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麻咲による乙女ゲー風(?)オリジナル小説ブログ

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「……番までのチケットをお持ちのお客様ご入場下さい」

「どうぞ押し合わず前へお進み下さい」

「こちらでチケットを拝見致します」

「カメラ、テープレコーダーはお持ちじゃありませんか??」

「ドリンク代500円です……はい、どうぞ」



「今日はどちらのバンドを見にいらっしゃいましたか??」





「……heliodor、です」







《序章 太陽の国へ -Let's go,Rock'n'Role lady-》【3】












 キャパシティの1.6倍ほどの人数を飲み込んだライブハウス「渋谷カルテット」。

 4バンド目の演奏が終わり、客電がついた。
 あとはトリの一組を残すばかりだ。
 日向子は、わずかに逆流を始める人波の真っ只中でぴょんぴょん飛び跳ねていた。
 一切の段差が存在しないこのライブハウスでは、身長150センチジャストの日向子の視界は完全に閉ざされてしまう。

「皆様……どちらにいらっしゃるのでしょう」

 日向子が探しているのは先刻出会ったあの3人だった。


「実は、俺たちもそこに行くんです……だから、きっとまたすぐ会えますね」


 どこか恥ずかしそうにそう言った、青年の顔を思い出す。

「……もしお会い出来なかったらどうしましょう。お名前も伺っておりませんし……」

 男性客はあまりいないし、3人のうち1人はかなりの長身なのだから、 絶対に目立つと思うが、なぜかそれらしきは見当たらない。

「いらっしゃいませんわ……ワイン色の髪の背の高い方と、薄い桃色の髪のお綺麗な方と、それに黒髪に白いメッシュの……」

 確認するようにボソボソ呟いていた日向子は、ふと何かを思い出しそうになった。

「……なぜでしょう……何かが引っ掛かりますわ……」

「誰かを探しているの? お友達とはぐれたのかしら」

 明らかに挙動不審な様子だった日向子に、親切にも声をかけてきた女性がいた。

 客層からやや逸脱した、少々年配とおぼしき女性で、優しそうな雰囲気だった。

「お友達……になりたい方々を探しておりますの」

「そう。見付かるといいわね」

 その笑顔が、なんとなくあの黒髪の青年のそれとダブって見えた。

「あの……もしやあなた様は……」


 問掛けは悲鳴にかき消えた。
 目の前の風景が闇に溶けて、1秒の半分くらいの間をおいて、甲高い波音を響かせて押し寄せた怒濤が、自分の意思とは関係なしに身体を前へ前へと押し流していく。

「あ……」

 一瞬波の隙間で、あの年配女性が倒れかけているのが目に入ったが、日向子はもう波に沈み、運ばれていくしかなかった。

「今の方……大丈夫でしょうか……」

 スモークで煙るステージが、人の頭ごしにモザイクのように見え隠れする。日向子は身動きのとれない、他人の体温や呼吸や鼓動がダイレクトに4方から伝わる密集地帯で、爪先が攣るほど必死に背伸びしながら、なんとか可視の領域を広げようと頑張っていた。

 本日のトリを飾るバンド……この華やかな狂乱の津波が求めるもの。

 heliodor、をその目に焼き付けるために。


 そしてギターのサウンドを全面に出したオープニングSEが響く中、とうとうメンバーが姿を現した。

「紅朱~ッ!!」

「マロ様ぁ!!」

 叫ぶ声が幾重にも重なって、際限なくボルテージが上がっていくフロアで、日向子だけが爪先立ちでぽかんと立ち尽くす。

「……まあ」

 先程いくら見渡しても見付からなかった人たちの姿を、ステージの上に見つけた。

 一瞬、人違いだろうかと思ったが、すぐにそれは一転して確信となる。

 すぐ隣にいた二人組の会話が耳に届いた。


「ねえ、玄鳥さぁ、右手に絆創膏貼ってない?」

「怪我してんのかなあ」


 日向子もまさにそれを見ていた。
 右手の甲に絆創膏を貼ったギタリストはまるで誰かを探すように、こちらを見渡している。

「あの方々……heliodorのメンバー様たちでしたのね……!」

 どおりで引っ掛かった筈だった。
 彼らの容姿の特徴は、資料に載っていた写真と全く同じだったのだから。

 私服かステージ衣装か、メイクをしているかいないかの違いがそれに気付かせなかった。

 ほの暗い緋色の照明を浴びながら、センターで意識を集中するように斜め下を向いている赤い髪の小柄な青年もまた、昨日カフェで出会ったあの人物。
 そうに違いなかった。


「なんというめぐり会わせでしょう……」


 ここに到る前にメンバー五人のうち四人と偶然にも出会っていたとは。

 実はそれだけではないのだが、少なくとも日向子はそう思っていた。


 SEがフェードするのと比例して、フロアはやがて水を打ったような静けさに変わっていった。

 そして。

 ボーカル、紅朱が顔を上げた。


「Ghost Ship」


 ウイスパーボイスでタイトルが告げられた瞬間、再び沸き起こる歓声とともに、歪んだ重低音のイントロが空気を震わせるように鳴り響いた。

 疾走感あふれるギターにタイトなビートを刻むドラム、風貌からは想像出来ない骨太なベースのライン、無機質なほど正確に絡み合うそれらの音に、彩りを与える華やかな音色はキーボード。
 聞く者全てを強制的にバンドの生み出す世界に引っ張りこむ、畳み掛けるようなスピードチューン。



《まだ許すの? まだ揺れるの?
 独り遊びが 思い出せない
 君は夜型 彼仕様

 泥の船だと 知りながら
 降りられない 君
 night cruise
 航海は 終わらない》


 艶を含んだハリのあるボーカルは、甘く耳に心地好い音域。

《言えないから?
 癒えないから?
 ぬるま湯も 5年浸かれば媚薬
 シャドウの藍も 彼仕様

 純愛の亡霊船(ゴースト・シップ)
 風のない海
 dead rock
 後悔は 終わらない》

 ステージの端ギリギリに立って、マイクスタンドを自在に操りながら唄う紅朱は、このそれぞれに独特の輝きを放つメンバーの中において、誰よりも鮮明なオーラをかもし出す。

 間違いなく、このバンドの主役は彼だ。


《ねえ そろそろ
 僕と行きませんか?

 角度の違うキスと
 平手打ちする勇気を 君に》


 日向子は息をするのすら忘れるほど、ステージに釘付けになっていた。

「すごい……」


《「馴れ合い」「お芝居」「述懐」
 他愛ない 「自愛」
 言い訳を全て 論破して
 君の弱さは 殺してあげる

 残骸は そこに沈めて
 海底に 辿り着く頃には
 多分 朝に気付く筈だから……》












「あ」

 日向子が明確な意識を取り戻したのは、アンコールの第一声が響いた瞬間だった。

 すぐに沸き起こるアンコールの嵐の中で、日向子は立ち尽くす。

 頭の芯が痺れていて、なんだかぼーっとするようだった。

 高山獅貴のライブに行った後も似たような状態になるが、それとはまた違うような気もする。

 散らばった思考をかき集めていると、ふと先程の二人組の声がまた聞こえた。

「さっき、途中で倒れて運ばれてた人いたね」

「うん、見えた。結構いいトシのおばさんだよね」


 日向子の脳裏に、あの女性の優しげな顔が浮かんだ。

「まさか……」

 日向子は、暗転したまま再びメンバーたちが戻るのを待ち続けるステージを見上げて、一瞬悩んだが、意を決したようにそちらに背を向けた。














 日向子はまだ人もまばらなドリンクカウンターでミネラルウォーターを引き換えて、物販スペースを横切り、あの女性の姿を探し求めた。

 と。



「だから言わんこっちゃないだろうが!」



 聞き覚えのある怒声が響いた。

 バックステージに向かう通路の扉の前で、今の今までステージに立っていたボーカルの紅朱が仁王立ちしていた。

 激しいライブの余韻で、赤い長髪は汗で首筋に張り付き、肩口に引っ掛けた白いタオルとコントラストを描いている。

「ババアにはスタンディングのライブなんて無理に決まってる……だから俺は来るなって言ったんだよ」

 紅朱の見下ろした目線の先には、パイプ椅子にしなだれかかるように座ったあの女性だった。

 心なしか青い顔をしている。

「……ごめんね、お兄ちゃん」

 少しかすれた囁き。

 やっぱり、と日向子は思った。
 あの女性は兄弟の母なのだろう。
 女性的な柔らかい雰囲気ではあるが、よく見れば顔のパーツが二人によく似ている。

「……綾ちゃんもね、最初はすごく反対したんだけど……母さん、どうしても二人のやっているバンドが見たかったから無理を言って頼んだの……だからお兄ちゃん、綾ちゃんを叱らないであげてね」

 紅朱は渋い顔をしたまま、深く溜め息をつく。

「あんたになんかあったら……ジジイに会わす顔ないだろ。頼むから、無茶するなよ……」

「……父さんも本当は来たかったみたいよ」

「……まさか」

「本当よ。確かに昔は父さん、二人が音楽の道に進んだこと、よく思ってなかったかもしれない。だけど今は応援してるのよ」

「……そんなわけねェだろ……だって俺は」

 紅朱の、ステージの上で観客を堂々と煽っていた姿からは想像もできないような、どこか悲しげな顔。
 それは日向子の胸を少し締め付けた。

「……我慢なんて、しなくていいの」

 紅朱の母は苦しげながらも、優しく微笑んだ。

「お兄ちゃんも綾ちゃんも、私たちの自慢の息子……あんなにかっこいい姿見たら、ますます鼻が高いわね」

「……ありが、とう」

 ぎこちなく感謝を口にする様は、不器用な優しさを感じさせた。

「……紅朱様」

 とっさに呼び掛けていた。

 驚いたように振り返る紅朱。

「げッ、昨日の……っていうか、なんでいる? 見てたのかよ!」

 顔を赤くしてうろたえる息子を、母親は微笑ましいものを見るように見ていた。

 日向子は二人に歩み寄り、いきなり頭を下げた。

「昨日のこと、申し訳ありませんでした」

「……あ?」

「紅朱様はお言葉こそ乱暴でいらっしゃいますが、お母様思いの優しい殿方でしたのね」

「な、何言ってんだ、お前……やめろ。俺はそういうキャラでは売ってねェ」

 タオルで赤らんだ顔を半分多いながら顔を背ける。

「紅朱~、そろそろ出ないとお客さんはけちゃうかもしんないよ~」」


 バックステージのほうからメンバーの一人、アップにしたオレンジの髪が鮮やかなキーボードの蝉がやって来た。

「ってちょっとちょっと、何こんな時に女のコナンパして……」

 目が合った瞬間、蝉はまるで幽霊でも目撃したような顔で硬直した。

「おじょ……!?」

「はい?」

「……こ、紅朱ッ、とにかく早く来てッ」

 尻に火がついたような勢いでUターンしてステージ裏に去ってしまった。

「なんだ、あいつ……」

 紅朱もいぶかしがりながら、それを目で見送ったあと、

「ババアは椅子に座って袖からステージ見ろよ……それと……まあ、いいや。お前も一緒に来い」

 と日向子に顎で通路を示した。

「よくわからないが、うちのギタリストが、昨日の女に会ったらVIP待遇にしてやれって言うんでな」

















《つづく》
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「日向子さんは、ライターさんなんですよね」

「はい。そうは言いましても、まだまだ駆け出しですけれど」

「ということは業界の人なわけですよね……」

「一応はそういうことになるかと思います」

「そうか……そうなのか……」

「あの~、どうかなさいましたか?」

「気にしないで、お姉さん。玄鳥は『やったー。これで兄貴に怒られずに、堂々と打ち上げに誘えるぞ』と思って少しニヤニヤしちゃっただけだから」

「はい??」


「ちょッ、ちょっと……痛ッ!!」









《序章 太陽の国へ -Let's go,Rock'n'Role lady-》【4】










「変なこと言わないでくれよ、日向子さんが気を悪くするだろ」

 玄鳥はいささか大袈裟な剣幕で万楼に詰め寄った。
 詰め寄られた万楼は一切動じる様子もない。

「天井に頭ぶつけるほど慌てることないのに。ボクだってお姉さんが打ち上げに来てくれたら嬉しいからね」

「打ち上げ……わたくしがお邪魔してよろしいのですか??」

「もちろん、俺も歓迎しますよ……その、参加するのheliodorのメンバーだけだから、遠慮しないで下さい。
うちはリーダーの兄貴がアルコールダメだし、万楼がまだ未成年なんで、他のバンドとはあんまり付き合いがなくて。場所もファミレスだったり、誰かの家だったり」

「有砂や蝉はちょっと不満そうだけどね」

 日向子は二人に向かってにっこりと微笑を返した。

「ありがとうございます。是非ご一緒させて下さい」



 終演後2時間近くが経過し、人気のほとんど無くなった搬入口で、作業を一通り終えた玄鳥と万楼、それに日向子は機材車(玄鳥が私有、提供しているミニバンである)に乗り込んで他のメンバーを待っているところだった。
 運転席に玄鳥、2列目のシートに日向子と万楼が少し間をおいて座っていて、ついさっきまで騒がしかった「出待ち」のファンが去った後は、祭の後の静けさだけが残っている。

 紅朱は有砂に車を出させて母親を宿泊するホテルまで送りに行っていて、蝉は他バンドの打ち上げに少し顔を出すということだったが……。

「蝉、逃げたね」

 万楼がぽつんと呟いた。

「うん……」


 複雑な表情で頷いた玄鳥を見やりながら、日向子は先刻の……終演直後の楽屋での出来事を思い出していた。












「……お前、やる気あんのかよ」

 低いところから発せられた声とともに、鋭い視線が蝉を射抜いていた。

「とても金が取れるプレイじゃなかった」

 腕を組んで壁に背をつけて立つ紅朱は、けして広くはない楽屋でありながら、彼の周囲だけぽっかり無人になるほどの迫力を有していた。

 日向子や、他のメンバーたちも楽屋の外に出て、入り口付近からそれを見守っていた。

「あれは……その……」

 椅子に座って、少しうつ向き加減なオレンジ頭の青年は、もごもごと口を開く。

「ちょっと……調子、悪かったってゆーか……アクシデントがあって……動揺、して……」

「本編はむしろ調子よかったじゃねェか……なんでアンコールだけあんなザマなんだよ」

「だから……アクシデントが……」

「だとしてもステージでは表に出すな。当たり前だろ?」

「うん……ごめん」


 あまりにも修羅場然とした雰囲気に、日向子は心配になってくる。

「お厳しい方ですのね。紅朱様」

「まあ、確かにリーダーはライブにこだわり持ってるから、よくダメ出ししてくるけどね……」

「今日の兄貴はいつもより機嫌悪いな」

「……恥をかかされたと感じとるんちゃうか? 母親がわざわざ見に来とったからな」

 冷静に分析する有砂のほうを他三人が思わず振り返ったのは、紅朱に負けず劣らず、彼の機嫌が悪そうだったからだ。

「……確かに蝉はミスを連発したかもしれへん。けど素人が気付くのはせいぜい1つか2つやろ。実際、絶賛やったやないか」

「まあ……確かに母さんは喜んでましたね。出来がどうとかは大して関係ないんでしょうけど……」

「そうですわね」

 日向子も玄鳥に同意する。

「ご自分のお子さんが、ご立派にステージに立っていらっしゃったら、それだけで無条件に感動なさるに違いませんもの」

 その時、万楼が苦笑して長い睫毛を少し伏せたこと。そして有砂が小さく舌打ちしたことに日向子は気付かなかった。


「もしや……蝉様はわたくしのような部外者が横で見ていたから、調子を崩されたのでは……」

 という不安が突如脳裏に浮かび、次の瞬間には、

「あの……!」

 修羅場空間に突入していたからだ。

「……!!」

 全員が声にならない叫びを上げた。

「なんだ、今取り込み中だから入ってくるな」

 紅朱の怒りの矛先は日向子のほうへベクトルを変えようとした。

「待った!」

 いきなり蝉が顔を上げた。

「おれが悪いよ。全部悪い……マジで、全部おれの責任だから。関係ない人には当たらないでよ」

 一瞬前までとは別人のようなキッパリした口調に、紅朱も微かにひるんだ。

「蝉……お前?」

 蝉は、日向子のほうをチラッと見やった。

「キミは、悪くない」

「蝉様……」

「ただあれが《heliodor》だって思わないで。ホントはもっとずっとカッコいいバンドだからさ」

 日向子は大きく首を縦にした。

「……はい。わたくし、もっとheliodorを知りたいと思いました。そして……たくさんの人に伝えなくてはと」

 日向子は、紅朱のすぐ側までゆっくり歩み寄り、真っ直ぐに彼を見つめた。

「取材を、させて下さい」

「……あんた、マスコミ関係か?」

「はい。わたくしは……」

 日向子は、昼間危うく奪われかけたバッグの中に手を突っ込んで、名刺ケースから名刺を引っ張り出した……つもりだったのだが。

「こういうものです」

「……17530」

「え?」


 読みあげられた数字に驚いて、自分が手にしているものを良く確かめる。

「あら、間違えましたわ。これは伯爵様のファンクラブの会員証でした」

「……耽溺同盟?」

「はい、耽溺同盟です」

「……へえ。あんた、あいつのファンなんだ」


「あ」

 日向子は今更思い出していた。
 美々から受けた重要なアドバイスを。


『あんたの高山獅貴命はわかってるけど、伯爵様ネタはheliodorのメンバーの前では言わないようにね』


「……そうでしたわ……」

『リーダーの紅朱がね……高山獅貴のアンチだから』

「……あの、わたくしは……」


『そう。ファンの間じゃ超有名な話。heliodorのメンバーは全員加入する時に高山獅貴の踏み絵踏まされた、とかってネットで通説になってるらしいよ』




「わたくし、踏めません!!」




 沈黙の後、最初に蝉が吹き出した。
 
「ヤバっ……ウケる、それ」

 楽屋の外からも笑い声が聞こえてくる。

 日向子は何が起きたかよくわからず、ただおろおろしながら紅朱を見つめていた。

 紅朱は一つ大きく息を吐いた。

「ネタに決まってんだろ」

「ネタ……?」

「未だに踏み絵説を信じてる奴がいたとは……」

 呆れ果てたような顔で目を半眼する。

 しかし、微かにではあるが紅朱も笑っていた。

「確かに俺は高山獅貴の野郎は大嫌いだが、別に他の奴が支持するのに口出したりしねェから」

「そう、なのですか……」

 日向子は胸を撫で下ろした。

「大体、うちの弟がそれのクリスタル会員だからな」


「クリスタル?」

「なんだ知らねェのか? ナンバーが2桁までの奴は会員証がクリスタルで出来てっから、俗にクリスタル会員って呼ばれてるらしい」

「……まあ」












「それにしても驚きましたわ、玄鳥様が伯爵様のファンでいらしたなんて……しかも、クリスタル会員様とは」

「99番なんで、滑り込みですけどね。持ち歩くと壊しそうで部屋に飾りっぱなしだし……そんなにいいものでも」

「玄鳥は獅貴マニアだから、部屋に遊びに行くと色んなものがあって楽しいよ」

「まあ、是非拝見したいですわ」

「えっ……あ……」

「……ご迷惑ですの?」

「気にしないで、お姉さん。玄鳥は自分の部屋に女の子を上げたことがないから慌てているだけなんだ」

「だ、だからッ、変なこと言うなよ」

「また頭ぶつけるよ」


 ライブ後特有の、身体は疲れているのに異様に興奮してハイテンションな状態になりながら、待ち惚け組の話は弾んでいた。


「わたくしの部屋にも、お客様はまだお招きしておりませんわ。時々父の遣いで雪乃は参りますけれど」

「執事さんか何かですか?」

「メイドさんじゃない?」

「いえ、雪乃はわたくしのお世話をしてくれてはいますけれど、使用人ではありませんのよ。
父に師事して勉強しておりますの。後継者候補として父が後見人になっていまして」

「師事、ですか……」

「お姉さんのお父さんって何やってる人??」

「それは……」


 真実を口にすべきか否か一瞬躊躇った。
 その瞬間、まるで狙いすましたように日向子の携帯が鳴った。

「まあ……噂をすれば、雪乃からですわ」















 日向子はまだ視界の隅にあるミニバンを名残惜しそうに振り返った。

「今すぐ迎えに来る……などと。お父様の命令は理不尽ですわ……」

 雪乃からの電話を切った日向子は玄鳥と万楼に、打ち上げに参加出来なくなった旨を伝えた。

 二人はとても残念そうだったが、日向子も心から残念で仕方がなかった。

 通りに向けて歩いていた日向子は、ふと向こうから歩いてくる人影を見て歩みを止めた。

「紅朱様……?」

 風でふわりと揺れる赤い髪は、夜の薄闇でもはっきりとわかる。

「あんたか」

 紅朱は日向子から数メートル離れたところまで歩いてきて、同じように立ち止まった。

「有砂様は……?」

「一応蝉を迎えに行かせた。ま、本当によその打ち上げに参加してんのかどうかは怪しいとこだけどな……」

「そうですの……」

「あんたはもう帰るのか? 打ち上げに誘われなかったのか?」

 日向子が事情を話すと、紅朱は「そうか」と呟くように言って、少し間をおいて尋ねた。

「あんた、お嬢様なんだろ? なんで雑誌記者になんかなろうと思った?」

 日向子は何の躊躇もなく即答した。

「伯爵様のお近付きになりたかったからです」

「……よくそんな不純な動機を堂々と言えるな」

「嘘をついても仕方がありませんわ。それに、今はそれだけではないですし」

 紅朱はフッと軽く笑みを浮かべた。

「まあ、正直なところは買ってやってもいいか」

「はい?」

「……一応、メンバーには取材に協力するように言っておいてやる。言われなくても協力しそうな奴もいるが……」

「まあ、ありがとうございます! では、改めてお渡しし損なった名刺を……」
 日向子はバッグを探りながら、紅朱までの数メートルの距離を走って近付こうとした。が。

「きゃ……!」

 残り1メートルの石畳を蹴った爪先が、石の割れ目に引っ掛かった。

「なっ」

 滑り落ちた名刺入れからこぼれた名刺が少し風に泳ぎながらぱらぱらと散らばる。

 そして。

 日向子の華奢な身体は紅朱の胸に飛び込み……そしてそのまま、勢い余って押し倒した。

「……」

「……」

 冷たい地べたに尻餅をついた紅朱、そしてその上に完全に乗っかった状態の日向子。

 日向子は状況の整理が追い付かず、きょとんとした顔のまま、

「これ、どうぞ」

 拾った名刺の一枚を差し出した。

「ん……ああ」

 紅朱も呆然としたまま、それを受け取った。

「森久保日向子、か」

 息がかかるほど近くで、あの美声が囁いた。

「色々大胆な奴だな」








 親愛なる伯爵様。
 日向子は今日、初めて殿方を押し倒してしまいました。

 ともあれ……素敵な夜でした。

 記念すべき、第一歩の夜です。








《第1章につづく》
 《heliodor》ベース・万楼。
 バンド内最年少で経験は浅く、若干荒削りな面もあるが、骨太で力強く存在感のあるプレイが印象的な、将来性を感じさせるベーシストである。

 天使のような繊細で甘いルックスの持ち主でもあり、比較的新規の女性ファンからは「マロ様」の愛称で呼ばれる。

 一方で古参のファンからは、半ば「伝説」化している先代ベーシストとの比較をもって辛口に評価を受けることも少なくない。

 本人はこれについて、以下のように発言している。


「それでいいよ。いつか人魚姫が会いに来たら、ボクはいつでも王子様を譲るつもりだから」







《第1章 人魚の足跡 -missing-》【1】









「月並みな質問ばかりで恐縮ですが、いくつかお伺いしてよろしいですか?」

「うん、いいよ。でもね、ボクもお姉さんに質問していい?」

「はい? わたくしに、万楼さんが質問をなさるんですか??」

「お姉さんがボクにひとつ質問をしたら、ボクもお姉さんにひとつ質問をするんだ。ダメかな?」

「それは構いませんけれど……」

「決まりだね」


 heliodorのリーダー・紅朱から正式に取材の許可を得た日向子は、まず最初に各メンバーへのパーソナルインタビューを行うことにした。
 今月はまずベースの万楼、ドラムの有砂、キーボードの蝉からそれぞれ話を聞くつもりで、その中で最初に取材の予約がとれたのが万楼だった。

「このお店をよくミーティングに使われてるそうですわね?」

「それが最初の質問? そうだよ。ボクが入る前からだから聞いた話だけど、ここのカフェは元々玄鳥のお気に入りだったらしいんだ。お姉さんも好きだったなんてびっくりだね」

 そこは日向子がよく美々と来る店……あの、紅朱たちと初めて遭遇した店だった。

「ボクたちが集まるのはだいたい夜が多いから、お姉さんたちと一緒になる機会は少なかったかもしれないけど、いつかここで会っていたかもしれないなんて、すごい偶然だよね」

 そう言いながらメロンソーダをストローでかき回し、そして、ちらっと日向子を見る。

「……運命を感じない?」

「ええ、本当に。ではまたわたくしの番ですわね」

「……流されちゃった」

「はい?」

「なんでもないよ」


 万楼はそしらぬ顔でマロンプリンをスプーンですくう。
 万楼の目の前にはメロンソーダとマロンプリンの他にも、洋梨とチェリーのカスタードパイ、ミントを添えたチョコレートムース、熱々の特製スイートポテト、そして単体でも迫力十分なジャンボフルーツヨーグルトパフェがテーブル狭しと並んでいる。

 一方の日向子はレアチーズケーキと紅茶を頼んだだけだったが、その光景を見ているだけで胸がいっぱいになりそうだった。


「スウィーツがお好きですのね?」

「うん。大好き。みんなが色々言うから普段はこんなに頼めないんだけどね。本当に、ここのは全部おいしいんだ。そういえば、そのチーズケーキは玄鳥も好きだって言ってたよ」

 ぷるんとしたプリンを幸せそうに口に運んで、飲み込んだ後、万楼はじーっと日向子を見つめる。

「食べ物の好みが合う人って相性がすごくいいって聞いたことあるよ」

「まあ、そうですの? なんとなくわかるような気も致しますけれど」

「それじゃあボクの番。お姉さんの好きなタイプはどんな人? 優しい人? 真面目な人? 頭が良くて運動神経も良くて、しかもすっごくギターが巧い人とかいいと思わない?」

「伯爵様です」

「……やっぱりそうかぁ……」


 何かを考え込むような顔付きでパフェを解体し始めた万楼。一方、日向子はあくまでマイペースに続ける。

「では、万楼様がheliodorに入ったきっかけをお聞きしても?」

 万楼は大きな瞳をはっと見開いてきらきら輝かせながら半分を身を乗り出すようにして答えた。

「玄鳥だよ! 玄鳥がみんなにボクを紹介してくれたんだ。それに玄鳥はね……」










「おかしいですわね……」

「どうしたの? 日向子。珍しく難しい顔して」

 デスクに戻って、ICレコーダーに録音した万楼へのインタビューの内容を聞き直していた日向子の顔は、確かに美々が言うように複雑な表情を描いていた。

「わたくし……今日は万楼様にインタビューさせて頂きましたのよ」

「うん。それで?」

「それなのにわたくし、何故か玄鳥様のことに詳しくなってしまいました」

「はあ? なんなの、それ」

 美々は日向子からイヤホンを受け取って、録音内容を確認した。
 半分も聞き終わらないうちに、美々の表情もまた日向子のそれと同じように転じていった。

「……いくらなんでも、これじゃあちょっと記事にはできないね」

「やはりそう思われますか……? わたくし、もう一度お話を伺ってみます」











「玄鳥のことは、ボクがちゃんとアピールしてきたからね」

「アピール??」

「うん」

 練習スタジオに現れた万楼の、輝く満面の笑みを見ながら、玄鳥は嫌な予感が全身につき抜けるのを感じていた。

「お前、日向子さんに変なこと言ってないよな?」














「……というわけで、とっても変ですのよ」

「……左様でございますか」

 その頃日向子はいつものように帰宅中だった。
 いつものように今日の出来事を一方的に報告されているのは、ドライバーの雪乃である。

「一体なぜ万楼様は玄鳥様のお話ばかりなさるんでしょうか……?」

「さあ……私には何とも」

「そうですわよね……雪乃に聞いてもわかるわけないですわねぇ……うーん」

 ちょうどマンションの前に停車した車から降り、日向子はほとんど上の空の状態のまま「どうしてかしら」と呟きながら、ふらふらと部屋に帰って行った。


 それを見送った「雪乃」は、一つ息をついたかと思うと眼鏡をさっと外して胸ポケットに突っ込んでハンドルに突っ伏した。

「あ、い、つ、ら~……あんだけ念押したのに。うちのお嬢様にみすみす悪い虫つけさすわけにいくかっての……」







《もしもし、日向子ちゃん?》

「はい、森久保日向子です」

 就寝間際に日向子の携帯に着信したのは、意外な人物からのコールだった。

《おれおれ、heliodorの蝉くんです♪》

「まあ、蝉様からお電話を頂くとは思いませんでしたわ。ありがとうございます」

 パジャマ姿でベッドに横座りしたまま、日向子は電話にも関わらず深く一礼した。

「取材の日程についてのご連絡でしょうか?」

《いや、ごめんね。今日はそーゆーことで電話したんじゃなくてさ、万楼のことでちょっと》

「万楼様ですか?」

《んー、あのさ、今日は万楼の取材だったんだよね? あいつさ、なんかめちゃめちゃ玄鳥の話してこなかった?》

「まあ、どうしておわかりになりましたの!?」

《やっぱな~……だと思ったんだよな~》

 どうやら何かを知っていそうな蝉に、日向子はそわそわし始める。

「蝉様はご存じですのね? 万楼様があのように玄鳥様のことばかりお話になるわけを」

《んー……誰にも言わないんだったら教えてあげてもいいんだケド》

「はい。もちろん誰にも口外致しませんわ」

 電話にも関わらずなんとなく身を乗り出す日向子。

《実はさ……》

 蝉はまるで周囲を気にするかのように声のトーンを一段階落として、ゆっくりもったいぶるように告げた。

《万楼と玄鳥ってデキてるから》

「……」

 日向子は頭の中でゆっくりと、今聞いた言葉を一文字ずつスクロールさせた。

「あの……できてる、とはどういうことでしょうか??」

《つまりラブラブってことなわけよ。わかる? バンド内では一応公認なんだケドさ、やっぱ対外的にはちょっとヤバイんだよね~。だから内緒にしてんの》

 日向子は早口で話す蝉の言葉を一生懸命拾いながら頭の中でひとつひとつ理解しようと試みる。

「……あの~……間違っていたら申し訳ないのですけれど、つまり万楼様が玄鳥様のことばかりお話されるのは、玄鳥様のことがとてもお好きだからということでしょうか?」

《そう!!それ!正解! もう全くありんこ一匹入れないくらい超ラブラブだから!》

「はあ……」

 日向子は喉に引っ掛かった小骨が取れないような顔付きで考え込んだかと思うと、それがいきなりするっと取れたような晴れ晴れとした笑顔に転じた。

「ありがとうございます、わたくしどうしたらいいのかわかりましたわ!」

《え? なにが?》

「蝉様、大変ためになるアドバイスを頂きまして、本当に助かりましたわ」

《え?え? アドバイスって?》

「それでは今夜はもう遅いですし、わたくしはこれで失礼させて頂きます。おやすみなさいませ、蝉様」

《え、ちょっと、もしもしー……?》










「おはようございます、玄鳥様」

「はい、おはようございます」

 出会い頭に、お互いに不自然なほど深いおじぎを交す日向子と玄鳥。

「よいお天気ですわね」

「そうですね。小春日和って感じですよね。なんか嬉しくなっちゃいますね。ははは……」

 ちょうど横を通った有砂が何か言いたそうな顔をしていたが、一つ息を吐いてそのまま通り過ぎていった。

 今日は日向子があらかじめ紅朱からリストアップしてもらっていた「見学OK」の練習日だった。

「今日はよろしくお願い致しますわね」

「はい、こちらこそ。……あの、変なこと聞いていいですか?」

「なんでしょうか?」

「……その、万楼にインタビューした時、あいつ妙なこと言ってなかったかなって……」

 玄鳥が万楼の名前を口にした途端、日向子は何故か感心したように首を何度も上下した。

「やはり万楼様のことをお気にかけていらっしゃいますのね」

「え?」

「万楼様と玄鳥様はらぶらぶでいらっしゃるのですよね??」

「……はい?」

「わたくし、何も隠されることはないと思いますの。殿方同士が仲良くされることは別に恥ずかしいことではないですもの!」

「あの、すいません……日向子さん、それは一体……」

 だんだん腹でも痛いような顔付きになってきた玄鳥に、日向子はいつものように曇りのない今日の天気のような笑顔を見せた。

「お二人は『できて』いらっしゃるのでしょう?」

「でき……」

 玄鳥は一瞬意識が宇宙の彼方に放り出されるのを感じた。

「……な、何言ってるんですか!? 薮から棒に!!」

「まあ、慌てて否定なさることありませんのに……」

「否定します!! 断固として否定します!!」

 顔を赤くして抗議する玄鳥に、日向子はますます楽しそうに微笑んだ。

「ご謙遜なさらずに。わたくしから見ても、お二人はとても仲がよろしく……」

「いや、だからそれはッ、あくまで同じバンドのメンバーとして……!」

「はい、同じバンドのメンバーとしての深い信頼関係が『できて』いらっしゃるのですよね?」

「……え? あ、それはまあ……」

「ですから、万楼様は玄鳥様のことをよく知っていらっしゃいましたのね。
ということは、逆に万楼様について知りたければ、玄鳥様にお伺いすればよいのではないかと思いまして……」

 いきなり予想外の急カーブを切った日向子に呆然としていた玄鳥だったが、続く言葉で一気に我に返った。

「練習後、もしご予定がないようでしたら、お食事でもしながらお話をお聞かせ頂けませんか?」






「はい……! 喜んで!!」












《つづく》
「……えげつな」

 吐息まじりにぽつりと呟いた有砂に、蝉は浮かない顔のまま視線だけを向けた。

「……なんとでもどーぞ。どうせ完っ全に計算ミスだし……」

 すぐ近くで、鼻唄を唄いながらギターをチューニングしているおめでたい青年を見やって、深く嘆息する。

「なんでこうなるかな~……」

「邪魔するつもりが、裏目に出たか。……ジブンの立場もまあ、わからんこともないけどな……せめて、もう少し手段は考えたらどうや?」

「……手段なんか選んでる暇なんてないから」


 視線を落とすと、そこには規則的に並んだ黒鍵と白鍵がある。

 蝉が最も愛し、最も疎む世界がそこにある。


「……おれは『釘宮漸』でいるためなら、なんでもするよ」









《第1章 人魚の足跡 -missing-》【2】










「あのさ」

 玄鳥は思いきり目を半眼した。

「なんで、いるの?」

「暇だったのと、それと腹減ったから」

 玄鳥が座っているテーブルの向かいには、日向子がお行儀よく座ってにこにこしている。

 そして、玄鳥の隣には自分とよく似た顔をした男がちゃっかり座っている。

「なんだ? 俺がいたらまずい話でもする気だったのか?」

「いや、そんなことは別にないけど……兄貴が一緒に来るとは思わなかったから」

 奥歯に物が挟まったようにもごもご話す玄鳥が、何かを隠していることは明白だったが、紅朱はあえて問いつめることなく、

「まあ、とりあえず食おう。俺はマジで腹減った」

 と促した。

「あのさ」

 玄鳥が再び水を差すように口を開く。

「なんで、杉屋なの?」

「俺が食いたかったからと、あとそいつが乗り気だったから」

「わたくし、杉屋さんでお食事するのは生まれて初めてですのよ!」

 日向子は目の前に置かれた、牛丼(並)を覗き込みながら何故かはしゃいでいる。

「牛丼は杉屋に限るからな。絶対気に入るぞ、日向子」

 牛丼(特)に七味をかけながら、何の気なしに語る紅朱の言葉に、玄鳥は思いっきりギョクの割り方をしくじった。

「おい、カラ入ってるぞ?」

「カラなんかどうでもいいよ。な、なんで兄貴、日向子さんのこと呼び捨てにしてるんだよ!」

「あ? 悪かったか?」

 紅朱は日向子に話を振った。日向子は笑って、

「呼び捨てで結構ですわ。よろしければ玄鳥様もそうなさって下さい」

「えっ……ひ、ひな……こ……」

 玄鳥は溜め息をついて首を左右して、

「……さん、でいいです。俺は」

 早々に諦めた。

 箸で丁寧に、混入したカラを選り分けながらもう一度深く溜め息をつく。

「……ま、いいか……嬉しそうだし」

 上品は箸運びで牛肉と玉葱とごはんと紅しょうがを口に運び、頬をほころばせる日向子を見ていると、自然と玄鳥の表情も緩んだ。

「おいしゅうございますわ。紅朱様はよくこれをお召しに?」

「そうだな……俺は滅多に自炊しねェからな」

「実家から送ってきた野菜とかすぐ腐らせたり、カビ生やしたりするからな。兄貴は」

「まあ、それはもったいないですわ……」

 日向子は、やはりあくまで上品な仕草でみそ汁を口にしてから、

「わたくしが毎日三度のお食事を作って差し上げられたらよろしいのですけれど」

 何気無くとんでもないことを口走ったので、

「げほっ」

 お約束通り玄鳥はむせ返った。

「そうか、そうなりゃ楽でいいな」

 そして案の定、紅朱は全く動じない。

「……けど、食生活ったら一番問題なのは万楼だな」

「万楼様ですか?」

「ああ、あいつはすごいぞ。冷蔵庫ん中、ジュースと菓子と菓子作りの材料しかねェから」

「……確かにあれはひどい」

 なんとか気道を確保した玄鳥も話に加わる。

「自炊するって言うから得意料理は何かって聞いたら、アップルパイと、チョコレートケーキと、フィナンシェと、マドレーヌと……って延々とお菓子列挙したからな……」

「主食が菓子なんだよな、あいつは」

 普通ならとても信じ難い話ではあったが、先日のあのスウィーツだらけのテーブルを思い出せば、日向子にも納得できた。

「それは……いくらなんでも……お体に障るのでは?」

「ですよね……俺もそう思います。どうも昔からそうらしいんですけど。お菓子の栄養分だけで、よくあそこまで背が伸びたな……」

 玄鳥が半分独り言のように呟いた瞬間、無言のままおもむろに箸を置いた紅朱が、再び七味の容器に手を伸ばすと、外蓋を外してフィルターの無くなったそれを玄鳥の食べかけの牛丼の上で引っくり返した。

「うわっ……何するんだよ兄貴!」

「ふん」

 まるで火事場のように真っ赤になった丼の凄まじいビジュアルに、目を白黒する玄鳥をよそに、紅朱は何食わぬ顔で空になった七味の器を元に戻した。

 玄鳥は自分が言った言葉のどの部分が原因でこうなったのか、経験上よくわかっていたが、口にしたら薮蛇になりかねないということも経験上よくわかっていた。

「なんてことを……これじゃもう食べられないじゃないか」

「まあ……それはもったいないですわ。わたくしが頂いても?」


「え?」


 思わず綺麗にハモる兄弟。
 日向子は半分も中身の残っていない玄鳥の丼を自分のほうに引き寄せた。

「お、おい」

「日向子さん……!?」

 うろたえる二人をよそに、日向子は溶岩石のようなそれを箸でゆっくり口に運んだ。

 そして。

「まあ……これはまた違った味わいで、とてもおいしいですわ」

 と感嘆の声を上げた。

「嘘だろ……」

「本当に……?」

 度肝を抜かれる二人に日向子はにっこり笑う。

「本当においしいですわよ。ほら、お一口どうですか?」

 日向子は箸で、もはや食べ物とは思えないその物体をたっぷりとって、それを玄鳥に差し向けた。

「え?」

 いわゆる「あーん、して♪」のシチュエーションである。
 しかも割箸は日向子が使っていたもの。
 玄鳥は、日向子の邪念の一片もない微笑みと、七味の塊を交互に見る。

 玄鳥の胸は激しく動悸していた。

「い、言われてみればおいしそうに見えてきたかも……」

「おい、綾!? しっかりしろ。冷静に考えろ! 早まるなよ!!」

 そもそものことの発端であるにも関わらず、必死に止めようとする兄の叫びは……残念ながら弟には届かなかった。

「俺……頂きます……!!」






 そしてその直後、玄鳥は一声も発するいとまもなく、全速力でトイレに走って行った。






「綾……あいつ、いつからあんな冒険野郎になったんだ??」

「……まあ、おかしいですわね、こんなにおいしいですのに」

 少ししゅんとしながら、もくもくと七味まみれの牛丼を食べ続ける、味覚音痴の疑いのある日向子を、紅朱はしばらく半分引き気味で見守っていたが、

「意外だ」

 ふと呟いた。

「お嬢様は他人が箸つけたもんなんて、絶対食わないと思ってたんだが……」

 日向子は箸を止めた。紅朱を見やって、言った。

「……わたくし、はしたないことをしてしまったのでしょうか?」

「いや」

 紅朱は微笑する。

「そういうお嬢様がいたっていいと思う……お前は本当に、面白い奴だな」

 日向子は少し安心したように頷いた。

「父ならおそらく叱ると思いますわ。けれどわたくし、幼少の頃に、けして食べ物は無駄にしてはいけないと母に教えられましたの」

「へえ……そりゃ立派なおふくろさんだな」

「……ええ。自慢の母です。随分前に亡くなりましたけれど」

「……そうか」

 紅朱は熱いお茶をすすりながら、微かに目を伏せた。

「……でもそんなふうに母親とのいい思い出があるなら、お前は結構幸せだな」

「紅朱様と玄鳥様のお母様も素敵な方ですわね」

 紅朱は苦笑する。

「ああ。優しい母親に、真面目な父親、出来すぎ君な弟……確かに、俺にはもったいないくらいいい家族だと思う……」

 顔を合わせると乱暴な口調でそっけなく振る舞う紅朱が、ふと垣間見せた本当の気持ち。

 日向子は単純になんだか嬉しかった。

 紅朱の言葉の裏には単純ではない思いがあったのだが、それはまだ気付ける筈もないことだった。

「そういえば先程玄鳥様を、綾、とお呼びでしたわね? 玄鳥様の本名は綾様とおっしゃるのですか?」

「ああ、言ってなかったか。浅川綾だ。女みたいな名前だろ?」

 少し意地悪く笑う紅朱だったが、

「では紅朱様は?」

 と尋ねられ、それを打ち消した。

「……き」

 ボソッと告げたものの、日向子には全く聞き取れない。

「はい?」

「……錦(ニシキ)」

 認識出来る程度に、少しはっきりした口調で言い直した後、間髪入れず、

「でも俺は紅朱だ! この名前では呼ぶな。絶対にな!!」

 語気を荒げて言い放った。


 と。


「なッ」

 紅朱は言葉を失った。

 突然、日向子の両目がうるうると揺れて、ハラハラと涙の滴が溢れ始めたのだ。

 無色透明な涙の滴は音もなく、とめどなく、とめどなく、頬を伝い落ちる。

「なッ、なんで泣いてんだよ……!? そんなにキツイ言い方したか!? おい!!」

 日向子は黙ったまましくしく泣いている。

「黙ってちゃわけわかんないだろ!? どうしろってんだ、日向子! おい!!」

 そしてそんなタイミングで、


「……兄貴、一体何したんだよ!!」

 玄鳥が戻って来てしまった。

「別になんにもしてねェよ!」

「じゃあなんで日向子さんは泣いてるんだよ!」

「んなもん俺が知りてェよ……っ!」

 日向子はハンカチで涙を拭いながら、言い合いする二人の前でぽつんと呟いた。





「……か、からいです……わ」





 かくして日向子の味覚音痴容疑は完璧に晴れた。
 日向子はただ、恐ろしく反応が鈍いだけだった。













「料理……?」

 思いもよらなかった言葉に、万楼はいぶかしげに反芻した。

「はい、ご一緒にお料理をしながらインタビューをさせて頂こうと思うのですが、いかがでしょうか? 万楼様」

 三日後に予定している再取材に際しての、日向子の出した提案は、当然のように先日の浅川兄弟との会食からヒントを得たものだった。

 驚いていた万楼もやがて納得した様子で頷いた。

「うん、いいよ。なんだか楽しそうだね、二人で何をつくろうか? カスタードのミルクレープとか、巨峰のババロアなんてどう?」

 日向子は首をゆっくり横にした。

「いいえ、今回はわたくし、万楼様とカレーライスを作ろうと思いますの」

「……カレーライス??」

「はい、カレーライスです。栄養たっぷり、具だくさんのカレーを作りましょう?」


















《つづく》
「でも、なんでカレーなの?」

「わたくしの一番得意な料理ですの」

「なるほどね」

「カレー、お嫌いですか?」

「……わからない」

「はい?」

「あんまり食べたことがないからわからない」

 万楼は冗談を言っているようには見えなかった。

「お母様から作って頂いたり、学校の給食等でお食べにはなりませんでしたの?」

「うーん……食べたことないからな……どっちも」

「どっちも、ですか?」

「うん。ボクのママはご飯を作ってくれたこと、ないよ」








《第1章 人魚の足跡 -missing-》【3】











 玉葱。

「ボクの家は母子家庭なんだけどね」

 人参。

「ママはアメリカの食品研究所の研究員なんだ。詳しくはよくわからないけど、ダイエット食品とか栄養補助食品とか、なんかそういうのを研究してるみたい」

 じゃが芋。

「ボクもジュニアハイスクールまではアメリカにいたんだけど、ママはほとんど家に帰って来なくて、ハウスキーパーのおばさんがボクの世話をしてくれてた」

 茄子。

「ボクはおばさんが作る料理が口に合わなくて、お菓子ばっかり食べてた」

 トマト。

「今思うとおばさんの料理が下手だったわけじゃなくて、ママがおばさんに使うように指示してたサンプルの加工食材がまずかったんだけどさ」

 パプリカ。

「……そうやって、ママをボクを使って実験のデータを取っていたんだよ。頭のいい人が考えることはすごいよね」

 コーン。

「……一度すごいアレルギーが発生して病院に運ばれたことがあったんだけど、ママはすぐに病院に飛んできた。
お医者さんに100個くらい質問して、ボクにもその倍くらい質問項目があるアンケート用紙をくれて、必ず全部記入するように念を押して、研究所帰ったよ……」

 ブロッコリー。

「その時に、独り暮らしして日本の高校に行こうって思ったんだけどね」

 エレンギ。

「……野菜はこんなところでしょうか」

「そう。次は?」

「ではお肉を」

「えーっと……あっちだね」


 野菜でいっぱいのショッピングカートを押しながら、精肉売り場に向かう万楼の後ろ姿を一歩後ろから見つめる日向子。

 万楼が、まるで他愛ない失敗談でも語るように話した言葉が、胸に重くのしかかった。

「……お辛かったのでは?」

「わからない。それがボクの普通だったし。でも、お菓子以外のものにあんまり食欲が湧かないのはそのせいかもしれない……あ、こっちはお魚か。お肉はあっちだった」

 ここは万楼のマンションのすぐ近くのスーパーマーケットなのだが、売り場の位置を把握していない万楼はさっきからキョロキョロしてばかりいた。

 その背中があまりにも不安げで、心細く思われて、日向子は思わず呼び掛けた。

「万楼様」

「……なに?」

 日向子は少しだけ考えて、慎重に言葉を探した。

「……きっとお母様の研究は、世の中のためになるご立派なものなのだと思いますわ。
万楼様のデータもきっと、たくさんの人たちのために使われた筈です。それは大変、意味のあることではないでしょうか」

 万楼はカートを止めて、日向子を振り返った。

「うん……そうだといいな」












「万楼様は力持ちでいらっしゃいますわね」

「そう?」

「初めてお会いした時も、わたくしを軽々と支えて下さいました」

 万楼は45リットルの買い物袋いっぱいの荷物二つを涼しい顔で軽々と持って、日向子と並んで歩く。

「別にそんなに重くないよ? 荷物もお姉さんも」

 万楼はくすくす笑う。

「それともボクがこういう見た目だから、意外だって思われてしまうのかな」

「まあ、そのようなつもりではありませんでしたけれど……お気に障りまして……?」

「ううん。ボクはギャップで売ってるからいいんだ」

「売ってる、ですか。それはようするに、他の人にそのような認識を与えたい、ということですわよね? 確か紅朱様も以前そのようなことを……」

「なんとなくだけれどね、みんなやっぱり多かれ少なかれ自己演出はしていると思うんだ。
メイクをしたり、本名とは違う名前を名乗ったりするのもそうだし。
……それはまたチーム内での役割分担、でもあるのかな」

「役割……」


 秋の日暮れ。

 アスファルトに長く伸びた2つの影は、夕景をゆっくりと進む。

「例えばリーダーはリーダーだから、よりリーダーらしくあろうと努力してる。
玄鳥はリーダーの弟だから、絶対にリーダーよりでしゃばらないよね」

「そうですわね……では、万楼様の役割は?」

「ボク? ボクは……」

 少しずつ、残照が遠くのビル街に吸い込まれていく。
 黄昏が訪れる。


「代役」











 トントントン。

 一口台にじゃが芋を切って、ボールの中の水へ。

 手早いとは言い難いが丁寧な仕事で日向子はシンプルな作業を進めていた。

 万楼は水洗いした人参を眺めながら、

「……キャロットのジュレにしたいなぁ」

 などと呟いている。

「だめです」

「やっぱり?」


 ロフト付き1DKの万楼の部屋は、異常なほど生活感がない。

 キッチン周辺の設備は、非常に充実している(主に製菓用の調理器具であるが)ものの、それ以外は必要最低限の簡素なモノトーンのインテリアや、必要最低限の家電製品がぽつぽつと置かれている。
 ベースや機材がまとめてある一角がなければ、ここに住む人間がどんな人間かを知る手掛りは何一つなかっただろう。

 日向子は万楼が口にした「代役」という言葉を思い返していた。

 「代役」という役割。

 それは終わりを約束された役割。

 日向子は、この部屋が万楼にとって「一時滞在」のための仮の宿に過ぎないのだと悟った。

「万楼様は……いつか、heliodorのベースを辞めてしまわれるのですか?」

「うん」

 しゃり、しゃり、と万楼の動かすピーラーの刃先からオレンジ色のリボンが垂れる。

「お姉さんも知ってるよね? heliodorには粋さんっていうベーシストがいるんだよ」

「……存じてますわ」

「今は色々あってここにいないけど、みんないつか粋さんが帰ってくるって信じてる。粋さんが必要なんだよ」

「そんな……」

 日向子は包丁を一度止めて万楼を見た。
 万楼の表情はいつもと変わらない。とても静かで、柔らかい笑みを浮かべている。

「玄鳥がボクをみんなに紹介してくれた時、玄鳥以外の全員がボクの加入に最初反対したよ。
それは技術的に未熟だったからという理由じゃない。……ボクを代役にするのがしのびなかったからだ」

 一度呼吸をおいて、万楼は続けた。

「ボクのベースは粋さんと似過ぎていたから。粋さんよりはずっと下手だけど。
……意識して似せたわけじゃないよ。ボクは粋さんのベースを聞いたこともない筈……だと思ってたから」

「どういう、ことでしょうか?」

「……手が止まってるよ、お姉さん」

「あ、そうでしたわ……ごめんなさい」

 日向子は慌てて、鮮やかな赤いパプリカを手にとって、包丁を握り直した。

 万楼は日向子が作業を再開するのを見てから、また話し始めた。

「……ボクが高校進学と同時に日本に来たっていう話はしたね。
それからボクは高松の静かな街で暮らしてた。
ベースを始めたのは多分その頃で、heliodorを知ったのも多分その頃」

「……多分、ですか?」

「覚えて、ないんだ」

「……え?」

「ボクはある日、海に落ちた。運良く大した怪我もなく救助された。
……だけど目覚めたボクは忘れてしまった。高校生活の大半の記憶がごっそり抜け落ちてしまったんだ」

 はらり、と色鮮やかなリボンがザルの上に落ちる。

 万楼はザルに溜ったそれを、生ゴミのバケツへとバサッと葬った。

「覚えていることといえば……ボクは、多分誰かと一緒に暮らしていた。
ベースを教えてくれたのはその人で、ボクにheliodorというバンドを訪ねるように言ったんだ……そしてボクはその人を《万楼》って呼んでた。
……《万楼》ってね、粋さんが昔飼ってた熱帯魚の名前なんだって」

 かつてのベーシストとよく似た音を奏でるベーシスト。

 そして、偶然にしては出来すぎた一致。

「《万楼》は粋さんなのかもしれない」












 具材を軽く炒めて、たっぷりの水で茹でる。
 灰汁を取り除きながら時間をかけて。

 その間、恐らく雑誌の記事としては使えないであろう万楼の話はゆっくりと続けられた。

 「代役」で構わないということ、いつか記憶が蘇れば粋の行方がわかるかもしれないということを主張して、heliodorのメンバーにしてもらったという経緯。

 そして《万楼》を自ら名乗るのは、本物の《万楼》がいつか気付いて訪ねて来ることを期待してのことだという事情。


 万楼はあまりにもあっさりとそれらを物語る。
 そんなことは自分にとっては大した問題ではないとでも言いたそうだ。

 けれど日向子にはなんとなくわかり始めていた。

 辛いことだからこそ、万楼は話すのだ。

 ヒリヒリとしみる傷跡を、ゆっくりと湯舟にさらしてなじませるように、そうやって心の痛みを緩和しようとしている。

 実の母親からモルモットのような扱いを受け続け、愛情を得られなかったことが哀しくないわけがない。

 平気なら、こんな奇妙な食生活を送っているわけがない。


 そして本当は……万楼は代役などではなく、真の意味でheliodorの仲間になりたいと思っているのではないのか??


「そろそろ、ルーを入れる?」

 万楼の笑顔はもはや、痛々しいものにしか見えない。

 日向子にはどんな言葉が万楼を救うのかまだわからなかった。

 そもそも言葉などで救えるのかどうかもよくわからない。

 気休めでは何もならない。

 もしも紅朱たちが実際、万楼を代役として見ていて、本当は粋を必要としているというのなら、日向子にはどうすることもできないのだから。

「お姉さん……?」

 今できることは話を聞いてあげること。

 少しでも痛みが和らぐように、笑ってあげること。

「……そうですわね、ルーを入れましょう。それと、これも」

 日向子は中辛の市販のルーと、硝子の小瓶に入った赤茶色の粉末を持ち出した。

「その粉は何? さっき買ったものじゃないよね」
「これは今朝、雪乃がくれたスパイスですわ。カレーを作るなら是非使うようにと言っておりました」

「……ふうん。雪乃さんか……その人、ボクたちのことあんまりよく思ってなさそうだよね」

「そうでしょうか……? わたくしはよく……」

 万楼は小瓶を少し振ってハラハラ舞う粉を見つめる。

「実は毒、だったりして」

「はい?」

「……なーんてね」
























《つづく》
「……緋色のスパイス、はまんま過ぎるな……」

 斜線を引く。

「……緋色の、シュガー」

 訪れたばかりの夜に、呟きが吸い込まれる。

「……緋色のハニー、のほうがいいか……いや」

 ノートに書き込んでは、書いた側からそれを線で潰す。

「……緋色の……ポイズン……? 悪くないか」

 丸で囲む。

「……Bメロはこんな感じだな……」


 いつものように無造作に垂らした真っ赤な長髪をかき上げて、一息ついた。

 室温で温くなったコーラをあおる。


 ちょうどその時、バイブに設定していた携帯電話が視界の端でブルブル振動しながら光始めた。

 掴んで引き寄せると、一番最近登録したナンバーからの着信だった。

 ひとまずコーラのボトルは置いて、通話ボタンを押す。

「……どうした? 日向子」

《紅朱様でいらっしゃいますか!? 大変ですの、万楼様が……万楼様が……!!》

 予想もしない緊迫しきった声音に、紅朱は眉根を寄せた。

「落ち着け。万楼がどうした?」

 日向子の上擦った声に耳を傾ける紅朱の顔は一瞬にして青ざめていった。

「……意識不明……!……?」









《第1章 人魚の足跡 -missing-》【4】









「命に別状はないそうですわ」

「……顔色も、思ったよりよさそうでよかった」

 玄鳥は安堵の溜め息をついた。

「蝉さんと有砂さんには俺から連絡したから、もうすぐ来ると思います」

 緊急病院のベッドに横たわる万楼は、瞳を閉じても端正な美貌を無防備に晒して寝息を立てている。

「で、原因はなんだ」

 苛立った様子で紅朱は一歩日向子ににじり寄った。

「なんでこうなった?」

 紅朱は作詞作業をしていた時の部屋着のジャージ姿のままだった。

「はっきりとはわからないのですけれど……カレーに入れた材料のうちのどれかがアレルゲンだったのではないかと、お医者様がおっしゃってましたわ」

「アレルゲン?」

「はい。万楼様は以前にも、食品アレルギーで病院に搬送されたことがあるとおっしゃっていましたし……その可能性が高いのではないかと。
特定は出来ておりませんけれど……」

 日向子は今にも泣きそうな顔でうつむく。

「わたくしの責任ですわ……」

「そんなことないですよ!」

 思わず声が大きくなってしまう玄鳥だったが、すぐにそれが不適切であると気が付いてトーンを落とした。

「誰だって予想もしないでしょう……こんなこと」

 日向子を安心させようと穏やかな口調で話し、そっとか細い肩に手を置いた。

「……万楼だって日向子さんを責めたりしないですから、心配しないで」

「ありがとう、ございます……」

 日向子もようやくわずかに微笑を返した。

 玄鳥は今更照れを感じて、日向子に触れていた手を引っ込めた。

「……俺、なんか甘い物買って来ます。起きたら欲しがるだろうし。メロンソーダ、あるかな……」

 そうして玄鳥は小走りで病室を出て行った。

 残された紅朱と日向子はしばらくつっ立ったまま黙っていたが、しばらくして日向子が口を開いた。


「紅朱様」

「……なんだ」

「もしも」

 日向子は真っ直ぐ紅朱を見つめた。

「万楼様が目を覚まされなかったらどうなさいますか?」

「日向子っ」

 瞬間、紅朱はかつてないほど強烈な勢いで日向子を睨んだ。

「お前っ……縁起でもないこと言ってんじゃねェよ……!!」

「お静かに……」

「……っ」

 日向子は、万楼の寝息が途絶えないのを確認するように寝顔に一度視線を落とした後、再び紅朱を見た。

「けれどもしかしたら……このショックがきっかけで万楼様の記憶がお戻りになるかもしれませんわ」

「なっ」

 紅朱は驚愕の面持ちで日向子を見返した。

「お前……」

「もしそうなれば……棚からぼたもち、とてもラッキーですわね」

「……ラッキー……だと?」

 紅朱は日向子に詰め寄り、その両肩を掴んだ。玄鳥がしたのとはまるで違う、荒々しい仕草で。

「ラッキーなわけねェだろッ!? お前いい加減にしろよ!!」

「痛……ッ」

 その力の強さに日向子は小さく悲鳴を上げた。

「仲間の身が危険に晒されたことがなんでラッキーなんだ!?
記憶が戻るかどうかなんて今はどうだっていいだろ!?」

 日向子は苦痛に顔を歪めながらも、まだ紅朱を真っ直ぐ見つめていた。

「……万楼様が大切ですか?」

「くだらないこと聞くな……!」

「大切ですわね?」

「大切じゃないわけねェだろ……!!」

「誰の替わりだからでもなく……?」

「当たり前だ!!」



「……だ、そうですわ、万楼様」



「そう。リーダー、そんなにボクのこと好きだったんだ」



 日向子の肩を掴んでいた両手はいきなり脱力した。

 紅朱はあっけにとられた様子でベッドを凝視していた。

 日向子は痛みの余韻に耐えながらも笑みを浮かべて、ベッドを振り返る。


 大きな二つの瞳が、そんな二人を映して揺らめいている。

「……大切だ、って思ってくれてたの……?」

 万楼の桜色の唇が、微笑を形づくる。頬は薔薇色に染まっていた。

「ほら、わたくしが言った通りになりましたでしょう?」

「うん……でもお姉さん、痛かったんじゃない?」

「ええ、少しだけ。紅朱様、本気でお怒りなんですもの」

 と言いながら、日向子は本当に嬉しそうだった。

「万楼様は胸を張っていいのです。昔は、違ったかもしれない。これからのこともわかりません。
けれど今、heliodorのベースは……大切な仲間は、万楼様だけですのよ」

「……うん」

 万楼はうっすらと涙の滲む目を手の甲で拭って、跳び上がるようにして上体を起こした。

「ボク、感動した。リーダー、ありがとう!」

 当のリーダーはまだ固まったまま、呆然としている。

「……どういうことだ……何が起きてる?」

 日向子と万楼は視線を合わせて笑いあった。


「ごめんなさい、紅朱様」

「全部、嘘だったんだ」












「毒……」

「え? お姉さん、そこで真剣な顔しないで。洒落にならなくなるよ?」

「……万楼様、わたくし今……いけないことを思いついてしまいましたの」

「……いけないこと?」

 ぐつぐつと湯気を立ち上らせる鍋にルーを割り入れながら、日向子は「いけないこと」について話し始めた。

 日向子の家が懇意にしている病院に協力してもらい、万楼が緊急入院したという芝居をする。
 その時の紅朱の反応を見れば、実際万楼をどう思っているかわかるのではないか?

 そしてそれはそのまま、かつて少年時代の万楼を失望させた状況をなぞっている。

 その時と違う結末になれば、万楼は救われるかもしれないと日向子は思ったのだ。

 もちろん、賭けに負ければ万楼はもっと傷付くかもしれないが……。

「わたくしは、紅朱様なら大丈夫だと信じられますわ」

「……どうして?」

「お優しい方だからです」

 日向子は鍋をかき回しながら微笑する。

「そういうキャラでは売ってない、そうですけれど」









「……じゃあ何か、お前たちは病院ぐるみの壮大なドッキリで俺をハメたのか」

「……お怒りでいらっしゃいますか?」

 日向子はおずおずと紅朱の顔を覗き込む。

「……お前は本当に、無茶苦茶な奴だな……怒る気も失せる」

 紅朱は深く嘆息して目を半眼した。

「紅朱様は本当にお優しい方ですわね」

「だからッ、優しいとか言うなッ!!」

「ねえ、リーダー。『大切じゃないわけねェだろ……!!』っていうのもっかい言ってよ」

「二度と言うかッ……!!」

「大丈夫ですわ、万楼様。ちゃんと残ってます」

 日向子はスーツの左ポケットから愛用のICレコーダーを覗かせた。

「いつでも再生可能ですわよ」

「なっ……!! なんて悪質な嫌がらせしやがんだ!! 勝手に録ってんじゃねェ!! 消せッ」

「うふふ。では、力ずくでわたくしから奪取なさいますか?」

「……あのな、女に力ずくなんて手段使えるわけねェだろ」

「ほら、お優しい」

「お優しい言うな~ッ!!」

 髪の色がそのまんま降りてきたかのように顔を真っ赤に染めたバンドのリーダーと、限りなくマイペースな無敵の令嬢のきりなく続く掛け合いを眺めがら、万楼は心から笑って、笑いながら、また少しだけ目をこすった。


「……ねえ、本当に……ボク、嬉しかったよ」










 じきに病院スタッフが厳重注意しにやって来るに違いない、騒々しい病室をスライド式のドアの隙間からそっと伺う2つの影があった。

「……なんや、ホンマにジブンの仕業ちゃうかったんやな」

「……当たり前じゃん。どこの世界に自分のバンドの仲間を毒殺するキーボーディストがいるわけ?」

「手段なんか選んでる暇なんてない、んやろ?」

「そりゃ確かに言ったけどさ~……今回おれが渡したのはガチで普通にスパイスだから。
せっかくならおいしいカレー作って食べさせてやりたいじゃん……今まで縁が無かったんだからさ」

 蝉と、有砂だった。

「それ……『スノウ・ドーム』の自家製スパイスやろ? ジブンにとっては『おふくろの味』ってとこか」

「そんなカンジ。そういえば、粋が気に入ってよくせびってきたな~。万楼たちは使ったかな……気に入るといいんだケド」

 そう言って笑う蝉を、有砂は少し冷ややかに見ていた。

「……ホンマ、悪になりきれん悪役やな、ジブン」

「うっ」

 ばつが悪そうに頭を垂れる蝉を、有砂が斜め上から見下ろし、小馬鹿にしたように笑う。

「案外……お前より、令嬢のほうがよっぽども策士かもしれへんで……なあ、雪乃……?」

「はいはい……その呼び方はあのコ限定ね」

 蝉は斜め上を見上げてぺろっと舌を出した。

「でもマジで言えちゃってるかもしんないね~……あの父にしてこの娘ってカンジ? DNA怖ッ、みたいな」

 蝉の顔に一瞬、暗い影がよぎる。
 それは「蝉」ではない、もう一つが顔を出した。

「……だけど釘宮の後継はおれなんだよ。この椅子を守るためには、何人たりともお嬢様には指一本触れさせないからな……」

「……それは、難儀なことやな……」




「……二人とも、なんで中に入らないんですか?」


「うわッッ……!!」

 蝉は前ぶれなく後方から掛けられた声に、遮蔽物には最適な有砂の長身の陰に隠れた。

 コンビニで買った大量のケーキとジュースを持った玄鳥がただ一人、何も知らずに呑気に帰って来たのだ。

「玄鳥っ、今の話聞いてた?」

「話? いえ……なんですか?」

「聞いてないならいいんだケドね」

 胸を撫で下ろす蝉とは対称的に、有砂はあからさまに不快そうに顔を歪めた。
 それに気付いた玄鳥は大して意味はないと知りながら、手荷物を背中に隠す。

「……ケーキの匂い、キツイですか? 有砂さんのコーヒーも買ってありますから」

「……吐き気がしそうやな」

 蝉は苦笑して頭を振る。

「マジで極端だよね。うちのリズム隊。お菓子しか食べないのと、お菓子が食べれないのと……さ」

















《つづく》
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