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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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「日向子さん……こんな時間にどうしたんですか?」

「申し訳ありません……玄鳥様、わたくし今夜はなんだか眠れませんの……」

「そうですか……実は俺もなんです」

「まあ……玄鳥様もですの……?」

「壁一枚隔てた部屋にあなたがいるんだと思うと、胸がドキドキして……」

「……わたくしも、同じ気持ちですの」

「……日向子さん……!」

「……玄鳥様……! がばぁっ、ぶちゅー……ってそんなのマジで絶対無理っ!! ありえなーい!!」

「ぶちゅー!? がばぁっはまだしもぶちゅー!? そんなことになったらボクはもう玄鳥と口きかない!!」

「おれはそんな、よっちんみたいなハレンチな子に育てた覚えはないぞっ玄鳥!!」

「あんなに真面目でいい子だった玄鳥が……有砂2号に……ううう」

「いや、今ならまだやり直せるっ! 玄鳥! 怒らないから戻っておいでっ、おれたちのところへ!!」

「玄鳥ーーっ!! カムバーック!!」





「……で? 救急車と霊柩車、どっちに乗りたいんや?」









《第4章 黒い寓話 -inferior-》【2】









 外野がファミレスで半狂乱で騒いでいた頃。
 当の玄鳥は実際、眠れない夜を過ごしていた。

 しかしそれは、周りが想像するほど色っぽい理由からではなかった。







「まあ、玄鳥様」

 日向子が後ろから声をかけると、玄鳥は、ドアノブにかけていた手を引っ込めて、ぎくっとばかりに肩を揺らして振り返った。

「あっ……」

「お出掛けになってはいけませんわ」

「いや……あの、一回だけ、ちょっと自宅に……」

「そうは参りませんわ。
 紅朱様からは、この3日間、玄鳥様もわたくしも一歩も部屋から出ないように、誰が来ても部屋に入れないように、と申し使っておりますのよ」

「そんな無茶な……」

 ほとんど過剰と思われる紅朱からの命令に、玄鳥は頭を押さえた。

「3日後は次のライブの当日じゃないか……兄貴はそれまで練習するなって言うのかよ……」

 玄鳥が夜更けにこっそり玄関へ向かった理由は、やはり帰宅してギターの練習をするためのようだった。

「いけませんわ……まだお倒れになってから半日も経っておりませんのに」

「倒れた……って、ただの睡眠不足と疲労ですよ。ライブを途中退場したのは俺の責任だし、申し訳ないと思ってます。
だからこそ練習を積んで次のライブでは失敗を取り返さないと。
それに日向子さんだってお仕事があるんじゃ……」

「いいえ、編集長様の許可を頂いて『玄鳥様に3日間密着取材』ということになっていますので」

「密着……ですか」

「密着です」

「密着……」

「あの……お顔が赤いですわ」

「えっ、いや……別に変な意味ではなくてっ」

 玄鳥は自らを落ち着けようとするかのようにふーっと息を吐いて、ぱしぱし、と自分の頬を叩いた。

「……確かに、たまにはいいのかもしれませんね。ギターから離れて気分転換っていうのも……」


 今だけ。
 この3日間だけ。

 ギターのことは忘れよう。

 日向子と過ごせる時間を大切にしよう。

 少なくともその時の玄鳥は本心からそう思っていた。













「これで少なくとも3日は、安全だろう。
外部との接触もないし、何かあった時はあいつが日向子を守れる」

 紅朱はふっと口の端を持ち上げた。

「時間稼ぎにゃ十分だ」

「ご協力ありがとうございます……紅朱さん」

「まあ、まさに棚からボタモチってやつだがな」

 コーラが入ったグラスをあおる紅朱に、連れの女は深く頭を下げた。

「本当に……ありがとうございます」

 深夜、カフェからバーに切り変わったいつものあの店のカウンター。
 肩を並べる二人は、どちらもここの常連で、どちらも日向子と縁の深い二人だったが、あまりに意外な取り合わせだった。

 一人は紅朱。

 そして、もう一人は……美々だった。

「でもいいんですか? 他の皆さんには説明しなくて……特に玄鳥さんは知っていたほうがいいんじゃ……」

「綾は隠し事がこの銀河系で一番ヘタクソな奴だ……いくら日向子でも何か感じちまうかもしれねェ。
日向子には知らせたくねェから、あんたは俺に相談してきたんだろ?」

「そうですね……出来ることなら日向子には知られたくないです。
わざわざ怖い思いや不快な思い、することないですから……」

「俺も同じだ。だから秘密がバレるリスクは極力小さくしたい」

 沈んだ表情でうつむく美々に、紅朱も笑みを打ち消して真剣な顔付きになった。

「……まだ届いてんのか? 例のメール」

「はい……1000通、2000通って数が毎日……送信先は違っても内容はほとんど同じ。
非会員制のネットカフェや公共の施設のパソコンを使ったりしてるみたいで……集団でやってることは間違いないですけど、どれだけの人間が関わってるのか特定もできません」

 紅朱は不愉快そうに、いささか手荒にグラスをテーブルを叩き付けるように置いた。

「こそこそと……卑怯者が。
『森久保日向子』をheliodor企画の担当から外してください。
外さなければ蓮芳出版の雑誌はもう二度と買いません……か。
ふざけたことぬかしやがる。あいつが何かしたってのかよ」

「1通、2通なら無視できてもこれだけの数じゃ……編集長も黙殺できないかもって言ってます。
早くなんとかしないと……日向子は降ろされます」

 紅朱はやり場のない苛立ちを持てあましたように、拳を握り締めた。

「……んな馬鹿な話が許されるわけねェだろっ」

 美々は、沈んだ顔付きのままで、それでもほんの少し微笑んだ。

「日向子のために、そんなに怒ってくださるんですね……」

「……俺はheliodorのリーダーとして、日向子を高く買ってるんだ。あいつは思った以上に変わった奴のようだからな」

「……誉めて、下さってるんですよね?」

「ああ。すごいんだ、あの女」

 紅朱は皮肉を言ったつもりは欠片もなかった。


「あいつの取材を受ける前と受けた後で、メンバーの顔が全然違うのはなんでだろうな……三人とも邪魔な荷物を一個、手放したような顔してやがる。あるいは……日向子がそれを背負うのを手伝ってやってんのかもな」

 紅朱は普段あまり人には見せないような、穏やかな優しい微笑を浮かべた。

「あいつはそのうち……俺や綾の荷物も、半分持ってくれんのかな……?」
















――綾くんはすごいね! また100点だね

――浅川がいてくれれば体育祭もうちのクラスがぶっちぎりだよな?

――お前、高校でも生徒会長やってんの? 流石だよなぁ。

――浅川くん、復学してはくれないか? 君程の逸材は学部中見渡しても二人といないだろうよ。

――今のheliodorの要は、ギターの玄鳥だな。あいつはマジで半端なく巧い!





――紅朱じゃなくてよかったぜ。お前みたいな勝ち目のない完璧な弟がいたんじゃ、兄貴として肩身狭すぎるもんな~?










「……違……う……」

 夢現で呟いた、自分の声で玄鳥は目を覚ました。

 意識が戻ってからも、垂れ流されるように独り言が口をついた。

「……違う……ちがう……」

 無意識に、ぎゅっと両手の拳を握り締めた。

「……俺は……まだ……勝ててない……」

 毛布がずるずるとベッドの下に落ちて溜る。

「練習……しなきゃ」










 ダイニングテーブルに朝食が並んでいる。
 ピーナッツバターを塗ったトースト、半熟なハムエッグ、トマトを添えたグリーンサラダ、それに野菜がたっぷりの温かいスープ。

「お口に合いますでしょうか?」

 日向子は、あのクリーム色のフリルエプロンをつけて、紅茶の準備をしながら玄鳥に尋ねた。

「はい……おいしいです。朝から日向子さんの手料理が食べられるなんて、俺、幸せ者ですよね……」

 玄鳥は実際、言葉通りとても嬉しそうではあったが、

「お顔の色、あまりよろしくありませんわ」

 日向子は心配になった。

「いや、平気ですよ……昨夜もあれからちゃんとすぐに寝たんです……」

 そうは言いながら、玄鳥は完全に欠伸を噛み殺しながらトーストをかじっている。

「枕が合わなくていらっしゃるのでは?」

「そんな、とんでもないです……日向子さんこそ、俺が寝室に居座っちゃってるから、ピアノ室で来客用の簡易ベッドで寝てるんでしょう?
今夜はもう交代にしませんか??」

「いいえ、わたくしは今のままで構いません。伯爵様のタペストリーを眺めながら就寝するのもなかなか素敵ですのよ」

「あはは……日向子さんらしいですね……」

 玄鳥はなんとも複雑な顔をしながらもとりあえず笑っておくことにしたようだ。

「じゃあせめて明日の朝食は俺に作らせて下さい。それこそお口に合うかわかりませんけどね」

「まあ、よろしいんですの?」

「はい……もちろん」


 初々しくも和やかな雰囲気に包まれる食卓。
 だがそれを打ち破ろうとするかのように、インターフォンのお呼びがかかる。

「まあ……こんな時間に来るのはきっと雪乃ですわ」

 日向子はいたって呑気にモニターに映し出される訪問者を確認しに行き、そして、一気に顔色を変えた。

「まあ、大変……!」

「どうしたんですか? 雪乃さんじゃなかったんですか?」

「いえ雪乃ですわ……でも一人ではありませんの」

 日向子は玄鳥を、とてもとても困惑した瞳で見つめた。

「……お父様が、一緒ですの」

「おとっ……っ、ゲホッ」

 玄鳥は思わずパンくずを喉につまらせ、目を白黒させる。














「応答がございません。お部屋にはいらっしゃらないのでしょう」

「こんな朝早くから……か?」

「お仕事の都合で早くお出掛けになることも最近では特に珍しくはございませんので」

「……ならば、出直そう。戻るぞ、漸」

「……はい。先生」

 いかにも気難しそうな初老の男はしかつめらしい顔をしながら、踵を返し、連れの先に立ってマンションを後にする。

 連れの眼鏡の青年は、気付かれないように密かな声音で「今回だけですよ、お嬢様」と呟いて、少しだけインターフォンのカメラに向けて会釈程度の礼をして、それに続いた。











「……大丈夫、どうやら諦めてお帰りになったみたい」

「よかったんですか? お父さんに居留守なんか使って……とか言ったところで、今部屋に入って来られたら確実に俺は殺されると思いますけど……」

「今はどなたも入らせないお約束ですもの、仕方ありませんわ」

 軽い罪悪感を覚えたのは確かだったが、日向子は降りきるように言った。

「そうでした……早く紅茶をご用意しなくてはいけませんわね?」







 








《つづく》
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「……ああ、確認してくれないか?
一昨日の夕方から深夜にかけての、関東からのメールだ。
頼んだ。よろしく。じゃあな」


 携帯の終話ボタンを押した紅朱は、当然誰もいないと思って振り返った場所に、人がいたことに一瞬驚き、動揺したが、何事もなかったかのように、

「珍しく早いじゃねェか。有砂」

 声をかけた。

 有砂は恐らく「何か」勘付いているのだろうが、

「……ジブンが何を隠してようと別に、オレは一切興味あらへん……と、ゆうておくか」

 溜め息混じりにそう言って、紅朱のさし向かいに座った。

「……わざわざ詮索して首突っ込んでも、不要な面倒事を抱えるだけやからな……ましてや、それがジブンなら尚更や。
……なあ、リーダー?」

「ああ、そりゃ賢明だな」

 紅朱は今の今まで美々と繋がっていた携帯を手の中でもてあそびながら、ふっと笑った。

「……お前の好きそうな美人だけど、今はまだ紹介してやるわけにはいかねェからな」









《第4章 黒い寓話 -inferior-》【3】








 玄鳥と過ごす二日目の夜。
 日向子はがさがさとピアノ室にある大きな収納スペースをあさっていた。

 ここにあるものの半分以上は伯爵……「高山獅貴」とゆかりあるものばかりで、元来収集癖のある日向子は少しでも関係のあるものは何でも手を出し、ここに保管していた。

 今日は日がな玄鳥とリビングで過ごし、高山獅貴や、獅貴がかつて在籍していたmont suchtのDVDを見たり、CDを聞いたりしていたのだが、他にもっと玄鳥が喜ぶようなものはないかと探してみることにしたのだ。

「うふふ……明日も伯爵様のお話、たくさん伺えるかしら……?」

 日向子は上機嫌だった。
 玄鳥は伊達に「クリスタル会員」の肩書きを持っているわけではなく、日向子よりも遥かに知識豊富で、何よりミュージシャンとしての立場から語られる獅貴の話は日向子にはとても新鮮で、興味深いもの。

 そして日向子がいくらミーハーな発言や、妄想を交えた奇妙な見識を晒そうと、玄鳥は優しく笑って聞いてくれる。
 それどころか、

「そうか。ライブに来てるお客さん、ってそんなところまで見てるものなんですね……勉強になります」

 と、時には日向子のファン目線に偏った話でさえ真面目に受け止めてさえくれる。


 共通の趣味の話題……と言っても、二人が見ている世界は全く違い、同じことを語り合っても切口がまるで違う。

 玄鳥の話を聞いていると、日向子はどんどん自分の世界が広がり、また少し伯爵に近付けたような気さえした。

 それが、本当に嬉しく、楽しかったのだ。


 ほとんど時を忘れて発掘作業をしていた日向子だったが、不意に欠伸をしたことで、すっかり真夜中になっていたことに気付いた。

 もう零時は回っている。

「……玄鳥様……ちゃんとお休みになっていらっしゃるかしら?」


 日向子は作業を中断して、ほんの少しだけ寝室を覗いてみることにした。











 足音にさえも気を遣いながら、日向子は寝室のドアに歩み寄り、慎重にノブに手をかけた。
 ノックして声をかけようかとも思った、眠っているところを起こしてしまうのは気の毒だ。
 少しだけ様子を見るだけなら……そう思ってそっとドアを数センチ、開いた。

 部屋の灯りは消えていた。だが、ベッドサイドにあるオーディオコンポから青白い光が発せられていて、それが薄闇をぼんやりと照らし出している。

 その微かな光の中で、玄鳥はベッドの上に座っていた。

 日向子は「玄鳥様、そろそろお休みになって下さい」と声をかけようと一瞬思い、やめた。

 というより、その光景を前にして声を出すことができなかった。


 ベッドに座った玄鳥は、ヘッドフォンで何か曲を聞いているらしかった。
 静寂の中に響く音もれから、日向子にはそれが「mont sucht」の最初期の曲「sleepwalker」だと判別出来た。

 ということは、玄鳥は今それなりの爆音で聞いているということなのだろう。

 その爆音をなぞって、玄鳥は「ギターを弾いて」いた。

 実際にギターを持っているわけではない。

 だが、持っていることを錯覚させるほどの精密な動きで、玄鳥の指は何もない空間の、目に見えない弦を押さえ、弾く。

 透明なギターがそこにあるのではないかと、日向子は思った。

 見えざるギターを一心に奏でる玄鳥の表情は、今まで日向子が見たことのあるものとはまるで当てはまらないものだった。

 どこをとらえているともつかない眼差しは、瞬きすら忘れているかのように一切動かず、虚空を見つめている。
 玄鳥はほとんど無表情ではあったが、それ故に鬼気迫る雰囲気をかもし出していた。それでいて、妙に静かでもある。

 どこか普通の人間とは思えないような、不可思議な様子だ。

 日向子の頭の中に、先日の蝉の言葉がよぎった。



――確かに真面目な奴だケド、それとはまた違うかも

――なんかもう、取り憑かれちゃってま~す、ってカンジ?
集中力マックスの玄鳥見たら、多分日向子ちゃん引くと思う……怖いんだって、マジで



 「取り憑かれている」という表現はまさに、今の玄鳥にぴったりとハマる。

 平家の怨霊に魅入られた耳なし芳一は、多分こんなふうに琵琶を奏でていたのではないかと、日向子は思った。

 ぞっとするほどに美しく、儚げで……言い知れない不安をかき立てるような。

「……玄鳥様……」

 理由を説明できない涙が、日向子の頬を一滴、伝った。

「……お止めになって下さい」

 考えるより先に、日向子は寝室に飛込んで、見えないネックを握る玄鳥の左手に自分の手を重ねた。

 手を止めた玄鳥は、遠くを見つめるかのように動かなかった視線を、ゆっくりと日向子へとスライドさせた。

 自分の姿を映し出した双眸のあまりの冷たさに、日向子は心臓を掴まれたような思いがした。



「……邪魔、しないでくれないか?」



 瞳の色と同じ冷たい声。冷たい口調。



「……玄鳥様……?」


 これが本当にあの玄鳥なのか、と思った。


「……邪魔だって言ってるだろ? 早く、離せよ……」


 殺意にも似た強烈な敵意を剥き出した言葉に、日向子は玄鳥の左手を解放した。

 玄鳥はまた何事もなかったように日向子から視線を外し、「演奏」を再開する。

「玄鳥様……わたくしのこと、お判りにならないのですか……?」

 言いようのない哀しみに、また一雫、涙が落ちる。
 いつもの玄鳥なら、恐らくはみっともないくらいにうろたえて、必死に日向子を泣き止ませようと頑張るだろうに、今の玄鳥はもはや日向子のことなど視界に入れてすらいないのだ。

 泣いていようと、笑っていようと全く関心などありはしないというように。


「玄鳥様……」


 いくら呼んでも届くことはない。


 日向子は指の背で涙を拭い、それから、玄鳥のヘッドフォンにひたすら大音量の洪水を提供し続けるオーディオコンポにそっと手を伸ばし、震える指先でその電源を、落とした。


 ジャカジャカともれ出していた音楽が止まり、玄鳥の動きも、止まった。

 日向子はもう一度、玄鳥に静かに歩み寄り、そっとヘッドフォンを外した。

 途端に、こちらも電源が落ちてしまったかのように、玄鳥は瞳を閉じてゆっくり崩れた。

「玄鳥様……!!」

 倒れ込む上体を、日向子は受け止めようとしたが、受け止めきれなくて、一緒にベッドの真下の床に転がってしまった。

 呆然と床に寝たまま玄鳥を抱き締めていた日向子だったが、やがて規則正しい寝息が聞こえてきたことで、少しだけ安心した。

 起こさないように立ち上がり、流石にベッドに持ち上げることは無理なので、このまま布団だけでもかけてあげることにした。


 柔らかい毛布をふわりとかけた瞬間、玄鳥の唇がわずかに動き、言葉を紡ぎ出した。


「……練習……しな、きゃ……」


 そんな玄鳥の姿は、いっそ痛々しかった。

 もしかすると、昨夜もこんなふうに彼は「練習」していたのだろうか?

 そして恐らくは明日の夜も……。

 日向子は、このままではいけないと思った。

 一晩中こんなことをしていたら、元気になるどころかますます玄鳥は消耗してしまうに違いない。

 それに、あんな玄鳥を見るのは……とても、辛い。

 日向子はもう一度涙の跡を拭って、ピアノ室へと戻っていった。














「なんとなく、和食にしちゃったんですけど、大丈夫ですか?」

 テーブルの上には今朝も温かい朝食が並んでいる。

 白いご飯と、ネギと豆腐とワカメのみそ汁、焼き魚に、キャベツときゅうりの浅漬けと、胡麻とホウレン草のおひたし……。


 日向子はそれらごしに、玄鳥の顔をじっと見つめていた。

「……日向子さん?」

 玄鳥は少し困った顔を見せる。

「……そんなに見られると俺、その……」

 しどろもどろなそのリアクションに、日向子は心の底から深い安心を得た。

「……よかった……いつもの玄鳥様ですわ」

「……え?」

「いいえ……なんでもありませんわ。
お食事、とても美味しいです。玄鳥様は本当に、お料理がお上手でいらっしゃいますのね?」

 いきなりべた褒めされた玄鳥は思いきり照れて赤面しながら、

「母の手伝いとか、昔からよくしてましたから……結構、楽しいですよね? 料理も」

「ええ、わたくしもお料理は好きですわ」

「いいものが出来れば嬉しいし、人に食べてもらって喜んでもらえればもっと嬉しい……それに、やればやるほどど上達するでしょう?
そういう意味だと、ギター弾くのと似てるかもしれないですね」

 「ギター」という言葉に、日向子は魚の身をほぐしていた箸を一瞬休めた。

「……玄鳥様、ギターお好きでいらっしゃいますのね」

「え? まあ、それはそうですよ。ギタリストですから」

「……どうしてギターを始められたのですか?」

 日向子の問いに玄鳥は一瞬不思議そうな顔をしていたが、

「ああ、取材ですね」

 そう解釈して、納得したように笑った。

「ギターは、兄貴が弾いてたから俺も始めようと思ったんです」

「紅朱様が……空手の時と同じですのね?」

「はい。……俺が何か始める時は大体いつもそうなんです。子どもの時からずっとそんな感じで。
兄貴にはしょっちゅう怒られてましたね。『なんでもかんでも俺の真似してんじゃねェよ』って」

 二人のやりとりがすんなり想像できて、日向子は思わずくすっと笑ってしまった。

「紅朱様を慕っていらっしゃいますのね?」

「えっと……慕ってる、って表現は何か今更気持ち悪いですけど……すごい人だってことはわかってるし、認めてますよ」

 なんとはなしに気まずそうな顔をしながら、それでも玄鳥は自信を持っている様子で言った。

「……多分……世界中で一番、兄貴のすごさを理解してるのは俺だと思いますよ」










《つづく》
 それは、声なき密談。


《編集部から何かリアクションは?》

《いや、まだ何も動きはないと思います》

《やり方がぬるいんじゃないの?》

《確かに上に働きかけて『森久保日向子』を降ろさせる、なんてまだるっこしいよね》

《脅かして、自分から辞退させるべきだ》

《一体何をネタに脅すワケ?》


《ネタなんて、いくらでも作れるでしょ》

《そうね》

《……まあ後一日、様子を見よう》


《あlfrふuiq》



「シュバルツ。悪戯はよしなさい」


「うにゃ」

 キーボードを踏み荒らす子猫を抱き上げて、黒い瞳の美少女はその手の中に閉じ込めた。


「……この人たち。またくだらないことを始めるみたい」










《第4章 黒い寓話 -inferior-》【4】









「そうです……ココとココを一緒に押さえて……角度はこういうふうに」

「て、手が攣りそうですわ……」

「あ、辛かったら一度離して休んで下さいね」

「はい、そう致しますわ」

 日向子は左手をひらひらと振りながら、

「わたくし、ギターの才能もないのかしら」

 と、暗い声で呟いた。

「最初はそういうもんですから……落ち込まないで下さいね?」

 そう囁く玄鳥の笑顔に、日向子も笑ってみせた。

「はい……レッスンを続けて頂けますか? 玄鳥先生」

 リビングのソファーに座った日向子は、黒光りする新品同様のエレキギターを抱えていた。

 玄鳥は少し遠慮がちに日向子の左手を取って、

「じゃあ今のをもう一回」

 6本の弦へと導き、正しい位置へと案内する。


 このギターも、手にしているピックも、日向子がコレクションしていたあ「高山獅貴」モデルのものだった。

 弾けもしないギターを、「高山獅貴」とつくだけで買ってしまったことを話すと、流石の玄鳥も苦笑いしてしまったが、

「それなら、せっかくだから弾いてあげて下さい。手伝いますから」

 と、日向子にギターを教えることを提案し、日向子もそれを喜んで受け入れた。

 日向子は内心ほっとしていた。

 昨夜、玄鳥の奇行とも言える有り様を目撃した日向子は、ピアノ室に戻ってこのギターを引っ張り出した。

 玄鳥のためには、家に帰らせて、昼間存分に練習させてあげるのが一番いいとは思ったが、紅朱との約束は破るわけにいかないので、せめて多少なりとギターに触らせてあげたいと考えたのだ。

 実際、日向子に指導している玄鳥は水を得た魚のように活き活きとして見える。

 まあこの場合、単純にそれだけの理由でもないのだが、日向子には気付きようもないことだった。

「……こうですの?」

「はい……もう少しだけ、しっかり押さえて」

 日向子の小さい手を上から包むようにして教えている玄鳥の顔は、ずっと赤く染まったままだ。

「……玄鳥様は教え方がお上手でいらっしゃいますわね?」

「え、そ……そうですか?」

「玄鳥様も紅朱様からギターを教わったりなさったことがありまして?」

「……ないですよ。俺、ギターやってること三年前まで黙ってましたから」

「え?」

「休憩がてら、話しましょうか」

 玄鳥はそう言って、一度日向子から手を離して、隣に座った。

「兄貴がバンドやって唄を唄いたいって言い出したのが中学生の頃で。
父さんが大反対だったもんだから、浅川家は戦争状態だったんですよ。
結局兄貴は高校卒業してすぐ家出同然で上京しちゃって。
とてもじゃないけど誰にも言い出せるような雰囲気じゃなかったんです」

 玄鳥は笑いながら話してはいたが、その当時はさぞ大変だったに違いない。

 一方で日向子は、自分と同じように、やりたいことを貫いたがために父親とぶつかって家を出た紅朱に、親近感を抱いてもいた。

「だけどいつか頃合いを見たら両親にちゃんと話して、俺もバンドやるつもりでした。
出来れば、兄貴とは違うバンドがよかったんですけどね」

「まあ、どうしてですの?」

 日向子が意外そうに目を丸くすると、玄鳥は少し複雑な表情をあらわした。

「……兄貴と、勝負したかったんです」

「勝負……?」

「俺が兄貴のやってることを自分もやりたくなるのは、兄貴に勝ってみたいっていう願望からなんです。多分ね」

 日向子が玄鳥の新しい一面を……その根幹をなす思いを知った瞬間だった。

「兄貴は好奇心は旺盛なんだけど、実はかなり飽きっぽい人なんです。
何を始めても、俺が兄貴のレベルに到達する前にはやめちゃいますから。
そうなると俺は、逆にどこで止めていいかわかんなくなるんです」

「どこで止めていいかわからない……ですか」

「どんなに上達しても、『もし兄貴が途中で止めずに続けていれば、今の俺よりずっと上に行ってるに違いない』って、考えてしまうから。
みんなは、そんなの思い込みだ、お前のほうがずっとセンスがあるよ、なんて言ってはくれますけど……。
俺はそんなことじゃ全然納得できなくて、何も達成感を得られないまんまひたすら練習を続けてしまうんですよね」

 日向子の脳裏に、昨夜の玄鳥の姿がフラッシュバックする。
 心臓の真ん中がきゅっと苦しくなった。

「いつか、どんなことでもいいから兄貴とちゃんと勝負して……勝ちたい。
そう願い続けた俺にとって、兄貴が音楽っていう特別なものを見つけたことは本当に嬉しいことで……兄貴は音楽だけは途中で投げることはない、って思いましたから。
兄貴がバンドやるなら、俺も別のバンドやって……それで勝負しようって決めてたんです」

「でもそうはなりませんでしたわね?」

「はい。兄貴は……ギターが弾けなくなってしまいましたから」











「……そうか。やっぱりそこだけ異常に数が少ないんだな。
わかった……また、連絡する」

 携帯を切った紅朱は、舌打ちをして、何色のカーペットがしかれているのかすら判別不可能なほどちらかった室内を、物を蹴散らしながら移動して、ベッドに倒れ込んだ。

 握りしめていた携帯を投げ捨てるように手放すと、仰向けの格好で、一本蛍光灯が切れたままの天井を見上げた。

「……そういうことかよ。ただの噂じゃなかったわけだな……」













「3年前。兄貴はバイク事故で怪我して、その後遺症でギターが弾けなくなったって……言われてます」

 玄鳥は含みのあるいい回しをあえて選び、その理由も後につけてきた。

「……でもメンバーは口にはしなくても、みんな、なんとなくわかってて。
怪我が理由なら兄貴は諦めたりしないで、克服しようとする筈ですから。
兄貴が弾けなくなったのは、本当は精神的な理由だろうって」

「精神的な……理由」

 3年前の出来事で、紅朱を追い詰めるようなことといえば、日向子には思い当たることがひとつあった。

「粋さんの……ことですか?」

「……多分、そうです」

 玄鳥はまるで自分のことかのように、辛そうに目を伏せた。

「俺は弱ってる兄貴を見るの、辛くて……だから、つまらない対抗心は封印しなくちゃって思ったんです。
兄貴のかわりに俺が、ギター弾こうって……兄貴の右腕になろうって決めたんですよ。
父さんには兄貴の時の百倍くらい猛烈に反対されましたけど……でも、決意は揺るがなかったですから」

 そう言い切る玄鳥の言葉には迷いも偽りもないのがよくわかった。

 けれど日向子は、昨夜の玄鳥を見てしまった。

 きっとあれもまた玄鳥のひとつの真実。

 紅朱を側で支えたい、という新しい願いの陰でくすぶっている……満たされない気持ち。

 兄との勝負がつかない限り、玄鳥はいくら練習を積み、いくら巧くなって、誰から称讚されたとて、永遠に心休まることはないのかもしれない。


「いつか……紅朱様がギターを弾けるようになったら、勝負したいですか?」

 日向子の問掛けに、玄鳥は少し考えて、答えた。

「どうでしょうね。単純に技術だけならブランク明けの兄貴とじゃ、流石に勝負にならないだろうし……。
勝負するなら、俺がheliodorを抜けて新しいバンドでも組むしか……」

「えっ……」

「いや、冗談ですよ! 本気にしないで下さい」

 うっかり口走った言葉への日向子の反応が予想以上に大きかったため、玄鳥は少しうろたえる。

「……まあ、時々そんなことをちらっと考えることもなくはないです。
……実は、すごい人から誘いの声がかかったこともあったりましたからね……。
だけど俺は今、heliodorのギタリストですから。
個人の感情を優先して、たくさんの人を裏切るようなことはするべきじゃないんです……」

 日向子は頷いたが、内心はかなり複雑だった。

 玄鳥の言っていることは正しい。

 正しいが、それでは玄鳥はいつ報われるのだろうか?

 玄鳥はいつまでも、報われない心を封印していけるのだろうか?


 昨夜、わけもわからず流れ落ちた涙の意味が、今の日向子にはわかるような気がした。

 一心に見えないギターを奏でる玄鳥の姿は、怖くもあったが、純粋に美しかった。

 別人のようなあの瞳は、どこか遠くを映していた。

 玄鳥がいつか……あの時見つめていた遠い場所へ、行ってしまうような予感がした。


 だから、涙が出たのだ。

 玄鳥にもそんな日向子の気持ちがいくらか伝わったらしく、逆に労るような優しい眼差しで日向子を見つめてきた。

「俺のことで悩んだりしないで下さい。
俺は結局、heliodorが好きなんですよ。だから、ずっと今のバンドで弾いていきます。
……日向子さんが応援してくれるなら尚更、頑張らないといけないし」

 まだ笑顔に戻らない日向子に、玄鳥はそっと左手の小指を差し出した。

「指切り、ってちょっと子どもっぽいですかね?」

 照れたように笑う。

「日向子さんを悲しませるようなことは絶対にしないと今、ここで、約束します。
だから、あなたは笑っていて下さい」

 その言葉に、日向子もそっと左手を差し出した。

「ではわたくしは、玄鳥様の今のお言葉を信じることをお約束致しますわ」

 ようやく微笑んで、それから、ゆっくりと指先を近付けていった。

 小指と小指が、静かに絡まり合う。





「ゆびきりげんまん……」


 無邪気な誓約。



 けれど二人はそれを、信じた。



 またゆっくりと指と指が離れる。
 玄鳥は今更のようにどんどん顔を紅潮させる。

「やっぱり……ちょっと恥ずかしいですね」

「うふふ」

 日向子は自分の左手の小指を右手で包み込んだ。大切なものを匿うかのように。

「そうだ、日向子さん。言い忘れましたけどね、ギターに関しては俺、他にも目標にしてる人がいるんですよ」

 恥ずかしさを振り払いたいのか、少し早口で玄鳥が切り出した。

「まあ、どなたですの?」

 興味津々な日向子に、玄鳥はきっぱりとその名を告げた。


「鳳蝶(アゲハ)です。伝説の、mont suchtの初代ギタリスト」

「鳳蝶様……ですか」

 それは、mont suchtの最初期、わずか一年にも満たない間、活動していたという人物。
 日向子や玄鳥が生まれる前の出来事で、希少なデモテープこそ残っているものの、その人となりを知る者はほとんどいない。

「mont suchtのギターは何人も替わったけど、やっぱり鳳蝶の音が一番だと思いますから。
アゲハ蝶って英語でスワロー・テイルっていうでしょう?
だから俺は玄鳥、ツバメを意味する名前にしたんです」

「ツバメ……ですか」

 感心したように何度も首を上下する日向子に、玄鳥はまだ赤らみが消えない顔で笑いながら、こう続けた。

「鳳蝶が偉大な『鳳(オオトリ)』なら、俺はまだまだちっぽけな『玄鳥(ツバメ)』なんです」











《つづく》
「……ん?」

 今日のイベント会場まであと100メートルといったところで、紅朱は思わず足を止めた。
 歩道の真ん中にちょこんと猫がたたずんでいる。

 黒い仔猫だ。

 まだ生まれて何ヵ月といったところか?
 お行儀よく座って、大きな金色の瞳でじっと紅朱を見ている。

「……あっち行けよ。縁起悪ィな」

 紅朱が睨んでも逃げようとはしない。

「なんだよ、飼い猫か……?」

 しゃがんで手を伸ばして銀色の首輪を確認しようとした時、

「その子、私のよ」

 後ろから声。

 氷と氷がぶつかり合ったような、澄んで凛とした声だった。

 振り返ると紅朱よりいくらか年下くらいの少女が立っていた。

 ゴシックロリータで全身を包んだ、サラサラした直毛の真っ黒な長い髪が印象的な美人だった。
 瞳の色も吸い込まれそうな漆黒で、本当に血が通っているのか怪しいほど真っ白な肌との対比が美しい。

 紅朱は少女に向き直って、首をつまみ上げるようにして仔猫を差し出した。

「飼い主なら、ちゃんと管理しとけ。車道にでも出たらどうすんだ」

 美少女は無表情で猫を受けとると、

「……首謀者はイヅミって子よ」

 美しい声で言う。

「どこかで会わなかったか、聞いてみるといいわ」

「……なんだって??」

 紅朱は、無表情なまま黒い生き物を手の中で遊ばせる少女をいぶかしげに見つめた。

「『森久保日向子』をちゃんと守りなさい」

「……お前、なんか知ってんのか?」

 少女は黒猫を抱いて、険しい顔をしている紅朱の横をすり抜けていった。

「……『森久保日向子』はいずれ鍵になるわ」


「待てよ」

 紅朱は少女の肩を掴んで引き留める。

「意味わかんねェことだけ言って去るな」

 少女は紅朱を首だけで振り返る。

「つッ」

 あどけない顔をした黒猫の爪が、紅朱の手を容赦なく引っ掻いた。

「うにぁ」

「痛ェな……」

 紅朱が手を引くと、少女はまた進行方向へと向き直った。

「……気安いわ。私たちはあなた程度の自由には出来ないの」

 結局言いたいことだけ言って去っていく少女の後ろ姿を、紅朱は睨んでいた。

 本能が、警戒しろと言っている。

 刻まれた爪痕に、彼の髪の色と同じ、深紅がにじんでいた。






《第4章 黒い寓話 -inferior-》【5】









「どういたしましょう。またお父様ですわ」

 日向子が見つめるモニターには、またしてもしかめっ面の初老の紳士が映っている。

 今回は連れはいない。

「困りましたね」

 すっかり出掛ける支度を整えた玄鳥は困惑した表情で同じ画面を見つめた。

「機材を積んでハコまで行くにはもう出ないと……リハに間に合わないかもしれないですね」

 長いような短いような3日間が終わり、この部屋に別れを告げて、ライブ会場に向かわなくてはいけない玄鳥。

 もちろん日向子とともに向かうつもりだったのだが、今二人で出て行くのはあまりにも危険だった。

 日向子の父がいるオートロックの正面口を避けて、裏から回ったとしても、駐車場に行けば鉢合わせるかもしれない。

「玄鳥様、お先に出て下さい。本日は雪乃も来られないとのことですけれど、わたくしはお父様がお帰りになってから、一人で会場に向かいますわ」

「……そう、するしかないですかね」

 玄鳥は心底残念そうに嘆息した。

「……でも日向子さん、この3日間本当にありがとうございました」

「こちらこそ、色々なお話を伺えてとても楽しかったですわ。
また、いつでも遊びにいらして下さいね」

 玄鳥はちょっと現金に思われるほどにわかに機嫌を回復し、いつもの照れた顔で笑った。

「はい!」














「おはようございます」

 軽い挨拶の声とともに楽屋入りした玄鳥は、一瞬にして襲いかかってきた2人の仲間たちに容赦なく両腕をホールドされて捕獲された。

「玄鳥クロトくろとっ! どっ、どうだった!? どうだったワケよっ!?」

「玄鳥はもう、大人の階段を登ってしまったの? ねえ、そうなの?」

「……蝉さん、万楼……あの、どうしたんですか? 一体……」

 よくわからないが何か必死な二人に詰め寄られ、どうしていいかわからず、立ち尽くす玄鳥を、有砂が同情するような目で見つめた。

「難儀な連中やな……」

 眠そうに口癖を呟く有砂に、状況説明を求めようとした玄鳥だったが、それより早く、

「綾」

 少し離れたところで、紅朱が口を開いた。

「日向子はどうした? 一緒に来たんだろ」

「いや……日向子さんならあとから一人で」

「一人で?」

 紅朱は腰かけていたパイプの椅子から立ち上がり、明らかに静かな怒りを込めた目を実弟に向けながら、つかつかと歩み寄ってきた。

「バカ野郎。今日が一番危ねェってのに一人にしてどうすんだ!」

「……兄貴?」

「ったく……何のために側に置いたかわかんねェだろうが」

 玄鳥は今自分がなぜそんなに怒られているのかわからなかったし、実際玄鳥には直接的に非はなかったのだが、紅朱は、

「リハは俺抜きでやってくれ。本番までには戻る」

 早口で言い捨てて、鉄砲玉のように楽屋を飛び出した。

 それをただ呆然と見送っていた玄鳥だったが、我に返ると、いきなりの出来事で身体から離れた二人と、それともう一人に、

「俺はリハまでに戻りますから」

 と言い残し、風のような早さで兄の後を追った。














「あの……おっしゃっている意味がわたくしには判りかねるのですが……」

 いつもの白いバッグを胸の前で持って、日向子は小首をかしげていた。

「だからさー、ちょっと付き合ってって言ってんだよ」

「楽しいところに連れてってあげるからさ♪」

「ねえ、いいじゃん☆」

 今日heliodorが出演するライブハウスへ向かう途中の細い路地で、日向子は一瞬にして数人の男たちに囲まれた。

 いかにも柄のよろしくない雰囲気のチンピラ崩れのような男たちは、チープな脚本に沿ったかのような台詞をめいめいに口走りながら、馴れ馴れしい軽薄な笑顔を見せる。

「あの、わたくし少し急いでおりますので……お誘いになるなら他の方を当たって頂きたいのですけれど……」

 当惑しながらも日向子はあくまで丁寧に頼んでみたのだが、

「そんなこと言わないでよ。ほら、おいでって」

 少し乱暴に腕を掴まれてしまう。

「あのっ……」

 叫ぼうとした口も塞がれてしまった。


「来てくんないと困るんだよ。もう前払いで半分金貰っちゃってるしさ」

「そうそう。大丈夫、ちょっとラブホでも入って写真撮るだけだからさ」

「オールヌードでね♪」

「ははははは」

「……!」

 日向子の思考回路は激しくスパークして、正常に働く状態ではもはやなかった。

 男たちの言葉の意味さえ理解できなかったが、ただ大きく邪悪な意志が自分に向けられ、呑み込もうとしていることだけを感じとっていた。

「……っ……」

 助けて。誰か。

 声に出来ない叫びを上げて、きつく目を閉じた。

 と。


 ぷしゅーっ。


 妙な音がして、冷たい水飛沫が頬にかかった。

「わ、冷てぇっ!!」

「なんだこりゃっ、げーっ」

 掴まれていた手と、塞がれていた口がいきなり自由になった。
 驚いて目を開けると、服や髪を濡らした男たちが騒いでいた。

 一体何が起きたのか?


「走れ! 日向子!!」


 そのよく知る声で、はっと我に返る。

 中身のなくなったコーラのボトルが足元をコロコロ転がっていく。

「早く! こっちだ!!」

 日向子は促されるままに駆け出した。


「あ、逃げるなよっ」

「待てこら!!」


 男たちの手をすり抜けて、さしのべられていた手を必死で掴む。

「逃げるぞ、日向子」

「紅朱様……!!」

 鮮やかな紅の髪を晩秋の風になびかせながら、紅朱が日向子の手を取った。

 けして離れないよう、強く強く握って走る。

 日向子はその速さについていくのに必死にならざるをえなかったが、その手の力強さだけははっきり感じていた。

 小柄な身体のわりに大きくてしっかりした手の感触。

 日向子はそれを、心から頼もしく思っていた。


 一方の男たちも急いで日向子たちを追い掛けようとした。

 しかし。

「ここは、通さない」

 立ちはだかった者がいた。

「な、なんだてめぇは」

「とっととどけ!」

 口々にうるさくがなる男たちを、静かに睨みつけて、黒髪に白いメッシュの青年は、きっぱりと言い放った。

「あの人を傷つけようとするなら、俺は絶対に許さない。
命が惜しくないならかかって来いよ……」















「はあ……はあ……」

「……大丈夫か? 悪ィ、無理に走らせちまったな」
「……はぁ……はぁ……いいえっ……あのっ……はぁ……はぁ……」

「無理に喋るな。息が整ってからにしろ。ここにいりゃ、とりあえず安全だしな」

 紅朱の言葉に頷いて、日向子はまずゆっくりと息が整うのを待ち、だんだんと落ち着いたところで、キョロキョロと周りを見回した。

 無我夢中で飛込んだその空間は、かつて日向子が一度たりとも踏み込んだことない未知の世界だった。

「……紅朱様、あの、ここは……?」

 日向子の問いに、紅朱は少しだけ気まずそうに言った。

「……ラブホ」

「らぶほ?」

「……ラブ、ホテルって言やわかんのか?」


 日向子の目は、点になった。


「あの……えっと……らぶほてる、といいますと……あの……らぶほてるでしょうか……?」














「……まるで『狂戦士(バーサーカー)』ね」

「……あ」

 深くはないが浅くもないだろうダメージを受けたならず者たちが逃げて行った後。

 駆け付けた警察に軽く聴取を受け、終わって、一人になった玄鳥に呼び掛けてきたのは、あの少女だった。

「半分は八つ当たりに見えたけれどね」

「……なんですか、八つ当たりって」

「自覚がないのね」

 仔猫が緻密なレースをあしらった肩の上でぐいんと伸びながら欠伸する。

「にゅう」

 玄鳥はその様を見ながら、

「……お久しぶりです。ライブ、見に来てくれたんですか? 望音(モネ)さん」

 努めて普通の口調で語りかけた。

「いいえ。そろそろ気が変わったかと思って会いに来ただけよ」

 少女は能面のような顔で囁く。

 玄鳥は苦笑して、首を横に振った。

「いいえ」

 約束と柔かな温もりを記憶している左手の薬指を、右手で包みながら。

「そう」

 少女……望音は淡々と言い放って、仔猫のシュバルツを撫でてやりながら玄鳥に背中を向けた。

「また会いましょう、浅川綾」








 細い路地から大通りに出た望音は、路肩に停車していた黒いクーペに歩み寄り、ウインドウがわずかに開いた運転席を覗き込んだ。

「困ったものね、あなたの『鵺(キメラ)』は。まだ自分がただの『玄鳥(ツバメ)』と信じているみたい。
そんな器に収まる器量ではないと、いつになったら自覚してくれるのかしらね」

「……とりあえず、お乗りなさい、『唄姫(ディーヴァ)』。彼が絡むと君は本当にお喋りになる」

 運転席から返ってきたのは、上質なワインより心地良く人を酔わせる甘い美声だった。

 望音はその美声にすら表情を変えることなく、助手席のドアにゆっくり手をかけ、静かな声で囁いた。


「……ええ。行きましょう。伯爵」















《第5章へつづく》
「紅朱様っ、これ、これも押してもよろしいですか!?」

「いや……そりゃ構わねェけど」

「まあすごいですわ。灯りの色が綺麗なピンク色に……!」

「楽しいか? それ」

 回転ベッドの側にある、室内の設備を一括操作する制御パネルを覗き込んで、色々な機能を発動させては歓喜する日向子を、紅朱はいぶかしげに見つめる。

 日向子は笑って言った。

「わたくし『らぶほ』は初めてですの。
紅朱様はこういった施設をよくご利用なさるのですか?」

「は? お前なぁ……無邪気に答えにくい質問すんじゃねェよ……」

「はあ」

 日向子の間抜けなリアクションを受けて、紅朱は気になっていたことを尋ねた。

「……日向子、お前……ラブホって何するとこかマジでわかってるか?」












《第5章 今宵、囚われて -attachment-》【1】










「はい、存じておりますわ」

 日向子は自信満々に頷く。

「気心の知れた親しい男女が、歓談したり、遊戯に興じたりしながら過ごす場所でしょう?
以前、雪乃に聞きましたの」

「……」

「連れて行ってほしいと頼んだのですけれど、連れて行ってくれませんでしたのよ。
ダンスと一緒で、女性側から誘うのははしたないことなので、間違っても他の殿方を誘ったりしてもいけないとのことでしたから、わたくしはずっと我慢しておりましたの」

「……すげェな。雪乃って奴。嘘をつかずにこんだけ核心を避けた説明がとっさに出来るって……詐偽師の素質あんじゃねェか……?」

 ぶつぶつ呟く紅朱に、日向子はきょとんと首を傾ける。

「わたくし、間違っていますの?」

「いや、別に間違ってはないけどな」

「うふふ、わたくし紅朱様と『らぶほ』に来れてとても感激ですの」

 知らないとは恐ろしいこと……なにげにとんでもない発言をしているのだが、日向子には欠片も自覚がない。

 紅朱は頭でも痛いような顔をしていたが、

「……ま、いいか」

 あえてツッコミは入れない方針でいくようだ。

「とにかく、heliodorの出番ギリまでここにいるからな」

「まあ……よろしいんですの?」

「ああ。それが一番安全だからな。
それに今日のライブはまた袖から見ろ。俺の目が届くところから離れんな」

 睨みつけるような真剣な目で説き伏せられ、日向子はまた頷いたが、

「あの……何か、起きているのでしょうか?」

「お前は知らなくていい」

 とりつくしまもないとはこのことだった。

 いきなり見知らぬ男たちに拉致されかけて、そこを救われて、こんなところに逃げ込んで。

 一体何が起きているのだろう。

 紅朱は何か知っていそうなのに話すつもりがなさそうだ。

 ベッドのへりに足を組む格好で座った紅朱を、ベッドの上に正座で座る日向子はじっと見つめた。

 後ろの部分だけ長く長く伸ばした赤毛の先端のほうがシーツの上にたまっているのが目についた。

「紅朱様……」

「なんだよ」

「お願いがあるのですけれど」

「ん?」

「……少しだけ、紅朱様のおぐしに触らせて頂けませんこと?」

 予想だにしない請願に、紅朱は思わず日向子を凝視した。

「あ? なんで?」

「あまりにもお綺麗でいらっしゃるから……やはり、いけませんかしら」

「……まあ、ちょっとぐらいなら触ってもいいけど……」

「ありがとうございます! やはり紅朱様はおやさ……」

「お優しい、ゆーなっつってんだろ」

 日向子は、ベッドの上を膝立ちしてちょこちょこ移動し、紅朱の後ろに回った。

 深紅の光沢を放つ、絹糸のようなそれを指で一束すくう。

「本当にお綺麗……このように鮮やかな色に染めていらっしゃるのに、全くダメージがありませんのね」

「染めてるわけじゃねェよ。元々こういう色なんだ」

「え……?」

 あまりにも意外な言葉に、日向子は改めて紅朱の髪を指先で撫でて、見つめた。

 確かに染色して出せる色合いではないような気がする。

「ユーメラニン、とかって色素が普通の日本人よりかなり少ないらしい。父方の親族はみんなそういう傾向にはあるらしいが、俺ほどはっきり出た奴はいないって話だ」

 そういえばそのあまりに印象的な髪色に目を奪われがちだが、近くで見ると、紅朱は瞳の色も肌の色も、かなり薄い。
 
 こんなに美しい「赤」を生まれながらに授かったという紅朱は、日向子には何か神秘的にすら感じられた。

「素敵ですわね」

「だろ。俺も気に入ってる」

 言葉とは裏腹に、自らの髪先を手にとってもてあそぶ紅朱の瞳には、何か自嘲的な色がある。

「今でこそ、って感じだけどな」

「もしや……幼少の頃にはいじめなどをお受けになったり……」

「いや、その逆だった」

「逆?」

「俺は小学校時代、よその学校で西小のジャリアンって呼ばれてたらしいぜ」

「ジャリアン……あの、『のろ太のくせに生意気だぞー』のジャリアンですか?」

「ああ。まんま、ああいう小学生だった。
あいにく身体は大きいほうじゃなかったけどな……」

 日向子は、国民的アニメの大変メジャーな登場人物と紅朱のイメージを重ねて、思わず笑ってしまう。

「ガキ大将、でいらしましたのね?」

「そうだ。強さを示して上に立てばナメられない……堂々と胸を張っていれば、いっそ俺の赤い髪は、ハクをつけてくれたしな」

「……そうでしたか」

 日向子には今も紅朱は自分を強く見せるように演出しているように思えてならなかった。

 優しいと言われて怒るのも、それだけ自分を弱く見られているように感じるからなのかもしれない。

 深紅の髪を長くたらして、強い視線で他者を威嚇して。

 紅朱は武装している。

 いばらで覆った城のように、その柔らかな心を深く隠して。


「……お疲れにはなりませんか?」

「……え?」

 突拍子もない日向子の問掛けに、紅朱は眉を寄せた。

「いつも強い人でいるのは大変なことだと思いますわ」

「……別に俺は無理してそうしてるわけじゃねェよ」

「でも……」

 そうではない。

 そんなことはない。

 大切な人を失って、ギターが弾けなくなってしまうほど繊細な神経をしている筈なのに。

 紅朱はその大切な人にも弱さを見せなかったのだろうか……?

「例えば……例えば、玄鳥様の前でくらいはお心を休められてもよろしいのでは?」

「綾……?」

 紅朱はふっと乾いた笑いを浮かべた。

「俺が誰よりも自分を強く見せなきゃなんねェのは……あいつなんだよ」

「え? それは……」

「綾には、俺が最強、俺が一番、俺には絶対逆らうな……って刷り込んで育ててっからなぁ」

「刷り込み……ですか」

 日向子は、玄鳥が語っていた、紅朱に対する劣等意識とも呼べるような強迫観念を思い出した。

 いくら努力しても、兄には勝てないような気がするという玄鳥……それは、紅朱の刷り込みが成功しているということを意味するのだろうか。


「何故そのようなことを?」

「何故って……そりゃ、俺が『兄貴』で、綾は『弟』だからだ」

「そういうもの……ですか?」

「そういうもんだ」

 一人っ子で、しかも女である日向子には到底よくわからない感覚だった。

 それが果たして一般的な感覚かどうかも含めて理解し難い。

「……で、いつまで触ってんだよ」

「あ、申し訳ありません」

 日向子はずっと触ったままだった紅朱の髪から手を離した。

「……ありがとうございました。わたくし、紅朱様のおぐし、とても好きですわ」

「……そりゃどうも」

 目をそらしたのは、もしかして少し照れているからなのかもしれない。

「しっかし暇だなぁ……」

 それを裏付けるように話題を意図的に変えてくる。

「紅朱様、折角の『らぶほ』ですから、ご一緒に何か致しませんか?」

「……何か致しませんか、ってお前……」

 悪気ゼロの爆弾発言。

「はい。わたくしと遊んで頂けませんか?」

 連発。

「……どんだけ大胆なこと口走ってんだ、お前は」

 紅朱は呆れを通り越してついに吹き出した。

「お前みたいな女、初めてだよ」

 何故笑われているのかはわからなかったが、紅朱の笑顔につられて、日向子も笑っていた。

「……そうだな、暇だし……リハ兼ねてちょっと声出しとくか」

 紅朱は、備え付けのカラオケのリモコンに手を伸ばした。

「まあ紅朱様、お唄をお聞かせ頂けるのですか!?」

「何言ってんだ、一緒になんかしたい、っつったのお前だろ」

「はい?」

 紅朱はニヤッと笑って、ビニールのカバーを被ったマイクを二本手にし、一本を日向子に差し出した。

「デュエットしてやるよ。光栄だろ?」













「……まだ戻ってこんな、紅朱は」

 開演時間を過ぎ、とうとうオープニングアクトが始まった。

「フロアをざっと見たけど、お姉さんもまだ来てないみたい」

「……玄鳥、マジで二人がどこ行ったかわかんないワケ?」

 わけのわからないまま待ち惚けさせられて、heliodorの楽器隊は落ち着かない時を過ごしていた。

「わかりません」

 玄鳥は申し訳なさそうに首を横に振った。

「だけど、ちゃんと出番までには戻る筈です。
もう少し待ちましょう」













「……演奏停止」

「まだ2番がありますわ」

「……止めろ」

「はあ」

 日向子が言われるがまま演奏停止ボタンを押すと、紅朱はマイクを放り投げてベッドに倒れ込んだ。

「……日向子、喜べ。ジャリアンの称号はお前に譲ってやる」

 ぐったりした声で呟く紅朱に、日向子は目をしばたかせた。

「あの~?」

 乱れて顔を半分覆った赤毛の隙間から、紅朱は力なく日向子を睨んだ。

「おい、今のは唄か? 本気で唄ってこうなのか? そんなことがありえるのか??」

「わたくし……かなり真剣に唄いましたが」

「……お前、マジで音感ねェのな」

 溜め息まじりで評され、日向子は一瞬考えたあと、しゅんと下を向いた。

「……申し訳ありません。折角紅朱様がデュエットを申し込んで下さいましたのに……」

「いや……そりゃ別に謝るようなことでもねェけどさ。
流石にちょっとびびったな……」

 邪魔な髪を手でのけながら、紅朱はまたくくっと笑った。

「お前って奴は……とろいは、ミーハーだは、世間知らずだは、音痴だは……ありえねェ」

 よく人から指摘される欠点ベスト4を並べられ、ますますしゅんとうなだれる日向子だったが、紅朱はスプリングで反動をつけて起き上がると、言った。

「けどなんか……お前見てるとほっとするよな」

「え?」

「うちのメンバーが気ィ許すのもわからなくない……それが日向子の才能なのかもな」
















《つづく》
「前のバンド、あと2曲で終わるみたい」

 ステージ袖から舞い戻った万楼の報告に、heliodorメンバーは焦りを隠せなくなっていた。

「……ね、いくらなんでも遅いんじゃん? ど、どうするよ?」

「落ち着いて下さい」

 玄鳥は苦しげな表情を浮かべながらも全員を見渡し、告げた。

「もし出番になっても兄貴が来なかったら、ソロとインストで繋ぎましょう」

「繋ぐ……て、確実に来る保証がないやろ、いつまで繋げゆうんや」

 有砂にきっぱりと指摘されても、玄鳥は揺るぎない眼差しで、

「兄貴は必ず来ます」

 断言した。

「もし来なければ責任は全て、俺が持ちます」









《第5章 今宵、囚われて -attachment-》【2】









 その頃、当の日向子と紅朱には、誰一人予想だにしなかった落とし穴にどっぷり嵌って抜け出せなくなっていた。




「やべェな……」

 ようやく暗闇に目が慣れてきた。

「間に合わねェかもな……」

「メンバーの皆様にご連絡は?」

「した。繋がらねェ。今日のハコは地下だからな……圏外なんだろうよ」

 紅朱は舌打ちをして、ガスッと冷たい壁を殴った。

 日向子は、不安に胸を痛めながら、その背中に問掛ける。

「紅朱様、お寒いのでは?」

「ブランケット一枚しかねェだろ? お前が使ってていい」

 日向子は自身を包む、安っぽい色のブランケットをじっと見つめた。

 室内の温度はどんどん下がっている気がする。


 寒さと暗闇と静寂が支配する檻に今、二人はなすすべなく囚われている。

 フロントとの連絡、暖房からドアの開閉に到るまで全てを電気制御でコントロールするこの建物は、「停電」という予期せぬ事態にはあまりにも無力だった。

 外部からの音すら全てシャットダウンされた空間で、二人に許されたことは電気が復旧するか、助けが来るのをひたすら待つ以外にない。

「紅朱様……」

 日向子はブランケットの端をふわりと広げて、紅朱の肩に。

「いいって言ってんだろ」

「もう少しお近くにいらして頂けませんか? 二人で使いましょう」

「……悪い」

 紅朱は、日向子に身体を寄せた。
 隣合った腕がぶつかり合うほど近くに。

 日向子はそれに一瞬どきり、としながらも、お互いがはみ出さないようにブランケットでしっかりと包み込んだ。

 ベッドの上、ほとんど寄り添い合うような格好で、二人は解放を待っていた。

「……紅朱様」

「なんだ」

「……わたくしのためにこのようなことになってしまいましたのでしょう? 申し訳ありません……」

「お前……」

「謝っても許されることではありませんわね」

「違う。お前は何も悪くない……巻き込まれただけなんだ」

 紅朱はわずかに頭を垂れて、苛立ちを噛み締めるようにして言った。

「こんなことにまでなってだんまりしてても仕方ねェか……『D-union』を名乗る俺たちの私設ファンクラブが、お前を陥れようと狙ってんだ」

「わたくしを……狙って? どういうことですか?」

「……お前の編集部に嫌がらせのメールしたり、さっきの奴らも多分雇われてんだろうな……。
嫌がらせメールは、heliodorのライブ中だけ激減する……間違いなく、ファンの仕業だ」

 heliodorのファンに狙われている……嫌がらせを受けている……つきつけられた事実はあまりにも衝撃的で、呆然とする日向子の肩からするっとブランケットが滑り落ちた。

「それは……わたくしが、記者として未熟でいたらないからでしょうか……知らないうちに、大切なファンの皆様にご不快な思いをさせてしまっていたと……」

 暗い暗い闇の中、日向子の瞳はゆっくりと涙を浮かび上がらせる。

「……バカ野郎」

 紅朱はとっさに滑り落ちたブランケットを掴んで、それでもう一度日向子を包み、そのままブランケットごしに力いっぱいその身体を抱き締めた。

「お前は、お前が思うよりずっとよくやってるさ……俺が認める。
俺が言ってんだから、誰にも文句言わせるか」

「紅朱様……」

 たとえブランケットごしであっても、抱き締める腕の強さに、日向子は戸惑いを隠しきれなかった。

 それと同時に、真冬の日溜まりのような温かい気持ちがこんこんと湧き出してくる。

「もう大丈夫ですわ……離して下さい」

「泣き止んだら離してやるよ……俺は泣き顔見せられんのが嫌いだからな」

「……そう、申されましても、わたくし……」

 ぐすっとしゃくり上げると、腕の力が一層強くなった気がした。

「……そのように、優しくして頂くと、っ、止まらな……」

 紅朱はそれ以上は無言で、ブランケットの中で日向子が泣き止むのを待っていた。


 そしてしゃくり上げる声がようやく収まり始めた頃、ピンク色の世界が、闇を溶かしながらゆっくりと点滅しながら蘇っていった。











「紅朱、急げ!」

 ハコの出入口にいた対バン相手のメンバーが、くわえていた煙草を落としそうになりながら叫ぶ。

「何やってた? もう、20分以上楽器隊だけで繋いでんだぞ!!」

「そうか……!」

 短く受け答えて、紅朱は走り抜け、日向子もそれに続いた。

 走りながら紅朱は羽織っていた薄手のジャケットを脱ぎ去り、日向子に投げた。

「預かっててくれ」

「は、はい」

 それをなんとかキャッチした日向子は、ステージへまっしぐらに向かう紅朱の背中に向かって、一生懸命叫んだ。

「本当にありがとうございました!! 頑張って下さい! わたくし、ちゃんと見ていますから!」












「悪ィな、待たせた」

 深紅の疾風のように紅朱が駆け込んできた瞬間、オーディエンスは大いに沸いた。

 即興でセッションを続けていたメンバーたちも、それぞれに安堵の表情を浮かべた。

「……兄貴」

 誰よりもほっとしていたのは玄鳥だった。

 紅朱はマイクを掴むとメンバーたちを振り返り、早口で告げた。

「そのまま《spicy seven》だ」

 全員が目線で頷き、有砂がカウントを取る。

 極めて印象的な妖艶なベースラインとギターによるイントロが鳴り出すと、また歓声が上がる。

 すでにこの新曲は、heliodorの新たな代表曲として認知されてきている。

 客の目につかないよう気遣いながら袖に隠れるようにして見守る日向子も、笑って肩でリズムをとる。
 紅朱のジャケットを落とさないようにしっかり抱き締めながら。


《限りなく 凶悪な挑発
 手を挙げろ 錆色の悪魔》

 瞬間、全ての視線が紅朱に集まった。

《厚顔無恥の 憐れな群れは
 犬も食わない 卑怯者》

 歌詞が、違うのだ。

《脅迫は今宵 送信中
 降り注ぐ幾千のポイズン

 罪の意識が稀薄な君たち
 しっぽは見えてる 最終章

 罠は巧妙 手口は簡潔
 引き金は 悪意湧く「泉」
 叫んだ「粛清」

 狙いつける devil union

 その向日葵を手折るなら
 お前らに聞かせる唄はない》


 紅朱が、恐らくは即興のアドリブで唄うその詞の内容に、フロアがざわついていた。

 感想に突入すると、紅朱はまるでその視線で全員を焼き尽そうとするかのように、ステージからの景色を見渡した。

「親愛なるファンの皆さん……俺たちの向日葵を泣かせた奴はどいつですか?」

 口の端を歪めて、好戦的な笑みを浮かべる。

「……俺たちを敵に回したいならいつでもかかってこいよ」

 その言葉の意味がわからない者は皆不思議そうな顔で紅朱を見つめ、わかった者は紅朱から目をそらす。

「今俺の目を見れない奴は、とっとと帰れ。
俺たちを真っ直ぐ見つめてくれる、可愛い向日葵たちのためだけに、今夜は最高の唄を聞かせてやる」


 向日葵とは即ちファンである自分達だと解釈した人々は一斉に悲鳴と歓声を上げる。

 暗い顔をした一部のファンと、ステージの上に立つメンバーたちには無論わかっている。

 紅朱は「日向子」を狙う闇の集団に、今この場ではっきりと宣戦布告したのだ。

 「日向子」に牙を剥くことは、自分を……そしてheliodorを敵に回すことだと。













「流石は紅朱! キメるとこはびしぃっとキメてくれるじゃん☆」

 テンションの高い蝉をはじめ、楽屋のメンバーたちは皆一様に緊張感から解き放たれた、脱力した雰囲気だった。

「紅朱様、これを」

 ちょこちょこと歩み寄って、日向子は預かっていたジャケットを手渡す。

「……おお、サンキュ」

 紅朱はジャケットと引き替えに、日向子に微笑を返した。

 日向子もそれに、笑顔で答える。


 その様子を見ていた玄鳥は、無意識に目をそらした。

「ところで、お前ら……時間稼ぎさせて悪かったな」

 紅朱は何気無い口調で、メンバーたちに訪ねた。


「あれは誰の提案だ?」


「玄鳥だよ。玄鳥の指示でやったんだ」

 代表するように万楼が答える。

「玄鳥かっこよかったんだよ! リーダーが来なかったら責任は自分がとる……なんて言って」

「まあ、そうでしたの? 玄鳥様」

 感嘆する日向子に、玄鳥はいつもの照れ笑いをする。

「いや、俺はそんな……」


 しかし。その時。


「余計なことはするな」


 誰もが耳を疑う言葉を、紅朱が言い放った。


「リーダーでもないクセに……無謀な指示なんか出してんじゃねェよ」

「え……」

 玄鳥の笑顔は凍りつく。

「だって……」

「だって、じゃねェ。あの状況で俺が戻って来る保証があったか?
あんなリスク犯すくらいならとっとと頭でもなんでも下げて撤退すりゃよかったんだ」

「リーダー」

 たまりかねたように万楼が口を開いた。

「玄鳥、本当に頑張ってたんだよ。リーダーのこと信じて……必死に、リーダーの穴を埋めようとしてくれたんだ」

「……それが気に入らねェって言ってんだよ」

 紅朱は、数分前までとはまるで別人のような厳しい目付きで玄鳥を睨んだ。

「弟のくせに生意気なんだよ、お前。俺の穴を埋めようなんて、何様のつもりだ」

 玄鳥はその視線を受け止めて、静かに……本当に静かに、紅朱を睨み返した。

「……あんたこそ何様だよ」

 本当に玄鳥が発しているのかと疑ってしまうほど、低く重い、怒りに震える声音。

「……あんたはいつもそうだ。昔から、ずっと……」

「……玄鳥様っ」

 思わず制止しようとした日向子の肩を誰かが掴んだ。

 有砂だった。

 戸惑う日向子をよそに玄鳥は更に怒りの言葉をつむぐ。

「……いくら兄貴だからって、なんでも『弟のクセに』で片付けられたんじゃたまらないよ」

 怒りに身体を震わせたまま、玄鳥はすたすたと楽屋を出て行ってしまった。

 紅朱はそれを目で追い、苛立った様子で舌打ちする。

「今の、絶対リーダーが悪いからね」

 万楼は一瞬紅朱をあまり迫力のない目で睨んで、ぷいっとそっぽを向いて楽屋を出て行った。

「紅朱さぁ……マジで、変だよ。あんな言い方しちゃまず……うげ」

 言いにくそうにしどろもどろ話し掛けようとした蝉の衣装の首ねっこを、ぎゅっと有砂が引っ張る。

「……出るんや、アホ」

 蝉を強制連行して有砂が出て行ってしまうと、そこにはもう日向子と紅朱しかいなくなってしまった。

「紅朱様……」

 うつ向いている紅朱の顔は、赤い髪に隠されて見えない。

「……お前も俺のほうが間違ってると思ってんだろ?」

「……紅朱様も、紅朱様が間違っていると思っていらっしゃるのでは?」

「……間違ってるかどうかなんて関係ねェ……」

「紅朱様が『兄』で、玄鳥様が『弟』だから……?」
「そうだ」

「わたくしにはわかりません……何故そこに固執なさるのか」

 しばしの沈黙の後、紅朱はゆっくりと口を開いた。

「そうしてないと、不安なんだろうな……俺は」

 握り締めた拳は震えている。

「……俺は、綾の本当の兄貴じゃねェから」









《つづく》
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