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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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「……え……?」

 何かひどい聞き間違いをしてしまったのかと思った。

「……俺たちは本当の兄弟じゃない」

 聞き間違いなどではなかった。

「戸籍の上では兄弟でも、血縁から言えば、綾は……俺の従兄弟だ」

「いと、こ……」

 まるで目の前の景色がぐるりと反転してしまったように思った。

 うつむいた紅朱の表情は未だうかがい知れない。


「……そのことを、綾は、知らない」







《第5章 今宵、囚われて -attachment-》【3】










「ここにいるような気がしたよ」

 人気のない夜の公園で、ブランコに座ってうなだれている玄鳥を見つけた万楼は、そのあまりにもセオリーに則った光景に、

「玄鳥って……古典派だよね」

 と思わず呟いた。

「……茶化しに来たなら独りにしてくれないか」

 玄鳥が目を半眼するのにも関わらず、万楼はちゃんと古典派の流儀に則って隣のブランコに座った。

「あったかい缶コーヒーでも買ってきて『ほら』って投げてあげればよかったかな」

「いらない」

「ごめんごめん、いじけないで」

 万楼はスニーカーの先で削れた地面をなぞりながら笑う。

「……玄鳥がリーダーと本気で喧嘩するところなんて初めて見たからちょっとびっくりした」

 玄鳥は視線を足元に落としたまま溜め息をついた。

「……大人げないよな、俺も。兄貴のあの手のもの言いには慣れたつもりだったんだけど」

「そうなの?」

「少なくとも今までは我慢できてたのに」

 玄鳥はどうやら、楽屋での一件をすっかり反省しているらしかった。

「……日向子さん、何か言ってた……?」

「え? うーん……ボクもすぐ飛び出しちゃったからな。困ったような顔はしてたと思う」

 玄鳥は自嘲の笑みを浮かべて、自分の左手を見る。

「……早速、約束破っちゃったかな……」

「約束……?」

「何でもないよ」

 玄鳥はその左手でそのまま自分の目元を覆った。

「虫の居所が悪かっただけなのかもしれない……」

「リーダーの?」

「いや、俺のだよ……兄貴と日向子さんを見てたら、なんか……」

 言葉に詰まった玄鳥に、万楼は小さく笑った。

「ヤキモチ、妬いちゃった?」

「笑うなよ……」

「ごめん、おかしくなっちゃった。玄鳥の気持ちが、わかり過ぎて」

「え?」

 真意を問うように顔を上げた玄鳥を、万楼はいつになく真剣な顔で見つめて、言った。

「好きな人ができたんだ」

 まるで美少女のような綺麗な顔をした少年が、「男」の目をしている。

「できればボクが、彼女の特別になりたい。……玄鳥も、そうなんでしょう?」

「万楼……」

 たとえ名前を口にしなくても、玄鳥にも容易に察することができた。

 万楼が好きになったという女性が誰であるか。

 それは、玄鳥が想うのと同じ人だ。

「だからボクは、もう玄鳥の応援はしてあげられないんだ」

 万楼が苦笑する。それが伝染したかのように、玄鳥も微かに笑んだ。

「……参ったなあ。これ以上ライバルが増えないでくれるといいんだけど」














「ねーねー、マジであれ、フォローしなくてよかったの?
これがきっかけでウチ解散しちゃったりしないよねー?」

「そうなったら心置きなく、ピアノに専念できるやないか。よかったな」

「笑えない冗談言わないの!」

 年少二人が夜の公園で古典的に友情を深め合っていた頃、同居コンビは自宅に帰り着いていた。

 帰宅するなり蝉は、有砂の部屋に居座ってずっとぶつぶつ言っていたが、有砂のほうはいたって冷静だった。

 ベッドに寝転がって恨めしそうに見つめる蝉はそっちのけで、テーブルに頬杖をついて求人雑誌をめくっている。

「ねーねーねー、よっちんは心配じゃないワケ? あの仲良し兄弟が大喧嘩だよ?」

 有砂は雑誌をめくる手も、記事を追う目もそのままで、

「賠償請求はな、親子間では成立せんけど、兄弟間では成立するらしいで」

「……はい?」

「兄弟は他人の始まり、ゆうことや……なんぼ仲が良くても、他人が腹の底で何考えとるかなんて、実際のところは言われるまでわからんもんやろ」

 蝉は少しだけ考えてから、

「……つまり、たまには言いたいこと言って喧嘩するのもいいかも……ってコト??」

 有砂は答えなかったが、蝉は「そっかそっか」と感心したように首を何度も上下する。

「よっちんてばなかなか深いコト言うじゃん……無駄にバンド内最年長ってワケじゃなかったんだね~」

「……大体、首突っ込むのも面倒やしな。よその家の兄弟喧嘩なんて」

 蝉は、枕に預けていた頭をちょっと持ち上げた。

「羨ましいと思わない?」

 有砂の手が止まった。

「おれの妹は喧嘩出来る年になる前に天国に行っちゃったんだよね……だけどさ」

 蝉は笑う。

「いつかよっちんは、ちゃんと喧嘩出来るといいね」
「……なんやそれ」

「そろそろ捜してあげなよ、有砂ちゃんのこと」

「……捜して、どうなるんや?」

「んー……わかんないケド、とりあえずうちのお嬢様は喜ぶんじゃないの」

「お嬢喜ばせて何かオレに得があるんか?」

 ようやく雑誌から視線を離して、有砂は蝉を見やった。
 蝉は何故か妙にニヤニヤしている。

「そゆコト言うケドさ……ぶっちゃけ、よっちんは、日向子ちゃんのコトどうなのよ?」

「……何が?」

「ちょっとはオンナとして意識したりしないの?」

「……なんで?」

「なんでってこともないケドさ、あの子のお目つけ役としてはちょっと気になるワケよ」

 有砂はいよいよ憮然とした面持ちで、蝉を睨む。

「オレはあんなガキに手出すほど女に不自由してへんから」

「……手出そうとして拒否られて、平手打ちされたくせに……っ、あたっ!」

 飛んできた雑誌の固い角が蝉の額にジャストミートした。

「うっさい」

「ぼ、暴力反対~」

 若干涙目になりながら額を押さえる蝉に、

「ジブンこそどうなんや」

 有砂はすかさず反撃を開始する。

「お嬢様のためなら火の中水の中なんやろ?」

「え、そりゃそうだケド……あの子はおれの家族だしさぁ……それに」

 蝉は真っ赤なおでこを晒しながら、少し複雑な笑顔を浮かべた。

「何にしたってさ、あの子にとって大切なのは『雪乃』で『蝉』じゃないからね~」













「綾が弟になったのは、俺が5才、あいつが3才ん時だ」

 くしくも数日前、美々が座っていたのと同じ席に座って、日向子は紅朱の話に耳を傾けていた。

「綾の実の母親……俺の叔母は、一人で綾を生んで育ててたんだが、元々大きな病気を患ってて、それが元で死んだ。
俺は叔母に懐いて、よく遊びに行ってたからな……かなりショックだったし、はっきり覚えてる」

 時折、コーラのグラスを口に運びながら、紅朱はゆっくりと過去を紐解いていく。

「綾はまだ小さかったから、覚えてないし、教えるつもりもない。
今は浅川の家があいつの家だからな。
幸い、姉妹だった母親同士がよく似てたおかげで、俺と綾の容貌も似てたから、誰に疑われることもなかった」

「そうしてずっと……20年も、兄弟として過ごしていらっしゃったのですね?」

「ああ」

 そういえば玄鳥は、父方の遺伝だという赤みがかった髪も引き継いでいない。
 もちろんそれが100パーセント引き継がれるとは限らないから取り立てて不思議に思う者はいないだろうが。

「……最初の10年は、あいつの『兄貴』になることが課題だった。そっからの10年は俺があいつの『兄貴』であり続けることが課題になった。
その境目になったのが、中学時代に起きた事件だ」

 紅朱の赤みかがった瞳に、怒りをたたえた炎が不意に灯った気がした。

「……綾の実の父親が、恥じ知らずにも訪ねてきやがったんだ。
今更綾を引き取りたいとか抜かしやがって、あの下道……」

「そんな……」

「もちろん俺も浅川の両親も断固拒絶してやったさ。綾にはバレなかったが、万が一バレたらって不安が、その日から俺の中に住み着いた」

「あの」

 日向子は思わず言った。

「わたくしは、もしも玄鳥様が真実をお知りになったとしても、長年家族として暮らしていらっしゃった浅川の皆様を捨てるようなことはないと思うのですけれど……」

 他の誰かならいざ知らず、なにしろあの玄鳥のことだ。

 しかし紅朱は、日向子を、およそ普段からは想像出来ないほど弱々しい目で見つめる。

「……だけどあいつは、父親の名前を知ったら、きっと迷う」

「……なぜですの?」

「……それはっ」

 紅朱は一瞬、言いかけた言葉を飲み込んで、別の言葉を口にした。

「……俺が違う道を選んでいれば、こんなことにならなかったんだ……だから、俺には浅川家の平穏を守る責任がある。
俺はいつまたあの男が来てもいいように、綾を引き留められるだけの強さを持ってなきゃなんねェんだ。
どんなに迷ったとしても最後には俺を……浅川家を選ばせるために」

 悲愴な決意を語る横顔は、とても青ざめて見えた。

 この人をここまで脅えさせるものはなんなのだろう……と日向子は思った。

 今は聞いても答えてくれないのかもしれないが。

 日向子もまたその問いを飲み込んで、別の問いを口にした。

「紅朱様は、玄鳥様を……支配したいのですか?」

「……」

 紅朱は何も言わず、苦しそうに眉間に皺を寄せて、手の中のグラスを見つめていたが、

「人と人の絆は、力ずくで繋ぎ留めたり、引き離したりするものでしょうか?」

 その言葉に一瞬目を見開いて、日向子をを見た。

 その目は、懐かしい古い写真を眺めているかのように、微かに細められている。

「同じこと言い残して、出てった女が昔いた」

「え……」

「……3年も経つのに、何も成長してねェ」

 3年前に出ていった、紅朱の大切な女性……本人の口から直接その人の話が出たのは、恐らく初めてだった。

「粋さんの……」

 紅朱のこの目は、粋のためのもの。

 ただひとり、長い間ずっと紅朱の心を囚えたままのひと。

 日向子の胸は、何故かチクッと痛んだような気がした。

 紅朱はコーラの残りを一気に飲み干し、深く息を吐き出すと、不意に乾いた笑いを浮かべた。


「……綾が、あんなにムキになって俺に歯向かって来たのは初めてだった。
あいつは急速に成長して、俺の手から離れようとしてるんだろう……。
それを素直に喜んでやれない俺は、所詮偽物の兄貴でしかないのかもな」

「そのようなことはありませんわ!」

 日向子の声は無意識に大きくなってしまっていた。少し驚いている紅朱に、日向子のは微笑みかける。

「『バカ野郎』ですわ」

「あ?」

 予想だにしない言葉を投げ掛けられて、唖然とする紅朱。

 日向子は微笑みを絶やさずに続ける。

「紅朱様は、紅朱様が思うよりずっとよく頑張っていらっしゃいますわ。
わたくしが認めて差し上げましてよ」

「お前……」

「わたくしがそう言っているのですから、どなたにも文句は言わせませんわ」

 暗闇の中で日向子を包んだ温かい言葉を、そっくりそのまま返した。

「っ……ははは」

 紅朱は思わず吹き出して、笑い出した。

「……言っとくが俺は泣かねェからな!」

「もし泣きたくなったらおっしゃってください。
わたくしは後ろを向いておりますから」

「だから泣かねェっての」

 紅朱は笑った顔のままで、ぽつり、と呟いた。

「……今日の話、誰にも言うなよ。他に知ってんのは綾以外の家族と、あいつの実父だけだからな」

「もちろんですわ……けれどよかったのですか?
わたくしなどに話してしまって……」

「ああ。お前にはいつか聞いてもらいたかった」

 紅朱の目は、いつになくとても優しかった。
 一つ嵐が去った後の空のように。

「……思った通り、なんとなく軽くなった」












《つづく》
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 クラシカルなデザインの紺色のセーラーをまとった可憐な少女は、冬の冷たい風に身震いしながらも、自室の窓から見える白亜の建物を背伸びして眺めていた。

「お嬢様、お召し換えをな…らないのですか?」

 まだ中学に上がったばかりの少年が、声変わり前のボーイソプラノには似合わない口調で話しかけても、幼い少女は外ばかり見ている。

「……ねえ、雪乃?」

「はい……?」

「……一昨日からゲストハウスにお泊まりのお客様……一度もお姿を拝見しておりませんが、どういった方なのかご存じでして?」

「詳しくは存じませんが、先生の音大教授時代の教え子の方と伺っております」

「まあ、では雪乃にとっては兄弟子様にあたるのですわね?」

「はい……確かに」


 そういえば先程から、風に乗って微かにピアノの音が聞こえる。

 冴え冴えとして冷たい、冬の景色によく似合う音色。

「……なんて美しくて……せつないメロディ……」










《第5章 今宵、囚われて -attachment-》【4】









「……お嬢様?」

 呼び掛けには応答がなかった。

 雪乃はバックミラーから、後部座席をうかがった。

 日向子はバッグを抱えたままウインドウに頭を預けてすっかり眠ってしまっている。

 彼女は深く深く、「思い出」という名の夢の世界へと旅立っていた。

 雪乃は、溜め息をつき、眼鏡を少し下にずらして独り言を呟いた。
 
「……ゆうべは帰るの遅かったのかな……。
お疲れ様、日向子ちゃん」









 それは冴えわたる満月の夜。

 フリルたっぷりの白いガウンをまとった小さな少女は、寒さに震えながらも、大理石の渡り廊下を忍び足で歩いていた。

 こんなところを誰かに見付かればただでは済まないに違いないが、好奇心には勝てない。

 ゲストハウスから時折流れるあの旋律。

 奏でているのがどんな人なのか、突き止めなければ眠れない。

 幸運にも誰の目にもとまらずに白亜の建物まで行き着くことができたが、どうやらそこには最もたちの悪い先客が来てしまっているようだった。

 彼女の父親が、誰か……恐らくは例の客人と話している声が聞こえる。

 はしたないことと知りながら、少女は大きな扉の鍵穴を片目で覗きこんだ。










「……釘宮先生」

 甘く、たっぷり艶を含んだ声で、青年が囁く。

「……これ以上押し問答を続けて何とします?
私の気が変わることは、金輪際ないと断言致します」

「君はどうしても、その珠玉のような才能を自らドブ川に棄てたいというのかね」

「ドブ川とは……また、実に手厳しい」

 対面にどかりと腰を下ろし厳しい目付きで睨む中年男性に、青年はふっと含みのある笑みを見せる。

「ならば先生、私はドブにつかりきったドブねずみということですよ。
こんな卑しい奴めはお捨て置き下さい」

「馬鹿なことを言うんじゃない。君のピアニストとしての才能は本物だ、今からだって遅くはない。
私は君を釘宮の後継に指名したい」

「……後継なら、勤勉で素様ある利口な少年を見つけられたのでは?」

「あれはまだほんの原石だ、磨き上げても君を越える大器となる保証はない」

「……まあ、ごもっともですね」

 青年は不思議な笑みを浮かべたまま、中年男性をその切長の眼差しで見つめる。

「あいにくと私にとりましては、音楽大学に進んだことも、ピアノを専攻したこともほんの暇潰しです。
私は何故か、暇潰しで始めたことでも人より巧く出来てしまうことが多いものですからね。
釘宮先生の後継……というのは、暇潰しで襲名するには少々荷が重いのでお断り致します」

「君という男は……」

 呆れたようにうめく中年。

「……お約束通り、5日後の式典が最後です。お諦め下さい、先生」









 中年男性……父親がこちらに来るのに気付き、少女はとっさに開く扉の陰に身を潜めた。

 憤慨した様子ですたすたと歩く父親は、一人娘がそんなところに隠れていることには全く気付かなかった。

 少女が小さな胸を撫で下ろしていると、


「……今晩は、どちら様かな」

 あの甘い囁き声が部屋の中から響いた。

「もう隠れなくていいですから、入っていらっしゃい」

 少女はおずおずと、部屋の中へ入って行った。

 20代後半と思われる、背の高い細身の青年が革張りのソファに腰かけて笑っている。

「おや、これは可愛いレディのおでましだ」

 レディ、と呼ばれたことで少女はにわかに姿勢を正し、ガウンのすそをつまんでレディらしいお辞儀をした。

「釘宮日向子と申します。どうぞお見知り置きを」

 青年は楽しそうに微笑しながら立ち上がり、こちらも紳士らしく丁重に、

「お目にかかれて光栄です。私のことは……伯爵とお呼び下さい、レディ」

「かう……んと様ですの?」

「無論、爵位を賜った本物の伯爵ではないが……人からは何故かそう呼ばれていてね」

 日向子は、確かにその呼び名はこの青年に本当によく似合うと思った。

「伯爵様……ピアノをお辞めになりますの?」

 父親と青年の会話は11歳の少女にはいささか難解極まり、更にはところどころ聞き取れなかったため、全てを理解出来たわけではなかったが、どうやら青年はピアニストになるつもりがなさそうなのは確かだった。

「さて……折りを見て弾くこともあるやもしれないが。あなたのお父上の望むような形ではないだろうね」

「そうですの……」

 日向子が少し残念そうな顔をしたので、伯爵はふと微かに目を細め、ゆっくりと歩み寄った。

「レディ」

 膝を折って日向子の視線の高さに合わせると、ここにくる間にすっかり冷えてしまった柔らかい頬に、大きな手を当てがった。

 温かい部屋の中にいた筈の伯爵の手が、更に冷たいことに日向子は驚いた。

 けれどそれよりも、間近で見る伯爵の瞳は氷塊のように冷たかった。

「……人にはそれぞれ偽れない本性というものがある。本性を隠したまま生きることは窮屈で不自由で、退屈なものになるでしょう。
私は自分の本性が何者か、何を求めるか……よくわかっているので、他のものは全て切り捨てることができるのだよ」

「切り捨てる……?」

「本当に欲しいものを手に入れるためなら、その覚悟は必要になる……例えば将来美しく成長したレディには、何人もの紳士から求愛されるかもしれない。しかしその中から選べるのは一人しかいない」

 日向子はこくんと頷いた。
 伯爵はあくまでも優しい笑顔を見せる。

「いつかそんな相手と出会ったら、けして躊躇ってはいけないよ」

 いつか、と伯爵は言う。

 けれど日向子は今、目の前の双つの瞳が放つ月光のような光に釘付けになっていた。

 まるで満ちた月の引力のように。
 伯爵の声も眼差しも、冷たい指も、日向子の心をするすると引き寄せる。

 そっと小さな手を、頬を包む伯爵の大きな手にそわせ、真っ直ぐに見つめる。

「ではわたくしは……何を捨てれば伯爵様を手に入れることができますかしら……?」

 伯爵は一瞬眉を持ち上げ、すぐにまた余裕げな笑みに戻った。

「この伯爵を求めるのですか? レディ」















「……お嬢様!」

 はっと日向子は目を開いた。

「恐れ入りますが、そろそろお目覚め下さい」

 ドライバーシートから、ボーイソプラノではないが、夢の中と変わらない口調で語りかける幼馴染みをしばらくぼんやり見つめていた日向子だったが、だんだん頭がはっきりしてくる。

「そうでしたわ……お仕事……行かなければいけないのでしたわね?」

「左様でございます。お疲れのところ大変かと思いますが、お急ぎにならないと遅刻されます」

 遅刻、の二文字に一気に覚醒した日向子は、

「ありがとう、雪乃」

 短く労って、雪乃にドアを開けてもらうのを待たずにバッグを抱えて飛び出して行った。













 駐車場からオフィスビルへ向けて、本人的には全速力で走りながら、日向子は今しがた見た夢を思い出していた。

 それは間違いなく過去、本当にあったこと。

 日向子が初めて伯爵を名乗る紳士と出会い、瞬く間に囚われてしまった不思議な夜の記憶。

 どうして今になってこんな夢を見たのだろうか、と疑問に思いはしたが、思いがけず夢の中で伯爵と会えたことに日向子はときめきを感じた。

 今日は素敵な一日になるかもしれない。

 そんな淡い期待は、驚くほど早く裏切られた。


「森久保日向子」


 編集部のビルまであとほんの少しというところで、目の前に立ちはだかった者がいた。

 それが見知った少女だったので、日向子は立ち止まる。

「あなたは……いづみ、さん?」

 柔らかなピンク色のダッフルコートを着た少女が、真っ白な息を吐きながら、日向子を凝視していた。

「意気地なしな連中はとっとと諦めたけど、わたしは引かない」

「何を、おっしゃってますの……?」

 少女の瞳には深い闇が映っている……狂気という名の闇が。

「お金の力を使ったの? それともその可愛い顔でメンバーに取り入ったの?
……それともやっぱり、寝たの?」

 日向子はざりっと一歩後ずさった。

「いづみさん……」

 少女がコートのポケットに突っ込んでいた手を引くと、そこには危うく輝く銀色の刃が握られていた。

「いづみ……さん……」

 壊れたラジカセのように、呆然と繰り返す日向子。

 いづみはキリキリと最大まで刃を押し上げたカッターを右手に握って、叫んだ。

「粛清……!!」


 カッターを握ったいづみがスプリンターのように全速力で駆け込むのが見えた、その直後。

 日向子が見たのは千切れて風に踊る「深紅」の破片だった。

 その向こうにへたりこむいづみと、コンクリの地面に叩き付けられて、刃が真っ二つになったカッター。

「……っ」

 短い吐息が耳をくすぐった。

「……間に合ったな」

 囁く声は甘く、けれどよく通る強い響き。

 日向子の身体を片腕で支えながら、覆い被さるようにして立っていたその声の主は、

「……お前は絶対に一言も喋るな」

 きっぱりと命令して、日向子に背を向けた。

 日向子は今更のように頷いて、声には出さずに彼の名前を呼んだ。

 紅朱様……。

「なんで……あなたが?」

 愕然としているいづみに、紅朱は告げる。

「ああして宣戦布告してやれば、反応は2つに1つだろ。諦めるか、ぶちキレるか……。
こんくらいは想定してるに決まってんだろ」

 紅朱は舌打ちして足元のカッターを蹴った。

「バカだろ、お前。こんな工作カッターじゃ、ジャケットすら貫通しねェよ」

 日向子は、思わず声を上げそうになった。

 言葉とは裏腹に、綺麗に袈裟がけに切り裂かれたジャケットからはとめどなく血が滲み始めている。

「……気に入らねェから力ずくで排除なんて馬鹿馬鹿しい考えは捨てちまえ。
そんなもんじゃ、人の絆は左右出来ない……この女に教わったことだ。
俺なんかよりずっと森久保日向子は器のデカイ女なんだよ。
それを逆恨みなんてとんだお角違いだ」

 痛みなど感じていないというように、全くなんでもない口調で紅朱は、いづみに呼び掛ける。

「わかったら、謝れ」















《つづく》
「紅朱様っ」

 何度も何度も「ごめんなさい」を連呼して、泣きながらいづみが去ってしまうと、すぐに、紅朱は崩れるように膝を折った。

 黒いジャケットの背中には裂目にそった染みが広がっている。

「……だせェな、綾なら無傷で守れたかもしんねェ」

「何をおっしゃっ……」

 感情が一気にあふれ、息が詰まって言葉にならない。

 自分を省みず守ってくれたのだ。

 そればかりか紅朱はとっさに血のついた凶器を遠くへ蹴り飛ばし、痛々しい傷口をいづみに悟られまいとしたのだ。

 彼女の罪を軽くしてあげるために。

 立ち直るチャンスをあげるために。

 痛みに耐えて、立っていたのだ。

「……おいまさか、泣いてねェだろうな……?」

 日向子に背中を向けたまま、紅朱は囁く。苦しげな呼吸の狭間で。

「泣いたりしたら承知しねェからな……」

 そしてゆっくりと、冷たいコンクリートにその身を沈めた……。


「……紅朱様……!!!!」










《第5章 今宵、囚われて -attachment-》【5】










「綾。預金通帳とにらめっこは楽しいのか?」

「うわっ……! 兄貴」

 急いで引き出しの中に押し込まれる「浅川綾」名義の通帳。

「なんか、でかい買い物すんだろ」

「ち、違うよ……なんでもないよ」

「……あ、そ」

「部屋に入る時はノックしてくれっていつも言ってるだろ」

「はいはい」

 適当に返事して部屋を出る。

 別にしつこく追求する必要はない。

 約10年も「兄弟」をやっていれば大抵のことは察しがつく。

 本人は真剣に隠しているつもりなあたりが愉快で、すぐに誰かに話したくなる。

「おい、また綾の病気が始まったぞ、ババア」

 夕食の準備をする後ろ姿に話しかける。

「そう……綾ちゃん、今度は何がしたいって?」

 とんとんと長葱をリズミカルに刻みながら、尋ねてきた母に、軽い口調で答えた。

「多分、ギターだな」


 包丁の音が、止まった。

「ギター……」

「俺がクラスの奴とバンドやってんの見てやりたくなったんだろ。
全くしょうがねェよな、あいつも……」

「お兄ちゃん」

  背中を向けたままの母が、嫌に静かな声で告げる。

「そのこと、お父さんにはまだ話しちゃダメよ」

 その声と、動かない背中だけでビシビシと伝わってくる感覚。

 禁忌の気配。

 何か口の中が一気に、乾いてしまったような気がした。

「……なあ」

 言葉を絞り出す。

「ジジイ……なんで俺がバンドやりたいって言った時、あんなに反対したんだ……?
他のことは『なんでも経験だからやってみなさい』って感じなのに……なんで、音楽だけ……さ」

 母の小さな背中が、微かに震えている気がした。

「きっと……お兄ちゃんを見て、綾ちゃんも音楽をやりたがるから……そうすると母さんが悲しむと、思ったからよ」

 か弱い声が、絞り出す。

「……綾ちゃんの本当の両親はね、二人ともミュージックだったの……昔一緒にバンドをやっていたのよ」

「……え?」

「可愛い妹が、ギターケースを抱えて、駆け落ち同然に家を出て行った時は本当に寂しかった……だから。
……怖い……音楽という翼を得たら、綾ちゃんもどこかへ行ってしまいそうで……っ」

「……ババア、泣いてんのか……?」

 駆け寄りたいと思う反面、強烈な罪悪感で、金縛りにあったように動けなくなる。

 もし自分が音楽の道に進みたいなどと思わなければ、こんなふうに悲しませなかったんだろうか?


「……綾は俺の弟だろ。浅川家の家族だろ……どこにも飛んで行かせたりしねェよ。
……翼をへし折ってでも、俺が繋ぎ留めてやる」


 必死に慰めたつもりだったのに、静かなおえつが止まることはなかった。


 どうしていいかわからなくて、ただただ立ち尽くすしかなかった。












「……あったま悪ィ……」

「え? 何かおっしゃりまして?」

「なんか昔のことをちょっと思い出したんだ……走馬灯みてェな感じだ」

「まあ、縁起でもない表現をなさらないで下さい」

「センス悪かったか? 多目に見ろ……頭ん中ぼーっとしてっからな」


 日向子は即座に救急車を呼び、万楼の件でも世話になった病院に紅朱を搬送してもらった。
 無論、今度のことを「事件」にしないためだ。
 紅朱の背中の傷は出血量が多く、少々の輸血と15針の縫合を要した。

 意識が覚醒して後も、すぐには気分がすっきりしないのは当然とも言える。

「それにしてももったいなかったですわね……紅朱様のおぐし……」

 日向子お気に入りの深紅の髪は、カッターで切断され、不揃いになってしまったため、結局切り揃えられてしまった。

 サイドと同じ長さになったため、まだ男性としてはかなり長めとはいえ、肩につかないくらいの長さになってしまった。

「別に、たかが髪だしな……。まあ、お前が気に入ってんならまた伸ばしてもいいが」

「ええ、ぜひ!」

 日向子は紅朱の傍らで、しゅるしゅると梨をむいていた。

「……そういうことは得意なんだな? お前」

 日向子は誉められたことに素直に喜びながら、一切れを楊枝に刺して紅朱に差し出した。

「どうぞ召し上がれ」

「ん」

 紅朱は何の躊躇いも恥じらいもなくそれに食らいつくと、しゃくしゃく食べた。

「こういうのは、ガキの頃にババアにやってもらって以来だな」

 日向子はほとんど反射的に、

「粋さんにはして頂かなかったのですか?」

 言い終わってすぐに後悔するような配慮のない質問を口にしてしまい、その通りにしっかり後悔した。

「……下世話なことをお聞きしてしまいましたわ」

「ねェよ」

「……はい?」

 紅朱は大して気を悪くしたふうでもなく答え、

「粋とは別に、恋人だったわけでもないからな」

 驚くべき事実を明かした。

「大方蝉辺りが言った冗談を間に受けたんだろ?
一緒に暮らしてたこともあるし、公私ともにかけがえない相手だったことは認める。
俺たちは……言ってみれば親友だった」

「親友……」

「ああ。戦友と言ったっていい。
男だ女だなんて関係ない、信頼で結ばれたパートナーだった。
はっきりした理由も言わず、heliodorを抜けたい、なんて言い出す前までのことだけどな」

 微かに目をふせた紅朱の、その表情には嘘があるとは思えなかった。

 紅朱と粋は恋人同士ではなかった。

 けれど、あるいはもっと深い絆のある関係だったのかもしれない。

 紅朱は背中の傷よりもずっと痛みを伴う心の傷を辿って言った。

「あの時、俺は初めて粋に手を上げた。力ずくで、引き留めようとした。
俺のくだらない常套手段だな……」

「紅朱様……」

 紅朱は溜め息をついて、それから心配して顔を曇らせる日向子を見つめた。

「全くお前の言う通りだ。力ずくで解決することなんか何もねェな。
ただ力を振るった罪悪感が残るだけだ。
ガキの頃から人の上に立ってやりたい放題やってきたが……俺は元々、リーダーの器じゃねェのかもな……」

「まあ」

 日向子は何故か半分怒ったような顔で紅朱を見つめ返した。

「heliodorの皆様は、紅朱様のことが恐ろしくて逆らえないような弱虫さんではありませんわ」

「……あ?」

「あのように個性的な皆様を束ねること、力だけでは無理だとは思いませんか?
メンバーの皆様はもっと違うところを見て、違うところに惹かれて、紅朱様についてきていらっしゃるのではないでしょうか」

 紅朱は何か言おうとしたが、それを遮って、とんとんと病室のドアを叩く音がした。

「リーダー、入ってもいい?」

 廊下から聞こえてきた声に、一瞬驚いて反応が遅れつつ、

「……ああ」

 紅朱は入室を許可した。

「お見舞いにお菓子作って来たよ。エクレア嫌いじゃなかったよね?」

 最年少のバンドメンバーが、ラッピング用のバスケットを抱えて顔を出した。

「万楼……」

「この間はリーダーがボクの病室に駆け付けてくれたよね」

 日向子にバスケットを預けた万楼は紅朱ににっこり微笑む。

「リーダーは、大切な人、だからね」

 万楼に続くように、賑やかな声が飛込んでくる。

「紅朱大丈夫~!?」

 蝉だ。

「ってゆーか、一人でカッコつけるからこんなことになるんじゃん。おれたちにも相談してよ!」

「……お嬢が重傷ゆうから来てみれば、案外けろっとしとるやないか、しぶとい男やな」

 有砂も続いて部屋に入ってきた。

 続々とやってくるメンバーたちに、まだはっきりしていない頭のせいもあって、返す言葉の見付からない紅朱。

 日向子はそんな彼をなんとなく微笑ましく思いながら、見つめていた。

 そして。





「……兄貴」




 病室の入り口から、気まずそうな声。

 紅朱のことをこう呼ぶ人間が、世の中に二人といるわけがない。

 メンバーと日向子が見守る中、うつ向き加減でゆっくりとベッドに近付く。

「綾……」

「兄貴、あのさ……俺……」

「ちょっと待て」

 強い口調で紅朱は玄鳥の言葉を遮った。

「謝ろうとしてるだろ、お前」

「え……うん。だって、俺……」

「謝んな」

 玄鳥ばかりでなく、その場にいた全員がいぶかしげな顔で紅朱を見つめていた。

 紅朱は、玄鳥を真っ直ぐに見て言った。

「……ここでお前に謝られたら俺はまた、成長できなくなる。
……謝るのは俺だ。俺が、間違ってた」

「兄貴……」

 紅朱はゆっくり目を閉じて、告げた。

「……ごめん。あと……ありがとな。お前がいてくれて助かった。
これからも俺の右腕として……支えてくれるか?」

 一気に言い切ったあと、気恥ずかしそうに、視線を泳がせながら、紅朱は玄鳥に右手を差し出した。

 玄鳥は一瞬惚けたような顔をしていたが、

「……兄貴……」

 感極まって瞳を微かにうるませながら破顔一笑した。

「……うんっ。俺、頑張るよ」

 しっかりと、手と手が重なり、強く握る。

 紅朱の顔にも、ようやく笑みが浮かんだ。

 浅川兄弟にとっての新しい始まりの瞬間。

 日向子も心からの笑顔で、パチパチと拍手する。

 それに万楼が続き、蝉が加わり、ついに有砂も付き合った。

 拍手と笑い声の響く病室の中は、日溜まりのような温かい空気に包まれていた。
















 「D-union」が公式ホームページのトップに解散の告知を出したのはそのすぐ後だった。

 会長である「イヅミ」の真摯な謝罪文を残して、「D-union」は消滅した。

 紅朱は力ずくではない方法で、事態を収拾したのだ。

 暴力より遥かに難しく、遥かに強い……「優しさ」でいづみの心を動かした。












「落着……ってところみたい」

 「会員各位」への解散告知・謝罪メールを開くことなくゴミ箱に葬り去りながら、愛想の欠片もない黒ずくめの美少女は紅茶を口に運ぶ。

「助かったわ。まだ彼女は利用出来る……役に立ってもらわないと困るもの」

「……おいクロ助、お前のご主人、また何かすごいこと言ってるぞ」

「にゅ」

 ハスキーな声で楽しそうに囁く女性から、差し出されたブラシ状の玩具でじゃれる黒い子猫。

 黒衣の美少女はノートパソコンから目を離し、テーブルの向かいで愛猫をもてあそぶ彼女をじっと睨んだ。

「シュバルツよ。今はまだ名前を覚えさせているところなんだから、変な名前で呼ばないで、アルテミス」

「お前こそな……誰がアルテミスだ」

 美少女は子猫を手元に引き寄せて、黒で彩った指でくすぐりながら、小さく呟いた。

「たくさん名前があって貴女は面倒だわ。一体どの名前が一番好きなの?」

 じゃらす対象のなくなった猫じゃらしを指先でしならせて遊びながら、凛々しき狩猟の女神はふっと笑った。


「……粋、かな」












《第6章へつづく》
「お姉さん……可愛い!!」

 玄関のドアが開いたかと思うと、挨拶よりも何よりも真っ先に、万楼は声を上げた。

 真っ赤なコートに、シンプルな白いニットの帽子、ショートブーツと手袋は黒。

「今日のわたくしはサンタさんですのよ」

 にっこり微笑む日向子だったが、万楼は不思議そうに首を傾げた。

「でもお姉さん、今はまだ11月だよ?」

「ええ、世間的に言いますとまだ早いのですけれど、実は……クリスマス企画に参加して頂けないかと思いまして」

「企画?」

 日向子はにこにこしながら、後ろ手に持っていたポラロイドカメラを見せる。

「プレゼントと交換に、お写真を撮らせて下さいませ」








《第6章 11月のキャロル -May I fall in love with you?-》【1】












「ああ、よくあるよね。サイン入りポラを読者にプレゼント、って」

「はい。ご協力頂けますか??」

「うん、それはいいんだけど……さっき言ってた『プレゼント』って何?」


 万楼は、ざっと一ヶ月半は気の早い小さなサンタクロースをとりあえず部屋に招き入れた。

 ほかほかのココアと手製のシナモンパイを振る舞われて、ますますにこにこしながら日向子は先の問いに答えた。

「ただ頂くばかりでは申し訳ないので、わたくしからも何か差し上げるべきではないかと思いまして」

 万楼はフォークでサクサクとパイを刻みながら、感心したようにしきりにうなずく。

「そうなんだ、お姉さんって義理堅い人だね。
それで、プレゼントってなあに?」

 一口大というにはかなり大きなそれを、万楼は幸せそうに口に運ぶ。

 日向子はそれを微笑ましそうに見つめながら、

「はい、わたくしです」

 あまりにもさりげない調子で言われたので、

「ほえ?」

 パイを頬張ったまま、万楼はかなり間抜けなリアクションを返した。

 日向子は上品な仕草でココアを頂きながら、またなんでもない口調で告げる。

「万楼様にわたくし自身をプレゼント致します」


 万楼の唇からポロッとパイの欠片がこぼれ落ちた。

「……お姉さんが、プレゼント……??」

「はい。わたくしに出来ることならなんでも、万楼様のご要望に答えたいと思いますの」

「……ちょっと、待ってくれる?」

 万楼は瞬き一つせず、無言のままティッシュで唇を拭い、

「それって、お姉さんがボクのお願いを何でも叶えてくれるってこと?」

「はい、公序良俗に反していないことでしたら」

 日向子はここ数日クリスマス企画の内容にずっと思い巡らせていて、ようやく決定したこの提案にはかなり自信を持っていた。

 heliodorメンバーたちへの日頃の感謝を表すには自分に出来ること全てを尽すべきに違いないと。

 万楼は色々な感情がミックスされたような、形容し難い表情で唖然と日向子を見つめていたが、

「……本当に、何でもいい?」

 じっと見つめながら、もう一度尋ねる。

「はい……万楼様のお願いは何ですか?」

 日向子もじっと見つめ返す。

「じゃあさ……今夜、ボクとデートして」

「デート……ですか?」

 日向子にとっては予想外の答えだった。

 万楼は、荒れともくすみとも無縁な、陶器のように綺麗な頬をうっすらと桃色に染める。

「……お姉さんと一緒に行きたかった場所があるんだ。そこに、今夜行こう」












「どこへ連れて行って頂けますの?」

「内緒~」

 手袋をはめた右手と左手をしっかり繋いで、二人はすっかり日の落ちた夜の街を歩いていた。

 仲むつまじく歩く美形ツーショットは、明らかに人目を集めていて、通行人の大半が二度見してくるような有り様だった。

「ねえ、お姉さん。ボクたちはどんなふうに見えてるかな?」

「そうですわね……仲良しな姉弟とか」

「姉弟かあ」

 悪意は全くない日向子の純粋な解答に、万楼は少し膨れた。

「……ねえ、寒いからもっとくっついてみない?」

「はい?」

 万楼は悪戯っぽく笑って、日向子と繋いだままの手を、自分のからし色のコートのポケットに突っ込んだ。

「あ」

 必然的に腕と腕が密着し合う。

「……こういうのは嫌かな?」

 斜め上から見下ろす万楼の眼差しはどこかアンニュイで大人びて見えた。

 日向子はそれに目を奪われながら、首をそっと左右した。

「……とても温かいですわ」

「……うん、ボクも」

 万楼は満足そうに微笑みを浮かべた。















「万楼様、ここ……」

「待ってて。チケット買ってくるから」


 万楼は一度日向子の手を離してチケットカウンターへ走っていった。

 それを目で追ったあと、日向子は目の前の建物をもう一度眺めた。

 この季節には少し寒々しい、寒色を基調としたその入り口には、魚や海洋生物を象ったモニュメントがいくつもある。

「……水族館……」

「お待たせ。はい」

 走って戻ってきた万楼は、日向子にそっとチケットを差し出した。

「……あ」

 チケットに大きな文字でしっかりと綴られている言葉を、日向子は半ば反射的に読み上げた。

「……ナイト・アクアリウム」

 万楼を見やると、先程と同じ、少し大人っぽい笑顔がそこにあった。

「この水族館の売り。18時以降、カップル限定で、夜の海底を散歩できるんだって。ロマンチックだよね」

「え、ええ……ですが」

 日向子は戸惑いを隠せなかった。

 スノウ・ドームでの一件で、万楼の身に何が起きたかは蝉やいづみから聞いていた。

 夜の湖を見て、ひどく心を乱された万楼は、一時間あまりの間我を忘れて蹲っていたという。

 それほどまでに万楼は、夜の海が苦手な筈なのだ。

「……万楼様」

「怖いことから逃げてしまうのは、嫌だから」

 万楼は静かな声で囁く。

「……ボクが夜の海を恐れるのは、きっと、そこに何か不都合な思い出を封印しているからじゃないかなって思う。
それと向き合う勇気がなければ、いつまで経ってもボクの記憶は戻らないよ」


 覚悟を決めた男の瞳。

 日向子は万楼の圧倒されそうなほど強い意志に、胸が苦しくなるのを感じていた。

「……怖いけど、最後まで頑張ってみせる。だからボクに、お姉さんの力を貸してほしい」

 今度は手袋を外して差し出してきた手。
 日向子は自身も片方の手袋を外して、もう一度強く握った。

「……はい……!」












 間接照明の中にぼんやり浮かぶ水底の世界。

 底しれない闇を一条の光が微かに照らす。

 日向子が持つ小さな懐中電灯の灯だ。

 もう一方の手がしっかり繋ぎとめる指先はひどく汗ばんで、今にもすり抜けてしまいそうで、日向子は必死に離れないように握っていた。

 心地好いヒーリングサウンドに混ざって、まるで高い熱にうなされるような苦しそうな息遣いが聞こえてくる。

「……はぁ……はぁ……」

「……万楼様?」

 呼び掛けても返事は返ってこない。

 この闇の中では伺い知れないが、おそらく万楼の顔はすっかり青ざめた色をしているに違いない。

 宝石のような綺麗な瞳は苦痛にすがめられ、眉間には皺が寄っている。
 冷や汗がサイドの髪を湿らせているのが、なんとなく見てとれた。

 ゆっくりとはいえ、着実に前に歩んでいることが奇跡的にすら思える。

「万楼様……」

 水槽の中の、本来鑑賞の対象である不思議な色をまとう魚たちが、まるで日向子たちを見守るかのようにすぐ横を行き来する。

「……万楼様」

 呼び掛けても届かない。

 どうすれば万楼を支えられるのか、日向子は一生懸命考えていた。

 けれど思い付かなくて、つかまえた指にただ思いを込めて強く握ることしかできない。


 どのくらいの時間が過ぎたのか。

 どのくらいの行程を歩いたのか。


 ふと万楼が口を開いた。

「……ひとつ……思い出した」

 かすれた呟き。

「……夜の海が怖いのは……子どもの頃からずっとだった……」

 どこか虚ろな呟き。

「……海に連れていってもらったことなんかなかったのに……小さいボクはいつも海の夢を見ていた」

 日向子は黙って、何ひとつ聞きもらすまいと耳を傾ける。

「……温かい、でも暗い海の底にボクはいて……遠くから聞こえる色々な音や、誰かの話声を聞いたりしてて……。
……ボクはできれば、ずっとそこにいたいと思っていて……そこにずっとはいられないこともわかってて……。
怖くて、悲しくて……絶望するんだ。
誰にも会いたくないし……何も見たくない……何も知りたくない……地上に上がっても何もいいことなんかないと、ボクはもう知ってた……から」

 日向子にはなんとなく、万楼が語る夢が何を意味しているかわかった気がした。

 それは成長する過程で多くの人がいつのまにか捨て去る、けれど誰もが知っている、一番古い記憶。

 人は皆その暗い海からいづるのだから。

「……夜の海を見ると……あの夢の中の感覚が戻ってくる……怖くて、指に力が入らなくて……あの人も助けられなかった……」

 まなじりからすっと、涙の雫がこぼれる。

「……万楼様……」

 日向子は懐中電灯を一度切ってコートのポケットに入れた。

 そして、その手を伸ばして、すっと万楼の涙を指先で拭う。

「大丈夫。もう大丈夫です」

 万楼は立ち止まり、ぼんやりとした顔付きで日向子を見つめる。

 日向子は、微笑む。

「もう万楼様は知っていらっしゃるでしょう?
この世界には、価値のあるものがたくさんあります。愛すべき人がたくさんいます。
あなたは出会うことができました。だからもう絶望しなくていいのです」


「……あ」


 万楼の瞳に、喪われていた光が蘇る。

「……っ」

 握りしめていた指先に力が込められた。

「万楼様……」

 万楼はしっかりと日向子を見つめて言った。

「……暗闇の出口へ行こう。あなたが光を照らしてくれるなら、きっとボクは辿り着く」

 日向子は強く頷いて、ポケットの中から懐中電灯を取り出し、再び道の先を照らし出した。

 細く、白く伸びる希望の光。

 その先を目指して二人は走り出した。

 他の利用客、無論カップルである二人組の男女はみんな日向子たちを奇異な目で見るか、迷惑そうに見るか、はたまたまるで目に入らない様子で戯れるかしていたが、そんなことはお構いなく、二人は走った。


 そして。


 黒いカーテンで覆い隠された、人工の海の果てに、ようやくたどり着いた。


 くぐり抜けた瞬間、一気にさしこんだ真っ白な光の洪水が日向子の視界を奪った。

 ぎゅっと目をつぶった瞬間、

「……え……?」

 頬に、柔かな感触。

「……ありがとう、サンタさん」

 すぐ耳元で囁きかける声。

 声のほうを振り返って、うっすらと目を開けると、明瞭にならない視界の中は万楼の笑顔で占められていた。

「……ほら見て。ボクたちの出会った世界はこんなに綺麗だ」


 日向子は顔を上げて、万楼とともにその景色を眺めた。


 朝の光のようなイルミネーションに包まれた、鮮やかに透き通る青いガーデン。


 美しい、希望の色。



 二人は無言のまま、世界の美しさに見とれていた。

 繋いだ手は、離すことなく……。











《つづく》
 三度目のチャイムでようやくゆっくりドアが開いた。

「おはようございます!」

 日向子サンタは、もちろんそこにはこの部屋の住人のどちらかが立っているものと信じ、元気よく挨拶した。

「あら……?」

 しかし、日向子の視界には何故か誰もいなかった。

 ドアを開けた人物は、実はもう少し下にいたのだ。

「……だあれ?」

 何故か足元から可愛らしい声がする。

 日向子はゆっくりと視線を下方へスライドさせた。

「まあ」

 小さい男の子が日向子を見上げていた。

 初めて見る子どもの筈だが、なんとはなしに見覚えがあるような気がする。

 日向子と男の子はお互いに不思議そうな顔をして見つめ合っていた。

 と。


「おいクソガキ、何勝手に開けと……」


 奥から有砂が姿を見せたが、日向子の姿を見つけるなり、一気に顔を引きつらせた。

「お嬢……っ」

 
 日向子は何気無く男の子と有砂を交互に見比べた。
 似ている。


「有砂様……お子様いらっしゃったのですか??」
 







《第6章 11月のキャロル -May I fall in love with you?-》【2】










「……帰れ」

 すっかり目をすわらせて、即座に玄関のドアを閉めようとする有砂に、日向子は少し慌てて、

「も、申し訳ありません! お待ち下さいませ!」

 なんとかそれを制する。

「では、この子は一体どこの子なのですか?」

「それは……」

 有砂は彼にしては珍しく当惑したように目を泳がせる。

「……まあ、ここではなんやから」










 どうにか入室を許された日向子は、本来の目的はひとまずおいておいて、

「……それであの、この子はこの状態でよろしいですか?」

 と、自分の膝の上を示す。
 有砂にどことなく顔立ちの似た、謎の少年は日向子がソファに座るなり、その膝の上にどかっと頭を乗せて寝転がってしまったのだ。

「……このガキは生意気に……」

 有砂はなんだか面白くなさそうだったが、

「まあ、おとなしゅうしとんのやったらええか……」

 と溜め息をついた。

 何やらリラックスした様子だったが、目線はじっと日向子の顔へ向いたままだ。

「お可愛らしい。甘えん坊さんですわね?」

 にこっと笑いかけると、びくっと反応していきなり、うつ伏せ寝に切り替わった。

「……あら?」

「……何を照れとんねん、ガキのくせに」

「うふふ」

 日向子は、少年の頭を撫で撫でしてあげながら、

「……お話、聞かせて頂けますか?」

 と有砂を見やる。

 有砂は相変わらず、何故かひどく気まずそうな顔をしている。

「……そいつは、菊人(キクヒト)。薔子さんと親父の子……やねんけど……今、ちょっと預かっとんねんか」

 回りくどい言い方だったせいで日向子は一瞬考えてしまってから、

「では有砂様の弟様ですの!?」

 思いきり驚いた。

「弟ゆうても、コレが生まれる頃にはオレは家を出とったから……ほとんど初対面やな。
しかも薔子さんともども半年近く前に沢城の籍抜けとるから、姓もちゃうし」

「そうですか、薔子様が引き取られたのですね」

 日向子がそう言うと、何故か有砂はますます決まりの悪そうな顔になった。

「あの……何か、お気に障りまして?」

 心配して尋ねると、

「……別にそういうわけちゃうけど……」

 などと曖昧に答えながら、そんな有り様が自分でも嫌になったのか、一つ息をついて、切り出した。

「オレは、菊人を薔子さんから預かったんやで」

「?……ええ」

「ということは、未だに薔子さんと会おたりしとるんやで」

「はあ」

「はあ、て……お嬢は、別に気にならへんのか?」

「……はい、特に」

「……あ、そう」

「あの……気にしたほうがよろしいですか?」

「……別に結構や」


 有砂はどこか不満そうに見えたが、日向子にはその理由がよくわからなかった。

 だが本当は、有砂にも自分が苛立っている理由がよくわかっていなかった。

 よくわからないまま無言の気まずい空気が流れ出し、

「……あの……」

 日向子は何か別のことを尋ねようとしたが、その瞬間、いつの間にか仰向けになっていた菊人が、なんの前ぶれもなく口を開いた。

「……おねえちゃん、おとななのにおっぱいないの?」

 言うが早いか手を伸ばして、もふ、と日向子の胸にタッチした。

「ぺったんこ」


 色々な意味で大人二人は絶句した。

「このガキは……ホンマ……」

 呆れ果てる有砂。一方、日向子はしばらく固まった後で、じんわり顔を真っ赤にしてうつむいた。

「……ぺったんこ」

「密かに気にしとったんやな、お嬢……」

「……ぺったんこ」

 あまりにも深く沈んでしまったAカップの令嬢に、流石の有砂も同情せずにはいられなかったようで、

「別に、そない気にすることないやろ……こいつの場合基準のハードル高いからな」

 どうやらフォローらしき言葉を口にしたのだが、日向子はしょんぼりしたままじっと有砂を上目で見つめた。

「薔子様のお胸はそんなに豊かでいらっしゃるのですか……?」

 有砂は一瞬間をおいて、

「……まあ……結構」

「……今、どんなだったか思い出してらっしゃいました?」

「っ、違っ……」

 有砂はとっさにソファから若干腰を浮かせた。

「……冗談ですわ」

 と、日向子は苦笑して見せた。

「あまりにもショッキングだったので、ちょっぴり八つ当たりしてしまいました。申し訳ありません」

 有砂は黙って、一つ息を吐いてから、まるで取り繕うように座り直した。

「……まったく、特に気にならへんとかゆうて、案外気になっとるんちゃうやろうな、ジブン……」

 口をつくのは文句だったが、何故か有砂は先刻までよりいくらか機嫌がよさそうに見える。

 日向子は、そんな有砂をどこかとらえどころなく感じつつも、改めて充実しているとはお世辞にも言い難い胸に手を当てた。

「……やはり殿方はお胸が大きいほうがお好みなのでしょうか……?」

「……さあ、人によるんちゃうか」

「有砂様はいかがですか?」

「……別に」

 有砂の口許に、意味深な笑みが浮かぶ。

「後腐れなくヤレるオンナやったら誰でも」

「有砂様!」

 日向子は思わず菊人を見やった。

 いつの間にか、膝上を占拠した大胆不敵な少年は少し身体を丸めて寝息を立てていた。

 どうやら今の、幼児にはちょっと聞かせられない過激発言は耳に届いていないようだ。

 日向子は少しほっとして、微笑した。

「けれど、今は違うのですわよね?」

「……ん?」

「蝉様からお聞き致しました。このところ有砂様が無断外泊せずに毎晩ちゃんと帰っておられると」

「……それは……」

 何も不都合な話をしているわけではないのに、有砂は何故か居心地の悪そうな顔をする。

「……今は職探しで忙しいねんで。遊んでる暇がないだけや」

 何故か言い訳を求める。

「なかなか癖が直りませんのね……?」

 日向子は呟く。

「……癖?」

 有砂はいぶかしげに反芻する。

「そのように天邪鬼に振る舞って、進んで誤解を受けようとなさいますでしょう?」

「……なんて?」

「本当はお心の温かい、真面目な方だと、人に知られるのがお嫌なのですか?」
「……また説教か……」

 有砂は明らかに当惑している様子だったが、日向子は構わずに続ける。

「……薔子様とのこと、気にはならないかとお聞きになりましたでしょう?
本当言うと、お会いしたばかりの頃の有砂様を思い出すと、たくさん泣いた時のことがよぎって、胸が苦しくなります。
けれど、今はもう大丈夫です。有砂様は少しずつ本来のお姿に戻られようとなさってますものね」

 有砂に言い訳の隙を与えないように、日向子は切れ間なく畳み掛ける。

「薔子様と連絡を取っていらっしゃったのも、菊人ちゃんとお会いになったのも、ご心配でいらしたからでしょう?
かつての妹様のような不幸が起きないように、見守ってらっしゃるのでしょう?
そのくらいはわたくしにとてわかりますわ」

 日向子がなんとか遮られることなく全てを言い切ると、有砂は頭痛をこらえるように苦しげな表情で、片手で顔を覆った。

「……あんまり、オレを甘やかすな」

 戸惑い、微かに震える声。

「……全然あかんねん。ガキ連れて帰ったんはええけど、何をしたらええかわからん。
こいつも何したい、とか一切言わへんし……」

「有砂様……」

「……優しくする、てどうしたらええんや?
……愛したいと思っても、オレには愛し方がようわからん」

 それはようやく有砂からこぼれ落ちた、一欠片の真実の思い。
 隠していた素直な言葉。

 そしてそれ自体が、彼が素直になれない理由でもあった。


「焦らないで下さい、有砂様」

 微かに垣間見えた素顔に、日向子は語りかける。

「……ゆっくり思い出せばよろしいではありませんか。お一人では難しければ、わたくしがお手伝い致しますわ」

 有砂はしばしの沈黙の後、顔を覆っていた手をどかして、日向子を見やった。

「……お嬢には、みっともないところ見せてばっかりやな」

「……いいえ、また一つ有砂様のことがわかった気が致します」

 そう言って微笑む日向子に、有砂もまた、小さく笑った。

「……オレもオレのことが少しわかった気ぃする」

「はい?」

「……自分が何を必要としとったんか、とかな」

「……あの?」

「まあええ……ところでジブン、今日は何しにきたんや?」

 不意に問われ、日向子はすっかり忘れていたクリスマス企画の件を思い出した。

「実は……」

 日向子はポラロイド撮影の許可を得たいということと、その代わりに何でも有砂の希望に応えたいということを、説明した。

「なるほどな……」

「はい、有砂様のお願いはなんでしょうか?」

 有砂は特に迷うこともなく、即答した。

「八時に、薔子さんが迎えに来る……それまで、ガキのお守りを手伝ってくれるか?」

「ええ、もちろん……どの道この状態では立ち上がることもできませんし」

 膝上のあどけない寝顔を見つめてくすくす笑う。

「……そういえば、わたくしや有砂様にもこのくらいの子どもがいてもおかしくないのでしたわね?」

「……そうやな。その前に、結婚せなあかんけどな」

「結婚……」

 日向子にはまだ少し、リアリティのない言葉だった。
 その相手といえば今まで伯爵以外考えられなかったが、しかし伯爵との結婚を今リアルに想像出来るかと聞かれればかなり難しい。

 なんだか考え込んでしまう日向子だったが、有砂はそんな様を見て、意地悪く笑った。

「……まあ心配せんでも、世の中には『ぺったんこ』が好きなオトコもようさんおるからな」

「……ぺったんこ」

 せっかく忘れていたことを蒸し返されて、日向子はまたしゅんとうなだれてしまった。

 有砂は、一瞬笑みを打ち消して、小さな声で呟いた。

「……万が一行き遅れたら、オレが引き取ったってもええ」

 日向子は顔をあげる。

「はい? ……何かおっしゃいましたか?」

「いや……ただの独り言や」



 この極めて天邪鬼な男が、本当に素直になるにはやはりもう少し、時間がかかりそうだ。












《つづく》
『んー……あぁ、ごめん。今日と明日もちょっと都合つかないなぁ……』

「そう、ですか……わかりました」

 通話がそっけなく切断された携帯を握って日向子は溜め息をついた。

 このところ蝉が忙しいらしいことは有砂から聞いて知ってはいたが、やはり時間を作ってもらうのは難しいようだった。

「今回の企画は蝉様抜きでいくしかないのかしら……」

 溜め息が静かにもれたその時、コンコン、と扉をノックする音が聞こえた。

「……お嬢様。そろそろご用意をなさって下さい」

「……雪乃……はい、今参りますわ」

 携帯をテーブルの上に置いて、日向子は立ち上がった。

 鏡の前で一周くるりと回ってみだしなみを確認する。

 赤いイブニングドレスの肩に、淡いピンクのファーショール。

「少し派手……かしら」










《第6章 11月のキャロル -May I fall in love with you?-》【3】










「いいえ、大変品良く着こなしておられます」

 先刻の独り言をそのまま投げ掛けると、雪乃は大変無難なリアクションを返してきた。

「ありがとう、雪乃。あなたも素敵ですわよ」

 しっかりと正装した雪乃にエスコートされて、日向子はあまり得意ではないヒールをカツカツ鳴らして歩みを進める。

「お父様の代理でパーティーに出席するのも久々ですわね」

「相変わらず、華やかな席は苦手でいらっしゃいますか?」

「ええ……なんとはなしに品定めされているようで……」

 肩をすくめて笑う。

 ドレスで飾り立て、釘宮の名を背負って社交の場に出て、レディらしくそつなく大人の付き合いをこなす……日向子には肩の凝る役目だった。

「それにしてもお父様は、今回は国内にいらっしゃいますのに、どうしてご出席なさらないのかしら」

「先生は……お仕事がございますから」

「わたくしにもお仕事はありましてよ」

「それは存じておりますが、今夜のところは私の顔を立てては頂けませんか?」

 生真面目な顔で問う雪乃に、日向子は首を縦にした。

「わかっていますわ。それに……雪乃とワルツを踊るのは好きですの。足を踏んでしまっても許してくれますものね?」

「……ええ」

 短く答える雪乃の横顔には、どこか翳りが見える。

「……どうかしましたの? お身体の具合でも?」

「いいえ……特には」

 ほとんど完璧なポーカーフェイスを誇る雪乃ではあったが、このところ日向子は、以前より雪乃の感情の動きを察することができるようになってきていた。

 雪乃のほうにわずかな隙が出来てきたのか、日向子のほうが鋭くなってきたのかはわからないし、あるいは両方なのかもしれない。

 この時も日向子は、半分直感的に彼が隠し事をしていることを悟っていた。

「……何か、困っているならわたくしにも相談して下さいね」

「……どうぞ、お気遣いなさらず」

 そっけない答えに、日向子はそれ以上何も聞くことができなくなってしまった。












「はい、そのように父に申し伝えますわ」

「ええ、そうして下さいな」

「それにしても、日向子さん、随分お綺麗になられて」

「本当に、高槻さんもどこに出しても恥ずかしくないとご自慢に思っていらっしゃるのでは?」

 日向子は立て続けに向けられる奥さま方の「社交辞令」をいつものように謙遜と笑顔でかわしていたが、

「ところで、日向子さん。私共の長男の達彦が、是非日向子さんをお招きするようにとこのところうるさく申しておりますの」

 と一人が切り出した途端、空気が変わった。

「日向子さん、それより私共の息子と……」

「出来の悪いせがれですが、是非……」

 いきなり奥様連中は目の色を変えて、自分の子息を猛烈に売り込み始めた。

 日向子は「はあ」「ええ」「機会があれば」などと曖昧に答えながら、完全に圧倒されつつあった。

 そればかりではなく、

「日向子さん、始めまして。私は勅使河原勝昭と申します。かねてより釘宮先生にはお世話になっておりまして……」

「あなたが釘宮高槻先生のご令嬢でいらっしゃいますか? お話に聞く以上に可憐で優雅な方だ」

「こんばんは、日向子さん……赤いドレスが大変よくお似合いですね」

 日向子と同じか少し上の世代男性たちがよってたかって話しかけてくる。

 そして。

「是非、私とダンスを」

「いいえ、私と!」

「私と踊って下さい」

 争うようにさしのべられる手に、日向子は思わず、

「も、申し訳ありません……また後程……!」

 逃げた。











 今夜のパーティーはどうも何かがおかしいと日向子も気付いた。

 よく見れば来賓は適齢期の男性か、適齢期の息子を持つ奥様方ばかりだ。

 フロアから逃れ出て一息ついていた日向子に、

「……お嬢様、お戻り下さい」

 雪乃が歩み寄る。
 どうやらあとを追ってきたようだった。

「……雪乃……あなた、何か知っているでしょう?」

 日向子の問掛けに、雪乃はあくまで冷静な口調で答える。

「先生はこのところお嬢様がお仕事に根を詰めておられる様子なのをご心配なさっております。
お嬢様には一日も早く、釘宮の令嬢に相応な家のご子息とご縁談を……」

「……では今日のパーティーははじめから、結婚相手の候補を集めて、わたくしに選ばせることが目的ですのね……?」

「……はい」

 日向子はカツンとヒールを鳴らして雪乃に詰め寄った。

「雪乃も、わたくしは今すぐ仕事を辞めて、結婚するべきだと思っていますの?」

 雪乃は日向子の真っ直ぐな視線を受け止めて、静かに告げた。

「……先生がそう望まれるというなら、私には何も意見申し上げる権限はありません」

「お父様に意見しろと言っているのではありません! ……あなたがどう思っているのが、あなたの本心が聞きたいだけです……!!」

 真剣に声を震わせて問う日向子に、雪乃は無言のままその目を、そらした。

「……もう、結構ですわ」

 日向子は悲しみを込めて雪乃を見つめ、ドレスをひらりと翻した。

「……どちらへ?」

 問いには答えず、雪乃に背を向けたままフロアとは逆の方向へ。

「……お嬢様!!」

 振り切るように、逃げ出した。















 溜め息がまた一つ、夜風に溶けた。

 噴水庭園を臨むバルコニーは、寒々しい真冬の二十日月に淡く照らされ、ブルーグレーの影を作る。

「……雪乃は、わかってくれていると思っていましたのに……」

 最近は、口ではお説教してきても、日向子の仕事のことは理解してくれていると信じていただけに、雪乃の冷たい態度がショックでならなかった。

 日向子にとっては家同士の繋がりのためによく知らない相手と婚約することも、そのために仕事を辞めることも許容し難いことだ。

「……わたくしの味方は……この家にはいないのかしら」




「……こんばんは、ジュリエットちゃん」





 ふと、明るい声が孤独な静寂を破った。


「こんなところにいたんだ? 探しちゃった」


 日向子は手摺から思わず身を乗り出した。

「蝉様……!?」

 カジュアルなジャケットを身に付けたオレンジの髪の青年が庭園に立って、日向子のいるガーデンを見上げていた。

「違う違う、ロミオだよ♪」

 おどけてみせる蝉に、日向子は目をしばたかせる。

「何故ここにわたくしがいると? どうやってお屋敷の中に? それに今夜はお忙しいと……」

「そりゃあ、今日のおれはロミオだからさぁ、どんな障害があってもヘーキなワケよ」

「あの……全く答えになっていないような……」

「いいじゃん。おれはキミに会いたかったし、キミもおれに会いたかったんじゃないの?」

「は、はい」

 日向子はあまりにも予想を越えた展開に、まだ混乱していたが、完全に蝉のペースにのせられていた。

「……こっちにおいでよ、ジュリエットちゃん?」









「ふうん……政略結婚ってやつかあ。イマドキまだそんなんあるんだね~」

「そうですの……時代錯誤も甚だしいと思いますでしょう?」

 石造の噴水の外縁に腰掛けて、水音と月光がつくる幻想的な空間で二人はくっついて並んでいた。

「日向子ちゃん、マジで絶対負けちゃダメだよ!」

 蝉は、日向子が誰かに言ってほしかった言葉を臆面なく告げた。

「日向子ちゃんはバリバリ記者の仕事頑張って、いつか心から好きになった一番大事な人と結婚しなよ!!」

 けれど、そう言い切った後で何故か蝉の表情に微かな影が生まれた。

「蝉様……?」

 心配になった日向子は蝉の顔を覗き込む。

 蝉は日向子の眼差しを受けて不意に苦笑した。

「おれ、ズルイわ」

「……え?」

「ズルイ。超ズルイよ」

 蝉は長くて綺麗な指先をのべて、日向子のサイドの髪にそっと触れた。

「……『おれ』には無関係だから言えるんだよね。こんな無責任なこと、軽々しくさ……」

「蝉様……」

 苦しげに視線をそらした仕草が、先刻の雪乃と何故か一瞬重なって見えた。

「……キミの将来のことはさ、おれからは何にも言えないよ……おれの不用意な言葉で、マルかバツかの答えを出しちゃダメだ」

 髪に触れていた指が、頬にかかった。

「おれには何も言えないけど……だけど、キミの幸せを願ってるよ。それだけは、100パーセントの本心だから」


 強い思いを感じる輝く双つの瞳に、日向子は吸い込まれるように見入っていた。

「……そう、ですわね……何も言わない、という形でしか表せない誠意もありますのね……」

 雪乃を責めていた暗い気持ちが、ゆっくりと消えていく。

 日向子の立場は第三者が簡単に結論を出せるほど簡単ではない。

 ましてや釘宮家に深く関わる雪乃には、安易な発言は許されない。

 日向子を守るためにも……。


「……さて、難しい話はここまでにして、と」

 蝉は努めて明るく笑う。

「なんでもおれの願い事、聞いてくれるんだよね?」

「え、ええ」

 いきなり頭の隅においやっていたクリスマス企画の話を持ち出され、日向子は一気に我に返る。

「じゃーさ」

 蝉は頬に触れていたその手で日向子の手をとった。

「おれと踊ってくれる? ジュリエットちゃん」

 指先に唇を落とす。

 日向子は思わずどきりと、胸が高鳴るのを感じた。

「……ええ、喜んで。ロミオ様」


 月明かりに照らされた庭園で、フロアから流れる円舞曲に合わせて、二人は踊り始めた。

 こなれたステップを踏む蝉に、どこでダンスを覚えたのかと聞いても「ロミオだからだよ」と受流すばかり。

 全く不思議な、夢のような時間だった。


 それが瞬く間に終わってしまうと、日向子は少し名残惜しさを感じながら蝉から離れた。

「……戻らなくては。今日は雪乃の顔を立てる約束ですの」

「そっか……おれも、人に見付かる前に戻るよ。今日は、ありがと。マジで楽しかったよ♪」

「ええ、わたくしも……お会い出来てよかったですわ」

 笑って手を振る蝉を何度も何度も振り返りながら、日向子は魔法の庭園を後にした。






「またあとでね、ジュリエットちゃん♪」

















「雪乃」

「はい」

「聞きわけのないことを言って困らせてごめんなさい」

「……いえ、私こそお嬢様のお心に沿えなかったことをお詫び致します」

「いいの。わかっているから」

「……左様で、ございますか」

「ねえ……雪乃?」

「はい」

「あなた、先程から足を少し引きずっていませんこと?」

「……はい。これは、その……先程、ワルツのパートナーの方にヒールで思いきり踏まれてしまいましたので……7度ほど」

「まあ……可哀想に。では今夜はわたくしとのダンスは無理かしら?」

「いえ……お望みとあらば。私は、何度でも……」














《つづく》
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