「どうしても、行くの?」
「ああ」
あまりにもあっさりとした返事。
「だけど万楼がいなくなったら、ボクはまた独りぼっちになるよ」
「男の癖に情けない顔をするな……響平」
犬や猫を撫でつけるようにがしがしと頭を撫でてくる。
「お前は東京へ行け。heliodorはきっと、お前を必要とする筈だ」
「heliodorなんか……嫌いだよ」
ふつふつ、と自分の内側から見覚えのない感情が沸き上がってくる。
「万楼がこの街を去るのも、heliodorの為でしょう?」
「違うな……私自身の為だ」
「じゃあ、万楼にとって……heliodorは、過去?」
つきつけた問いに、彼女は黙ったままどこか悲しそうに笑う。
「側にいても……万楼の心はいつも遠くにある……ボクを、見てくれてない」
「響平、私は」
もうたくさんだ。
無我夢中ですがるように、細く締まった腰を抱き締めた。
「……どうしても行くなら、最後に抱かせてよ。
今夜だけ、ボクのものになって」
《第7章 秒読みを始めた世界 -knotty-》【5】
「……今の……何?」
両腕にリアルに蘇ってくる感触。
その光景は、ただの白昼夢ではないと、全身の感覚が訴えている。
ベースを抱えたまま、万楼は呆然としていた。
「……ボクは……?」
照明を落とした薄暗い部屋の中で、「Melting snow」のせつないメロディだけがエンドレスで流れていた。
「日向子の奴、なんか急いでたな」
「……うん」
「有砂からの電話となんか関係あんのかな……」
「……」
ラーメン屋を出てすぐに日向子と別れた浅川兄弟は、スタジオの駐車場へと向かっていた。
「……兄貴」
突然玄鳥が立ち止まった。
「なんだ?」
紅朱もまた、立ち止まる。
そしてようやく自分を見つめる玄鳥の瞳に宿る思い詰めたような感情を察した。
「……綾?」
玄鳥は紅朱を睨むようにして口を開いた。
「兄貴は日向子さんをどう思ってる?」
「どう……って、いい奴だと思ってるぞ?」
「女性としてどう思うかって聞いてるんだよ」
「あ? 女性として? なんだよ、それ」
玄鳥はじれったそうに語気を荒げる。
「彼女を恋愛対象として見てるかってことだよ!」
紅朱はあまりの勢いに不覚にも圧倒されていた。
即答しない兄に痺れをきらしたように、玄鳥はついに言い放った。
「俺は、日向子さんが好きだよ……初めて彼女の手に触れた……あの瞬間から、ずっと、ずっとバカみたいに恋焦がれて……彼女だけを見てきたんだ」
往来で大声で口にするには、通常ちょっとためらわれるような台詞を真剣に口にしながら、玄鳥は一歩踏み込み、唖然としている紅朱の両肩をぐっと掴んだ。
「兄貴はどうなんだよ!? そういうつもりじゃないんだったら、頼むから俺の邪魔をしないでくれ」
「邪魔……って……」
肩に食い込む指の力の強さに、紅朱は玄鳥がいかに本気かを文字通り痛いほど思い知らされていた。
「悪ィ……全然、知らなかった。お前……日向子に、惚れてたんだな」
自分で告白したことだというのに、玄鳥は微かに顔を赤らめてうつむき、紅朱から手を引いた。
「……うん」
紅朱はしばしそんな玄鳥を見つめていたが、ややあって小さく溜め息をついた。
「……いいんじゃないか」
「え?」
顔を上げた玄鳥に、苦笑して見せる。
「お前はしっかりし過ぎてっから、案外日向子みたいに抜けてる奴が合うかもしれねェな」
「……兄貴……」
驚きで玄鳥の瞳がまんまるになる。
「応援してくれるのか? 俺のこと……」
「バカ……当たり前だろうが、俺はお前の兄貴だぞ」
瞬間、玄鳥は感激と安堵がミックスされた半分泣きそうな笑顔で、
「……兄貴っ!!」
「うあっ」
いきなり紅朱を思いきり抱き締めてきた。
「ありがとう! 兄貴っ!!」
「なっ、離せバカ野郎! 見られまくってんだろうが!!」
あまつさえ玄鳥の腕にちょうどよくすっぽり収まってしまう自分の体型を疎みながら、紅朱は必死に逃れ出た。
「……ったく、大袈裟なんだよ、お前は」
「ごめん……けど、俺はもしかして兄貴も日向子さんのこと気になってたらどうしようかって思ってたからさ……」
「……あのなぁ、んなこと……」
ふと。
紅朱の頭の中に、日向子が現れる。
微笑んだ日向子。
涙を浮かべた日向子。
すねた顔。
恥じらう顔。
鳥のさえずるような澄んだ声。
触れた時の髪や肌の柔らかさ。
真っ直ぐに見つめてくる大きな瞳。
「……あるわけ、ねェだろ」
そうだ。
意識したことなどなかった。
これまでは一度も。
そしてこれからも……?
正体のはっきりしないもやもやを胸の真ん中に感じながらも、紅朱は玄鳥に笑ってみせる。
「あ、そういや心配すんなよ。このことは他の奴らにはちゃんと黙っててやるからな」
「あの……すごく言いにくいんだけどさ。知らなかったのって……兄貴だけだよ?」
「あ?」
日向子は有砂を待っていた。
電話で、バイトが終わり次第そのまま真っ直ぐ迎えに来るから適当に時間を潰しているようにと言われていたので、12月を彩るイルミネーションを眺めながら、ふらふらと意味もなく街をぶらつく。
有砂のほうから連絡をしてくること自体が珍しく、しかもその内容が「話したいことがあるから付き合ってほしい」……だ。
声音が少し弱々しく聞こえたのは、バイト疲れのせいだけだったのか。
何かあったのだろうか。日向子は不安を感じていた。
「有砂様……」
名前を呟いた瞬間、日向子のすぐ横でふいに停車した車があった。
「有砂様?」
振り返ったがそれは有砂の車ではなかった。
艶やかなボディの薔薇色のフェラーリ。
「……やっぱり、水無子に似てる」
わずかに開いたウインドウから声が聞こえた。
男性の声だ。
「水無子……?」
日向子はその名を聞き留めて、目をしばたかせた。
「わたくしの母が水無子ですけれど……」
「母っ? ほんならキミ、水無子の娘なん? えっ、ホンマに!?」
早口の関西弁がまくし立てたかと思うと、少々乱暴に運転席側のドアが開け放たれた。
「そら生き写しも無理ないか、高槻センセーの遺伝子は一体どこいってもたんやー?」
車から降りたのは、黒いロングコートを着た、背の高い、一見年齢不祥な男性だった。
雰囲気から恐らく日向子より10以上は年上であろうとは思われたが。
だがそれよりも、日向子は彼の着ているコートのほうに気をとられていた。
よく覚えている。
別れ際に、伯爵がまとっていたあのコートと全く同じデザインだ。
「あの……どなた様ですか?」
男性は、日向子を見下ろして楽しそうに笑う。
「僕なー、キミのママの昔の彼氏やねん」
「えっ?」
「ああ、ええね。その驚いた顔とかホンマそっくりやわ」
遠慮もなく伸ばされた左手のいくつものシルバーで飾られた五指が、日向子の右頬に触れる。
「実に、そそるね」
ダンッ、と突然鈍い音が辺りに響いた。
日向子と男性は同時に振り返り、
「まあ……っ」
「なぁっ……!!」
同時に叫び、顔色を変えた。
「ちょっ、オマエはなんちゅーことをっ、先月納車したばっかやねんぞ!?」
「……あんたこそ年甲斐もなく恥さらしな真似せんといてくれへんか?」
有砂だった。
日向子には先刻から展開があまりに急過ぎて、何が起きているのか整理しきれなかったが、どうやら先刻の音は、有砂がフェラーリのバンパーを蹴り上げた音だったようだ。
「お嬢」
「は、はい」
「危ないからこっち来とき」
「はあ……」
日向子はよくわからないまま、ひょこひょこと有砂の側に寄っていった。
「なんや、キミは佳人のタレやったん?」
「たれ?? あの、有砂様のお知り合いですか?」
有砂は不機嫌そうに舌打ちした。
「いや、思いっきり赤の他人や。ほっといて行くで、お嬢」
日向子の手首を掴んでとっとと歩き出そうとする有砂だったが、
「こーら、パパにそんな口聞いたらあかんやろ? 誰のおかげでそんな大きなった思てんねや」
「……パパ?」
「少なくともあんたのおかげやないやろ、クソ親父」
「おや、じ……?」
日向子は目を見開いて、有砂と男性を見比べた。
そうだ。
コートにばかり気を取られていたが、よく見れば男性のルックスは、ほとんど有砂の「未来予想図」のようだ。
「あの……あなたが、沢城秀人さん……?」
男性は微笑む。
「うん、そうやで♪ ちなみにキミの名前は?」
「あの……日向子、です」
「日向子か。カワイイ名前やんか~、キミにぴったりやん」
軽い口調で評しながら、
「はい、あげる」
差し出してきたのは名刺だった。
「僕のアトリエの住所、書いてあるからいつでも遊びに来てくれてええよ♪」
「はあ……」
「アホか、受け取らんでええって」
有砂はイライラした様子で日向子の手首を引っ張る。
「ほら、行くで」
「あっ……はい」
引きずられるようにして有砂に連行されながらも、日向子は少しだけ後ろを振り返った。
秀人は微笑を浮かべたままヒラヒラと手を振っていた。
日向子は軽く会釈だけを返して有砂に視線をスライドさせた。
静かな怒りをたぎらせている様子だ。
声をかけるのをためらってしまう。
日向子は受け取った名刺をとりあえずコートのポケットにしまいこんだ。
あの人が沢城秀人。
有砂や、美々や、菊人の実の父親。
「……驚いたやろ?」
有砂が口を開いた。
「……あれでもそこそこええ年やねんで。半世紀近く生きてもあんな調子や……昔からちっとも変わらへん。恥ずかしい奴や……」
日向子には秀人が見た目より遥かに年齢を重ねていることよりも、秀人が話に聞いてイメージしていたほど悪い人に見えなかったことのほうが意外だった。
だがけして、良い人に見えたというわけではない。
感じたのは、善悪の境界の曖昧な、子供のような危うさだ。
確かにあの人は、危険な人なのだろうと日向子は感じていた。
「お嬢」
「はい」
「間違ってもあのクソ親父と二人っきりで会ったりしたらあかんからな」
「はい、あの……有砂様、ところで今日は何を」
「今日はもうええ……気ィ削がれたから、ジブンをマンションまで送ったら帰るわ」
「……そう、ですか」
とても残念なことだ。
だが、今日は、ということは日を改めてまた話してくれるということだ。
日向子は頷いた。
「わかりました。またいつでもお話し下さいね?」
今一番会いたくない男と遭遇してしまったことにより、バイトの疲労感が一気に10倍に膨れ上がったようで、身も心も重く感じながら有砂は帰宅した。
いい加減深い時間となっていたが、蝉のバイクがないようだった。
蝉が釘宮やスノウ・ドームの事情で遅くなることはよくあるが、いつも必ず帰宅連絡をよこしてくる。
何か、引っ掛かるものを感じた。
そしてそれが杞憂ではないことを、有砂はダイニングルームで、知った。
顔に似合わず達者な文字で記されたあまりにも短い、伝言。
「……あのアホ……」
有砂は奥歯を噛んで、ぐしゃっ、とメモ握り潰した。
『よっちんへ
今までありがとう
おれはやっぱり
釘宮漸、として
生きていくことにします
勝手でごめん
heliodorと
あの娘をよろしくね』
《第8章へつづく》
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