火を止めた。
温め直した鍋から、ごく少量をすくって、小さな皿に移す。
皿を唇に寄せて、軽く息を吹きかけたあとで口をつけた。
作ったばかりの時より熟成されて旨味の増したカレーを神妙な面持ちで味わった万楼は、皿をガステーブルの縁に置いて、おもむろに額に手を押し当てた。
「……やっぱり、知ってる……」
きつく目を閉じる。
見えないものを求めるように。
「……ボク……これと似たの……食べたことある……」
《第1章 人魚の足跡 -missing-》【5】
「でもさ、いくらなんでも少し作り過ぎたんじゃない? あのカレー」
「一度カレーを作ったら三日間は食べ繋ぐのが独り暮らしのセオリーというものですわよ。最終日はカレーうどんですわ」
「……お姉さん、時々お嬢様らしからぬ発言するよね」
「ええ、そのような『キャラで売って』おりますのよ。ふふ」
「はは」
翌日。協力してもらった病院関係者に丁重なお礼をした日向子と万楼は、院内の小さなカフェで少しお茶することにした。
ピンクがかった白金の髪の美少年と、物腰優雅な金に近い茶髪のお嬢様の取り合わせは病院という建物の中では取り分け異色であり、色々な意味で周囲の目を集めていた。
「この病院は大きくて色々な設備があって、内装も立派だな。高松でボクが入院してたところはもっと小さくて古い病院だった」
――気分は悪くないかい?
――うん……ぼーっとしてる、かな
――自分の名前は言えるかい?
――響、平……能登 響平(ノト・キョウヘイ)……
――響平くん、君は大変な事故に遭って、丸5日意識が戻らなかったんだ。もうしばらく静養は必要になるけど、心配はいらないよ
――……そう、5日も……寝てたんだ……もったいなかったな……
――ははは、早く元気にならないとね
――うん……早く帰らないとな。万楼が心配するし……
――万楼? 友達かな。それとも響平くんの彼女かい?
――万楼は……
――万楼は?
――……万楼は……
――……響平くん?
――……万楼……って、誰……だっけ……? わからない……ぼーっとする……なんでかな……
――目覚めたばかりで混乱しているのかもしれない
もう少し休もうね
――……なんで……? 思い出せない。忘れちゃいけないのに……万楼……
「あの時の心細さは……言葉に出来ないな」
「万楼様……」
ホットココアを飲みながら、万楼は苦笑する。
「あまりにも思い出せないと、だんだん思い出すのが怖くなったりして……思い出さないほうがいいから思い出せないんじゃないかとか、思うこともある。
僅かな記憶を頼りに上京して、heliodorで弾くようになってからは尚更だね」
唇についた生クリームをぺろりと舐め取る。
「本当は……記憶が戻らなければ、ボクはずっとここにいられるのかな……って思ったりもしたんだ」
恐らく今まで誰にも話したことなどないだろう、万楼の本音。
日向子は胸の奥を締め付けられたような気がして、レモンティーの赤い水面に視線を落とした。
「……だけど、昨日リーダーの気持ちを聞けて……それに、お姉さんに『胸を張ればいい』って言われて、今は少し考え方が変わったんだ」
日向子はゆっくりと視線を上げた。
万楼は大きな瞳を少し細めて日向子をじっと見ていた。
その表情はどこか今までより大人びて見え、日向子は一瞬ドキッとしてしまった。
「ボクは絶対に記憶を取り戻す。万楼が本当に粋さんなら、必ず見つける……だって、みんなの思い出の中の粋さんには絶対に勝てないからね」
「……譲らない、おつもりなのですか?」
「うん……ボクは頑張って粋さんよりスゴいベーシストになる。負けたくないって心から思うよ」
決意を語る言葉には、迷いも悲壮感ない。
間違いなく彼は、一つの壁を乗り越えたのだ。
「……格好良いですわ、万楼様」
心の底からそう評した日向子の笑顔に、万楼は一瞬目を見開いて、伏せた。
「……少しわかった。玄鳥の気持ち」
「はい?」
「独り言だから気にしないで……それより、今日の練習見に来るの?」
「はい、お邪魔させて頂く予定ですわ」
「今日は新曲の練習だよ。半年前くらいからあったんだけど、紅朱の詞がなかなかつかなくて眠ってた曲があるんだ」
「まあ、詞が出来たのですね?」
「うん。今朝ね。曲名は確か……」
「《spicy seven》」
イントロからダークな印象の妖艷なベースフレーズと、メロディアスなギターが中心となる、heliodorが得意とするタイプのミディアムチューン。
それは万楼加入後のheliodorのスタイルを象徴するようなサウンドだった。
《限りなく 凶悪な挑発
召し上がれ 錆色のプリズム
自業自得の 憐れな末路は
犬も食わない カタルシス
誘惑は今宵 致死量
口移し 緋色のポイズン
罪の意識が 稀薄な君を
責められないまま 最終章
罠は巧妙 手口は簡潔
引き金は 不用意な一言
オチたが 煉獄
灼熱の spicy seven
灰になったこの僕に
君の涙は 遅すぎた》
「新曲も素敵な曲でしたわ」
練習が一段落すると、日向子は少し興奮したようにメンバーたちに歩み寄った。
「玄鳥様が作曲を?」
問われた玄鳥は少し残念そうに首を左右した。
「あいつの曲ですよ」
と目線で自分の右側を示した。
「そう、ボクの曲。気に入ってくれてよかった!」
万楼がにこにこしながら駆け寄る。
「もう日の目を見ないかと思ってたんだけどね」
「悪かったな」
椅子に半ばふんぞり返るような姿勢で足を組み、ペットボトルのコーラを飲みながら、紅朱が口を開く。
「ずっと詞が浮かばなかったんだからしょうがねェだろ」
「でも無事に完成されましたわね……何かきっかけになることでも?」
真面目に問掛けた日向子を、紅朱はニヤっと笑いながら見やった。
「わかんねェのか? めでたい奴だな……なあ、綾?」
話を振られた玄鳥は何故か微かに頬を赤く染めて視線を逃がした。
「日向子さんは気付かなくていいです。……まったく、兄貴の悪ふざけは毎回質が悪いんだから……」
日向子が「spicy seven」の意味するところがあの調味料であることに気付くには、まだまだ時間がかかりそうだった。
「リーダー、ボクにもあとで教えて!」
「例のヤツを完全消去するなら教えてやってもいいぞ」
「それなら別にいいや」
「あ、てめェ」
「『大切じゃないわけねェだろ……!!』のほうが大事だから」
「一々言うなっつーの!!」
「まあ、すっかりお二人もらぶらぶですわね」
「はァ!?」
「兄貴、それはあんまり気にしないでほうが……」
フロントチームと日向子は集団コントの様相となってきていたが、一方でうるさいほどにぎやかなその様子を外側から見守る者も二人もいた。
「……なんかさぁ、新密度上がりまくってんだケド……」
「……そのようやな」
「玄鳥は完璧持ってかれてるし、万楼もすっかり懐いちゃって……」
「……オレとしてはむしろ……あの紅朱が、特定の女をイメージした詞を書いたことのほうが驚きやけどな」
蝉ははっとしたように有砂を見た。
「……そっか……こんなこと、この3年間一度も……」
そして、視線を戻した。
日向子の楽しそうな笑顔と、何かムキになってがなっている紅朱の顔が視界に入る。
蝉は唇を、噛んだ。
ポロン。
澄んだ鍵盤の音が、不意に響いた。
楔を打ち込まれたように会話が途絶え、全員が音のほうを振り返る。
「日向子ちゃん」
蝉は、振り返り様の日向子に名を呼び掛けた。
「はい?」
「……今日、一緒に帰ろうよ」
「え……わたくしと、蝉様がですか……?」
あまにりも思いがけない提案だった。
蝉は人懐っこい気さくで明るい笑みを浮かべる。
「オレのバイクで送ったげる♪ ……たまには新鮮じゃない?」
日向子はややあってから、
「あ、はい。ありがとうございます」
と素直に返事をした。
蝉は満足そうに大きく頷く。
「じゃ、ヨロシクね☆」
その一部始終を冷めた目で見ていた有砂は、我関せずといった様子で欠伸を噛み殺していた。
「これがおれの愛車。どぉどぉ? カッコよくない?」
新しくはないが隅々まで手入れの行き届いた、鮮やかなメタリックブルーのネイキッド。
日向子はそれを珍しそうに見つめた。
「わたくし、バイクに乗せて頂くのは初めてですわ」
「マジで~? じゃあ遠慮なく日向子ちゃんの初めてもらっちゃおっと」
蝉はどうやら用意してあったらしい、ライトグレーのフルフェイスのメットをそっと日向子に被せた。
「まあ、なんだかドキドキしてしまいますわ」
そわそわする日向子をしばし見つめていた蝉は、
「あのさ」
やがて、改まった口調で話し始めた。
「……万楼と紅朱のこと、サンキュ。二人が歩み寄るきっかけになってくれてマジで助かった」
「蝉様……」
「紅朱はさ、なかなか万楼を受け入れてやれなかったんだよ……自分でもどうしていいか、多分わかんなかったんだと思う」
メットに遮られてはっきりわからない日向子の表情。
蝉は、それでも真っ直ぐ見つめながら告げた。
「今でも紅朱は粋だけを、愛してるから。一人の女の子として」
「……紅朱様……が?」
「あいつら、付き合ってたんだよ。少なくとも紅朱は本気だった」
息を継ぐ間もなく続ける。
「だから今でも粋に帰って来てほしいと思ってるし……粋が知らない街で他の男と一緒に暮らしてたかも、なんて言われたらぶっちゃけそりゃ悔しいわけ。
万楼に対して複雑な気持ちを持つのは当然じゃん?」
日向子は無言のまま、メットごと頭を上下した。
「今回のことで万楼については多少ふっきれたカンジなのかもだケド、でも、紅朱はこれからもきっと、粋を想い続ける……だから」
「日向子ちゃんは、紅朱を好きになっちゃダメだよ」
「じゃあな、お疲れ」
一晩中作詞に集中していた紅朱は流石に眠そうに見えた。
「あんまり無理しないでね。リーダー一人の身体じゃないんだから!」
「……キショいっつーの」
大して迫力のない睨みを残して紅朱は、スタジオを出て行った。
万楼はそれを目で追った後、ふーっと息を吐いた。
「……蝉とお姉さんはどうしたかな」
「……どう、もしないだろ……別に」
玄鳥が恐ろしいまでのローテンションで手荷物をまとめながら呟く。
「家まで送るだけ……家まで送るだけ……」
「……家まで送ってもらったら『お礼に中でお茶でもいかがですか?』ぐらいは言いそうやけどな」
「うっ」
「……お疲れさん」
相変わらず淡々と言いたいことだけ言ったきり、有砂も年少二人を残して去って行った。
玄鳥は、十分想像できるその展開に戦々恐々としていたが、万楼は平然と微笑すら浮かべる。
「大丈夫だと思うな、蝉ってそういうところ真面目だし」
「……確かに。有砂さんの車に連れこまれるよりは遥かに安全かもな」
「……次、有砂なんだよね。個人取材」
「……心配だ」
頭を抱えてぼやく玄鳥。
万楼も頷く。
「きっと驚くだろうな。想像してるよりずっと手強い相手だから」
「日向子さんをあんまり困らせないといいけどな」
「え? 違うよ。何言ってるの? 玄鳥」
「え?」
「ボクは有砂のほうを言ったんだ」
《第二章につづく》
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