忍者ブログ

麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

HOME Admin Write
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

温もりを拒んで進む
万年雪の荒野では
あらがうほどに凍てついて
僕はもう
目を開けられない

絶望が
孤独が
虚偽が
降り積もる街では
月の光を憎んだ夜に
爪先まで冷えて
ひどく、痛んだ

秘密と罪を抱えたまま
旅を続けてきたけど
ささやかなともしびは
ここにあった
こんな僕すら変えるだろうか
唄う意味さえ変えるだろうか

いつか解けていくよ
哀しい夢も
繰り返した過ちも
愚かな執着も
目覚めたら 冬が逝く
微かな傷痕だけを残して








《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【3】









「『Melting Snow』……」

 もうまもなく日付が代わり、ニューイヤーを迎える刻限。

 ステージで奏でられる、未来への明るい希望と過去への深い思慕とが交錯するバラードは、まさに今年の最後を飾るにふさわしい曲だ。

 かつてのメンバーが生み出し、流れゆく時の中で眠っていたそれを、今のメンバーが蘇らせた。

 新しい音と、新しい思いで。

 日向子はそれを目を閉じて聞いていた。

 収容人数がキャパシティの120%を超えた会場の後方ではステージ上のメンバーはほとんど見えない。
 メンバーたちも誰一人日向子の入場には気付いていないだろう。

 日向子をライブハウスの前で下ろした伯爵は、流石に会場内に踏み入ることはなかった。
 寿司づめ状態の会場とはいえ、伯爵に気付くものが絶対にいないとは限らない。
 誰かひとりでも、伯爵の存在に気付けばパニックは避けられない。

 だがそんな現実的な問題は抜きにしても、伯爵は確かめるまでもなく結果を確信しているようだった。

 去り際、伯爵は日向子に「気が変わればいつでも連絡しておいで」と名刺の裏にプライベートナンバーを書き込んで差し出した。

 だがその時も「気が変わる」などということはありえないだろうと言外に語っていた気がした。

 だがその通りなのかもしれない。

 少なくとも日向子には伯爵の夢を応援することはできなかった。

 目を閉じて紅朱の歌声に耳を澄ます。

 初恋の人が、自らの遺伝子を最良の形で残すためだけに子どもを生み、託して死んでいったと知った時、紅朱はどんなふうに思ったのか。

 今の日向子にはリアルに想像することができる。

 好きな人が命を賭けた夢ならば、叶えてほしいと思う気持ちもないわけではない。
 だがそのために大切な人が利用されるのは辛い。
 それが正しいことだとは思えない。

 認められない。

 渡したくない。


 赤の他人の身で、「兄」である紅朱に勝るなどと言うつもりはないが、日向子にとっても玄鳥は大切な人だ。

 玄鳥のギターの音は大好きだが、ギターが巧いかどうかを基準にすることはありえない。

 heliodorのメンバーも、ギタリストとして以上に一人の人間としての玄鳥を大切に思っている筈だ。

 玄鳥とて、それがわからないわけはない。


 裏切りなどありえない。

 あってほしくない。

 そう強く思う。


 やがてゆっくりとアウトロが収束し、ステージを照らしていた白色のライトが消失する。

 惜しみ無い拍手が膨れ上がるように広がって、日向子も手が痛くなるほど叩いていた。

 しばしの余韻。そしてその後、静かにステージがまた照らし出される。

「……今のが今年のラストソングだ。もうすぐ年、明けちまうな」

 紅朱がゆっくりと今年最後のMCを始めた。

「……来年は、heliodorにとって新しい出発の年になると思う。なぜなら……」

 その時。

 会場がざわっと動いた。

 ステージがよく見えない日向子には一体何が起きたのかわからなかった。

「おい……どうした?」

 戸惑う紅朱の声。

 そして。

「兄貴の言う通り、heliodorは、新しく出発します……」

 玄鳥の声が、マイクを通して響いた。


「俺を除く四人のメンバーで」


 誰もが耳を疑う言葉を、淀みなく告げる。


「俺は……玄鳥はこのライブをもってheliodorを脱退します」

「綾っ……」

「メンバーにもファンの皆さんにも、突然の勝手な決断を押し付けてしまうことになってしまい申し訳なく思います」

 恐らくは紅朱が制止してマイクを取り上げようとしているのだろう。

 時折、激しいノイズが割り込む。

「綾……!!」

「……理解してもらおうとは思いません……非難されても構わない。……たとえ全てを失っても……大切な約束を破っても……俺は俺の進むべき道を進みます」

 もしもここが人間が密集した空間でなかったなら、日向子は床の上にへたりこんでいただろう。

「玄、鳥様……」

 相変わらずステージの上は見えない。
 沸き起こる怒号や悲鳴、すすり泣く声、マイクを通さないメンバーたちの玄鳥に向けた言葉のかけら、そんなものが耳を塞いでいく。

 頭の中を埋め尽していく。

「玄鳥様……」

 理解してもらえなくてもいい……それは、赤の他人として離れて暮らしていた彼の父親の言葉とぴたりと重なり合う。

 玄鳥はこちら側の人間だ、と伯爵は断言していた。

 そして玄鳥はその通りの行動を起こしたのだ。

「どう……して?」


 混乱の中……誰一人カウントする者がいないままに静かに年は移り変わっていた。


 そしてheliodor……黄金の太陽は、その光を遮る黒い翼のはためきに隠れ、深く暗い日蝕の時を迎える。












 メンバーと直接話すまでは意地でもとばかりに、いつまでも会場周辺から動こうとしないファンの説得に、スタッフが手を焼いていた頃、日向子は開け放たれたたまのドアの陰に立ち尽くし、楽屋に踏み込むことができないまま、呆然と中の会話を聞いていた。


「……だと、ふざけんなッ!!」

 断続的に、激しい衝突音が響く。

 誰かが椅子やテーブルを巻き添えにしながら倒れこんだような音だ。

 恐らくは紅朱が玄鳥を殴ったのだろう。

「ちょっと待って、落ち着いて。暴力はよくないよ、リーダー」

 慌てて止めに入ったのは万楼と蝉だ。

「玄鳥もさ、とりあえず黙ってないでちゃんと説明してよ。
一回バンド抜けようとしたおれが説教しても説得力ないかもしんないケド、一体どうしたってのさ?」

「……話してもわかってもらえるとは思えない……」

 話し合いすら拒絶する、静かな言葉。

「……こんなやり方が正しいとは思わないけど、こうでもしなければ……脱退なんてさせてくれないだろ。兄貴は」

「当たり前だ! 認めねェに決まってんだろうが!!」

「……たとえ兄貴や皆さんが許してくれないとしても、俺には……もうheliodorに留まることはできないんです」

 こんなことが前にもあった。

 あの時も、日向子はこうして聞いていたのだ。

 釘宮家のゲストハウスで。

 引き留めようとする高槻の真摯な説得を、まるで聞く耳も持たず退けて、伯爵はピアニストの道を放棄した。

 こんな状況になって改めて、紅朱と高槻はよく似ているのだと思い知る。

 そして玄鳥と伯爵もまた……心の深い部分が共鳴し合っているのだろうか。

 長年兄弟として暮らしてきた紅朱との絆すらも簡単に覆してしまうほどに……?

「……ジブンは、ホンマにそれでええんか?」

 ずっと黙っていた有砂が耐えかねたかのように口を開いた。

「一時の感情に流されとるだけなんと違うか?
もう一度頭冷やして考えたほうがええ」

 いつものように皮肉を含めることもなくストレートに意見するのは、浅川兄弟にかつての自分と美々のような悲劇的なすれ違いを演じさせたくないからだろう。
 しかしそんな言葉を受けても、

「……感情的な理由なんかじゃありませんよ。俺なりに、よく考えて決めたことです」

 玄鳥の決心を揺らすことはできないようだった。

「……だったら勝手にしろよ……」

 怒りと失望を混ぜあわせたような低い声で、紅朱がうめくように言った。

「……あいつのところへ行きたいならもう勝手にしろよ」

 本当は心にもない言葉を。

「……その代わり、てめェはもう弟でもなんでもねェ。二度と俺を兄貴なんて呼ぶんじゃねェぞ……わかったな」

「……ああ……よくわかったよ」

 その瞬間、あんなにも紅朱が大切にしていた、必死で守ろうとしていたものが無惨にも崩れ落ちた。

 20年という歴史など、何の意味もなかったとでもいうように、あっけなく、失われてしまった。

 日向子はかつてない深い絶望を感じていた。

 信じたくない。

 だがこれは現実。

 紛れもない現実なのだ。


 日向子はふらつく足取りで、楽屋を背にして歩き出した。

 今は紅朱の顔を見る勇気も、玄鳥と話をする強さも持てない。

 何を信じていいのかすら、わからない。

 もう泣くことすらもできなかった……。













「……日向子を泣かせるなって釘刺してやったのに……ホント、ボッコボコに殴ってやりたい気分」

 あまり穏やかでない言葉をかなり本気の口調で言い捨てる美々に、日向子は首を左右した。

「美々お姉さまのお気持ちは嬉しいですけれど……いくら殴られたとしても玄鳥様のお気持ちはきっと変わりませんわ」

 人の心を力で無理矢理縛ることはできない……かつてそう主張して父親に反発していた自分が、今はその真実の重さを嫌と言うほど味合わされている。

 溜め息を紅茶の中に溶かして飲み干すと、今更ながら泣きたい気持ちになる。

「……ねえ日向子、覚えてる?」

 美々が頬杖をつきながら、カウンターのほうに視線を流す。

「初めてあの兄弟に出会ったの、この店だったよね」

 そう。
 二人はあの席に座っていた。

 勝手にライブのチケットを田舎の母親に送った玄鳥に、紅朱が怒って文句を言っていた。

 カフェの店内で繰り広げるには少々迷惑なレベルの言い合いではあったが、今にして思えば微笑ましい光景だった。

 もうあんな二人を見ることはかなわないのだろうか。

 そんなことを思った時、入り口のドアが開いて、よく見知った顔が覗いた。

「……あ」

 万楼だった。

 向こうもすぐに日向子に気付いたようだったが、いつもの明るい笑顔で駆け寄ってくることはなく、

「……こんにちは」

 と力なく微笑んでゆっくり歩み寄ってきた。

「……ここ、いいかな?」

「ええ……」

 二人の席のすぐ隣に座った万楼は、オーダーを聞きに来たウエイトレスにいつものメロンソーダを注文した。

 スウィーツの新商品盛り沢山のメニューにすら見向きもしない彼の様子に、日向子は強い不安を感じた。

「万楼様……」

 呼び掛けたものの、何と続けていいか迷っていた日向子に、万楼は寂しげな影のある笑みを浮かべたまま、一言告げた。




「解散、しちゃった」




「え?」

 日向子と美々は、思わず万楼の顔を凝視した。

 マスカラなしでも驚くほど長い睫毛を伏せて、万楼はもう一度告げる。

「heliodor、解散した」

「……解、散?」

 何故か今の今まで日向子の頭の中にこの単語が浮かんだことは全くなかった。

 考えてみれば、ありえないことではない。
 メンバーの脱退という局面で、バンドが選ぶ道としては、比較的可能性の高い選択肢だった。

 だがなぜか、それを毛の先ほども予想することができなかった。

 粋が脱退してもheliodorは解散しなかった。
 だがそれは解散させまいと玄鳥が参入したからだ。

 玄鳥が紅朱を説得していなければ、恐らくは三年前に解散して終わっていた筈だ。

 その当の玄鳥が今度は脱退してしまったのだ……。

「……四人で、もしくは新メンバーを入れて継続は、できないんですか?」

 美々の問掛けに、万楼は辛そうに目を細めた。

「……玄鳥の脱退だけだったら、そうできたかもしれない」

「他にも……何かあるのですか?」

 続いて問う日向子に、万楼は小さく頷く。

「……うん……実は……」







《つづく》
PR
「とても……信じられないようなことだけど」

 万楼はそう前ふりして、言葉通りの衝撃的な事実を告げた。

「玄鳥が新しく加入するバンド、《BLA-ICA》にはね……粋さんと、うづみさんがいるんだ」

 日向子と美々は絶句して、万楼の端正な顔を凝視した。

 粋と言えばもちろん、初代・heliodorのベーシスト……そしてうづみは、蝉の幼馴染みで、一時期有砂と美々の父の新しい婚約者だった人。そしてheliodorのコピーバンドのドラマーでもあった。

 いずれもheliodorのメンバーにとってはゆかりある女性たちであるが、その彼女たちがどういう経緯で高山獅貴の新しいバンドに入ることになるというのか。

 意味がわからない。

「玄鳥が言ったんだ。だから嘘みたいでも本当の話」

 万楼は、長い睫毛を伏せて呟くように続ける。

「……玄鳥は絶対に嘘がつけない性格だからね」










《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【4】








「玄鳥とはあれから連絡がつかないんだ……うづみさんも、スノウ・ドームの管理は代理人立ててるみたいで留守なんだ……蝉でも取り次いでもらえなくて。話ができない」

 粋とはもちろん連絡の取りようがない。
 つまり、どういう事情で彼らが高山獅貴のバンドに集ったのかは不明なままだということだ。

「みんな、仲間や理解者だと思ってた人たちに裏切られたと思ってるみたいで……特にリーダーはすごく塞いでるよ。
ついさっきみんなにheliodorは解散するって宣言した時も……別人みたいに力のない目をしてた」

 それはそうだろう。
 うづみは、heliodorをずっと応援してきたファンの一人だった筈だ。
 三年も音信が途絶えていたとはいえ粋は、紅朱が性別を越えた親友だとすら感じ、認めていたバンド仲間。
 そして玄鳥は紅朱が何よりも守ろうとしていた家族だ。

 大切にしてきたもの全てに掌を返されたように思っただろう。

 そんな紅朱の心中を想像するだけで、胸が引き裂かれそうで、日向子は祈るように指をくんだ。

 美々もまた、我が身とも重なったものか、悲痛な表情を浮かべていた。

「……佳人や蝉さんも解散を受け入れたの?」

「……うん。自分たちも少なからずショック受けてる時に、あんなリーダー目の当たりにしたから、完全にね、心が折れちゃったみたいだ」

 美々は悔しそうに顔を歪めた。
 すんなり諦めようとするメンバー……特に兄を歯がゆく思う半面、heliodorの現状を思えば責めきれない……そんな複雑な感情が見てとれる。

 日向子はくんだままの指にキュッと力を込めて万楼を見つめた。

「万楼様も……諦めたのですか……?」

 声が震えてしまう。
 万楼はそんな日向子をしばし透明な表情で見つめると、やがて、ゆっくりと口を開いた。


「……ボクは……嫌だ」

 ふわりと微笑する。

「諦めてなんかいないよ」

 渇れ果てたかと思われた心の泉に広がった、ひたひたと満ちる。
 そんな優しく、強い言葉だった。

「ここであきらめても、ボクには帰る場所なんてどこにもない……独りぼっちでこの世界に生まれて、独りぼっちで虚ろに生きてきたボクにとって……heliodorはようやく見つけた希望なんだ。
こんなところで失いたくないよ……それに」

 万楼は微笑したまま、見た目の雰囲気よりずっと大きくて、男性らしい力強さを感じさせる手を、しっかりくんだままテーブルの上に置かれていた日向子の冷たい手に重ねた。

「もう1つの希望になってくれた人……あなたにこれ以上悲しい思いなんてしてほしくないから」

「万楼様……」

 日向子には、万楼こそが日蝕の暗闇に差す一条の残光……温かな希望だと思われた。

 heliodorの中で一番幼く、プレイヤーとしても人間としても経験の浅い万楼が、今は誰よりも毅然と現実を受け止めて立ち向かおうとしている。

 日向子にはそんな万楼が心強く、眩しく思えた。

「どうにか解散を撤回させたいと思う。ボク一人では難しいかもしれない……だから、力を貸してほしいんだ」

「わたくしで、力になれることがありますか……?」

「お姉さんは今まででと同じでいいよ」

「はい……?」

 言葉の意味がわからずにきょとんとしていると、万楼は続けて言った。

「今までそうしてきたように、みんなと話をしてほしい。お姉さんの言葉ならきっと、みんなの心を動かす」

「わたくしの言葉が……?」

「うん。できるよ。ボクは信じてる」

 どこまでも力強く響く言葉に、日向子は自然に首を上下していた。

「……わかりましたわ」

 それに頷き返すと、万楼は美々を見た。

「ボクは……どうにかして粋さんと話がしたい。個人的にケリをつけたいこともあるしね……。美々お姉さんの人脈で、どうにかコンタクトがとれないかな」

 二人のやりとりに奮い立ったのか、美々もまた力強く頷いてみせる。

「やってみます……!」

 日向子の手重なったままの万楼の手のそのまた上に、美々の手が重ねられた。

 為すべきことは見えた。

 もう暗闇など何も恐ろしくはない。












「あ……えっと……」

「……ごきげんよう、蝉様」

「あ、うん……おはよう。日向子ちゃん」

 日向子に「蝉」の名前で呼ばれるまで、困惑していたのは、眼鏡もウイッグもつけていない素の状態だったからだったろう。
 一体どちらになったらいいものか迷ってしまったらしい。

 日向子としても初めて見た姿だったのだが、今はそこに感慨を抱いている場合ではなかった。

「……お部屋に上がられて頂いても?」

「……うん、いいよ」

 明るいとは言えない声音は、日向子が何を話に来たのかおよそ察しがついているためのようだった。

 日向子はこれも初めて、蝉の部屋に足を踏み入れた。
 今までに有砂の部屋と共有部分には入ったことがあったのだが、蝉のテリトリーはまだだった。

 釘宮の屋敷にある雪乃の部屋なら家具はもちろん机の上の備品の配置すら思い出せるほど知っているのだが。

 蝉が暮らしている部屋はとても記憶しきれないほど情報量が多く、雑多なものがあふれ、統一感なく様々な色が散らばっている。

「ごめんね、散らかってて。とりあえずベッドに座ってもらえる?」

 散らばった雑誌類などをどかして作ったスペースに日向子をエスコートする蝉。

 自分もその横に座る。


「……バンドのことで話しに来てくれたんだよ、ね?」

「ええ……万楼様からお聞きしましたの。heliodorが解散したと」

「そう……ごめんね、日向子ちゃんには応援してもらってたのに」

 聞きたいのはそんな謝罪ではなかった。

「蝉様のバンドに対する覚悟はもっと堅いものだと思っていました……だから帰って来たのではなかったのですか? わたくし、がっかりいたしましたわ」

 わざとまるで突き放すような口調で言い放つ。

「……自分でもカッコ悪すぎるって思うんだケドさ……」

 蝉はうつむいて頭を左右に振る。

「……粋の時も、今回もさ……おれ、何やってたんだろうって……自分のことばかりで、仲間のことちゃんと見てなかったのかもしれない。
ずっと本当の自分を隠して、いつかは辞めて先生の後継者になるんだから、って、どこか上べだけの浅い付き合いをしてきたんだ。
 だから気付けなかったんだよ。
もっとしっかりしてれば、こんな取り返しがつかないことになる前にどうにかできたんじゃないかって……」

 深い後悔の思いを吐露し、蝉はうなだれる。

「そんなこと思ったら、もうバンド続けてく自信がないんだよ……」

 眼鏡もウイッグもつけていない蝉は、まるで身を守る甲冑を全て剥がされたような脆さと、繊細さを感じさせ、日向子は思わずそっとその頼りない肩に頭を寄せた。

「……上べだけの付き合いをしてきた仲間のことでそんなに悩む人はいません」

 優しく説いて聞かせるように囁く。

「取り返しがつかないかどうかなんてまだわかりませんわ……諦めるのが早すぎるとは思いませんか?」

「日向子ちゃん……」

 ごく幼い頃にすらなかったほど近い距離で二人は視線を交わらせた。
 吐息が頬をかすめるような位置で。

「……あなたはいつか、危険を省みず、わたくしを冷たい湖の中から救いだして下さいました。あの時の勇気をもう一度思い出して頂けませんか?」

 蝉は、微かにその目を細めて、雪乃を思わせるような真剣な眼差しで日向子を見つめる。

「……思い出してみるよ。だから、少しだけ動かないで」

 そう言うなり、日向子の肩を掴んで自分の胸に引き寄せた。
 けして乱暴な動きではなく、壊れ物を扱うよりも慎重な、静かな仕草で。

「……蝉様……」

「あの時、こんなふうにキミの心臓が動く音を聞いて、呼吸する音を聞いて……どれほど安心したか。
……おれは弱い人間だから、すぐに自分を見失いそうになるけど……でも、キミを守りたいっていう気持ちは変わらない。
その想いがおれの勇気なんだ」

 抱き寄せた時と同じように優しく、日向子の体を自分から引き離し、その顔を覗き込んで微笑んだ。

「……ありがとう。大丈夫……おれも諦めないよ。キミにこれ以上悲しい思いをさせたりしない」

「蝉様……よかった」

 日向子もそれに微笑みで返した。

 しばしそうして見つめあっていたかと思うと、蝉は1つ深い息を吐き出して口を開いた。

「……お手数かけちゃってもーしワケないんだケドさぁ、うちの寂しがり屋のルームメイトのことも頼んじゃってもいいかなあ?」

 日向子は即座に頷いて、

「ええ、そのつもりですわ……ただ有砂様がどちらにいらっしゃるのかわからなくて」

「おれに心当たりがある……でもキミ一人だとちょっと心配だから」

 一体どこから取り出したのか見慣れたフレームの眼鏡をかける。

「私に送らせて頂けますね? お嬢様」










 繁華街のメインストリートから外れた、日の当たらない狭路に入る。
 並んだ雑居ビルの一つ、その地下に位置するお世辞にも上品とはいえないバーの入り口をくぐる。

 その場所からでも十分に店内を見渡すことができ、すぐに探し人は見付かった。
 
 明らかに場違いな日向子の入店にいぶかしげな顔をする他の客や店のスタッフをよそに、日向子は奥のカウンターに座っていた彼のすぐ隣に座った。

 少し背中を丸めて頬杖をついていた彼は、それでも日向子のほうを見ようとしない。

「……有砂様。このように早い時間からこういった場所に入り浸るのはいかがなものでしょうか?」

「……」

「仮とは言えど、あなた様は釘宮家令嬢の婚約者なのですから、いかなる時も毅然と構えて頂かないと、我が家の家名に傷がつきましてよ?」

「……そうきたか」

 有砂はふっと苦笑を漏らした。

「……酒に逃げるくらいは多めにみてほしいもんやな……女に逃げへんかっただけでも立派やろう?」

 有砂はメンバーの中では比較的酒に強いほうだった筈だが、それでも肌が紅潮し、目がうるんで見える程度には酔いが回っているらしい。
 相当な量のアルコールをあおっているようだ。

「……有砂様は、お強くなられたのではなかったのですか?
尻尾を巻いて現実から逃げ出すなど……それでは以前と何も変わりません。何がご立派なものですか」

 距離を計ろうなどとは考えてはいけない。
 ぶしつけなくらいずけずけと踏み込むくらいがこの人にはちょうどいいのだと、日向子は経験から学んでいる。

 有砂は頭痛を堪えるような顔をしながら日向子を見た。

「……強くなったつもりやった。けど、たまたま何度も運が味方してくれただけやったんかもな。
それで、これからは何もかもうまくいくような錯覚に陥ってた……けど、現実は違う」

 吐き捨てるように言った言葉に、日向子はきつく有砂を睨んだ。
 あまり迫力のある顔とは言えないが、精一杯睨んだ。

「有砂様は間違っています!!」











《つづく》
「有砂様は間違っています」

 もう一度言った。

「美々お姉さまと仲直りできたのも、お母様をお許しになることができたのも、蝉様を連れ戻すことができたのも……有砂様がそうなさりたいと望んだからでしょう?」

「望めばなんでも叶うわけやない」

「望まなければ叶いません」

 反論の余地を与えることなく、畳み掛けるように言葉を重ねる。

「有砂様は期待を裏切られることが怖いと以前おっしゃった……けれど、その恐怖を克服して、欲しいものに素直に手を伸ばすことができるようになられたでしょう?
錯覚などではなく、有砂様は確かにお強くなられたのです」










《第11章 日蝕、そして…… - BLACK-ICAROSS -》【5】










「……お嬢には一体何回叱られたやろうな」

 たっりと間をおいて、有砂は口を開いた。
 日向子は小さく笑って、

「……有砂様は、いつも目が離せなくて困ってしまいますわ」

 そう返した。
 有砂はアルコールで少し充血した目を伏せる。

「……危なっかしいてかなんか? ごもっともやな」

 ふっ、と口許に苦笑を滲ませる。

「正直な話、自分でもこんなに落ち込むとは思てへんかった……なんとなく続けてきたバンドに……いつから自分がこんなに思い入れを抱いとったんか……ようわからん。ただ」

「……ただ?」

「……こんなオレみたいな男をずっと見限らずに仲間扱いしてきたあいつらのことは、かなり尊敬するわ。お嬢も含めてな」

 有砂らしいひねくれた言い回しではあったが、それは彼なりにメンバーを思う本音の言葉だった。

 日向子はまた小さく笑う。

「……仲間扱い、もなにも、有砂様はれっきとした仲間ですわよ」

「……そうやな」

 有砂は意外なほどあっさりとそれを受け入れた。

「オレはこの先も、あいつらの背中が見えるところ以外で、スティックを握る気にはなれへんと思う」

「有砂様……」

「……まだ間に合うならオレは……」

「間に合いますわ……有砂様が望むなら……」

 日向子の言葉にはしっかり頷きつつも、有砂の目はいよいよ虚ろになり、どうやらすぐ側まで睡魔が押し寄せているようだった。
 頬杖で支えていても、今にもかくっと頭を垂れてしまいそうな様が妙に可愛らしく感じられて、日向子はいよいよ顔がほころんでしまう。

「帰りましょう? 有砂様。お店の側でわたくしの運転手が待ってますの」

 少し冗談めかしてそう促すと、有砂は眉根を寄せて目を半眼させた。

「……この場所教えたん、あいつか……まあ、他におらんやろうけど」

「さあ、お立ちになって」

 日向子は小さな体で懸命に有砂を支えて立ち上がらせ、そのまま寄り添いながら歩き出す。

 斜め上で有砂が呟く。

「……あいつならしゃあないかな……と思ってた」

 半分一人事のような、不明瞭な呟き。

「……けど今は……やっぱり譲られへん……。
『仲間』を取り戻したら次は……が、欲しい」

 何が欲しいと言ったのか、日向子には聞き取れなかったが、子どもに説いて聞かせるように言った。

「……有砂様の望みが全て叶うようにわたくしもお祈りしますわ」

 有砂はふっと軽く吹き出して、酒臭い溜め息をもらした。

「それはどうも」












 有砂を一先ずマンションに送り届けた後で、日向子は雪乃の車で紅朱の部屋とその周辺、よく出掛ける場所に全て連れて行ってもらったが、残念ながら彼を見つけることができなかった。

 浅川兄弟の実家にも連絡したのだが、帰っていないと言う。
 まだ兄弟に起こった事件を知らない二人の母親には心配をかけないように適当にごまかしておくことにした。

 とはいえ、あの高山獅貴のバンドに入るとなれば、すぐに全国ニュースで知れ渡るのだろうが。

 そうなる前に、どうにかして玄鳥を説得してheliodorに帰ってきてほしい……日向子はそんなことを願っていた。

 だがまずは紅朱を探して話をしなくてはならない。

 今最も傷付いて、最も深い失意に囚われているのだろう紅朱を。

「一体どこに行ってしまわれたのかしら……」

 後部座席のドアに頭をもたげて嘆息する日向子に、

「お疲れでしょう。今日のところはお部屋までお送り致します」

 運転席の雪乃が気遣うように声をかけた。

「でも……」

 日向子が口を開いたその時、ちょうどバッグの中で携帯電話が振動を始めた。

 サブウインドウの表示を見て、慌てて通話ボタンを押した。美々からの電話だった。

「お姉さま、何かわかりましたの?」

 どこか興奮気味の美々の言葉に耳を傾け、相槌を打っていた日向子も、

「……まあ、本当ですの!?」

 思わず声が大きくなってしまう。
 驚いて、バックミラーで雪乃が後ろを確認する。

 日向子もまた視線を雪乃に向け、まだ通話中にも関わらず気持ち早口で告げた。

「雪乃、行き先変更ですわ。お屋敷に向かって頂戴」












「黙っていて申し訳ありません。そのことはくれぐれもお嬢様には内密に、と旦那様が……」

 白髪混じりの頭を掻きながら、小原は実に申し訳なさそうに頭を下げた。

「私と同じだったというわけですが……」

 雪乃が口を開く。

「先生はかつて、身近な人物が軽音楽に携わっていることを知って、お嬢様が影響を受けることを嫌っていらっしゃいましたから」

「では確かに、事実なのですね?」

 日向子が念を押すように問うと、

「間違いなく、その粋というロックミュージシャンは私どもの娘、小原花純(コハラ・カズミ)でございます」

 釘宮の屋敷の応接室で、思いの外クラシカルな本名とともに発覚したベーシスト・粋の秘密。

 それはheliodorというバンドと釘宮家との奇妙な因縁をより一層強めた。

「ねえ、小原。粋様と大切なお話をされたいとおっしゃっている方がいますの。かつて粋様にベースの手解きを受けていた殿方ですのよ。
連絡を取って頂くことはできませんこと?」

 必死に訴える日向子に、小原は、

「連絡を取るくらいはわけもないことでございますが、あれは気まぐれで手に負えないはねっ返りですので……了承するかどうかは確約できかねますよ」

 と、ますます申し訳なさそうに答えた。
 日向子は優しく微笑んで見せる。

「構いませんわ。どうかお願いね、小原……それと、もう一つ聞きたいことがあるのだけど」

「なんでしょう?」

「……お父様がひどく落ち込んだりしたところを見たことはあって?」

 あまりにも突拍子のない問いに、小原も雪乃もいぶかしげな顔をしたが、日向子は真面目だった。

 ややあって小原も真面目な顔で、

「奥様がご健在な頃は、旦那様が塞いでおられる際にはいつもあの方が励ましておいででございました。
奥様が亡くなられてからも、時折、奥様の墓前に佇んで物思いに耽られることがございますよ」

 小原の言葉に黙って耳を傾けていた日向子は、何事か思い付いたような顔で頷いた。

「そう、重ね重ねありがとう、小原」

「お嬢様……?」

 真意を知りたそうに目をすがめる雪乃に、日向子は確信に満ちた笑顔で振り返った。

「あの方はお父様とよく似ていらっしゃるから……きっと同じようになさる筈だわ……」










「どないしたん? マイサン。めっちゃ眉間に皺寄ってるケド、二日酔い?」

「……」

 実父の読みはまるっきり否定出来なかったが、有砂は知らない香水の残り香が漂うベッドの足を思いきり蹴った。

「あかんて、こら。キミはホンマ車は蹴るは、ドア壊すは……今度はわざわざベッドを破壊しに来たん??」

 そのベッドの上で横になっていた秀人はそうぼやくと、面倒臭そうに上半身に何も着ていない身体を起こして欠伸した。

「……おい、クソ親父。答えろ。ジブンが高山獅貴にうづみを紹介したんやろう?」

 赤みがかった痣の残る首元を掻きながら、秀人はあっさりと、

「そうやで」

 と認めた。

「獅貴とは、あいつが音大に在籍しとった頃に知りおーて、未だに友達やからなあ。
新しいバンドのドラマーがまだ決まらんゆうて難儀しとったから、洒落で紹介したんや。それがどないしたん?」

 どうやらうづみが本当にメンバーに採用されたという事実まではまだ知らないような口ぶりだ。

「……相変わらずろくなことせん男や……」

 有砂は苛立ったように吐き捨てた。

「めっちゃ面白そうやんな?」

 秀人は呑気な口調で、聞かれてもいないのに言葉を重ねる。

「天才・高山獅貴の選抜したメンバーによる、最強のロックバンドやで……?? 音楽なんて大して関心ない僕でもゾクゾクしてまうわ」













 細身で長身の、一瞬性別を見間違えそうなシルエットを視界にとらえると、様々な感情が吹き出し、その感情を包み込むように押し寄せる懐かしさが、万楼の肩を震わせた。

「……《万楼》……」

 今は自分がその名を名乗り、親しい人から呼ばれている。
 すっかりなじんで自分のものとしてしまっていたその名前はかつて、最も愛しい他人の名前だったのだ。

 最後に別れた場所とよく似た岬で、彼女は待っていた。


「久しぶりだな、響平」


「……本当に、久しぶりだね」

 日向子の願いにより、小原はすぐさま娘に連絡し、今日の面会を取りつけたのだ。
 快諾してくれたと聞いて万楼は腹の底から安堵した。

 別れた時の状況を考えれば、拒絶される可能性の方が高いと思っていたからだ。

 しかし彼女は破顔して言った。

「お前、本当にheliodorのメンバーになってくれたんだな。ありがとう」

「……うん。だけど、そうしたのはきっと、他のことを全部忘れてたからだよ」

 万楼は苦笑いする。

「ボクは海に堕ちて、たくさん思い出を海の底の闇の中に沈めて忘れてしまっていたから。
初めて恋したことも、初めて失恋したことも、その失恋に自暴自棄になって……あなたの手を振りほどいて飛び降りたことすらね」

 彼女……かつて「万楼」と名乗っていた粋は、ふっと笑みを打ち消して、真っ直ぐに万楼を見つめる。

「……響平……」

「ボクは多分、忘れたかったから忘れたんだ。だけど心の底では、忘れたことをずっと後ろめたくも思っていた……だから東京に来たんだ。
たった1つ、残っていた約束の記憶を頼りにね」

「……そして、思い出したんだろう?」

 粋は乾いた地面を黒いブーツで踏みしめながら、ゆっくりと歩みを進め、万楼のすぐ前に立つ。

「お前、あの頃と全然違うな。すごく男前になったぞ」

「そう? 今なら惚れてくれる?」

「ふっ、どうかな」

 二人は長い空白を埋めるように微笑を交わす。
 そして万楼は言った。

「あの頃、ボクは世界に失望していて、あなたのことしか愛せなかったんだ……独占したくて仕方がなくて……あなたが他の人を想ってることが許せなかった」

 じわりと蘇る苦い記憶に痛む左胸に、かばうように自分の手を重ねる。

「……どうやらボクはまたある人に恋をしたみたいなんだけど、あの時みたいに激しい気持ちにはならなかったから、感謝や尊敬や友情を恋心だと勘違いしているだけで、本当はまだあなたが忘れられないのかと思った。
だけどそうじゃない……って気が付いた」

 あふれる思いが一筋の涙となって万楼の頬を伝って落ちた。

「ボクはこの街で出会ったみんなのおかげでようやくこの世界を好きになれた……その世界の真ん中には彼女がいる……微笑んでる……ずっと笑っていてくれるなら、ボクのものになってくれなくたって構わない……そう思えるくらい愛しいんだ」

 粋は目を細めて、どこか眩しげに万楼を見つめる。

「再会早々豪快にのろけられるとはね……参った、参った」

「……ねえ、粋さん」

 万楼は涙を指で拭いながら静かに問うた。

「あなたはまだ、リーダーのことが好きなの?」




「ああ」













《第12章へつづく》
「やっぱりここにいらっしゃいましたのね」

 舞い落ちる粉雪の中で、探していた後ろ姿を見つけた。

「……前に一度来ておいてよかったですわ」

 降り積もった雪に淡く白く染め上げられ、耳鳴りがするほどの静寂に覆われた、小さな霊園。

 並び立つ墓石の1つの前で、彼は立ち尽くしていた。
 初恋の人が静かに眠る場所だ。
 深紅の髪にも、灰色のダッフルコートにも白が降り積もりつつあったが、そんなことも気にならない様子だった。

 そっと歩み寄る日向子を振り向こうともしない。

 まるっきりぼんやりしていて、知らない振りではなく、本当に日向子の存在に気付いていないようだった。

 近付くほどに、寒さのためかその傷を負った心故か、青白く正気のない顔が痛々しく思えた。

「お風邪を召されますわ」

 傍らに立ち、そっと傘を差しかけた。

「紅朱様……」












《第12章 君に光が射すように -Love Songs-》【1】









 どれくらいそうしていただろうか。
 もうすっかり、えんじ色の傘の上にも雪が積もってしまっている。

 紗の墓の前から動こうとせず、一言も声を発してくれない紅朱の隣に、日向子はずっと寄り添っていた。
 ブーツと手袋の甲斐もないほど、爪先と指先がじんじんかじかんでいる。

 灰色の空と白い地上の狭間で、今時計が何時を回ったのかもわからず、無限の静寂に飲み込まれてしまいそうだった。

 それでもここを一人で立ち去ることはできない。

 紅朱を東京へ、仲間たちの元へ連れて帰らなくてはいけない。

「紅朱様……」

 震える声で呼び続ける。

 答えはない。

 自分の声では届かないのだろうか?

 紅朱の心の中に響かないのだろうか。

 寒さでだんだん頭が痺れてくるような気がする。

 傘を持つ手の感覚もわからなくなっていって。

 全てが真っ白になっていく。

 そんな中で、何故か日向子はheliodorのステージを思い出していた。
 五人を照らし出す白色のライト。


「……いつか……解けていくよ」

 震える声で、記憶の中の紅朱の歌声をなぞる。

《いつか解けていくよ
 哀しい夢も
 繰り返した過ちも
 愚かな執着も》

 たどたどしい、不安定なメロディが静寂に微かな穴を開ける。

《目覚めたら 冬が逝く
 微かな傷痕だけを残して》

 サビの最後のフレーズが終わったその直後、気を付けなければ聞き逃してしまいそうな、ごくごく微かな呟きが空気を震わせた。


「……下手くそ」


 日向子ははっと我に返って、紅朱を見つめる。

 初めて紅朱の目が日向子の姿を映していた。

 日向子の歌声は拙いものだったが、どうにかその心に触れることができたらしかった。

 やはり彼はミュージシャンであり、heliodorのボーカリストなのだ。

 どんなに心を閉ざそうとしても、音楽にだけは素直に反応してしまう。

「紅朱様……あ」

 瞬間、日向子の手からパサリと傘が落下した。

 そして傘を握っていた手はより大きな、だがやはり同じように体温を失った手で包まれ、そのまま抱き締められていた。

「……日向子……」

 息苦しいくらいしっかりと両腕にかき抱かれ、息が止まってしまうかもしれないと思った。

 日向子の肩越しに、塞き止めていたものを全てあふれさせるように、紅朱は叫んだ。

「……俺はっ……どうすりゃよかったんだ……なんでいつもこうなっちまうんだよ!!
守ろうとすれば守ろうとするほど、大事なものは俺から離れていくんだ……!!」

 ほとばしる激情を全て受け止めながら、日向子は手を伸ばし、すっかり凍てついた紅朱の深紅の髪を撫でた。

「あなたにひどいことを言います」

 前置きをして告げた。

「……それでも唄うのを止めないで下さい。唄い続けて下さい」

「……なんのために……?」

「何の為でもでもいいです……唄い続けて下さい。そうすればまた唄うことの喜びを思い出すことができます……きっと」

 紅朱は日向子の肩口に顎を押し付けたまま口を開く。

「だけどこんな俺に誰がついて来てくれる? ……俺は綾の兄貴としても、バンドのリーダーとしても力不足だった。
heliodorのファンにも辛い思いさせちまったしな……今更誰にも会わす顔がねェ」

「だからご実家にも帰れず、東京にもいられず……ここへ来てしまったのですわね」

「……笑うなよ」

 確かに日向子は少し笑みを浮かべていた。

「……紅朱様をばかにして笑っているわけではありませんわ」

「それでも笑うな」

 紅朱は少しムキになったように念を押した。

「紅朱様は本当に何でも抱え込んでおしまいになりますのね……少なくともheliodorの皆様は、誰もあなたを責めたりするわけはないでしょう?」

「……」

「このまま独りで逃げておしまいになるなら、保証は致しかねますけど」

 少しだけ冗談めかして言ってみた。

「……あいつらはまだやりたいって言ってんのか?」

「当たり前ですわ」

 今度は自信に満ちた口調でキッパリ言い放つ。

「万楼様も、蝉様も、有砂様も諦めないと約束して下さいましたから。もちろんわたくしだって諦めたりしませんわ……だから」

 紅朱のかじかんで真っ赤な耳元に、囁きかける。

「玄鳥様を連れ戻しましょう?」

「!」

 驚いて顔を上げ、紅朱は日向子を近距離から見つめた。

「……連れ戻す、ってお前……玄鳥は自分の意思で脱退したんだぞ?
無理矢理連れ戻したって……」

「もちろん無理矢理などではありませんわ、玄鳥様がご自分で『heliodorに戻りたい』と思うようにするのです」

 日向子はそんなことなんでもないことのように、微笑んだ。
 そして驚くべき提案を口にしたのだった。

「『BLA-ICA』と勝負しましょう!!」

「『BLA-ICA』と……勝負??」

「『heliodor』のほうがずっとすごいバンドだと、玄鳥様や伯爵様に思い知らせて差し上げましょう」

 かつてない好戦的で凶悪な言葉を楽しげに口にする日向子に、紅朱は……。

「……ああ。悪くねェかもな」

 ほんの微かにだが、口の端を持ち上げて応えた。




 気が付けば、雪はもう止んでいた。












「《heliodor》、解散したって噂があるみたいだけど」

 漆黒の毛並のあどけない仔猫の首に黒いレースのリボンを飾りつけながら、抑揚のない声でゴシックロリータの少女が囁いた。

 そのすぐ側で弦を張り替えていた、やはりゴシックな衣装をまとったギタリストは、

「解散なんかしないよ」

 あっさりと答えた。
 本当に100パーセント混じりけのない純粋な否定の言葉だった。

「あの人がついてるからね」

「釘宮のお嬢様ね」

「確かに、今や彼女はheliodorの女神様みたいなもんらしいからな」

 対になった揃いの中性的なジャケット姿のリズム隊が口々に言う。

 特にもはや美青年にしか見えない凛々しい女性ベーシストは、少し含みのある笑みを浮かべた。

「お前にとってもそうなんだろう? 玄鳥」

「だとしても」

 ゴシックロリータの美声が問掛けられた本人より先に答えた。

「道が分かれたのだから、それまでよね」


 それきり奇妙な沈黙が訪れたリハーサルスタジオに、やがて静かにもう一人のメンバー……プロデューサー兼キーボーディストが入って来た。

 構わず猫を撫でている一人を除いて、全員がなんとはなしに姿勢を正して彼を迎える。

 若いメンバーたちに、年齢差以上のはるかな格差を感じさせる、優美な物腰で四人を見渡したかと思うと、その熱を感じさせない瞳をギタリストに向けて一度静止させた。

「デビュー前の多忙な時期だが……とあるアマチュアバンドがどうしても、《BLA-ICA》と対バンさせろと言っている。
どうするかね? リーダー」

「っ」

 リーダー、と呼ばれた玄鳥ははっと目を見開き、伯爵を凝視した。

 とあるアマチュアバンド……などと持って回った言い方をする必要などありはしない。

 まだ世間に公開されていないバンドを名指しで対バン相手に指名できるアマチュアバンドなど1組しかない。

「《heliodor》が……?」

 玄鳥はまだ弦の足りないギターのネックを無意識に強く握っていた。

 メンバーたちが見守る中、玄鳥はゆっくりとその面に笑みを浮かび上がらせた。

 彼の兄を思わせる、攻撃的な笑い方だった。

「……受けて立ちましょう」













「先方からは受けて立つ、と」

 パイプ役を担った日向子からの報告に、ようやく四人揃っていつものカフェに集まったheliodorの残留メンバーたちは四者四様の表情を浮かべた。

「よし、一歩ステップアップ。とりあえずドン底からは這上がったね」

 万楼はほんの少し安堵を滲ませた笑みを浮かべる。

「ただしここで負けたら一気にゲームオーバーだけどね……」

 蝉は少し緊張した面持ちで苦笑を見せた。

「……勝負の前に課題は山積みやで。ギターは? 曲は?」

 有砂は溜め息をつき、難しい顔で他のメンバーを見やる。

「……ギターは俺が弾く」

 これ以上ないほどに真剣な顔付きで紅朱は宣言した。
 日向子を含む全員が、紅朱の顔を凝視した。

 三年前にheliodorが最初の危機を迎えた時、封印されてしまった筈の紅朱のギター。
 理由が怪我のせいではないことを誰もが察していたが、誰も触れることができなかった。

 それを紅朱自らが解き放つと、今まさに告げたのだ。

「紅朱様……大丈夫、なのですか?」

 思わず不安を口にする日向子に、紅朱は少し微笑んで見せる。

「ああ……実は少し前から練習を始めてたんだ。
……前に綾と喧嘩になっちまったことがあったろ? あの後くらいからな」

 メンバーの誰一人として知らなかった事実だった。

「……どんどん成長していくあいつや……急速に変わっていく他のメンバーに気付いた時に、このままじゃまずいと思った。
俺ばかり過去に立ち止まっちゃいられねェってな」

 紅朱の言葉に、他のメンバー三人は互いの顔を見合わせ、誰からともなく笑みを溢した。

 日向子もそんな彼らを見て微笑まずにはいられなかった。

 出会ったばかりの頃の彼らは、ステージの上での圧倒的なまでの輝きとは裏腹に、それぞれの闇を抱えていた。

 その闇を乗り越えて来た彼らは、今また大きな苦悩を乗り越えて、ここに集まっている。

 戦うために。
 諦めきれない夢のために。

 日向子は彼らを心の底から素敵だと思った。カッコいいと思った。

 そして。


「次に曲だが……」

 紅朱は神妙な顔付きで新たにそう切り出した。

「果たして……お前たちが賛成してくれるかどうか……」












 《BLA-ICA》との直接対決に向けた初のミーティングはとりあえず終了し、heliodorはサポートメンバーを入れることなく、紅朱のギターボーカルを中心とした四人で挑むことが決まった。

 演奏する曲については、紅朱の思いがけない意見に、はじめこそどよめきが走ったが、結局みんな賛同し、その意見を採用することとなった。

 そうと決まればすぐにでもスタジオを押さえて練習しよう、とメンバーたちは店を出たが、日向子だけは次号の記事について少しまとめてから行くと言って、一人その場に残っていた。

 だがそれは実際は口実に過ぎなかった。

 対バンを申し込むために、プライベートナンバーで獅貴に連絡した際、日向子はメンバーに内緒で、もう一つだけ獅貴に頼んでみたのだ。


 一度だけ。
 一度だけで構わないから話がしたいと。


 約束の時間ちょうどに、真面目で几帳面な彼はカフェのドアをくぐり、姿を現した。

「……少しだけお久しぶりですね……お元気そうで、よかった」

 玄鳥だった。

 日向子の願いを聞き入れて、玄鳥が姿を現した……。










《つづく》
 よく考えてみれば、そんなに長い間会わなかったわけではない。

 しかし、向かい合う二人は数年ぶりに再会した元恋人同士のような、奇妙な緊張感を抱き、互いを見つめていた。

 実際、今店内に入ってきた他の客はそう誤解したかもしれない。

「もう俺の顔なんか見たくないだろうと思ってました……」

 玄鳥は苦笑する。
 その笑い方は少し、伯爵を思わせた。

「それとも今日はそれを言うために会ってくれたんですかね」










《第12章 君に光が射すように -Love Songs-》【2】







「怒っているかいないかと問われればもちろん怒っていますわ」

 日向子は少し大袈裟に「怒った顔」をして見せた。

「いくらなんでも理由もはっきりおっしゃらずに行っておしまいになるなんて」

 玄鳥は困ったような顔で視線を少し逃がす。

「そうするしかなかったんです。俺は嘘が巧くないから、下手なごまかしは出来なくて……かと言って本当の気持ちを言ってしまったら意味がなくなってしまうから」

 この玄鳥の態度は、日向子の中に少し前から芽生えつつあった、疑念に確信をもたらした。

「玄鳥様はわざと事を荒だてるような方法を選びましたのね?」

 玄鳥は一瞬はっとしたように目を見開き、そしてうつむいた。

「……あなたに嫌われる覚悟ならとっくに出来てますからね……この際、あなたにだけは全てを打ち明けてもいいかもしれない」

 日向子は静かに首を縦に一度振り、促すように玄鳥をじっと見つめた。
 玄鳥もまた頷き返し、そしてゆっくり語り出した。

「俺は伯爵の夢のために利用されることを選んだわけじゃない……俺が伯爵を利用してるんです……自分の夢を叶えるために」

 玄鳥の夢……言われて思い当たることが一つ、日向子の記憶にあった。

「紅朱様と……あなたのお兄様と勝負して勝つことですか?」

 玄鳥がずっと苦しいくらいに求めながら、抑圧してきたせつなる願い。

「……はい。もうすぐ俺の《BLA-ICA》と、兄貴の《heliodor》で勝負ができる……俺の夢がとうとう叶いそうです」

 玄鳥は極力感情を抑えて話そうとしているようだったが、その瞳、その声から隠しきれない興奮が伝わってくる。

 彼はどこまでも隠し事の類は苦手だった。

「自分が伯爵と鳳蝶の血を引いた子どもだと知った時に、俺は二人を責めることが出来ませんでした。
むしろ憧れすら感じてしまったんです……その自らの欲望に対する純粋で真っ直ぐな生き方に。
そしてその血を受け継いでいるならきっと……俺にだって出来る筈だと思ったんです」

 一言発する度にとめどなく込み上げてくる情動が、テーブルの上で組まれた玄鳥の両手を微かに震えさせている。

「そしてついに実行してしまいました……日向子さんとの約束を破って、仲間の信頼を裏切って……少しも後悔していない俺はまさしくあの人たちの息子なんです」

 脱退したことを後悔していないと言い切った玄鳥には、確かに一片の迷いも見て取ることができなかった。

 翼を大きく、強く広げて、籠の中から飛び立った鳥のように堂々として、生き生きとした姿だった。

 このままその黒く大きな翼をはためかせて遠く、彼方の高い空に飛んで行ってしまうのだろうか。

 あの寂しくも美しい銀の月が漂う虚空に。

 玄鳥がより玄鳥らしく、自由に生きられるなら、それは素晴らしいことなのかもしれない。

 しかし、日向子は胸の奥が苦しくて、仕方がなかった。

 今口にしたとしても、きっと何の効力もないであろう言葉が喉元まで来てしまっていた。


 《いかないで》


 少し沈黙が発生したタイミングを見計らって、ウエイトレスが新しいティーポットを運んできた。

「お取替えさせて頂きます」

 二人が何かヘビーな話をしているらしいと察した、まだ新人のウエイトレスは一刻も早く役目を果たして退散しようといささか焦っていたようだった。

「あっ」

 ありえない致命的なミス。
 持ってきたばかりの熱い紅茶の入ったポットがカタリと斜めに傾き、湯気の立つ中身が溢れ出した。

「きゃっ」

 ウエイトレスの悲鳴。
 それに重なるように、

「っ」

 低く小さくうめく声。
 呆然としていた日向子は、ポットの蓋がテーブルに落ちて音を立てたことでやっと我に返った。

「申し訳ありません……!!」

「いえ、お気遣いなく。なんともなかったですから。あなたは大丈夫でしたか?」

「あ、はい。ありがとうございます……本当に申し訳ありません」

 平謝りするウエイトレスに笑顔を向ける玄鳥。
 どうやら玄鳥がとっさにポットを押さえたおかげで大事にならなかったようだ。
 テーブルが少し濡れただけで済んだ。
 そのテーブルを綺麗に拭いて、ウエイトレスが行ってしまうと、

「玄鳥様……本当に大丈夫だったのですか?」

 日向子は小声で尋ねた。

「ポット自体熱くなっていた筈ですわ……火傷をなさったのでは?」

「確かに少し熱かったですけど……本当に平気ですよ」

 なんでもない、と掌を翻して見せる玄鳥の笑顔に、日向子は思わず小さく吹き出してしまった。

「日向子さん?」

「……ご運がよかったからよかったものの、もう少しで大切な手に火傷をなさるところでしたのよ」

 日向子はわずかながら、そっと玄鳥の右手に触れた。

「……危険を犯してまで、名前も知らない女性を助けてしまう……そんなあなたもまた本当のあなたなのですわね」

「えっ、あの」

 日向子に触れられていることに思いきり動揺し、目をパチパチさせる玄鳥。

「ひったくりの方からわたくしの鞄を取り返して下さった時もそうでしたものね」

 かすり傷を負ったこの手に絆創膏を貼ったことを思い出す。

「あの……えっと……っ」

 玄鳥は、見る間に顔を真っ赤に染め上げて、完全に麻痺した思考回路に言葉をつむぐこともできずにあわてふためく。
 
 日向子はお構い無しに、玄鳥の手を自身の両手で包んで、ぎゅっと握る。

「わたくし……思い違いをしておりました。玄鳥様の大切な部分は何も変わっていらっしゃらないのに」

 本当に玄鳥が自らの欲望だけに忠実に生きる利己的な人間ならば、他人のために大切な手を危険に晒すことなどしないだろう。
 しかしこんな時、玄鳥はいつも考えるより先に動いてしまうのだ。

 それもまた揺るぎのない、玄鳥……浅川綾の本質なのだろう。

「……あなたは優しい人です。そのあなたが非情に徹しなければならないほどの夢ならば、叶えるべきだと今は思います」

「……日向子さん……」

「ずっと自分の夢を胸の奥に閉じ込めて、我慢してきたのですから。時にはわがままを言ってもいいのではありませんか?」

 heliodorを応援する立場の日向子にとって、玄鳥の行動を全肯定するようなその言葉は、矛盾に繋がるものかもしれなかった。
 しかし玄鳥の強い決意に触れ、一方で本質的には何も変わらない無条件な他者への優しさを見て、日向子は純粋に玄鳥の夢も応援したいと思った。

 玄鳥は困惑しきったように赤い顔のままうつむき、

「……日向子さんは俺のこと良くとらえ過ぎてますよ」

「玄鳥様はご自分のことを悪しざまに言い過ぎですわ」

 玄鳥はそっと、少し力の緩んだ日向子の手から自身の手を遠ざけた。

 椅子の背持たれに引っ掛けていたコートを手にとって、玄鳥は立ち上がる。

「理由はなんであれ、俺はheliodorを抜けて、違うバンドのメンバーになりました。
俺はもうあなたが応援してくれていた《heliodorの玄鳥》じゃない……だから俺にもう優しくしないで下さい」

「玄鳥様……」

 そのまま伝票を手に行ってしまおうとする玄鳥に、思わず日向子も立ち上がり、歩み寄った。

「……そうでなかったら」

 日向子の視界で、玄鳥が広げた黒いコートがふわりと波を描き、そのまま日向子の華奢な身体を包み込む。
 玄鳥はそのままコートの端を引き寄せるようにして、日向子を引き寄せた。

「……このまま拐います。それでもいいんですか?」

 斜め上から見下ろす瞳。その寂しげな輝きは、初恋の人と本当によく似ていた。

 同じ道を歩くことができないと知りながら、儚い約束を口にしたあの人に。

「……日向子さんには、月より太陽のほうがずっとよく似合いますよ」

 玄鳥は最後に優しく微笑んで、日向子を捕えたコートの戒めを解くと、そのコートを羽織り、ゆっくりときびすを返した……。











「おはようございます」

「よう」

 ギターを抱えた紅朱の姿はまだ見慣れない。
 紅朱のほうも完全に勘を取り戻すのは大変なのだろう。
 連日にわたり、かつて玄鳥がよくそうしたように、一人他のメンバーより早くスタジオに入って練習していた。

「毎回毎回、お前まで早く来ることねェだろ」

「ご迷惑でしたかしら」

「そうは言ってねェよ……むしろ、なんつーか……助かる」

「はい?」

 紅朱は指先でティアドロップ型のピックをいじくり回しながら、小声で呟いた。

「……プレッシャーがかかるんだよ……いい意味でな」

 日向子の視線をその身に受け止めながら、また、真剣な顔付きで練習を開始する紅朱。

 ほとばしる情熱の火の粉が目に見えそうだ……と日向子は思った。

 《BLA-ICA》との対決はもう一週間後に迫っている。
 戦いの舞台とその方法は、相手方から提示されていた。

 同日同時刻に、渋谷区内の隣接する2つのライブハウスでそれぞれ無告知でライブを敢行する。

 ライブの模様はリアルタイムで、同じく渋谷区内に隣接する街頭ビジョンで中継される。

 最終的に、より動員数が多いほうが勝者となる。

 ただし高山獅貴だけは、その圧倒的な知名度がまずあるため、勝負に影響を与えないために今回は参加せず、キーボードはサポートのメンバーに担当させるとのことだった。

 伯爵のピアノを知っている日向子にとっては意外性はなくとも、彼がキーボードを弾くなどとは世間一般に認識されていないのだから、顔さえ隠せばそうそうバレることもないだろうが。
 あえて不利とも言える条件を提示してきたのは、BLA-ICAは、自分を抜きにしてもheliodorを圧倒できるという自信があるからだろう。

 BLA-ICAには高山獅貴のネームバリューを使うことが出来ないが、heliodorもまた、先日のいきなりの脱退劇を経て初めて四人でステージに上がる今回、どれだけのファンが予告もないライブに集まってくれるか……不安は残る。

 玄鳥のいないheliodorと、伯爵のいないBLA-ICA……釣り合いは確かにとれているかもしれない。


 紅朱たちも真剣だが、BLA-ICA……特に玄鳥は本気で勝負に出るに違いない。

 ふと、紅朱に玄鳥の気持ちを伝えるべきか否か、日向子は思案した。
 紅朱のほうは多分まだ、玄鳥が自分より高山獅貴を慕って脱退したと考えているのだろう。
 他のメンバーたちも、浅川兄弟の秘密は知らないまでも、玄鳥の憧れの人が高山獅貴だったことはみんなわかっているのだから、多分同じように思っているに違いない。

 玄鳥があえて言い訳もせず、そう思わせるようにして出て行ったからだ。

 heliodorと対決することになった時、紅朱たちが情に流されて実力を発揮出来ないことがないように、わざと誤解させているのだ。

 日向子はやはり、今はまだこの誤解を解いてはいけないだろうと感じていた。

 理由を知ったら紅朱は、わざと玄鳥を勝たせようとしてしまうかもしれない。

 それでは意味がないのだ。

 仮に勝負をして、勝ったとしてもそれで玄鳥を連れ戻すことができるかどうかは結局のところわからない。
 それでも今は、本気でぶつかり合うことそのものが彼等には必要なのだろう。

 たどり着く結末がどんな形であれ、その全てを見守り、半年にわたるheliodorの取材の最後を締め括るレポートを仕上げる。

 それが音楽記者・森久保日向子の使命だった。











《つづく》
 楽屋からステージに抜ける短い通路で、日向子は不意に前を歩く背中に尋ねた。

「調子はいかがですか? 万楼様」

「うん、まずまずかな。リハで音出してみないとちょっと何とも言えないけど……やっぱりボク、今日はいつもより緊張しているかもしれない」

 その言葉の通り、ほんの少しだけこわばった表情で、美少年から美青年に脱皮しつつある若いベーシストは首をひねって振り返り、しかし精一杯強く微笑んだ。

「でも大丈夫、ボクは本番に強いほうだからね」


 訪れた決戦の日。
 ライブ本番はもうすぐそこまで迫っていた。









《第12章 君に光が射すように -Love Songs-》【3】









「確かに万楼は大舞台でもそれほど緊張しないタイプだよね~。おれなんかもうすでに心臓バクバクなんですケド~?」

 先を行く蝉が愚痴めいた呟きを漏らす。

「でもまあ、今回はさぁ、普通の対バン形式じゃないだけまだいいかも。
おれ、対バン相手のリハの音とか聞いちゃうとマジダメなワケよ!」

 緊張をまぎらわせたいのか、いつもより大声且つ早口になりつつある蝉に、万楼は小さく笑う。

「眼鏡かけとけばいいんじゃないの。雪乃さんになってれば平気かもよ」

「いや……流石にそれはちょっと。近頃、雪乃にばっかりいいとこ持ってかれてる気がするし~?
おれもちょっと頑張んないとね」

「……それ、なんか変だよ」

「いいの!」

「うふふ」

 heliodorのお祭り担当二人のやりとりに、実はメンバーに負けないくらい緊張していた日向子も思わず笑ってしまう。

 通路の端、ステージに袖まで着いた時、そのまま一度ステージに出た蝉が何故か慌てて逆走してきて、そのまま万楼にぶつかった。

「うわっ、危ないよ蝉!」

「ごめんっ……てゆーかそれどころじゃなくて……!!」

 蝉は完全に取り乱した様子で万楼の後ろに佇む日向子を凝視した。

「よ、よよよ、呼んだの? 日向子ちゃんが呼んだのっ!?」

「はい??」

 何のことやらさっぱりわからずに小首を傾げる日向子。

「ちょ、ちょっと来て。そぉっと覗いてみて」

 蝉は万楼と日向子の手を引いて、袖から向こう側を覗かせた。

 次の瞬間。

 万楼はぽかん、と口を開けたままそちらを見つめて立ち尽くし、日向子は思わず「そぉっと」ではなく大きな声を上げてしまった。

「おっ、お父様~!?」


「うぁ、ちょ、日向子ちゃん!!」

 うろたえる蝉をよそにそのままステージに進み出た日向子は、何故か開場前だというのにステージの下にすっくと立っている、およそこの場所になじまない人物……実の父親に向かって駆け寄る。

 ステージから危なっかしい動作で飛び降り、柵をくぐってすぐ側まで来た。

「お父様、何故このようなところに……?」

 高槻は、相変わらず愛想のかけらもない鋭い眼差しを日向子に向ける。

「……私は近くまで来て帰るつもりだったが。彼が、良ければ見ていかないかと言うのでな」

 高槻の視線の動きを追い掛けると、そこにはドラムセットを調整中の有砂がいた。
 有砂はまるでこちらのやりとりが目に入っていないかのように漂々と作業を続けていく。

「有砂様が……? いえ、それよりも何故お父様が、このような場所に?」

 高槻は、半分万楼の後ろに隠れるようにしてやっと姿を見せた蝉を見やった。
 いくらとうに知られている裏の顔とはいえ、ウイッグをつけて派手な服装やメイクをした姿を師の前に晒すのは相当勇気がいるようだった。

 高槻も神妙な顔付きになっていたが、

「……漸」

 威厳のある声で呼び掛ける。

「は、はぃっ」

 万楼から離れてきちっと気を付けをする蝉。
 きちっとしようとしても雪乃モードの時のようにはいかず、何とも滑稽な雰囲気をかもし出しており、日向子を除く二人は思わず気付かれないように軽く吹いた。

「小原から高山のバンドと勝負をすると聞いたが本当か?」

「あ、はい……そぉです。今日は本人は不参加ですけど、高山さんがプロデュースしたバンドと……」

「勝てそうなのか」


「えっと……」

 妙に淡々と投げ掛けられる問いに、今にも蝉の額からは冷や汗が滴り落ちてきそうだ。

 蝉はちらりと日向子を見やり、一つ息をついて呼吸を整えて答える。

「負けれません」

 高槻は一度目を細めたかと思うと、その目を少し見開くようにしてキッパリと告げた。


「ならば、釘宮の名に賭けて全力でかかれ」


「え? ……あ、はい」

 わけもわからず熱い激励を受けて、わけもわからず頷く蝉。

 日向子はふと呟く。

「……もしやお父様。伯爵様に後継者候補のお話を拒まれたことをまだ……」

「下世話な言い方をするものじゃない」

 高槻はピシャリと言い放ち、更に続けた。

「だが、一度くらいはあの男にも敗北の味を教えてやらねばなるまい」

「おお、いいこと言うじゃねェか。流石は日向子の親父さんだ」

 同意しながらロビーと繋がるドアをくぐったのは紅朱だった。

「言われなくても全力でかかるし、絶対に俺たちが勝つから心配いらねェよ」

 紅朱の物言いは大変粗暴で、礼を欠いた口調であったが、高槻は特に機嫌を悪くしたふうでもなく(素の状態でも一般の感覚では機嫌が悪そうな顔だが、実際はいたって普通の状態である)、

「頼もしいことだ」

 と短く呟いた。

 高槻は紅朱のことを気に入っているらしい……そう確信した日向子は、やはり二人の間には共鳴する部分があるのだと感じていた。

 一方、蝉は途方に暮れたような顔で立ち尽くす。

「……プレッシャーだ……」

「蝉ってば……」

 万楼はそれをクスリ、と笑い飛ばす。

「蝉としていいところ見せるんでしょう? 先生にも見てもらえばいいじゃない。
ボクは、高山獅貴がどうとかって建前で、先生はお姉さんや蝉のこと、ようやく理解して認めてくれたからここに来てくれたんだと思うよ」

 「え?」と蝉や日向子が当の高槻に視線を向けると、高槻は大きく咳払いをした。

「……練習を邪魔したようだな。これで失礼する」

「お父様」

 そのまま去ろうとする高槻に駆け寄り、日向子はそっと囁いた。

「開演時間は6時ですわ。後ろの壁際なら比較的ゆっくり見られると思いますの……だから、見に来て下さいますか?」

 高槻は日向子を見下ろし、その厳しい眼光にわずかに柔らかな色を浮かべた。

「……そのつもりだ」

「お父様……!!」

 感極まって、人目も気にせず、少女のようにはしゃぎながら、日向子は高槻の腕に抱きついた。

「っ、日向子!……やめないか」

「うふふふ」

 外野もつられて微笑んでしまうような、幸せな光景だった。

 万楼はにこにこしながら、有砂のドラムに歩み寄る。

「……憎い演出ですなー、ダンナ」

「何キャラや、ジブンは」

 呆れた口調でボソリとツッコミを入れる有砂だったが、高槻を見送る日向子を後ろから見守る眼差しには、やはり満足したような穏やかさが見てとれた。

 万楼は少し身を乗り出すようにして、そんな有砂の耳元近くに囁いた。

「ねえ、有砂……結構、本気だよね?」

 有砂は視線を前方に向けたままで、薄く笑った。

「……遊びならもっとええオンナ選ぶわ」

「なるほどね」


 リズム隊がそんな会話を交していることも露知らず、日向子は緊張などどこへやらの上機嫌でメンバーを振り返った。

「さて、皆様はリハーサルですわね。わたくしは少し外しますわ。
……どうぞ頑張ってくださいませ!」

 

















 後ろから微かに響いてくるリハーサルの音漏れを聞きながらライブ会場を出た日向子は、すぐ近くから響いてくるもう1つの演奏に気付き、立ち止まった。


 それは隣接する会場から漏れてくるBLA-ICAの音に他なかった。

「玄鳥様……」

 最後に見つめたあの寂しげな瞳が思い出されて、息苦しくなる。

 heliodorの4人は、プレッシャーなど吹き飛ばし、最大限のプレイをするだろう……日向子はそう確信していた。
 勝負の結末がどうなるにしろ、出せる限りの力を出しきるに違いない。

 それは玄鳥も……そして玄鳥の仲間たちも同じだろう。

 両者を決戦へと導いたのは他でもない、日向子だった。

 そうするしかないと思った……だがやはり、複雑な感情を抱かずにはいられない。

 heliodorには勝ってほしい……だが、heliodorが勝つということは玄鳥が負けることだ。

 そんな当たり前のことが今更せつなくなってくる。

「日向子」

 ふと呼び掛けられて我に返る。
 いつからそこにいたのか、美々がすぐ側に立っていた。

「……大丈夫?」

「わたくしは……なんだか情緒不安定になってしまっているようですわ。
さっきまで元気いっぱいだったのに、不意にまた苦しくなってきて……」

 素直に心情を打ち明ける日向子に、美々は包み込むように優しく微笑した。

「最後に選ぶのは、彼らだよ。
……彼らが出す答えを信じてみるしかない。
どうしても納得がいかなければ、納得するまで問いつめたっていい。
別に、今日で何もかもが終わってしまうわけじゃないんだよ」

「美々お姉さま……」

 美々はぽんと日向子の肩を叩いて、耳元で囁いた。

「どうしても怖いなら、好きな人の顔でも思い浮かべてたら??」

「えっ……あ」

 日向子の微妙な表情を読み取った美々は意地悪く目を半眼する。

「ちょっと~、今誰の顔が浮かんだわけ? 教えないとくすぐっちゃうわよっ」

「お、お姉さまっ、きゃ」

 後ろから抱きつくようにして脇腹をくすぐろうとする美々から逃れようとバタバタしながら、日向子はたった今脳裏をよぎった面影を再度心に映し出した。

 好きな人、と言われて自然に思い浮かんだ人。

 その人のことを思うことで、その人との思い出を辿ることで、本来の自分を取り戻していけるような気がした……。

「こら~、日向子っ、薄情しろ~」

「もう、お姉様ったら……ふふふ」

 その時、不意にポケットの中で日向子の携帯が振動し、着信を告げた。

 流石に美々も拘束を解き、日向子は携帯を取り出したが、サブウインドウに表示された名前に表情をまた一変する。

「伯爵様……?」














「よくいらっしゃいました」

 伯爵はふっと、特徴的な微笑を刻む。

「他の方々は反対したのではなかったかな?」

「最初は少し……けれどわかって頂けましたから」

 ライブ本番を前にしての不意打ちの着信。
 高山獅貴が日向子を呼び出したのは、とあるビルの一室だった。

「ここが本日のライブの特等席……というわけですのね」

 学校の教室ほどの広さの一室には、3、4人がゆったり座れそうな革ばりの上等な椅子と、アルコールの類や何品かの料理が並んだテーブル、大きな液晶のモニターが2つ壁の1面に広がっており、部屋中に設置された音響装置があった。

 ちょっとしたホームシアターのようだ。

 高山獅貴は椅子の中央に日向子をエスコートし、自らもその傍らに座った。

「間違いなく特等席ですよ……BLA-ICAとheliodor、両方のステージを同時に見られるのはこの部屋だけなのだから」

 日向子は黙って首を縦にした。
 ライブ本番を自分が用意した部屋で一緒に見ないか、と誘われた日向子は迷いながらもその誘いを受け入れた。
 もちろんheliodorのメンバーにも説明して理解を得た。

 やはりどうしても見ておきたかったのだ。

 heliodorだけではなく、玄鳥のステージも。
 そうでなくては彼等の決戦を見届けることにはならないような気がした。

 

「……私には全てを見届ける義務があり、あなたには全てを見届ける権利があります……」

 高山獅貴の感慨深げな囁きに、日向子は再度首を上下した。

「……見届けます。ここで、全て」












《つづく》
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
お気に入り
Lost Heaven
↑↑美夜プロデューサー様の素敵過ぎるマイドルSSサイト★

ありったけの愛を君に
↑↑かりんプロデューサー様の素敵過ぎるブログ★

危険なマイ★アイドル



amedeo 『誰にでも裏がある』応援中!

『俺のヒミツと男子寮』を応援中!





最新コメント
バーコード
Copyright ©  -- 猫神文庫 --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Material by 押し花とアイコン / Powered by [PR]
 / 忍者ブログ