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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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「ねえ。100円、頂戴」

 なれなれしく肩を叩いてきた赤の他人。

「100円足りないんだ」

 その赤の他人からのぶしつけな要求が、

「……100円?」

 問答無用に黙殺されずに済んだのは、

「うん。412円と、あとはもうおっきいのしかないんだ」

 単純に彼の笑顔が、可愛かったからだ。

「100円玉、キミは持っていないかな」

 その笑顔に捕まった、彼女は重たくマスカラを重ねた睫毛を一瞬しばたかせた。

「え……えっと」

 彼女がポケットに押し込んだコインケースの中身を思い出すよりも早く、


「はい100円!!」


 前後左右から銀色のコインを乗せた掌が彼の前に差し出された。
 合計四枚。

 その持ち主たちはみんな「美少年と仲良くなる突然の大チャンス」に目がぎらついている。

「はは、東京の女の子ってみんな優しいんだな」

 その美少年は、いよいよ嬉しそうに顔をほころばせた。

「どうもありがとう」

 4枚の100円玉を、集めて握り締める。

 そこにもう一枚、100円玉が差し出された。
 肩を叩かれた彼女だった。

「よ、よかったら……」

 美少年はそれも遠慮なく受け取ると、他の四枚と合わせてぎゅっと握った。

「やった。ドリンク代、浮いた」

 「円」で「縁」を買った女の子たちは、さっと彼を取り囲んだ。

「ねえねえ、《東京の》、ってことはお兄さん遠征組?? このイベ」

「どのバンド見に来たの? あたしはねぇ、3ば」

「そのチケ、Bチケ? 前のほう場所とっといてあげるから一緒に見ない? 上手側のほ」

「ねえねえ、せっかくだからメアド交換しな~い? 赤外せ」

「あの、あたし、リサ。あなたは?」


 聖徳太子のアビリティは身に付けていない美少年は、唯一聞き取れた最後の質問にだけ、ゆっくりと、答えた。質問者は、最初の少女だった。

「ボクの、名前? ……万楼(マロウ)、って呼んで」




#1・【万楼 ―2006・春―】






「あれ、帰るの? リサ」

「ううん。目当てのバンド終わったから、残りは後ろで見ようかなって」

「そうなんだ」

「……万楼、ライブハウスってあんまり慣れてない?」

「初めてなんだ」

 開場時間まで万楼を質問ぜめにしていた「バンギャ」たちは、前方の似たような集団の中にめいめいに潜り込んで、もう薄闇の中でなくても見分けがつきそうになかった。

 一方。機材の入れ換えを行う暗転したステージを、壁に寄りかかりながら見つめる万楼の、中性的で整った横顔は、すれ違う人をいつも少し振り向かせた。

 リサは少しだけ得意気に、そんな万楼の隣に立った。

「高松から来たって言ってたよね」

「うん。飛行機で」

「万楼はリッチだね。あたしは金沢から。高速バスの夜行で」

「遠征、っていうんだっけ」

「うん。当たり前みたいにうちらは使うけど、改めて言われるとなんか仰々しい言葉だよね」

「カッコいいと思うよ」

 万楼はそう言って、サラサラした直毛の髪をサイドかき上げる。
 長い前髪の隙間からのぞく大きな瞳は、正面からではきっと直視できないほど眩く煌めく。

「ねえところで、携帯、ホントに持ってないの?」

「持ってないんだ。携帯もパソコンも」

「不便じゃないの?」

「なぜ? 昔はそんなものなかったのに、みんな平気だったよ」

「……万楼って、だいぶ変わってるね」

「そうかな」

「うん。変」

「変かぁ」


 リサの言いようにも特に気を悪くするでもなく、万楼は、

「リサは東京のバンド、詳しいのかな」

 ふと話題を変えてきた。

「《heliodor(ヘリオドール)》っていうバンド、知ってる?」

「ヘリオドール?」

 シャン、とステージの上でセッティング中のシンバルが鳴った。

「ボクは本当はそのバンドを探しているんだ。だけど」

 万楼の大きな瞳が微かに揺れた。

「ずっと前に活動休止して、行方がわからないって言われたんだ」

 溜め息を吐いて、一瞬、唇を噛む。
 彼が初めて見せたうかない表情だった。

「だけど、今日のイベントに出るバンドの、サポートギターの人が、heliodorのメンバーによく似てるから見てみたら?って言われたから」

「紅朱(コウシュ)に、似てるんだよね」

「知ってるの?」

「heliodorは、有名だからね。人気あったし」

「紅朱って人が、ギタリスト?」

「紅朱はボーカルだよ。ギタボ。でも」

 リサはなぜか申し訳なさそうに声をひそめた。

「私は事故に遭って死んだって聞いたけど」

「……」

 万楼はリサを振り返り、緩慢な動きで首を左右した。

「それは、困る」

「困るって言われても……あ」

「どうしたの?」

「多分、あの人がそうだよ。サポートギターの人。確かに顔は紅朱そっくりだから、ネットでも話題になってる」

 リサはステージの上手を指差した。
 なんとはなしに、オーディエンスにも波のようなどよめきがあったようだった。

 ギターのチューニングをしているのは、20代前半くらいの細身の青年だった。
 黒と思われる短い髪に、一部白いメッシュを入れている。
 他のメンバーと同じようなカジュアルな黒いジャケットを羽織っていた。

「ペンギンみたいだ」

 万楼がボソッと評した。

「ペンギンって……」



 ほどなくしてステージを照明が照らし出し、人の塊がだっと前方に押し寄せる。SEと黄色い歓声がフェードインし、そしてアウトした。


 鳴り出した演奏の音に負けないように万楼は少し声のトーンをあげる。

「紅朱って人とは本当に違うの?」


「……違うと思う」

「どうして?」

「紅朱より、ずっと巧いから」










「全っ然動かない」

「終演後のドリンクカウンターは混むからね」

「覚えておくよ」

 ドリンクチケットを指先でもてあそびながら、万楼は小さく笑った。
 一方通行の人波に揉まれながら、渋滞するロビーで立ち往生する二人は、やはりなんとなく注目を集めている気がした。

「リサ、あのペンギンさんと話をするにはどうしたらいいのかな?」

「う~ん……噂だと《待ち》しても、ほとんどスルーらしいからね」

「話せないの?」

「難しいかな。でも、万楼は男の子だし、警戒されにくいから、少しくらいなら聞いてくれるかもしれないよ」

「本当に!?」

 久々に明るい表情に戻った万楼に、リサも笑った。そしてそっと手を差しのべた。

「ドリンクチケット、貸して。私が引き換えるから、万楼は先に行って待ってなよ。このハコなら多分、正面に向かって右奥の入り口からメンが出入りする筈だから、そこにいるといいんじゃないかな」

「いいの?」

「ペンギンさんと話せるといいね」

「ありがとう……!!」

 お互いに今日一番の笑顔を浮かべた。

 万楼からリサへ、ラミ加工された小さなチケットが渡される。

「メロンソーダにして」

「OK」










「お疲れ、玄鳥(クロト)」

「お疲れ様です。今日はありがとうございました」

 右手に持ったプラスチックカップに入ったビールが傾いて、危うく溢れそうなくらい深く一礼する。

「勉強させてもらいました」

「何言ってんだ、こっちはお前に食われないかハラハラもんだったぜ」

「そんな」

「だな。お前はちゃんと自分の存在感を演出しながら、メインを引き立てるコツを得てる。大したギタリストだよ」

「……褒め過ぎですって」

 いきなり手放しに称賛されて、玄鳥と呼ばれた青年は照れ臭そうに白メッシュの頭をかいた。

「……なんだか、紅朱が照れてるみたいでキモイな」

「……」

 それに関してはノーコメントで、玄鳥はビールを口に運んだ。

「なあ、玄鳥」

 同じようにビールをあおりながら、つい先刻同じステージに上がったボーカリストは、少し改まった声で問うた。

「heliodorはまだ動かないのか?」

 玄鳥は吊り気味のアーモンド型の眼をすがめた。

「まだです。肝心のベースが……」

「やっぱり、《粋(スイ)》ほどのベーシストの代わりが務まる人間はそうはいないか」

「ええ……特に、有砂(アリサ)さんがなかなか納得してくれなくて。みんな、毎日日本中を飛び回ってますよ。オレもそうするべきなのかもしれないけど、それより今はこうやって少しでも経験を積みたいと思ってます……オレは兄貴の右腕ですから」

「そう、か」

 残念そうに嘆息する先輩ミュージシャンに、玄鳥はカップを握る手に少し力を込めた。







 人々は暗黒の空を見上げ、ひざまずいて待望する。

 再びこの空に太陽が昇ることを。







「ペンギンさん!」

 玄鳥が思わず振り返ってしまったのは、あまりにも呼ばれ慣れない名前だったからだろう。

 すぐ側で誰かが吹き出したのがわかった。

「あの……オレ?」

「ペンギンさん、ペンギンさん」

 「ペンギンさん」を連呼するとびきりの美少年に唖然としつつも、玄鳥はコホンとベタな咳払いをした。

「あの、オレはペンギンさんじゃ……」

「ペンギンさんは、本当は紅朱さんって人なの?」

 直球な問掛けをぶつける美少年は、妙に真剣な顔付きだった。

「ボクは万楼。heliodorでベースを弾くために高松から来たんだよ」

「え……? 君は」

「ある人に、頼まれたんだ。だから……」

 「heliodor」の名前を出したことで、ただでも目立っていた二人は一気に周囲の視線を集めていた。
 それを察した玄鳥は、とっさに万楼の手首を掴んで引き寄せた。

「君、とりあえず一緒に来て……話を聞くから」










「その人なら、例の紅朱のソックリさんとどっかに行っちゃいましたよ。私もおっかけたんだけど、撒かれちゃった~」

「そう……ですか」


 リサは両手にプラスチックのコップを持ったまま、人もまばらになり始めた搬入口に立ち尽くしていた。

「万楼……ペンギンさんと話せたのかな……」


 もう一度会ってメロンソーダを渡せなかったのは残念だったが、リサには不思議な予感があった。

 万楼にはいつかまた会える気がする。そしてその時彼は、もしかしたら「向こう側」かもしれないと。

 どうしてそう思うかと聞かれれば、それは「バンギャの勘」というやつだろうか。

 カップの中でたゆたう、透き通った鮮やかな緑の液体を、迷った挙句口に持っていった。

「……少なくとも、二割はあたしのだし」

 






 潮騒の街からやってきたその少年こそが、最後の欠片だった。

 一度は完成し、そしてあっけなく瓦解してしまった「太陽の国」を再び形造るための……。


 明けない夜はない。
 朝日はもうすぐ、世界を照らす。










《END》
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「綾(アヤ)くん」

 ドライバーシートからのけだるい声がそっと沈黙を破る。

「……ガム、取ってくれへん? グローブ・ボックスん中」

「あ、はい」

 少し頭を低くして、目の前の取っ手を引いた。

 中を覗き込んで、

「……」

 閉めた。

「……綾くん、ガム……」

「……なかった、です」

「……ホンマに?」

「……なかったです!」

「……もっと、よう探してや。ガムないとオレ、あと15秒で寝るから」

「……」

 抑揚のない脅迫を受けて、やむなくもう一度グローブボックスを開けた綾は、さっき見たものが幻でないことを実感した。

 なんでここに、こんなものが……?

「綾くん、早く」

「……はあ」

 綾は心を決めてグローブボックスに手をつっこみ、サラリとした手触りのピンク色の布切れを指でつまんでどかした。

 広げて確かめるでもなく、ソレは女性ものの下着だった。

 恐らくは、使用済みの。

 その下から現れたボトル入りのガムを手に取り、蓋を開けてドライバーシートに差し出した。

「サンキュ」

 つまみあげた黒い粒を口に放り込みながら、運転手が呟いた。

「欲しい? それ……」

「いや、オレ、辛いガムはちょっと苦手で」

「そやなくて、ピンクのそれ」

「え」

「……多分忘れ物やけど、どのコのかわからへんから」

 しれっとした口調でそう言われ、綾は体の血がぐっと上に昇るのを感じながら、ガムを再び投げ入れて、すぐさまグローブボックスを閉じた。

「い、いりませんよ」

「……綾くんって……」

 ふっ、と鼻から抜ける笑いを浮かべて、運転手が囁く。

「……チェリー?」








#2・【玄鳥 ―2004・秋―】








「なッ……」

 血の流れは更に加速する。

「あ、有砂(アリサ)さんッ」

「……ま、どっちでもかまへんけど」

 綾は、ウインドウにがくっと頭をもたげた。

 やはり苦手だ。
 この人は。

 ガムをゆっくりと口腔内でもてあそぶ有砂(アリサ)の、少しはだけた首のつけねには、まだ新しい痣が見え隠れしている。

 いけないものを見たかのように、綾は視線を逃がす。

 初めて会った時から、有砂の持つ独特の空気と言動は綾を戸惑わせてばかりいた。


 とりあえず気まずい(と思っているのはおそらく綾のほうだけなのだが)空気を変えるために話を振ってみる。

「あの……有砂さんは、どう思ってるんですか?」

「……何が?」

「兄貴はオレを認めてくれるでしょうか……heliodor(ヘリオドール)の新しいメンバーとして」

「……さあなぁ……オレは紅朱ちゃうから」

「……まあ、そうですけど」

 全くもって糠に釘だ。

 目指す目的地までのドライブのハンドルを握るのが、有砂になってしまったことは今の綾には不運なことだったのだろうか。


「……まあそこはジブンが巧く説得するんやな……あいつは単純やから、なんとでもなるやろ」

 まるで突き放すかのような台詞の後に、

「少なくともオレと蝉(ゼン)からは文句はないで……ジブンのハラがホンマに決まっとんのやったらな」

 続いた言葉は、綾の中で重く響いた。

 有砂の言うことは、正しい。

 これは、けっして中途半端な気持ちで決めてはいけない。
 本当にそれだけの覚悟があるのか。
 暗に有砂は確認しているのだろう。
 

「オレは……」

「……紅朱の気持ちは今九割解散に傾いとる。あの負けず嫌いの強情者が、オレや蝉にまで弱音を吐きよってみっともない……けど、実際はもうヤツは限界までズタズタな筈やで」

 胸をえぐるようなその内容とは裏腹に、有砂の口調は相変わらず淡々としたもので、それでも綾は真剣な顔付きで頭をウインドウに預けたきり、黙って耳を傾けていた。

「何の前ぶれもなく公私ともの大切な『パートナー』に去られた直後に、追い討ちをかけるようなあの『事故』や。あいつの右手は今後もう、長時間の演奏に耐えることはできんねんで? ……そう医者に言われた時の荒れっぷりは尋常やなかった。ギターボーカルゆうスタイルにこだわりを持っとった紅朱にしたら、それは喉が潰れるのと変わらんくらいのはかりしれない痛手やで」

「……兄貴、上京してから初めて向こうからオレに電話を……田舎に、帰るかもって」

 故郷を去っていったあの日とはまるで別人のような、かすれた疲れきった声が、その絶望の深さを物語っていた。
 口調はまだどこかに強がりの色を残してはいたが、そんなものがはったりに過ぎないのは明らかだった。
 少なくとも実弟の綾にわからぬ筈もない。

「……だけどオレは、兄貴にはバンドを続けてほしいと思ってます。たとえもう、ステージでギターを弾くことができないとしても、唄うことは止めないでほしい」

 綾はゆっくりと頭を起こして、決意を込めた口調で告げた。

「きっと、唄うために生まれてきた人だから。必要ならこのオレが、兄貴の右腕になります」

「……それは献身的兄弟愛の自己犠牲なんか?」

 そう鋭く問いつめる有砂の声は、どこかはりつめたものを感じさせた。
 綾は首を横に振る。

「それは、違います……オレが、好きなだけです。兄貴の唄。だからきっと、自分のためです」

 ふっと有砂は微笑を浮かべた。

「そうやゆうたら唄だけなんやってな、あいつが綾くんに勝てるものは」

「えっ……兄貴、なんか言ってました?」

 思わず前傾姿勢になって有砂を見やる。
 有砂は進行方向を見つめたまま、薄い唇に含みのある微笑を浮かべたまんまで、


「オレらは耳がタコんなるくらい聞かされたで。ガキん頃から弟はなんでも自分の真似したがりよって、結局なんでも自分より巧なってた、生意気なやっちゃゆーて」

「ちょっと待って下さい! 違いますよ。それは兄貴が飽きっぽくてすぐ投げ出すからですよ……続けてればもっと上達する筈なのに」

「……どっちの言い分が正しいんかはわからん。どっちも正しいゆーこともあるやろう。けど、少なくともギターのセンスはジブンのがずっと上やな……」

「……そうでしょうか」

「……ん?」

「オレは何をやっても自分が納得できるレベルに達したことなくて、誰に誉められても、どんな賞を貰っても自分に自信なんてもてないし、ギターも同じで、練習しても練習しても漠然と不安で……」

 赤信号でゆっくり停車し、ブレーキのゆるいGが車体に、そしてその中の二人にかかる。

 有砂は相変わらずガムを口の中で音もなく噛み転がしながら、またぼそりと囁く。

「……それは一応世間では《向上心》って呼ばれてるんやけど」

「……向上、心」

「浅川兄弟は揃ってプライドの高い野心家ときた」

「……」

 恐らくは生まれて初めて受けた評価に、綾は一瞬返す言葉を見い出せず、有砂を凝視してしまった。

「……あの、それって」

「……なかなか有望やと思うで、ジブン」

 よくはわからないが、どうやら誉められたらしいとわかり、綾は少し安心したと同時に照れ臭くてたまらなくなった。

 何やらさっきから、赤くなりっぱなしのような気がする。

「なんか、暑いですね……窓開けます?」

「……オレは肌寒いくらいやけど」

「そうですか……そうですよね」

 確かに秋真っ盛りの夜、普通の感覚なら有砂が言うように感じるのが普通だろう。
 有砂は短く息を吐いて言った。

「……まあ、そない暑いんやったら、後部座席の下のほう、さっき買った水あるから飲んでええよ」

「あ、はい……ありがとうございます」

 喉の渇きが一気に自覚された。
 綾は有砂の言葉に甘えようと、サイドシートを倒しながら体をひねって覗き込み、

「え」

 固まった。

「あの……」

「……また、忘れ物があったか?」

「……ええまあ……それと、その……丸まったティッシュとか、アレとか……あの、せめてこういうのは片付けたほうが……」

「……そうか、まあ、気を付けるわ」

 大して本気でなさそうな返事に、綾は引きつった笑みを浮かべた。
 普段は人の車だろうとゴミが落ちていれば片付けるが、流石にこれを触るのは気が引けるというものだ。

 なんだかんだと話を聞いてくれたり、結果的に不安を除いてくれたり、有砂は第一印象よりはずっと親しみを感じさせたが、彼からほんのりと漂う、男性用ではない香水の匂いが、なんとなく壁を築いている。

 年齢はせいぜい二つ・三つくらいしか違わない筈だが、その二倍も三倍もの隔たりを感じる。
 それは有砂が実年齢の二倍も三倍もの経験……修羅場をくぐっているからなのではないかと思えてならなかった。

 もし、本当に《仲間》になることができたなら、いつかはもっと知っていくのだろうか。

 今はまだ見えない、有砂の心の中や、有砂をこんなふうに形造った過去の一端を。

 手を伸ばして、目当てのエヴィアンのボトルを掴んで、シートを戻し、座り直した。

「それにしても、思ったより遠いですね。兄貴のマンション。あとどのくらいですか??」

「……ああそうやな、そろそろ向かうか」

「……え??」

 意味がわからなかった。

「……今、オレたち、兄貴のとこに向かってるんじゃ……」

「いや。ちょっと話がしてみたかったから適当に走っとっただけや……ホンマは20分とかからへん」

「……はあ」

 もう相槌を適当に入れるのがやっとだった。

 まだ一応冷えているミネラルウォーターを一口飲んで息を吐き出した。

「有砂さんのことがわかったような、わからなくなったような……」

「ところで綾くんは、名前、どうする気ぃや」

 当の有砂のほうは気にも留めずに別の話題を持ちかけてくる。

「名前……そうか、みんな本名じゃなかったんでしたね」

「何か考えてへんのか……?」

「そこまでは全然。まずはheliodorのメンバーにしてもらえるかどうかってとこが問題だと思ってましたし……そういうの考えるの苦手で。有砂さんはなんで、《有砂》って名前にしたんですか?」

 有砂は顔色ひとつ変えずに、答えた。

「昔オレを殺そうとした女の名前」

「は?」

「……カケル、2やな」

「あの……」

「まあ、大した意味はないんやけどな」

 どう考えても大した意味がないとは思えないが、それ以上つっこんではいけないような気がした。少なくとも今は。

「オレの名前は……ゆっくり、考えます。まだ時間は、ありますから」


 時間はある。
 考えるための時間。
 話し合うための時間。
 知っていくための時間。

 それはまだ始まったばかりの、永い永い、夜の物語。















《END》
「ふふ……ちょっとくすぐったい……」

「……ごめん……もうちょっとやから」

「……うん、早くね」

「……ん」

 一度淡い菫色に染まった不規則なタイルのような爪先に、更に鮮やかに二度目を重ねる。

 湯上がりの、少しほてった桜色のくるぶしのあたりに手を添えて、元から先へと緻密に丁寧に染めていく。
 一番最後まで終わると、そのまま甲に唇を落とす。

「あっ」

 不意打ちに驚いた足先が暴れて、頬をしゅっとかすめる。

「……もう、佳人(ヨシヒト)ったら」

 まだ乾いていなかったペディキュアは、佳人の頬に一筋、傷跡のようにその色を残した。

「やり直す……?」

「……もういいわよ、しょうがないわね……佳人は」

 頬を彩る菫色を、柔らかい指先が辿る。

「……わたしももう待てないわ……夜が明けてしまうじゃない」

 そのまま誘うように唇に触れた指先。佳人はその手首を取って、彼女をそのまま真新しいシーツの上に横倒し、バスローブごと背中から抱き締めた。

「……ふふふっ……やぁね……こどもみたい」

「オレはお子様やから……お人形が一緒やないと眠れへん………」

 しゅるしゅると、布と布が擦れ合う音がした。

「……あら、男の子が、着せかえ人形遊びをするの?」

「……いや。オレは、脱がすだけ……」








#3・【有砂 ―2002・夏―】








「ありがとう、この辺でいいわ」

「……ん。ほなね」

「バイバイ。佳人」


 着飾った彼女が角の向こうへと消えてから、そういえば名前を聞かなかったな、と思った。

 もっとも、もう会うこともないだろうから別に構わないのだか。
 なぜかそんなことをふと思い巡らせてしまったのだ。



 そんな、運命の悪戯のような一瞬の間がなければ、


「よっちん!!」


 この、偶然の再会は起こり得なかったのだろうか。

「やっぱよっちんじゃん♪ おれだよ、おれおれおれ☆」

 その時はまだその手の詐欺が流行する前だったが、車に駆け寄ってきて飽きっぱなしだったウインドウに顔を寄せて「おれおれ」わめく男は、極めて胡散臭かった。
 しかも頭の色はねっこから先まで綺麗なオレンジ色。それを長く伸ばして、かなり高い位置で黒いリボンで結わえている。
 服装はラフなTシャツにブラックジーンズとはいえ、身体中にじゃらじゃらシルバーをぶら下げていたりと、かなりインパクトのある風貌だ。


 もし先に佳人に「よっちん」と呼び掛けていなかったら、佳人は無言でウインドウを閉めて走り去っていたに違いなかった。


「……釘宮(クギミヤ)……?」

 色のついたメガネの奥の人懐っこい笑顔は、確かに記憶の引き出しにあった。忘れたくても忘れられなかった、というほうが適当だろうか。


「よっ、久しぶり☆ 卒業式以来じゃんかぁ。よっちんてば全っ然変わってないし、超ウケんなぁ、ははは」

「……そか。ほんならな」

「おお、じゃあまたな~! ……って違うじゃん!! せっかくこうして再会したんだからさぁ、これからメシ行こうよ、メシ。はい、決定!」

「……はぁ??」









「しっかし、よっちんとはつくづく縁があるってゆーか……高校の入学式で発見した時もマジウケたもんなぁ。ははっ」

「……さっきらからウケるウケるってなんやジブン。他の表現はしらんのか」

「そのクールな切り返し、まさによっちん節ってカンジ♪ 懐いなぁ」

 ランチメニューのハンバーグセットにがっつきながらハイテンションで一方的に喋りまくる相手を静かに見つめながら、佳人のほうも不本意ながら学生時代の記憶を呼び起こし、重ねていた。
 あの頃から釘宮漸(クギミヤゼン)は、けして国語の成績が悪いわけでもないのに、こういう頭の悪い喋り方で、妙に楽しげに馴れ馴れしく話しかけてきた。
 
 むしろそれよりずっと前、初めて会った時から、勝手に「よっちん」などとあだ名をつけてやたらと絡んできていた。全く変わらない男だ。

 それからしばらく、付き合いで頼んだ安っぽいアイスコーヒーを飲みながら窓の向こうを眺めて、佳人はマシンガンのような声を右から左へ聞き流していた。

「……ところで、さっきよっちん女の人といたじゃん? あれ、よっちんの彼女?」

「……いや」

「あ、もしかして《有砂》ちゃん!?」

「……っ」

 久々に聞かされた名前に、一瞬砂を噛んだような苦さを感じた。

「……あ、悪い。その感じだと……まだ有砂ちゃんとは……」

 佳人の表情を読み、流石にトーンダウンする漸。一方の佳人はふっと小さく笑った。

「……もう一生会うことないやろ」

「そんなことないって! 家族なんだからいつかちゃんとわかり合える時がくるって! きっとまた一緒に……」

「……何が家族なんだから、や、ジブンは両親の顔も覚えてへんクセに」

「……それは」

 虚をつかれたような顔をした漸を見て、今度は佳人が、

「……悪い」

 短く謝罪した。

 漸は首を横に振った。

「いや、よっちんの言う通りかもなぁ。マジごめん。おれ、ちょっと無神経だったな……。なあ……新しい家族とは、ちょっとは話とか出来るようになった?」

「……いや。高校出てからはほとんど家には帰ってへんから」

「じゃあ今は独り暮らしかぁ」

「……独り暮らしとは言われへんかなあ……別に、毎晩オンナんトコ泊まったり、車で寝たりしとるだけやから」

「はぁぁあ?? どんな社会人だよ。そんな生活ありえねー」

「ジブンこそどういう社会人や、その浮かれたアタマはなんやねん」

「おれ?」

 漸は口の端にデミグラスソースをつけたままにっこり笑った。

「おれはほら、コレもんで」

 両手の平をハンバーグの鉄板のほうに向けて、五指をランダムに動かすジェスチャー。

「IT企業にでも就職したか」

 わかっていてわざとそう言ってみた。

「ンなわけないじゃん! オレがやってんのはバンド。キーボード弾いてんの。これでも一応プロ目指しててさ~」





「そう思っているなら、練習にはちゃんと参加してもらわないと困るんだがなぁ」





 凛としたハスキーボイスがフロア内に響き、まるでリモコンのポーズボタンを押したように漸が静止した。

「す……すぃ」

 女、だった。
 とはいえ背丈は170以上ありそうな上、メンズかユニセックスと思われる、色気のないタンクトップの下は凹凸の少ないスレンダーな体躯らしく、ともすれば中性的な美男子にも見えなくはない。

 しかもこの口調にこの威圧感だ。

「貴様、何度携帯に電話したと思っている。もうとっくに待ち合わせの時間は過ぎているぞ」

「いや、あの……」

 テーブルの横に仁王立ちして漸を睨みつけている大迫力の女。その気迫に、バイト店員たちも「他のお客様のご迷惑になりますので」のきっかけを見い出せずにまごまごしている。

「粋(スイ)、あの……これにはワケがあって~」

「何だ。聞いてやる。言ってみろ」

 佳人は半ば気圧されながら、二人のやりとりを見守っていた。

 漸はおもいっきりうろたえながら慌ただしく目線を泳がせる。

 必死に言い訳を検討しているらしかった。

 そのうちにぱっと佳人と目が合い、途端ににっこり笑った。

 嫌な予感がした。


「実はこいつをスカウトしてたんだ~」

「スカウト?」

 佳人は粋と呼ばれた女と綺麗にハモって反芻した。

「そう、こいつ沢城佳人(サワシロ・ヨシヒト)っていって、高校の軽音部時代の仲間で、ドラム担当だったヤツなんだ♪」

「釘みッ……」

「ホントのコトじゃん」

 粋は切長の綺麗な目を佳人に向けた。

「そうなのか?」

「まあ……一応」

 ただし佳人は半分無理矢理漸に入部させられて、部室に顔を出すこともほとんどない幽霊部員だったのだが。

「粋、固定のドラム欲しいって前から言ってたじゃん。だからさぁ」

「ほう、成程」

「……釘宮、お前何ゆーて」

「それなら早速今日の練習に付き合って貰うか」

「おい!」

 当事者の意志を確認することもなく、なんだか勝手に話が進んでいる。

「……いいから! とりあえず付き合って! なっ。おれ会計してくる。コーヒー代出しとくよん♪」

「釘宮っ」

 伝票を持って駆けていく漸を追い掛けようと立ち上がったせつな、

「……悪いな、あんた。巻き込んで」

 粋がさっきまでとはうって変わった穏やかな声で話しかけてきた。

「……スカウトってのはあいつのデタラメだろ。大方高校の同級生にばったり出くわして、懐かしくて話し込んでしまった。そんなところか」

 呆れたような笑みを浮かべる。

「……気付いとったならなんでゆーたらんのです?」

「蝉(ゼン)はバンドの仲間だからな。その友人なら私も興味がある。本当にドラムをやっていたならどれほどのものか聞いてみたいしな」

「……別にただ、あの頃部にドラムを叩けるヤツがほとんどおらんかったから……釘宮がオレに頼んできたってだけですから」

「名指しで頼んだ、ということはあんた……ドラム経験者だったんだろ?」

 鋭いツッコミが回り込むようにして佳人を少しずつ追い込む。

「……中学時代にかじっとっただけです。ガキの遊びですよ」

「ウソばっかり。ものすごーくガチでやってたクセに。隠さなくてもいいじゃん」

 いつの間にか会計を済ませた漸が、釣り銭をしまいながら戻ってきた。

「スゴい真剣に、でも楽しそうにドラムやってたよっちんを知ってるから、おれは誘ったんだけどな~」

 まるで古い日記を他人に無断で紐解かれたような気分を味わいながら、佳人は視線を床に落とした。

「……だとしても昔のことや」

「その情熱はもう冷めてしまった?」

 粋が、べりーショートのサイドを少しかき上げながら笑う。

「……私がもう一度惚れさせてやろうか?」

 心臓を射すくめるような、眩しい微笑だった。

「今度は一生抜け出せなくしてやるよ」


 今まで受けてきたどの口説き台詞より脳髄を痺れさせる、甘く、キツイ毒を含んだ言葉だった。








 太陽はもうすぐ南中に昇りつめようとしていた。

 それは栄光の時。

 束の間の黄金の季節。

 もっとも高いところを過ぎ、もっとも暑い時が過ぎたら、そのあとはただ黄昏の闇へと静かに落ちていくしかないということを、まだ人々は忘れている。












《END》
 道玄坂プロポーズ事件。

 これを知っているか知らないかで、heliodor(ヘリオドール) のファンは新規と古株に分けられると言われる。


 そしてこれは偶然にもその歴史的現場に居合わせてしまった男の物語。


 東京の空を初雪が舞った、その寒い夜。

 釘宮漸(クギミヤ・ゼン)はまだ蝉(ゼン)ではなかった。










#4・【蝉 ―2000・冬―】







「クギミヤ? 釘宮漸……って名前だったのか、お前」

 ああ、また聞かれるかな? と思った。

「ピアニストの釘宮高槻(クギミヤ・タカツキ)の親戚か何かか?」

 漸はいつも通り、

「……違いますよ♪」

 と軽く返事した。心の中で「今はまだね」と付け足しながら。

「そうか、よくある名字ではないからもしかしてと思ったが」

「よく聞かれるんですケド、そんなわけないじゃないっスか」

「まあな……」


 今日のクリスマスイベントのトリを飾るバンド・《foi(フォア)》は、たった今リハを終えたところだった。
 このバンドの正式メンバーではない漸ではあったが、まさか本番当日まで名前を覚えてもらっていないとは思わなかった。

 もっとも中抜けして入ったこのファーストフード店でこうして向かい合わせでハンバーガーにかじりつくまで、まともにメンバーと食事をしたことすらなかったのだが。

「大体お前は付き合いが悪すぎる。ミーティングにも滅多に参加しないし、練習が終わればあっという間に消える」

「それはその~、おれってばいつも予定ぎっちりなんですよ……だから~」

「苦手なら無理に敬語を使うな。タメなんだろ」

「え、いいの? サンキュ☆粋ちゃん」

「ちゃん、はやめろ。ちゃん、は」

 見た目も中身も男前ではあったが、《foi》のベーシスト・粋(スイ)は女だった。

 四人編制のバンドの中で女なのは粋ただ一人で、他のメンバーと行動をともにせず、何故か彼女はいつも一人だった。

 だから漸も思わず、こうして誘ってしまったのだが。

 昔から、群れからはみだしてぽつんとしている人間を見つけると構いたくなる性分なのだ。

 お節介だとはねのけられることも少なくなかったが、それでも漸のクセは直らなかった。

 幸い粋は漸を疎むことはなかった。

「お前、いくつ掛け持ちしてるんだ」

「13……かなぁ」

「13……? 全部サポートなんだろ?」

「そう」

「1つのバンドに腰をすえる予定はないのか?」

 これもまた、よく投げ掛けられる質問だった。

「おれは……そんなにマジでやってるカンジじゃないし……」

「マジでやってるカンジ、になってみたらどうだ。お前はなかなかいいぞ」

 この寒いのにLサイズのコーラを飲みながら、粋は半分説教でもするように言った。

「技術はまあまあだし、少なくとも、うちの男どもよりはずっと面白いプレイをする」

「そんなこと言っちゃっていいの?」

「ああ。嘘を言っても仕方がないだろ。お前だってそう思っているんじゃないか?」

「……ぶっちゃけ」

「だろ」

 粋は深く溜め息をついた。

「見た目ばかり気にする奴らだ。私のことも、客寄せパンダ程度にしか思っていない」

「いくらなんでもそれはないんじゃない? ……みんな粋の腕を見込んでメンバーにしたんじゃ……」

「この間なんて面と向かって、ボーカルに転向しないかと聞かれたぞ。お前が前に出たほうが客が呼べるからだそうだが?」

 流石の漸も頭痛がしそうだった。

「……あのさ。なんで、そんな奴らと組んでんの?」

「好きで組んでいるわけじゃない。何度か見所のある連中に打診したこともある。だが」

 粋は自嘲的な微笑を浮かべた。

「女はいらない、と」

「そんな……」

「仕方ないだろ。真剣にやってるバンドなら無用なトラブルを抱えたがらないの当然だ」

 確かに、女が入ることで恋愛絡みのイザコザが起きて分裂したりするバンドも少なくはない。
 もっと単純な偏見もあるのかもしれないが。

「なめられないようにはしているつもりだがな……半分諦めている」

「いっそギャルバンでも組んだらどうよ?」

「そうだな……それもまあ、いいかな……」

 本気かどうかよくわからない返答をしながら粋はまたコーラをすする。

「……降ってきたな。天気予報が当たった」

 言われて窓の外を見ると、ちらほらと白いものが降りてきていた。

「おお、ムードあるじゃん、いいねいいね♪」

「そうか? 私は雪は嫌いだ。引退したら余生は雪の降らない街で暮らしたいもんだな」

「余生って……いっくらなんでも今からそんなこと考えなくていいじゃん」

「お前が言うのか?」

「え?」

 粋が目を細める。

「自分のキャパシティをオーバーするほどのバンドを掛け持ちして、毎日毎日弾き続けて、お前は何か生き急いで見える。余命宣告でもされているのか?」

「それは……」

「まあ、どうするかはお前の勝手だが」

「……どうするか……って」


 どうするかは決めている。
 というか、決まっている。

 約束は守らなければいけないから。

 だから、もう。

 時間は限られている。

 立ち止まっている暇はない。

 しかし。


 本当にそれで、いいのだろうか……?











 イベント本番はつつがなく進行し、foiの演奏も残すところ一曲となった。

 ボーカルの長いMCの間、粋はタオルで汗を拭きながらキーボードのところへ下がってきた。

「……お前、演奏中はバカに見えないな」

「えぇ~、それじゃ普段おれがバカみたいじゃん」

「それはボケか? ツッコんでほしいのか?」

「いいんだケドさぁ……」

 粋が近くにいると、オーディエンスの視線が自分のほうに集まってくるような気がする。
 ボーカルの大して中身のないMCなどみんなどうでもいいのだろうか。

 誰もが感覚的にわかっているのだろう。このステージの主役が誰なのか。


 他愛ない話をしている間に、ボーカルの長話は終わろうとしていた。

「さて、戻るか」

 粋がポジションに戻っていくのを目で追っていると、漸は客席に妙なものを見つけた。

「……なんだあれ。あの赤いの」

 漸や粋のいる下手側の壁際からなんだかすごい目付きでステージを睨んでいる赤い長髪の男がいる。

 客の99パーセントが女しかいないせいもあり、やたらと目立って見えた。

「ちょっと待ってくれ、私は聞いてないぞ」

 粋の声で意識をステージに引き戻された。

 気が付けばなんだか客席全体がキャーキャーうるさいことになっている。

 赤いの、に気をとられていたとはいえ、それに一瞬気付かなかったとは自分で信じられないほどのお祭りぶりだった。

 一体、何が起きた??


「ほら~、みんな粋の唄聞きたいって言ってるから」

「嫌だ。誰が唄うか。私はベーシストだ」

 無理矢理マイクを押し付けようとするボーカルと、拒絶する粋のやりとりで、漸はついさっき粋が話していたことを思い出した。


「……信じらんない……接待カラオケじゃないっての……」

 漸は思わず小声で吐き捨てて、前に出ようとした。

 が。それより先にずんずん前に出てくる奴がいた。客席から、ステージに向かって。人垣を押し退けるようにして。

 それはあの、赤いの、だった。



「マイクとギターをよこせ。俺が唄う」



 何故か、よく通るいい声だな、などと思ってしまった。

 実際はそんな呑気な状況ではない。

 なんだかよくわからない奴が勝手にステージに上がってきているは、客席はドン引きして静まり返っているは、メンバーは殺気立ってくるは、もうどうあがいても平穏にイベントが終了してくれるとは思えなかった。


「あんたは……?」

 あの粋ですら完全に面食らっている。

「自己紹介は後でしてやるよ。とりあえずどアタマにやった曲、もっかいやれ。ギターとボーカルは俺がやってやる」

「やってやる、って、出来るのか??」

「寝惚けたこと言ってんじゃねェ。わざわざ恥をかきにこんなとこまで出てくる奴がいるかよ」

 赤いの、はfoiのギタリストに掴みかかる勢いでギターを略取する。やりたい放題だ。

 ハコのスタッフは一体何をやっているのだろう?
 と思ったが、どうやらこれが意図された「演出」なのかどうか計りかねているらしい。

 それくらい現実離れした出来事だし、なにしろ今日はクリスマス。
 多少のサプライズはあってもおかしくはなかった。

 まあこれが、多少、かどうかは怪しいところだったが。


「ちょっと待てよぉ部外者がなにしてんだよ」

 ボーカルの男が食ってかかる。

 赤いの、はさっきステージを見ていたのと同じ目付きでボーカルを睨んだ。

「うっせェな、耳障りな卑しい声でわーわー言ってんじゃねェよ。お前こそとっとと消えて無くなれ」

 赤いの、が粋の腕を、掴んだ。

「このベーシストは俺が連れていく」

 どよめきが広がる。

 赤いの、は粋へ振り返った。

「心配するな。きっとすぐにお前は俺について来てよかったと思う筈だ」

「……」

 呆然としていた粋は、しばらくしてから苦笑に転じた。

「私を拐いに来たのか?」

「そうだ。俺について来いよ。絶対に後悔はさせないから」



 何故か客席から黄色い悲鳴が上がった。












「疲れた……マジ疲れた……」

 楽屋に戻るなり漸は椅子にへたり込んだ。

 結局一曲どころか時間ギリギリまでアンコールを四回も繰り返した。

 もちろんあの赤いの、がボーカルをとった。

 歌詞は半分以上適当だったが、メロディは完璧に再現していた……いや、完全に自分のものにして昇華していたと言うべきか。

 オーディエンスは完全に、赤いの、を受け入れていた。

 それは漸も同じ。

 そして……。


「俺と、来るよな?」

「……ああ。拐われてやってもいい」

 あんなに楽しそうな粋を見たのは誰もが初めてだったに違いない。

 二人がステージで握手をした瞬間は、誰もが思わず拍手していた。

 しかし、一緒になって呑気に拍手をしていた漸に、いきなり赤いの、が振り返ったのは思いがけないことだった。


「おい。お前も来たかったら来ていい。どうする?」

「え?」


 二人は真っ直ぐに漸を見つめて、答えを待っていた。そして漸は……。


「……俺も、行きたい……かも」


 その瞬間を思い出して、漸は一人で笑ってしまった。

 道は決まっている筈なのに、なぜあんなふうに答えてしまったのか。

 自分でもよくわらない。

 わからないが、多分それは本心だった。


「……もうちょっと……もうちょっとだけ寄り道、いいかな……お義父さん」








 夜明けを待っていた。

 今、待ちかねた太陽が地平線からようやく姿を見せた。

 日が昇る。

 新しい時代が、ここから始まる。











《END》
 絞り出すような震えた声で言った。

「……どうしてわざわざ俺にそれを教えに来やがった」

 もしも知らなければ。

 何も知らなければ。

 疑うこともなく。

 いつまでもいられたのかもしれない。

 偽りだったとしても。

 それを、真実と信じて。

「……お前が苦しんであがくところが見たいんだ。俺はサディストだからな」

「……っ」

 投げつけた質素な花束が、肩口に当たって、花弁を散らしながら落ちたが、男は構わずに冷笑する。

「お前の前に道は二つしかない。音楽を捨てて俺から逃げるか、音楽で俺を越えてみせるか、だ。さあ、どうする? ……錦(ニシキ)」






 金色の太陽が、世界をあまねく照らす時がきたら。

 吸血鬼は灰に還るのだろうか。








#5・【紅朱 ―2007・春―】







「ねえ、リーダー」

「なんだ?」

「今日でボクは一年目だ」

「……ああ、そういうことか」

 万楼(マロウ)と名乗る風変わりな少年が、遠く四国からやって来た日。

 heliodorのベーシストになりたい。
 いや、ならなくてはいけないと少年は言った。


「リーダーは、とりあえず一年間ボクを使ってくれると言った。ボクは、どうだった?」

 紅朱と万楼が二人きりになることは普段ほとんどない。

 ただミーティングにはいつも真っ先に来て待っている玄鳥(クロト)が珍しく遅れ気味で、その次に早い二人が先に待ち合わせのカフェにいたというだけ。

 この二人が二人きりになるという状況は、少なくとも紅朱には気まずいものだった。


「……まあまあだな」

 自分の言葉に、棘があることには気付いていた。

 いつも万楼に対してはこうなってしまう。

「……もうしばらくは使ってやってもいい」

「……よかった」

 笑顔で胸を撫で下ろす万楼は、本当は傷付いているのだろうか。

「……ボクはまだここにいていいんだ」

 メンバーも、ファンも、同業者すらも、今や万楼の力を認めている。

 認められないのはリーダー……紅朱(コウシュ)だけだった。

 認めてやりたいと思っているのに、いつも突き放してしまう。

 真っ直ぐ向き合うことができない。

 決着をつけられない。

 別れすらも告げられず、理由も知らされずに終わってしまった絆が縛る。

 右手にギターを。

 左手に、彼女を。

 あの日々はもう、過去になってしまったのに。

 それでもこのまま忘れてしまうことは、何か大きなものを手放すようで恐ろしい。

 心の奥の大切な部分が、うつろになってしまったら……遠い昔に立てた誓いすらも崩れてしまいそうで。


「リーダーって、強い人だね」



 しかし紅朱が思い知ったのと逆のことを、万楼はあっさりと口にした。

「きっと忘れてしまえば楽になるのに、ずっと忘れないでいるんだよね」

 まだ水とおしぼりしか置かれていないテーブルの上に、万楼はそっとポケットから取り出したものを乗せた。

「この子は忘れてしまった。きっと、覚えていることが怖かったから、忘れることにしたんだ」

 サブウインドウの欠け落ちた、錆びと傷だらけのシルバーの「携帯電話」。

「そしてボクも……」

「記憶の欠落はお前のせいじゃねェだろ……それに、携帯はもう直らねェけど、お前はそうじゃねェからな」

「うん。ボク、頑張って思い出すよ。だから……もう少しだけボクをここにいさせてね」

 紅朱は舌打ちした。万楼に対してではなく自分自身に。

 フォローのつもりで口にした言葉すら所詮は利己的なものだった。

 こうしてこれからも利用していくつもりのか。

 鮮やかな粋の面影を持つ都合のよいベーシストとして。

 いつか粋を取り戻すための、重要な手掛りとして。

 万楼は一度もそれに不満をもらしたことなどなかった。

 だが本当は万楼とて一人の仲間としてバンドに受け入れてほしいと思わない筈がない。

 いつまでも形だけの正式メンバーでいいわけがない。

 万楼はそれ以上その話題には触れず、メニューを広げて、にこにこしながらスイーツの品定めを始めた。
「有砂(アリサ)は、今日も遅いかな。有砂が来る前にパフェ食べておこうかなぁ」

「……残念やったな、今すぐそのページは閉じてもらうで」

 欠伸をしながら現れた有砂が、万楼の隣に座るや否やスイーツのページをめくって隠してしまう。

「あ。なんだ今日は早いね」

 実際には30分近く遅刻しているのだが、有砂にしては確かに早かった。
 だがそれよりも入ってくるタイミングが良すぎる。

 案外二人が話しているのを見て、一段落する頃を見計らって入ってきたのかもしれない。

 個人主義者のような顔をしているが、案外周りの空気には敏感な男だ。

「有砂、甘いものが嫌いだなんて人生を半分損してると思うよ」

「ジブンこそせいぜい糖尿病には気ぃつけることやな」

「あは、心配してくれてありがとう」

「……あのなぁ」

 少々わかりにくい態度をとってはいるが、有砂は万楼を可愛がっている。
 バンドのリーダーとして有砂を五年間見てきた紅朱にはよくわかる。

「じゃあやっぱりメロンソーダかなあ」

 楽しそうにメニューを眺める万楼を横で見ている姿は、まるで面倒見のいい兄のようですらある。

「うぁ、ラブラブ~。おれちょっとジェラシーなんだケド」

「……アホか。どんな第一声や」

 続いてやって来た蝉(ゼン) が他の客には若干迷惑であろうテンションで、紅朱の隣に座った。

「よっちん、万楼ばっか構うしさ~、長年育んだおれとの愛はどこいっちゃったのって感じ??」

「しかし、玄鳥が遅刻とは、今年の夏も異常気象確定やな」

「え、普通にスルー?」

「ああ……妙だな」

「ねえ……誰かツッコんでよ」

「とりあえずオーダーしようよ。ボク、やっぱりメロンソーダ!!」

「しくしく」









「ごめんなさい!!」

 玄鳥がカフェに到着した頃には、テーブルの上のコーラと、メロンソーダと、ブレンドコーヒーと、オレンジジュースが半分以上減った頃だった。

「ホントにすいません!」

 気の毒なくらい慌てながらぺこぺこ頭を下げる玄鳥だったが、遅刻を責めようとする者はいなかった。

 待ち惚けしたメンバーのうち二人は常習犯、他の二人も、ことがイレギュラー過ぎたので腹を立てるよりも心配や好奇心が先に立つ。

「何かあったのか?」

 代表して問う実兄に、弟は苦笑いする。

「……ごめん。えっと……寝坊」

「綾(アヤ)」

 少し口調を硬質なものに転じる。

「別に遅刻はいい。でも下手な嘘をつくのは気にいらねェ」

 その瞬間、玄鳥の顔に明らかな動揺が走った。
 全員がそれを黙って見守る。
 紅朱が指摘するまでもない。玄鳥はheliodorで一番嘘をつくのが苦手な男だ。

「正直に言えねェような理由か?」

 更に問いつめた。
 いつもの玄鳥ならここで諦めて、本当のことを打ち明けるのだが、

「……対した理由じゃないよ……遅れたのはホントにごめんなさい。ミーティング、始めましょう」

「……綾?」

 もう一度問おうとした紅朱から、玄鳥はさりげなく目をそらした。

「ま、いんじゃない?」

 あっけらかんとした口調で蝉が間に入ってきた。

「玄鳥だっていい大人なんだし、さ。紅朱だって、弟に言えないことの一つや二つあるっしょ?」

「っ」

 目の前に、あの景色が広がった気がした。
 強風が砂埃を舞いあげて、灰色にくすんだ小さな墓地の風景。

 舞い散る花びらと。

 嘲笑う声。












「……綾は、そのこと知ってんのかよ」

「……もちろん知らないだろう。別に俺が教えてやってもいいが」

 ざりっ……と砂利を踏みしめた。

「……言うな。言ったらお前を殺してやる。絶対に殺す……」

 誰かに対してこんなに怒りを燃やしたことは今までなかった。

 「浅川錦」の人生を、今まで、と、これから、に分けた風の午後。


「殺せないさ。……俺は吸血鬼だから」










「……兄貴?」

 自分とほとんど同じ造りの顔が、自分には絶対にできそうもない表情で顔をのぞきこむ。

「ごめん……あの……そのうち、話すよ」

 記憶に捕まって沈黙してしまったのを、気分を害したからだと受け取ったのだろう。

「いや、もういい。早く座れよ」

 言えないことの一つや二つ。
 確かにある。

 玄鳥に隠していることが、紅朱には二つあった。

 どちらもこのまま墓まで持っていくつもりの秘密だ。

 だがもしかしたらこの時。

 もう少し強く玄鳥を問いつめていたら、数ヵ月後に発生するあの事件は起きなかったかもしれないが……。















 太陽の光は強まるほどに、濃い影を生む。


 「欠落感」という影。

 「劣等感」という影。

 「孤独感」という影。

 「焦燥感」という影。


 そして、

 「執着心」という影。



 白昼にあっても、そこには宵闇の王が棲んでいるのかもしれない。

 その暗黒に光を投じる者がやがて現れることに、彼らはまだ気付いていない。。

 そして彼女もまた……。









「美々(ミミ)お姉様、わたくし、とうとう念願の独り暮らしを始めましてよ」

 紅朱たちの席の対角線上にある、最も遠い席では呑気で優雅なティータイムが繰り広げられていた。

「えッ、ホントに? よかったじゃない。よくパパさんからオッケー出たね」

「ふふふ。わたくしの熱意に、お父様もとうとう根負けされましたの。これで気兼ねなくベッドルームにもダイニングにもリビングにも好きなだけ伯爵(カウント)様のポスターを貼ることができるというものですわ!」

「はいはい、まったく……あんたはなんでも高山獅貴(タカヤマ・シキ)のことばっかなんだから……。折角独り暮らしするんだから、もっと身近な男の子でも捕まえて部屋連れ込んじゃえば?」

「まあ……美々お姉さま、何をおっしゃるの? わたくしは幼少の頃より生涯伯爵様をお慕いすると決めておりましてよ。他の殿方など考えられませんわ」

「……これだもんなぁ。まったくもう。ある意味羨ましいお嬢様だよね……日向子(ヒナコ)は」


 咲き誇る薔薇のような微笑を浮かべて、彼女は左手首の月の意匠のシルバーブレスをそっと撫でた。

「……愛しの伯爵様……わたくしとの約束を覚えていらっしゃいますか……?」



 彼女と彼らの運命はまだ交わらない。

 しかしその日は、何の前ぶれもなく、やがてやってくるのだ……。









《END》
「はいはい、リズム隊しゅーごー!」

 つき抜けるような、耳に優しくない声がスタジオにこだました。

「どうしたの? 蝉。お菓子くれるの??」

「……まったく、やかましい奴やな」

 「リズム隊」とくくられた二人は片や不思議そうに、片や迷惑そうに声の主を振り返った。

「はいはい、とにかくこっち来るの~!!」

 蝉は、万楼と有砂を半ば無理矢理引っ張って、スタジオの外の自販機の横に並べた。

 そしておもむろに、二人を指差してこう言い放った。

「言っとっケド! キミたち絶対に、あのお嬢様記者ちゃんに手ー出しちゃダメだから!」








《僕たちは、彼女と出会った》













「え?? 何それ」

「薮から棒に……何ゆーとんねん。ジブン」


 お嬢様記者といえば、この間のイベントライブで楽屋まで直接取材交渉にやってきた、かなり風変わりな新米雑誌記者のことに違いないが……。

「あのお姉さんに手を出しちゃダメってどういうこと? 蝉、あのお姉さんが好きなの?」

 万楼の問いには首を横にしつつも、蝉は柄にもない難しい顔をして頭をかいた。

「いや……そーゆーんじゃなくて、さ。おれ的に、あのコになんかあるとヤバイっていうかぁ……路頭に迷うっていうかぁ、むしろ殺されかねないわけよ」

「……はあ?」

 有砂はいぶかしげに眉をひそめる。

「……ジブンの知ってるオンナやったんか? アレ。こないだはジブン、顔見るなり逃げ出しとったみたいやったけど」

 蝉はいよいよバツの悪い顔つきで、視線を泳がせる。

「……よっちんには昔、話したじゃん……例の……ほら」

「例の……って、まさかあれが、ジブンの?」

「そゆこと」

「ねえ、何の話?」

 一人だけ蚊帳の外にされてしまった万楼が二人を交互に見る。

 有砂は一つ溜め息をつくと、

「大人の事情や」

 めんどくさそうに呟いた。

「……蝉はどうなっても別にかまへんけど、流石にそんな厄介なオンナはオレもお断りや。……万楼もやめとき」

「んー……よくわからないけど、わかった」

 
 これ以上ないくらい曖昧な返答ではあったが、蝉は一応安堵の表情を浮かべた。
 しかし万楼は、こう続ける。

「でもさ、お姉さんと友達にだったらなってもいい?」

「え?」

「これから半年間も色々取材しに来るんだしさ、仲良くなるのはいいでしょう? 遊んだりとかして」

 蝉は少し首をひねったが、

「ま、万楼ならいいケドさ……」

 と譲歩し、

「よっちんは不可で」

 とキッパリ言い捨てた。

「……なんや人を危険人物扱いしよって。別にオレはああいうタイプ興味ないし、困らへんけどな」

「よし、じゃあそれで二人は、オッケーってことで」

 蝉は「二人は」のところに意識的にアクセントをつけた。そしてゆっくり後ろを振り返る。
 その意味を察したリズム隊は揃って視線を同じ方向へシフトする。

「うん、ボクたちはいいとして……」

「あれは一体どうするつもりや? 蝉」

「……ソレが問題だよね~……やっぱ」

 あれだソレだと囁かれている問題の人物は、三人のすぐ近く、ロビーのあまり座り心地のよろしくない長椅子の端に座って、壁に頭を預けるようにしながらぼんやりしていた。

 ぱっと見ただけではうたた寝でもしているかのようだが、よく見るとたまに溜め息をついたりしている。

「あれからずっとあの調子だもんね……玄鳥は」

「……一応、ギター持ってる時はいつも通りなんやけどな」

「……やっぱ心を鬼にしてあいつにも言っとかないとだよなぁ」

 蝉は、よし、と心の中で決意を固めた。

「玄鳥! ちょっとオマエもこっち来て!」

「……」

「ノーリアクションだね」

「聞こえてへんな。完全に」

 呆れているのか楽しんでいるのかよくわからない二人を横目に、蝉は再度呼び掛けを試みる。

「おーい! 玄鳥~!?」

「……」

「もしもしぃ? 浅川さん家の綾くん!?」

「……」

「あ、日向子ちゃんだ」

「えぇっ!? ひ、日向子さん!!?」

 玄鳥はそれまでが嘘のような素晴らしい反射速度で完全に声を裏返らせながら、半分前のめりで椅子から飛び上がった。

「いるわけないじゃん、こんなとこに。マジ重症って感じ……可哀想に」

「……蝉、さん?」

 玄鳥はようやく我に返ったように蝉のほうを見た。

「重症って、何の話ですか??」

「……オマエのコトだって」

 ぽかんとしている玄鳥。そこまでの一連の流れを見ていた万楼が、ふと口を開いた。

「大丈夫、ボクは玄鳥を応援するからね」

「え? 何?」

「玄鳥と記者のお姉さんは結構お似合いだと思うよ」

「……ッ」

 瞬時に、玄鳥の顔はあまりにもわかりやすく色付いた。

「……お似合いって……そんな……俺は別に」

「遅れてきた春か……よかったやないか」

 有砂がふっと小さく笑った。

 玄鳥は何か言い返そうとしていたが、それより早く蝉が動いた。

「ちょっ、二人ともそんな発破かけるみたいなコト言っちゃダメじゃん! これ以上本気んなっちゃったらどーするワケ!?」

「本気……?」

 玄鳥がぽつりと反芻した。

「え? だってボクは手を出さない約束はしたけど、他の人の恋路を応援しちゃいけないとは別に言われてないし」

「恋路……?」

 まるで初めて聞いた言葉のように、玄鳥は繰り返す。

「ダメに決まってんじゃん!!」

「……まあ、そんなに目くじら立てることないんちゃうか。温かく見守ったれや……玄鳥がオンナに惚れるなんて滅多にないことやしな」

「……惚れ……あっ」

 そして玄鳥はまるで長い夢が覚めたような顔で呟いた。

「そうか……俺は今……恋してるのか……」


 体感時間にして10秒、実際には2秒半ほどの沈黙のあと、三種類の笑い声がロビーに響き渡った。

「……え?」

「あははははは、玄鳥面白すぎるよ!」

「くく……らしいねんけどな、そういうとこが」

「うひはははっ……! ハラいてーっ……やばい、超名言!」

「……あの、なんで笑われてるんだか全然わかんないんですけど……とりあえず怒っていいですか?」

 若干引きつっている玄鳥をよそに三人は笑いが収まるまで一頻り大騒ぎしていた。

 なんとか落ち着いたところで、蝉は軽く咳払いして、不機嫌な顔の玄鳥の肩に手を置いた。

「残念だケド相手が悪すぎるから。高嶺の花ってのはわかるっしょ? マジで諦めたほうがいいんじゃない?」

「……蝉さんって、一体あの人のなんなんですか……?」

「それは……」

 打ち明けるべきか。

 打ち明けざるべきか。

 蝉が躊躇っているうちに、


「騒ぐんなら中で騒げよ……迷惑な団体だな」

 コンビニまで出かけていた紅朱が、ビニール袋を引っ掛けながら戻ってきた。

「建物の外まで笑い声が聞こえてたぞ。何かあったのか?」

 その問いだけで、先程の玄鳥の発言を思いだし、三人は吹き出しそうになるのを必死で堪えるはめになった。

「た、大したことじゃないから。兄貴は気にしなくていいよ」

 玄鳥は三人を恨めしげに見やりながらもごまかしにかかった。
 この上実兄にまで爆笑されてはたまったものではない。

「ま、なんでもいいけどな……それよりお前ら、俺はこの後用事が出来ちまったから、ちょっと抜けさせてもらう。楽器隊だけで練習続けててくれ」

「用事? 随分急だね、リーダー。何かあった?」

「ああ、大した用じゃないんだが、ちょっと森久保日向子の家に行ってくる」




「は??」




 一瞬にして、その場にいた全員が言葉を失った。

「別にいいってのに、この前の礼に持ってけって、実家から野菜が大量に送られてきちまって」

 紅朱はその空気を察することなく平然と、話し続ける。

「しょうがねェから明日か明後日にでも届けようと思って連絡したら、今日しか都合が合わねェって言うから」

「……兄貴、日向子さんの連絡先、知ってたんだ……?」

「あ? おお、帰り際に携帯教えてったからな。それがどうかしたか?」

「……」

 玄鳥は苦手な刺激の強いガムを大量に口に放り込まれたような顔で軽くよろめいた。

「……おい、しっかりせいや」

「ほら、紅朱はリーダーじゃん! だからなんだって!」

 左右両脇から思わず支えてしまう有砂と蝉。

 それでもまだ紅朱はなんにも気付いていなかった。

「しかし、あの女も随分気に入られたもんだよな。野菜と一緒に入ってたババアの手紙に『あんな素敵なお嬢さんがお前のお嫁さんになってくれたらいいのに』とか書いてあってよ……わけわかんねェ」


「……母さんまで……あぁ……俺、もう無理かも……」

「玄鳥しっかりして。ボクが応援してあげるから」

「……なんでこんなに色恋に鈍感な奴がラブソングとか書けるんやろ……」

「ヤバイじゃん、こんなとこに伏兵がいるとは……」

「は?? お前ら何言ってんだ??」






 それはまだ始まったばかりの、あるラブストーリーの小さな欠片だった。















《END》
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