘着質なんだね」

「……っ、なんだよ。心配してるんだぞ、一応」

 有砂や紅朱を牽制したり、万楼の行動をチェックしたり……自分でもあんまりかっこいいことではないとわかっている玄鳥は、わかっているが故に本気でむっとしてしまう。

「ごめん」

 万楼は苦笑いする。

「わかんなくなってきたんだ」

 とても、辛そうな笑みだ。

「ボクは本当にお姉さんが好きなのかな」

「……なんだよ、急に」

 二人はディナーを未だ一口も口に運ばないままに、互いを見つめる。


「お姉さんはボクを粋さんの代わりなんかじゃないって……言ってくれた」

「……うん」

「だけど……ボクにとってお姉さんはもしかしたら、代わりなのかもしれない」

 サラサラとした淡いピンクの髪に指をくしゃりと突っ込んで、万楼はきつく目を閉じる。

「だって思い出しちゃったから……ボクは、《万楼》が……粋さんのことが好きだったって」













「申し訳ありません、お約束もなく突然お邪魔致しまして」

「ええよ、ええよ♪ キミが遊びに来てくれるん、ホンマ楽しみやってんから」

 有砂と造形のよく似た顔がハイテンションで気さくに話す様子に、未だに戸惑いを覚えながらも、日向子はキョロキョロと室内を見渡した。

 秀人のアトリエ。

 《SIXS》のゴシックなイメージからもっと薄暗い洋館みたいなところかと思っていたが、ごく普通のモダンなデザイナーズハウスという雰囲気だった。

 秀人のアシスタントらしき人と数人遭遇したが、全員が若い女性だった。

 アシスタントの一人に案内された部屋は、三階建ての建物の最上階。
 その最奥の秀人のプライベートルーム。

 アシスタントにも入ることが許可されていない部屋だという。

 思いの外、無駄なもののないシンプルな部屋だ。

「座って」

 促されたのはベッドだった。
 有砂ほどではないが長身の秀人だけあり、ベッドは恐らくクイーンサイズだろう。

 日向子がちょこんと遠慮がちに腰を下ろすと、秀人は遠慮のかけらもなくすぐ横に座る。

「……で、急ぎの用って何?」

「あ、はい……その」

 日向子は菊人が行方不明であること、連れ去ったのは有佳の可能性が高いということを一生懸命説明した。
 秀人は、うんうん、と相槌を打ちながら話を聞いていた。

 これなら大丈夫かもしれない、日向子はそう思いながら尋ねた。

「有佳様がどちらにいらっしゃるかご存じでいらっしゃいますか?」

 秀人は問掛けにあっさり答えた。

「うん。わかるで」

「本当ですか!?」

「けど」

 年齢にそぐわない悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「教えて、あげないよ」








《つづく》
「あの……それは」

「だって」

 秀人は笑っている。

「有佳も薔子ももう僕の奥さんちゃうし、菊人も薔子が引き取ってんから僕の子やないやん?
ってことは僕にはもう関係ないし」

 あまりにも明るい口調で悪びれもせずに語るので、日向子は一瞬何も言えなくなってしまった。

「……あ、困った顔。めっちゃ可愛い」

 秀人は楽しそうだ。

「実に、そそるねー」

 沢城秀人には世間一般の常識は通用しない……美々の言葉が頭をよぎる。

「……どうしてそのような冷たいことを仰るのですか?」

「冷たい??」

 秀人は心外そうに目を細める。

「僕は冷たくなんかないで? ただ、僕がホンマに大切にできる人は一人だけやねんか」

「一人だけ……ですか」

「僕にはもうすぐ入籍する新しいハニーがいてんねんで。昔の奥さんと関わったなんてバレたらハニーが気ぃ悪くするやん?」









《第8章 迷宮の果てで、もう一度 -release-》【4】








「あの、事情はお察し致しますけれど……」

 そんなものは到底「お察し」出来るような事情ではなかったが、日向子はあくまで下手に出た。

「そこをどうかご協力頂けませんでしょうか?」

 秀人は口許の笑みをたやすことなく、

「キミ、僕のことを、ひとでなしやと思ってるやろ?」

 逆に問い返す。

 日向子は小首を傾げる。

「いえ、そのようなことはありませんけれど、少し困った方だとは思っています」

 秀人は「うんうん」と頷く。

「けどねえ、キミ。究極的に言えばみんな自分自身が一番可愛いもんなんやで?
……キミも、そう」

「……どういう意味でしょうか?」

 戸惑う日向子の顔を覗きこむように、秀人は少し距離をつめる。

「菊人が見付かっても、見付からなくても、生きていても、死んでいても、警察沙汰になっても、ならなくても……キミには何の損失もないやんか。
どっちでもええから、キミは気分のええほうを選んで行動しているに過ぎへんってこと。僕と同じや。わかる?」

「……よく、わかりません」

「ようするに、今キミは何もリスクを負ってへんゆうことや。
無傷で主張する正義に説得力なんかあらへんて」

 日向子は秀人の眼差しに至近距離から見下ろされ、なんだか落ち着かない気分を味わいながら、懸命に頭を回転させた。

「……では、わたくしがリスクを負えば、説得に応じて下さるということでしょうか?」

 秀人は元々切長の目を細める。

「……そうやねえ。それやったらええかも」

「では、わたくしはどのようなリスクを負えばよろしいのでしょうか?」

「んー……」

 秀人はほんの少し目線を外し、悩むような顔をしていたが、またすぐに日向子を見つめてにっこり笑った。


「純潔、とか?」


「は?」

 キョトンとしている日向子の華奢な肩を、秀人はポン、と唐突に押した。

「きゃっ」

 運動法則に従って日向子は横倒しにベッドに倒れ込んだ。

 秀人は日向子を見下ろしてぺろっと舌先で唇を舐めた。

「……僕と、エッチする?」

「……っ」

「エッチするんやったら有佳のいるとこ、教えてあげる」

「……そ、そのような……」

「あ、震えてる。めっちゃ可愛い……」

 秀人は上体を傾けて、日向子に半分被さるようにして瞳を覗く。

「実に、そそるね」

 日向子はぎゅっと手に力を込めて、息を大きく吸う。震えを止めるために。

「……このようなこと、ハニー様が悲しまれますわよ?」

「ええよ。今日からキミが僕のハニーってことにするから」

 暖簾に腕押しとはこのことか。

 日向子は今になって秀人の言葉をひとつ誤解していたことに気付いた。

 本当に大切に出来る人はひとりしかいない……それは恋人のことではないのだ。

 彼にとって最も大切で、可愛いのは自分自身なのだから。

「……嫌やんなあ? こんなひとでなしの、ようわからんおっさんに汚されるなんて。
嫌やったら僕を殴って帰ればええやん。
僕も無理強いする気ィなんて更々ないで?」

 それが理不尽な言葉だということはわかっている。

 しかしそれでも日向子は動けなかった。

 逃げて帰れば、菊人を救うことより自分の身可愛さをとったことになる。秀人の理屈でいくならば……。

 この人に負けたくない、と思った。


「……お好きに、なさってはいかがですか……?」

 気丈に告げて、きゅっと目を閉じた。

「……ふうん、そう」

 秀人の顔が更に近付いたのがわかった。
 耳元に息がかかる。

「……っ」

「……水無子と似てるんは、顔だけちゃうなあ。
キミもなかなか、僕の思い通りにならんね……?」

「……え?」


 日向子が思わず目を開けた瞬間、突如として激しく金属がぶつかるような破壊音が響き渡った。


「あーあー……また、なんちゅうことを」

 秀人は日向子から身を引いて、呆れたように溜め息をつく。

 日向子も半分身体をおこして、何が起きたのかを確認する。

 音がしたのは入り口のドアからだった。

 ドアのノブのあたりがすっかりひしゃげて、一部は砕けて床に転がってしまい、ドアの向こう側の景色が覗き見られるようになってしまっていた。

 驚く日向子の目の前で、破壊されたドアが開け放たれる。

「……ホンマに人の話をちゃんと聞かんオンナやな……」

 不機嫌な顔をした有砂が、どうやら凶行に用いたと思われる、胴体のへこんだ消火器を片手に入ってきだ。

「一人でそいつに会うな、ゆうた筈やで」

「あの、でも菊人ちゃんが……」

「薔子さんに聞いた。聞いたからここへ来たんや……ま、そこの変態に言いたいことは他にも山ほどあるんやけどな」

 手にしていた消火器を軽く放り投げる。秀人の足元に、それは鈍い音を立てて転がった。

 有砂はそうして空いた手で日向子をベッドから引っ張り下ろし、自分の後ろに押しやった。

 日向子はいつかの駐車場での出来事を思い出した。
 あの時と違うのは有砂の背中に強烈な殺気を感じること。

「……とりあえず、とっとと母さんの居場所を吐け」

「佳人~、それが人に物を頼む態度なん?」

 秀人は有砂の殺気を正面から受け止めている筈だが、この期に及んでもにやにや笑っている。

「……菊人のことが心配なんやったら、もっとちゃんとお願いしてみたらどうや~? お兄ちゃん」

「っ」

 有砂の肩が増幅した怒りにぐっと持ち上がるのを見て、日向子は思わずその背中に、触れた。

「……」

 有砂は日向子を軽く振り返り、無言のまま見つめた。
 日向子も何も言わなかった。

 それでも有砂は、小さく首を上下して頷いた。

 わかってる、と。

 そして有砂は再び実父へと向き合う。

「……親父……」

 低い声で呟くと、日向子の見守る前で、ゆっくりと、膝を、折った。

 グレーのカーペットを敷いた床に膝をつき、手をていて、最後に頭が降りる。

「……頼む。教えてくれ」

 日向子は祈るように両手を組んだ。
 有砂にとって、反発している父親に頭を下げることがどれほど屈辱的なことであるか。
 
 もしこれでも秀人がごねるようなら、日向子もその横で手をつくつもりでいた。

 だがその必要はなくなった。
 秀人がベッドに腰かけたまま、有砂を見下ろして、笑顔でこう告げたからだ。



「な~んちゃって♪ ホンマは僕も知らんねん。……怒った~?」



「っ……!」

 予想だにしない言葉に感情が追い付かずに、膝をついたまま呆然とする有砂の横をすたすたと、日向子は真っ直ぐに秀人の眼前に歩み出た。

 そして。

 細い手首が砕けてしまうのではないかというほど力いっぱい……秀人を平手打ちした。

「……痛ぁ~……」

 涙目で頬を押さえる秀人を正面から見据えていい放つ。


「痴れ者。恥をお知りなさい」


 幼な顔の小さな令嬢が浴びせた痛烈な一言。

「……えっ、あ……」

 秀人は大きく目を見開いて固まる。

「……ご。ごめんな、さい」

 涙目の状態で声を裏返らせながら、ほとんど反射的に謝罪する。

 日向子はそんな秀人に背を向けると、また別の意味で呆然としている有砂の前でしゃがみこみ、数秒前が嘘のような笑顔を見せた。

「ご立派でいらっしゃいました。さあ、参りましょう」

 手をさしのべる。

「……ね?」

 有砂は無言のまま目を伏せて、静かにその手を取った。

「……ああ」

 おとなしく日向子に手を引かれて立ち上がり、半泣きのままうなだれている秀人に視線を向けることもなく、有砂はゆっくりと破壊されたドアから部屋を出た。

 何事が起きたかと部屋の外に集まっていたアシスタントの若い女性たちがわざとらしく散々に逃げて行く中を、ゆっくりと歩き、一階エントランス直通のエレベーターに二人で乗り込んだ。

 ドアが閉まった瞬間、日向子は突然、バランスを失ったようによろめいて、有砂にしなだれかかるような格好となってしまった。

「……お嬢?」

 とっさにそれを支えながら、有砂は日向子の顔を覗く。

「……申し訳ありません……身体に力が入らなくて」

 日向子ははーっと息を吐き出す。

「……人様に対して本気で怒ってしまったのは、生まれて初めてでしたから……」

「……あんな無茶苦茶な交換条件出されても怒らんかったくせに」

「はしたない真似を致しました……有砂様のお父様にあのような」

「……あんな奴、はなから父親やと思てへん」

「……それは、嘘ですわね」

「……なんやて?」

「有砂様は秀人様に頭をお下げになりました……菊人ちゃんのために夢中でいらしたのでしょうけれど、そればかりでなく、本当はどこかで秀人様を信じてみたい、というお気持ちがあったのではありませんか?」

 日向子は有砂の腕に身体を預けたまま、ずっと高いところにあるその瞳を見つめた。

 有砂は目をそらすことなく、眼差しを受け止める。

「……そう、かもな」

 胸を締め付けられるほどに寂しそうな微笑で。

「……何回裏切られても、何回失望しても、どこかでまだ期待を棄てきれてへんのかもしれへん」

「……あ」

 ゆっくりと静かに下降を始める狭い箱の中で、日向子は有砂の腕に包まれ、きつく抱きしめられていた。

 胸の位置に押し付けられる格好になった右耳には有砂の心臓の鼓動が響いてくる。

 苦しそうな呟きと一緒に。

「……前にジブンが言うてた通り、オレは孤独に耐えられない甘ったれのガキや……」

「有砂様……?」

「……いつも悪夢に追い掛けられて、独りきりで夜を越えることすらオレには……っ」

 顔は見えないが、多分有砂は泣いているのだろう、と日向子は思った。

 秀人の仕打ちは恐らく、有砂の不安定な心を紙一重で支えていた細い支柱を無惨にへし折ってしまったのだろう。

 だがその支柱は裏を返せば、有砂の本心を外界から隔てるための、侵入者を阻む障害だったともいえるのかもしれない。

 吐き出されているのは、皮肉も虚勢も失われた言葉。

 脆く儚く、純粋な……。

 日向子は今、初めて有砂の剥き出しの感情に触れたような気がした。

 そのあまりにも繊細な想いにどんな言葉を返してあげればいいのかわからず、日向子はただ有砂の後ろに手を回して、その小刻みに震える背中を撫でていた。

 フロア表示の点灯が「1」を示し、ゆっくりと扉を開くその時まで。


 訪れたその時、有砂は、静かに日向子を解放した。

「……立てる、か?」

「……はい、あの……大丈夫みたいです」

「そうか」

 有砂はどこかわざとらしく、日向子の前に立ってエントランスを抜け、歩いていく。

 涙の余韻を見られたくないのだろう。

 いつもの有砂に戻りつつある。

「さてどうする? お嬢。諦めて警察に駆け込むか?」

 後ろ姿の問掛けに、日向子はきっぱり答えた。

「いいえ。まだですわ」










《つづく》
「中学の時……」

 信号待ちの最中、ふと有砂が口を開いた。

「……母さんがオレを訪ねてきてくれたことがあった」

「有佳様が……?」

「そうや。『病気』の治療の経過が順調やったから仮退院したけど、有砂……妹にはまだ会わせてもらえてへんような状況で、寂しかったんやろうと思った。
……オレも複雑な心境ではあったけど、久しぶりに母親に会えたことは、嬉しかった」

「そうでしたか……」

「学校でうまくやれとんか、友達はおるんか……なんてしつこく聞きよって……。
ちょうど文化祭の時期やったから、心配いらん、て証明するためにバンド組んで母さんを呼んでやることにしたんや」

「……それが有砂様がドラムを始めたきっかけですわね?」

「……まあ、そうなるな」

 やがて信号は青になり、ゆっくりと、車が流れ出す。

「……オレのドラム人生のベストパフォーマンスは、未だにあのステージのような気がする」








《第8章 迷宮の果てで、もう一度 -release-》【5】








 かつてスノウ・ドームの古いピアノの前で、蝉から話を聞いたことがあった。

 蝉を感動させ、ロックの世界に引きずりこんだという有砂のプレイ。

 それは根底に、母親への強い愛情があったからなのかもしれない。

「……有佳様は、さぞやお喜びでしたでしょう?」

「ああ……絶賛しとった。……ずっとオレのことを『有砂』と間違えたままやったけどな」

「……え?」

「……何回違うゆうても『有砂』『有砂』て……母さんの中で『沢城佳人』の存在は無かったことになっとったみたいやから」

「そんな……」

 実の母親の記憶から存在ごと抹消される……想像を絶するような心痛であろう。

 有砂はハンドルにかかった指先に少し力を加え、微かに充血した目をすがめる。

「あの人は多分……オレを忘れて、事件を忘れて……そうでもせんと正気を保てんかったんやろう」

 自分を訪ねて来てくれたと思っていた母親は、自分を通して妹の幻影を求めていたに過ぎなかったという、事実。

 裏切られた淡い期待。

 有砂にとって実母との再会は新たな苦い記憶となってしまったのだろう。


「……ですから有砂様は、『期待』してしまうことを恐れていらっしゃるのですね」

 有砂はそれきりまた、無言になってしまった。

 夜の街を走り抜ける、白い車はもうすぐ目的地にたどり着く。

 秀人のアトリエを出てすぐに、美々から日向子へ着信があった。



――わかったよ、日向子。
  母さんの行方。

  一時退院を繰り返しながら、都内の病院で療養を続けてるみたい。

  明日からまた院に戻るらしいけど、今夜はきっと自宅にいるって。

  自宅の場所は……










「……ここ、ですわね?」

 静かに車のドアを閉めて、日向子はすぐ目の前の建物を見上げた。

 薔子の住むハイソな高級住宅街から歩いても30分とかからないその一画は、現代世界から忘れ去られたようなうらぶれた雰囲気の商店街だった。

「……ホンマにここか?」

 有砂がいぶかしい顔をするのも無理のない話だ。

 時間が時間なのですでにシャッターが降りているが、そのシャッターと、上にかかった色褪せた看板には「洋菓子店 りでる」と書かれている。

「……ええ、その筈ですけれど」

 日向子は情報の出所がどこであるか、有砂にはまだ話していなかった。

 時間もないため有砂のほうもしつこくは追求しなかったが、たどり着く先がまさかレトロなケーキ屋とは想像だにしなかったようだ。

 二人は戸惑いながらも建物の裏手に回り、住居スペースのほうへ繋がっていると思われる裏口を見つけた。

 日向子がチャイムを三度押すが、中から誰も出てくる気配はない。
 窓から灯りが見えているので、誰かしらいるようなのだが……。


「……ああ、すいませんね~。そのチャイムは壊れてて鳴らないんですよ~」


 間のびした妙なテンポで、人のよさそうな高齢の男性が声をかけてきた。

 中身のたくさん詰まった紙袋を抱えて、不意に現れたその男性は、二人のほうに近付いてくる。


「もしや、このお店の方でいらっしゃいますか?」

「はい~、店主の吉住(ヨシズミ)と申しますが、何かご用ですか~?」

 吉住と名乗る男はにっこりと素朴に微笑む。
 有砂は吉住に、静かに問掛ける。

「……井上、有佳という人はここにいますか?」

 吉住は少し驚いたように小さい目を見開いたが、すぐにまた笑顔に戻った。

「おや~、有佳さんにお客さんとは珍しい」











「有佳さんが住み込みで働くようになって、四年ほどになります。
その四年の半分以上は病院で過ごしているから、実際にはもっと短いですがね~」


 ショーウインドウの中の玩具に目を奪われるこどものように、有砂は硝子一枚隔てた向こう側の景色に釘付けになっていた。

 硝子の向こう……厨房の中で、真っ白なエプロンをつけて、バンダナを頭に巻いた背の高い中年の女性が平台の上に乗せた何かの生地らしき塊をこねている。

 有砂のすぐ隣で、日向子もまたその光景をじっと見つめていた。

 彼女は本当に、美々とよく似ている……。

 そんな感慨を抱きながら、平台からようやく頭半分覗く程度の小さな男の子が女性のすぐ傍らで、好奇心に瞳を輝かせているのを見て、安堵した。

 若い訪問者二人の心中を察しているのかいないのか、吉住はまったりと語る。

「有佳さんは病気のせいで一緒に暮らせないお子さんのためにお菓子の作り方を覚えたいと言って、この仕事を始めたんですがね~。
不器用で、包丁も満足に握れないところから、随分と成長したみたいですよ~」

「……ろくに料理なんか作ったことなかったからな」

 有砂が無表情のままぽつりと呟く。

「そうみたいですね~。だからあんなにはりきってるんですよ~。ようやく可愛い息子に自分が作ったものを食べさせてあげられると」

「息子に……?」

 日向子と有砂は声を揃えて問い返す。

「ええ~。息子の佳人くん……あの男の子です。まさかあんなに小さい子だったとは思いませんでしたけどね~」

「佳人……?」

 またしても声が重なり合う。

 その瞬間、声が届いたわけではないだろうが、厨房の中の男の子……吉住が「佳人」だと認識している彼が日向子たちに視線を向け、何か呟いたのがわかった。

 その呟きで、生地を夢中で伸ばしていた女性……有佳もまたこちらに気付き、振り返る。

 女性の顔に驚愕が浮かび、その目線の先の有砂もまだわずかに脅えたような表情を浮かべ、後ずさる。

 日向子はとっさにエレベーターの中でしたように、有砂の背中を軽く撫でた。

「……お嬢……」

「大丈夫……逃げないで。わたくしがここにおりますから」

 その時、厨房の中に男の子をおいたまま、有佳が駆け足で飛び出してきた。

「ごめんなさい……!!」

 有佳は半分日向子を押し退けるようにして、有砂にすがるように抱きついた。

「っ、母さ……」

「ごめんなさい……ごめんなさい……佳人を勝手に連れ出してもうて……堪忍ね……秀人さんっ」

「え……?」

 有佳は周囲の様子も、有砂の表情も全く目に入らないふうで、有砂の胸にすがりながらぽろぽろ涙を流す。

「うち、やっぱり佳人と離れて暮らすん嫌や……うちが生んだ子ぉを、なんでうちが育てたらあかんの……?
佳人がおらんから有砂も毎晩毎晩、眠れんて泣いてるんよ……?
ねぇ、あんた……うちは、どうしたらええ?」

 泣きじゃくる有佳と、当惑する有砂を呆然と見ていた日向子の上着のすそを、小さい手がつっと引っ張った。

「おねえちゃん」

「……菊人ちゃん」

 厨房から抜けてきた菊人が、日向子を見上げる。

「あのおばちゃん、なまえまちがえるよ。
でも、うれしそうだからおれ……」

「間違ってる、と言えなかったのですわね?」

 日向子は微笑んで、菊人の頭をなでなでしてあげた。菊人はくすぐったそうにしている。

 恐らくたまたま幼い頃の息子とよく似た少年を見つけたことで、有佳の記憶は逆行したのだろう。
 封印していた想いが蘇り、混乱をきたしてしまった……。

 我が子を強く愛するが故に。

 有砂は、しばし有佳を見つめていたが、やがて躊躇っていた両腕でぎゅっと有佳を抱き返した。

「……そうやな……有佳、ごめんな……僕が、悪かった」

「……秀人さん?」

 有佳は泣くのを中断し、少し顔を上げる。

 有砂はさながら恋人を愛撫するように、有佳の髪を撫でた。
 そして、笑ってみせる。

「有佳の病気が良うなったら、また四人で暮らそう……?
有砂と、佳人と、僕と、キミで……」

「……秀人さん」

 有佳は年を重ねても尚美しいその顔に至福の笑みを浮かべ、再び有砂の胸に顔を埋めた。

















「一人、か?」

「いいえ、今日は待ち合わせですの」

 事件の翌日。
 冬晴れの午後。

 来たるべき聖なる祝福の日に向けて装飾の施されたカフェの店内で、日向子と有砂は客と店員としてまた顔を合わせていた。

 菊人は無事に薔子の元に戻り、有佳は予定通りまた病院に戻った。
 哀しく辛い過去に囚われたままの有佳が完全に社会に復帰するにはまだまだ時間がかかるだろう。
 しかし吉住は有佳の事情を知った上で、あの穏やかな笑顔で、これからもこの店で有佳とやっていくつもりだと話していた。

 安住の地とあたたかい理解者を得た彼女は、きっとこれ以上不幸にはならないだろう。

 たとえ有砂が囁いた幸福な嘘が、現実になりえなかったとしても。

 有砂は日向子のオーダーを聞いてテーブルを離れたが、またすぐに戻って来て、日向子の向かいの席に座った。なんとなく不機嫌そうに。

「有砂様??」

「……休憩、やって」

 ふとキッチンのほうを見やると、忙しく仕事をする振りをしながら、明らかにこちらを興味津々に見守っている視線があった。

「……あの、一体」

「……お嬢は気にせんでええ」

 有砂が同じ方向を見やり、軽く睨むと視線の主たちは、そそくさと仕事を始めた。

「……それはそうと」

 有砂は日向子のほうに向き直った。

「悪かったな、面倒なことに巻き込んで」

「いえ、先にご面倒をおかけしましたのはこちらですもの。わざわざわたくしを部屋まで運んで下さったのでしょう?」

「……一応、世話したるように言われとるからな。……まあ、オレは引き受けた覚えはないんやけど」

「はい?? あの、よくわかりませんがありがとうございました。
そういえば、アトリエの時も、助けに来て下さいましたものね?」

「……あの時のことはもう、ええやろ」

 気まずそうに目線を逃がす有砂。
 秀人に土下座した件といい、日向子の前で泣いたことといい、彼にとっては不名誉なことばかりだったに違いない。

「……あんなことがあったばかりですのに、お母様のためにお父様の振りをして差し上げるなんて、お辛くはありませんでしたか?」

「……多少不本意ではあったかもな」

 と目を半眼しながらも、有砂のの口調は穏やかだった。

「……でもオレももう、いじけるだけのガキではおれんからな」

 たとえ有砂を誰と見間違えていようと、有佳の中には確かに息子への強い愛情がある。自分を壊してしまうほどの……。
 それを目の当たりにしたことで有砂の長年のわだかまりも氷解したようだ。

「お嬢……オレは、腹をくくった」

 有砂の口調は、今までになく力強いものだった。

「妹を……『有砂』を捜す。また期待を裏切られるだけやったとしても、な」

 迷いのない言葉に、日向子は頷いた。

「……そうですか」

 悪戯な笑顔を浮かべて。

「ところで有砂様……本日は有砂様にわたくしの大切な親友をご紹介したいのですけれど、よろしいでしょうか……?」













《第9章へつづく》
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