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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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 火を止めた。

 温め直した鍋から、ごく少量をすくって、小さな皿に移す。

 皿を唇に寄せて、軽く息を吹きかけたあとで口をつけた。

 作ったばかりの時より熟成されて旨味の増したカレーを神妙な面持ちで味わった万楼は、皿をガステーブルの縁に置いて、おもむろに額に手を押し当てた。


「……やっぱり、知ってる……」


 きつく目を閉じる。

 見えないものを求めるように。


「……ボク……これと似たの……食べたことある……」









《第1章 人魚の足跡 -missing-》【5】












「でもさ、いくらなんでも少し作り過ぎたんじゃない? あのカレー」

「一度カレーを作ったら三日間は食べ繋ぐのが独り暮らしのセオリーというものですわよ。最終日はカレーうどんですわ」

「……お姉さん、時々お嬢様らしからぬ発言するよね」

「ええ、そのような『キャラで売って』おりますのよ。ふふ」

「はは」

 翌日。協力してもらった病院関係者に丁重なお礼をした日向子と万楼は、院内の小さなカフェで少しお茶することにした。

 ピンクがかった白金の髪の美少年と、物腰優雅な金に近い茶髪のお嬢様の取り合わせは病院という建物の中では取り分け異色であり、色々な意味で周囲の目を集めていた。

「この病院は大きくて色々な設備があって、内装も立派だな。高松でボクが入院してたところはもっと小さくて古い病院だった」





――気分は悪くないかい?

――うん……ぼーっとしてる、かな

――自分の名前は言えるかい?

――響、平……能登 響平(ノト・キョウヘイ)……


――響平くん、君は大変な事故に遭って、丸5日意識が戻らなかったんだ。もうしばらく静養は必要になるけど、心配はいらないよ

――……そう、5日も……寝てたんだ……もったいなかったな……

――ははは、早く元気にならないとね

――うん……早く帰らないとな。万楼が心配するし……

――万楼? 友達かな。それとも響平くんの彼女かい?

――万楼は……

――万楼は?

――……万楼は……

――……響平くん?

――……万楼……って、誰……だっけ……? わからない……ぼーっとする……なんでかな……

――目覚めたばかりで混乱しているのかもしれない
もう少し休もうね

――……なんで……? 思い出せない。忘れちゃいけないのに……万楼……











「あの時の心細さは……言葉に出来ないな」

「万楼様……」

 ホットココアを飲みながら、万楼は苦笑する。

「あまりにも思い出せないと、だんだん思い出すのが怖くなったりして……思い出さないほうがいいから思い出せないんじゃないかとか、思うこともある。
僅かな記憶を頼りに上京して、heliodorで弾くようになってからは尚更だね」

 唇についた生クリームをぺろりと舐め取る。

「本当は……記憶が戻らなければ、ボクはずっとここにいられるのかな……って思ったりもしたんだ」

 恐らく今まで誰にも話したことなどないだろう、万楼の本音。
 日向子は胸の奥を締め付けられたような気がして、レモンティーの赤い水面に視線を落とした。

「……だけど、昨日リーダーの気持ちを聞けて……それに、お姉さんに『胸を張ればいい』って言われて、今は少し考え方が変わったんだ」

 日向子はゆっくりと視線を上げた。
 万楼は大きな瞳を少し細めて日向子をじっと見ていた。
 その表情はどこか今までより大人びて見え、日向子は一瞬ドキッとしてしまった。


「ボクは絶対に記憶を取り戻す。万楼が本当に粋さんなら、必ず見つける……だって、みんなの思い出の中の粋さんには絶対に勝てないからね」

「……譲らない、おつもりなのですか?」

「うん……ボクは頑張って粋さんよりスゴいベーシストになる。負けたくないって心から思うよ」

 決意を語る言葉には、迷いも悲壮感ない。
 間違いなく彼は、一つの壁を乗り越えたのだ。

「……格好良いですわ、万楼様」

 心の底からそう評した日向子の笑顔に、万楼は一瞬目を見開いて、伏せた。

「……少しわかった。玄鳥の気持ち」

「はい?」

「独り言だから気にしないで……それより、今日の練習見に来るの?」

「はい、お邪魔させて頂く予定ですわ」

「今日は新曲の練習だよ。半年前くらいからあったんだけど、紅朱の詞がなかなかつかなくて眠ってた曲があるんだ」

「まあ、詞が出来たのですね?」

「うん。今朝ね。曲名は確か……」











「《spicy seven》」




 イントロからダークな印象の妖艷なベースフレーズと、メロディアスなギターが中心となる、heliodorが得意とするタイプのミディアムチューン。

 それは万楼加入後のheliodorのスタイルを象徴するようなサウンドだった。




《限りなく 凶悪な挑発
 召し上がれ 錆色のプリズム

 自業自得の 憐れな末路は
 犬も食わない カタルシス


 誘惑は今宵 致死量
 口移し 緋色のポイズン

 罪の意識が 稀薄な君を
 責められないまま 最終章


 罠は巧妙 手口は簡潔
 引き金は 不用意な一言
 オチたが 煉獄
 灼熱の spicy seven

 灰になったこの僕に
 君の涙は 遅すぎた》













「新曲も素敵な曲でしたわ」

 練習が一段落すると、日向子は少し興奮したようにメンバーたちに歩み寄った。

「玄鳥様が作曲を?」

 問われた玄鳥は少し残念そうに首を左右した。

「あいつの曲ですよ」

 と目線で自分の右側を示した。

「そう、ボクの曲。気に入ってくれてよかった!」

 万楼がにこにこしながら駆け寄る。

「もう日の目を見ないかと思ってたんだけどね」

「悪かったな」

 椅子に半ばふんぞり返るような姿勢で足を組み、ペットボトルのコーラを飲みながら、紅朱が口を開く。

「ずっと詞が浮かばなかったんだからしょうがねェだろ」

「でも無事に完成されましたわね……何かきっかけになることでも?」

 真面目に問掛けた日向子を、紅朱はニヤっと笑いながら見やった。

「わかんねェのか? めでたい奴だな……なあ、綾?」

 話を振られた玄鳥は何故か微かに頬を赤く染めて視線を逃がした。

「日向子さんは気付かなくていいです。……まったく、兄貴の悪ふざけは毎回質が悪いんだから……」


 日向子が「spicy seven」の意味するところがあの調味料であることに気付くには、まだまだ時間がかかりそうだった。

「リーダー、ボクにもあとで教えて!」

「例のヤツを完全消去するなら教えてやってもいいぞ」

「それなら別にいいや」

「あ、てめェ」

「『大切じゃないわけねェだろ……!!』のほうが大事だから」

「一々言うなっつーの!!」

「まあ、すっかりお二人もらぶらぶですわね」

「はァ!?」

「兄貴、それはあんまり気にしないでほうが……」



 フロントチームと日向子は集団コントの様相となってきていたが、一方でうるさいほどにぎやかなその様子を外側から見守る者も二人もいた。


「……なんかさぁ、新密度上がりまくってんだケド……」

「……そのようやな」

「玄鳥は完璧持ってかれてるし、万楼もすっかり懐いちゃって……」

「……オレとしてはむしろ……あの紅朱が、特定の女をイメージした詞を書いたことのほうが驚きやけどな」

 蝉ははっとしたように有砂を見た。

「……そっか……こんなこと、この3年間一度も……」

 そして、視線を戻した。

 日向子の楽しそうな笑顔と、何かムキになってがなっている紅朱の顔が視界に入る。

 蝉は唇を、噛んだ。





 ポロン。
 澄んだ鍵盤の音が、不意に響いた。
 楔を打ち込まれたように会話が途絶え、全員が音のほうを振り返る。

「日向子ちゃん」

 蝉は、振り返り様の日向子に名を呼び掛けた。

「はい?」

「……今日、一緒に帰ろうよ」

「え……わたくしと、蝉様がですか……?」

 あまにりも思いがけない提案だった。

 蝉は人懐っこい気さくで明るい笑みを浮かべる。

「オレのバイクで送ったげる♪ ……たまには新鮮じゃない?」

 日向子はややあってから、

「あ、はい。ありがとうございます」

と素直に返事をした。
 蝉は満足そうに大きく頷く。

「じゃ、ヨロシクね☆」

 その一部始終を冷めた目で見ていた有砂は、我関せずといった様子で欠伸を噛み殺していた。














「これがおれの愛車。どぉどぉ? カッコよくない?」

 新しくはないが隅々まで手入れの行き届いた、鮮やかなメタリックブルーのネイキッド。
 日向子はそれを珍しそうに見つめた。

「わたくし、バイクに乗せて頂くのは初めてですわ」

「マジで~? じゃあ遠慮なく日向子ちゃんの初めてもらっちゃおっと」

 蝉はどうやら用意してあったらしい、ライトグレーのフルフェイスのメットをそっと日向子に被せた。

「まあ、なんだかドキドキしてしまいますわ」

 そわそわする日向子をしばし見つめていた蝉は、

「あのさ」

 やがて、改まった口調で話し始めた。

「……万楼と紅朱のこと、サンキュ。二人が歩み寄るきっかけになってくれてマジで助かった」

「蝉様……」

「紅朱はさ、なかなか万楼を受け入れてやれなかったんだよ……自分でもどうしていいか、多分わかんなかったんだと思う」

 メットに遮られてはっきりわからない日向子の表情。
 蝉は、それでも真っ直ぐ見つめながら告げた。

「今でも紅朱は粋だけを、愛してるから。一人の女の子として」

「……紅朱様……が?」

「あいつら、付き合ってたんだよ。少なくとも紅朱は本気だった」

 息を継ぐ間もなく続ける。

「だから今でも粋に帰って来てほしいと思ってるし……粋が知らない街で他の男と一緒に暮らしてたかも、なんて言われたらぶっちゃけそりゃ悔しいわけ。
万楼に対して複雑な気持ちを持つのは当然じゃん?」

 日向子は無言のまま、メットごと頭を上下した。

「今回のことで万楼については多少ふっきれたカンジなのかもだケド、でも、紅朱はこれからもきっと、粋を想い続ける……だから」





「日向子ちゃんは、紅朱を好きになっちゃダメだよ」











「じゃあな、お疲れ」

 一晩中作詞に集中していた紅朱は流石に眠そうに見えた。

「あんまり無理しないでね。リーダー一人の身体じゃないんだから!」

「……キショいっつーの」

 大して迫力のない睨みを残して紅朱は、スタジオを出て行った。
 万楼はそれを目で追った後、ふーっと息を吐いた。

「……蝉とお姉さんはどうしたかな」

「……どう、もしないだろ……別に」

 玄鳥が恐ろしいまでのローテンションで手荷物をまとめながら呟く。

「家まで送るだけ……家まで送るだけ……」

「……家まで送ってもらったら『お礼に中でお茶でもいかがですか?』ぐらいは言いそうやけどな」

「うっ」

「……お疲れさん」

 相変わらず淡々と言いたいことだけ言ったきり、有砂も年少二人を残して去って行った。

 玄鳥は、十分想像できるその展開に戦々恐々としていたが、万楼は平然と微笑すら浮かべる。

「大丈夫だと思うな、蝉ってそういうところ真面目だし」

「……確かに。有砂さんの車に連れこまれるよりは遥かに安全かもな」

「……次、有砂なんだよね。個人取材」

「……心配だ」

 頭を抱えてぼやく玄鳥。
 万楼も頷く。

「きっと驚くだろうな。想像してるよりずっと手強い相手だから」

「日向子さんをあんまり困らせないといいけどな」

「え? 違うよ。何言ってるの? 玄鳥」

「え?」






「ボクは有砂のほうを言ったんだ」


















《第二章につづく》
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 硝子の瓶を引っくり返す。
 ばらばらと夕立のような音を立てて、カラフルな原色の包装紙に包まれたチョコレートが、白いシーツの上を飾り立てる。

――赤が6つ
  青が4つ
  黄色が4つ
  緑は2つ

  ……ああ、ちゃうわ
  3つやった

  これやと余ってまうな

  ほんなら余った分は
  ジブンのやで?


 下に向けていた顔をあげると、そこには「彼女」の姿はなかった。

 今までいたはずの「彼女」のかわりにいたのは


――分けなくてええんよ

  それは全部
  あんたのやから


 氷つくような、憎しみの眼差し。


――けど
  あんたがいなくなれば

  全部「ありさ」のんやんな……?


――……えっ


 視界がぐるっと回る。

 すぐ近くからあの眼差しが突き刺す。

――さよなら、佳人……!!

 そして、その眼差しとそっくり同じ光を宿したナイフの切っ先が、ためらいもなく、直線的に、振り下ろされた。

――どう、して? ……あ……り……さ









《第2章 悪夢が眠るまで -solitude-》【1】








「……っ」

「あ、起きた」

「……」

「大丈夫?」

「……」

「よちよち、また怖い夢見たんでちゅね~」

「……」

「……」

「……」

「……コーヒーいる?」

 虚ろな瞳のまま有砂が頷くと、蝉は「待ってて」とキッチンに走って行った。

 有砂はベッドの上で横になったまま、身体を丸めて、混濁した意識をかき混ぜて、なだめて、沈める作業を続ける。

 そこには苦痛と不快感しかない。

 汗でべったりと貼り付く髪の感触も、一向におさまらない動悸も、整わない呼吸も、身体の奥から響くような疼痛も、目の前をちらつく「悪夢」の残像も。

「はい、お待ち」

 蝉がコーヒーカップを持って舞い戻ってきた時には、作業は一通り終了し、受け取ったコーヒーを飲んで、

「……薄い」

「薄く作ったの!! ホントはコーヒーなんか飲ませられる状態じゃないんだから」

「……うっさい」

 極めてセンテンスは短いが、いつもの悪態をつく余裕が生まれていた。

 蝉はオレンジのウイッグを外して、真っ黒な短髪の「オフ」モード。

 二人がシェアしているこの部屋ではこの状態が常だった。

「……ってかよっちん、マジで大丈夫?」

「……何が?」

「カラダ痛くない?」

「……痛い……けど」

「ひょっとして何があったかサッパリ覚えてない系?」

「……全然」

 蝉はベッドサイドに頬杖をついて、溜め息をもらした。

「よっちん、借り作ったよ……うちのお嬢様に」

「……借り?」

「今日の練習終わりなんだケドね……」








「ではドラムを始められたきっかけは?」

「ノーコメント」

「……では、heliodorとの出会いは」

「ノーコメント」

「では有砂様の……」

「……ちょろちょろついてこんどいて。鬱陶しいやっちゃ……」

「おい有砂、そいつには一応協力してやれって言っただろうが」

 紅朱に睨まれても、有砂は漂々としたものだった。

「答えたくないことは無理に答えんでええ、ってコイツが最初にゆーたんやで」

「そうは言っても、全部が全部ノーコメントで記事になるわけねェだろ?」

「いいんです、紅朱様。きっとわたくしの用意した質問がつまらないからいけないのですわ」

 日向子はパラパラと質問メモをめくって、有砂に答えてもらえそうな質問を探す。

 有砂はそれを一瞥すると、

「……ほな、お先」

 あっさりと背中を向けた。

「あ、待って……待って下さい……!!」

 万楼の取材に思ったより時間がかかり、原稿の締め切りまで余裕のなくなりつつある日向子は、慌てて有砂を追い掛けた。

 慌てたところで元来挙動がスローモーな日向子が、圧倒的にコンパスの大きさが違う有砂に追い付くのは実に大変なことだったが。

「有砂様!!」

 駐車場まで追い掛けて、有砂の車(白のセダンである)の側まで来てようやく追い付いた。

「……しつこいねん、ジブン」

 うんざりした様子でキーレスリモコンを握る有砂に、日向子は必死で訴えた。

「あの……お急ぎでしたら今日は終わりで構いません。次の取材予約を……」

「……都合、つかへんな」

 日向子は更に何か言おうとしたが、それは叶わなかった。

 思いもかけない邪魔が入ったからだった。


「heliodorの有砂か?」


 すぐさし向かいに駐車されていたライトバンの陰から、ぞろぞろと出てきた集団。
 派手な髪色や服装から見ても、恐らくは有砂と同業者と思われる男たちが総勢四名。

「……ん?」

 有砂はだるそうに返事した。

「てめえか、うちのメンバーの女に手え出しやがったのは」

 四人のうちの一人、紫のソフトモヒカンが言うと、

「……へえ、そうなん?」

 有砂は顔色一つ変えずに淡々とした口調で返し、更に一言つけ足した。

「……どのオンナ?」


「なっ、てめふざけんなっ!!」

「なめてんじゃねえぞ、こら!!」


 背中に火をかけられたかのような勢いで四人は一斉に有砂に向かってくる。

 有砂は舌打ちすると、状況が掴めずにぼーっとしていた日向子の腕を掴んだ。

「きゃっ」


 無言のまま、いささか乱暴にその腕を後方に押しやる。
 日向子は短い悲鳴を上げて、よろけながら斜め後方2メートルまで下がり、最後にはぺたんとおしりから転んだ。

「……有砂様……?」


「……帰りや、お嬢」


 見る間に囲まれた有砂は、体格こそ誰よりも勝るものの、どう考えても四人を相手に勝ち目があるとは思えない……というより、戦うつもりもあまりないようだった。

 背後と両脇から押さえられても抵抗する様子もなく、相変わらず冷めきった眼差しで興奮する相手を見下ろしている。

 そんな態度はいよいよ相手をいきり立たせる。

「この下衆野郎がッ!!」

 紫モヒの拳が思いきり有砂の腹部にめりこむ。

「……っくっ……」

 流石に低くうめいて、苦悶の表情を浮かべる有砂。

 そこへ更にまた一発、怒りに満ちた拳が叩きつけられる。

「……っ……」

 凄まじい光景に座り込んだまま動けずにいた日向子だったが、その瞬間にようやく我に返った。
 
「有砂様が……」

 なんとかしなければ、と思った日向子はバッグから携帯を引っ張り出した。

 この窮地において、日向子がとっさに選んだのは……。


「……玄鳥様ッ! 玄鳥様助けて下さい……有砂様が!!」














「……とゆーカンジで、玄鳥に救援要請があって、おれたちみんなで駆け付けたってワケ」

 蝉はもう一度深く溜め息をついた。

「玄鳥が連中追っ払って、おれがバイク置いて、車運転して連れて帰ってやったのよ?
マジで部屋まで運ぶの超しんどかったしー。カラダばっかデカくなっちゃって手がかかるんだから、この子は……」

 有砂は味気無い味わいのコーヒーをちびちび飲みながら黙って蝉の話を聞いていたが、

「……それは難儀やな」

 いつもの口癖をぽつんと呟いた。

「そこはありがとう、でしょ!! まったくもう……」

 蝉はがしがしと自分の頭をかきむしる。

「だいたい武闘派じゃないクセにさ、なんで毎度毎度似たような喧嘩買うかなぁ。
おれ的には、わざと相手を挑発すんのもどうかと思うんだケド!?」

「……早くかかってきてくれたほうが早く終わるから助かる」

「……なんかもう、よっちんがまだ五体満足で生きてられるのが不思議でしょーがないんだケド……」

 有砂は空になったカップを押し付けるように蝉に差し出した。


「……オレもそう思う」













 一方その頃、日向子は玄鳥の車のサイドシートに座っていた。

「……実はああいうこと、初めてじゃないんですよ」

「そう……なのですか?」

「有砂はトラブルメーカーだからね」

 後部座席に寝転がった万楼も口を開く。

「打たれ慣れてるから心配しなくていいよ」

 三人はあの騒動の後、一息つくべくファミレスでしばらく過ごし、今は日向子を部屋まで送るところだった。

「……しなくていい、と言われましても……心配ですわ」

「いいんです、自業自得なんだから」

 珍しくはっきりと切り捨てるような発言をする玄鳥に日向子は少し驚いていた。

「……玄鳥様……怒っていらっしゃいますの?」

「怒ってますよ。俺ははっきり言ってあの人のそういうところ、大嫌いですから」

 ハンドルを握る玄鳥の横顔は険しく、どこか紅朱と被って見えた。

「……女性といい加減な付き合いばかりするからこうなるんですよ」

「……いい加減な、お付き合い……?」

「あ、えっと……詳しくは知らないほうがいいかもしれないです……」

 言葉に窮する玄鳥を、万楼は遠慮なく笑った。

「お姉さんや玄鳥には刺激が強すぎるよね」

「未成年に言われたくないよ」

 玄鳥は苦笑いで答える。ようやく怒りが薄れてきたのか、いつもの表情に戻りつつあった。

「……でも日向子さんがとっさに俺を頼ってくれて嬉しかったですよ」

「はい……玄鳥様にはわたくしも以前ひったくりの方を捕まえてバッグを取り返して頂きましたし……」

「玄鳥は空手黒帯だからね」

「まあ……」

「兄貴もちょっとやってたんですよ。それで俺も始めたのに、兄貴はすぐ辞めちゃって」

「そうですの……紅朱様が」

 日向子は紅朱の名前が出たところで気になっていたことを尋ねた。

「ところで紅朱様は、今日どうしてすぐ帰ってしまわれたのですか?」

「ああ、バイトですよ」

「バイト……アルバイトをなさってるのですか?」

「そりゃまあ……俺たちアマチュアなんで。流石にバイトしないと食ってけないんですよ。
俺も楽器屋でバイトしてるし……」

「ボクはコンビニ!」

「兄貴は警備のバイトなんで、だいたいは夜勤ですね。蝉さんは……何て名前だったかな、児童福祉施設の手伝いをしてるらしいです」

「児童福祉施設?」

「蝉さんは小さい時にご家族を亡くしてて、その施設で育ったそうで」

「まあ、そうでしたの……」

 次々明かされるメンバーの新たな一面と秘密にしきりに頷く日向子。

 玄鳥はそれをちらっと横目で見て、少し口調を転じて言った。

「この前……蝉さんに送ってもらったんですよね。……あの……何か変わったことは」

「はい?」

「いや、なんでもないです。すいません、詮索するようなこと聞いて……」


 日向子は先日、生まれて初めてバイクというものに乗ったあの時のことを思い出した。

 その前に交した、蝉との会話も。

「……蝉様は、とても親切で、よく気のつく良い方ですわね」

「えっ……あ、まあ……そうですね……確かに」

 自分で話を振って、力いっぱい後悔した玄鳥だったが、内心の動揺を必死に抑え込みつつ、

「あの有砂さんのフォローが出来るのなんて蝉さんくらいですからね」

 とりあえず話を合わせておく。
 もちろん日向子にはそんな複雑な男心などわかる筈もなかったが。

「そういえば有砂様はどんなアルバイトを?」

「ああ、有砂さんは……」

「あら、少しお待ちを……電話が」

 玄鳥の答えを遮り、日向子は振動を始めた携帯をバッグから取りだし、サブディスプレイの表示を見るなり、慌てて出た。

「……有砂様! お身体は大丈夫ですか!?」

 玄鳥と万楼ははっとしたように視線を日向子に向けた。

「……はい? 目黒駅の東口? 明後日の……14時、ですか……あのそれは……」

 日向子は耳元から離した携帯を見つめて、

「切れてしまいました……」

 と困ったように呟いた。

「お姉さん、有砂からだったの?」

「なんですか? 目黒がどうとかって……」

 日向子は携帯を握ったまま小首をかしげた。



「……誘われてしまいました」









《つづく》
「……譲歩したる、ゆーことや」

「譲歩……」

 日向子は小さく反芻した。

「オレが提示する3つの条件を守れるんやったら……少しは協力したってもええ」

「まあ、本当ですの!? 有砂様」

 ぱあっと表情を明るくする日向子に対し、有砂はあくまで冷たく淡々としている。

「……条件1、オレの邪魔をしない」

 日向子は聞きもらすまいと真剣な顔で頷く。

「条件2、オレに干渉しない」

 日向子は一々首を縦にする。

「条件3、これで一昨日の件はチャラや……ええな?」

「え??」

「……わかったか?」

「は、はい。お約束致します」

 と元気良く返事する。

「わかったら……ついて来てもええ」

 有砂は踵を返して歩き出した。

 日向子もそれを慌てて追いながら、

「有砂様」

 と背中に呼び掛けた。
 返事はなかったが続ける。

「一昨日のことですけれど」

 有砂は立ち止まって、不機嫌さを露にしながら振り返る。

「……人の話、聞いてへんのか?」

「申し訳ありません、でも一つだけどうしてもお伝えしなければならないことがありますの」

「……なんや?」

 心底面倒臭そうに、溜め息混じりに問う有砂。

 日向子は微笑して、それから深く深くお辞儀した。

「あの時は、かばって下さってありがとうございました」

「……は?」

 それは有砂の予想の範疇にない言葉だった。

「有砂様はわたくしのことを逃がそうとして下さいましたでしょう?
そのお礼だけはどうしても申し上げたくて……」

「……ジブン、アタマ悪いやろ」

 有砂は呆れきったような顔で日向子を斜め上から見下ろす。

「……そんな調子やと、いつか怖い目に遭うで」

 まるで嘲るような酷薄な笑みを浮かべて。












《第2章 悪夢が眠るまで -solitude-》【2】











 約束の日、約束の時間。
 目黒駅で待っていた日向子の前に、少し遅れて有砂が現れた。

 条件付きの取材許可を得た日向子は、どこへ向かっているのかもよくわからないまま有砂の後ろにくっついていった。

 会話らしい会話もないまま、10分弱歩いたところで、どうやら目的地とおぼしき場所に到達したようだった。


「有砂様……ここは?」

「……見ての通りの撮影スタジオ」

「撮影スタジオ……ですか」


 日向子がほうけたように小綺麗な建物の外観を眺めていると、中から誰かが出てきた。

「佳人くん、今日も遅刻したのね」

 カジュアルな赤いスーツを着た、30代なかばほどの女性だった。
 10センチのピンヒールがカツンカツンと硬質な音を響かせる。
 化粧も、服装も派手なものだったが、それが見事にはまる華やかな雰囲気の美人で、アシンメトリーの前髪から覗く瞳はパープルのカラーコンタクトで飾られている。

 女性は日向子を見て、ふっと微笑した。

「あら、可愛らしいひとと一緒なのね」

「……音楽雑誌の記者。撮影の合間に取材受けるから、邪魔にならんとこにおいといてくれませんか?」

「そんなに冷たい言い方をすることないでしょうに。ふふ……」

 女性は淡い紫のマニキュアで染まった左手の指を肉感的な唇に当てて、くすくすと笑った。
 薬指に、ゴシック調を取り入れたハートモチーフのシルバーのリングが煌めいていた。

「はじめまして。可愛い記者さん。わたしは沢城薔子(サワシロ・ショウコ)……佳人くんの義母(はは)です」

 日向子はぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、有砂をゆっくり振り返る。


「よしひと様……は、有砂様、ですよね?」

「……そうやけど」

「ということは薔子様は……有砂様のお義母様!?」

「そうやゆーてるやろ……」

 苛立った雰囲気の有砂とは対称的に、薔子は余裕に満ちた大人の女性だけが浮かべられる微笑を浮かべたままだ。

「……さあ佳人くんは早く準備に入ってちょうだい。……彼女のお相手はわたしがするわ」




















「佳人くんはねえ、主人の連れ子なの」

 ローズティーの甘い香りがふわりと広がる。

「《SIXS(シックス)》というブランド、ご存じかしら」

「はい……モードゴシック系の」


「主人の沢城秀人(サワシロ・ヒデヒト)はそのオーナー兼デザイナーなのよ。妻のわたしはヘアスタイリスト、そして息子の佳人くんは……専属契約のモデルをやってるというわけ」


 薔子とともに、スタジオの隅に用意された簡易タイプのテーブルについて、お茶とお菓子を振る舞われながら、日向子は未知の光景を目にしていた。

 heliodorとしてステージに上がる時とはまた一風異なるメイクを施され、黒を基調としたゴシック系のスーツをまとった有砂が、カメラマンに様々な要求をされながら次々とシャッターを切られている。


「有砂様はモデルのお仕事をされていましたのね……」

「佳人くんはブランドイメージにぴったりなのよ……背徳と頽廃、静寂と虚無……そして、官能」

 薔子はとても楽しそうに有砂を見つめる。

「実のお母様がモデルをやってらしただけあって、センスもいいしね」

「あの、ぶしつけなことをお聞き致しますけれど……有砂様の本当のお母様はお亡くなりに……?」

「ううん……ご健在ではいらっしゃるみたい。一応ね」

 含みのある言い方が気になったが、なんとなくそれ以上突っ込んだ質問をしづらい雰囲気だった。

「……それにしても、有砂様がモデルのお仕事をなさっているなんて意外でした」

「……そうね。わたしは佳人くんが高校生の頃からずっと口説いてたのに、長いことつっぱねられてきたもの。
それが、3年くらい前かしら。いきなり向こうから『やってもいい』なんて言ってきたのは」

「3年前……3年前は……」

 粋がheliodorを脱退して、バンド活動が休止した頃。
 彼らにとって、もっとも深い暗黒の時代。

「思った通り、あの子はモデル向きだったわ。音楽活動なんてやめて、いっそ本格的に転向すべきなのに」

「それはご無理なのでは……有砂様には大切なバンドがありますもの」

「……大切な、バンドですって?」

「はい」

 当然のような顔で頷く日向子を見て、薔子は先程と同じ仕草で笑った。

「本当にあなたって可愛らしいのね」

 そしてまたその紫色の双眸を有砂のほうに向けた。

「……あなたにもそのうちわかるんじゃないかしら。
……あの子には大切なものなんて何にもないってこと。自分自身も含めてね」

「そのようなこと……」

 反論の言葉をつむごうとした日向子の脳裏に一昨日のできごとがよぎった。

 あの時の有砂は、確かにあのまま殺されても別に構わない……そんなふうに見えた。

 まるで生きることに執着が感じられない。


 撮影が一区切りついたらしい有砂が、ゆっくりと日向子たちのほうに近付いてきた。

「次の衣装がまだ到着してへんゆーて……40分くらい、待ちやから……その間にちゃっちゃとやってくれ」

「あ、はい……!」

 待ってましたとばかりの日向子だったが、

「……その前に、少し打ち合わせさせてちょうだい。向こうの部屋でね」

 薔子が立ち上がった。

「あ、はい。どうぞ」

 取材の条件1は有砂の邪魔をしないこと、だ。
 絶対に仕事の邪魔になってはいけない。

 有砂を連れて、ピンヒールを鳴らしながら薔子が隣の部屋に消えてしまうと、日向子は少し冷めたローズティーを口にした。

 ほんのり、苦いような気がした。

 ふと横を見ると、薔子が座っていた椅子の上に、ぽつんと携帯電話が置かれているのに気付いた。

 恐らくは薔子のものだろう。
 サブディスプレイに着信あり、の表示が出ている。話に気をとられて気付かなかったのだろうか。
 日向子は少し迷ったが、薔子に渡しに行くことにした。

「お仕事の急な連絡かもしれませんし……ね」

 携帯を手にして、立ち上がった日向子が隣室のドアのほうへ行くと、

「君、開けないほうがいいよ」

 若い撮影スタッフの一人が声をかけてきた。

「……なぜでしょう?」

「……なぜも何も、暗黙のルールなんだよ。……首をハネられたくなければ、全て女王様のお心のままに、ってとこかなぁ」

「女王様の、お心のままに……」

 その時、日向子の手の中で薔子の携帯が振動をし始した。

「大変……また着信が。やっぱりお届けしないと」

「だからダメだって。まったく……」

 若い撮影スタッフは、呆れた顔で隣室のドアに手をかけて、音を立てないようにそっと、1センチほどの隙間を開けた。

「……覗いてみればわかるよ」

「まあ、覗き見だなんて……よくないですわ」

「いいから」

 強く促されて、日向子はためらいながらもそっと、隙間から部屋の中を覗いた。

 あまり広くはないその部屋にはメイク台や大きい鏡などがあって、どうやら控室のようなところらしかった。

 日向子は二人の姿を探して視界を旋回させ、そして、止まった。

 日向子の瞳は大きく揺らぎ、見開かれたまま停止する。


 メイク台に腰を下ろした薔子は、楽しそうに笑っていた。

 リングをはめた左手で有砂の身体を引き寄せて、右手でそのスーツのシャツのボタンを1つずつ外して。

「……また怪我が増えたのね。いけない子……売り物に傷をつけたりして」

「……もともと、傷モノなんで」

「……ふふふ」

 ボタンを全て外し終えた右手が有砂の顎のラインを撫でて、肩口を掴み、そして、引き寄せた。

 唇が、重なる……。


 日向子はそこで、ドアに背中を向けた。

「わかったかい? ……そういうことだから、遠慮してね」

 若い撮影スタッフは苦笑いして見せる。

「……血縁はないし、母子って言うには年も近すぎるとはいえ……ねえ。女王様にも困ったもんだよ。
……ああ、この件は一応内密にね」

 そう言い残して急いで作業に戻っていった。

 日向子の手の中で、うるさく騒いでいた携帯がついに沈黙した。

 日向子も沈黙したまま、うつむいていた。

 有砂が義理の母親と、深い仲であるらしいという事実もかなり衝撃的だったが、それよりも胸が痛いのは、今、薔子の言葉に反論できなくなりつつある自分に対してだった。


 有砂には大切なものが、ない。
 自分自身ですら大切では、ない。


「本当に……そうなのですか? 有砂様……」










 携帯の終話ボタンを手探りで押した紫色の爪先が、再び目の前に開かれた胸元に触れる。

「……やっぱり、わざとやったんですね……携帯」

「ふふ……意地悪だったかしらね」

「……そうですね」

「……だって頭にくるでしょ? 何にも知らない小娘がこのわたしに反論しようなんて、生意気だわ」

 黙ったままの有砂の背中に、細く、しなやかな両腕が回される。

「……あんな、頭の弱そうなお子様は、あなたにはふさわしくない……そうよね? 佳人……」















「……珍しいこともあるもんだ」

 ミラー越しに、こちらへ向かってくる日向子の姿を確認して、蝉は車を降りた。

「お嬢様が自分から迎えに来て~、なんて……どういう風の吹き回しかな」

 胸ポケットの眼鏡をかけて、「雪乃モード」を「オン」にする。

「お迎えに上がりました。お嬢様」

 うつ向き気味に歩いていた日向子は、ゆっくり顔を上げた。

「雪乃……」

「……お嬢様? いかがなさ……」

 揺れる瞳から、雫が滑り落ちる。

「……雪乃……!」

 そのまま日向子は、雪乃の胸に飛び込んできた。

「……お嬢、様……?」

「ごめんなさい……っ、今だけ……少しだけ……」

 雪乃は、わけも話さず泣き続ける日向子に身体を明け渡したまま、立ち尽くしていた。



















《つづく》
 懐かしい、メロディが聞こえる。

 美しく優しく、どこか悲しいピアノの旋律。


「レディ、何故泣いているのですか?」

 低く、心地好く響く甘やかな声。

「……伯爵様……」

 漆黒のロングコートをまとった青年は、右手の革の手袋を外して、芸術品のように美しい形をしたその手を差し出した。

「いらっしゃい」

 日向子はためらいがちに手を伸ばし、その手を取った。

 ひんやりと、冷たい。

「……レディ、貴女を悲しませるものはなんだろうか?」

「わたくしが……悲しいのは……」

 すん、と鼻を鳴らして涙を飲み込む。

「人の心が、わからないからです……」

「これは奇妙なことを……他人の心がわかる者など、どこにもいる筈がない。この私とて、貴女の心を透かし見ることなど叶わないのだよ」

「……ではわたくしは、どうすれば……」

 「伯爵」はコートの中に日向子をそっと抱き込んだ。

「どうすればいいかわからない……では私が『こうしなさい』と言ったら、そうするのかな? レディは」

「……え……?」

「それならば私の意見はこうです……『あきらめなさい』」

 驚いたように視線を上げる日向子。

 ぼやけた視界の中で、「伯爵」は優しく笑う。

「……今『そんなの嫌だ』と思ったね? それが……全てだよ」










《第2章 悪夢が眠るまで -solitude-》【3】














「……伯爵様……」

 重い瞼を開けた。

「……夢……?」

 そう、それは夢だった。

 けれど。

 目が覚めた後も、あのメロディは確かに日向子の耳に届いていた。

「……ピアノ……」


 日向子の視界には、毎日挨拶をする伯爵の肖像がある。
 ここは間違いなく自宅のピアノ室らしかった。

 誰かが日向子のピアノを弾いているのだ。

 日向子はその音色を奏でる者を確かめるべく、身体を預けていたソファからゆっくり上体を起こす。

 グランドピアノの前に座る人物の、オレンジ色の髪を見た瞬間、日向子は息を呑んだ。


「ぜ、蝉様……!?」


 演奏が、止まる。

「おはよん♪ 日向子ちゃん」

 蝉はにっこり笑う。

「びっくりした?」

「び、びっくり致しました……」

「遊びに来たんだけど、迷惑だったかな?」

 日向子は寝起きということも手伝って、ゆっくりとパニック状態に陥ろうとしていた。

「あ、あの……雪乃は……」

「雪乃さんって、あのクールでかっこいい人? その人がおれを部屋に入れてくれたんだケドさ、急用があるとかで出掛けちゃったんだよねー」

「まあ、そうでしたの……」

 よく考えてみればあの雪乃に限って、よく知らない男を日向子の自宅に上げて、あまつさえ二人きりにしていなくなることなどありえないのだが、今の日向子は気付く余裕がない。

「今の曲……mont suchtの『月影逢瀬』……わたくしの好きな曲ですわ」

「マジで? そりゃちょうどよかったなぁ」

「……ありがとうございます。おかげ様で、良い夢が見られたような気が致しますわ」

「……そっか」

 蝉はどこか満足そうに呟いて、立ち上がった。

「ホントはさ、話そうと思って来たんだよね」

「え……?」

「まあ、日向子ちゃんが聞きたければ話すし、聞きたくなければ話さないつもりだケド」

 蝉は日向子が上体を起こしたことで生まれた、ソファのスペースに腰を下ろした。

「あいつのコト、まだ知りたいって思う?」

「あいつ……と申しますと……」

「日向子ちゃんを泣かせたバカのコト」

「……有砂様の……」

 蝉はじっと日向子を見つめて、待つ。

 日向子はその視線を受け止めて、そして、答えた。

「まだあきらめるわけには参りません……わ」
















「おれが施設で育ったって話、誰かに聞いた?」

「はい……伺いました」

 リビングに場所を移し、温かい紅茶とお茶うけのリーフパイが乗ったテーブルで、蝉は話し始めた。

「実はよっちんも一時期だけ同じ施設にいたことがあって、おれたちはそん時に出会ったんだ」

「でも、有砂様にはご家族が……」

「うん、そうなんだけど……ある事件があって、その後始末に大人が追われてる間、よっちんは施設に匿われてたんだよね」

「事件……」

「……よっちんさ、双子の妹にナイフで刺されたんだって」

「……!」

 それは一言で十分過ぎるほど陰惨で残酷なインパクトを日向子にもたらした。

「その双子の妹が『有砂』ちゃんっていうんだ。
よっちんのホントのお母さんのモデル時代の芸名でもあるんだけどね」

 「有砂」という名前は、「沢城佳人」にとっては、深い因縁のある名前らしかった。

「よっちんが物心ついた頃には両親の仲はとっくに冷えてて、親父さんには何人も愛人がいたみたい。
お母さんも精神的に追い詰められて、子どもにまで手が回らなかったんじゃないかな。
そんなんだから、よっちんと有砂ちゃんは、いつも二人きりで、小学校に上がってからも一緒のベッドで寝るくらい仲が良かったんだって」

「それでは……何故?」

「親父さんが愛人の一人……薔子さんと再婚するってんで、ご両親は結局破局。お母さんは子どもを二人とも引き取りたかったんだケド、経済的に無理だったらしい。
で、有砂ちゃんだけを引き取った。……有砂ちゃんはお母さんによく似てたから、薔子さんにあんまり気に入られてなかったみたいで。
その頃のよっちんには有砂ちゃんが全てだったから、マジで辛かったと思う」

 日向子の胸は痛んだ。

 有砂にも……大切なものは、あったのだ。

「離れてから一年ちょっとしたある夜に、よっちんは親父さんたちに内緒で有砂ちゃんに会いに行った。
お土産の、お菓子を持ってさ。
もちろん、喜んで迎えてくれるって信じてたんだケド……その夜、事件は起きた」

 蝉は、わずかに目を伏せる。自分で話していて、いたたまれなくなったというように。

「有砂ちゃんさ、虐待されてたんだよ……離婚がきっかけで、お母さんの心は限界だったんだね……。
そして有砂ちゃんの幼い心も限界だった。
どうして自分だけこんな目に遭うのか、どうして母親に引き取られたのは自分だったのか……そんな気持ちだったのかなって思う」

 不遇な運命は、まだ小さな少女の心を狂わせてしまったのか。
 慕っていた筈の兄に、憎悪の刃を向けてしまうほどに。

「お母さんは強制入院、有砂ちゃんもどっかの施設に送られて、それっきりだよ。
当時は結構センセーショナルな事件で、世間も騒ぎまくってさ……よっちんがマスコミ嫌いなのは多分そのせいだと思うよ」

「そのようなことが……」

 日向子は誰を責めたら良いのかすらもわからない、不幸としか言いようのない過去に、深い悲しみを感じずにはいられなかった。

「……けれど蝉様、そのことは有砂様が自ら蝉様に話されたのですか? ……わたくしが考えるに」

「あいつは人にそんな話をしたがらないんじゃないかって? ……いいとこに気付いたじゃん。
これはさ、よっちんが不覚にもおれに借りを作った時に、その返済のために話してくれたんだよね~」

「借り……ですか」

「うん……それがまた、ある意味ちょっとエグい話なんだケドね~……」

 蝉はなんだか意味深な苦笑を浮かべた。

「施設にいた時なんだけどさ、おれとよっちんはたまたま部屋が一緒で、布団並べて寝てたのよ。
そしたらあいつ、夜中に人の布団に入って来てさ、抱きついてくんの! マジで!!」

「まあ……」

「毎晩毎晩、無意識にだよ。多分、妹をだっこして寝るのがクセんなってたんだろうね。
おれ的にはたまったもんじやなかったんだケド、振りほどくとあいつ、必ずうなされるしさぁ……なんか可哀想じゃん?
結局施設にいる間、おれはずっとよっちんの抱き枕だったってワケ!」

 笑っては申し訳ないと思いながら、日向子は思わず少しだけ笑みをこぼした。

「……なんだか、可愛いです……お二人とも」

「そ……可愛いもんでしょ。もうずっと昔の話だけどね。でもよっちんはさ、多分あの頃と変わってないんだよね。
独りで寝るのが辛いから、誰でもいいから一緒に寝てほしいんじゃないのかなって思う」

「あ……」

「それにさ、よっちんって実は人一倍庇護欲が強くて、誰かを守りたいとか、大切にしたいとか思ってるのに、その対象がなくなっちゃって、自分でもどうしていいんだかわかんなくなっちゃってる気がする。
その証拠に玄鳥や万楼には遠回しにアドバイスしてやったり、なんだかんだ心配してんのわかるし」

 有砂には大切なものが、ない。

 再び噛み締めたそれは、日向子の中に昼間感じたのとは違う感情を呼び起こしていた。

「……わたくしは愚かで、浅はかでした。有砂様のお気持ちを思いやることができませんでした……。
何も知らないのに、理解しているようなつもりでいたから、裏切られたような気がしてしまったのだわ……」

「何言っちゃってんの、そんなヘビーに取らないで」

 蝉は今までの重い空気を払拭するように明るい笑顔で日向子を見た。

「人の気持ちなんて、本人にだってよくわかんなかったりするんだし、しょーがないってカンジ。
おれが話したこともほとんど推測入ってるしさ。
けどおれ、こんなんでも一応自称よっちんの親友だからね」

 ぽん、と得意気に胸を張る。

「全っ然了承はされてないケド、そう思うのはおれの勝手だし!
ほっとけないんだもん。仕方なくない?」

「……そうですわ……」

 リアルな夢の中で、伯爵が言っていたことが頭をよぎる。


――どうすればいいかわからない……
  では私が『こうしなさい』と言ったら
  そうするのかな? レディは


――……今『そんなの嫌だ』と思ったね?
  それが……全てだよ


「どうすればいいか、より、どうしたいか……。わたくし自身がどう思うかですのね……」
















「……お嬢様、ご気分はいかがですか?」

「心配かけてごめんなさい……わたくし、少し元気が出ました」

 蝉と入れ替わりで帰ってきた雪乃を出迎えて、日向子は微笑んだ。

「……それは何よりです」

 雪乃はあくまで冷静な口調だったが、その瞳にはどこか優しげな色があった……ような気がした。

 それも日向子の推測でしかないのかもしれないが。

「折角帰って来たばかりで申し訳ないのだけれど、わたくし出掛けたいので、車を出して頂けて?」

「このような夜更けにお出掛けですか? 私としては賛成致しかねますが」

「ええ、どうしても今夜のうちに会ってお話したい方がいらっしゃいますの」

「……左様ですか。それでは、特別に黙認致します。
ただし……くれぐれも、無茶はなさらないで下さい」

「ええ、ありがとう!」

 日向子は久しぶりに心からの笑みを浮かべた。



「わたくし、絶対に諦めませんわ!!」















《つづく》
「……またやっちゃった……おれ何やってんだろ……」

 眼鏡を外した蝉は、クラクションを避けながらハンドルの上に突っ伏した。

「ある意味チャンスだったんだよなぁ……」

 放っておけば日向子は挫折したかもしれない。

 有砂の取材をあきらめて、heliodorの企画をあきらめて、日向子が引けば。

 日向子とメンバーの誰かがどうにかなってしまわないかという心配も、けしてバラしてはいけないと、日向子の父親から厳重に注意されている「二重生活」が発覚する心配も減る。

 日向子があきらめてくれれば、蝉は今よりずっと楽になれたのだ。

 だが結局、蝉は日向子に助け舟を出してしまった。

 その訳は、有砂に対する自称親友としての情愛。
 それと……。

 スーツの胸を濡らした、温かい雫。

「……あの涙はちょぉっと卑怯なんじゃない……? ……お嬢様……」

 自嘲の笑みが唇を歪める。

「……さて、今夜は誰に泊めてもらおっかな……」










《第2章 悪夢が眠るまで -solitude-》【4】










 チャイムを三回鳴らしたが、応答がなかった。

 部屋には薄く灯りがついているし、駐車場には有砂の車があるのを確認したから、いないわけではない筈だ。

 少し迷ったが、そんな時は使うようにと託された蝉の鍵を、日向子は使うことにした。

 蝉は鍵を渡す時あっけらかんと、「マンションの名義はおれだから! おれが許可したってことで気にしなくていいよ♪」などと言っていたが、やはり人の家に勝手に入るのは少し気が引ける。

「……お邪魔致します……」

 小声で呟きながら、ゆっくりドアを開けた。

「有砂様……いらっしゃいますの……?」

 玄関口と入ってすぐのダイニングは灯りが消えて真っ暗だった。日向子は闇に目をこらす。

 室内は「生活感」という表現で許される程度には散らかっていたが、男二人が居住する空間としては綺麗なほうだった。

 もっとも日向子は男性の部屋に立ち入った経験が、先日の万楼宅の他は父の書斎くらいしかないので、その辺りの感覚はよくわからなかったが。

 転がっていたビールの缶を踏みそうになったり、部屋干ししていた洗濯物に頭をぶつけたりしながらダイニングを横断し、日向子は灯りが漏れているドアを目指した。

 そしてようやくたどり着き、ドアノブを掴んでひねろうとした瞬間……。

 先にドアノブが回転し、日向子の意思と関係なしに、目の前のドアが開いた。

「っ」


 そのまま日向子はろくに声も出せずに固まった。

 ドアの向こうから姿を見せた有砂も、その瞬間目を丸くして絶句していた。

 ふわり、と微かに甘い香りを含んだ温かい水蒸気が日向子の頬を撫でる。

 ぽたり、と有砂の髪から滴った雫がその鎖骨の窪みを経由して、厚くはない胸を流れ落ちるのを無意識に目で追っていた。
 そこには真新しい青い痣と、引き攣れたような古い傷痕がある。

「……どこ見てんねん。どスケベ」

「えっ、あ、あの……申し訳ありません! そのようなつもりでは……」

 流石の日向子も顔を赤く染めて、くるっと回って有砂に背中を向けた。

 そこはバスルームのドアだったのだ。
 かなり大きなサイズのバスタオルをばっさりと頭から被ってはいたが、一糸まとわぬ有砂の上半身はほとんど完全に晒されている。

 下は黒のスウェットを履いてくれていたのが救いだったが、それでも男性の裸に免疫のない日向子には、十分過ぎるほど強烈なビジュアルだった。

「……わざわざこんな真夜中にノゾキに来たんか? お嬢」

 冷ややかな言葉が背中に突き刺さる。

「わたくし……有砂様とお話がしたくて参りましたの」

「話……?」

「昼間は取材を放り出して途中で帰ってしまって、申し訳ありませんでした……仮にもプロとして仕事する人間にあるまじきことと反省致しました」

「別に、反省するようなことでもないんちゃうか。普通、あんな場面に出くわしたら逃げたくもなるやろうからな」

 あんな場面、という言葉にその「あんな場面」が頭をよぎり、日向子は一瞬どきっとしで、それを必死に振り切ろうと深呼吸する。

「それでも、わたくしは逃げるべきではありませんでしたわ」

 有砂はそれを鼻で笑う。

「ホンマは軽蔑したんやないんか? ……オレがどういう男か思い知ったやろう」

 日向子は後ろを向いたままで、首を左右した。

「確かに、本心を言えばとてもショックでしたわ……ですが、わたくしは有砂様を軽蔑したりはしておりません。
……有砂様のことをもっと理解したいと思っています。
何故なら有砂様は……きっと本当は純粋で温かい心を持った方だから」

 バサッと音を立てて、湿ったバスタオルが床に落ちた。

「……何を言うかと思えば。ホンマにアタマの悪い女やな」

「っきゃっ……っ」

 大きな手が後ろから日向子の口を塞いだ。

「そんなにオレのことが知りたいんやったら、教えたる……」

 そのまま有砂は半ば無理矢理、軽々と日向子を抱き上げた。

「……っ……んっ」

 声を発することも、有砂の腕から逃れることもままならず、触れ合う肌から直接伝わる体温に日向子はうろたえるしかなかった。


 そうするうちに日向子は、いともたやすく寝室に運ばれ、乱暴にベッドに投げ込まれた。

「……っ……あり……ささま……っ」

 仰向けの姿勢で、手首を頭の横で押さえ付けられた日向子は、闇に浮かび上がる有砂の冷たい眼差しを見上げていた。

「……忠告はした筈や。そんな調子でおったら、怖い目に遭うってな」

 日向子の身体はそのままバラバラになってしまうのではないかというほど、小刻みに震えていた。

 頭の中が真っ白になって、心臓が破裂しそうに鼓動する。

 有砂は口の端を吊り上げる。

「ようやっと大人しなったか……? お嬢」

「……」

「……もう、諦めや」


 日向子ははっとした。

「……あきらめ……」

 少し視線を動かして、戒められた自分の左手首を見やった。

 月を模したシルバーの輝きがそこにある。

 夢の中の光景が、あの穏やかな甘い声が、そして優しい旋律が日向子の中に蘇る。

 その瞬間、身体の震えは止まっていた。


「あきらめるわけ、ないです……」

 渇いた喉から声を絞り出した。

「だってわたくし……怖くありませんから」

「なんや、て?」

 いぶかしげに眉根を寄せる有砂を、日向子はもう一度真っ直ぐ見つめた。

 恐怖に脅えた眼差しなどではなく、強い意志を湛えた瞳で。



「お友達を抱き枕にしなければ眠れないような甘えん坊さんなんて、わたくしはちっとも怖くなんかありません」



「っ……な」

 有砂の顔に明らかに動揺が走った。
 思わず緩んだ戒めから手首をすり抜けさせ、日向子は自由になった右手を大きく振りかざす。

 パン、と小気味良い音を立て、日向子の右手が有砂の左頬を、打った。

「つっ……」

 打たれた頬を押さえて、有砂は覆い被さっていた身体を日向子から離した。

 日向子もまた、解放された身体を起こし、ベッドの上に品良く正座で座った。

「有砂様、ご自分の手でご自身を貶めるような真似はおやめ下さい」

「……なんや、今度は説教か」

 頬を押さえて視線を明後日の方向に逃がしている有砂。

「いいからちゃんとこちらを見て、わたくしの話を聞いて下さい」

 日向子の有無を言わさぬ強い口調に、有砂は微かに怯んでいるように見えた。

 いつの間にか形勢は逆転していた。


「有砂様にはご自分を労る義務がありますわ」

「なんや……義務って」

「何故なら、そんな有砂様を大切に思う人がたくさんいるからです。
蝉様たちheliodorのメンバーの皆様、ファンの皆様、それにわたくしとて……有砂様が傷つくことを望みません。心の傷でも、身体の傷でも。
そしてわたくしたちはあなた様を傷付ける者を断じて許しません。それが、有砂様ご自身だったとしてもですわ」

 無言のまま、まだ頬を押さえている有砂に、日向子はにっこりと微笑む。

「……乱暴なことを致しまして、申し訳ありませんでした」

 有砂は目を半眼して、溜め息をついた。

「……それをお嬢が言うのは何か逆な気がする……」

「まあ……そういえば、そうですわね」

 何か感心したように頷く日向子を見やりながら、有砂は額に手を押し当てた。

「……かなんわ……」

「はい……?」

「……ホンマのアホには勝たれへん」

 有砂は、まるで身体の奥に蓄積されたものを全て吐き出すかのように、更に深く深く息をついて、そして、苦笑を浮かべた。


「……悪かった。オレの負けや」


 有砂は、なんだかきょとんとしている日向子に、手で「もっと端に寄れ」と合図した。
 日向子は素直にセミダブルのベッドの上を壁側に滑るように移動した。

 日向子が移動し終わると、有砂はおもむろに、空いたスペースに身体を横たえた。

「……なんや疲れたわ……」

 うつ伏せになってボソリと呟く有砂を、正座した姿勢のまま、日向子は見つめた。

 そして、何故かそっと伏している有砂の、まだ半乾きの髪を、撫でた。

「……何しとん」

「いえ、なんとなく」

「……意味わからん。なんや、眠気がくる……」

「では、おやすみ下さい」

「……なあ」

「はい」

「……蝉からどこまで聞いた?」

「……」

「……まあ、ええわ。あの件をバラしよったゆーだけで十分や……あいつ、極刑やな……」

 表情の読めない姿勢で、なかなか不穏当なことを口走る有砂に、蝉のこれからを少し心配しながら、日向子もようやく一息ついた。
 安堵した途端、思わずこみ上げてきた欠伸を押さえきれず、日向子は、目をこすった……。













「あ……あ……あぁぁぁぁっ!!!」

 まるで断末魔のような恐ろしい悲鳴という、効果覿面な目覚ましアラームで、日向子はぱちっと目を開けた。

「……あら? わたくし、いつの間に」

 ゆっくりベッドから身体を起こすと、寝室の入り口に見知った顔を見つけた。

「まあ……蝉様、おはようございます……」


「お……お……おはよう、じゃないからっ!!」

「はい?」

「何この状況!?」

 蝉はしゃがみこんでオレンジの頭を抱え込み、ふるふる震える。

「なんでよっちんのベッドで二人で寝てんの!? ……しかもよっちんってば半裸だしぃ!?
……うそだぁぁぁ……」
「あの蝉様、まだ有砂様、眠っていらっしゃいますので。お静かに」

 常識然とした日向子の注意に、蝉はぴたっと黙った。

 それから小声に改めて再び口を開いた。

「こんな騒いでも起きないか……眠りの浅いよっちんには珍しいかも」

 二人は、ベッドに横向きに身体を投げ出して、無防備な寝顔を晒している有砂を覗き込んだ。

 規則正しい寝息から、有砂が安らかな眠りの中にあることは明らかだった。

「……日向子ちゃんの隣だと安心できんのかな」

「え……?」

「……そ、それともそんなに疲れて、ぐっすり寝ちゃうほどすごいことしちゃったの? キミたち」

 再びふるふる震える蝉を不思議そうに見つめながら、若干寝惚けた口調で日向子は言った。

「ちょっと痛かったし、ちょっと怖かったですけど……やっぱり有砂様は優しかったです」


 そうして、近所迷惑な悲鳴が再び辺りに響き渡ったのだった。
















《つづく》
「……というわけだケド、一応この件は玄鳥には内緒ってコトで!」

「そうだよね。玄鳥には絶対聞かせられないね……」

 蝉の言葉に万楼はしきりに首を上下し、紅朱はしばらく考えた後、しれっと呟いた。


「まあ確かに……綾は真面目だからキレるかもしれないよな」


 蝉と万楼は同時に紅朱をちらっと見て、顔を見合わせ、ひそひそ声で話し出した。

「マジだよ、この人……まだ玄鳥の気持ち気付いてない」

「あれで気付かないのリーダーとお姉さんくらいだよねぇ?」

「兄としてどーなんだろ、それ……」

「リーダーらしいと言えばリーダーらしいけど」


「なんだよ、何こそこそ喋ってんだよ。感じわりィぞ。俺も蚊帳の外か?」

 少々苛立った様子の紅朱を振り返り、二人は綺麗にハモって言った。


「ないしょ」










《第2章 悪夢が眠るまで -solitude-》【5】










「そう……辞めるのね」

「ええ……元々契約は3年やし、潮時やと思いますんで」

「モデルの仕事は楽しくなかったかしら」

「……普通、かな」

「最高に可愛くない感想ね」

 カップとソーサーがぶつかる、硬質な音が響き渡った。

「じゃあ……わたしは? 楽しくなかった?」

 テーブルに肘をついて顎を乗せた薔子は、上目で有砂の涼しげな顔を見た。

「楽しくなくはないですけど……」

 有砂はにこりともせずに答える。

「毎回毎回、最中に名前間違われるんは、流石に興冷めですね……」

 薔子は目をすがめた。

「構わないと言ったのはあなたじゃなかった?」

「……」

「いいわ。追いすがるとか趣味じゃないの。終わりにしてあげる」

 華やかな赤い唇に、どこか哀しげな笑みが浮かぶ。

「もう会うこともないかもしれないわね……わたしはあなたの『お義母さん』ですらなくなるんだから」

 ネイルで彩られた左手の薬指には、リングがない。

「今度のママは、あなたより年下だそうよ。良かったわね、若いママができて……」

 有砂は何も言わない。

「所詮わたしは、もう何年も前から名ばかりの女王だったわ……あなた、わたしをずっと憐れんでいたでしょう?
初めて会った時からずっとそんな目をしてたから、生意気で、許せないと思ってた。
だから汚してやろうと思ったのに、無駄だったみたい……当然よね。
赤く塗り潰しても白薔薇は白薔薇でしかないんだから……」

 紫色の瞳から溢れた雫が、カップの水面に波紋を生じる。

「……お別れを言う前に謝っておくことがあるわ。
黙っていてごめんなさい……知らなかったでしょうけど、この数年間、あなた宛に何度か手紙をよこしてきたのよ……有砂ちゃん」

 初めて有砂の顔にわずかな動揺が走った。

「……有砂が……?」

「全部、あの人が封も開けずに握り潰してたから、何が書いてあったのかも知らない。
……だけど、きっとあなたに会いたかっ」

「やめてくれ」

 有砂はきゅっと目を閉じて頭を横に振った。

「……期待したくない……それ以上は聞きたないです……」

「中学生の頃の……本当のおかあさまとのこと、引きずっているのね」

「……」

「確かに……あなたが本格的に心を閉ざしたのはあれからだったものね」

 どこか息苦しそうな顔で、有砂は視線を足元に落とした。

「……有砂のことはもうええ。会わないつもりです……もう永遠に」

「……あなたが『有砂』と名乗るのは、決別の証?
トラウマになっている名前を自ら名乗ることで、乗り越えたいの?」

「……そうです」

「そうね……決めるのはあなただと思う。だけど」

 薔子は組んだ手に乗せていた顎を引いて、姿勢を正した。

「……これが本当に最後。義母親らしいこと、ひとつだけ言うわ」

 涙で化粧が少し崩れた顔に、これまで有砂が見たことのないような優しい笑みが浮かぶ。

「いつまでも悪い夢に逃げ込んでいてはダメ。
あなたは幸せにならなくてはいけない人よ。
独りでは難しいなら……誰かを頼ったっていいんだから、ね」

 しばしの沈黙の後、有砂はゆっくり立ち上がって、薔子の横を通り過ぎて行った。

 薔子は振り返らない。

 ドアを開けると、すぐ目の前に日向子が立っていた。

 心配そうに有砂の顔を覗き込む仕草に、悪夢の中に置き去りにしていた幼い面影が重なって見えた。

 有砂はまた一度きつく目を閉じて、部屋の中で、きっとまだ泣いている一人の女性に最後の言葉をかけた。



「……ありがとう。かあさん」












「でもなんだか惜しい気が致しますわ」

「……何が」

「モデルをなさっている有砂様も、なんだかいつもとは違った雰囲気でとても素敵でいらっしゃいましたもの。
わたくしも思わず見とれてしまいましたし」

 サイドシートでにこにこしている日向子を横目で見て、有砂は呆れたように言った。

「ジブン、深く考えずに、誰にでもそういうこと言うクチやろう」

「まあ、そのようなことはないと思いますけれど」

「いや、無意識にゆーてる筈やで」

 有砂の指摘は的確なものだったが、日向子には驚くほど自覚がなかった。

「まあ……オレは別にかまへんけどな。そういう発言を一々真に受けて舞い上がるアホもおるから、気ぃつけや」

 日向子は相変わらず要領を得ないようなぽやんとした顔をしていたが、

「……でもわたくし、本当に有砂様は素敵だと思いますわ。
お背が高くていらっしゃって、スタイルがおよろしいから何を着てもお似合いですもの。
雰囲気も大人っぽくて落ち着いていらっしゃるし、話し方も静かで知的な感じが致しますわ。
それにステージでドラムを叩いていらっしゃる時など、本当に……」

「あーっ、だからそれをやめ、ゆーてるんやろ!」

「でもわたくしは……」

 有砂が手の甲でダン、とウインドウを叩くと、日向子は流石にびっくりして止まった。

「……では、自粛致しますわ……」

 隣で目をぱちぱちさせる日向子の耳に届かないような小声、有砂は、溜め息まじりで呟いた。



「……舞い上がらす気ぃか。アホ」















「そっかそっか、じゃあ原稿はなんとか間に合いそうなんだね」

「はい、蝉様へのインタビューは次回に持ち越しになってしまいそうですけれど」

 いつものカフェから、編集部オフィスまでの帰り道、日向子は美々にここまでの取材の報告をしていた。

「いいんじゃない? リズム隊好きのドーリィは熱狂的なの多いし」

「どーりぃ? とはなんですの?」

 日向子の知らない単語だった。

「heliodorのファンは自分たちのことをそう呼ぶんだよ。別にメンバーが認定したわけじゃないけど定着してるみたい」

「そうでしたの。美々お姉さまは本当に、heliodorのことをよくご存じですのね??」

「んー……別にそういうわけでもないんだけどね。実はライブだって行ったことないし」

「まあ、では今度のライブには是非ご一緒致しましょう!?」

「え~? いいよ、あたしは。最近またかなり忙しいしさ」

 苦笑して手をひらつかせる美々に日向子は残念そうに肩を落とした。

「残念ですわ……」

「うん。ごめんね~」

 そんなことを話しながらふと、二人は向こうからやってきた同じく二人組の若い男とすれ違いかけた。


「……あれ? 井上!?」

 男の一人が立ち止まり、もう一人も遅れて立ち止まる。

 続いて美々と日向子も立ち止まり、そちらを振り返る。

 グレーのニット帽の男は、嬉しそうに美々に話しかける。

「ほら、高校ん時一緒だった田村だよ! わかんねぇかな?」

「田村……ってあの田村!? やばい、超久々じゃん! 元気!?」

 どうやら高校時代の同級生の偶然の再会だったらしい。
 日向子は楽しげな美々の姿を嬉しそうに見ていた。

「……ってことだからさ、忙しくても、もっと同窓会とか顔出せよな?」

「はいはい。わかったよ。じゃあね~、元気でね」

「おう。またな~!」

 ハイテンションな長くはない立ち話が終わって、田村というらしい青年とその連れは去って行った。

「ごめん、待たせちゃって」

「いいえ、大丈夫ですわ。では編集部に戻りましょうか?」


 また歩き出した日向子たちの遥か後方で、田村はまだ興奮さめやらぬ様子で連れと話していた。

「まさかこんなとこで会うとは思わなかったなぁ」

「あの子か~、お前が高校時代に告って玉砕した、クラス一番の美人って」

「そうそう、かなりイケてたろ!?」

「ま、確かに綺麗だよなぁ」

「同窓会来てくれたらオレまた狙っちゃおっかなぁ……マジでいい女だよなぁ……井上、有砂……!!」













「皆さん……俺に何か隠してませんか?」
 
 玄鳥が思いきって口を開くと、めいめいに鳴らしていた音が一瞬ぷつんと止んで、また鳴り出した。

「兄貴?」

「さぁな……なんのことだかわかんねェな」

「蝉さん?」

「えっ? 何? 何言っちゃってんの? おれたち仲間じゃん! 隠し事なんかあるわけないない♪」

「……万楼?」

「聞こえなーい、ボク、ベースの音でなんにも聞こえなーい」


「……有砂さん?」

 玄鳥が最後の一人を振り返ると、練習中にも関わらず何やら薄っぺらい雑誌をめくっていた。

「……って、何サボってるんですか!」

「しゃあないやろ、こっちは緊急に新しい仕事探さなあかんねんから」

「新しい仕事……?」

 よく見れば、有砂がめくっているのはバイト求人情報のフリーペーパーだった。

「……有砂さん、モデルの仕事辞めちゃったんですか?」

「……辞めた。契約分はちゃんと働いたからな」

 最後までめくり終わったフリーペーパーを投げ捨てて、有砂は欠伸をした。

「今更、時給何百円で働くのもなんやアホらしいな……」

 時給何百円で絶賛労働中のメンバーたちは一斉に睨んだが、有砂は我関せずで呟く。

「……やっぱりあの件、お嬢に本気で頼んでみるか……」

「あの件?」

 反芻する玄鳥。
 有砂はスティックを握りながら、こともなげに言う。

「今のヤツよりかは口やかましくなくて、お嬢の仕事に理解のある運転手を雇う気はないか……って」

「ちょっ……有砂さっ」


「絶っっっ対ダメーーっ!!!」


 玄鳥の声を遮って、蝉が絶叫した。

「そんなのおれは認めないぞっっっ!!」


「……リーダー、なんで蝉が取り乱すの?」

「俺が知るか」


 ドラムセットに駆け寄って飛び付くようにして蝉は騒ぎ立てる。

「そんなこと冗談でも絶対言っちゃっダメだよっ! よっちん!! あの子うっかり快諾しかねないからっ!!」

「……へえ、そうなんや。ならホンマ頼んでみるか」

「よっちん……!!」

 有砂はさながら威嚇するかのように、左手でシャン、とクラッシュライドを鳴らした。

「……口は災いの元。きっちり報復させてもらうで……抱き枕くん」


「あ」

 有砂の身の毛がよだつほど不敵な笑みに、蝉は茫然自失となって凍りつくしかなかった。












《第3章につづく》
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