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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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「ふふ……ちょっとくすぐったい……」

「……ごめん……もうちょっとやから」

「……うん、早くね」

「……ん」

 一度淡い菫色に染まった不規則なタイルのような爪先に、更に鮮やかに二度目を重ねる。

 湯上がりの、少しほてった桜色のくるぶしのあたりに手を添えて、元から先へと緻密に丁寧に染めていく。
 一番最後まで終わると、そのまま甲に唇を落とす。

「あっ」

 不意打ちに驚いた足先が暴れて、頬をしゅっとかすめる。

「……もう、佳人(ヨシヒト)ったら」

 まだ乾いていなかったペディキュアは、佳人の頬に一筋、傷跡のようにその色を残した。

「やり直す……?」

「……もういいわよ、しょうがないわね……佳人は」

 頬を彩る菫色を、柔らかい指先が辿る。

「……わたしももう待てないわ……夜が明けてしまうじゃない」

 そのまま誘うように唇に触れた指先。佳人はその手首を取って、彼女をそのまま真新しいシーツの上に横倒し、バスローブごと背中から抱き締めた。

「……ふふふっ……やぁね……こどもみたい」

「オレはお子様やから……お人形が一緒やないと眠れへん………」

 しゅるしゅると、布と布が擦れ合う音がした。

「……あら、男の子が、着せかえ人形遊びをするの?」

「……いや。オレは、脱がすだけ……」








#3・【有砂 ―2002・夏―】








「ありがとう、この辺でいいわ」

「……ん。ほなね」

「バイバイ。佳人」


 着飾った彼女が角の向こうへと消えてから、そういえば名前を聞かなかったな、と思った。

 もっとも、もう会うこともないだろうから別に構わないのだか。
 なぜかそんなことをふと思い巡らせてしまったのだ。



 そんな、運命の悪戯のような一瞬の間がなければ、


「よっちん!!」


 この、偶然の再会は起こり得なかったのだろうか。

「やっぱよっちんじゃん♪ おれだよ、おれおれおれ☆」

 その時はまだその手の詐欺が流行する前だったが、車に駆け寄ってきて飽きっぱなしだったウインドウに顔を寄せて「おれおれ」わめく男は、極めて胡散臭かった。
 しかも頭の色はねっこから先まで綺麗なオレンジ色。それを長く伸ばして、かなり高い位置で黒いリボンで結わえている。
 服装はラフなTシャツにブラックジーンズとはいえ、身体中にじゃらじゃらシルバーをぶら下げていたりと、かなりインパクトのある風貌だ。


 もし先に佳人に「よっちん」と呼び掛けていなかったら、佳人は無言でウインドウを閉めて走り去っていたに違いなかった。


「……釘宮(クギミヤ)……?」

 色のついたメガネの奥の人懐っこい笑顔は、確かに記憶の引き出しにあった。忘れたくても忘れられなかった、というほうが適当だろうか。


「よっ、久しぶり☆ 卒業式以来じゃんかぁ。よっちんてば全っ然変わってないし、超ウケんなぁ、ははは」

「……そか。ほんならな」

「おお、じゃあまたな~! ……って違うじゃん!! せっかくこうして再会したんだからさぁ、これからメシ行こうよ、メシ。はい、決定!」

「……はぁ??」









「しっかし、よっちんとはつくづく縁があるってゆーか……高校の入学式で発見した時もマジウケたもんなぁ。ははっ」

「……さっきらからウケるウケるってなんやジブン。他の表現はしらんのか」

「そのクールな切り返し、まさによっちん節ってカンジ♪ 懐いなぁ」

 ランチメニューのハンバーグセットにがっつきながらハイテンションで一方的に喋りまくる相手を静かに見つめながら、佳人のほうも不本意ながら学生時代の記憶を呼び起こし、重ねていた。
 あの頃から釘宮漸(クギミヤゼン)は、けして国語の成績が悪いわけでもないのに、こういう頭の悪い喋り方で、妙に楽しげに馴れ馴れしく話しかけてきた。
 
 むしろそれよりずっと前、初めて会った時から、勝手に「よっちん」などとあだ名をつけてやたらと絡んできていた。全く変わらない男だ。

 それからしばらく、付き合いで頼んだ安っぽいアイスコーヒーを飲みながら窓の向こうを眺めて、佳人はマシンガンのような声を右から左へ聞き流していた。

「……ところで、さっきよっちん女の人といたじゃん? あれ、よっちんの彼女?」

「……いや」

「あ、もしかして《有砂》ちゃん!?」

「……っ」

 久々に聞かされた名前に、一瞬砂を噛んだような苦さを感じた。

「……あ、悪い。その感じだと……まだ有砂ちゃんとは……」

 佳人の表情を読み、流石にトーンダウンする漸。一方の佳人はふっと小さく笑った。

「……もう一生会うことないやろ」

「そんなことないって! 家族なんだからいつかちゃんとわかり合える時がくるって! きっとまた一緒に……」

「……何が家族なんだから、や、ジブンは両親の顔も覚えてへんクセに」

「……それは」

 虚をつかれたような顔をした漸を見て、今度は佳人が、

「……悪い」

 短く謝罪した。

 漸は首を横に振った。

「いや、よっちんの言う通りかもなぁ。マジごめん。おれ、ちょっと無神経だったな……。なあ……新しい家族とは、ちょっとは話とか出来るようになった?」

「……いや。高校出てからはほとんど家には帰ってへんから」

「じゃあ今は独り暮らしかぁ」

「……独り暮らしとは言われへんかなあ……別に、毎晩オンナんトコ泊まったり、車で寝たりしとるだけやから」

「はぁぁあ?? どんな社会人だよ。そんな生活ありえねー」

「ジブンこそどういう社会人や、その浮かれたアタマはなんやねん」

「おれ?」

 漸は口の端にデミグラスソースをつけたままにっこり笑った。

「おれはほら、コレもんで」

 両手の平をハンバーグの鉄板のほうに向けて、五指をランダムに動かすジェスチャー。

「IT企業にでも就職したか」

 わかっていてわざとそう言ってみた。

「ンなわけないじゃん! オレがやってんのはバンド。キーボード弾いてんの。これでも一応プロ目指しててさ~」





「そう思っているなら、練習にはちゃんと参加してもらわないと困るんだがなぁ」





 凛としたハスキーボイスがフロア内に響き、まるでリモコンのポーズボタンを押したように漸が静止した。

「す……すぃ」

 女、だった。
 とはいえ背丈は170以上ありそうな上、メンズかユニセックスと思われる、色気のないタンクトップの下は凹凸の少ないスレンダーな体躯らしく、ともすれば中性的な美男子にも見えなくはない。

 しかもこの口調にこの威圧感だ。

「貴様、何度携帯に電話したと思っている。もうとっくに待ち合わせの時間は過ぎているぞ」

「いや、あの……」

 テーブルの横に仁王立ちして漸を睨みつけている大迫力の女。その気迫に、バイト店員たちも「他のお客様のご迷惑になりますので」のきっかけを見い出せずにまごまごしている。

「粋(スイ)、あの……これにはワケがあって~」

「何だ。聞いてやる。言ってみろ」

 佳人は半ば気圧されながら、二人のやりとりを見守っていた。

 漸はおもいっきりうろたえながら慌ただしく目線を泳がせる。

 必死に言い訳を検討しているらしかった。

 そのうちにぱっと佳人と目が合い、途端ににっこり笑った。

 嫌な予感がした。


「実はこいつをスカウトしてたんだ~」

「スカウト?」

 佳人は粋と呼ばれた女と綺麗にハモって反芻した。

「そう、こいつ沢城佳人(サワシロ・ヨシヒト)っていって、高校の軽音部時代の仲間で、ドラム担当だったヤツなんだ♪」

「釘みッ……」

「ホントのコトじゃん」

 粋は切長の綺麗な目を佳人に向けた。

「そうなのか?」

「まあ……一応」

 ただし佳人は半分無理矢理漸に入部させられて、部室に顔を出すこともほとんどない幽霊部員だったのだが。

「粋、固定のドラム欲しいって前から言ってたじゃん。だからさぁ」

「ほう、成程」

「……釘宮、お前何ゆーて」

「それなら早速今日の練習に付き合って貰うか」

「おい!」

 当事者の意志を確認することもなく、なんだか勝手に話が進んでいる。

「……いいから! とりあえず付き合って! なっ。おれ会計してくる。コーヒー代出しとくよん♪」

「釘宮っ」

 伝票を持って駆けていく漸を追い掛けようと立ち上がったせつな、

「……悪いな、あんた。巻き込んで」

 粋がさっきまでとはうって変わった穏やかな声で話しかけてきた。

「……スカウトってのはあいつのデタラメだろ。大方高校の同級生にばったり出くわして、懐かしくて話し込んでしまった。そんなところか」

 呆れたような笑みを浮かべる。

「……気付いとったならなんでゆーたらんのです?」

「蝉(ゼン)はバンドの仲間だからな。その友人なら私も興味がある。本当にドラムをやっていたならどれほどのものか聞いてみたいしな」

「……別にただ、あの頃部にドラムを叩けるヤツがほとんどおらんかったから……釘宮がオレに頼んできたってだけですから」

「名指しで頼んだ、ということはあんた……ドラム経験者だったんだろ?」

 鋭いツッコミが回り込むようにして佳人を少しずつ追い込む。

「……中学時代にかじっとっただけです。ガキの遊びですよ」

「ウソばっかり。ものすごーくガチでやってたクセに。隠さなくてもいいじゃん」

 いつの間にか会計を済ませた漸が、釣り銭をしまいながら戻ってきた。

「スゴい真剣に、でも楽しそうにドラムやってたよっちんを知ってるから、おれは誘ったんだけどな~」

 まるで古い日記を他人に無断で紐解かれたような気分を味わいながら、佳人は視線を床に落とした。

「……だとしても昔のことや」

「その情熱はもう冷めてしまった?」

 粋が、べりーショートのサイドを少しかき上げながら笑う。

「……私がもう一度惚れさせてやろうか?」

 心臓を射すくめるような、眩しい微笑だった。

「今度は一生抜け出せなくしてやるよ」


 今まで受けてきたどの口説き台詞より脳髄を痺れさせる、甘く、キツイ毒を含んだ言葉だった。








 太陽はもうすぐ南中に昇りつめようとしていた。

 それは栄光の時。

 束の間の黄金の季節。

 もっとも高いところを過ぎ、もっとも暑い時が過ぎたら、そのあとはただ黄昏の闇へと静かに落ちていくしかないということを、まだ人々は忘れている。












《END》
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 道玄坂プロポーズ事件。

 これを知っているか知らないかで、heliodor(ヘリオドール) のファンは新規と古株に分けられると言われる。


 そしてこれは偶然にもその歴史的現場に居合わせてしまった男の物語。


 東京の空を初雪が舞った、その寒い夜。

 釘宮漸(クギミヤ・ゼン)はまだ蝉(ゼン)ではなかった。










#4・【蝉 ―2000・冬―】







「クギミヤ? 釘宮漸……って名前だったのか、お前」

 ああ、また聞かれるかな? と思った。

「ピアニストの釘宮高槻(クギミヤ・タカツキ)の親戚か何かか?」

 漸はいつも通り、

「……違いますよ♪」

 と軽く返事した。心の中で「今はまだね」と付け足しながら。

「そうか、よくある名字ではないからもしかしてと思ったが」

「よく聞かれるんですケド、そんなわけないじゃないっスか」

「まあな……」


 今日のクリスマスイベントのトリを飾るバンド・《foi(フォア)》は、たった今リハを終えたところだった。
 このバンドの正式メンバーではない漸ではあったが、まさか本番当日まで名前を覚えてもらっていないとは思わなかった。

 もっとも中抜けして入ったこのファーストフード店でこうして向かい合わせでハンバーガーにかじりつくまで、まともにメンバーと食事をしたことすらなかったのだが。

「大体お前は付き合いが悪すぎる。ミーティングにも滅多に参加しないし、練習が終わればあっという間に消える」

「それはその~、おれってばいつも予定ぎっちりなんですよ……だから~」

「苦手なら無理に敬語を使うな。タメなんだろ」

「え、いいの? サンキュ☆粋ちゃん」

「ちゃん、はやめろ。ちゃん、は」

 見た目も中身も男前ではあったが、《foi》のベーシスト・粋(スイ)は女だった。

 四人編制のバンドの中で女なのは粋ただ一人で、他のメンバーと行動をともにせず、何故か彼女はいつも一人だった。

 だから漸も思わず、こうして誘ってしまったのだが。

 昔から、群れからはみだしてぽつんとしている人間を見つけると構いたくなる性分なのだ。

 お節介だとはねのけられることも少なくなかったが、それでも漸のクセは直らなかった。

 幸い粋は漸を疎むことはなかった。

「お前、いくつ掛け持ちしてるんだ」

「13……かなぁ」

「13……? 全部サポートなんだろ?」

「そう」

「1つのバンドに腰をすえる予定はないのか?」

 これもまた、よく投げ掛けられる質問だった。

「おれは……そんなにマジでやってるカンジじゃないし……」

「マジでやってるカンジ、になってみたらどうだ。お前はなかなかいいぞ」

 この寒いのにLサイズのコーラを飲みながら、粋は半分説教でもするように言った。

「技術はまあまあだし、少なくとも、うちの男どもよりはずっと面白いプレイをする」

「そんなこと言っちゃっていいの?」

「ああ。嘘を言っても仕方がないだろ。お前だってそう思っているんじゃないか?」

「……ぶっちゃけ」

「だろ」

 粋は深く溜め息をついた。

「見た目ばかり気にする奴らだ。私のことも、客寄せパンダ程度にしか思っていない」

「いくらなんでもそれはないんじゃない? ……みんな粋の腕を見込んでメンバーにしたんじゃ……」

「この間なんて面と向かって、ボーカルに転向しないかと聞かれたぞ。お前が前に出たほうが客が呼べるからだそうだが?」

 流石の漸も頭痛がしそうだった。

「……あのさ。なんで、そんな奴らと組んでんの?」

「好きで組んでいるわけじゃない。何度か見所のある連中に打診したこともある。だが」

 粋は自嘲的な微笑を浮かべた。

「女はいらない、と」

「そんな……」

「仕方ないだろ。真剣にやってるバンドなら無用なトラブルを抱えたがらないの当然だ」

 確かに、女が入ることで恋愛絡みのイザコザが起きて分裂したりするバンドも少なくはない。
 もっと単純な偏見もあるのかもしれないが。

「なめられないようにはしているつもりだがな……半分諦めている」

「いっそギャルバンでも組んだらどうよ?」

「そうだな……それもまあ、いいかな……」

 本気かどうかよくわからない返答をしながら粋はまたコーラをすする。

「……降ってきたな。天気予報が当たった」

 言われて窓の外を見ると、ちらほらと白いものが降りてきていた。

「おお、ムードあるじゃん、いいねいいね♪」

「そうか? 私は雪は嫌いだ。引退したら余生は雪の降らない街で暮らしたいもんだな」

「余生って……いっくらなんでも今からそんなこと考えなくていいじゃん」

「お前が言うのか?」

「え?」

 粋が目を細める。

「自分のキャパシティをオーバーするほどのバンドを掛け持ちして、毎日毎日弾き続けて、お前は何か生き急いで見える。余命宣告でもされているのか?」

「それは……」

「まあ、どうするかはお前の勝手だが」

「……どうするか……って」


 どうするかは決めている。
 というか、決まっている。

 約束は守らなければいけないから。

 だから、もう。

 時間は限られている。

 立ち止まっている暇はない。

 しかし。


 本当にそれで、いいのだろうか……?











 イベント本番はつつがなく進行し、foiの演奏も残すところ一曲となった。

 ボーカルの長いMCの間、粋はタオルで汗を拭きながらキーボードのところへ下がってきた。

「……お前、演奏中はバカに見えないな」

「えぇ~、それじゃ普段おれがバカみたいじゃん」

「それはボケか? ツッコんでほしいのか?」

「いいんだケドさぁ……」

 粋が近くにいると、オーディエンスの視線が自分のほうに集まってくるような気がする。
 ボーカルの大して中身のないMCなどみんなどうでもいいのだろうか。

 誰もが感覚的にわかっているのだろう。このステージの主役が誰なのか。


 他愛ない話をしている間に、ボーカルの長話は終わろうとしていた。

「さて、戻るか」

 粋がポジションに戻っていくのを目で追っていると、漸は客席に妙なものを見つけた。

「……なんだあれ。あの赤いの」

 漸や粋のいる下手側の壁際からなんだかすごい目付きでステージを睨んでいる赤い長髪の男がいる。

 客の99パーセントが女しかいないせいもあり、やたらと目立って見えた。

「ちょっと待ってくれ、私は聞いてないぞ」

 粋の声で意識をステージに引き戻された。

 気が付けばなんだか客席全体がキャーキャーうるさいことになっている。

 赤いの、に気をとられていたとはいえ、それに一瞬気付かなかったとは自分で信じられないほどのお祭りぶりだった。

 一体、何が起きた??


「ほら~、みんな粋の唄聞きたいって言ってるから」

「嫌だ。誰が唄うか。私はベーシストだ」

 無理矢理マイクを押し付けようとするボーカルと、拒絶する粋のやりとりで、漸はついさっき粋が話していたことを思い出した。


「……信じらんない……接待カラオケじゃないっての……」

 漸は思わず小声で吐き捨てて、前に出ようとした。

 が。それより先にずんずん前に出てくる奴がいた。客席から、ステージに向かって。人垣を押し退けるようにして。

 それはあの、赤いの、だった。



「マイクとギターをよこせ。俺が唄う」



 何故か、よく通るいい声だな、などと思ってしまった。

 実際はそんな呑気な状況ではない。

 なんだかよくわからない奴が勝手にステージに上がってきているは、客席はドン引きして静まり返っているは、メンバーは殺気立ってくるは、もうどうあがいても平穏にイベントが終了してくれるとは思えなかった。


「あんたは……?」

 あの粋ですら完全に面食らっている。

「自己紹介は後でしてやるよ。とりあえずどアタマにやった曲、もっかいやれ。ギターとボーカルは俺がやってやる」

「やってやる、って、出来るのか??」

「寝惚けたこと言ってんじゃねェ。わざわざ恥をかきにこんなとこまで出てくる奴がいるかよ」

 赤いの、はfoiのギタリストに掴みかかる勢いでギターを略取する。やりたい放題だ。

 ハコのスタッフは一体何をやっているのだろう?
 と思ったが、どうやらこれが意図された「演出」なのかどうか計りかねているらしい。

 それくらい現実離れした出来事だし、なにしろ今日はクリスマス。
 多少のサプライズはあってもおかしくはなかった。

 まあこれが、多少、かどうかは怪しいところだったが。


「ちょっと待てよぉ部外者がなにしてんだよ」

 ボーカルの男が食ってかかる。

 赤いの、はさっきステージを見ていたのと同じ目付きでボーカルを睨んだ。

「うっせェな、耳障りな卑しい声でわーわー言ってんじゃねェよ。お前こそとっとと消えて無くなれ」

 赤いの、が粋の腕を、掴んだ。

「このベーシストは俺が連れていく」

 どよめきが広がる。

 赤いの、は粋へ振り返った。

「心配するな。きっとすぐにお前は俺について来てよかったと思う筈だ」

「……」

 呆然としていた粋は、しばらくしてから苦笑に転じた。

「私を拐いに来たのか?」

「そうだ。俺について来いよ。絶対に後悔はさせないから」



 何故か客席から黄色い悲鳴が上がった。












「疲れた……マジ疲れた……」

 楽屋に戻るなり漸は椅子にへたり込んだ。

 結局一曲どころか時間ギリギリまでアンコールを四回も繰り返した。

 もちろんあの赤いの、がボーカルをとった。

 歌詞は半分以上適当だったが、メロディは完璧に再現していた……いや、完全に自分のものにして昇華していたと言うべきか。

 オーディエンスは完全に、赤いの、を受け入れていた。

 それは漸も同じ。

 そして……。


「俺と、来るよな?」

「……ああ。拐われてやってもいい」

 あんなに楽しそうな粋を見たのは誰もが初めてだったに違いない。

 二人がステージで握手をした瞬間は、誰もが思わず拍手していた。

 しかし、一緒になって呑気に拍手をしていた漸に、いきなり赤いの、が振り返ったのは思いがけないことだった。


「おい。お前も来たかったら来ていい。どうする?」

「え?」


 二人は真っ直ぐに漸を見つめて、答えを待っていた。そして漸は……。


「……俺も、行きたい……かも」


 その瞬間を思い出して、漸は一人で笑ってしまった。

 道は決まっている筈なのに、なぜあんなふうに答えてしまったのか。

 自分でもよくわらない。

 わからないが、多分それは本心だった。


「……もうちょっと……もうちょっとだけ寄り道、いいかな……お義父さん」








 夜明けを待っていた。

 今、待ちかねた太陽が地平線からようやく姿を見せた。

 日が昇る。

 新しい時代が、ここから始まる。











《END》
 絞り出すような震えた声で言った。

「……どうしてわざわざ俺にそれを教えに来やがった」

 もしも知らなければ。

 何も知らなければ。

 疑うこともなく。

 いつまでもいられたのかもしれない。

 偽りだったとしても。

 それを、真実と信じて。

「……お前が苦しんであがくところが見たいんだ。俺はサディストだからな」

「……っ」

 投げつけた質素な花束が、肩口に当たって、花弁を散らしながら落ちたが、男は構わずに冷笑する。

「お前の前に道は二つしかない。音楽を捨てて俺から逃げるか、音楽で俺を越えてみせるか、だ。さあ、どうする? ……錦(ニシキ)」






 金色の太陽が、世界をあまねく照らす時がきたら。

 吸血鬼は灰に還るのだろうか。








#5・【紅朱 ―2007・春―】







「ねえ、リーダー」

「なんだ?」

「今日でボクは一年目だ」

「……ああ、そういうことか」

 万楼(マロウ)と名乗る風変わりな少年が、遠く四国からやって来た日。

 heliodorのベーシストになりたい。
 いや、ならなくてはいけないと少年は言った。


「リーダーは、とりあえず一年間ボクを使ってくれると言った。ボクは、どうだった?」

 紅朱と万楼が二人きりになることは普段ほとんどない。

 ただミーティングにはいつも真っ先に来て待っている玄鳥(クロト)が珍しく遅れ気味で、その次に早い二人が先に待ち合わせのカフェにいたというだけ。

 この二人が二人きりになるという状況は、少なくとも紅朱には気まずいものだった。


「……まあまあだな」

 自分の言葉に、棘があることには気付いていた。

 いつも万楼に対してはこうなってしまう。

「……もうしばらくは使ってやってもいい」

「……よかった」

 笑顔で胸を撫で下ろす万楼は、本当は傷付いているのだろうか。

「……ボクはまだここにいていいんだ」

 メンバーも、ファンも、同業者すらも、今や万楼の力を認めている。

 認められないのはリーダー……紅朱(コウシュ)だけだった。

 認めてやりたいと思っているのに、いつも突き放してしまう。

 真っ直ぐ向き合うことができない。

 決着をつけられない。

 別れすらも告げられず、理由も知らされずに終わってしまった絆が縛る。

 右手にギターを。

 左手に、彼女を。

 あの日々はもう、過去になってしまったのに。

 それでもこのまま忘れてしまうことは、何か大きなものを手放すようで恐ろしい。

 心の奥の大切な部分が、うつろになってしまったら……遠い昔に立てた誓いすらも崩れてしまいそうで。


「リーダーって、強い人だね」



 しかし紅朱が思い知ったのと逆のことを、万楼はあっさりと口にした。

「きっと忘れてしまえば楽になるのに、ずっと忘れないでいるんだよね」

 まだ水とおしぼりしか置かれていないテーブルの上に、万楼はそっとポケットから取り出したものを乗せた。

「この子は忘れてしまった。きっと、覚えていることが怖かったから、忘れることにしたんだ」

 サブウインドウの欠け落ちた、錆びと傷だらけのシルバーの「携帯電話」。

「そしてボクも……」

「記憶の欠落はお前のせいじゃねェだろ……それに、携帯はもう直らねェけど、お前はそうじゃねェからな」

「うん。ボク、頑張って思い出すよ。だから……もう少しだけボクをここにいさせてね」

 紅朱は舌打ちした。万楼に対してではなく自分自身に。

 フォローのつもりで口にした言葉すら所詮は利己的なものだった。

 こうしてこれからも利用していくつもりのか。

 鮮やかな粋の面影を持つ都合のよいベーシストとして。

 いつか粋を取り戻すための、重要な手掛りとして。

 万楼は一度もそれに不満をもらしたことなどなかった。

 だが本当は万楼とて一人の仲間としてバンドに受け入れてほしいと思わない筈がない。

 いつまでも形だけの正式メンバーでいいわけがない。

 万楼はそれ以上その話題には触れず、メニューを広げて、にこにこしながらスイーツの品定めを始めた。
「有砂(アリサ)は、今日も遅いかな。有砂が来る前にパフェ食べておこうかなぁ」

「……残念やったな、今すぐそのページは閉じてもらうで」

 欠伸をしながら現れた有砂が、万楼の隣に座るや否やスイーツのページをめくって隠してしまう。

「あ。なんだ今日は早いね」

 実際には30分近く遅刻しているのだが、有砂にしては確かに早かった。
 だがそれよりも入ってくるタイミングが良すぎる。

 案外二人が話しているのを見て、一段落する頃を見計らって入ってきたのかもしれない。

 個人主義者のような顔をしているが、案外周りの空気には敏感な男だ。

「有砂、甘いものが嫌いだなんて人生を半分損してると思うよ」

「ジブンこそせいぜい糖尿病には気ぃつけることやな」

「あは、心配してくれてありがとう」

「……あのなぁ」

 少々わかりにくい態度をとってはいるが、有砂は万楼を可愛がっている。
 バンドのリーダーとして有砂を五年間見てきた紅朱にはよくわかる。

「じゃあやっぱりメロンソーダかなあ」

 楽しそうにメニューを眺める万楼を横で見ている姿は、まるで面倒見のいい兄のようですらある。

「うぁ、ラブラブ~。おれちょっとジェラシーなんだケド」

「……アホか。どんな第一声や」

 続いてやって来た蝉(ゼン) が他の客には若干迷惑であろうテンションで、紅朱の隣に座った。

「よっちん、万楼ばっか構うしさ~、長年育んだおれとの愛はどこいっちゃったのって感じ??」

「しかし、玄鳥が遅刻とは、今年の夏も異常気象確定やな」

「え、普通にスルー?」

「ああ……妙だな」

「ねえ……誰かツッコんでよ」

「とりあえずオーダーしようよ。ボク、やっぱりメロンソーダ!!」

「しくしく」









「ごめんなさい!!」

 玄鳥がカフェに到着した頃には、テーブルの上のコーラと、メロンソーダと、ブレンドコーヒーと、オレンジジュースが半分以上減った頃だった。

「ホントにすいません!」

 気の毒なくらい慌てながらぺこぺこ頭を下げる玄鳥だったが、遅刻を責めようとする者はいなかった。

 待ち惚けしたメンバーのうち二人は常習犯、他の二人も、ことがイレギュラー過ぎたので腹を立てるよりも心配や好奇心が先に立つ。

「何かあったのか?」

 代表して問う実兄に、弟は苦笑いする。

「……ごめん。えっと……寝坊」

「綾(アヤ)」

 少し口調を硬質なものに転じる。

「別に遅刻はいい。でも下手な嘘をつくのは気にいらねェ」

 その瞬間、玄鳥の顔に明らかな動揺が走った。
 全員がそれを黙って見守る。
 紅朱が指摘するまでもない。玄鳥はheliodorで一番嘘をつくのが苦手な男だ。

「正直に言えねェような理由か?」

 更に問いつめた。
 いつもの玄鳥ならここで諦めて、本当のことを打ち明けるのだが、

「……対した理由じゃないよ……遅れたのはホントにごめんなさい。ミーティング、始めましょう」

「……綾?」

 もう一度問おうとした紅朱から、玄鳥はさりげなく目をそらした。

「ま、いんじゃない?」

 あっけらかんとした口調で蝉が間に入ってきた。

「玄鳥だっていい大人なんだし、さ。紅朱だって、弟に言えないことの一つや二つあるっしょ?」

「っ」

 目の前に、あの景色が広がった気がした。
 強風が砂埃を舞いあげて、灰色にくすんだ小さな墓地の風景。

 舞い散る花びらと。

 嘲笑う声。












「……綾は、そのこと知ってんのかよ」

「……もちろん知らないだろう。別に俺が教えてやってもいいが」

 ざりっ……と砂利を踏みしめた。

「……言うな。言ったらお前を殺してやる。絶対に殺す……」

 誰かに対してこんなに怒りを燃やしたことは今までなかった。

 「浅川錦」の人生を、今まで、と、これから、に分けた風の午後。


「殺せないさ。……俺は吸血鬼だから」










「……兄貴?」

 自分とほとんど同じ造りの顔が、自分には絶対にできそうもない表情で顔をのぞきこむ。

「ごめん……あの……そのうち、話すよ」

 記憶に捕まって沈黙してしまったのを、気分を害したからだと受け取ったのだろう。

「いや、もういい。早く座れよ」

 言えないことの一つや二つ。
 確かにある。

 玄鳥に隠していることが、紅朱には二つあった。

 どちらもこのまま墓まで持っていくつもりの秘密だ。

 だがもしかしたらこの時。

 もう少し強く玄鳥を問いつめていたら、数ヵ月後に発生するあの事件は起きなかったかもしれないが……。















 太陽の光は強まるほどに、濃い影を生む。


 「欠落感」という影。

 「劣等感」という影。

 「孤独感」という影。

 「焦燥感」という影。


 そして、

 「執着心」という影。



 白昼にあっても、そこには宵闇の王が棲んでいるのかもしれない。

 その暗黒に光を投じる者がやがて現れることに、彼らはまだ気付いていない。。

 そして彼女もまた……。









「美々(ミミ)お姉様、わたくし、とうとう念願の独り暮らしを始めましてよ」

 紅朱たちの席の対角線上にある、最も遠い席では呑気で優雅なティータイムが繰り広げられていた。

「えッ、ホントに? よかったじゃない。よくパパさんからオッケー出たね」

「ふふふ。わたくしの熱意に、お父様もとうとう根負けされましたの。これで気兼ねなくベッドルームにもダイニングにもリビングにも好きなだけ伯爵(カウント)様のポスターを貼ることができるというものですわ!」

「はいはい、まったく……あんたはなんでも高山獅貴(タカヤマ・シキ)のことばっかなんだから……。折角独り暮らしするんだから、もっと身近な男の子でも捕まえて部屋連れ込んじゃえば?」

「まあ……美々お姉さま、何をおっしゃるの? わたくしは幼少の頃より生涯伯爵様をお慕いすると決めておりましてよ。他の殿方など考えられませんわ」

「……これだもんなぁ。まったくもう。ある意味羨ましいお嬢様だよね……日向子(ヒナコ)は」


 咲き誇る薔薇のような微笑を浮かべて、彼女は左手首の月の意匠のシルバーブレスをそっと撫でた。

「……愛しの伯爵様……わたくしとの約束を覚えていらっしゃいますか……?」



 彼女と彼らの運命はまだ交わらない。

 しかしその日は、何の前ぶれもなく、やがてやってくるのだ……。









《END》
「はいはい、リズム隊しゅーごー!」

 つき抜けるような、耳に優しくない声がスタジオにこだました。

「どうしたの? 蝉。お菓子くれるの??」

「……まったく、やかましい奴やな」

 「リズム隊」とくくられた二人は片や不思議そうに、片や迷惑そうに声の主を振り返った。

「はいはい、とにかくこっち来るの~!!」

 蝉は、万楼と有砂を半ば無理矢理引っ張って、スタジオの外の自販機の横に並べた。

 そしておもむろに、二人を指差してこう言い放った。

「言っとっケド! キミたち絶対に、あのお嬢様記者ちゃんに手ー出しちゃダメだから!」








《僕たちは、彼女と出会った》













「え?? 何それ」

「薮から棒に……何ゆーとんねん。ジブン」


 お嬢様記者といえば、この間のイベントライブで楽屋まで直接取材交渉にやってきた、かなり風変わりな新米雑誌記者のことに違いないが……。

「あのお姉さんに手を出しちゃダメってどういうこと? 蝉、あのお姉さんが好きなの?」

 万楼の問いには首を横にしつつも、蝉は柄にもない難しい顔をして頭をかいた。

「いや……そーゆーんじゃなくて、さ。おれ的に、あのコになんかあるとヤバイっていうかぁ……路頭に迷うっていうかぁ、むしろ殺されかねないわけよ」

「……はあ?」

 有砂はいぶかしげに眉をひそめる。

「……ジブンの知ってるオンナやったんか? アレ。こないだはジブン、顔見るなり逃げ出しとったみたいやったけど」

 蝉はいよいよバツの悪い顔つきで、視線を泳がせる。

「……よっちんには昔、話したじゃん……例の……ほら」

「例の……って、まさかあれが、ジブンの?」

「そゆこと」

「ねえ、何の話?」

 一人だけ蚊帳の外にされてしまった万楼が二人を交互に見る。

 有砂は一つ溜め息をつくと、

「大人の事情や」

 めんどくさそうに呟いた。

「……蝉はどうなっても別にかまへんけど、流石にそんな厄介なオンナはオレもお断りや。……万楼もやめとき」

「んー……よくわからないけど、わかった」

 
 これ以上ないくらい曖昧な返答ではあったが、蝉は一応安堵の表情を浮かべた。
 しかし万楼は、こう続ける。

「でもさ、お姉さんと友達にだったらなってもいい?」

「え?」

「これから半年間も色々取材しに来るんだしさ、仲良くなるのはいいでしょう? 遊んだりとかして」

 蝉は少し首をひねったが、

「ま、万楼ならいいケドさ……」

 と譲歩し、

「よっちんは不可で」

 とキッパリ言い捨てた。

「……なんや人を危険人物扱いしよって。別にオレはああいうタイプ興味ないし、困らへんけどな」

「よし、じゃあそれで二人は、オッケーってことで」

 蝉は「二人は」のところに意識的にアクセントをつけた。そしてゆっくり後ろを振り返る。
 その意味を察したリズム隊は揃って視線を同じ方向へシフトする。

「うん、ボクたちはいいとして……」

「あれは一体どうするつもりや? 蝉」

「……ソレが問題だよね~……やっぱ」

 あれだソレだと囁かれている問題の人物は、三人のすぐ近く、ロビーのあまり座り心地のよろしくない長椅子の端に座って、壁に頭を預けるようにしながらぼんやりしていた。

 ぱっと見ただけではうたた寝でもしているかのようだが、よく見るとたまに溜め息をついたりしている。

「あれからずっとあの調子だもんね……玄鳥は」

「……一応、ギター持ってる時はいつも通りなんやけどな」

「……やっぱ心を鬼にしてあいつにも言っとかないとだよなぁ」

 蝉は、よし、と心の中で決意を固めた。

「玄鳥! ちょっとオマエもこっち来て!」

「……」

「ノーリアクションだね」

「聞こえてへんな。完全に」

 呆れているのか楽しんでいるのかよくわからない二人を横目に、蝉は再度呼び掛けを試みる。

「おーい! 玄鳥~!?」

「……」

「もしもしぃ? 浅川さん家の綾くん!?」

「……」

「あ、日向子ちゃんだ」

「えぇっ!? ひ、日向子さん!!?」

 玄鳥はそれまでが嘘のような素晴らしい反射速度で完全に声を裏返らせながら、半分前のめりで椅子から飛び上がった。

「いるわけないじゃん、こんなとこに。マジ重症って感じ……可哀想に」

「……蝉、さん?」

 玄鳥はようやく我に返ったように蝉のほうを見た。

「重症って、何の話ですか??」

「……オマエのコトだって」

 ぽかんとしている玄鳥。そこまでの一連の流れを見ていた万楼が、ふと口を開いた。

「大丈夫、ボクは玄鳥を応援するからね」

「え? 何?」

「玄鳥と記者のお姉さんは結構お似合いだと思うよ」

「……ッ」

 瞬時に、玄鳥の顔はあまりにもわかりやすく色付いた。

「……お似合いって……そんな……俺は別に」

「遅れてきた春か……よかったやないか」

 有砂がふっと小さく笑った。

 玄鳥は何か言い返そうとしていたが、それより早く蝉が動いた。

「ちょっ、二人ともそんな発破かけるみたいなコト言っちゃダメじゃん! これ以上本気んなっちゃったらどーするワケ!?」

「本気……?」

 玄鳥がぽつりと反芻した。

「え? だってボクは手を出さない約束はしたけど、他の人の恋路を応援しちゃいけないとは別に言われてないし」

「恋路……?」

 まるで初めて聞いた言葉のように、玄鳥は繰り返す。

「ダメに決まってんじゃん!!」

「……まあ、そんなに目くじら立てることないんちゃうか。温かく見守ったれや……玄鳥がオンナに惚れるなんて滅多にないことやしな」

「……惚れ……あっ」

 そして玄鳥はまるで長い夢が覚めたような顔で呟いた。

「そうか……俺は今……恋してるのか……」


 体感時間にして10秒、実際には2秒半ほどの沈黙のあと、三種類の笑い声がロビーに響き渡った。

「……え?」

「あははははは、玄鳥面白すぎるよ!」

「くく……らしいねんけどな、そういうとこが」

「うひはははっ……! ハラいてーっ……やばい、超名言!」

「……あの、なんで笑われてるんだか全然わかんないんですけど……とりあえず怒っていいですか?」

 若干引きつっている玄鳥をよそに三人は笑いが収まるまで一頻り大騒ぎしていた。

 なんとか落ち着いたところで、蝉は軽く咳払いして、不機嫌な顔の玄鳥の肩に手を置いた。

「残念だケド相手が悪すぎるから。高嶺の花ってのはわかるっしょ? マジで諦めたほうがいいんじゃない?」

「……蝉さんって、一体あの人のなんなんですか……?」

「それは……」

 打ち明けるべきか。

 打ち明けざるべきか。

 蝉が躊躇っているうちに、


「騒ぐんなら中で騒げよ……迷惑な団体だな」

 コンビニまで出かけていた紅朱が、ビニール袋を引っ掛けながら戻ってきた。

「建物の外まで笑い声が聞こえてたぞ。何かあったのか?」

 その問いだけで、先程の玄鳥の発言を思いだし、三人は吹き出しそうになるのを必死で堪えるはめになった。

「た、大したことじゃないから。兄貴は気にしなくていいよ」

 玄鳥は三人を恨めしげに見やりながらもごまかしにかかった。
 この上実兄にまで爆笑されてはたまったものではない。

「ま、なんでもいいけどな……それよりお前ら、俺はこの後用事が出来ちまったから、ちょっと抜けさせてもらう。楽器隊だけで練習続けててくれ」

「用事? 随分急だね、リーダー。何かあった?」

「ああ、大した用じゃないんだが、ちょっと森久保日向子の家に行ってくる」




「は??」




 一瞬にして、その場にいた全員が言葉を失った。

「別にいいってのに、この前の礼に持ってけって、実家から野菜が大量に送られてきちまって」

 紅朱はその空気を察することなく平然と、話し続ける。

「しょうがねェから明日か明後日にでも届けようと思って連絡したら、今日しか都合が合わねェって言うから」

「……兄貴、日向子さんの連絡先、知ってたんだ……?」

「あ? おお、帰り際に携帯教えてったからな。それがどうかしたか?」

「……」

 玄鳥は苦手な刺激の強いガムを大量に口に放り込まれたような顔で軽くよろめいた。

「……おい、しっかりせいや」

「ほら、紅朱はリーダーじゃん! だからなんだって!」

 左右両脇から思わず支えてしまう有砂と蝉。

 それでもまだ紅朱はなんにも気付いていなかった。

「しかし、あの女も随分気に入られたもんだよな。野菜と一緒に入ってたババアの手紙に『あんな素敵なお嬢さんがお前のお嫁さんになってくれたらいいのに』とか書いてあってよ……わけわかんねェ」


「……母さんまで……あぁ……俺、もう無理かも……」

「玄鳥しっかりして。ボクが応援してあげるから」

「……なんでこんなに色恋に鈍感な奴がラブソングとか書けるんやろ……」

「ヤバイじゃん、こんなとこに伏兵がいるとは……」

「は?? お前ら何言ってんだ??」






 それはまだ始まったばかりの、あるラブストーリーの小さな欠片だった。















《END》
「わかりました。もう、お止め致しません。でもいつか、いつの日か必ず」

 涙を飲み込んで、言の葉を紡ぎ出す。

「わたくしをあなた様の花嫁にして下さい……そう、約束して下さい」

 こんなにもこの心を悲しませるのだから。寂しくさせるのだから。

「では、レディ。あなたはいつか、あなたの力でこの伯爵めに会いにいらっしゃい」

「わたくしの……力で?」

「その長い月日の間に、あなたはかけがえのないものをいくつも見付けるでしょう。それを全て手放す覚悟があると認めたなら、私はその時……あなたをさらっていきます」


 あなたがここに残したものは、冷たく光る銀の月。

 そして、たったひとつの約束。












《序章 太陽の国へ -Let's go,Rock'n'Role lady-》【1】









「まあ、編集長様……それは本当でしょうか?」

 新米雑誌記者・森久保日向子(モリクボ・ヒナコ)の前に今大きなチャンスが投じられた。

「そうだ。本来ならまだお前のような新人に任せる仕事じゃないが、特例として、本誌11月号から来年の3月号の5号連続、カラー1P企画を担当してもらうことになった」

「わたくしなどで、本当によろしいのでしょうか……?」

 孫がいてもおかしくない年齢ながら、透けるほどの金色に髪を脱色した、派手な赤いジャケット編集長は、デスクに並べられた企画書を眺めながらさかんに瞬きを繰り返す、それこそ娘のような年齢の部下に、なんとも不安げな眼差しを向けていた。

「俺が聞きたいよ。だが、井上が是非お前にと言うもんだからな」

「……井上……美々(ミミ)様ですか?」

「そう、あたしの推薦だよ。日向子」

 すぐ後ろのデスクで、日向子が最もお世話になっている大先輩が軽く手をひらつかせた。

「あたしの代わりにその企画、あんたにやってほしいんだ」








 その二人連れは揃って美人だったが、随分とミスマッチな取り合わせだった。

 片や褐色に近い肌をルーズなストリート系ファッションで包んだB系ギャル。

 もう一人は150センチあるかないかの小柄な身体に上品な白いスーツが微妙に似合っていない、ほわんとした雰囲気の女性……いや、少女という形容のほうが似合うかもしれない。


 周りの人々の視線を色々な意味で集めながら、二人は紅茶を飲んでいた。

 編集オフィス近くのこの静かなカフェで、昼食をとるのは日向子と美々の定番だった。

「……ってわけよ。ホント大変だった~」

 今日のようにお気に入りの窓際の一番奥が空いていた日などは、それだけでいつもより話が弾む気がした。

「まあ……美々お姉さまは本当にお忙しくていらっしゃいますのね~」

「そ。だから例の企画は日向子に譲ろうと思ってさ」

「けれど、他にももっと重要度の低い仕事がたくさんありますでしょう? なぜこの企画をわたくしに??」

「……別に、ただなんとなく、日向子ならって思っただけ」

 美々はパールのグロスで艶めく唇に苦笑の歪みを持たせる。

「結構ね、クセのあるバンドの取材だから。ある意味、日向子向きだと思う」

「はあ……それはどういう」





「チケットを送った~~ッ!?」




 突然、穏やかな午後を派手にぶち壊す声が、店内に響き渡った。


「迷惑だからあんまり大きい声出さないでくれよ。ただでさえ兄貴の声はよく響くんだから……」

「お前がこんなとこでそんな重大告白をしでかすからだろうが」

「別にいいじゃないか。来たいって言ってるんだから来たって……」


 何やら、日向子たち以上に目立つ二人組がカウンター席に座って言い合いしているようだった。

 日向子と美々からは後ろ姿しか確認できなかったが、男同士なのだが、一人は長い真っ赤な髪を椅子の位置より下まで垂らしていた。
 もう一人は短い黒髪をつんつん立てていて、そこを差し引いても連れより幾らか上背がありそうだった。

 しかし会話の文脈からするとどうやらこちらが兄弟の弟のほうのようだが。


「で、来るのかよ。明日」

「うん……平日だから父さんは無理だけど、母さんは絶対来るって……」

「お前、ちゃんとオールスタンディングだって説明したのかよ。あのババア、途中でくたばっちまうんじゃねェか?」


「まあ……」

 日向子は、短く呟いて、おもむろにカップを置いて立ち上がった。

「日向子……どうした?」

 美々の問掛けには答えず、日向子はすたすたと派手な兄弟(主に兄がだが)が座るカウンター席へ一直線に向かって行った。


「そのお言葉は、いかがなものでしょうか」


 赤い髪の男の横に立っての第一声がそれだった。

「は?」

 男が不機嫌な顔で振り返ると、日向子は一切臆することなく更にこう続けた。

「ご自分のお母様を『ババア』などとお呼びになってはいけませんわ。あまつさえくたばる、などとは冗談でもおっしゃらないほうがいいと、わたくしは思います」

「なんだよ……いきなり。あんた誰だ」

 相手も負けていなかった。

「なんでいきなり見ず知らずの奴に説教されなきゃなんねェんだ」

 普通の女子なら泣いても仕方がないくらいの勢いでにらんできた。

 だが幸か不幸か日向子は普通の女の子ではなかった。

「どうぞ、ご両親を大切になさって下さいね」

 にっこり微笑んで、ぺこりと頭を下げた。

「ではわたくしはこれで」

「は? ……おい」

「……あ、兄貴、とりあえずここ出たほうがいいよ。目立ち過ぎだから」

 完璧に唖然としている二人を残し、日向子は言いたいことだけ言ってくるりと踵を返し、またすたすたと美々の元へ戻って行った。

「日向子、あんた何やってるのよ」

 流石に呆れた顔の美々にも、一点の曇りもない笑みを向ける。

「一日一善ですわ」

「あ、そう……」

 もう早々にツッコむことを断念した美々は、会計を急いで済ませて立ち去ろうとしている兄弟を視線で追った。

「……なんか見覚えあるなぁ。あの二人……」










「……というような一日でしたのよ。雪乃(ユキノ)」

「左様でございますか……」

 高級住宅街を颯爽と滑る艶な黒塗りの超高級車の中に、あの笑顔がまた花開いていた。

「しかしお嬢様、そのように無闇やたらと無鉄砲な行動を取られては危険です。何かあってからでは遅いのですよ」

「まあ……本当に雪乃は心配症ですのね」

 日向子の話相手は、ほとんど表情を変えず、淡々とした慇懃な口調で受答えながらハンドルを握る、眼鏡をかけた黒いスーツの男だった。
 男は、バックミラーに映る、少しふくれた顔の美少女をちらりと見て、また前方に注意を向ける。

「私には、何があってもお嬢様をお守りする責任がありますので」

「そうは言っても、このように毎日送迎してもらっていては、全く独り暮らしの気分が出ませんわ……なんだかずっとお父様に監視されてるみたいですわね」

「……そう思って頂いても差し支えありません。それでお嬢様が自覚を持って下さるなら」

「まあ……雪乃ったら」

 日向子はふくれっ面を解除して、くすくす笑った。

「笑い事ではありません。お嬢様が所属されているマスコミ芸能、音楽業界にはとかく物騒な輩がはびこっているものと聞き及んでおりますゆえ。お嬢様におかれましては、今一度気を引き締めて頂きたく存じます」

「そんなものかしら」

「はい」

 日向子はぐっと伸びをして息を吐いた。

「……ねえ? 雪乃」

「はい」

「雪乃は、小さい頃からなんでもお父様の仰るように、命じられた通りになさってますわよね」

「はい……ご希望に沿える限りはそのように」

「でも何かを、自分の意思と力で、自由にしてみたいとは思ったことはありませんの?」

「……私は今も特に不自由だとは感じておりませんので、何ともお答えし難いですね」

「そう。わたくしはね、ずっと不自由を感じていましたわ。
けれど外で『森久保』と名乗るようになって、以前よりずっと自由な心持ちですのよ……。
『釘宮高槻(クギミヤ・タカツキ)』の令嬢だから、などと誰にも言われずに済みますもの」

 日向子は、バッグから取り出した、立派な革製のケースに収まった社員証を見つめた。
 それは『釘宮日向子』ではなく、『森久保日向子』の社員証だ。

 自由へのパスポート。

「わたくし、お父様に認めて頂くためにも今度のお仕事を、自分の力で絶対に成功させてみせますわ。雪乃も応援していて頂戴」

「……承知致しました」

 黒塗りの外車と遜色のない、超高級マンションの前で停車し、先に降りてドアを開けた雪乃に手を引かれ、 日向子はすとんと地に足をつけた。

「お嬢様、先日お伝えしましたように、申し訳ありませんが明日は私用の為お迎えにあがることができません」

「ええ、よろしくてよ」

「ご迷惑をおかけ致します。では、また明後日伺います」

「はい、ご機嫌よう」

 日向子は軽い会釈をして、マンションの中へと消えて行った。

 姿が見えなくなるまで見送った雪乃は、ひとつ溜め息をついて眼鏡を、外した。

「……あぁ、超しんどかった……」

 ぐったりしたように半眼して、短いダークブラウンの髪に指を突っ込む。

「でも……マジで結構、イタイとこ、ツッコんでくるんだよなぁ……あのコ」

 自嘲的な笑み。

「……ま、いいや。そろそろ着替えてリハ行かないとね」













「伯爵様、日向子は本日、また一歩伯爵様に近付くことが出来たような気が致します」

 若い女の子の独り暮らしにしては無駄に随分と広い3LDK。
 本人はもっと安くて小さい部屋がよかったのだが、父親が用意した部屋を使うというのが、独り暮らし許可の条件のひとつだったので仕方なかった。

 日向子が先月から暮らし始めたこの「城」には、ひとつひとつが、シンプルながら品の良い上質なインテリアや小物が並んでいたが、そんなものは目に入らなくなってしまうほど特徴的な要素があり、初めて入室した人間ならまずは間違いなくそこに驚くだろう。


 どの部屋にも決まって同じ人物のポスターが貼られている。

 中でも、グランドピアノが鎮座したピアノ室には、壁の半面を全て覆うほどの、タペストリータイプの特大ポスターが飾られていて、日向子は帰宅して最初にいつもこのポスターの前に立つのを日課にしていた。

「伯爵様……『高山獅貴(タカヤマ・シキ)』」


 冷たく冴えた眼差しで、ポスターの中からこちらを見つめる、どこか妖しげな微笑の男。
 それが彼女の敬愛して止まない伯爵様だった。
















《つづく》
 写真の真ん中に指を置く。

「赤い髪がボーカルの紅朱(コウシュ)様」

 そのすぐ右。

「黒い髪に白いメッシュがギターの玄鳥(クロト)様」

 その更に右。

「ワイン色の髪の背の高い方がドラムの有砂(アリサ)様」

 反対側。

「オレンジ色の髪はキーボードの蝉(ゼン)様」

 そして最後。

「白っぽいピンク色の髪の方はベースの万楼(マロウ)様ですわね」


「うん、合ってる。ちゃんと覚えられたね」

 美々は満足そうに頷く。

「彼等が『heliodor(ヘリオドール)』。あんたが担当するバンドだよ」










《序章 太陽の国へ -Let's go,Rock'n'Role lady-》【2】












「2000年冬、ボーカルの紅朱、キーボードの蝉、初代ベースの粋(スイ)による3ピースのメロコアバンドとして結成。
2002年夏、ドラムの……有砂が加入。
2004年秋、粋の脱退とともに突然の活動休止。
2006年春、ギターの玄鳥と2代目ベースの万楼を加えて、これも突然の活動再開。
再開以後はハードロックに移行したと言われているけど、これは主なメロディーメーカーが粋から玄鳥に変わったからだね。
結成当時から現代に到るまで音源はデモテの一本すら発表されてないから、初期のheliodorを知らないファンも多いって話」

「まあ……波瀾万丈なバンド様でいらっしゃいますのね」

 デスクに並べた資料に黄色い蛍光ペンでラインを引きながら、日向子は感心したように呟いた。

「ファンの方もさぞやご心配なさったでしょうね。わたくしも《mont sucht(モントザハト)》が解散して、伯爵様がおひとりで活動を再開されるまでは生きた心地が致しませんでしたもの」

「そっか~、あんたのルーツは《mont sucht》だもんね」

「ええ、《mont sucht》のデビュー曲をたまたまラジオで耳にすることがなければ今のわたくしはありませんでしたわ。
ああ、この声はわたくしの伯爵様……と、一瞬で確信致しましたのよ」

 手首を飾る月の意匠のシルバーブレスを指でなぞりながら恍惚とした表情を浮かべる、日向子のいつものクセが出始めたことに苦笑いしながら、美々はコホンと咳払いした。

「あんたの高山獅貴命はわかってるけど、伯爵様ネタはheliodorのメンバーの前では言わないようにね」

「……はい? 何故でしょうか」

「リーダーの紅朱がね……高山獅貴のアンチだから」

「アンチ……」

「そう。ファンの間じゃ超有名な話。heliodorのメンバーは全員加入する時に高山獅貴の踏み絵踏まされた、とかってネットで通説になってるらしいよ」

「まあ……そのようなことが?」

 世の中に色々な考えの人間がいるのは当然のことではあるが、自分の何より大好きなものが嫌いなどと聞くと少なからず寂しい気持ちになるのは仕方のないことだった。

「……それは残念ですわね」

「ま、嫌いなもんはしょうがないって。とにかくそこだけ気を付けてね。忠告は以上……はい、これ」

 美々は、ラインだらけの資料の上にそっと……チケットを一枚置いた。

「実際音聞かなきゃどうにもなんないでしょ? 今日、渋谷カルテットのイベントライブにこのバンドが参加するから、見ておいで」

 それは都内では比較的小規模なライブハウスで、日向子も何度か取材のアシストで先輩記者に同行したことがあった。

 資料で見たheliodorの現在の動員数からすれば、随分と狭い会場であり、更に対バンが4組もいるということであれば、単純に計算しても倍率が5倍である。恐らくファンにとってはプレミアとも言えるチケットだ。

「本来はシークレットに近いライブで、マスコミ関係者も遮断なんだけどね。知り合いのバンドが出るからなんとか一枚確保してもらったよ」

「美々お姉さま……わざわざわたくしのために?」

「厄介な仕事押し付けたんだからこのくらいは任せてよね」

 美々の面倒見の良さは日向子もよくわかっていることだが、この取材に関しては妙に気合いが入っているように感じていた。
 ただ新米の日向子を心配してのことなのだろうか。

 それとも美々はheliodorというバンドに何か特別な思い入れがあるのだろうか……?

 日向子には未だに美々がこの企画を自ら手掛けないことが不思議に思えてならなかった。

「あの……本当にわたくしが行ってよろしいのですか?」

 念を押すように問う。

「あたしは、日向子に任せる……あたしには出来ないことも日向子になら出来る……そう思うから」

 念を押すように答えが返ってきた。

 日向子はしっかり頷いて、チケットを手に取った。

 新たな決意を胸に抱きながら。










「まあ……あれは……!」

 いきなり立ち止まるなり、日向子はうっとりと斜め上を見上げた。
 通行人がちょっと迷惑そうに日向子を避けていく。

 視線の先にあったものは、大手CDショップの入り口……その上方を飾る広告看板だった。

《高山獅貴 New Single 「Phase of the moon」DROP》

 あの涼しげな眼差しが日向子を見下ろしていた。

 CD自体は当然のように予約して、一昨日の火曜に「フライングゲット」していたが、広告を見掛ける度に日向子はこの状態に陥る。

 そして今日は残念ながら、そんな日向子をたしなめてくれる人間は周りに存在しなかった。


 ドン。


「きゃっ」

 思いきり突き飛ばされて日向子の身体が前のめりに傾いた。

 そしてその瞬間、肩にかけていた白いショルダーバッグが、ぐっと引っ張られ、そして腕をすり抜けた。

「……あッ」

 慣性の法則に導かれてアスファルトに向かうところだった日向子の身体は不意に支えを得た。

「大丈夫??」

 くの字に曲がった細い腰を誰かの腕がしっかり支える。

「あ、ありがとうございます」

 体勢を立て直して声の主を見た。
 まるで白磁の人形のような美少年が大きな瞳で日向子を見つめていた。

 日向子の危機を救った少年は、少し前に流れた、薄桃色のサラサラした髪を横によけて微笑んだ。

「怪我はない?」

「あ、はい……でもバッグが」

「それなら多分、ちゃんと取り返してくれるから心配しないで」

「……え??」


 すぐに少し離れたところで大きな歓声が上がった。

「ほらね」

 美少年が視線を歓声のほうへスライドさせ、日向子もそれに倣い、すぐに驚きの表情を浮かべた。

「まあ……」

 歩行者が円形に避けてぽっかり空いた空間に、うつ伏せに倒れた中年男と、その肩口を足で踏みつけながら、男の手からバッグをもぎ取る青年の姿があった。

「ひったくりです。誰か、110番をお願いします」

 青年の声に、近くにいたサラリーマン風の男が急いで携帯を取り出していた。

 中年のひったくり男は完全に失神しているらしく、青年が離れても立ち上がるどころかぴくりとも動かなかった。

「大丈夫でしょうか……あのおじさま」

 思わず呟いてしまった日向子に、美少年は一瞬目を丸くした。

「お姉さん、ひったくりの心配をしてあげてるの? 随分優しいというか……」

「ただのマヌケちゃうか?」

 いつからそこにいたのか、日本人離れして背の高い別の青年が抑揚のない関西弁で淡々と評した。

「高そうなバッグぶら下げて、こんな往来でぼんやりつっ立っとったほうも悪いと思うで……」

 日向子は青年の顔を見上げて、ぱちぱち瞬きした。

「わたくしもそう思います。もう8回目ですもの」

「……8回目……?」

「わたくしは、バッグを持つのに向いてないんでしょうか??」

「……なんやそれ」

 思わず毒気を抜かれて唖然としている青年に、横の美少年が小さく吹き出した。

「面白いお姉さんだ……毒舌大魔王様に勝っちゃったね」

「……アホか。勝手にけったいな異名つけんといてくれ」

 仲がいいのか悪いのかよくわからないコンビを、とりあえず見守っていた日向子に、

「あの」

 背中から声をかけてきたのは、たった今ひったくり犯を成敗して大活躍したにも関わらず、一瞬全員に忘れられていたお手柄青年だった。

「これ……中身、確認してみて下さいね」

 奪還したバッグを差し出す彼を見て、日向子はあることに気付き、「まあ」と短く声を上げた。

 青年も気付いていたらしく、少し複雑な笑みを浮かべた。

「あの、昨日もお会いしましたよね? あの時はお騒がせしてすいませんでした」

 青年はカフェで遭遇したあの兄弟の、弟、のほうだった。

「いいえ、そのようなことよりも、危ないところを本当にありがとうございました。あなた様のおかげで大切なものを持っていかれずに済みましたわ」

「そんなに大切なものが入ってたんですか?」

「ええ、ですけれど……」

 日向子は唐突に顔を曇らせて、バッグを持っていた青年の手を、取った。

「えっ」

 青年は驚いて反射的に手を引こうとしたが、日向子は、離さない。

「わたくしのせいで、お怪我をなさいましたのね」

「えッ……いや、それは……ただ、えっと、バッグを取る時に、相手の爪がちょっと……ってだけだし……」

 何故か完全にしどろもどろになった青年の右手の甲に、赤くみみず腫れのような跡が2センチほど残っていて、じわっと血がにじみ出している。

「……あの、別に痛くもないし。問題ないんで……」

 その言葉は日向子だけでなく、連れの二人にも向けられているようだった。

 長身の青年は、

「……ま、仮に粉砕骨折してようが甘やかさへんけどな」

 と鼻で笑い、美少年は、

「男の勲章だね」

 と楽しそうに評した。

「少々お待ち下さいませ」

 日向子はいそいそと……いや、傍目からはかなり緩慢なアクションであったが、本人としては大急ぎでバッグを開いて、小さなポーチから絆創膏を取り出した。

「後できちんと消毒なさって下さいませね?」

「あ……はい」

 日向子は青年の手に、丁寧に絆創膏を貼って、その上から手を重ねた。

「お大事になさいませね?」

 少し小首を傾けてにっこり笑ってみせた。
 


 それが、いかに罪深い微笑みであるか。
 日向子本人はまったく気が付いていなかった。

 それも仕方ないだろう。日向子の手が離れた後も、固まったまま立ち尽くしている青年ですら、まだ自覚できていなかったのだから。


「……」

「どうかなさいまして?」

「え、いや……なんでも……その、早く、大切なものが無事か確認を……」

「あ、そうでしたわね」

 日向子は急いで(もちろん彼女なりの全速力で、ということである)バッグを探り、

「大丈夫ですわ。ちゃんとありました」

 今一番大切なもの……美々から貰ったライブチケットを取り出して見せた。

「あ」

 日向子を囲む三人は、ほとんど同時に声を上げた。

「はい?」

 不思議そうな日向子に、それぞれがどこか含みのある表情を浮かべた。

「あの~……何か??」











 太陽はその強大な引力で、運命を少しずつ引き寄せている。








《END》
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